第十三話 北海戦役
リーモス藩領カイロンの港からは陸路を使う。既に三月とはいえ、フレイズの港のほとんどがいまだ封鎖されているためだ。【鴉党】一団は馬車と騎馬の編成に切り替え、一路フレイズを目指すことになった。
【鴉党】700人強の兵員の移動について、リーモス藩からの干渉を懸念していたが、どうやら何事もなさそうだ。以前から病に伏せっていたリーモス藩主ダルシャーンがいよいよ重篤ということだから、こちらに構っている余裕がないのかもしれない。このままケレイテン街道を北上してフレイズ藩領に入る。
フレイズは北方の土地であるが故に、雪に閉ざされがちである。短い夏と長い冬。貧しくはないが、厳しい土地である。そのためにか、八藩主の中にあっては拡大欲求が大きい傾向にあったが、現藩主ヴィダルモールが即位してから、それは急激に膨張した。目的のために手段を選ばないその姿はまさに【北の餓狼】という呼び名に相応しい。
そのフレイズ藩主が、手勢を率いてやってきた娘婿をどう扱うか? それは当事者達にとって最大の関心事になるのは当然のことだった。
リーモス藩に足止めされるようなこともなく、【鴉党】はフレイズ藩との領境の小さな街、コーツにたどり着いた。
領境とはいえ、重要な軍事拠点というわけでもない。【鴉党】は敢えて市街へ入場せずに、周辺に半野営する形で滞在していた。イザーク自身も大型の天幕を設営し、本陣として利用していた。
「さて……どう出るかな?」
イザークにはフレイズ藩主の行動が読めずにいた。彼は戦場においては最高の智将【白鴉】として名高いが、政略に関しては【北の餓狼】に譲る。妻子と部下達を、安易な博打の対象にするわけにはいかないのだ。フレイズに届けた、【鴉党】が味方する旨を記した親書の返事を待つほか無い。それまでは、サティン達を人質の意味でも手放すわけにはいかないのだ。
「父親、か……」
イザークにとって一番恐ろしいのは、フレイズ軍に攻撃を受けて、リィンとシュリク、さらにサティンを奪われることだ。そうなっては、【鴉党】は滅ぶほか無い。もとより地力が違いすぎる。故に、四方に斥候を放って、絶えず警戒を緩めないでいる。仮にも味方としてここまでやってきたのだ、突然撃滅を図るような無茶はすまい。そう考えても、どうしてもその可能性を捨てきれない。
「俺にはわからんな。大事なものを失ったことのある人間にしか……わからんのかもしれん」
誰に言うでもなく呟く。イザークとて、むざむざと妻子を失うつもりはない。そのためになら何でもしてみせる。そう誓った。
(ともかく……返事待ちというわけだ)
その返事は予想外に早く届いた。
「将軍! ……大変です!」
その声を聞いて、一気に緊張が高まる。ついに、一番恐れていたことが起こったのかもしれない。
「なんだ! 報告は正確にしろ」
真っ青な顔をしたオーレットが駆け寄ってきた。声を低くして言う。
「大変です。……高貴な方がお見えになられました。お一人でございます」
俄には信じがたい事だ。まさか、フレイズ藩主自らこんな所まで来るとは。ましてや一人でだと? 有り得ない。
「わかった。丁重にお通ししろ」
(偽物、影武者か?)
ますます相手が読めない。その可能性は十分ある。しかし、ここには二人の実の娘が居るのだ、見破られないはずがない。
「お連れいたしました」
入ってきたのは、一人の壮年の男だ。黒い髪に、熟成したワインを思わせる赤みのかかった紫の瞳と、そこに宿る険しい意志。幾多の戦場を駆け、雪に焼けた肌。中肉中背ながらも、相対する者を圧倒するその気配。間違いない、本人だ。イザークは背筋が泡立つのを感じた。これほどの迫力を持つ偽者が居るはずがない。
「これは、藩主様自らお越しいただけるとは……私ネイ・イザーク、光栄に余る思いでございます」
イザークが最敬礼を以て頭を下げる。それに対し、フレイズ藩主ヴィダルモールはにこやかに答礼した。
「よいよい、婿殿。我が娘共の命の恩人とあらば、このくらいの礼を尽くして当然であろう? ククク、娘共に代わってお礼申し上げる。……ああ、そう堅くならずともよい。今の儂は一介の父親にすぎん。そう扱って欲しい」
にこやかにそう言ってのける。底が見えない男だ。言われて、イザークは視線を戻した。
「はい。そうおっしゃって下さると助かります」
「そうそう、そのくらいが丁度良い。人の顔というのは、下から見上げるものでも、上から見下ろすものでもないのだからな。正面からでなければ、見えるものも見えぬ。儂も勇名高い【白鴉】たるイザーク殿と対面できたこと、そなたのような男を婿とできたことを嬉しく思う」
「光栄でございます。ところで、護衛の方々はいかがなされました?」
握手を交わしつつ、イザークは言った。本当に単身でやって来たとは思えない。どこかに兵が伏せてあっても不思議はない。警戒を緩めるには早すぎる。
「ああでもない、こうでもないと、あんまり鬱陶しかったのでな、抜け出してきてしまった。娘の気持ちが、少しだけ分かったかな? ……兵など伏せてはおらんよ。信じられぬというのであれば、儂と娘共を斬ってフレイズを断絶すればいい」
(これは……只者じゃない)
――謀略嗜好とは臆病さの裏返しである。自分の安全が脅かされるのではないか? 自分が損失を被るのではないか? そうした思いが、謀略による自衛へと置き替わるのだ。しかし、この男は本当の意味での謀略家なのだ。
「ともかく、まずはさっさと公事を片付けてしまおう。真王国へようこそ。我らフレイズの民はそなた達を受け入れるであろうよ。これを証拠として欲しい」
ヴィダルモールは二枚の証文を取り出した。相互の軍事協力証明、いわば雇用契約書だ。イザークはすばやくそれに目を通した。
「条件が破格ではありませんか?」
期限自由、藩軍との独立性の保持、相場より遙かに良い賃金。条件が良すぎる。かえってそれが恐ろしい。
「何を言う。婿殿には、滅多な条件は提示できんよ」
本当にそれだけだろうか? 正直なところ、イザークは目の前の男が恐ろしかった。武器を取っての戦いには自信があるが、ペンを使った戦いで、この男に勝てる気はしない。できる事であれば、裸足で逃げ出してしまいたい。
