洛陽
第31話 仕事
「申し訳ございませんでした!」
大音量の謝罪の声が、役所の大部屋に響き渡った。
それぞれ手元の仕事にかかっていた吏員たちは横目でそちらを見やると、
(またか)
と、全員が同時にそう思い、急速に興味を失ってまたそれぞれの仕事を再開した。
叫ぶような謝罪の声が上がったところでは、一人の男が上司に向かって頭を下げていた。
いや、下げていたというどころではない。額が地に擦りつけられている。芝居かと思えるほどの大げさな土下座だった。
「全て私の責任です、どうかお許しください!」
「君、やめなさいこんな所で」
上司は口ではそう言っているが、顔はまんざら嫌そうでもない。
「大丈夫だ。私がなんとか口添えしておいてやるから、君は今からでも必要な手配を急ぐように」
そう言って、鷹揚に部下の肩を叩いてやった。
「はいっ、ありがとうございます。では失礼いたしますっ」
部下は飛び上がるように頭を上げると、一礼して部屋から駆け出して行った。
許靖はそれを目だけで見送りながらため息を吐いた。
隣りの同僚が耳打ちするように小さな声をかけてくる。
「憐れだな、あのような情けない姿を晒して。額は床ではなく、上司に叩きつけて共に死ぬべきだ」
許靖はかぶりを振った。
「何を言う。世にあれほど美しい姿があるか」
同僚はそれを冗談だと思ったのか、鼻で笑ってからまた手元の仕事に取りかかった。
冗談などではない。許靖は本気で思ったことを口にしただけだった。立派だし、美しいと思う。
土下座して部屋から駆け出して行った吏員には、実は何の落ち度もない。近く開かれる宴の準備で上司に手落ちがあり、その責任をなすりつけられたのだ。
上司は自分の指示漏れを、部下の聞き逃しだと言い張った。
だが、指示は出されていなかった。この部屋で働く人間の大部分がそれを知っている。
上司はさらに上の上司へ『部下の過失が原因』だと報告し、自分は部下をかばう良い上司を装う。
この上司が配属されてから何度も繰り返された事態なので、吏員たちはもう慣れていた。
実はさらに上の上司も大体のことは理解しており、部下の責任という形になってもその部下は罰せられることはない。
信賞必罰など影も形もない、グダグダの職場だった。
ただただこの上司が
そもそも能力に期待もされていないので、今回のようなことがあっても周りの人間が黙って開いた穴を塞いでいくだけになる。
いつも責任をなすりつけられる同僚には、子供が七人いた。それらを養うために職を失うわけにはいかない。その強い思いが、本来なら下げずともよい頭を家族のために必死で下げさせていた。
(どれだけ情けない恰好であろうとも、あれほど美しい姿があるだろうか。あれほど立派なことがあるだろうか)
許靖は家で待っている息子と妻の顔を思い浮かべた。それだけで、どのような屈辱にも耐えられる気がした。
腐敗しきった官庁で働くのは楽なことではない。正直なところ、嫌なことのほうが多いだろう。それでも大切なもののために働くのだと考えれば、何とか頑張れるものだった。
許靖は三十の半ばになり、息子も先日十歳になった。一人息子で、本当に可愛いと思う。
子供からは多くの幸せをもらったし、多くのことを学ばせてもらった。家庭を持ち、人の親にならなければ分からない事が多かった。
許靖は卓に広げた竹簡に走らせていた筆を止め、一度読み返した。
(こんなものだろう)
一人納得し、それを先ほどの上司のところへ持って行った。
「
無能な上司は一応目を通してくれたが、どこまで理解しているのだろう。
この支援の良し悪しで、どれだけの人間が飢えるかが決まるのだ。その手綱を一部でも握っているのが賄賂で地位を得た無能者であることに、許靖は軽くない絶望感を覚えた。
「いいんじゃないかな。では、私の方から上へ通しておく」
「あの……できるだけ急いでいただけますでしょうか?被災地では、今まさに飢えている民が多くいます。少しでも早い支援をお願いします」
上司は目をパチパチさせて許靖を見返した。軽く笑って答える。
「分かっているよ。相変わらず真面目だな。まぁ、上の方でも君は仕事ができると評判だし、君が作ったものだと言えばすぐに通るだろう」
そう言って上司は竹簡を扇子にして、パタパタと自分の顔をあおいだ。
禿げかけて細くなった毛髪が、弱い風で揺れる。
「しかし、
「……ありがとうございます」
許靖は曖昧に笑って頭を下げた。
人物鑑定で力が発揮できないのは、賄賂で人事が決まっているからだ。逆に許靖の言など確認していたら賄賂人事が滞る。
たまに意見を求められることもあったが、それは本当に能力が必要な仕事や差し迫った必要性のある仕事へ人を配置する場合に限られた。
「だがそれほど急いだ方がいいなら、食料だけでなく農耕機具や種苗が支援の第一段に入っていていいのかな?まず飢えないように食料ばかりを大量に持って行ったほうが良くないかい?」
(一応、字が読めたのか)
さすがに許靖はそこまで失礼なことは思わなかったが、吏員の何人かはそんな皮肉を心中に浮かべていた。
許靖から言わせると、食料だけでないのが支援で重要な点だった。
国から与えられる食料の量や期間など、たかが知れている。だから早めに自活できるように必要な農耕器具や早めに収穫できる種類の種苗、それに、地域によっては狩猟や漁猟の道具を送ることにした。
食料に関しては、第二段が届くまでに足る量を少し多めに計算している。それらのことは、どれもしっかり資料に書いているはずだ。
いつもの事ではあったが、いちいち口でも説明しなくてはならない。
(こんなことで時間を潰している場合じゃないのだが)
黄巾の乱で困窮している人たちは、今まさに苦しんでいるのだ。
このような無能者が政府の要職を占めていることに、許靖は一人の役人として申し訳ない気持ちになった。
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