第十二話 帰還
一同は声もない。ティフが語った悲劇に打ちのめされて、彫像の如くだ。
「……それで、あなたはそれからどうしたの?」
サティンも、そうとだけ言うのが精一杯だった。
「うん。それから……」
コットエムの南門は何者かの手によって破壊されていた。誰がやったかは一目瞭然。砕かれた門柱、無数の兵士の死体、大穴の開いた門扉。
ティフとヴェンはイエムの亡骸を背負って、そこを通り抜けた。しばらく進み、街道を外れて森の中を歩いた。小高い丘の上で立ち止まる。
「ここに……ここにしましょう。イエムさんとは道で出会ったんです。何処から来て、何処へ続くのか……わからない道でしたけれど。確かに私達は、彼女の道と交わることができたのですから。ほんの一瞬だけでしたけれど」
ここはコットエム、ザイス、それに西のリーダインへ続く街道の三叉路を見下ろす位置にある。故郷を失った彼女が眠る場所として、相応しいと思われた。二人で穴を掘る。きちんとした道具も無しで掘るには堅い地面だったが、ヴェンは手が血だらけになるのさえ構わなかった。ティフが止めなければ、手を潰していただろう。大柄な彼女の身体を埋めるのには骨が折れたが、その程度の苦役がなんだというのだ。
「今までありがとう。ごめんね、今は駄目だけど……きっと、また来るからね」
彼女を含めた四人での生活は、いまや幻と消えた。イエムは死に、リアは行方不明、それにヴェンも。もはや、ヴェンは悲しんでなどいない。それどころか、その顔からはいかなる感情も見出すことはできなかった。
「ティフ、いいですか? よく聞いて。君はこれからザイス……いや、バーバィグまで行きなさい」
「なんで? もう帰りたいよ。……家に帰ろ? ね?」
ティフは首を左右に振る。義兄の幽鬼のような表情がただ恐ろしかった。
「バーバィグまで行けば、サティンさんに会えるはずです。……必ず。彼女と行きなさい」
「なんで? 義兄さんはどうするの?」
「私はリアを連れ戻してきます。だから、一緒には行けません」
「なんでよ? じゃ、じゃあ、私も義兄さんと一緒に行く。一緒に捜そうよ。姉さんを」
義兄は何を考えているのだろう。ティフにはまったくわからなかった。初めて感じる「なにか」を義兄から感じた。それは決して好ましい感覚ではなかった。
「駄目です。駄目なんです。……君は知らないでいいこと……いや、知ってはいけないことなんです」
ティフには義兄の言っていることがわからない。わかりたくもない。
「嫌よ。私はあの時誓ったんだよ。全てを知るんだって。……なのに……先生のことも、イエムのことも、姉さんのことも、義兄さんのことも……何にもわかんないじゃないの!」
残ったのは、ただのガラクタの【陽杯】だけだ。せめて、これが伝承にあるような、本当の秘宝だったなら良かったのに。
「【陽杯】は君が持っていて下さい。それは君の物ですから。……お願いです。ティフ。私の言うことを聞いて下さい」
「嫌!嫌嫌嫌! 嫌なの。ここで行かせたら……義兄さん……死ぬ気なんでしょ」
ティフは感情を抑えることをしなかった。必死になって義兄の身体にすがりつく。もう、たくさんだった。なんて虚しいのだろう。何をするために、こんなところまで、わざわざやってきたのだろう。
すると、義兄は優しく笑った。もともと穏やかな人だったけれど、それでも初めて見せるような、穏やかな微笑みだった。
「死にませんよ。まだ、死にません。私には……まだ、守らなければいけないものがありますから。それを果たすまでは、死にません」
「約束してくれる?」
たとえどんなに虚しくとも、ティフは、それだけは言った。
「ええ」
義兄は虚ろな表情のままではあったが、そう約束してくれた。だから、ティフはそれを信じることにしたのだ。
「義兄さんは姉さんを追って北に行ったよ。心当たりがあるみたい。で、私はザイスから果物屋のお手伝いをしながらここまで来て、サティンを待ってたってわけ! ああ、良かった、ここで会えなかったら、あのまま果物屋の女主人になってたかもしれないんだから!」