「手勢を抜きにして、そなた一人だけでも、どれほどの価値を持つのか。自分でも理解しておらぬのか? 残念ながらタネルとやらにはそなたを使いこなすだけの度量が無かったようだが、儂をあのような愚物と同じにしてもらっては困る」
さすがはフレイズ藩主、タネルやグヴァインとの軋轢は承知していたようだ。
「そなたには金を与える。兵権を与える。地位と権威もくれてやる。そしてその使い道も用意しようではないか」
「使い道?」
「うむ、我らは今、窮地に立たされている。これは、ここだけの話にしておいて欲しいのだが……と言っても、そなたは既に全て承知しておろう? 儂は一人でも多くの信頼できる味方が欲しいのだよ。そなたは能力においても、信義においても裏切りを知らぬ」
そこまで言われれば戦士の本懐というものだ。イザークとしても、これ以上の疑念はかえって器量を疑われることにもなると理解していた。
「承知しました。……ですが、もう一つの条件の方は……」
リィンとその子の藩主継承権の永久破棄を認めること。それがもう一つの条件だったはずだ。
「ククク、そう焦るな。ちゃんと用意してきたよ。ともかく、娘と孫を呼んできてはくれんかね? あれとは、もう5年も会っていない」
「その必要はない。……お久しぶりだな、父上」
リィンがシュリクを抱いて天幕に入ってきた。父親の急な訪問を聞きつけて、慌ててやってきたのだろう。
「我が愛しき娘よ、盗み聞きとは行儀が良くないな。……なんとも久しぶりだ。美しくなったな。その子がそなたの子か?」
「ああ。キリーン・シュリク。私の子だ」
「お前には、あれの面影が強くあるな。息災であったか?」
そんな父の言葉を聞いたリィンが肩をすくめる。
「なにをいまさら……私の動向をずっと見張っていたくせに」
「そう言うな。父親としては無鉄砲な娘の行く末が心配でないはずがなかろう」
「……そうだな、貴方に父親としての自覚があるのなら、シュリクを抱いてやって欲しい。ただし、一回限りだ。それ以上は許さない」
「これは怖い。だが、愛しい孫を抱くのに異存はない。どれ、貸してごらん」
ヴィダルモールはリィンの手から子供を受け取った。意外なことに、その抱き方が手馴れている。シュリクは泣き叫ぶようなことも無く、じっと祖父の顔を見つめている。
「ふふふ、お前に似て可愛い子だ。きっと良い子に育つだろうよ。……キリーン・シュリクと名付けたとな。フレイズの名を与えられなかったのは、たぶん、そなたにとって幸福なことなのであろう。……儂としては寂しいがな」
両手で高く掲げてから、すっと顔を近づける。
「よいか、そなたの祖父の顔をよーく覚えておけ。お母上は怖いお人で、この一度しかそなたに会わせてくれぬらしいからな。……強く在れよ?」
その間も、シュリクはじっと祖父の顔を見つめていた。その様子に満足したか、ヴィダルモールはにっこりと笑みを浮かべた。
「リィンよ、なかなか趣のある事をしてくれた。礼を言う」
ヴィダルモールはリィンにそっと子供を返した。
「では、そなた達の継承権破棄を認める。この文書を良く確認して、本人が印をするように」
ヴィダルモールが二枚の公文書を取り出した。片方はリィンの控えになる。リィンはそれをしばらく読んでいたが、やがて意を決すると、印を刻んだ。ぼんやりしているシュリクの手にも持たせて、同様に刻ませる。それにヴィダルモールがフレイズ藩主の印章を捺印した。
「これにてフレイズ藩主位の継承権破棄を認める。第二継承者フレイズ公女リィンドレイク、ならびにその長子、第三継承者キリーン・シュリク、双方とも異存はないな?」
ヴィダルモールが、フレイズ藩主として、厳かに言う。
「ない。……すまないな、父上」
リィンの口から、自然と詫びの言葉が漏れる。藩主の座を蹴るということの意味くらいはわかっている。彼女もまたフレイズ公女なのだ。
「よいよい。そう言ってくれただけでも嬉しいよ、我が愛しき娘。さて、今度は婿殿だ。条件に異存がなければ、この文書に印をして欲しい」
「わかりました」
イザークも先程の契約書に印する。
「では、これにて自由戦士団【鴉党】をフレイズの同胞と認める。勝利が共にあらん事を!」
「はい。勝利が共にあらん事を!」
そこまでを済ませると、ヴィダルモールは相好を崩した。
「さて、これでそなた達との公事が済んでしまった。どうにもこの手の儀式は面倒でいかん。ともあれ、婿殿にはフレイズに入って欲しい。そこでまた、様々な取り決めをせねばならんからな。兵舎と兵糧はこちらで用意しておく」
「承知しました。では、これより進軍を開始いたします。このままケレイテン街道を北上、ラベール、イロを経由してフレイズに入ります」
ここはまだリーモス藩領だ。フレイズ所属となったからには、まずは急いでフレイズ領内に入るべきだろう。
「まあ、そんなに慌てることはない。それより、もう一人の我が愛しき娘は何処におる? あれには、少し灸を据えてやりたいところだが……」
言うまでも無い。サティンの事だ。
「姉上なら、あちらの天幕にいるはずだ」
「そうか。では、顔を見せてくるとしよう。では、婿殿、リィン。フレイズで会おう」
ヴィダルモールはそうとだけ言って、さっさと行ってしまった。まるで、我が庭のような気軽さだ。
イザークは複雑な気持ちだ。状況次第であるいはと、様々に準備しておいた対策が、すべて無駄になった。良い意味で、だが。
「お前の父親は……一筋縄ではいかんな。正直、俺は恐ろしい」
イザークはやっと緊張を解いた。なぜか、猛烈な疲労を感じていた。
「まったくだ。……まあ、あんなのでも味方なんだ。敵に回すよりはましというものさ。良しとすべきだろう。そもそも、これはザクが決めたことだろう? 私はずっと反対してたんだぞ」
「……まったくだ。頭が痛い」
深い吐息とともに、イザークは天井を見上げた。
「どれ? 我が娘はおるかな?」
その声とともに入ってきた人影は、間違いない――父親だ。単身でここ、コーツに現れたという話は本当だったらしい。サティンは今この瞬間まで、その情報をまったく信じていなかった。
「父様……お久しぶりです」
