第十五話 群青の空
フレイズの防衛軍と【蛮族】の侵攻軍は、フレイズの北西、テウロン平原で向かい合う形になった。フレイズの防衛軍は後備えとして一部を後方に残して約6,500。【蛮族】は戦力の大部分、およそ9,000名をこの決戦のために集中させた。
数の上では【蛮族】がやや上回るが、フレイズ軍の優れた装備と、強力無比な重騎兵の存在を考慮すれば、戦力としては互角に近い。加えて、フレイズ軍には二人の勇名鳴り響く存在があった。
ただ藩主軍が戻るまで防衛する、それだけならば、フレイズの巨大城塞を以て籠城戦とし、時間を稼ぎつつ迎撃すればよいのだが、イザークには別の思惑があった。
【蛮族】軍には土地勘がない。本格的な侵攻が始まる以前から侵入していた斥候を捕らえ、あるいはあえて見逃し、このテウロン平原における決戦へと誘導した。フレイズ軍の主力は重騎馬であり、平原戦でこそ真価を発揮する。真王国最強を謳われる野戦軍団をもって一気に撃滅する構えだ。
「さすがはフレイズの主軍、練度は申し分ないな」
「これほどの軍勢を目の前にして『申し分ない』などと、その発言は傲慢とも取れますよ」
「む、そうだな……いやなに、あの連中が足を引っ張らなければ良いなと思っているだけだ」
ここに及んで少々の問題も発生していた。新参のイザークの指揮を拒否する軍団が現れたのだ。藩主の統帥権を確保するためには効果的な軍団構成ではあるが、軍団ごとのプライドの高さが良くない方面に向くこともあるということだろう。論を説いてひとまず納得させたが、この手の感情を甘く見ることはできない。
「ひとまず今回を乗り越えれば、ああいった連中の態度も変わってくるだろう」
現在のフレイズ軍の強さを維持しつつ、軍全体の意識と組織を改変するのは難しかろう。じっくりやるしかない。
一方、ディオールは左翼で独立した騎馬機動部隊450を指揮する。イザークが、ディオールは騎馬突撃による突破戦をもっとも得意とする事を知っていたことから、最も重要な位置に配備された。
現在、そのディオールは【群青の戦士】として真蒼の鎧を着込んでいた。サティン達の提案によるものだ。声に押されて着込んでみたものの、本人にしてみれば、少々演出過剰と思えなくもない。遠目にも目立つ派手な鎧は気恥ずかしくもある。
「誉れ高き【群青の戦士】殿と轡を並べられるとは、身に余る光栄であります!」
まだ若い兵の一人がそんなことを言う。こんな演出で兵達が奮い立ち、一人でも多くが生き残る可能性が上がるというのであれば、まあ良しとしよう。
両軍とも士気は高いが、フレイズ軍のそれがやや上回る。母国を守ろうという人心と、二人の勇者の名声によるところが大きい。
それら各要素を総合しての下馬評としては、フレイズ軍がやや有利と見ても良いだろう。だが、【蛮族】とて本気でフレイズ藩の中枢を侵略するつもりがあるとは限らない。最初から時間稼ぎ、牽制でしかない可能性もあった。両軍併せて15,000名もの人数が参加するこの戦いとて、あくまで広域戦争における一戦局に過ぎないのだ。
開戦は払暁となった。弩と長弓、さらに投げ槍と手斧とでしばらく撃ち合ったものの決定打にならず、そのまま互いの先頭部隊同士が激突した。
その様子を見ながら、ディオールは事前に定めた作戦通りに突破戦を開始した。
「突撃! 余計なものには目もくれるな! 敵右翼を突破して後背に回る!」
イザークは強力な騎兵による片翼突破からの包囲戦術を選択した。奇略奇策というわけでもなく、数ある選択肢から一番勝算の高いものを選択したに過ぎない。ディオールが率いる騎兵部隊の突撃能力は群を抜いているのだ。このテウロン平原での正面決戦に持ち込んだ時点で、少なくとも負けることは無いとさえ考えていた。
ディオールは自ら先頭に立って突撃する。普段の彼が使用している【星】剣【ミエグ・クルタ・ジーン・ユン】は使用しない。軽すぎて馬上の有利を生かすことができなくなるだけでなく、乱戦の中で破損しかねないからだ。大型の馬上槍を使用することにして、剣はイザークの本陣に預けてきた。
しかし、そのようなことは彼の戦闘力にいささかの影響を与えた様子もなかった。ディオール率いる騎兵部隊は、素晴らしい速度で突破を果たそうとしていた。10年間もの間、前線を離れていたとは思えないほどの働きだった。そうはさせじと【蛮族】の騎兵が側面から迫ったものの、まったく歯が立たずに跳ね返された。
「やるな【蒼鷲】。よし、こっちも予定通り動け!」
イザークも自分の麾下に指示を出すのを忘れない。ディオール達を追うように左翼を前進させ、右翼はゆっくりと後退させて本隊に近接させる。【蛮族】軍は、手薄なフレイズ軍右翼側に、自然と偏っていってしまう。一時、フレイズ軍の右翼の一部軍団の命令違反による分断の危機があったものの、本陣からの横撃によって素早く立て直し、自軍の再集結に成功した。
「謝罪も叱責も後でいい! 今は戦線を支えろ!」
無駄な損害が生じたが、この程度は予想の範疇だ。そもそも、一切の想定外も生じずに、一人も死なないで済む戦争などというものは存在しないのだ。
左翼のディオールも敵中突破に成功していた。しつこく絡んできていた【蛮族】の軽騎兵を蹴散らして、さらに前進、いったん敵の後背に抜ける。
形勢はまだ互角に見えるが、当初からの思惑通りに推移しているという点で、フレイズ軍が圧倒している。蛮族軍は個々の戦闘力は高いものの、全体の意志統制に欠ける面があった。これでは、【白鴉】に敵するところではない。
