第23話 腐敗官吏

 韓儀の声だ。


 大商人として種々の修羅場に慣れている王順は、迷いのない落ち着いた口調で答えた。


「どうぞ。準備は終えております」


 扉が開き、韓儀が入ってきた。その後ろにはいつも連れている巨躯の護衛が二人、ピタリとついていた。


(やはり自分の屋敷内でも護衛をつけるか)


 それは許靖にとって想定されていた事だった。


 普通の人間なら自分の屋敷内まで護衛がつくいうのは窮屈に感じるだろう。


 しかし、韓儀はおそらく幼少期より使用人が自分のために何かすることが当たり前になっている。自分に仕える人間が周囲にいるということに何の圧迫感も感じないのだ。


(素人目にも強そうな護衛だが……そもそも争いにならなければいいのだ。大丈夫)


 許靖は自分にそう言い聞かせ、これから騙そうとしている相手に向かって精いっぱいの笑顔を作った。


「韓儀様、お会いできて嬉しく思います」 


 そう言って拝礼した。


 顔を上げると韓儀と目が合い、その瞳の奥の「天地」が目に入った。


 飛び交う天女たちと、それらに囲まれて寝そべる男の「天地」。先日見た通りの光景だ。


 その瞬間、許靖は自分の鼓動が急速に落ち着いていくのを感じた。


 同じような事がこれまでにも何度かあった。半年前に朱烈に押さえつけられた時もそうだったが、許靖は相手の瞳を見ると急に心が鎮まることがある。


 人は、自分が把握できない状況に置かれると恐慌状態に陥りやすくなる。理解できない、制御できない、どうしていいか分からない、そういった事態が正常な思考能力を失わせるのだ。


 しかし許靖は瞳の奥の「天地」を見ることで、少なくとも相手のことをある程度把握できる。それが精神的な安定につながる傾向があった。


「お前が月旦評の許靖か。若いが、なかなか良さそうな男ではないか」


 おそらく占い師としての外見について言っているのだろう。


 許靖は化粧してくれた小芳へ心の中で感謝しつつ、口では韓儀へ向かって感謝を述べた。


「光栄なお言葉です」


「王順から聞くところによると、お前は俺を街で見かけたことがあるそうだな」


「はい。趙氏の呉服店でお見かけしたことがあります」


 もちろん、でたらめだ。


 趙氏の呉服店は韓儀のお気に入りで、趣味が合うと思わせるため事前に王順と話し合って決めた方便だった。


「ほう、お前もあの店に出入りするのか。あそこはなかなかに趣味がいいからな」


 案の定食いついた。


 趙氏の名誉のためにいえば、店の趣味は韓儀のように悪くはない。


 ただ、韓儀のような者でも客の需要にはきちんと応える店なのである。それが端から見れば悪趣味であろうとも。


「私もよくお世話になっております。しかし韓儀様を見た瞬間、服などどうでもよくなりました」


「そうか、王順からも俺を一目見て感じるものがあったと聞いている。それはどのようなことだ」


 許靖は少し間をためてから答えた。


「はい……私はその日、歴史に名を刻む大人物と会えたのです」


 韓儀の眉がぴくりと上がった。


「……歴史に?」


 許靖はやや過剰なほどに大きくうなずいて続ける。


「ええ、あなた様はこの先間違いなく、歴史に深く記憶されることになります。この時代における第一級の人物となられるでしょう」


「俺が、歴史に……」


 韓儀は頭を軽く揺らしながら、そう繰り返した。


「月旦評の男がそこまで言うのか……」


 つぶやきながらだんだんと興奮してきたようで、倒れこむような勢いで問い詰めてきた。


「それはどのような……」


 しかし韓儀の勢いは、許靖がすっと上げた片手の平によって遮られた。


「お待ちください。まずはきちんと卜占を行ってからお話ししましょう」


 そう言って、卜占を準備した卓の席についた。


「……そうだな、まずはそれからだ」


 韓儀はうずうずした様子を隠そうともせずに、やや前のめりになって許靖の向かいに座った。


 普通であれば、大の大人がちょっと持ち上げられたくらいでここまで興奮しないだろう。


 しかし韓儀の育った甘い環境と、極端な卜占好きとが異様なほどに容易たやすく韓儀をほだしていた。


 許靖が韓儀の瞳へ目をやると、その「天地」の中の天女が部屋に入った時よりも激しく飛び回っているのが見えた。寝そべった男も満足そうな表情を浮かべている。


(思った通り、分かりやすい。感情が「天地」に反映されやすい部類の人間だ)