サティンの態度も、どこかぎこちないものになる。
「まったくもって久しぶりだ。……よく無事でいてくれた。テス・ディオール殿もご無事か。これは良かった。我が娘を救っていただいて、感謝の気持ちで一杯だよ。……それに、こちらの小さい方々はフィン・テリウス君とティフ・セントール君だね。そなた達にも礼を言う。これからも、クレールの良い友人であって欲しい」
クレールというのはサティナルクレール=サティンの公称だ。そう言えば、この名前で呼ばれるのは久しぶりな気がする。しかし、ディオールはともかく、テリウスとティフのことをよくも調べたものだ。
「いろいろと危険な目にも遭ったようだな。どうだ? 少しは勉強になったか?」
「ええ」
勉強。それだけのものだろうか? だが、父は娘の困惑などお構いなしに話を続けた。
「さて、いきなりで悪いが、テス・ディオール殿。そなたとクレールの約束はどのようになっている? どうせ、勝手なことを約束されたのではないか?」
「いや、大したことは約束されていない。適切な金銭報酬だけだ」
ディオールは嘘を吐いた。サティンは「望むまま」の報酬と、彼の義姉の仇を捜すと約束したはずだ。それを察してか、ヴィダルモールが笑う。
「ククク、そなたは相変わらず欲がない。それでは、もう一つ、今度は儂と契約して欲しい。これから起こるであろう紛争に、力を貸して欲しいのだ。とりあえずは、急場をしのぐまでで構わん」
「紛争と言われても、俺には見当がつかない。期間はどのくらいになる?」
ディオールはフレイズ藩主を前にしても動じる気配すら見せない。いや、この二人、以前にも会ったことがあるのかもしれない。
「そう時間はかからないとも。では、簡単に説明しよう。……この事は他言無用だぞ?」
「了解した」
「現在、我らの同盟者のアシン藩がビード藩の侵攻を受けている。これは完全にビード藩に非がある。大義名分を有耶無耶にしての侵略行為だからな」
この人に大義名分がどうのと言う資格があるのだろうか? サティンはそう思わざるを得ない。
「我らにはアシン藩を救う義務がある。さらに言うなら、先日の北海における私掠行為にしても、なんら弁明がない。ビード藩には、フレイズ公女サティナルクレール暗殺未遂ならびにレイシュローグ・ハサート近衛隊長とその部下四名暗殺の告発がなされている」
案の定だ。あの北海上での戦闘ですら、政治の材料に変えてみせる。これがこの男の正体だ。
ヴィダルモールはそこで一旦言葉を切った。娘の冷たい視線を少しだけ見返してから、続けて語る。
「我らフレイズ藩はビード藩に宣戦を布告する準備がある。これは藩主自らが指揮を執り、同盟者を救うためものであって、侵略意志はない。だが……ここで一つ問題が生じた。まことにもって信じられぬ事だが……ビードは北の【蛮族】と手を結んだ。我らがフレイズを留守にすれば、領境より侵入し、フレイズを急襲する手はずになっている」
そんな馬鹿なことがあるのだろうか? 歴史上、八藩主が外部と手を結んで身内を攻撃したことはない。300年もの間、一度たりともなかったのだ。有り得ない。それが事実ならば、真王国開闢以来の大事件になる。
「……誤報の可能性は?」
ディオールの疑問はもっともなものだ。だが、ヴィダルモールは一言の元に否定した。
「無い。事実、北方の領境に斥候らしき者どもが目撃されている。全ての情報が、一つの結論を導き出しているのだ。しかし、我らはそれでもアシンへ向かい、同盟者を救わねばならん。さもなくば我々はありもしない【蛮族】共の襲撃を恐れて同盟者を見捨てた不義理の誹りを受けることになる」
真王国の守護者としての道理と常識を思考の外に叩きだすことさえ出来れば、極めて有効な、恐るべき一手と言わざるを得ない。動けば背中を襲われる。動かなければ外交が破綻する。どちらを取っても、仕掛けた側の有利は揺るがない。
「そう……我らには手が足りないのだよ。そなたと婿殿でもって、侵入してくる【蛮族】を討って欲しい。【白鴉】ネイ・イザークに加え、【蒼鷲】【群青の戦士】たるテス・ディオールが味方するとなれば、我らの士気も上がるというもの」
「……」
「このことはまだ婿殿にも話してはいない。【白鴉】たる者、既に承知していることだろうがな。これから兵力の分配なども相談せねばならない。……どうだ、やってくれるか?」
サティンは固唾を呑んでディオールの返事を待った。彼の返事で全てが決まる。
「承知した。ただし、間違いなく今回限りだと、念を押しておく」
とうとう、【鴉党】はフレイズ入りを果たした。まだ正式な軍舎は無いため、用意されたフレイズ藩軍のものを間借りすることになっている。
「帰ってきたのね……ここに」
サティンには感慨深い。ダイクの港から自由国境域まで出たのが、ついこの前の事に感じられる。自分には、望郷の念などないと思っていた。しかし、故郷の風。空。それら全てが懐かしい。
「ここがフレイズかあ……凄いなあ」
テリウスが感嘆の声を上げた。工業都市ジーファステイア以上の規模でありながら、秩序を伴って完成された都市。自由国境域の都市達には望むべくもないものが、そこにあった。
高く、厚い城壁。東南と西に開かれた大門は、そのまま領内の主要都市に直結する。都市中央部の広場は大きく開かれ、初春の寒さの中であっても、自由市場は賑わっている。北側にはフレイズ藩主の居城がそびえる。市街部と城部とで一体化された防御は、フレイズ藩開闢以来、難攻不落をもって鳴るこの巨大城塞を揺るぎない物としていた。
サティン達は【鴉党】と別れ、フレイズ藩主の居城に入った。すると、入り口の大ホールで父が出迎えた。
「良く帰ったな、クレール。とりあえず、自分の部屋を片付けてくるように。それから、そちらの小さなお客様にも部屋を用意させた。自分の家だと思ってくつろいで欲しい。わからないことがあれば家令のモリスに聞きなさい。ディオール殿はこちらに。早速だが、色々と決めることがある。では、夕食までには準備を済ませるのだぞ? クレール」
ヴィダルモールはそうとだけ言って、ディオールを連れて去っていった。コーツの時同様、奇妙に腰が軽い。
(父様はあれほど活動的な人物だったかしら?)