ティフはことさらに明るく言った。それでも、表情はごまかせなかった。
(この子は……強い。全てを失って、なお生きる望みを失わない)
サティンはティフの小さな身体を抱きしめた。
「……いいのよ? もう……いいの。もう……泣いてもいいのよ?」
「わ、私は! そん、そんなこと、ないんだから! 泣きたくなんか、泣いてなんかいないんだから!」
ティフは顔をサティンの体に押し付けるようにしてむせび泣いた。それを嘲笑う者が在るはずも無かった。
それからしばらくして、四人はイザーク達のところに戻ることにした。そろそろ、会議の結果が出ている頃だろう。
年少二人の会話が弾む。
「ねえねえ。そういえば、あなたの名前を聞いてなかったっけ。私はティフ・セントール。さっき話した通り、カイムの【式使】。あなたは?」
ティフはテリウスの事をよく知らない。その逆も然りだ。
「僕はフィン・テリウス。よろしく、ティフ」
「武者修行がどうのって言ってたよね。えっとさ……何歳なの?」
「?……10歳だけれど。あと二ヶ月で11歳だね」
それを聞くと、ティフはにやにやと笑った。
「うふふふふ。ふふふふ……ふふふふふふふふ。へえ、そうなんだ、私は11歳になったばっかりなんだよ? うふふ」
かと思ったら、大きな声で快哉を挙げた。
「やったのよ! ついに私は勝ったのよ! 私の時代が来たのよ!」
両手を天に突きだし、喜びに打ち震えんばかりだ。
「な、なんなのさ?」
テリウスはティフのその凄い勢いに驚いた。歳を教えたくらいで、そこまで反応するとは思っていなかった。
「いいこと? あなたの名前は呼びにくいから、『ティー』って呼ぶから。いいよね?」
ティフは強引にそう決めた。びしりと指を付きつける。
「ちょ、ちょっと待ってよ。それってどういうことさ?」
「いいじゃなーい。ティーのほうが年下なんだからっ。やったよ! なんて素晴らしいのっ! サティン達も見つかるし、今日はいいことがいっぱいあったよ!」
「年下って……2ヶ月じゃないか。なんで『ティー』なの? 大体、君だって略せば『ティー』になるじゃないか。ねえ、そう思わないかい? ティー?」
テリウスも負けじと言い返す。ここで絶対的優位を確立されるのは面白くない。
「2ヶ月の差は大きいのよ? 差としては必要十分ね。第一、私は【式使】なのよ? 名前は大事なことなんだから。しっかり本名で呼びなさい」
嘘だ。ヴェンにしろレーバゼィン先生にしろ、略称で呼んでも何の問題はない。テリウスとて、そのくらいは知っている。
「……」
「なによ、その眼は。……とにかく、あなたはティーに決定! なに? それとも『テー』とか『ウス』とかのほうが良かった? フィンちゃんでもいいよ?」
「……むむ」
それを黙って見ていたディオールが口を挟んだ。この男にしては珍しく、笑いをかみ殺している。
「気にするな、テリウス。ティフは……お前の前で泣いたのを見られたのが恥ずかしいのだろう。せいぜい甘えさせておけ。それが器量というものだ」
まことに的確な一言だったらしい。ティフは顔を真っ赤にして反論した。
「なななななな、何言ってるのよ、この人は。そんなわけあるわけないじゃないの! いい? 本当に違うんだからね! ただ、私より年下の子ができて嬉しいだけなんだから。……本当だってばぁ」
説得力はゼロだ。言えば言うほど、ボロが出ていく。
「わかったよ。君がそう呼びたいなら、そうしていいよ。よろしく、ティフ」
テリウスは納得顔だ。いまや立場は完全に逆転していた。
「ああもう、本当に違うんだってばぁ。 ……もう知らない! いいわ、残る人生ずっと、あなたのことをティーって呼んでやるんだから。覚悟するのね。私は執念深いのよ。覚悟しなさい、ティー」
「ふふふ、それでも良いよ」
テリウスの余裕の笑み。
「……こんなはずが……私の壮大な計画がぁ!」
「ええ!? 本気なの?」
なんと、イザーク達【鴉党】の行き先はフレイズに決定したという。