一方、サティン達留守番組にも事件が発生していた。この戦時下で入出城を規制しているにも関わらず、不意の来客――いや、侵入者があったのだ。謎の白衣の男だ。
「貴様は何者だ? 近衛兵は何をしている!」
リィンが叫ぶ。なんという失態か、近衛兵達はこの侵入者に気付いていない。
「大変なご無礼、誠に失礼致します。私は故あって名乗るわけにもいきませぬが、貴女達の敵ではないことだけは保証致しましょう」
男の白すぎるほど白い無表情な顔面に、いかにも作ったようなぎこちない笑みが浮かぶ。
「なめるな……去れ! さもなくば殺す」
リィンがなおも威嚇する。強烈な敵意を放つ。そんな言い訳を信じるほど、二人ともお人好しではない。
「そういきり立つことはありますまい。ふふふ、私はあるお方から、貴女達には手出し無用ときつく言われておりまして。さもなくば、八つ裂きにされてしまうのですよ。今回はご挨拶に伺っただけでございます」
白衣の男は礼儀正しく跪き頭を垂れた。それでも、リィンはその男を許さなかった。細刀を手にその男に近付き、首に当てた。サティンもそれを止めようとはしない。
「私は去れと言った。死にたいか?」
威圧に満ちた声でそう言う。その翠の双眸が激しく燃える。単なる脅しでは有り得ない。だが、それでも男は動じた様子もなかった。顔を上げて、二人をじっと見つめる。
「死ぬ? 私はそのようなことを恐れておりませぬとも」
男は動じない。未だに近衛達も来ない。それでリィンは確信した。
――この男は人外だ。
細刀を握る手が汗ばむ。もし自分一人だったなら、幻覚か妄想かと考えただろう。それほどまでに実在性が感じられない。こんなもので首を落としたところで、それで絶命するような輩ではないだろう。それでもリィンは速やかに覚悟を決めた。
「ならば死ねっ」
リィンは男の首から上を吹き飛ばす勢いで細刀を振るったが、それは空振りに終わった。男はその場から一歩も動かなかった。そのままの姿勢で、男の首がぐにゃりと妙な方向に曲がって、斬撃を避けたのだ。返す刀でもう一撃を加えたが、やはり軟体生物じみた動きで躱された。
「……っ、貴様っ」
なまじ人型をしている分、その奇怪な動きに嫌悪感を抱いて、さすがのリィンも後じさった。ぬるりとした嫌な汗が額から垂れる。
しかし男は反撃するでもなく、なおも無表情で二人を見つめていた。しばらくそうしていたが、やがて満足したのか、ぎこちない笑みを浮かべて言った。
「……ですが、貴女様はご機嫌斜めなご様子。今回は出直すと致しましょう。また、いずれ」
男はゆっくりと立ち上がって出口から消えた。やはり、兵士達の注意を引いたわけでもない。サティンとリィンの二人にしか感知できていなかったのかもしれない。一体、どんな手段を採ったなら、そんな真似ができるのだろう。
「ううっ、感触が残っている気がする……気持ち悪い」
実際には斬撃はかすりもしていないのだが、まるで巨大なナメクジを素手で撫で回したような感覚に襲われて、リィンは堪らず細刀を取り落とした。
「くそ……何者なんだ? あの男。それに、何のために来た? どうやってここに入ってきた? ……姉上はどう思う?」
リィンの疑問はもっともだ。あの白衣の男はこちらを散々騒がしておいて、何をするでもなく去っていったのだ。訳が分からない。
二人の争いを黙って見ていたサティンはしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「私にも解らないわ。……ただ、私達を観察していた様な気がするの」
「観察?」
「そう。あの人は私達を観察して、値踏みしていた」
とぼけたことを言いながら、それでもじっと二人を観察していた。否、きっと観察ではなくて。
「私達を診ていたのね。お医者様がそうするみたいに。なにを……診ていたのかしら」
開戦から数時間とかからずに、ディオール率いる騎兵部隊は敵後方に到達した。その頃にはイザークの指揮によって、さらに右翼を退き、左翼を前進させることによって、フレイズ軍と【蛮族】軍の位置がほぼ入れ替わった形になっていた。ディオール隊の後背から後詰めを廻し、補助することも忘れない。
「よし、何とかなったな」
奇妙な戦況ではある。片翼突破に成功した以上、後衛を蹂躙し、半包囲からの撃滅を図るのが定石だ。それをイザークはわざわざ自陣地を放棄するようにして、敵味方の位置を入れ替えたのだ。作戦を理解出来なかった一部の指揮官が命令違反を犯したのも無理からぬことだったのかもしれない。
前線のディオールに伝令が届いた。敵軍の後衛に構うなという指令だ。
「了解した。よし、あと一息だ。続け!」
本来あり得ない指令を受けたディオールだが、異論を唱えるわけでもなく指示に従って、部下と共に移動を始める。これは開戦前からの予定通りの指令なのだ。指令通りに、敵の後衛に構わず、戦場の反対側を目指す。
――【蛮族】との争いは真王国にとっての宿痾と化している。真王国の藩主達は、自らの支配領域の外から侵入し、辺境を荒らし回る【蛮族】に手を焼いてきた。
討伐のために軍を差し向けて一戦を挑んでみても、【蛮族】達は不利を悟ると一目散に逃散してしまう。それを追撃して【蛮族】達の土地に逆侵攻しても利益が無い。価値が無い土地だからこそ、真王国の支配領域外なのだ。結局、侵入者達を追い散らして、それでよしと満足するしかないというのが真王国側の事情だった。
そうして、しばらくして勢いを取り戻した【蛮族】による侵攻に脅かされる。そんなことをこの300年近くもの間、繰り返してきたのだ。では、この病的とも言える関係を断ち切る方法があるとすれば。
