第十六話 つばさ
戦勝に沸くフレイズ。テウロン平原における歴史的圧勝に加え、極限的な危機に陥ったミベル峡谷の戦いにおいても、藩主と麾下軍団が無事に脱出できたのだ。【白鴉】と【蒼鷲】の勇名は各地に響きわたった。真王国フレイズ藩に二人の勇者在り! と。
その一方で、敗北者達は悲惨を極めた。謀略の限りを尽くしてようやく追い詰めたフレイズ藩主を取り逃がしたビード藩主ミンネアスルトはまだいい。しかし、完膚無きまでに叩かれて滅亡への道を辿った北方の【蛮族】。そして、それ以上に重態なのは、裏切り者のレッテルを貼られたアシン藩主キールコルツだった。アシン藩は他の七藩と領内の双方から容赦のない非難を浴び、崩壊の危機に晒されていく。
かくして【真王の血輪】は綻びた。
戦場から帰還したディオールは戦勝を祝う事もなく寝台に入っていた。連戦の疲労と、少なからぬ手傷によって消耗の極みにあったのだろう。残務をイザークに託すと、そのまま昏睡に陥ってしまったのだ。大いに慌てたイザークではあったが、命に別状はないという医師の見立てを受けて心底安堵していた。戦士として戦い抜いてきた強靱な生命力はディオールを丸二日ほどの休息で無事目覚めさせていた。
ディオールに十日遅れてフレイズに帰還した藩主ヴィダルモールはサティンとリィン、イザークを伴ってディオールの寝室を見舞った。
「今回の二人の働きはまことに見事なものだった。二人とも、約束以上の働きを示してくれた。フレイズ藩主として、儂個人として、礼を言う」
藩主は最大の敬意を以て、ディオールとイザークに謝辞を示した。
「私達からもお礼を言わせてもらいます。ディオール、イザーク。今回は本当にありがとうございました。貴方達がいなければこのフレイズは亡かったでしょう」
サティンも、フレイズ公女として父に従った。
「俺があそこにたどり着いたのは偶然だ。それほどのものではない。それよりも、イザークによく報いて欲しい」
「冗談じゃない。俺のは任務だ。自発的に行動していたディオールの方こそ、素晴らしいと思う」
二人とも互いに、あの夜のことは口にしなかった。それはもはや過去のことであり、触れるべき事ではなかった。互いの胸の内に在れば、それでいい。
「何を言う。二人の勇名はこのフレイズ、いや、真王国全土にまで鳴り響くであろう。謙遜する必要はない。ディオール殿が回復次第、勝利式典を行う。それまではゆっくりとしていて欲しい。これは命令ではないぞ。儂個人としての頼みだ。【蒼鷲】を使い潰したと噂されては、我らも困るからな」
主役の回復を待って、フレイズ挙げての戦勝式典が予定されている。きっと領中から祝福されることだろう。
「それは承知した」
「そうか、それは良かった。さあ、あまり長話をしても良くないであろう。我らは退散させていただく。クレール、ディオール殿について差し上げなさい。ただし、あまり話し込んで迷惑をかけぬようにな?」
ヴィダルモール達はサティンとディオールを残して去っていった。気を利かせたつもりらしい。
しばらくの沈黙の後、サティンが口を開いた。
「おかえりなさい。ディオール」
「……ただいま、で良いのか?」
それに静かに応えるディオール。
「良くないのかもね。ここは貴方の家じゃないから」
「……そうだな。だが、家はともかく、貴女に対しては『ただいま』だ。いいだろう?」
「そうね。おかえりなさい、ディオール。お疲れさまでした」
「ああ。今回はさすがに疲れた」
様々な事があった。あまりにも多く。
「では、私の家でしばらく鋭気を養って下さいな。精一杯のおもてなしをさせていただきますから」
「そうさせてもらうさ。……今回は……本当に疲れた」
ディオールは静かに目を閉じた。話しているうちにも、心身に蓄積された疲労が睡眠を求めてくる。
「眠ってもいいのよ? 本当は話したいことがたくさんあるけれど」
「すまないな。そうさせてもらおう」
「ええ、おやすみなさい。ディオール」
サティンはそう言いつつも、そのまま寝台の脇から離れようとはしなかった。