リィンはそのことに不満があるようだが、決定には従うつもりのようだ。それでも、まだぶつぶつ言っている。
「いろいろ……あるからな」
イザークが事情の説明を始めた。
「貴女達も聞いてくれ。我らの行く先はフレイズに決めた。事情はいろいろあるが……実は、フレイズ藩は戦争の準備をしているんだ。相手は多分、ビード藩だな。これは貴女の情報とも一致する。ビード藩はフレイズ藩と同盟関係にあるアシン藩に度々侵攻を行っている。これまでは外交政策で介入していたようだが、それも限界ということだろう。同盟者の援護に入る可能性が極めて高い。藩主同士の戦争ということになれば、真王国では久しぶりの戦乱だ。長期化する可能性もある。だったら、一番勝ち目があるところにつくのが、我々のやり方だ。既に、フレイズの方には使者を出した」
「リィンはそれでいいの?」
「いいはずがない。……父上に手駒として使われるなど、冗談ではない。だが……父上と戦うよりはマシかもしれん」
決定を受け入れはしている。だが、やはり面白くはないようだ。
「理由はもう一つある。こちらは私事になるがな」
イザークは神妙な表情をして言った。
「俺はリィンとシュリクを政治の道具にするつもりは全くない。藩主にするつもりもない。藩主の旦那なんぞ、まっぴらごめんだ。……貴女には悪いがな」
藩主位の継承は、いかなる場合でも血縁のみによる。そうして300年間もの間、真王国八藩主は存続してきた。リィンとその子がフレイズ藩主位を望まないと言うのであれば、サティンがそれを受け持つ必然性が生まれる。父の即位前後の抗争の影響で、近親はほぼ全滅している。自分達二人以外には、家系図を見直さないとわからないような遠縁がわずかに残っているだけだ。
「俺達がどう思おうと、シュリクはフレイズ藩主の直孫で、第三位の継承権があるんだ。これから先、何があるかもわからない。俺は今回、シュリクとリィンの継承権破棄を認めさせるつもりでいる」
「父様が承諾しなかったら?」
あの父のことだ。何をするかわからない。それでは、とても安心していられない。
「その時は、フレイズには入らない。この事は先払いにしてもらう。それは最低限の条件だ。……最悪の場合、貴女達を人質として扱わせてもらう。ご協力願えるかな?」
「それは構わないけれど……」
うまくいくだろうか? これは【北の餓狼】対【白鴉】の戦いということかもしれない。しかし、イザークは戦場の勇者であって、政略家としての力量は未知数だ。あの父の敵として抗し得るだろうか? サティンは心配だった。長年付き合ってきた父なのだ。あの人のことは、自分が一番よく知っている。
そのことはイザークとて考えたのだろう。
「俺はなんでもしてみせる。俺の家族を守るためにな」
そんなことも為し得ないというのなら、自分が地上に在る意味は無い。イザークはそう言い放った。
フレイズの数少ない本格的な港であるダイクの港は既に封鎖されており、開放にはもう少し時間が必要な事から、リーモス藩の港カイロンを目指すことになる。既に、【鴉党】が退職金がわりに抑えた船への物資積み込みは完了しており、出航を待つだけとなっていた。
「我々はこれより真王国フレイズを目指す。すなわち、海を渡り、真王国領に入ることになるだろう。ここに残る者は追わない。それは我ら【鴉党】の定めし唯一の法だからだ」
イザークが部下達に演説する。全体の一割程度が真王国行きを拒否したため、彼等に一時金を与え、別れを告げた。
「君達と共に戦えて良かった。我らの門戸は常に開いている。もし、再び機会があったなら、遠慮なく俺を訪ねてきて欲しい」
そうして、快く送り出した。
(これが自由戦士団か。凄いな……)
そんな光景を壇脇から見ていたテリウスは内心で感嘆していた。ジーファステイアにも都市軍が存在したが、これほどに開明的ではなかった。スラムの友人達の中には、他都市からの脱走兵も少なからずいた。彼等は一様に元上官への不満をこぼしたものだ。