午後になる頃には、ほぼ完全にフレイズ軍と【蛮族】軍との位置を入れ替え終わった。そうして、フレイズ軍は元自陣地に向けて敵を押し始めた。
奇妙な戦況を見て、【蛮族】軍にも動揺が生じていた。順調に敵の右翼を押し込んでいるつもりでいたが、旋回するようにしてするすると移動していく敵に、勢いを躱されてしまった。歯噛みしながらも体勢を整えて、敵を追おうとしたところで、【蛮族】の戦士達の一部はついに自分達がおかれた状況を理解した。
前方には切り立った崖があるだけだったのだ。フレイズ軍陣地の後方には崖が存在し、それは巧妙に隠されていたのだ。決して巨大なものではない。しかし転落すれば無事では済まない。軽傷で済んだとしても、上から弓矢で射かけられ、さらに追い落とされてくる味方の身体の下敷きにされるだろう。
地形という城壁に行く手を阻まれ、そこにフレイズ軍から圧力をかけられる。今度は旋回などしない。正面の戦闘幅を大きく取って、ぐいぐいと押し込んでくる。自分達が罠に陥れられたことに気が付いた【蛮族】の戦士達は危機を悟り、包囲が完成していない左翼側への脱出を試みた。
「突撃!」
そこに戦場の反対側まで迂回してきていたディオールが麾下の騎兵と共に突撃を敢行した。逃げ腰になった、まさにその瞬間に重騎兵の突撃を受けた【蛮族】軍の左翼は崩壊。完全に逃げ道を失った。
ティフはフレイズの書庫で調べものをしていた。書庫はカイムの家にあったものと比べて遥かに蔵書数が多く、しかも、広かった。目的の本を探すだけでも一苦労だ。
「どうだい? なにかわかったかい?」
ティフが必死になって本を読んでいるのを、訓練の合間の休憩がてらテリウスが手伝っていた。
テリウスの記憶能力を持ってすれば、あらかたの本は読めてしまうが、さすがに【式】関係は難しい。【式】とその前提となる数式や諸法則についての基礎知識が足りないのだ。時間をかけて取り組めば、ある程度は理解できない事もない。しかし、今はティフの手伝いに徹していた。それもまた楽しかった。
「ふう。……だめ、少し休憩にしましょ」
ティフが顔を上げた。もの凄い勢いで読み進めただけに、かなり疲れている。目頭を軽く押さえる。
「お疲れさま。お茶を入れて貰ってきたよ。首尾はどうだい?」
「うん、まあ、少しは。……先生は何を考えてたんだろって」
ティフは少ししょげて言った。
「先生は私達に何を隠したかったのかなって思うのよ」
「どういうことだい?」
テリウスはティフの話を聞いてみることにした。自分も知りたい事が沢山ある。
「えーと、例えば……前にサリアさんって人に教えて貰った、世界の捉え方って話はしたよね?」
「うん。覚えてるけど。この地上は【陽】【月】【星】の三つの柱で支えられているって話だろう?」
真王国に向かう船上で、テリウスはその話をティフから聞いていた。初めて聞く話だったが、興味深い話だったので、テリウスにも印象深く記憶されている。
「そうそう、その話。そのこと、どう思う? 信憑性とか」
「うーん……面白いと思うし、色々と辻褄が合うと思う。本当に正しいかどうかはわからないけれど、真理の一面は突いてると思うよ」
自分の正直な感想を述べる。ティフもその意見に納得顔だ。
「そうだよね。ここには、そういった事の書いてある本が結構あったんだよ」
「それなりに有名な説だって事?」
「そういうことだと思う。著者も時代も色々だし。だけどね、私達はサリアさんから話を聞くまで全然知らなかったのよ? 義兄さんも」
「つまり。先生が隠していたって言いたいのかい?」
カイムに居た頃は、ティフは先生が用意した書籍にしか目を通していなかった。先生がティフ達に与えていた知識が大きく偏っていたということになる。そこに、なんらかの思惑を感じずにはいられない。
「うん。少なくとも、カイムの家にあった本には無かったよ。これだけ有名なら、先生が知らないはず無いのに、一回もそんな話は聞かなかったの」
ティフがなんでだろう? と首を傾げる。意識的に避けていたのだとしか思えない。
「……他にも、いろいろとね。サリアさんが『あんた達は何にも知らないんだね』って言ってた訳が分かった気がするなあ」
「ふうん。じゃあ、【魔人】関係はどうだい?」
サリアという人は凄い大物の【魔人】だと聞いている。なにか関係するものが見つかっているかもしれない。しかし、ティフは顔を横に振った。お手上げをして見せる。
「ぜーんぜん駄目。さすがに、【魔人】関係は殆ど載ってないや。あったとしても、ろくな事書いてないし、もう……」
ため息を吐く。ティフはテリウスの持って来た茶を啜り始めた。使い込んだ頭に響く。
「ろくな事って?」
「……いや……その……【魔人】の住処は暗い洞窟にあって、鍾乳石と一緒にぶら下がってるとか……あはははは」
乾いた笑いを発する。以前、ティフが妄想していた【魔人】の住処の姿そのものみたいな記述ばかりだったのだ。テリウスには何のことか解らなかったが、カーツォヴがこの場に居たならば大笑いしていただろう。
「オ、オホン。でね、【魔人】関係って殆どが妄想か、じゃなければ被害者の証言とかの記述なのよね。やっぱり、正確なことは書いてないと思う。見てよ、これなんか凄いよ? 【真王】と【竜主】が争ったとき、【竜主】が放った【竜の吐息】が原因で、【大天変】が起こった!だってさ。さすがに無茶苦茶でしょ」
その際の大破壊の跡が真王国の南方の砂漠に残っているとのことだ。本当にそんなものがあるなら、一度見てみたい気もする。
