第20話 腐敗官吏
「どうだった?月旦評の許靖から見た韓儀は」
許靖と王順が皆の待っている部屋に戻ると、
許靖は腕を組み、拳を口に当ててじっと床を見ながら答えた。
「そうですね……他人は全て自分のために存在している、とお考えの方でしょう」
「……ふむ?」
「自己中心的といえばありふれた表現になりますが、あそこまでの方はそういません。誰でも他人に何かしてもらえば多少の感謝なり罪悪感なりを感じますが、あの方は極端にそれが薄い。自分のために他者が使う労力について、何の疑念もないようです」
「……なるほど」
「恐らく産まれてからずっと周囲が自分のために尽くしてくれたのでしょう。良い人間とは言えませんが、環境がそうさせたのなら憐れではあります」
それを聞いた朱烈が床を叩いた。
「憐れなものかっ!子供ならまだしも、奴は三十も半ばだ!いい歳をした大人が『育った環境が悪かったから仕方がない』で責任を逃れられるか!」
許靖はその言葉に大きくうなずいた。それは全くその通りだ。
環境が人間を作るとしても、人は一人の人として世を生きていかなければならない。自らが選択し、その結果が自己や他人、社会に及ぼす影響に関して責任を取らされることになる。
仕方がないでは済まされないのだ。
部屋に入ってからずっと黙っていた小芳もめずらしく声を上げた。
「そうですよ。私はこの中で一番若いから言わせてもらいますけど、子供だって色々考えながら生きているんです。だから環境のせいだけにするのはおかしいですし、子供だって子供なりに結果に責任を持たされます」
そして、一息ついてからさらに言葉を重ねた。
「それに、周囲が尽くしてくれる環境が悪いんだったら、都の天子様なんて絶対にろくな人間になりませんよね。そんな方が漢の国を治められるわけありませんよね」
あどけない顔でものを言う小芳から、劉翊、朱烈、王順の三人は目をそらした。
少しの間沈黙が流れ、劉翊は大きくため息をついてから口を開いた。
「……彼女の言う通りだ」
朱烈は劉翊の言葉の意図に一瞬思いを巡らせたが、この際それは無視することにした。
「とにかく、仮に同情の余地があっても奴を罰しない理由などはない」
「そうだな。ところで許靖、韓儀をそれほど見極められるほど長い時間接触できたのか?訪問自体とても短時間だったが」
劉翊の質問には王順が神妙な面持ちで答えた。
「いえ、許靖様と韓儀様は廊下でぶつかっただけです。時間としては、ほんの数瞬でしょう」
「……なに?」
劉翊の眉がピクリと上がった。口元に手を当て考え込む。
許靖が瞳の奥の「天地」を見ている間、現実の時間よりも長い時間を過ごせることが多かった。
別の次元に触れているように、時間軸が歪むのだ。それで短時間であっても「天地」を吟味することが可能だった。
ただしその間「天地」を見ること以外は何もできないし、他の事を考えることもできない。便利といえば便利だったが、それは瞳の奥の「天地」を見るに限っての便利さだ。
「それほどの短時間で……月旦評の許靖、本物だったか……」
劉翊がその姿勢のまま黙ってしまったので、王順は花琳へ声をかけることにした。
「花琳、何か言いたそうだな。今ここで言えることなら言いなさい」
花琳は王順が部屋に戻ってからずっと責めるような視線を送っていた。
気づいてはいたが、娘のことなので後で話を聞くべきかと迷っていたのだ。
それに、言いたいことも大体の想像はつく。
「お父様はそのような男に賄賂を贈っていらっしゃるのですか」
やはり予想通りの話だった。
(太守様に聞かせるためにも、許靖様に聞かせるためにも、今ここで答えるのが良いか)
王順は商人らしい計算を働かせながら答えることにした。
「賄賂といっても、こちらから法にもとることをお願いするわけではない。これまで通り商売を続けることために必要な賄賂だ。断ると、色々と難癖をつけられて商売が滞る」
嘘は言っていない。
ただし実際には、お役所絡みで白黒つけがたい問題があった時には、ある程度のお目こぼしを得られるだろう。が、こちらから要求しなければその程度の利益だ。
だが、花琳は納得しないようだった。
「ですが、韓儀は賄賂をばらまくことによって不正を行う仲間を囲っているのでしょう?それは加担されているも同じではないですか?」
「そう思うか」
「はい」
王順は許靖の方へと向き直った。
「許靖様も同意見ですかな?」
自分に話を振られるとは思っていなかった許靖は多少の動揺を見せた。
そして、少し考えてから答えた。
「そうですね……賄賂は贈る側と収める側とがあって初めて成立します。もちろん最初に持ち掛けたほうの方が罪が重いとは思いますが、贈賄・収賄ともに罪であることは間違いないでしょう」
「模範解答ですな」
王順は目を閉じてうなずいた。
「でしたら、仮に賄賂の要求を断れば職がなくなると思えばいかがかな?それでも罪でしょうか?」
王順は許靖に向かって質問したのだが、花琳が口を挟んだ。
「罪を犯してまで職にしがみつくべきではないでしょう」
「なるほど、立派なことだ」
王順は口を挟まれたことを気にせず答えてやった。
「ならば……またこれは仮の話だが、お前が子を産み家庭を築いていたと仮定して、聞け。職を失うことでお前の子が飢え死ぬとしたら、どうだ?」
花琳の口は開きかかったが、何も言えずに固まった。
王順は言葉を重ねる。
「お前と、お前の愛する者との間にできた子を失うとしたら、どうだ?」
花琳はやはり答えられなかった。
「もちろん、すぐに生き死にの問題になるわけではないことが多いだろう。ただ、職を失うということは生きていく手段を失うということだ」
王順はこれまでに街で潰れてきた店々のことを思い出していた。
「次の職がすぐに見つかればいいが、その可否はかなりの部分が時代次第、社会次第なのだ。そして時代や社会などというものは、いつどうなるか分からないものだ。時代だから仕方ない、こういう社会だから仕方ないと飢えるわけにはいかない。なら人は、多少汚かろうが自らで生きる手段を実行するしかないのだよ」
特に王順は多くの使用人や取引業者を抱えている。店に何かあった時、全ての関係者が順調に次の生活へ移れるわけではないだろう。
実際にそのような例を幾人、幾店も見てきたのだ。
王順はあらためて許靖へと向き直った。
「許靖様。あなた方のように学問として道徳を学ばれている方には受け入れにくいかもしれませんが、学問上の道徳と人が生きるための道徳はまた違う。学問では国家や地域を治めるために、白黒正邪をはっきりつけなければならないことが多いでしょう。ですが、世の中とは白でもない黒でもない、正と邪が混沌としている、そんな所なのです」
その言葉は許靖に向けられたものだったが、その隣に立つ朱烈にも響くものがあった。朱烈は自分自身の潔癖なまでの正義感を思い、固い表情で床を見つめた。
しかし王順はあくまで許靖へ向けて言葉を続けた。
「そういった世の中で自分や大切な者が生きていくために稼ぐ、という事を、許靖様にはよくよく考えていただきたい」
それが許靖を娘の夫として店に迎え入れようとする父親の、何よりも言いたいことだった。
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