第十四話 彼女の場合

 あれから、どのくらい経ったのだろう。リアは自由国境域北方の境界線を形成するドラス山脈の麓まで来ていた。標高5000mを優に越える険しい山々、年中消えることのない深い雪。ここは人の在ることを否定して止まない地だ。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、ここには【式使】達の総本山【スーレイル】がある。

(結局、ここに戻ってきてしまった)

 自分達が生まれたところ。呪わしくも懐かしい場所。この決して人を受け入れることのない地こそが、自分達の真の故郷なのだ。

(あの時。私は全てを知っていながら、なにもできなかった。いいえ、なにもしなかった)

 あの女性の死が、自分にどのような影響を及ぼしたのかは、自分でも定かではない。ただ、気が付くと、こうしている自分がいた。

(そう。私は全てを知っていた。あの女性の死も見えていた)

 自分に特殊な能力があることは、昔から知っていた。

――未来の観測。

 【式使】としての能力によって、現在の全ての事象、森羅万象を知覚し、それによって未来を演算、観測する。あらゆる不特定要素を特定し、あらゆるイレギュラーを標準化する。この地上に偶然など存在せず、感情など所詮は脳内で起こる物質と神経の化学反応に過ぎない。

 この地上の全てを知る。それがリアの持つ力の本質だ。【式使】達の永遠の課題の一つであり、異常に発達して肥大化した能力だ。自分自身を容易く押し潰す程の。

(私に何か見えたところで、私には何もできない。だから、私は考えるのをやめた)

 自分が将来、何を見て、何を考え、どう行動し、どう生き、どう死んでいくのかさえ、予測できてしまう。そんな自分に何ができるのだろう。何もできはしない。

 ならば、最初から知らない方がいい。ならば、何も考えなければいい。彼女にとって、全ては無意味なものだった。だが、そんな彼女にも、生きている意味というものが、僅かながらあった。――人は、それを救いと呼ぶのだそうだ。

 リアにとって、初めての【未知】との出会いは、師レーバゼィンだった。彼が何を考え、何をしようとしているのかだけは、全くわからなかった。だから、リアは考えることをやめてはいても、彼を想うことはやめなかった。

 それでも、最期にはわかってしまった。彼は死を望んでいるのだと。自らの滅びによって、自分達の魂を解放しようとしているのだと、わかってしまった。彼もまた既知となったのだ。

 次の【未知】は義兄ヴェンだった。彼は師をも上回る、全くの【未知】だった。彼が一体何者なのか見当もつかなかった。一体、何を望み、何を為そうとしているのか。とうとう、最後までわからなかった――はずだった。彼があの女性を愛しているとわかったとき、彼は【未知】ではなくなったのだ。

(それを嬉しいと思う自分に気が付いた。全くの【未知】だった義兄を、たとえ少しでも知ることができたと解ったとき、私は確かに嬉しかった。そう考える自分は、確かに私の知らない自分だった)

 しかし、自分にはあの女性の死が見えていても、それを止めることができなかった。否、止められないと知っていた。止めようとしなかった。

(私はただ見ているだけだ。世界の全てを知ってなどいない、ただ遠く離れて眺めているだけだ。こんなものは、生きているとは言いはしない)

 自分の知らない自分を永遠に失ったと知ったとき、リアは「考えることをやめる事」をやめた。最初にまず、自分に残された最後の【未知】である妹、ティフを救うことを考えた。

 そう考えた時、自らの力の由来を始めて理解した。それはとてもとても容易いことだった。観測された現在のほんの少しを、小指の先でそっと押す。それで周りを囲む兵士達が爆ぜていくのを見ても、何も感じなかった。ただ、あとほんの数分前に、それが出来なかったことを悔やんだだけだ。

(そうして、結局、ここに戻ってきてしまった)

 自分がここでこれから何をするのかは解っている。そして、それによって、これからどうなるかも。全ては自分の既知の世界になる。

「それなら、それでもいい」

(あの子を【未知】のままにしておいてあげられるのなら)


 雪深い山中にスーレイルはある。【式使】達の総本山。全ての知識の集まるところ。

 スーレイルの歴史は真王建国期まで遡る。かつて、【陽の権】は【式使】達が得た知識の流出を恐れ、それを統括するために、ここを築いたという。無闇な知識は、かえって害を及ぼすと断じたのだ。人々がこの知識を正しく運用できるようになるまで、それを抑えるべしと。