いや、元々自分で何でもやりたがる人だったから、必要とあればあちこちに直接顔を出していた。しかし、もっと厳かに、権威を纏い、慎重に振る舞っていたはずだ。あれほどまでに気楽に歩き回る人ではなかったはずだ。何か理由があるのだろうか。まさか、娘二人が帰ってきて浮かれているというわけでもなかろう。
「凄いなあ。なんだかんだ言っても、サティンって本当にお姫様なんだね」
ティフが周りを見回しながら言った。
「その『なんだかんだ』ってのは何かしら?」
「だって、あまりそれらしく見えないんだもの。いい意味でよ?」
「ふふふ、じゃあ、部屋へ案内するわね。こっちよ」
サティンが先に立って二人を案内する。長い間空けていたとはいえ、自分の家だ。このくらいは容易いことだ。
「サティンさんって……凄いんですね」
テリウスが唐突にそう言った。
「? どういうこと?」
「旅先では、色々と不自由したでしょう?」
普段、これだけの生活をしている人間が長旅をするのは、決して楽なことではないはずだ。テリウスが知る限り、粗食に不満を表していたことはないし、粗衣も気にせず、革鎧まで身につけていた。
「ああ、そういう事? 私は昔から街の方に行ったりもしたからね。母様も贅沢はさせてくれなかったし。……テリウスは山の中での醜態を知ってるじゃないの。どこが凄いのよ」
アーエンフルの山中で倒れたことを言っているのである。それがもとで、大変な危機を招いた。
「そんなこともありましたけど。まあ、それを含めてですよ」
「それを言うなら、貴方達のほうが凄いと思うわよ、私は」
(【冠】の持ち主ね……)
サティンは一日経つごとに目に見えて成長していく少年を感慨深げに見つめた。真王国において【冠】の字をあてることは、本来不敬とされる。しかし、この少年にはそれこそが相応しいのだろう。
「ねえねえ? 醜態ってなんのこと?」
ティフが訊いてきた。彼女はその事を知らない。
「あなたは知らなくていい事よ。テリウスも秘密にしておいてね? 恥ずかしいから」
「はい、わかりました」
「なんか狡いなあ……」
ティフが拗ねている。拗ねられても、教えるつもりはない。隠すほどのものでもないが、恥には違いない。
そんなことを話しているうちに、部屋に着いた。
「さあ、ここを使って頂戴」
「うわー、こんな綺麗な部屋使って良いの?」
伊達に藩主の居城ではない。贅沢に慣れていない二人のために比較的質素な部屋を選んだようだが、それでも十分過ぎるほど豪奢な部屋だ。二人にとっては、天蓋付きの寝台一つとっても衝撃だろう。
「夕食の準備ができたら、呼びに行かせるから。迷子にならなければ、探検してても良いわよ。私はまだやることがあるから」
「うん、ありがと。じゃあ、また後でね」
シエラはこれから子供達の食事の準備をしなければならない。ぽかりと空いた空席。それでも、その分の食事を準備することは忘れなかった。
「クルト。ちょっと井戸まで行って水を用意してきて頂戴。それからクレイ。そっちの火を見てもらえるかしら?」
息子達に手伝いを頼む。それは、彼女達にとって、この時間における自然な姿になりつつあった。いるべき人がいない。その状態が自然になるというのは、悲しいことだろうか?
「母さん! た、大変だよ!」
息子が騒いでいる。何事だろう。
「なに? どうしたの?」
「公女様……クレール様だよ!」
サティンは、自分が無事にフレイズへ帰還する事が出来たなら、まず、ここに来ると決めていた。自分を愛し、慈しみ、守って死んだ守役レイシュローグ・ハサートの私邸。現在はその遺族が住んでいるはずだった。
その前まで来たときに、丁度、中から子供が飛び出してきたのとぶつかった。それほどの勢いがあったわけではなく、二人とも倒れるような事は無かった。
「あ、ごめん。急いでい……え?」
サティンの容姿は目立つ。ましてや、ここフレイズで彼女の顔を知らない者はいない。ぶつかってきた少年の目が驚きに見開かれる。慌てて家の中の人間を呼んだ。
「母さん! た、大変だよ!」
中から女の声がした。
「なに? どうしたの?」
「公女様……クレール様だよ!」
中から、子供を連れて一人の中年女性が顔を出した。
「まあ、クレール様。……なぜ、このようなところに?」
サティンが帰還したという知らせは、フレイズの誰もが知っていることだった。しかし、それも昨日の今日の話だ。その彼女が、なぜこのような場所を訪れるというのだろう?