(誰かに頼られる、信頼を置かれる、他人を命令できる立場につく、約束をする、ということは何よりも尊いことだ、か)
リィンの言葉を思いだす。テリウスは肝に銘じようと誓った。
演説を終えたイザークがこちらにやってきた。
「と、いうわけだ。これから二ヶ月ほどかけてフレイズを目指す。これだけの人数だからな、行軍の都合で多少時間がかかってしまうが、その点は勘弁してくれ。貴女達の護衛に人を割かなくて済んだから、その分は楽になったと言えるがな」
「お見事な演説だったわね。さすがの【白鴉】って感じ、格好良かったわ」
サティンが誉めそやした。そうすると、イザークは肩を落としてげんなりとしてみせた。
「よしてくれ。あれは本当に辛いんだ。一度やってみるとわかる。緊張はするし、変なことは言えないし、何か失敗したりした日には、どんな大恥をかくやら」
「ふふふ、そうは思わないけれど。堂に入った演説だったわよ」
「なら、今度は貴女がやってくれ。きっと、士気も上がる」
「それは遠慮しておくわ。つまらなさそうだもの」
しれっとして答えるサティン。本気ではない。いずれ必要に駆られれば、そうせざるを得ないことくらいわかっているが、今のところは他人事だ。
「それはともかく。カイロンへは、どの航路を使うつもりなの?」
海上で戦闘に巻き込まれる危険を、可能な限り避けなければならない。乗り込もうとしている船も戦闘艦ではない。【鴉党】の戦力であれば海賊風情の相手は容易いとはいえ、正規海軍の相手はしんどかろう。
「この時期なら、多島海域を通るのが一番早い。この海域での戦闘行為はあり得ないから、問題ないだろう」
多島海域は真王国中北部と自由国境域の間、大小数百の島嶼が存在する海域だ。一説には【真王】の生誕の地、あるいは墓所とも言われている。真王国と自由国境域の中央に位置し、ここから【真王】がこの地上すべてを守護しているという話だ。それに由来する宝島伝説の類も数多く存在する。
真王国八藩主はもちろんのこと、自由国境域の都市領主や交易船の船乗り達、海賊達に至るまで、この海域は、いわば聖域として扱われている。嵐などの自然現象を除けば、危険はない。それに、【鴉党】は公式にはまだ中立軍だ。積極的に敵を求めない限りは、海軍とて手が出しにくいだろう。
「そうか……ならば、これといった問題はないな。テリウス、船を操る訓練をやってみてはどうだ?」
ディオールがそう言う。
「操船は知っておいた方が良かろう。幸い、時間は十分ある。もっとも、大型船と小型船では勝手が違うかもしれんがな」
戦士を志すというのであれば、操船は将来的に必要になる技術だ。これはテリウスにとって、絶好の機会なのだ。時間も教師も豊富にある。テリウスにも断る理由は無かった。
「ええ。みなさんが迷惑じゃないというなら……ぜひ」
「迷惑なんて言わないさ。よし、あとでやってみるといい」
イザークが快諾してくれた。彼も、この才気に満ちた少年を高く買っているようだ。
「なんなら、そっちの嬢ちゃんもやってみるかい?」
ティフを指す。結局、サティン達と一緒にフレイズまで来るつもりらしい。予定よりも随分と早く、約束が実現されそうだ。
「私? やってもいいけど。……あまり気が進まないかな」
操船は大変な作業だ。遊び半分では怪我をする。
「そうかい? なら、後でその気になったら言ってくれ」
「うん、そうさせてもらうね」
「よし、ではそろそろ出航にする。各自配置につけ!」
イザークが部下に号令をかけた。いよいよ、フレイズを訪問――サティンとリィンにとっては帰還――するのだ。
幸いにして嵐などに遭遇することもなく、航海はいたって順調に進んだ。ディオールはこの平穏な時間に甘えることにした。あてがわれた部屋の窓から、外を眺める。海風が心地よい。
ふと、そこにイザークが顔を出した。
「ディオール殿、どうだ、傷の具合は悪くないか?」
「ディオールでいい。傷はだいぶ良くなった。治療が良かったおかげだな。イザーク殿達には感謝している」
「俺もイザークで構わんさ。そうか、それはよかった。ところで、お前はフレイズまで行くのか?」