「あの二人はどうするつもりだと思う?」
「僕には解らないよ……ただ」
「ただ?」
「ただ、ディオールさんはここには残らないと思う」
「私に解るのは、サティンはここに残るってことだけよ」
「じゃあ?」
「じゃあ……じゃあ、どうするのかしらね?」
「こういった感情というものは、相手の顔色を窺ったり、互いの全てを理解しようとか考えては駄目なんだ。互いによくわからないことや、知らないことがあるからこそうまくいく。そうしないと……それぞれが穏やかに生きてきた場合には、互いがつまらなく見えてしまうし、それぞれが深刻な人生を歩んできた場合には、傷の舐め合いになる。
あの二人はそれがわかっていないんだ。人として、男と女として、一番基本的なことなのに。あの二人は……人を愛して、人から愛されるってことについては、まるで下手なんだ。相手に、自分に、甘えるということを知らないんだ。それは正しいことなのかもしれない。強くあるためには。でも……それでは駄目なんだ。あれほどまでに力強くて、優れていても、それだけでは幸せになんかなれはしない。……なんて悲しい事だ」
それから数日ほど経ったある夜、ヴィダルモールが一人でディオールの寝室を訪れてきた。
「ディオール殿。少し時間を頂けるか?」
十分な休息を取ったことでディオールの体力は相当に回復していた。大事を取っていまだ寝台に身を横たえてはいるが、そろそろ身体が鈍ってこようという頃合いだ。
「構わない。……俺もお伝えしたいことがある」
その返事を聞いて、ヴィダルモールが入ってきた。
「休息中のところをすまないな。儂個人として、そなたに話があるのでな」
ヴィダルモールはディオールの寝台の側の椅子に腰掛けると、紅紫の瞳を真っ直ぐにディオールに向けて話し始めた。それは、いつになく穏やかな口調だった。
「そなたには本当に感謝している。ここに辿り着くまで娘を守ってくれたこと。儂の命を救ってくれたこと。本当に感謝している」
「俺は、貴方に恩があった。あとはただの偶然となりゆき……それだけだ」
ヴィダルモールのそれと対照的な、ディオールの夜をそのまま取り込んだ様な漆黒の瞳が光を帯びる。そんなディオールを見て、ヴィダルモールの顔が笑みを浮かべた。常に見せる酷薄な笑みではない。
「ククク、そなたは10年前と全く変わっていない。あの時もそんなだったな。とにかく兵を貸せ、だが理由は言えないの一点張りだった。それで500もの精鋭を預けてしまう儂も儂だったがな」
さらに話を続けるヴィダルモール。その目が何か遠くのものを捉えた。
「儂は12年も昔に妻を亡くしてから、【北の餓狼】の名に相応しい所業を繰り返してきた。娘達は儂を許しはしまい」
「……そんなことはない。お二人とも真っ直ぐな、芯の強い女性だ。貴方無くして、そうはならなかっただろう」
ディオールはそう慰めたが、ヴィダルモールは首を横に振った。
「本当に素晴らしい娘達に育ってくれた。だが、それは妻とレイシュの功績だ。儂がそれを横取りしては、二人とも空の上で憤慨するであろうよ。……クレールはあれが望んだ姿に、リィンはまさしくあれの如き姿に。儂の入り込む隙間など、ありはしない」
「……」
「だから、儂は儂にできることをしたかった。娘達が幸せに生きていけるよう、この地上に少し手を加えようとした、ただそれだけのことだ」
そこで、ヴィダルモールは深いため息を吐いた。
「駄目だな。……儂の思考は昏い方向にしか働かなかった。結局、娘達には危険を負わせることしかできなかった。儂は、所詮、そこまでの男だったということなのだろう。あるいは、これが真王国の血の呪縛というものなのかもしれんな」
自分の血はあまりに濃かったのだと、ヴィダルモールは言う。
「それでも、リィンは自分の力で幸せを手に入れた。素晴らしいことだ。だから、継承権破棄を求められたときにも、儂は喜んで認めた。婿殿にもできうる限りのことをしてやるつもりだった。だというのに、儂の口がちょっとばかり軽かったせいで、それが婿殿とそなたの亀裂になってしまうところだったな。……儂の不徳の為すところだ。まことに、儂のする事は悪い方にしか働かぬ」
