第47話 花神の御者

「なんだ、許靖さんか」


 許靖は二階の個室に入るなり、そんな言葉を投げかけられた。


「なんだとはなんだ。あまり良い言いようではないな」


 許靖の表情は別に怒るでもなかったが、口では一応そう抗議した。


 抗議された陳羣チングンは、悪びれた様子もなく答える。


「だって、料理が来たんだと思ったんですよ。もう腹が減って腹が減って」


 そう言って腹をさすって見せる。


「申し訳ないが、忙しそうだったので料理はゆっくりでいいと言ってしまった」


「ええ?」


 陳羣が若者らしい大きな声を出して抗議した。同席している男たちも、口には出さないが不満そうな表情を見せている。


 個室には許靖と陳羣の他に四人の男たちがいた。名を、袁渙エンカン華歆カキン許貢キョコウ王朗オウロウという。


 陳羣チングンと袁渙はまだ二十歳前で、華歆は二十代後半、許貢と王朗は三十路前後だ。許靖は三十代半ばなので、この中では一番の年長だった。


 若者の方がよく腹が減るのは確かだろう。とはいえ、抗議されるほど悪いことだったろうか。


「まだ正午前じゃないか。それほど腹が減る時間かな」


「今日は美雨さんの店の料理が食べられると思って、朝食を抜いてきたんですよ。他の皆さんとも、そうしようって話になって」


「なんだそれは。今日は私のおごりだと思って、たらふく食べてやろうということか」


 陳羣は答えず、ただにやりと笑って見せた。


 その笑顔からどことなく憎めない愛嬌を感じる。この男にはこういった年長者に対する甘え上手な面があった。


 陳羣は許靖が兄事している人物の息子だ。


 陳羣の家系は祖父の代から清廉な政治家を輩出する家として世間的にも尊敬を集めている。自然、幼いころから父や祖父を慕う大人たちに囲まれ、年長者のあしらい方が上手くなったのだった。


 ただし、甘ったれで本人に能力がないのかというとそんなことはなく、むしろ優秀な一族の中でも特に秀才と言っていいほどの頭脳を持っていた。


 特に組織の仕組みや構造に関してを議論すると、許靖でも舌を巻くような鋭い視点で話をする。


 陳羣の瞳の奥の「天地」には一匹の猫がいた。


 愛らしい容姿で思わず心を許してしまいそうになるが、普段隠されている爪は獅子のものであるかと思うほどに鋭い。また、たまにだが鳥肌が立つほどに鋭い目で人を見ることがある。


 よく知る人間からすれば陳羣はただの可愛らしい猫ではないと分かっているし、許靖はこれから年を経るにつれて獅子に化けるのではないかと思っていた。


「私はちゃんと朝食を摂ってきたぞ。いくら許靖のおごりだからといって、そんな真似は出来ん。だが午前中はずっと許貢と洛陽の書店巡りをしていたのだ。かなり歩いたので腹は減っているな」


 人懐っこい笑顔を見せる陳羣とは対照的に、むすっとした表情でそう言ったのは王朗だ。


 特に機嫌が悪いわけではないが、王朗は愛想笑いなどしない。普段から表情があまり動かないので、人からはどうしても厳めしい印象を持たれる男だった。


 陳羣とはずいぶんと違う印象の王朗だったが、その秀才ぶりは陳羣に勝るとも劣らない。経書に詳しく、驚くほど知識が豊富で、物の考え方も理路整然としている。


 ただし、日常生活でもいちいち筋を通すので周囲からはとにかく頭の固い男として認識されていた。例えば何か善行を行うにしても決して感情からそうするのではなく、それが善行であるための筋道が立つからこそ行う、というような男だ。