「そういう約束になっている。そこからは、まだ俺にもわからん」
サティンとは、かつてそう約束した。フレイズまで送り届けると。そこから先は、まだ決めていない。
「それよりも、お前達がフレイズに行くとは思わなかった。妻君が納得しなかっただろう?」
「フレイズに入るのは、リィンとシュリクにとって危険な事だということはわかっている。だが、こればっかりは避けては通れんからな。逃げ回るよりは、早いうちに決着を付けておいたほうが良い」
「賢明な判断かもしれないな。かなり前のことになるが、俺はフレイズの藩主を知っている」
「ほう」
「油断はできん。しかし、全く信用できない相手ではない。道理は通すだろう」
「俺も同意見だ。……【北の餓狼】か。確かに狼と言われるだけの男だとは思うが、狂犬ではない」
それが、二人にとってのフレイズ藩主の印象という事になるだろう。決して無法者では有り得ない。だが、それ故に危険な男だ。
「まあ、もう少し単純な理由もあるがね。父娘を相争わせるわけにもいかないだろう?」
自由戦士団である【鴉党】の行き先として、自由国境域ならばともかく、真王国へ行くとなれば、フレイズ藩に味方するか、敵対するかしかない。リィンの父親嫌いは本物だが、かといって殺し合うほど憎悪してもいないし、させるつもりもないということだろう。
「それでも、やるとなったらやってしまうだろう、リィンは。……二人とも母親似だと聞いているが、なんのと言っても、あの姉妹は、血かな」
妻リィンとは長い付き合いになるが、あの直情の裏に、恐ろしく冷徹な感情を秘めていることをイザークはよく理解していた。
「だから俺達はフレイズに行く。なあに、きっとうまくいくさ。お前も応援してくれればうれしい」
「そうだな、俺にできることはなさそうだが応援はする」
ディオールにしてみれば、実はサティンのほうが心配だ。フレイズ藩主の後継者であるサティンが害されるようなことはなかろうし、自分やテリウス、ティフ達が直接の被害を受けるようなこともないだろう。しかし、もしもリィンとイザーク、シュリクの三人に害が生じたなら。あの娘がその場で父親を刺殺したとしても、きっと驚かないだろう。そんなことにならないよう、祈るばかりだ。
「話は変わるが。テリウスはどうだ? 迷惑をかけてなければ良いが」
「おう! あの少年は凄いな。ただの物覚えが良い子供では片付かんぞ。どこで拾った?」
テリウスは操船手順を一通り教えられると、あっという間に自在に操るほどまでに上達していた。イザーク達【鴉党】の面々が驚嘆したのは言うまでもない。
「拾ったわけではない。彼の祖父から預かっているだけだ。まあ、修行みたいなものだな」
「そうなのか? その割には、これといってなにかしてやっているわけではなさそうだな。復帰を兼ねて、稽古でもつけてやればいいのに」
イザークはそう言ったが、ディオールはそれを否定した。
「あの少年はまだ成長過程にある。俺が歪めて良い道理はあるまい」
だが、イザークも譲らない。
「そうかな? お前が何か少しのことを教えたからといって、簡単に歪むタマには見えないが」
「……俺は今までたくさんの人間を殺してきた。俺には、それしかできなかったからな。だが、テリウスは違う。あれは人を殺すよりも、人を生かすことを覚えた方がいい」
そんなディオールの言葉を聞くと、イザークはふんと鼻を鳴らした。
「お前は何を偉そうなことを言っているんだ? 俺はそうは思わん。お前がいなければ、サティンも生きてはいなかった。俺は妹を救ってくれたお前に感謝しているんだぞ? 将来、あの少年にとってなにか大事なものができたときに、それを守るだけの力がなかったらどうなる? 無力というのは罪だ。自分と、その周りの人間に対してな。お前ほどの男に、それがわかっていないはずがない。……お前は自分を騙しているんだよ」
ディオールには、イザークの言葉が重かった。
「……これは【白鴉】殿は辛いことを言う。『守るべきもの』を『守る力』か」