(嘘)

 リアは知っている。全てを。ここが、そのような目的のために築かれた場所でないことを。【陽の権】の真の目的を。リアに見えるのは現在と未来だけだ。過去は見えない。しかし、師の死が見えた時に、全てが、彼の連ねてきた遍歴全てが見えてしまった。自分達の事も。

(ここは無くていい。必要ない。あってはいけない)

 だから、ここまでやってきた。

 リアは小道を進む。雪を踏みしめる規則的な音だけが聞こえる。雪はまだ降っている。自分の長い黒髪に雪が積もっていくのも気にしない。それでも、寒さを感じることはない。

 前方に探知網のような【式】が張ってあるのが見えた。【式使】にだけ反応する【式】。リアはそれを正面から突き破った。衝撃波のようなものが身体を襲ったが、周囲に張り巡らされた【盾】に弾かれて、何の痛痒も感じない。どうやら、最初から彼女の接近は知られていたらしい。――もっとも、リアにとっては、それすらも既知の事象なのだ。

 正面にスーレイルがある。独特の建築法によって建てられた、一風変わった形の建物達が高くそびえ立っている。その膨大な知識を、次の知識を手に入れるためにだけ用いて、それ以外の何の役にも立てようとしない【式使】達の本拠地。リアと妹が生まれた場所。

 不意にリアの周辺に数人の人影が現れた。服装からすると、みな【式使】だろう。一斉に、見えない縄をリアに向けて投じた。不意打ちのつもりだろう。どうやら、彼女と平和的に話をするつもりは最初から無いらしい。だが、彼女には全て解っている。効果があるはずもない。

 反撃とばかりに、リアが【式】を起動する。その手がすばやく宙を切った。口からは僅かな呟きが漏れる。たったそれだけで、世界はその在り方を変えた。この地表に降り注いでいる電子線が一点に収束され、照射される。凄まじい量の電子線に冒された【式使】達は、全身の血液を一瞬で沸騰させられて力尽きた。

 リアの歩みは止まらない。彼女にしてみれば、こうなることはずっと前から解っていたことなのだ。それが現実に還元されたに過ぎない。

 前方の広場に多くの【式使】達が集まっていた。その内の先頭に立つ女が口を開いた。

「リア・アルセルト。よく、ここに帰ってきましたね。……何が目的なのです?」

 リアはこの女を知っている。自らの目的の為だけに自分達を産んだ――いや、【合成】した女。リアのこの異常な能力は、すべてこの女達の仕業なのだ。

(この人も……私が知っていることしか言わない)

 自分を産んだ女さえ、リアにとっては【既知】のものでしかない。

「レーバゼィン様の仰せで貴女達を手放したけれど……いまさら、どういうつもりなのです?」

(この人でも駄目だった)

 かつて、実験動物同然に生まれた姉妹を、レーバゼィンは引き取った。このスーレイルに在っては、良いことは無いだろうと考えてのことだ。リアにとって最初の【未知】との出会い。彼は確かに自分達に愛情を注いでくれた。それでいて、彼は愛というものが何なのか、ついぞ理解していなかった。それに苦しみ、嘆いていた。彼は自分が既に満たされていることに、最後まで気が付かなかった。それが無性に哀れで、自分も苦しんでいたのだと思う。その彼ももう居ない。いや、その表現は正確ではないが。

「何か言ったらどうなのです?」

 正面の女が硬い声で言う。彼女は極度の緊張に囚われているのだ。目の前の娘が、まさしく禁断の存在だという事を知っているのだから。

――最初は喜んだのだ。ついに自分達の研究の成果が達せられたのだと。幾世代もの時を重ね、知識を束ねてきた労苦が報われたのだと。それが途方もない過ちと気が付くまでに、僅かに数年。その瞬間、自分達がとんでもないことをしでかしたことに気が付いたのだ。

