第30話 孝廉

「入っていいか?」


 許靖は廊下から部屋の中へと声をかけた。


 特に名乗りもしなかったが、相手には分かるはずだ。すぐに答えが返ってきた。


「いいぞ」


 許靖が足を踏み入れた部屋は、無機質だがよく整頓された部屋だった。


 無駄なものは一切ない。筆記具などは理路整然と並べられており、竹簡(この時代の紙の代わり)の束も項目ごとにきちんと分けられている。いかにも丁寧な仕事をする男の執務室だった。


 ここは許靖の従兄弟、許劭キョショウの執務室だ。


 許劭は卓に資料を広げて確認しているところだった。


 許靖は従兄弟へと微笑を向けた。


「久しいな」


 許劭はニコリともせず、じっと許靖を見返した。


「……多少、変わったようだな」


 挨拶もなしに、開口一番そう言ってきた。


「そうか?……そうかもしれんな。まぁ、色々あったよ。だが多少変わっても、お前はきっと腑抜けと言うのだろう?」


「ああ、相変わらずの腑抜けだ。いや、相変わらずではない程度には変わったかもしれんな。だが、それでも腑抜けだよ、お前は」


 許靖は可笑しそうに笑った。


「それだから不仲だと言われるのだ。私のことも聞いてないんじゃないか?」


 許劭も声を上げずに笑った。


「いや、お前が計吏として郡に雇われることは聞いている。しばらく勤めてから、孝廉に挙げられる予定ということもな。だが事情やら何やらまでは入ってこん。俺の周囲の者たちは、俺とお前が不仲だと聞いているから話題にしようとせんのだろう」


 それはそれで不便ではあったが、別にどうでもいいことのような気もする。他人にどう言われようとも、ここにいる許靖と許劭は、そのまま許靖と許劭でしかないのだ。


 許劭は敷物を指して、許靖に座るよう勧めた。促されるまま、許靖は許劭と向かい合って座った。


 許劭は今一度、久しぶりに会った従兄弟の顔を見渡してから口を開いた。


「孝廉に挙げられる事情はまたゆっくり聞くとして、その前に忠告がある」


「なんだ?」


「洛陽の政府は、お前が思っているよりもずっと腐りきっているぞ」


 許靖は許劭の瞳をじっと見返して話を聞いた。許劭は言葉を続ける。


「中央にいれば、必ず不要な争いに巻き込まれることになる。役人の腐敗や汚職だけでない。これだけ民の負担が重いと、その内反乱も起きるだろう。政府内でも抗争で血が流れるかもしれん。この国ではそんな歴史が繰り返されてきたのを、お前も知っているだろう?」


 許靖は無言でうなずいた。


「馬鹿馬鹿しいと思わんか、戦など、殺し合いなど。人は皆幸せに生きるために日々の営みを送っているのだ。その最も大切な命を、互いに危険に晒しあう」


 許靖はもともと争いが嫌いだ。許劭のいうことには完全に同意できた。


 許劭自身は『何かを成し遂げるのに、闘争は必須』というのが持論だったが、それはあくまで生命や身体を賭けた闘争ではない。


 人と人が己の価値観や能力、精神的な強さを競う闘争のことで、暴力に訴えるようなやり方は許劭の最も忌むところだった。そのような人間は月旦評でも、それ以下がないほどの最低評価を与えられていた。


「世のため、民のため、というのはもちろん大切だ。俺もお前もそうありたいと思っている。しかし、己の身を危険に晒すのは、可能な限り避けろ。醜くとも生き永らえた方が、世のため、民のためには成せることは絶対に多い」


「ああ、私もその通りだと思う」


「俺としては、出来れば中央にいるのは避けたほうがいいと思うぐらいだ」


「……そうか、やはりお前が地方にいるのは危険を避けるためか」


 許劭であれば中央からの誘いや推挙の話もあるだろう。しかし、郡の一吏員として働いている。


「それだけではないが、それも大きな理由の一つだ。この状況が続くようなら、俺は一生地方で働きたいと思っている。戦乱などになったら、さらに遠くへ逃げるかもしれん。だが逃げながらでも、地方に身をうずめながらでも、俺は俺のできることをする」