かつて守れなかった大事なもの。あの時、自分は何を思っただろう? 良く覚えていないのは、思い出すことが苦痛だからだろう。ともあれ、自分の無力を呪ったのは確実だ。
少しだけ迷った後、ディオールは決断した。
「……そうだな。わかった。お前の言うことに従おう」
「そうか、わかってくれて嬉しいな。父親は背中で語るのもいいが、口に出して語らなければ伝わらないこともある。期待しているぞ」
「年長の先駆者の言うことは、素直に聞くことにしよう」
イザークの言葉に皮肉を返すディオール。
「くくく。7年も違っていれば、それなりに経験も違うというものさ。頼ってくれてもいいんだぜ?」
イザークとて負けてはいない。切り返す。そうしてから、互いに笑みを交わす。そのまま二人で部屋を出た。
テリウスは甲板にいた。サティンとティフも一緒だ。リィンまで一緒にいる。
「テリウス、時間はあるか?」
「ええ。なんですか?」
「少し稽古でもつけてやろう。どうだ?」
それを聞いたテリウスの顔が輝いた。
「本当ですか!? 是非お願いします」
テリウスはディオールに強い憧れを抱いている。特にあの独特の戦闘術には強く惹かれている。稽古をつけてくれるなんて願ってもいないことだ。
アーエンフルではどうにか初陣を飾ったものの、危ういところだった。あの苦戦は少年故の膂力と体重の不足によるものが大きかったとはいえ、それ以上に経験と技量の不足が大きい。ジーファステイアでの乱闘の際にも、ディオールの猛攻を凌いでおきながら、結局はスタミナが切れた様子だった。
「よし。では、まずは簡単な武器の使い方からだ。お前は、基本は大体できている。勘も、度胸も、目も、耳もいい。しかし、武器の取り扱いというものは、結局は経験がものを言う」
ディオールはそう言いつつ、愛剣と同じ、2m程度の長さの棒をテリウスに手渡した。
「それで構えてみろ」
「はい」
テリウスは棒を剣に見立てて構えた。彼の体格と棒の長さからすれば、両手持ちは当たり前としても、それを横向きに支え、重心を低く落とし、敵に対しての面積を最小限にしつつ、それでいて間合いを最大限に維持している。そんな構えを、ごく自然に取ってみせた。
「それを誰に教えられた?」
「基本は友人にですけれど、僕なりに適当に、です。おかしかったでしょうか」
「どうだ、俺の言っている意味がわかるってもんだろう?」
イザークがそんなことを言うのも、あまり耳に入らなかった。ディオールの抱いた感情は、驚嘆であり、恐怖であったかもしれない。
武器の長さと重量、自分の身長と体重、膂力を理解し、理詰めでもって答えを導き出す。つまり【考えて感じる】ということ。本来は訓練と経験を通して時間をかけて、あるいは生涯をかけて習得すべきそれを、この少年は先天的に知っている。
――この少年は自分とよく似た、いやそれ以上の素質を持っているのかもしれない。自分の持っている素質など、ディオール自身にも理解されていない。だからこそ、それを恐怖に感じたのだ。
(……惜しいな)
この少年は何を志しても一流になり得ただろう。工匠にでも、学術者にでも、あるいは政治家にでも。それを、殺し、殺される世界に引き込むことになる。それは酷い冒涜にも感じられたのだ。
「いや、それでいい」
訓練課程は大幅短縮になるだろう。実戦的な訓練と、それを通じての基礎体力作りを進めるとしよう。
「よし、次に、それで俺にかかってこい」
「はい!」
訓練はしばらく続いた。テリウスの体力にとっては相当に辛かったはずだが、それでも弱音一つ吐かない。
「大丈夫か?」
「ええ。なんとか」
広い視野による状況認識、間合いの取り方、攻撃手段と目標の選択、行動の精度、回避と攻撃に伴う体重移動、この辺りは言うことがない。むしろ出来すぎだ。反面、攻撃が直線的で、素直すぎる。これは経験不足によるものだろうから仕方がないとしても、防御を疎かにする傾向があるのは良くない。敢えて言うなら、思い切りが良すぎるということか。