 世界は【式使】達に報いたりはしなかった。世界は、自分の領分を身勝手に侵そうとした【式使】達を激しく憎んだだけなのだ。

「貴女達に命じます。ここを全て破壊し、立ち去りなさい」

 リアが静かに言う。懇願ではない。それは確かに命令だった。

「ほほほ、なにを言うのかと思ったら。そんなことができるはずがないでしょう? 大人しくお帰りなさい」

 予測通りの返答。それに対するリアの反応もまた、既知のものだった。

「ならば、私がそうします」

「あ、貴女は私達を、この人数を敵に回すというの? そんな馬鹿な真似はおよしなさい」

 怯え。確かに、この女はリアに対し恐怖を感じている。怒り狂った世界が用意した、世界そのものに直結された端末に恐怖しているのだ。

「その通りです。……もう一回だけ言います。ここを破壊して立ち去りなさい」

――故に、女の返事も、リアは既に知っていた。

「……できない!」

 そう叫んで、女達が身構える。さらには、スーレイル中の全ての【式使】達が。一斉に【式】の起動を始める。

「ならば、仕方がありません。【陽の権】の名を以て、ここを終わらせます」

 今は亡きあの人はここにいる。あの人が制止したような気もしたが、リアは無視した。世界の理が彼女に集まる。凍った黒髪が宙に舞った。

 リアの言葉を聴いた女の顔が険しくなった。

「貴女が! 貴女如き汚らわしい合成人間が! 【陽の権】を名乗るなど!」

(なぜ、この人は私が知っていることしか言わないのだろう)

「あのお方の! あのお方の名を騙るなど、許せることではない!」

 別段、リアは名を騙ったつもりはない。ここにあの人がいるのだから、それが自然なのだ。その程度のものだ。そのこと自体はリアにとって大した意味があるわけでもない。なればこそ、そのことこそが女達には許せないのだ。

 【式使】達の攻撃が来た。重力の増大。かつてヴェンが街道で使ってみせたような、重力変化による攻撃だ。【式】の中でも高度なものだ。

 だが、それはリアには届かない。多数の【式使】達の複合【式】でさえ、リアの空間を支配することが出来ない。リアの周囲の地面だけが、空しく陥没した。

 第二波は集光され、波長と波形が統一された熱光線。それもリアに届くことなく四散した。あらゆる物質を焼き切る光線ですら、彼女にとってはほのかな暖かみを感じる程度でしかない。

(この人たちも同じだ。解っていることしかしない)

 次の攻撃は槍だった。なまじ純粋な【式】は防がれると判断したのだろう。【式】でもって、無数の槍を超高速で投じたのだ。その槍もリアの身体を貫くようなことにはならなかった。運動量を削除され、地面に落ちることすら許されず、空中で固定された。

(ここは私が終わらせる……あの子を守る為に。あの子の秘密を永遠にするために)

 リアにとっての最後の【未知】。そのために、彼女は自らの能力を行使することを決めた。

――いや、遠い過去に決められていた。

 リアに向かって来ていた槍が、突如として反転した。【式】によって与えられていた運動量の方向を、リアが反転させたのだ。反転した槍は投じた本人達に寸分違わず戻っていって、その身体を貫いた。

 女達が明らかにひるむ。リアは他人の【式】の影響下にある物体を、その影響をうち消して自分の支配下においた上で、さらに投げ返したのだ。槍を投じた本人の2倍以上は消耗するはずだ。しかし、彼女には疲労の色などない。

「そんな……本当に……?」

 本当も何も無い。彼女は【陽の権】なのだから。世界に直結された彼女と戦うということは、世界そのものと戦うことと同義なのだから。

 第四波が来た。空間の切れ目のようなものがリアを襲う。それも彼女の目の前で直角に方向転換し、他の【式使】達を襲った。すっと、指でなぞって、空間の切れ目を修復する。

 まだ諦めない。第五波。熱力学の諸法則を踏み越えて、リアの周囲に熱が集まる。周囲の雪があっという間に蒸発していく。

 彼女はその過程で生じた冷気を拾い集めると、【式】を起動している本人達に叩き付けた。絶対零度の冷気に襲われて一瞬にして凍り付いた彼等は、その衝撃で砕け散った。

「う……わああああああああああぁああああーーーーー!」

 そこまでが限界だった。圧倒的な力量差を見せられて戦意を打ち砕かれた【式使】達が一目散に逃げていく。目の前の娘は人の姿をしてはいても、同じ人間とは思えない。【式使】一人の限界など、とうの昔に飛び越えている。正真正銘の化け物だ!