ヴィダルモールはディオールとイザークの間で問題が発生しかけたことは、既に知っていた。その結果も。
「だが、クレールは駄目だ。あれは幸せになるには不器用すぎるし、勘が良すぎる。儂が何を言ったところで無駄だ。あれはそういう娘だからな。だというのに、その娘が、珍しく我が儘を言い出したかと思ったら、とんでもないことをしでかしおった。だからな、儂はせめて最後にもう一つ、あれの我が儘を通してやるつもりだった」
遠い目でヴィダルモールが語る。ディオールは黙して語らない。
「だが、それも駄目だったよ。そなたは強すぎる。儂のような小人が何をしたところで、抗し得るはずもない。そなたは……そなたという男は、一人でこの大空を翔けていけるほどに強いのだ。それは酷く悲しいことなのだがな」
ヴィダルモールはそこで言葉を切った。そして、ディオールの顔を見つめ、強い決心を抱いて言った。
「ディオール殿。儂との契約を更新して欲しい」
「……どのように?」
ディオールには、ヴィダルモールが何と言うか解っていたが、それでもそう言った。
「クレールを……娘を守れ。そなたの全身全霊を、全てを賭けて。期間は無期限。報酬は娘だ。あれを連れて放浪するも良し、そなたが藩主に取って代わるも良し。好きにして良い。娘を……あれに幸せを与えて欲しい。あれは、そなたとともに在ってこそなのだ。このフレイズごときがどうなろうと、儂の知ったことではないのだ」
対して、ディオールの返答は決まっていた。
「それはできない」
拒否。既に決めていたことだ。ずっと以前に。
「なぜだ? 儂とて、そなたの過去にあったことは知っている。だが、もう次の幸せを手に入れても良いはずだ。あれはそなたを好いておる。……愛していると言って良かろう。あれとともに幸せを築いてはくれぬのか?」
その言葉にも、ディオールは首を縦に振らない。
「……やはり、儂はあの峡谷で卑劣漢どもの手にかかって死ぬべきだった。そうすれば、きっと、そなたはここに残ったであろうに。そなたはそういう男だ。儂が死んでおれば、あれをそなたに託していけたのに。……儂にはなにもできないのか?」
ヴィダルモールががっくりと項垂れた。その精気に満ちていた顔が、一気に十歳ほど歳をとった風にも見える。
「なぜ、それほどまでに事を急ぐ? 貴方はまだ若い。貴方なら、これからも娘を守れることだろう」
ディオールのその問いに、ヴィダルモールは絶望と共に言葉を吐き出した。
「儂は死病だ。……あと一年も保つまい。儂には時間がないのだ」
理由。
「儂が死ねばどうなる? あれは時間さえあれば、きっと素晴らしい藩主になるだろう。だが、この真王国はもう限界なのだ。このたびのアシンやビードに限ったことではない。リーモスも、クォールも、タージスも、次はどこから崩れるのか、もはや予測もつかぬ」
強固に見える真王国も、300年の時を経て、崩れ行きつつあるのだと。
「真王国には、これから大きな嵐が来る。この地は親戚どもに食い尽くされ、あれも無事では済むまい。儂が在る間に、儂の代わりをあれに与えたいのだ。それは、そなたしかいない! ……これは、それほどに贅沢な望みなのか?」
それでもなお、ディオールの意志は変わらなかった。
「……すまない。俺には貴方の代わりはできない」
「馬鹿な……あれがどうなっても良いというのか?! そなたはクレールを好いてはおらんのか? 頼む。少しでもあれの事が気になるのなら……あれを守ってくれ。娘を愛してやってくれ」
ヴィダルモールが寝台にすがりつくように言う。その姿からは【北の餓狼】などとはまるで感じられない。一人の、娘の将来を心配する父親がいるだけだ。
しかし、なおもディオールは静かに首を横に振った。
「なぜだ……なぜだテス・ディオール! あれの血の濃さは、そなたにもわかっていよう。まさしく、儂達が300年の間に凝らせた血、【血輪】という名の鎖に繋がれているのだと、そなたには見えていよう。それでも、あれを、クレールを見殺しにするというのか! 頼む、そなたであれば、その血を溶かすこともできるであろう! あれに人並みの幸せを与えるだけの力が、そなたにはあるはずなのに……! なぜだ……なぜだ……」