 王朗の瞳の奥の「天地」には一人の人間が屹立しているのだが、面白いことにその人間は全身が鉄でできていた。


 動きや表情に柔軟性はないが、その分硬くて強く、何よりぶれない。


「王朗は鉄でできたカラクリ人間のような男だ」


と言えば、王朗をよく知る人間はみな笑って納得する。


 陳羣と袁渙は許靖と齢が十以上も離れているので許靖に対して敬語だったが、華歆、許貢、王朗は許靖からの希望もあって敬称も敬語も使わなかった。


「俺は朝食ってない。なのに午前中ずっと歩かされた。」


 許貢が王朗を横目で見ながら不満を口にした。


 許貢はこの中では唯一、文だけでなく武に関しても多少の心得がある男だった。


 といっても特別体が強いわけではないので、朝食抜きで半日歩かされてはさすがに辛いようだった。


 許貢は地方の都尉とい(軍事を司る役職)などが向いているのではないかと許靖は考えている。


 正義感の強い男なので、きっと善良な兵たちが育つはずだ。許貢の実力ならば、そこから太守にでもなりうるだろう。


 許貢の瞳の奥の「天地」には大きな門が立っていた。重厚で、その奥にあるものを守ろうという気持ちが見て取れる。


 門の奥にあるものは分からない。正義感から守ろうとする民なのか、それとも忠義心から守ろうとする国なのか。


 許靖はそれをはっきりと尋ねたことはなかったが、きっとその両方ではないかと思っていた。


 王朗は許貢の不満を簡単に切って捨てた。


「書店巡りをすることになっていたのは、そもそも許貢の提案だろう。食べて来ないのが悪い」


 突き放したような言い方だったが、こんな王朗にはもう慣れている。許貢もそれ以上は何も言わなかった。


 王朗がどんな辛辣しんらつな言葉を投げかけても、許貢はそんな王朗を分かった上で付き合っているのだ。見た目以上に仲の良い二人だった。


「とりあえず簡単なものでいいので、早く用意できるものをお願いしてきましょう。行ってきます」


 一番年若の袁渙がそう言って席を立ち、階下に降りて行った。


 その背中を見ながら、華歆が感心してつぶやいた。


「相変わらずよく働くな、青年」


 袁渙は陳羣と歳が近く、同じように年長者から好かれる男だった。


 しかし、陳羣とは好かれ方がかなり異なる。陳羣が甘え上手で愛想が良いために好かれるのに対し、袁渙は年長者を敬い、細かいことでも俊敏に立ち働いて好感を持たれている。


 とにかく気が利く男だったが、媚びるようなところは全くない。むしろ、筋が通らなければ目上の年長者であっても無言の態度で批判を示した。


 真面目すぎる点は頑固な王朗に多少似ている。


 袁渙の瞳の奥の天地には、一匹の犬がいた。


 賢そうな瞳と立派な体躯、美しい毛並みをした犬だ。陳羣の猫とは対照的に愛想を振りまくようなところはなく、まじめな顔つきでじっと座っている。


 いかにも忠犬が主人の命令を待っている、といったような印象だ。


 華歆が袁渙の出て行った方を眺めながら目を細めた。


「青年は心が真っ直ぐ過ぎて眩しい。もう少し軽い気持ちで生きればいいのに」


「お前は軽すぎだ」


 王朗は華歆の方を見もせず、無表情でそう言った。


 王朗の言う、華歆が軽い、という表現はあながち間違いではない。


 華歆は頭も要領も抜群に良い。しかし、それをわざと発揮せずに周囲と上手いことやってやり過ごしている感がある。


 世渡り巧者、といったところだろうか。口も上手いし、人でも仕事でも『あしらい方』が上手かった。


 ついでに女性のあしらいも上手く、浮名を流しているのでその点も軽いといえば軽いだろう。


 華歆の瞳の奥の「天地」には燕が飛んでいた。


 燕は渡り鳥だ。北から南へ、南から北へ、自分の住みよい季節に住みよいところへ移り住む。軽い、と言ってしまえばあまり良い表現ではないが、華歆らしい「天地」ではあった。


 しかも中国において燕は縁起物だ。華歆もいるだけでその場を楽しませるような人徳があった。


 しばらくすると、袁渙が料理の盆を持って階段を上がってきた。


 盆には簡単なつまみと汁物が乗っている。食器に盛るだけですぐに出せる料理を持ってきたのだった。


 袁渙は忙しそうな従業員にさえ気を使い、料理を運ぶのを申し出たのだろう。本当に真面目でよく働く。


 許靖は料理を並べるのを手伝ってから、手を一つ叩いた。


「よし、じゃあとりあえず腹を落ち着かせてくれ。曹操殿、孫堅殿、劉備殿の話は、それからしよう」


 今日の目的は、曹操たちに頼まれていた「有望な若手の紹介」に関して、その本人たちに話をしておくことだった。


 ここに呼んだ五人は、許靖の知る若者の中でも特に有望だと思っている男たちだ。全員が将来、文官としてそれなり以上の立場になると思われる人物たちだ。


 武官にもこれはと思える若手はいたが、戦はその場の状況や運に大きく左右される上、許靖自身があまり戦に詳しいとは言えない。紹介するのは文官だけにしておこうと考えていた。


 許靖以外の全員が汁を腹に流し終えるころ、早くも次の料理が届けられた。美雨が気を利かせて急いで用意してくれているのだろう。


「美味い」


 それ以外の言葉はしばらく出なかった。


 やがて皆の腹は落ち着いてきたようで、ふぅ、というため息とともに箸が止まり始めた。


「では、そろそろ話を始めてもいいかな」

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