「【蛮族】絡みも駄目。【魔人】と似たようなものなのよ。この大書庫でも駄目となると、余所でもちょっと無理かなあ。後で司書のおじさんにも訊いてみるけどさ」
【蛮族】、イエムや【巫女】についてもまったく成果なしだ。結局、今のところはほとんど成果が得られていないことになる。
ティフは茶を飲み終わると、再び机に向かった。
「ごちそうさま。ついでで悪いんだけど、そっちの本棚から【大戦】関係の本を取ってくれない? そっちから【蛮族】について調べてみたいの」
本棚の一角を指さす。10年前の【大戦】では激戦の末に真王国側が勝利している。冷静に記述されているものがあるかもしれない。また、【蛮族】に【魔人】が助力していたという説もあるらしい。その説の出所も調べてみたい。
「うん、いいよ」
テリウスは本を探し始めた。どの本もかなり古く、重い。必要のないものは、できるだけいじらないに限る。題名を一つずつ読み上げていくことにした。ティフ自身に選ばせよう。
「えーと、【大戦記】【真王国の歴史】【戦史大全】……あれ? これ、もしかして……」
そういった本の中に、それがあった。
――【歌本・群青の戦士の伝説】
包囲戦を歩兵に任せ、騎兵を温存したディオールがイザークの本陣に戻る頃には、実質的な戦闘はほぼ終結していた。
片翼突破から半包囲、さらに不足する兵力を地形で補う形で完全包囲へ持ち込んだ。戦史に残る完勝である。また【白鴉】と【蒼鷲】の勇名に一つの功績が加えられることだろう。
だが、その栄光に満たされているであろう本人達は、勝利の美酒を分かち合ってはいなかった。イザークは本陣に張った天幕の前で腕組みして堂々と立ちながら、その実、内心で頭を抱えていた。
(……やっちまった)
最初からこうするつもりだった。繰り返される【蛮族】の侵攻を解消するためには、ただ勝つだけでなく、完全勝利を、敵軍の消滅を成し遂げるしかない。それを企図し、まさにその通りに成し遂げた。軍事家としては本懐である。
「イザーク、もう良い。勝負は完全についている。投降を勧告しろ」
ディオールがそう言うのに対して、自分でもわかるほど偽悪的に笑う。
「ハハ、何を言い出すかと思えば。あのケダモノ共を生かしておいて何の意味がある。身代金でも取るのか? あいつらが捕虜に金など出すものか。なら、ぶち殺すしかないだろう」
「……何を考えている、イザーク」
イザークは兵士達にも捕虜を取るな、一兵たりとも逃がさず追撃しろと強く指示を出していた。兵士達にしても、侵略してきた【蛮族】達に容赦をする理由が無い。これ以上無い勝ち戦にあって、手柄を競い合うようにして殺戮を行っている。
「イザーク! 貴様にはわかっているはずだ、兵士達を止めろ!」
そう言い寄るディオールも振り払う。
「うるさい! 皆が動揺する、黙っていろ!」
そもそも生産力でも、経済力でも大きく劣る【蛮族】がしばしば真王国に侵攻し、時には藩主達をも脅かすだけの勢力となるのはなぜか。それは人口に対する軍兵の動員率が極端に高いためだ。真王国や自由国境域では人口に対しての動員率はせいぜい2~5%程度。対して、【蛮族】は30%以上、時に50%~70%にも達することすらある。
それこそが【蛮族】の最大の強みとなっているのだが、ひとたびこのような大敗を喫すれば、軍兵の損耗がそのまま人口の喪失となる。一度に総人口の数十%を失ってしまえば、氏族組織は完全に破壊されてしまう。いや、これほどまでに労働兵役人口が激減してしまうと、もはや再起不能であり、民族レベルでの滅亡に直結しかねない。比喩でなく、二度と真王国に侵攻などできはしない。
「ああ、わかっているとも。あいつらの息の根を完全に止めてやるのさ。【白鴉】の名は戦死者を貪る凶鳥として長く残るだろうよ」
イザークとて自分が何をしようとしているのかは十分理解している。ともすれば震え出しそうになる手指を、腕組みしてごまかしているのだ。
(うるせえぞディオール、綺麗事を言ってんじゃねえ……)
やりたくはなかった。理由が、必要があったから成し遂げただけの話だ。ここで手を緩めてはいけない。手加減すれば怨恨が残る。ここまでやってしまったからには、最後までやりきらねばならないのだ。脳天気にすら映るディオールの態度を見て、堪らず奥歯が軋む。
そのイザークの様子をみて看破したというわけではなく、何気ない一言で、ディオールは核心を突いた。
「……藩主に何を言われた?」
言われて、ついにイザークは逆上した。ふざけるな!と叫び、ディオールに掴みかかろうとしたまさにその瞬間に。
「おや、お取り込み中でございましたか」
そんな女の声がした。大きな声ではなかった。しかし逆上しかけていたイザークも、思わず視線を向けざるを得ないほど、その声には違和感があった。
「お二方とも、少し落ち着かれては。それではお話もできません」
パン、パン、パンと手を叩きながら、ゆっくりと歩み寄ってくる女。その声にも姿にも恐ろしいほどの違和感しかない。
おそらく180cmは超えているだろう、すらりとした長身。真っ直ぐに整えられた栗色の髪と、同じ色の瞳。鮮やかな緑に染め、深いスリットが入ったワンピースのドレス。手には長い杖を持っている。これが平時の街中であれば、情欲をそそられる程度には魅力的な女だ。
しかしここは戦場、まして戦闘中の軍本陣なのだ。こんなところに居るはずも無いそんな女の姿を見て、イザークはフレイズの奥方衆にこんな美人がいたかな、と一瞬だけ考えた。
(そんなわけないだろ!)