ヴィダルモールの魂の慟哭も、空を行く大鷲には――届かない。
「俺には……俺は幸せになる権利など無いのだ。幸せにするだけの力も」
ディオールは呟くようにそう言った。全てを諦めたような顔で。いや、事実、諦めているのだろう。
その言葉を聞いたヴィダルモールが立ち上がって剣を抜いた。寝台のディオールに突きつける。迸る、【北の餓狼】の殺意。
「ならば、お前を殺すまで。そうすれば、あれは今度こそ、ここには戻ってこない。それならば、そのほうが良い。幸せにはなれぬが、不幸にもならずに済む」
ディオールは動じる風もない。黒い瞳が悲しみに彩られる。抵抗しようと思えば、できるだろう。しかし、それを試すことすらしない。
「そうしてくれ。その方が俺も……俺はそれこそを望んでいるのかもしれん」
それを聞いたヴィダルモールの方が驚いた。目の前の男が、全く理解できないでいる。
「なぜだ!? なぜ、そなたほどの男が死を望む? なぜ、それほどの悲しみに満ちている? なぜ、それほど残酷になれる? なぜ、それほどまでに何かを残すことを嫌う? そなたは何処から来て、何処へ行く? そなたは一体何者なのだ!? 答えよ!」
そうしてディオールは言葉短く答えた。
「それを聞く権利……いや、義務があるのは、この地上に一人だけだ」
ディオールの言葉を受けて、ヴィダルモールは剣を収めた。全てを悟った、あるいは諦めた様な穏やかな顔で。
「ならば、その者に告げよ。そなたの意志を、想いを……そして真実を」
そして。
「さらばだ。テス・ディオール」
サティンは歌う。愛の歌。歓びの歌。悲しみの歌。――別れの歌。しばし歌い続けた。月明かりに白銀が輝く。星々が歌姫を祝福する。
「お話というのは……なにかしら?」
一連の楽曲を歌い終わったサティンは部屋を振り返った。
そこに立つのは、蒼を纏った長身の男。黒い髪と黒い瞳。地の果てまで射抜くようなその視線は鷲を思わせた。かつて、そして今、【蒼鷲】【群青の戦士】と謳われた、地上最強の戦士。海の上で出会い、異境の地で共にあり、何度も命を救ってくれた――――愛しい男。
「……貴女に、真実を伝えに来た」
隠していたこと。嘘を吐いていたこと。秘めた想い。
「以前、言ったわね。私に、それを聞く義務が生じた、ということかしら?」
かつて、二人はそう約束した。
「そうだ」
ディオールは短く応えた。約束を、果たしに来たのだと。
「ならば、私に聞かせて頂戴。私は義務を遂行するから」
もはや、サティンには悲しみはない。穏やかな寂寥があるだけだ。
「カイムで話したことを覚えているか? 俺は……俺は嘘を吐いていた」
サティンは知っていた。そんなことは、ずっと昔に。
「知ってるわ。貴方の義姉が亡くなって、その仇と子供を捜していること。……大嘘吐き。私は嘘吐きは嫌いよ」
「知っていたか、やはり」
予想できた事だ。それを知っていた事も、それを知っている事を隠していた事も。
「私は楽師なのよ? 本当の【群青の戦士の伝説】は、戦いから帰った【群青の戦士】が、義姉と呼んで敬愛している女性と結ばれる所で終わるの。英雄譚としては蛇足感があるからかしらね、普通はそこまで歌わないけれど、原本ではそうなってるの」
――義姉の子。それはディオールの子に他ならない。
「なぜ……隠すの? 貴方の奥様とお子様なんでしょう? 何を恥じているのよ? 誇りなさいよ。俺は妻子の仇を追っているんだって! なぜ、最初から私にそう言わないの!? 私をなんだと思っているの!?」
サティンはずっと堪えていた怒りを露わにした。しかしそのサティンの言葉を聞いたディオールは、その場に崩れ落ちんばかりに狼狽えた。がたがたと震えて、子供のように首を左右に振る。普段の彼からは想像することさえできない、弱々しい声で言った。
「違う、違うんだ、サティン。それは違うんだ」
