第66話 心
翌朝、許靖はわざと普通に出仕して見せた。
監視の多くは自分のことを見ているはずだ。
家にも監視がついているかもしれないが、許靖がいない分かなり薄くなっているだろう。計画通りにやれば、おそらく逃げられるはずだった。
許靖は昨日の処刑など無かったかのように、普段通りの執務をこなした。
実際には何度も死体の光景や肉を斬る感触が脳裏に浮かび、めまいがしたり、呼吸が荒くなったり、吐きそうになったりしていた。
当然だろう。許靖の心はもともとが臆病にできている。
昨日あれだけのことがあり、今日まともに動いていること自体が不思議なほどだ。
(しかし、私は家族を守らねばならん)
その気持ちだけで倒れそうになるのを何度も踏みとどまり、人がいるところではできるだけ平静を装った。
もし許靖が倒れて家に運ばれでもすれば、監視の目もまた一緒に家に帰ることになる。家族の脱出が発覚するのを出来るだけ遅らせたかった。
許靖は今日、できるだけ夜遅くまで働いてから帰宅するつもりだった。
食事もまともに摂れなかったため心身ともにかなり辛かったが、何とか深夜まで倒れずに耐えてみせた。
そして夜更けもかなり遅い時間になってようやく帰宅した。
帰路、自宅が見えてきてから許靖は違和感を覚えた。
(明かりがついている?)
そんなはずはなかった。予定では家族も
いぶかりながら玄関に入ると、妻がいつも通りの姿で夫を出迎えた。
「おかえりなさい、あなた」
「花琳、なんで……」
許靖はそれ以上言葉が出なかった。
口を開けるだけで何も言えない夫に対し、妻がにこやかに答える。
「なんで?ああ、下賜された人たちがいないことですか?それはですね、あなたの妻が妾に嫉妬して、全員追い出したからですよ」
「いや、そうじゃなくて……」
「息子の欽ですか?あの子ったら友人の家を泊まり歩いて家出同然なんですよ。まぁ、十六にもなったらこんな事もあるんでしょうか」
クスクスと笑って話す花琳に、許靖はしばらく何も言えなかった。
(……周囲にはそう言ってごまかそうということか)
それが通るかどうかは別にして、花琳は許欽たちがいなくなった理由を考えてくれたのだろう。
許靖は泣きそうな顔で妻を見た。
妻の瞳には相変わらず強く、美しく、どこか儚げな桜がたたずんでいる。もう二度と見られないかもしれないと思っていた、許靖が世界で一番好きな桜の樹。
妻は夫を優しく抱きしめた。
「私があなたを置いて行くわけがないじゃないですか。こんなにも愛しているのに」
許靖の頬を一筋の涙が伝い落ちる。
許靖は花琳の肩に手を置き、首を振った。
「しかし……花琳を死なせるわけにはいかないんだ。私は花琳を守りたい」
「私のことを想ってくれているのなら、私に寄り添っていてください。あなただけが私の寂しさを分かってくれるのだから」
妻はそう言って、いっそう強く夫を抱きしめた。
夫も妻を強く抱き返した。
許靖の涙がとめどなく流れ、花琳の頬を濡らす。その涙の温かさは花琳にとって、この上もないほどに心地良いものだった。
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