 リアは彼等に構わず、スーレイルそのものの破壊を優先した。スーレイルの上空を中心にして、球状に外界から遮断する。半径2kmといったところだろうか。その過程で【式使】達は逃げ道を失ったのだが、そんなことは彼女の知った事ではない。さらに、遮断した空間を圧縮する。空気を圧縮しているのではない。空間そのものが超重力によって圧壊しているのだ。

「や……やめて、助けて、わかったわ、貴女の言う通りにするから! 助けて!」

 女が命乞いをする。それはリアが観測した通りの言葉だったので、彼女はよけい嫌になった。

「お断りいたします」

 さらに空間が縮む。圧縮された空間は温度が増してきていた。さらに縮む。しばらくすると、あまりの高温に耐えきれずに、【式使】達がばたばたと倒れ死んでいった。雪は全て溶け、濃密な水蒸気と化している。木や建物が発火していく。さらに縮む。遮断した球状の空間の中で気体化していないのは、もはやリア本人だけになった。超新星にも匹敵する目映いプラズマ光が、空間を満たす。

「……さようなら。私の故郷」

 その一言だけが、ここに来てからの彼女の知らなかった事だった。

 爆発。宇宙開闢の如き高熱が空間を満たした。


 【式】が終息したときには、すり鉢状に抉れた大地と、その中心のリアしか残っていなかった。スーレイルはもうない。閉じた空間で発生した特異点とその熱放射によって、事象の地平の彼方に飛んでしまったのだ。

(これで全部終わった)

 もはや、自分に目的は存在しない。このまま大地に立ち続けているのも良い。ここは、そのうちに雪や水が流れ込んで、大きな湖になるだろう。その底で永遠に眠るのも悪くはない。

(あの子の未来に……幸せが在ればいいのだけれど)

 最後の【未知】である妹のことは、自分にも解らない。それが心配でもあるし、嬉しくもあった。

(私はあの子のことを想う限り、私の知らない私でいられるのだから)

――だから、眠ろう。あの子のことを想って。


 一ヶ月ほど遅れて、ヴェンがスーレイル――の在った場所――に辿り着いたときには、全てが終わっていた。

(間に合わなかった……のか)

 しばし呆然と立ち尽くす。

 ヴェンはリア達の秘密を知っていた。だからこそ、あの後にリアがここに向かったことが解ったのだ。だからこそ、ここにティフを連れてくることだけは、決してできなかったのだ。

(なんということを……リア)

 これをやったのは間違いなくリアだ。彼女以外にこんなことができる存在は無い。ここに何人の人間が居たのかはわからないが、生存者が居るとも思えない。いったいどれだけの大破壊と殺戮を行ってしまったのか。

(また……まただ。また、守れなかった)

 もはや彼女の精神は彼岸へ渡ってしまった。人形のようにしていればそれでよかったのだ、とはヴェンも考えてはいなかった。しかし、それでも人間であって欲しかった。その魂は人間のものから変質し、超越してしまったのだ。あの人のように。

 そのまま雪原に空いた巨大な穴を眺めた。その中心には小さな木、いや、人影か?

「……あれは?」

 義妹かもしれない。ヴェンは一縷の望みをかけて駆け寄った。斜面を滑り降りて、走る。あれが義妹なら、まだあるいは。

「……リア?」

 居た。雪が積もった石像の様にも見えたが、確かに義妹だ。その姿は立ったまま眠っていたかのようだ。彼女の表情があまりに安らかだったために、ヴェンは声をかけるのを躊躇った。彼女はこのまま眠ったままの方が幸せなのではないだろうか、そう思われたのだ。

「……義兄さん?」

 おそるおそる手を伸ばすと、その手が触れる前にリアは目を覚ました。その琥珀の瞳と眼が合う。そこにはかつての虚無はない。静かな安らぎがあるだけだ。

「リア……生きているのかい?」

 ヴェンは恐る恐る問いかけてみた。

「ええ……もちろん」

(なぜ、ここにいらっしゃるの? なぜ、ここがわかったの?)