ディオールは違うとしか言わない。
「何が違うというのよ!? 私の、私の中にズケズケと入ってきて、いまさら!」
サティンは爆発したかった。目の前の男を罵倒して、はり倒してやりたかった。口を掴んで、上下に引き裂いてやりたかった。
「違うんだ。……義姉じゃないんだ」
それでもなお、ディオールは違うのだと、違うとだけ、か細い声で吐き出した。
「え……?」
「義姉じゃないんだ、サティン。俺の妻は義姉なんかじゃないんだ」
「じゃあ、何だというの?」
サティンは、この期に及んでディオールが嘘を言っているとは思わなかった。じっとディオールの言葉を待つ。
そのディオールは、なおもがたがたと震える身体を押さえ込んで、ぜいぜいと吐き出す息を必死に整えて、やっと言った。
「姉なんだ。……生き別れていた、実の、双子の姉なんだ」
世界の全てが凍った。その事実はサティンを打ちのめすのに十分だった。姉弟婚。姉弟姦。呪われた愛。呪われた子。呪われた言葉だけが世界を満たした。
「う……うそ。嘘でしょう? それも嘘なんでしょう?」
サティンにはそれしか言えなかった。あまりに巨大な事実。想像することさえできなかった、あまりに無惨な真実。
ディオールはそれを告げてしまうと、淡々と説明を始めた。常の彼に漲っていた生気が、まったく感じられなくなった。まるで、抜け殻のようだ。黒い瞳は悲しみによって濁っていた。
「……俺はどこで生まれたのかも、父の顔も母の顔も知らない。ただ、幼いころから義父に連れられて旅をした。そのうち、確か12歳くらいのころ、義父に連れられてファルファイファに入った。そこで、セル・セリスという娘に出会った。彼女は別の女性に連れられていた。義父はその女性には決して会おうとはしなかったが、実は、その女性は自分の妻なのだと語った。訳あって、決して会うことができないのだとも。だから、俺達は互いに義姉弟と呼び合った。二人ともそれが自然だと思ったからだ。今思えば……自然過ぎたのだな」
遠い日の記憶。しかし、つい先日のことの様に思われた。無知で、無力で、無垢で。幸せだった時間。
「やがて、義父が死んだ。俺は彼女と生活を共にする内に、彼女に惹かれた。だが、彼女は決して受け入れようとはしなかった。……おそらく……知っていたんだな」
セル・セリスは、互いが実の姉弟だと知っていたのだろう。どうやってかは、もはや永遠に解らない。
「俺はある時、こう言った。『俺が貴女を超えたら、俺と結婚してくれ』と。彼女は『できたらね』とだけ言った」
彼女は知っていたのだから。互いだけが、地上で唯一、互いを愛する権利の無い者同士だということを。その愛は、決して成就することはないのだという事を。
「……それで?」
「【大戦】は、俺にとって機会だった。だが、ファルファイファの一部将に過ぎない俺には何もできなかった。俺はここフレイズを訪れ、兵を借りた。そして、【群青の戦士】になった」
恩というのは、そういう事だ。
「テス・ディオールはセル・セリスを超えた。超えてしまった、と言うべきなのかもしれないな」
静寂。風の音だけが鳴る。開け放たれたままの窓から一陣の風が吹き込んで、サティンの銀の髪を浮かび上がらせた。
【群青の戦士】――罪の証。
「やがて、子ができた。だが、彼女は死んだ。……我が子に胎を破られて」
自らの血の海に沈むセル・セリス。これでよかった、でも少しだけ残念だ、そうとだけ告げて、息絶えた。かつて愛した女。罪を知りながら、自分を愛して、与えてくれた女。自らの滅びを知っていながら、僅かな幸福を恵み与えてくれたのだ。
「その子は義父の妻だという女に連れ去られた。俺は後を追って、訳も分からずに【ジルワ・ノエル・クリク・ファーン】で、その女に斬りつけた。剣と俺は一撃で砕かれた。そこで初めて知った。その女は【魔人】だったのだと」
戦場で数年ぶりに出会った【魔人】。あの女は何者なのだろう? 全てを知っていたのだろうか? 彼女はセル・セリスの何だったのだろう? そして、結局、セル・セリスとはいったい何者だったのだろう?