こんな所に供も連れず、部下達の取り次ぎすら経ずに、貴婦人が一人で来られるはずがないのだ。我に返って剣を抜き、身構える。
「何者だ?」
そんなイザークの姿を見て、女も感心したように微笑んだ。
「さすがは【白鴉】イザーク将軍。私は名乗る名も無き【名無し】でございます。ご無礼を。お話というのは他でも無い、停戦の交渉に参りました」
「停戦?」
「ええ、あそこで文字通り崖っぷちに追い詰められている子達の代わりとして。あの子達には、二度とこんな悪戯をしないように、きちんと言い含めておきますから。これ以上は将軍の手を汚されることもないでしょう? このあたりでご容赦いただけませんでしょうか?」
そんなことをにこやかに言う女の声を聞いていると、頭がくらくらしてくる。何かがおかしいと、頭の中で警告が鳴り続けている。何かがずれている。おおよそ現実味が無い。じっと見ているだけでも妙な疲労を感じる。
【蛮族】軍の代表として停戦の交渉にやってきたと言っているが、明らかに嘘だ。この女が何者かはわからないが、それだけはわかる。この女は戦闘を止めるつもりもなければ、【蛮族】をかばうつもりもない。ただ戯れ言を垂れ流しているだけだ。
とにかく何かがおかしい。何かはわからないが、とにかくまずいということはわかる。横に居るディオールに警戒を促そうと目配せをしかけて。
――その姿を見失った。
強い風が吹いたようだった。瞬きの一瞬で、ディオールは女の間合いに飛び込んで斬撃を繰り出していた。
イザークはその動きを全く目で追えなかった。黒い剣を抜く手も見えなかった。もしもディオールがこちらに向かってきていたなら、自分が真っ二つになって死んだことにすら気が付かなかっただろう。
「イザーク、逃げろ!」
しかしその暴風のような一撃を、女は身体をわずかにずらすだけで躱していた。さらに横撃。これは手に持った杖で食い止められた。
「おや、腕が落ちたのではないですか、【群青の戦士】。それとも、その重たそうな甲冑のせいでしょうか?」
「……」
俄には信じがたい光景だ。あのディオールが押し合ったまま動けない。剛力で押し切ることも、崩して引き倒すこともできずに、その場で拮抗する。両者ともに動かない。女もまた自分が動けないことを悟って、目をすっと細めた。
「前言は撤回しましょう。素晴らしい技術です」
黒い剣から放たれる不思議な光が大きな影を作る。その光に浸食されるように、黒い剣を受け止めている杖がベキベキと音を立てて奇妙にねじくれていく。それを見て、女も少し驚いたような表情をしてみせた。
「そんな小技まで。どこで身に付けたのやら」
言いながら女の手が閃くと、女の身体はふわりと浮かび上がった。突如として重心を失ったディオールがたたらを踏む。女はそのまま5mほどの高さまで浮かび上がったところで、
「見事。やはり腕を上げられました」
ディオールが投じた2本の【飛剣】に貫かれた。
「しかし情けない。今のが【星】剣であったなら、決着がついていたものを」
剣に貫かれても、女は表情を変えることすらない。手が届かない場所から嘲笑と共に見下ろしてくるだけだ。
「【魔人】だと。まさか」
「ええ。申し上げた通り、停戦の交渉に参ったのですが……」
「イザーク、そいつの話を聞くな。その女はただの嘘吐きだ」
言いかけた女をディオールが遮る。
「……相も変わらず意地悪なお人だ。お綺麗な姫君に手を出してみたり、子供を連れ回したりと、道楽にうつつを抜かしているかと思えば、今度はこんなところで戦争ごっこに興じているとは、いやはや無責任にもほどがあるというもの」
ディオールは何も言わない。代わりに、女の胸に突き立った剣がさらに1本増えた。
「【星】剣を使い切れない貴方では、私を倒せませんよ。決着を付けるのがそれほど恐ろしいのですか?」
その頃になって、ようやく周辺の兵士達が事態に気が付いた。女が宙高くに浮いていて、しかも3本の剣に貫かれて平然としているのである。なんだあれは、あれが【魔人】なのか、と騒ぎが広がる。
「さすがに目立ちすぎましたか」
言いながらも女はさほど慌てるわけでもなく、ただゆっくりと周りを見回す。勇敢にも弩を向けた兵士を見つけると、人差し指を向けた。
「【跳べ】」
それで兵士は巨大なハンマーに打ちのめされたように吹き飛んだ。しかしそれに怯む事も無く、他の兵士達が次々と弩や投げ槍を構えるのを見て、女が嘆息する。
「練度が高いというのも考え物ですね……まあいいでしょう。あの子達には気の毒ですが、足止め程度の役には立ちました。もうこの国は終わりです」
言いながら、女の手から強烈な閃光が迸る。堪らず眼が眩む。
「次の戦場でまた会いましょう、【白鴉】殿。貴方にできるというのなら、その傲慢さを以て救ってみせるがいい、【群青の戦士】。……せいぜい見世物にさせていただくとしましょう」
閃光が収まったときには、既に【名無し】の【魔人】の女の姿は消え失せていた。
「なんだったんだあの女。ディオール、貴様の知り合いだったようだが。あれは【式】だろう? 【式使】の【魔人】だなんて聞いたこともないぞ」
イザークはそうディオールに問いかけて、その今にも泣き出しそうな顔を見て、止めた。
「すまん。今は訊かないことにする」
そうしている内に、二人の諍いの原因は消滅しつつあった。【魔人】の女の相手をして時間を取られたこともあるが、なによりあの女が目立ちすぎたのはまずかった。