「お久しぶりです。シエラさん」
「ともかく、中にお入り下さい」
サティンは中に案内された。レイシュはその性格通り、家庭においても堅実な倹約家だったから、その立場の割には、生活は質素だった。遺族達も、それを守り続けているようだ。
「このようにお忙しい時間の、突然の訪問をお許し下さい」
「いえ……もったいないお言葉でございます」
サティンは三人の遺族と向き合った。
「私は、お詫び申し上げなければなりません。私の不徳と不注意から、貴女達にとってかけがいのない人を死なせました。こうして顔を見せる事自体、貴女達に不快を与えるかもしれませんが、私にはこれしか思いつきませんでした。お許し下さい」
サティンは深々と頭を下げた。彼等には謝罪のしようがない。自分がもっと事態を深刻に捉えていれば、彼らにこんな思いをさせなくて済んだはずなのだ。
三人の遺族――彼の妻と双子の息子――が息をのむ音が聞こえた。しばらくお互いに沈黙していたが、しばらくしてシエラが言った。
「クレール様、どうかお顔をあげて下さいませ。我が夫レイシュは貴女を守って立派に戦死いたしました。夫は貴女の為に死ねることを誇りに思うと、常々申しておりました。どうか、御自分をそんなに責めないで下さいませ」
「ですが……」
言いかけたサティンを遮って、シエラはなおも続けた。
「貴女はこうして御無事に帰って来て下さいました。それも、お約束通りリィン様をお連れになって。それこそが、我が夫のただ一つの望みでございました。私は夫の望みを叶えて下さったことに感謝しております。貴女の事を、【我が娘】とも。ならば、私の娘も同然。自分の娘を責める親がどこにおりましょう」
サティンの顔を涙が濡らす。堪らず、顔を両手で覆う。
「ありがとう……ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
「クレール様……どうかお顔をお拭きになって下さいませ」
「本当に、ありがとうございます」
顔を上げることができないサティンを見て、シエラが言った。
「……では、もう一つだけ。夫に代わって、私のお願いを訊いては頂けますでしょうか?」
「はい。なんなりと」
「きっと父君の跡をお継ぎになって、立派な藩主になって下さいませ。それだけが、私と我が夫の望みでございます」
「……はい」
それを聞いた兄弟の片方が立ち上がって、サティンの側にやってきた。そして、固い決意の色を含んだ声で言った。
「クレール様。僕は将来、軍に入ります。そうして、貴女を守って見せます。父さんがそうしたように、貴女は僕が守ります。必ず。どうか、僕を見ていて下さい」
幼い誓い。幼いが故に固く、一途な誓い。
「わかりました。……必ずやご期待に応えて見せます。どうか、どうか、お見捨て無きようお願いします。必ず。このフレイズは、貴女達は私が守ります」
フレイズの軍議室。藩主とディオールとイザークと。他、藩主によって任じられた参謀2名、軍団指揮官17名が参加する。
――フレイズの主軍をもっとも特徴付けているのは重騎兵の存在だ。真王国北方に数多く生息していた大型の野生馬を家畜化して軍馬とし、人馬を甲冑で包むことで、機動力と装甲を両立させている。全備重量にして約1トン。同数の敵軍に対しての突破成功率十割を誇る、この重騎兵は主軍の約2割を占め、自由国境域はもちろん、真王国の他藩主軍にさえ対抗しうる存在はないとされる。
欠点は軍馬とそれを操る騎兵の育成コストと、馬匹の調達のための運用コストが非常に高くつき、しかも損失の補充が効かないことだろう。さらにはフレイズの厳しい冬による制約と併せ、長丁場を維持することができないという本質的な問題点を抱えている。歴代フレイズ藩主は、この精強無比の軍兵をいかに有効な戦局へ、集中的に投入するかに頭を悩ませてきた。
精強を誇るフレイズ軍だが、常に藩主自らが指揮を執るため、参謀に当たる人間は少数だ。かつては近衛のレイシュが副官なり留守居なりを務めたこともあるが、それを除けば、藩主が全兵権を握っている。これはフレイズ軍の伝統的なものというわけでもなく、ヴィダルモールが兵権の分散を嫌ったためによるものだ。無論、数万もの軍兵を一人で指揮し切れるものではなく、騎兵300と歩兵900ごとに軍団化した上で、前線指揮官への権限委譲はむしろ活発に行われている。各軍団は藩主と直結されていながら、与えられた権限の中であれば、比較的自由に振る舞って良いことになっている。各軍団長の指揮の下、彼らは互いに牽制しあいながら、武勲を競い合うのだ。
これにより、藩主自身は多くても数十程度の人間に対して命令を出せば済み、その伝達速度も保たれる。また、各軍団の能力を平衡化することで叛乱を防ぐ効果もある。
反面、細部の指示が行き渡り辛く、ある程度は各軍団長の判断に任せざるを得ないという点に不安がある。それでも、藩主の畏怖すべきカリスマと、勇武を尊ぶフレイズの伝統と気質が、フレイズ軍を真王国最強の戦闘集団に仕立て上げていた。
「我々は三日後にフレイズを発ち、アシン藩の救援に向かう。これは主軍の内、儂の直轄の他、第一から第十二、十四、十八軍団とする。正面戦力で22,000程度になるはずだな。その上でこのフレイズの防備兵と留守軍、婿殿の手勢を合わせて7,500程度を残すことになる。【蛮族】の侵攻軍の詳細は不明だが多くて10,000,少なくて8,000と言ったところだろう」
地図上の軍駒の過半を南へ、一部をフレイズに止める。
「既に皆には伝えた通り、留守軍の指揮は婿殿に一任する。不満や不安が在る者は今のうちに申すがよい。今ならば許す」
そう藩主に問われて、各軍団指揮官達の表情は様々だ。勇名高い【白鴉】を信頼し戦意を高める者もいれば、田舎の傭兵上がりと蔑む者もいる。それでも藩主からの正式な兵権委譲と、藩主の娘婿という立場は一定の権威をイザークに与えていた。
イザークとて、最初から彼らの完全な信頼を得られるとは考えていない。彼らの複雑な感情は理解できるし、それがフレイズの尚武の気風から生じているものとなれば尊重もする。ともあれ、多少の混乱は生じるものとして織り込んでいくしか無いだろう。