「だから、俺は追っているんだ。その女を、殺すために。セルの剣、【星】剣の【ミエグ・クルタ・ジーン・ユン】で。我が子を取り返すために」
そこまで言っておいて、ディオールは頭を抱えて呻いた。込み上げてきた反吐を必死で飲み込んで、ようやっと言葉を吐き出した。
「ああ、そうだ。そんなのは綺麗事だ。あの女は関係ない。妻の仇なんかじゃない。腑抜けの俺を嘲笑うのは当然だ。あの子のことだって、もう8年も経つんだ、諦めだってついている。……ならば俺はどうすればいい。何をすればいい。俺は戦うことしか知らない。俺はいったい誰と戦えばいいんだ」
弱々しく自分の胸を掻きむしるディオール。いっそ、この胸を破ってそれで全てが済むというのなら、どれほど楽なことだろう。
「……これで全部だ。俺の隠していたことは、これで全部だ。……俺には……幸せになる権利も、人を幸せにするだけの力もないんだ。俺には何をすればいいのかもわかっていないんだ」
ディオールは全てを語り終えた。自らの罪を。
サティンは何も言わなかった。目の前の男はいったい何なのだろう。何を求め、何を捜しているのだろう? そして。
「貴方は……それで、私に何を望むの?」
沈黙。
「貴方は……私に何をしろというの? 私はどうすればいいの? 貴方の罪と悲しみを知って、貴方を諦めればいいの? それとも、貴方の全てを赦して、受け入れて、甘い愛を語ればいいの?」
こんなものが、こんな酷い寓話のような物語が、自分の求めていた真相だというのだ。自分でも何を言っているのか、解らなくなってきた。泣き声になっても、どうしようもない。城中に響きわたるほどの大声で叫んだ。
「私はどっちもお断りよ!!!!!!!!」
(イヤだ嫌だ厭だいやだ! 私はどちらも嫌! 私は認めない!)
「私は嫌! なぜ? なぜ、私にそんなことを教えるの? なんで、そんな顔をするの? 私に……なんで、私に近付いたの!?」
目の前の男に叩き付けるように叫ぶ。なぜ、あの時に見捨ててくれなかったの? と。
「……すまない」
ディオールは視線を合わせることさえしなかった。それを見たサティンが、さらに激昂する。
「謝らないでよ! いやよ、私は嫌。私は、そんなことを聞いたくらいで……何があっても諦めない。貴方はもう私の一部なのよ? だから、諦めない。貴方を放したりしない。私は、私は……自分を否定したりはしない!」
サティンの色の違う双眸が燃え上がる。すべてを焼き払うほどの白炎をあげて。そうして、胸を襲う苦悶に耐えかねて、嗚咽を漏らし始めた。
「なぜ? なぜ、私にそんなことを教えたの? 貴方は秘密を最後まで隠し通して、私を愛してくれれば、それで良かったのよ。かつて、セル・セリスがそうしたように。……なんで、そうしなかったの? 私のことが嫌いなの? 破滅させてやりたいほど、私が憎いの?」
「そんな事は……ない、本当なんだ。俺は、多分、貴女を、愛しているんだ。だから……」
ディオールの言葉は、あまりに弱々しい言い訳にしかならなかった。
「だから……なら、なぜ、私に教えたの?」
サティンは全てを否定したかった。この男は、地上最強の存在でも、生きた伝説でもなかった。ただの、一人の哀れな男にすぎなかったのだ。
「……誰よ? 貴方のことを強い人だなんて言ったのは。貴方ほど弱い人は他にいないじゃないの。貴方は赦されたかっただけなのよ。そんなことはあるはず無いのに。貴方の罪は解かれることなんて無いのに。貴方は、私に罪を着せて、自分だけ楽になろうとしたのよ」
「……そうなのかもしれない。だが……」
ディオールが何か言いかけたのをサティンが制した。
「もう、嫌! 何も言わないで。お願いよ。もう、何も言わなくて良いから。……私を愛してよ。私に愛を頂戴よ。もう言葉は十分。……貴方を頂戴」
サティンはそこまで言ってしまうと、逆に落ち着いてしまった。恐ろしく冷静になっている自分に気が付く。静かに、だが力強く言う。永遠の誓い。サティンは、永遠に自分を縛るであろう誓いを口にしてしまった。