歴史上、【蛮族】の侵攻の影には【魔人】の姿が見え隠れしている。その【魔人】が自ら【蛮族】に肩入れしていることを公言したのだ。その噂はあっという間にフレイズ軍の全体に広がった。となれば、兵士達も【蛮族】に容赦する理由がない。虐殺に与することを嫌っていた一部の指揮官や兵士ですら、積極的に戦闘という名の殺戮に参加するようになった。もう、イザークとディオールが止めようと思っても止められなかった。
結局、【蛮族】軍の大半が戦死もしくは墜死したことで、戦闘直後の損耗率は70%超、後日の掃討と追撃戦を合わせると、最終的な未帰還率は95%を超えた。初期に戦場を離脱していた騎兵の一部がかろうじて北方に逃れたに過ぎない。
戦史上、類を見ない壊滅であり、勢力としては完全に消滅したと言える。二度と真王国に侵攻する事などできはしまい。一方、フレイズ軍の損害は死者、負傷者併せて10%にも満たなかった。
その夜、本陣の天幕の中で、ディオールとイザークの二人は極度の疲労にあってもなお、まんじりともできずにいた。
「……お前を巻き込んでしまった。隠すわけには行かない。簡単に言ってしまえば、あの女は俺の義姉の仇だ。強力な【魔人】で、過去にも何度か戦ったが及ばなかった」
「お前がか?」
「一太刀浴びせるのがせいぜいだ。……あれは俺に追われることを楽しんでいる。むしろ俺の前に自ら現れて、力の差を見せつけておいて、あれこれと戯れ言をほざく」
乏しい灯りの中でもはっきりとわかるほど青い顔をしたディオールを、イザークは快活に笑い飛ばした。
「ハハ、なんて迷惑な奴だ!」
「……イザーク」
「あれがヤバい女だってことは見ればわかる。もしその気だったなら、片手で俺達全員を殺してのけただろう。やれやれ、お前もとんでもない女にまとわりつかれたもんだな。それともアレか、両手に花ってやつか?」
「すまない」
「謝るな。……ハハ、まったく、お前もその辺がわからんやつだな」
両手を広げて、なおも笑う。
「こういう時は酒でも飲んで寝るに限る。少し付き合え」
酒など飲んでいる場合ではない、と断りかけて、思い直してディオールは甘んじて受け入れることにした。そうして杯に注がれた酒を口元に運びかけて、すぐに気が付いた。これはただの水だ。
「いやはや、俺は昔から酒で失敗が多くてな。つい口が軽くなる。リィンには怒られるんだが、まあ今日くらいは良いだろう」
イザークは水差しに直接口を付けて、ぐいぐいと水を飲んでから、なおも言葉を続けた。
「うん、いい酒だ。フレイズはどうにも辛気くさい土地だが、酒がうまいのはいいな! これ一つで全部受け入れてやろうって気になる」
ディオールもそんなイザークを見て、彼が何をしようとしているのかを悟った。
「お前はあの女が嘘吐きだと言ったな。しかし、ああいう輩の嘘にはな、大抵の場合、真実も含まれている。べらべらと無駄なことを喋って煙に巻いたつもりで、誤魔化し切れていないんだ。語るに落ちるというやつさ。で、お前はその真実とやらがあるとして、何のことだと思う? 言ってみろ」
イザークは自分で自分のことを揶揄するようなことを言いながら、半ば予感を以て、半ば諦めを以て、ディオールの言葉を待った。
「……この国は終わりだ」
予想通りの言葉に、イザークは深く、深く、ため息を吐いた。
「……馬鹿野郎」
「あとは連想になる。イザーク、あの藩主が負けるんだな?」
「クソが……なんでお前は無駄に勘が良いくせに、察しは悪いんだ。はい、そうですと、俺の口から言えるわけないだろ」
イザークはそう小声で言ってから、ことさらに大きな声と仕草で言った。
「そんな馬鹿な話があるか。あの藩主とフレイズの主軍が簡単に負けるはずがないだろう!」
勇猛で知られるフレイズ藩の主力を率いているのである。そう簡単に敗北するはずが無い。身近の危険にも細心の注意を払っている事だろう。それでも。
「俺達にできることはないのか」
「あの【蛮族】どもだってまだ生き残りがいる。荒らされた領境まで出張って住民の慰撫や設備の回復だって必要だ。まだ休んでる場合じゃない、俺達にやることはいくらでもあるんだぜ」
「騎兵の手が空く。全部は無理でも、半分程度は動かせるはずだ」
それには答えず、イザークはなおも言った。
「なあ、ディオール……俺と一緒にやろうぜ?」
さらに身を乗り出して、ギラギラとした視線をディオールに向けた。さらに言う。
「今回の功績で、俺は元帥だ。お前だって地位も名誉も好きなだけだ。なあに、これからちょっとばかしバタバタするかもしれんが、俺とお前ならたいした問題じゃないさ。ここの居心地だって思ったより悪くないだろ。【蒼鷲】と【白鴉】なら格好もつく。なあ、俺と一緒に行こう」
それに応えられたなら、どれほどよかっただろう。どれほどのものを得ただろう。しかし、それでもディオールは言った。
「お前なら、きっとこれからもフレイズを守り続けるだろう。……だが、俺は……俺にはできない。俺はここに在り続けることはできないんだ」
「貴様、それが解っていながら。なぜだ!」
イザークが顔を上げて叫ぶ。挑みかかってディオールの胸倉を掴む。だが、ディオールは視線を合わせようとはしなかった。イザークの手を静かに解く。
「解っているとも。だからこそだ。俺は。俺は……このようなところに居てはならん……居るはずのない人間だ。今回のはただの気まぐれなんだ」
それでイザークは何も言えなくなった。ディオールもそれ以上何も言わない。しばしの静寂が満ちた。
「……ディオール……すまん。すまない」
地面がぽつりぽつりと濡れた。イザークが泣いているのだ。
「お前は間違いなく英雄だよ。……俺にはとても真似できん。所詮、鴉は鷲に敵うはずもないのだな。お前のような男に出会えて、俺は幸運だった。わかった……まかせろ。お前が……お前は心配しなくて良いんだ。後は俺に任せろ」
イザークは両手でディオールの手を万感の思いを込めて握りしめた。
「だがな、死ぬなよ? 無茶だと思ったら帰ってこい。いいな。お前は死んじゃいけない。……お前が愛した女を悲しませるな」
フレイズ藩主ヴィダルモールはアシン藩の南部エイエテムに駐在していた。彼とフレイズ軍主力がここに到着してから半月が経つが、戦局には何ら動きはない。ビード藩はちくちくとアシン藩との領境にちょっかいを出すだけだし、アシン藩の方もこれといった動きを見せようとはしなかった。援軍としてやって来たフレイズ遠征軍ではあったが、今のところは何もやることがなかったのだ。
しかし、それももう長いことではない。まもなくアシン軍対ビード軍の決戦が始まろうとしている。
「かくして、八藩主300年の輪は欠ける、か。ククク……それもまた良かろう。形あるものはいずれ崩れる。それが地上の在り方というものだ」
ヴィダルモールは麾下に指令を出した。決戦場たるミベル峡谷へ向かうのだ。フレイズ軍2,2000が一斉に移動を始める。その陣容は、自由国境域の都市軍などとは比較にもならないほど重厚なものだ。
ミベル峡谷は、峡谷と呼ぶにはあまりに巨大なもので、数万もの大軍を配置するにも何ら支障はない。真王国を南北に分断する巨大なミベル山脈の数少ない通り道であり、軍事上の最重要拠点である。ここをビード藩に抜かれれば、北部の藩主達は南部の藩主達の侵略に怯えなくてはならなくなる。フレイズ藩にとっては、まさに首に突きつけられた剣なのだ。アシン藩とフレイズ藩が同盟を締結しているのも、ヴィダルモールがここの重要さを熟知しているためだ。現在、リーモス藩もタージス藩も自分達の内部の政情で手一杯で、あてにできない。フレイズ藩としては、アシン藩を援護して、ビード藩の行動をくじく必要があった。
フレイズ軍とアシン軍はそれぞれ峡谷内に軍を配置した。ビード軍に比べて、数は2倍弱。まともにあたれば、負けるはずがない。
「まともにあたれば、な」
ヴィダルモールは酷薄な笑みを消そうとはしない。この男にはいい知れない緊張感が纏わりついている。常に奇妙な緊張に曝される側近達は、しばしば不整脈に近い症状を訴えることもあった。そうはならずに、篤い信頼を寄せた二人の人間は、もはや地上にはいない。
「ふん、コルツめ」
アシン藩主キールコルツは、同盟者としては少々物足りない。戦場での実戦能力はともかく、外交と政務に頭が回らないのだ。真王国中央を保持するアシン藩の支配者としては、隙が多すぎる。だからこそ、これまでビード藩にやられっぱなしだったのだ。
それに比べ、ビード藩主ミンネアスルトは敵として遙かに強大だ。まだ30前後の女性のはずだが、その政略能力は感嘆に値する。即位にあたってほぼ全ての血族を処刑台に送り、自らの権力を力尽くで確保したかと思えば、氾濫の激しいことで知られるダイダム川を整備し、領土全域に灌漑を施してみせた。そのダイダム川の堤防はそのまま西方の強固な城壁となっているのだ。最近は主軍の軍団編成にも手を加え、軍の中核として超重装甲の歩兵軍団【装甲兵団】を組織しているという。【北の餓狼】ヴィダルモールにとって、南の好敵手といって良いだろう。その彼女が何も考えずに2倍の敵とあたるはずもない。彼女が裏に手を回していることなど、ヴィダルモールにはお見通しだった。
「……同盟者はもっとよく選ぶべきだな、ミンネア」
ヴィダルモールはその口に冷笑を浮かべる。瞳が更に昏く輝く。
「さて、最初に欠けるのは、ビードか、アシンか、それとも、フレイズか。……ククク、それも面白い。賭は危険なほど面白い。真理だな」
その昏い笑いがフレイズ軍の本陣から絶える事は無かった。
戦闘開始と同時に、フレイズ軍が整然と前進する。本陣も前線近くに配置した。その一方で、後方に力を溜めるのを忘れない。そのために中衛が手薄となり、お尻の大きい瓢箪のような形の陣形になった。
ビード軍が左翼のフレイズ軍側を前衛、右翼のアシン側を後衛とする左梯形の構えを採ったことで、アシン軍と接触するよりも早く、フレイズ軍と接触する形になった。
ビード軍前衛は果敢に突撃を繰り返すものの、倍する敵に阻まれて、前進することができないでいる。超重装甲を誇る【装甲兵団】はフレイズ軍の重騎兵の突撃をよく支えているが、前進もできずに停滞してしまっている。この状態で右翼部隊が遅れて到達したところで、どうにもならない。やがてやせ細って消えるだけだ。この不利な状況で採るべき戦術ではない。このままでは、ビード軍の敗北は必至だ。
しかし、事態はとんでもない方向に推移していった。
「アシン軍が転進!? アシン軍叛逆、アシン藩が寝返りました!」
アシン軍が突如として方向転換し、手薄なフレイズ軍の中衛に襲いかかったのだ。遠征してきた同盟軍に襲いかかるなど、狂気の沙汰でしかない。
「来おったな……コルツめ。だが、時期が甘い」
ヴィダルモールは既にこの事を察知していた。ビード藩主ミンネアスルトが如何に慎重に事を運んでいても、アシン藩主のキールコルツは情報の管理ができていない。【北の餓狼】が察知するには充分な隙だった。むしろ、ヴィダルモールはアシン藩の裏切りを裏で煽りさえしていた。
「ククク、同盟者はしっかり選ぶべきだな、ミンネア……お互いにな?」
アシン軍が一番効果的にフレイズ軍に対し寝返りを働くのであれば、峡谷内のフレイズ軍の退路を完全に押さえた上で、なおかつビード軍と接触する寸前に反転するべきだった。だが、アシン藩主キールコルツは、まだ時期が来ていないにも関わらず、あまりに手薄に見えたフレイズ軍中衛に飛びかかってしまったのだ。
「よし、手はず通り行動しろ」
勿論、ヴィダルモールとフレイズ軍とて悠長にはしていられない。目論見通りとはいえ、敵地となったアシン藩領内の戦場で、2倍の敵に挟撃されているという事実に変わりはないのだ。待機させていた後衛部隊で峡谷出口を押さえ、そこからアシン軍を牽制させる。手薄になっていた中衛にはアシン軍の攻撃を支えるほどの力はない。無理に戦線を維持しようとはせずに、そのまま後退させて後衛に合流させる。これで、フレイズ軍全体の8割弱は退路を確保した。
「ククククク……最初に欠けたのはアシンだったか。……それともフレイズか?」
アシン藩はもはや他藩の信用を得ることはできない。戦場での裏切りは徹底的な外交的孤立を招く。どのような条件をビード藩から提示されたのかは解らないが、ビード藩がそれを守ることは有り得ない。大々的に事態を公表して、アシン藩を悪玉に仕立てるだけだろう。ついでに、ビード藩のこれまでの悪事も押しつけるに違いない。アシン藩は理想的な悪役を買って出てしまったのだ。
これでは領内の貴族達だけでなく、領民達や将兵達とて黙っているとは限るまい。アシン藩は内乱と離反によって自壊を起こす可能性さえある。そしてアシン藩主キールコルツにはそれを乗り切るだけの器量がない。真王国中央に位置するアシン藩が崩壊する。真王国の戦乱時代への突入の幕開けになるだろう。
「さて、後は儂が脱出するだけだな」
ヴィダルモールはこともなげに言ったが、大変な苦境だ。フレイズ軍中衛が後退してしまったために、前衛と本陣は敵中に孤立している。このままでは、壊滅は避けられない。ヴィダルモールは後方を確保するのを諦め、前方に活路を開くつもりだった。既に後方部隊は退却の準備を始めていた。
「ふん。ミンネアめ、意外とやる」
ビード軍が誇る【装甲兵団】。もともと強兵で知られるビード藩軍だが、藩主ミンネアスルトが新たに結成したというこの部隊によって、それは確かなものとなっているようだ。分厚い甲冑に大型の板金盾と長槍を主兵装とし、凄まじいほどの前進阻止力を誇る。
その武装はフレイズ軍主力を構成する重騎兵とあたることを前提としている。フレイズ軍の重騎兵を基準として、軍団と装備を整備したのだ。それは極めて当を得たものだったのだろう。フレイズ軍前衛部隊は幾度と無く突撃を繰り返したものの、決定打に欠け、突破することができない。
「ここまでか? ……それもよかろう」
(あれに任せる時期が、少しばかり早くなっただけだ)
ヴィダルモールにしてみれば、全体の8割を帰還せしめただけで、この作戦は成功なのだ。自分の生死は最初から問題にしていない。むしろフレイズ藩主たる自分がだまし討ちに遭って死んでみせた方が、話が大きくなるというものだ。
後方からはアシン軍が迫ってきている。時間も、戦力も、明らかに足りなかった。
「……スィン。儂も、もうよかろう? 儂は疲れたのだよ。お前のいない地上に……飽いたのだよ」
目を瞑る。ヴィダルモール・フレイズ、【北の餓狼】をして、強く死を意識した瞬間だった。
まさにそのとき、俄にビード軍の後方が騒がしくなった。
「何事だ?」
これはヴィダルモールの目論見に入っていない。何事が起こったというのだろう。圧倒的優勢のはずのビード軍が混乱している。
戦場を見下ろす小高い丘の上に男が現れた。その男の身につけている鎧は、蒼天の陽日を浴びて蒼く輝いていた。その背に翼を見たという者もある。
男は僅かばかりの手勢を従え、敵の大軍に突撃を敢行した。彼我の比較をするのも愚かしいほどの物量差である。あまりに無謀かとも思われたが、彼等はみるみるうちに敵兵をうち倒していく。
それはまさしく、空を行く大鷲の如くであった。澄み渡る蒼空の下、鉄と血に支配された地に舞い降りた大鷲。
空を翔る鷲を止めることなど、何人たりともできるはずが無かったのだ。
――群青の戦士の伝説 第五章
「【群青の戦士】だ! 伝説の通りだ!」
大きな歓声があがる。押しつぶされようとしていたフレイズ軍が再び盛り返した。伝説の通りに、かの英雄が自分達を救いに来たのだ。奮わないはずがない。逆に、敵軍が浮き足立つ。特にアシン軍には寝返りの負い目があるために、その恐慌ぶりは深刻だった。
「あやつめ……どうやってここまできた。この事態をどうやって知った?」
ヴィダルモールにも、ディオールがどうやって、この最高の瞬間に、最高の場所に現れたのか解らなかった。なんにせよ、この機会を見逃すことはできない。こちらもディオールに呼応しなければならない。そうでなくては、彼を見殺しにすることになる。
「我らにはかの【群青の戦士】が味方している! 続け! あの男と共に敵を倒せ!」
(あやつめ……【群青の戦士】……あの【大戦】ももう10年前か。あの時の真王国軍の連中の気持ちが分かるな)
死の気配はもう遙か遠くに去った。まるで20年も若返ったような活力を得て、ヴィダルモールは叫んだ。
「続け! 正義は我らにある! 裏切り者共に負けるな!」
かくして、【群青の戦士】によって危機を免れたフレイズの軍勢は、無事に故郷に帰還することができた。【大戦】の英雄としての彼の名は、この後永きにわたって続く【継承戦争】における最初の戦い、【北海戦役】においての英雄としても、永遠に記憶されるであろう。――続・群青の戦士の伝説 第十五章
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