「よし。そなた達は 【蛮族】の侵入を防いでくれればよい。すまないが、残す兵力は十分とは言えぬ。撃って出るなり、防御に徹するなり、方針は婿殿に任せる」
「フレイズ以外……真王国領境の防備はよろしいのですか?」
イザークが言う。主都フレイズさえ無事なら良いという理屈は通用しないだろう。
「多少の被害には目を瞑る。やむを得まい。我らには力が足りぬ。付近住民には、既に避難勧告を出してある。中途半端に兵を配置するよりは、放っておいた方が、被害が少ないやもしれぬな」
「タージス藩やリーモス藩に【蛮族】が侵入した場合にはどうする?」
ディオールは他藩に侵攻された場合を恐れた。真王国の混乱は、すなわち地上の混乱となる可能性があるのだ。特にリーモス藩の防備体勢には不安がある。
「それはそれで構わぬ。やりたいようにさせておけばよい。自分で何とかするであろう」
「それならば、タージス藩あたりに援軍を求めては?」
こういうときにこそ、八藩主――もはや七藩主なのかもしれないが――の団結力を見せるときではないか。しかし、ヴィダルモールは首を左右に振った。
「ビードと結んだ【蛮族】が攻めてくるなどと、いったい誰が信じる? 仮に信じたとしても、儂を救おうなどと考えるかどうかは疑問だな。ククク、忘れたか、儂は【北の餓狼】だぞ」
いつこちらに牙を向けるかもしれない輩を助けには来ないということだろうか? それが事実だとすれば、八藩主の連帯感というのは、世間で語られるほどのものではなく、案外と危ういものなのかもしれない。
「我らはそう長い間遠征に出るわけではない。せいぜい半年、どれほど長くても1年はかかるまい。雪が本格的に降る前には戻る。こちらの現場指揮は、そなた達に任せたぞ? 【白鴉】に【蒼鷲】。その手腕を見せてもらうとしよう」
この世のどことも思えぬ怪しげな空間。その中心の白衣の男。白すぎる顔と漆黒の髪と瞳が、その怪奇な迫力を増している。
「ついに【血輪】は綻びた。【真王】陛下の不肖の子供達がどうでるか……」
誰に言うでもなく、そう一人で言う。長い間、彼はそうしてきた。
不意に、その能面のような顔が笑みを浮かべる。彼一人だけのはずの空間に、久しぶりの侵入者が現れたからだ。
「久しぶりだね、【星の権】」
女だ。昔馴染みとも言えるし、互いに仇敵同士とも言える。
「これは竜の君。いかがお過ごしでしたかな?」
そう呼ばれた女が、その幼さが残った美しい顔に毒の花を咲かせた。
「あんたは相変わらずだねえ。こんなところに引きこもって、今度は何をしているんだい?」
「ふふふ、秘密ですよ」
「ふん。あんたの頭をたたき割ってから、脳髄に直接訊いてみるかい? あたしの【月】が、早くあんたを八つ裂きにしろって、さっきからうるさいんだ。ただ押さえておくのも、結構大変なんだよ?」
女が敵意を放つ。その強烈な瘴気は、普通の人間ならばたちまちの内に気死するほどのものだろう。【三つ名】は伊達ではない。しかしまた、男も常人では無かった。――否、人ですら無かった。
「これは恐ろしい。ですが、私は貴女とやり合うつもりはありませんから」
戦えないわけではないが、それは自分の望むところではない。相手とて本気ではない。本気ならば、言葉など交わさずに、一気に来る。そういう女だ。
「ふん。殺しても死なないような奴を引き裂いたって、面白くもないさ。あたしは忠告に来ただけだよ。……あんたが動くとろくな事にならない。これ以上、無闇に介入してくれるな」
勘付かれた。だが、事態はもはやどうにもならないところまで進んでいるのだ。だからこそ、彼女もこうしてやって来たのだろう。
「これは手厳しい。……私は生まれ出ずる全てを祝福する者。こうしているのも、決して悪意から為しているのではないと、信じていただけませんか」
それでも女は敵意を緩めない。
「戯れ言は要らないんだよ。手を引くか、今すぐ消し飛ぶかのどちらかだ」
男は嘆息したように肩を落として見せた。この身体には本来そんな機能はない。単に、この女にそうして見せただけだ。
「これは私にとってとても大事な【賭け】なのですよ……永い永い時間を過ごしてきた貴女と私。少しくらいはご理解いただけるものと思っていましたが」
それを聞いた女が心底嫌そうな顔をした。嫌悪感を隠そうともしない。
「あたしにわかって堪るものかよ。レーヴも、あんたもわからない。あんたみたいな空の上の幽霊如きが生意気に、いっぱしの人間様みたいなことを言うんじゃないよ……これ以上、何かしようっていうなら、あたしにも考えがある」
「ふむ、そう仰られましても。私達は既に失敗しているのですから。償いとは申しませんが、せめて開けた穴を埋め戻すまでは……」
そう言いかけて、女に遮られた。
「待て。あんたじゃないのか」
その反応は男にとっても意外だった。道理で、微妙に話が合わないわけだ。
「お互い、誤解があるようですね。なぜ、あの素晴らしい出来事を、私が害さなければならないのです?」
「あれが全部、偶然だったって言うのかい」
そんな女の様子が面白くなって、男は言葉を続けた。
「かつて、私はこの地上にあまりにも多くの毒を撒き散らしましたから……私は妨害も干渉もしていませんが、支援もしておりません。それは失敗だったと認めましょう。きっと、どんな手を使ってでも救援するべきだったのでしょう」
「……」
「それは貴女も同じことのはず。しかし、たとえば貴女のご子息を同行させていたとしても、結果は変わらなかったことでしょう。……恐ろしい話です。これほどまでに世界は新生を嫌う」
「……なんてこった」
女は手を顔にあてて天を見上げた。この女が悲嘆に暮れる姿という、随分と珍しいものを見た気がして、男も少し驚いたのかもしれない。
「残念ながら、既に私は【賭け】に負けてしまったのです。しかし、次の【賭け】に挑む。次は私が勝つ」
女はしばらく沈黙していたが、ややあって、大きなため息と共に言った。
「はぁ……あたしも歳を取ったもんだ。こんなことをやらかすのは、あんたかあのバカのどちらかだと思ったんだがね。まあいい。誤解は謝ろうじゃないか。既に手遅れかもしれないが、それでも何かできることがあるかもしれない」