「私は貴方を許さない。だけれど、貴方を裁くこともできない。だから、貴方は私と共に在ることはできない。それに、貴方は自分を許すことができない。貴方の罪は解かれることなんてない。……でもね……私はね、貴方と共に罰を受けることはできるのよ? 私にできるのは、私がしたいのは、それだけ」
サティンはとうとう自分を抑えきれなくなった。ディオールの広い胸に飛び込む。ディオールは少しだけ躊躇った後、力強く抱きしめた。二人はしばし無言で抱き合った。
「サティン……いいのか?」
返事を待たず唇を奪う。永い接吻。愛の交歓。
「私を愛してる?」
「ああ、愛している」
「セル・セリスよりも?」
「勿論だ。お前を誰よりも愛している」
「本当に、貴方は嘘が下手なのね。……でも、それでいいの。やっと……気が付いたのね。8年もかかって。今までの貴方は子供だったのよ。鷲の雛鳥だったの。今、巣から羽ばたくの」
「サティン……」
「ああ……ディオール」
さらに力強く抱き合う二人。そうすることで、互いが一つになってしまえれば、こんな悲しみからは解放されるのだろうにと、望んで。
「一つだけ、一つだけ約束して」
「なんだ? お前の言うことなら、何でも約束してやる。俺は決して約束を破らない」
「……私が本当の危機に晒された時。私の最期の瞬間に、きっと私を助けに来て。今までそうしてきたように、私を……私を守って。私は、待ってるから」
「解った。お前の最期の時には必ず、お前の元に駆けつけて、お前を救ってみせる。約束する。……俺はお前を必ず守る」
「ああ……ディオール。私は……私は待ってるから……貴方を。貴方が帰ってくるのを待ってるから……」
(私は……私は翼が欲しかった。鷲に負けない、鷲の飛翔に遅れない、力強い翼が。そんな翼があれば、貴方と共に行けるのに。だけど……私の、小さな歌い鳥の翼は弱すぎるの。大空を飛翔するには、小さすぎるの。だから、共に行けないの。……だから。だから私は待つ。貴方が帰ってくるのを待つの。私にできるのは、巣を暖めておくことだけ。それでいい。だって、遠い空を駆けていても、鷲は確かに私のものなのだから。私だけの【蒼鷲】なのだから)
それからわずかに一週間。二人はその間、愛を交わし続けた。今までの分を取り返そうとばかりに、互いを求め合った。だが、それも終幕を迎えようとしている。
フレイズにおいて、【北海戦役】の戦勝式典が盛大に行われた。それが終わってしまえば、二人の別れの時がやって来る。皆がディオールを城門まで見送りに来た。
「行ってしまうのか? 残念だが……仕方がないな」
と、リィン。
「お前とはもう少し遊んでいたかったんだがな。落ち着いたら、また会おう」
と、イザーク。
「我がフレイズはいつ如何なる時でもそなたの力になる。ゆめゆめ、忘れることのないように」
フレイズ藩主ヴィダルモールが、自らの身体のことなどおくびにも出さずに言う。
「私は一緒に行くよ? 便り一つよこさない薄情な義兄さん達を捜さなきゃ。手伝ってくれるんでしょ?」
これはティフ。
「僕も置いていかないで下さいよ? 僕はまだ、貴方から学ぶことが残っているんですから。【支払い】を踏み倒されては困ります」
テリウス。
「さようなら。私の大事な人。私だけの【蒼鷲】。……約束は覚えてるかしら?」
サティンが言う。そこに後悔や悲しみはない。美しい瞳に満ちるのは、強い決意。
「勿論だ。俺の、俺だけの【白夜の歌姫】。……また会おう、とは言わん」
――それは貴女の最期の時だから。
「……さらばだ」
「これで良かったんですか? 本当に?」
テリウスがそう言った。
「ああ、これで……良かったんだ」
「後悔してないの?」
ティフも。
「していない。……さあ、行くぞ」
「クレール。本当によいのか? フレイズのことなら、気にすることはない。あの男を追って、共に行っても構わぬのだぞ?」
父の言葉にも、サティンは首を左右に振った。
「いいえ。私はここにいるわ。だって、ここはあの人の家、故郷……帰るべき場所だから。だから、私はここにいるわ。だって、あの人は、私のものなのだから」
サティンは愛しい男が去った道を、藤色の双眸で見つめ続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます