第67話 心
翌日も許靖はいつも通り出仕した。
時折り脳裏に浮かぶ殺戮の光景に苦しんだが、花琳のことを思い浮かべればその苦しさは和らいだ。
何とかいつも通りに仕事をこなし、今日は夕方には帰宅した。
許靖も花琳も、脱出した小芳や美雨、
特に許靖は官庁に勤めているのだから、何かあったら耳に入りそうなものだ。おそらく全員が無事に出られたということだろう。
久しぶりの二人きりの夕食を終え、食器を片付けた。
やはり息子がいないのは寂しかったが、新婚時代が思い出されて妻を新鮮な気持ちで見られた。
「あなた、実は昨日のお話には続きがあるんです」
花琳がそう話を切り出してきた。
「昨日の話?」
「ええ、私が妾に嫉妬して追い出したという話」
ああ、と許靖はうなずいて笑った。
「もし私が本当に妾なんか持ったら、実際にありそうな話だが」
「そうですね。でもその続きの方も、ありそうなお話なんです」
花琳は許靖の方へ一歩踏み出してから、言葉を続けた。
「私は妾に嫉妬して追い出した翌日、あなたのことも責めてボコボコにしてしまうの」
花琳の右手の関節がゴキンッと鳴った。
「え」
許靖の表情は笑顔のまま凍り付いたように固まった。
花琳の方も笑顔でもう一歩踏み出す。
「私は焼きもちを妬く方だし、武術が強いという話も結構知られてしまっているでしょう?」
そう言えば袁紹が言っていた。『奥方は
確かに妾など持てば、女傑妻からボコボコにされてもおかしくはないかもしれない。
「ありそうな話、なのかな?いやしかし、なんのために……」
許靖は張り付いた笑顔のまま、女傑妻に尋ねた。女傑妻も笑顔で答える。
「私、今日一日考えていたんです。どうやったら洛陽から出られるか。それで思いついたんですが、監視がついていても、人相書きが出回っていても、顔を変えてしまえば簡単に抜けられるんじゃないかと思って」
「顔を……変える?」
それはいつか小芳がしたように、全く別人に見えるような化粧を施すということだろうか。
しかし小芳はもう洛陽から脱出してしまっていないし、男の許靖が別人に見えるほどの濃い化粧などしていたら怪しまれるだろう。あの時は占い師ということにしていたから出来たのだ。
「はい。それで、私の武術の師匠である
女傑妻は、夫の方へとさらに一歩踏み出した。
逆に夫は一歩下がった。
二人とも、いまだに笑顔が張り付いている。
「大丈夫です。大きな怪我にはならないよう加減できますから」
「いやしかし……顔が変わる程度には痛いのだろう?」
「聞くところによると、世の中には痛みに快感を覚える種類の方々もいらっしゃるとか。もしかしたら、あなたにもそのような素質があるかもしれません」
「馬鹿を言わないでくれ。私は君との生活で、そんな様子を見せたことなど一度もないだろう?」
「いえ、たまに」
花琳の左手の関節がゴキンッと鳴った。
そんなことはないはずだ。
許靖はゆっくりと近づいてくる花琳の拳を見つめながら、妻の言葉を頭の中で否定していた。
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