 瞳の奥の「天地」にも色々あり、ものによってはその時の感情が強く反映される場合がある。特に「天地」の中に本人を表すものがある場合は分かりやすいことが多かった。


 またそのような人物はたいてい気分屋で、その時の気持ち次第で言動や性格が大きく変わってしまうことが多い。


 許靖はおそらく韓儀もその類いの人間だろうと見立てて、今回の事を考案したのだった。今のところ想像以上に上手くはまってくれている。


「これがお前の卜占か。見たことないものだな。どのように使う?」


 許靖と韓儀が挟んだ卓には布の上に水晶が置かれ、その周囲に白い砂がまかれていた。燭台の炎に照らされて、砂や水晶が夜空の星のようにきらめいている。


「天文や占星術の応用だとお思いください。この砂を星に見立てて卜占を行います」


 まるっきりのでたらめだった。


 韓儀は卜占に詳しい。下手に既存のやり方をすれば、ボロが出てしまう可能性があった。


「初めて見るな」


「月旦評の中でも秘匿とされております。今日見られたことはご内密に願います」


「なるほど。月旦評はこのようにして名声を得ていたのか」


(……あまりに単純に納得してくれるのがむしろ心配だが)


 許靖は内心、多少の不安を覚えた。


 が、要は自分にとって心地よい状況であればそれ以上のことは必要ない性格なのだろう。


 許靖は卓上の箱を指した。


「韓儀様にはこちらの砂を水晶とその周辺にまいていただきたいのです。少しで結構ですよ」


 韓儀は許靖に促されて箱の中の砂を一つまみ持ち上げ、まいた。そして、その上から許靖がさらに砂を少しまき、卓上の燭台を持ち上げた。それを水晶の上で前後左右にゆっくりと揺らす。


 美しい星空を指して『砂をまいたようよう』などと表現することがあるが、まさにそのような光景が目の前に現れた。燭台の炎が水晶と砂とに反射し、卓上に星空が広がったようだった。


 二人はしばし沈黙していたが、やがて許靖が深々とため息を吐いた。そしてゆっくりと口を開く。


「……韓儀様。私は今日この日のことを生涯忘れないでしょう。やはりあなた様は天から遣わされた人だった」


「天から?」


「はい。天子は天の子であるが故に天子と呼び習わされます」


「天子、だと?天子とは洛陽の都にいる帝のことではないか。俺は帝ではないぞ」


「今はそうです。しかし考えてもみてください。初めて帝と称された始皇帝も、初めから帝であったわけではありません。むしろ幼いころは冷遇された人質の子です」


「……つまるところ、お前は俺が将来の帝になる、と言っているのか?」


 許靖は韓儀の質問には答えず、別の質問をした。


「失礼ですが、韓儀様は今話に出た秦の始皇帝をどう思われますか?」


「……始皇帝か」


 問われた韓儀は急に嗜虐的な顔になった。


 口の端を歪め、目だけは細めずに笑う。


「俺は始皇帝ほど素晴らしい人物はいないと考えている。無論、糞のような儒者どもを弾圧したことも含めて、だ」


 許靖たちの生きる漢の時代には、その先代の国である秦やその創始者である始皇帝はあまり人気がない。


 それは国として代替わりした漢の正当性を守るためでもあるが、いま一つの理由として儒教に対する弾圧が挙げられる。


 この時代に隆盛している儒教に対し、秦の始皇帝は焚書坑儒ふんしょこうじゅ(儒教関連の書籍の破棄と儒学者の弾圧)を行った。儒教道徳が国を動かす今の時代において、褒められる立場には置きづらい人物だ。