そこで男の手元に写る光景に目をとめた。赤い目を細めて、じっと覗き込んだ。
「あんたの次ってのは真王国かい」
「ええ……とても興味深いことになっているのです。どうです? 一緒にご覧になりませんか? 【竜】の君」
そうしてニヤニヤと笑ってみせる男を一睨みしてから、吐き捨てるように女が言う。
「ふん、あんた達はやっぱりわからない。まるで別世界の生き物のようだね。何を考えているのかなんて些細なことじゃない。もっと本質的な部分で、あたしにはわからないね。……わかりたいとも思わないけれどさ」
「ふふふ……生き物とも限りますまい。なにしろ、私自身にさえも、私というものがよくわからないでいるのですから」
「さあ、陛下の大いなる守護にして血の呪縛、【血輪】は綻びようとしています。【蒼鷲】と【白鴉】。この地上最高の勇者二人がこれからどれだけのものを為しうるのか? それとも鎖に繋がれて地に墜ちるのか。実に面白そうではありませんか」
「『愛しなさい、その人を』
『誇りなさい、その愛を』
『語りなさい、その想いを』
『見せなさい、その証を』」
夜の歌。愛の歌。弔いの歌。歓びの歌。悲しみの歌。サティンは歌う。その感情を。その想いを。二人の子供が、それを静かに聴いている。サティンが一通り歌い終わると、初めて口を開いた。
「ありがとう。やっぱサティンって凄いわね。吸い込まれそうな歌声ってものなのかしら? 聴いてるだけで、涙が出そうになるもの」
「ふふ、お褒めにあずかり光栄至極にございます」
サティンはそう言って華麗に頭を下げた。
――旅先と違い、今のサティンは相応の装束を纏っている。身体を包む、華美ではないが清楚で美しいドレス。それは彼女の神秘的な美しさを飾った。今のサティンは間違いなく【白夜の歌姫】サティナルクレールなのだろう。右の紫眸が、その白銀の美しさを引き締めていた。
「明日からは、いろいろとドタバタすると思うから。今だけよ、こんなにのんびりしていられるのは」
いよいよ本格的に戦争の準備が行われるだろう。そうなれば、色々と忙しくなる。
「サティンさんはどうするんです?」
「私はここに居ざるを得ないわよ。父様が前線に出るなら、私はここで旗印のようなものになるからね。ふふふ、お留守番ね。今回は貴方達もここにいるのよ? 間違っても手伝おうだとか、一緒に行こうだとかなんて考えないこと。いい?」
「それはわかっていますけれど」
テリウスにしろ、ティフにしろ、そこまで無謀なことをするつもりはない。そんな事をしたところで、周囲に多大な迷惑をかけるだけだ。
「素直なのはそなたの一番の財産である、なんてね。……空しいわね。私がリィンみたいなら、きっといろいろと役に立てるのに。ここでじっとしてるしかないなんてね」
そのリィンも、今回は留守組だ。シュリクから目を離すわけにはいかないからだろう。その点では、彼女はまだ父親に心を許していない。
「そんなことないよ。サティンだって、サティンにしかできないことがいっぱいあると思うの。……自分を貶めるのは恥ずべき事だ、って先生の口癖だったよ」
「ありがとう。そう言ってくれると助かるわ」
「あーあ。でも、私も退屈よ。なにもできないもの。テリウスをからかうのも飽きたし」
「誰が、誰を、いつ、どうやって、からかったんだい? 詳しく訊きたいな」
テリウスは一度確立した優位を手放すつもりはないようだ。ティフの暴言に、すかさずつっこむ。
「言葉の綾よ。言葉の」
「それはちょっと違う気がするけれど。……僕も大人しく留守番していますよ。必要ない迷惑をかけても仕方がありませんから。ちょっと、時間がありそうですね」
「暇なら、図書室を開架しておくから、本を読んでみたらどう?」
「ええ! 本当? それは嬉しいな。いろいろと調べたい事とがあるんだ」
この申し出はティフにとって有り難かった。これまでに得た知識について検証したい。フレイズの書庫ならば、質量ともに申し分無いだろう。
「そう。じゃあ、明日にでもそうしておくわね。本当は【式使】向けの実験器具もあったらよかったのだけど、今はちょっとね。落ち着いたら取り寄せて上げるから」
「ううん、ありがとう。まずは本と格闘してみる」
「ふふ、がんばってね。……さて、そろそろ今日は寝た方がいいわね。では、最後に一曲。なんなりとご所望下さいませ」
「婿殿、そなたにだけ話しておきたいことがある。……少し時間を頂けるかな?」
ヴィダルモールがイザークを訪れたのは深夜のことだった。
「故に! 我らフレイズ藩は同胞アシン藩を救うべく、軍を挙げるものとする! かの敵に鉄槌を!」
ヴィダルモールが宣戦演説を行っている。現在の状況や開戦の名分を軍兵に説き、士気高揚を狙うものだ。ただし、ビード藩が【蛮族】と手を結んだことについては触れていなかった。
「では、疑義のある者はあるか! 遠慮をすることはない。問うがよい!」
そう言われて、一人の士官が名乗りを上げた。
「我らがフレイズを空けている間に、後背を狙われた場合には、我らは帰る場所を失います。その事を、藩主はどのようにお考えでございましょう?」
そんなことは、ここにいる誰もが知っている。半分は演出のような物だ。
「それは心配するに値しない。そのために、我らは心強い味方を得た。諸君らも、その名は知っておろう。自由戦士団【鴉党】を率いて勇名鳴り響く【白鴉】ネイ・イザーク殿と、かつて【蒼鷲】【群青の戦士】と呼ばれた【大戦】の英雄テス・ディオール殿である!」
大歓声が鳴り響く。それを押さえて、まず、イザークが口を開いた。
「俺がネイ・イザークだ。諸君にしてみれば、俺と【鴉党】は異邦人にすぎない。だが、フレイズの正義たるを貫く上では、諸君と一心であると固く信じて疑わない! どうか我々を信じて、かの地で諸君の主君を守り助けて欲しい!」
さらにディオールも。
「紹介頂いたテス・ディオールだ。イザーク殿の言う通り、諸君が後背の心配をする必要は皆無である。諸君はただ前進し、敵をうち倒すことのみを考えてくれればいい」