 リアは一つの結論を導き出した。それは【式】などと関係なく、ごく自然なことだった。

「義兄さんは知っていらしたのですね。私達のことを」

「……知っていました」

 辛い告白だった。だが、ヴェンのその言葉を聞いて、リアは顔をほころばせた。今まで彼女が見せたことのない様な、真に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「そうですか。私は知りませんでした」

 義兄が自分達のことを知っていることを。まだ自分が知らないことが残っていたことを。ならば、もう少し世界を見つめてみるのも悪くないのかもしれない。

 堪らず、ヴェンはリアの身体に降り積もった雪を払い、強く抱きしめた。まだ義妹は失われていない。まだ此岸に踏みとどまってくれている。しかしリアは義兄を抱きしめ返すこともなく、ただ言った。

「義兄さん。義兄さんはどうしたいのです?」

「リア……私はこれからどうすればよいのでしょう?」

 ヴェンの心は昏い絶望に覆われていた。自分達が、もはや後戻りできないことを知っている。リアの表情にも変化があった。悲しみの色。また一つ知ってしまった。

「そうですか……あの子が」

 リアは何をヴェンから読みとったのだろう? だが、その表情からは何も解らない。語ろうともしない。

「行きましょう」

 唐突にそう言うだけだ。静かな決意だけが、その瞳に満ちる。

「何処へ?」

 ヴェンが訊き返す。

「【陽門】へ」

 静かに言う。彼女は、それが何処にあるのか知っているのだ。

「なにを為しに?」

 さらに問う。

「あの子を守るために」

 とだけ。

 妹を守るのだ。そう、まだ、リアにはやることがあった。今、それを知った。

 しかし、それでもヴェンは動こうとはしなかった。

「行けません」

 頑なに拒否する。

「なぜ? なぜ、行けないのですか?」

 ヴェンにあるのは絶望。あまりに深い、彼自身を滅ぼしてなお余るほどの。

「行けません。私が行けば……また誰かを失う。もう嫌なんです」

 義妹達を失う。きっと。いや、確実に。そんな義兄を見て、リアは静かに言った。

「私は既に失われているのですよ?」

 告白。

「私の中には……先生がいます。あの方から【陽の権】を引き受けたのです。私は、私であって、もはや私ではありません。私は【陽の権】であって、【陽の権使】ではないのですから」

「……」

「私は、リア・アルセルトという人間は、もう死んでいるのです。だから……」

「だからといって、【陽門】に行ったからといって、それで何になるというのです!」

 ヴェンの心は悲しみで満ちている。もう、いやだ。生きていたくない。もう、こんな思いはいらない。いっそのこと、全部忘れてしまいたい。そんな想いで一杯だった。

「そんな所に行って、何ができるというのです! あの子は……あの子は、もう!」

 ティフはスーレイルの人間に言わせるならば、失敗作だ。予定通りの能力を持つことができず、少しばかり優れた【式】の素質を持つだけだった。だから、よかった。だから、幸せで居られた。

「なら……なら、もう……あの子は……」

 幸せで居られるはずがない。自分達がそうであったように。

「……私は、あの子は見えないのです」

 リアがヴェンの哭き声を遮った。

「だから、あの子は私の全てなのです。だから、私はこの地上を消してでも、あの子を守ります」

「地上を消してでも?」

「ええ。だから、【陽門】に行きます。私一人でも」

 リアにさえ、【陽門】で何ができるのかはまだわからない。あの子は見えないから。しかし、この地上があの子を否定するというのであれば、そんなものはいらない。悉く焼き払ってしまえばいい。

「私にはあの子は見えません。ですが、今の義兄さんと、あの方は見えるのです」

 その言葉を聴いたヴェンが真っ青になる。いや、血が退きすぎて真っ白と言っていい。イエムが死んだときでも、これほど動揺しなかったかもしれない。表情を凍らせたまま弱々しく言う。目を合わせることもできない。それが精一杯だった。

「……嘘だ。君に見えているはずがない」

 リアはゆっくりと首を横に振った。

「見えるのです。私には」

(だから、貴方は私の全てにはなり得なかった。私があの女性で無かったように)

「あなたは……義兄さんは【陽門】で死ぬ。そして、私も」

「……見えるのですか?」

「いえ、見えません」

 あっさりとリアは否定した。ただ静かに目を瞑り、静かに語る。

「義兄さんは、そこで、一つの決着をつけることになるでしょう。それだけです」

「決着?」

「ええ。もはや、義兄さんにできることは殆ど残っていません。ですが」

「……決着をつけろと」

 リアはその言葉に力強く頷いた。

「その通りです。私はあの子を助けるため、義兄さんは決着をつけるため」

「【陽門】に来いと」

「はい」

「……わかりました。行きましょう。……それぞれの決着をつけるために」

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