 もちろん中華を統一した偉大な人物として尊敬の対象ではあることは間違いなかったが、どこか非人道的な印象がこびりついている。また諸説あるが、始皇帝は一部の地域で虐殺なども行ったという。


「この世の中で最も重要なのは、儒者どもが後生大事にする道徳や綺麗事ではない。結果なのだ。何をしようと関係ない。どのような過程を経ようとも結果として、いかにして己を高みに置けるか。生きている以上、それが重要だろう」


 許靖はその言葉に大きくうなずいた。


 事前に聞いていた通りだ。韓儀は始皇帝を崇拝している。しかも普通の人とは真反対で、非人道的な部分を特に愛しているようだった。


「なるほど。確かに始皇帝は倫理上、問題であるようなこともされたと言われています。刑罰を重くし、不要な事業で人民を酷使し、不必要に人を殺すこともあったとか」


「それの何が問題だ。結果、中華を統一して帝にまでなっている」


「何も問題ではありません。私は、韓儀様こそがこの時代の始皇帝だと言いたいのです」


「なに?」


 韓儀はおうむ返しに聞き返した。


「始皇帝だと?俺が?」


「正確に言わせていただくと、天にとって韓儀様と始皇帝とが同じ位置にある、ということです」


 許靖は柔らかく微笑んでそう答えた。


「どういうことだ」


「韓儀さまもおっしゃった通り、始皇帝は倫理上良くないとされることをしつつも中華を統一し、初代の帝になるという偉業を達成されました」


「ああ」


「しかしこれは本来、天に背く行為です。天網恢恢疎てんもうかいかいそにして漏らさず、と申します。人倫に背いた行為は天の望むところではありません。ではなぜ始皇帝は至高の位置へと登りつめられたのか」


「それは」


「それは、天が許す人物だったからです」


 許靖は韓儀に最後まで言わせず、強い口調で断言した。


 そして韓儀が何か言おうとする前に、さらに言葉を重ねた。


「始皇帝が何をしようと、天がそれを許すのです。天が人に大いなる事業をなさしめるためにその者を天の子として認め、全てを許す人物がいるのです。それが天子たる帝であり、秦の時代には始皇帝がそれに当たられます。それゆえ、始皇帝はどれだけ人倫に背いた行いをしようとも中華を統一できたのです」


「……そのような人間が」


「いるのです。それがこの時代には韓儀様、あなたなのです」


 許靖の言葉に、韓儀はしばし唖然とした。無言で卓上のきらめきを眺めてはいるが、果たして焦点はそこに合っているのか定かではない。


 随分と長い時間そうしていた。


 許靖は途中で何度か口を開こうかと思ったが、瞳の奥の「天地」を見て思いとどまった。天女たちの表情に、少しずつだが変化が見られたように思えたのだ。


 時間が経つにつれ、呆けたようだった韓儀の表情に力が戻ってきた。


 それに伴って瞳の奥の「天地」では、天女たちがひらひらと舞い踊り始めた。


「……そうか。俺は、始皇帝と同じか」


 ポツリとつぶやくような声に、許靖はうなずいた。


「はい、この時代の始皇帝です」


「俺は、何をしても許されるのか」


「許されます」


 そして韓儀はゆっくりと、醜いほどに顔を歪めて笑った。


 その喉奥から発せられた耳障りな哄笑が、広い部屋に響いた。


「そうかそうか。今日は良い話を聞けたぞ」


 韓儀はこれ以上ないほど満足そうにうなずきながら、そうかそうかと何度も繰り返した。


 そしてその内に、やはりそうだったか、いやそんな気がしていた、それで始皇帝に惹かれていたのか、などと、ニヤニヤしながらつぶやき始めた。


 瞳の奥では天女たちがいよいよ激しく踊り狂っている。


(かなり調子づいてきたな。これならいけるか)


 許靖はそんな韓儀をしばらく黙って眺めていた。


(……よし、そろそろだな)


 そう見極め、やがて小さく声を発した。


「おや?これは……」

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