第61話 董卓

「曹操と袁紹が逃げたぞ。どうしたらいいと思う?」


 董卓トウタクは高い位置に据えられた椅子にふんぞり返り、見下すようにして二人の部下を眺めやった。


 部下の一人は許靖だ。心中、もうこの男の前に現れなくていい曹操と袁紹をうらやましく思ったが、その一方で、


(思っていた以上にねばったな)


とも思った。二人とも、もう少し早く出ていくものと思っていたのだ。


 とはいえ、自分はまだ洛陽に身をとどめているだけでなく、董卓の腹心の部下として働いているのだ。


 いくら前もって助言していたとはいえ『もっと早く逃げればよかったのに』などと思える立場ではなかった。


 もう一人の部下は周毖シュウヒという。許靖とこの周毖が中心になって董卓政権の人事を管轄していた。


 董卓は許靖の予想していた通り、あらゆるものを奪い取るのに全く躊躇をしなかった。大人しかった期間など本当に一瞬ほどしかない。


 まず軍指揮官の暗殺などによって、洛陽の兵たちを自分の指揮下に置いた。


 そしてその軍事力を背景に己の役職を上げていき、現在は相国しょうこくという帝を除けば国家の頂点に立つ役職に就いている。


 役職だけではない。税や国家の宝物を私物化し、都の富豪からあれこれと理由をつけて財貨を奪うことさえあった。


 しかし、誰もそれを止めることができない。帝を擁し、洛陽で随一の軍事力を持っているのだ。


 それらを背景にやりたい放題をやればこうなる、という極端な一例が現実のものとなっている。


 ただし、やりたい放題やるだけで世間の批判に何の手も打っていないわけではなかった。許靖を抜擢し、人事を担当させているのもその一環だ。


 袁紹による宦官の大粛清前、世間には朝廷の人事に対する不満が渦巻いていた。


 賄賂人事が横行した結果、清廉せいれんで優秀ないわゆる『名士』と呼ばれた人間たちがその能力に見合う役職を得られなかったことが原因だ。


 そこに目を付けた董卓は、許靖と周毖シュウヒに命じて腐敗した役人を追放し、名士を採用させることにした。


 周毖は様々な計画をすることが上手く、頭も抜群に良いので人事政策全体を統括させるために選ばれたのだろう。


 許靖に関してはどこかで人物鑑定に関する情報を得ていたようで、董卓から初めてその任を告げられた時、


「本物を見極めろ。偽物は捨てろ。お前はそれだけをやればいい」


そう命じられた。


 後は周毖がやるという事だろう。


 許靖の能力を求められ、期待されて就かされた仕事だ。これまでの賄賂人事ではめったになかった事だった。


 許靖は当初、病など適当な理由をでっちあげて官を捨て、洛陽から離れるつもりだった。


 しかし董卓から辞令があった後、許靖が官を辞すつもりだという噂を聞いた多くの人間がそれを止めに来た。


「頂点に立つ董卓がどうであれ、支える役人たちが清廉で有能であれば国家も民の生活も安泰だ。どうか天下のためにひと働きしてほしい」


 何人にもそう諭され、仕方なく引き受けてしまった。


 許靖は言われた通りに腐敗役人を見極め、清廉で有能な人間を何人も挙げた。その的確な人物鑑定は多くの人々から称賛を受け、月旦評の許靖の名はまた上がった。


 実際にそれで世の中も良くなってきている。腐敗官吏を追放して必要な人間を必要な役職に就けると、行政はかなりの部分が改善されたのだ。


 あくまで董卓とその兵たちの暴虐を除いて良くなった、というわけではあるが。


 そうして、ずるずると今日まで董卓の下で働いてしまっている。


(曹操殿と袁紹殿であれば大丈夫なはずだ。脱出手段を講じる時間は十分にあった。それでしくじるような方たちではない)


 許靖はそう考えて質問した。


「追手は出されているのでしょうか?」


 董卓はうなずいた。


「出した。賞金もかけたぞ」


「であれば、もうそれでよろしいのではないでしょうか。私の見たところですが、お二人とも中央政府の力を背景にせねば大きなことは出来ない程度の器かと。一応でも追手さえ出しておけば政府としての意思表示にもなりますし、十分だと思いますが」


 許靖は曹操、袁紹のためにそう答えた。


 董卓は意外そうな顔をした。


「そうか?俺はあの二人はなかなかの男だと思っていたが……周毖はどう思う?」


 周毖は頭を下げて答えた。


「曹操殿は許靖殿の言う通りでよろしいかと。宦官が皆殺しにされて、本人には何の伝手もなくなりました。しかし袁紹殿は名家の声望も高く、力があります」


「では、袁紹は何とかして殺すか」


 董卓は簡単に「殺す」と言う。そして、本当に殺す。


 この男にとって命など、毛の先ほどの価値もないようだ。


 周毖は董卓の言葉に慌てて首を振った。


「い、いえ……おそらくですが袁紹殿が本気で逃げるとなれば、もはや捕らえることは困難かと思われます。むしろ厚遇しましょう」


「厚遇?」


「追手を止め、賞金を取り消し、どこかの太守にでも任命して侯に封じていただければ良いのではないかと思います。そうすれば袁紹殿も面と向かって国家に反旗を翻すことをしづらくなります」


 董卓は眉をひそめた。


「やりすぎではないか?本当は殺したい人間に、そこまでしてやらねばならんか」


 周毖は頭をさらに低く下げ、嘆願するように言った。


「ただ力攻めをするだけでは国家は回りません。これが王者の道かと存じます」


 王者、と言われて董卓はまんざらでもなさそうな喜色を浮かべた。


「そうか、ではそうしよう。本当は洛陽に残った奴らの親族でも殺して見せしめにしようと思っていたのだが……」


「お止めください」


 許靖が間髪入れずに強い語調で口を挟んだ。


 普段とは違うその様子に、董卓はおや、という顔をした。


 許靖は一度咳払いをして言葉を続けた。


「……名士優遇政策で政権に人心が集まりつつあります。今、働く者たちを不安にさせるようなことは控えるべきかと」


 董卓はしばらく無言で許靖を眺めていた。その時間が永遠かと思えるほどに長く感じられる。


 やがて、重々しく口を開いた。


「分かった。お前たちの言うとおりにしよう」


 それだけ言うと、重量級の腰を椅子から上げて部屋から出て行った。


 許靖と周毖は董卓が出て行った後、数十秒ほど経ってからようやく同時に深いため息を吐いた。

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