兵達の歓声が士気の高さを示していた。半ば、陶酔的な感情のみによって、戦いに駆り出されようとしている。
そんな光景を少し離れた場所で見ていたティフが、小さい声で呟いた。
「凄いね、戦争って」
テリウスがそれに応える。
「うん……怖い?」
「別に怖くはないけどさ。……あの人達の何人かは、間違いなく死んじゃうんだって、そう思っただけ」
「故郷のために死ぬって考え方は、あっちには無いからね。これが300年の歴史ってものなのかな」
「うん……私には多分、ずっとわからないな。私は、私のために死にたいって思うから」
藩主の演説が終わる。いよいよ出陣だ。
「出撃!」
一斉に鬨の声があがった。
「出撃!」
「出撃!」
真王国暦305年 4月 フレイズ藩主ヴィダルモール、フレイズ藩主力を率いて、ビード藩軍との決戦のために出兵。
「おつかれさまね、ディオール、イザーク」
演説を終えた二人を、サティンとリィンが出迎えた。
「まったく。こういったことは、どうしても好きになれん」
「これも仕事の内だ。仕方があるまい」
「まあな。……リィン、国境の動きはどうなっている?」
「今のところ、これといった情報は無いようだ。動きがあるにしても、あと一週間はかかるだろう」
フレイズ藩軍主力の出兵を感知して、それからの侵攻だと仮定すれば、どれほど早くても半月程度はかかる。早すぎれば、出陣した主軍が反転してきてしまうし、遅ければ時期を逸することになる。【蛮族】としても、侵攻のタイミングには重きを置くだろう。とはいえ、【蛮族】の戦略戦術など常識で計れたものではないが。
「準備の方はできてるのかしら?」
「ああ。相手の出方次第だが、負けはしないと思う。……ディオール、すまないが、今回は俺の指示に従ってもらうぞ?」
「それは承知している。【白鴉】の実力を見せてもらおう」
フレイズ藩領の北方に【蛮族】の先遣隊の姿が発見されたのは、20日後のことだった。無人の領境を越え、フレイズ主都を目指して一気に迫る。
「本当に来たな。どうやら、八藩主の均衡が崩れるときが来たらしい」
ディオールは出撃準備をしていた。彼は前線指揮官としてフレイズが誇る重騎兵隊を指揮することになっている。
「いまだに信じられないわ……ビード藩はこれからどうするつもりなのかしら?」
父の予測した通り、【蛮族】が侵攻してきた。その事実をもってしても、未だにサティンは疑惑を抱いていた。
主力が出払い、手薄となった根拠地を後背より急襲する。これだけならば、戦術的にはごくまっとうなものだ。しかしその侵攻が、真王国の藩主の手引きによるものだというのだ。八藩主の一員が、外敵と結び同胞を討つ。あり得ない。外敵と手を結んだビード藩を、他藩主は許すまい。それが真王国の掟だ。自分が同じ立場なら絶対にしない。敵にむざむざと絶対の名分を与えてしまう。その程度の判断が、ビード藩主にできていないとは考えにくい。
――もう一枚、裏があるのかも知れない。
「証拠がない。それでいつまでごまかせるかは知らないが。真王国八藩主の300年の天秤が崩れたということだ」
真王国の均衡は崩壊する。天秤は大きく揺れ、その皿上にあった多くのものを振り落とすだろう。揺れが落ち着いたとき、どれほどのものが残るのだろうか。
「均衡は崩れてしまえば脆い。真王国に戦乱の嵐が来ようとしているのかも知れないな」
「それを防ぐには? なにか手はないのかしら?」
「それは貴女の仕事になるな……俺にできるのは、ここまでだ」
「……ええ。ありがとう」
その通りだ。これはディオールに頼る事柄ではない。サティン自身が将来考えるべき事だ。自分の仕事だ。
「イザークは北西の平原で迎え撃つつもりらしい。野戦になるな」
「何で私達を手伝ってくれるの? とか、死なないで、なんて事は言わないわよ、私は。……勝ってきなさい。敵を一人でも多く倒してきなさい」
サティンが公女としての顔でそう言った。ディオールも、それを甘んじて受け入れる。
「承知した。……お前は……」
ディオールが何か言いかけたが、サティンはそれと知って遮った。
「何か言いたいなら、帰ってきてからにして頂戴。それまでは何も聞きたくないわ」
毅然と、そんなことを言うサティンを見て、ディオールは微笑んだ。いつか、似たような言葉を聞いたことがあった。
「わかった。ただ……サティン、身の回りには十分に注意してくれ。いまだに船上の暗殺者のことは何もわかっていないのだからな」
交易船でサティンを狙い、レイシュを殺した暗殺者。彼等については、いまだ何もわかっていない。ヴィダルモールですら、その正体を見極め切れていない様子だった。十分に気を付けた方がいいだろう。いまだ身近に潜んでいる可能性も有る。
「それは承知したわ。でもね、実を言うと……私はそれについてはあまり心配していないの」
「どうした? ザク。お前らしくもない。弱気になったか?」
夫の様子が少しおかしい。リィンは敏感に感じ取った。別段、緊張している風でもないのだが、妙に落ち着きがない。
「今回は、私は手伝ってやれない。もとより、お前が負けるなどとは思っていないが」
「……リィン。俺がこれから何をしても……お前だけは一緒にいてくれるな?」
「どうした、ザク。なにかあるのか?」
「俺はやる。……お前達を守る」
夫は危険な覚悟を決めたらしい。そのことがリィンにはわかったが甘んじて受け入れた。いまさら、夫の決意を否定することができるほど、自分達の距離は遠くないのだ。
「お前が何を気にしているのか知らないが、私に何を遠慮している? ザクのやりたいようにすればいい。私は三年前にそう決めた。……好きにしたらいい。私が一緒にいてくれるかだと? そんなのは当たり前ではないか。この地上の人間全てがお前の敵になったとしても、私はザクと共に在る」
「すまん。礼を言う。……俺は少し弱気になっていたようだ」
「よし、さっきよりも大分まともな顔になった。大将がそんな様子では兵が不安になる。胸を張って行って来い」
「ああ、行って来る」
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