 許靖は許劭のことを、従兄弟ながら立派な男だと思った。ただの保身ではなく、己の成すべきことを考えている。


 許靖は思ったことをそのまま口にした。


「お前は立派だな」


「なんだ、気持ち悪いな」


 この二人は、はっきりと口に出して褒め合うには付き合いが長すぎた。


「つい先日、きちんと言葉にして伝えなければ分からんのだと叱られてな」


 許劭はその言葉に、ニヤリと口の端を上げた。


「嫁から言われたか」


「いや、嫁の従者からだが。しかし、きちんと言うことで嫁も喜んでくれた」


 そこまで言ってから許靖は、おや?と思った。


「……お前、私の結婚の話は聞いていたのか?」


「何も聞いてない。だが部屋に入ってきた時に感じたお前の変わりようは何だろうと、ずっと考えていてな。おそらく嫁でももらうのだろうと見当をつけた。お前の変わり方は、守るものが増えて強くなった者の変わり方だ」


 なるほど、と思うと同時に意外でもあった。


 許靖自身は、もし自分が変わったのだとしたら韓儀の屋敷に乗り込んで修羅場を経験したからだと思っていた。


 しかし許劭がそう言うのなら、きっと結婚の方が強く影響しているのだろう。あれほどの危険な経験よりも、守るものが増えるということの方が人を強くするということか。


 許靖は苦笑した。


「まぁ、私は嫁を守るよりも嫁に守られる方が多かったのだがな。しかし、これからは守れるように強くならなくてはならんと思う」


「ほう、それは面白そうな嫁だな。何にせよ、めでたい。俺とお前は不仲だが、祝いの席には呼んでくれ」


 許劭はそう言って笑った。許靖もそれに笑い返した。


 許靖は笑う許劭を見て、若かりし頃、月旦評でどうしても折り合えなかった一点に関して話題にしてみることにした。


「なあ許劭。私は、人はやはり変われると思うのだ」


「なんだ、またその話か」


「そんな顔をするな。私やお前のように人を鑑る力を持つ者にとって、大切なことだろう」


「俺だって人が良い方向に変われることは分かっている。しかし俺たちが人物評価をするに当たって、不確定な将来の希望的観測まで入れるわけにいかんだろう。俺は郡の人事を担当するようになって、より強くそう思うぞ。いつか良い方向に変われそうな人間でも、すぐに仕事に就かせねばならんのだ。そしてすぐにでも成すべき仕事はある。待ってなどいられん」


 そうは言いながらも、許劭の人事で異動した人間は目を見張るような成長をしたり、評判が良くなることが多いという話を許靖は聞いていた。許劭も人が良い方向に変われるよう考えて働いてはいるのだ。


 許靖はそれだけに、許劭の口にする評価が過度にきつく聞こえることが残念だった。


「しかし、成長できそうな部分も評価に入れて伝えてやればいいと思うのだ。お前の人物鑑定家としての名声は大きすぎる。お前が口にする評価は、お前が思っている以上に本人や周囲に影響を与えてしまう」


「ならば、人材を求めている側の人間にとってはどうだ?良い話ばかりを聞いて被害を受ける場合もあるだろう。もし良い方向に変わる可能性を入れるなら、悪い方向に変わる可能性も入れなければ正当な評価とは言えん」


 許靖はため息をついた。やはりこの点、許劭とはどこまで議論しても平行線だった。


 許劭は話を切り上げるように立ち上がった。


「おい。やり飽きた議論はもうやめて、どちらかの家で飲もう。このような言い合いをしているところを他の職員に見られたら、また不仲だと言われてしまう。それも別に構わんことだが、しばらく同じ職場で働く以上は仕事に支障をきたすかもしれん」


「それもそうだな」


 許靖も立ち上がった。


 執務室を出て、廊下を歩きながら許劭が口を開いた。


「なぁ許靖」


「なんだ?」


「お前、俺たちが不仲だと言われているのは俺がお前のことを『腑抜け』と言っているからだと思っているだろう」


「……違うのか?」


「違わんだろうな。だが、お前も人から俺を紹介して欲しいと請われた時に『やめたほうがいい』と断っていただろう」


 そう言われてみると、確かに身に覚えがあった。


 許劭は駄目だと思う人間には、はっきりとその旨を告げてしまう。それは気の毒だったし、許劭も恨みを受けるかもしれない。


 だからひどく評価の悪くなりそうな人間は許劭に紹介するのを断っていた。


「紹介を断られたという馬鹿ども何人かと会ったから、大体の理由は分かるがな。だがそいつらは「許靖はお前に含みがあるらしいぞ」とわざわざ警告してくれたよ。そういった連中が、俺らは従兄弟同士でおとしめ合っているという噂の元になっているらしい」


 許靖は苦笑いしかできなかった。人の噂などというものは、所詮はこんなものか。


(まったく、世間というものは……)


「「勝手なものだ」」


 従兄弟同士だからというわけではないだろうが、最後は二人の言葉が重なった。


 二人が似たような笑い声を上げて歩いていくのを、役所の職員達がささやき合いながら見ていた。

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