そうした防御面での不足は、おそらくは彼自身の性格によるものだろう。戦闘とは、敵を倒せば良いのではなく、自分が生き残ってこそだということを理解させる必要がある。とはいえ、これほどの素質の持ち主だ、経験を積んでいけば自然と解決するだろう。
「今日はこの程度にしておこう。無理をしても良くない。まだ時間はある」
「ええ。わかりました。ありがとうございます」
テリウスの学習速度は異常に速かった。一回教えたことは必ず覚えているし、形が崩れることも少なかった。数時間の授業量とはとても思えない。この調子では、すぐに教えることがなくなりそうだ。
ここまで出来が良すぎるのは、むしろ問題なのかもしれない。工匠や学術ならばともかく、戦闘というものは常に理不尽との遭遇に他ならない。思った通りにうまくいかずに、痛い目にあってこそ覚えることというものもある。本人の性格からみて、むやみに増長するようなことはなかろうが、順調に行きすぎてどこかで大きな失敗をしなければ良いが。
「お前にはお前のやり方がある。俺のやり方を全て模倣することはない。以前にも言ったが、お前が経験したこと全てを生かして、自分のやり方を作ることだ。お前にはそれができる」
ディオールは訓練をそう締めくくった。
「さすがにいいことを言うな」
それまで大人しく見ていたイザークがそう言った。
「まったくだ。ザクとは含蓄の深みが違うな」
リィンが茶化す。この夫婦は、仲が良いのか悪いのか。
「どうだ? ザクと組み手してみないか? 【蒼鷲】対【白鴉】の組み合わせは面白そうだ」
そして、テリウスの方に向き直る。
「いいか、テリウス。他人のしている事を見るのも勉強のうちだぞ?」
と、もっともらしく説いた。自分の好奇心を満たしたいだけなのは一目瞭然だ。
「お前は俺に恥をかかせて面白いのか? そう言うなら、お前がやればいいだろう? 部隊内でも1、2を争う腕自慢だろうが」
イザークにはそれがわかったから、そう言った。
「残念ながら、私は休暇中だ。本当に残念だ」
しれっと言うリィン。
「都合のいい時だけ休暇になるな!」
「大きい声を出すな、せっかく寝かしつけたシュリクが目を覚ますじゃないか」
二人の掛け合いはほとんど漫才だ。
「……まあいい。どうだ? 俺とやってみるか?」
イザークとて興味がないわけではない。地上最強と謳われる戦士の実力を試してみたい。ディオールとしても、自分の回復度合いを確認する必要はあった。
「俺は病み上がりだ。お手柔らかに頼む」
二人はやや距離を取って向き合った。ディオールは愛剣と同じくらいの長さの棒を1本と、短めの棒を2本、イザークはやや大きめの木剣と大型の盾を選んだ。
既に、周りには人垣ができている。なにしろ英雄ディオールと、司令イザークの戦いだ。勝敗が賭けの対象にもなっている。
「私はディオールの勝ちに今週の給料全部だ」
それにリィンまで参加している。せっかくだからと、サティンも参加した。
「じゃあ、私もディオールの勝ちに同じだけ」
「おい! 建前でもいいから、俺を応援してくれ!」
あまりに冷たい妻と妹の仕打ちに、イザークが吼える。
「おじさーん! 私が応援してあげるよ! じゃあ、私はザクおじさんの勝ちにこれだけ」
ティフが出したのはちょびっとだ。本当に建前だけというべきだろう。
「……気持ちはうれしいよ」
それでも、他の部下達はイザーク寄りに賭けてくれている。配当は6:4といったところだ。
審判が号令をかけた。
「試合開始!」
二人は互いに距離をじりじりと詰めていく。
先に仕掛けたのはディオール。地を這うような独特の体勢で距離を一気に詰めると、下から突き上げた。イザークは盾に身体を隠すようにしてそれを防いだ。今度はイザークが木剣を振り下ろす。身体の軸をずらしてそれを躱したディオールを、今度は横殴りに追う。だが、ディオールはさらに体勢を下げて躱した。長身が膝上近くまで沈む。強靱な足腰があればこその離れ業だ。そのまま足を狙った。
この距離では圧倒されると判断して、後ろに跳んで避けたイザークだが、さらにディオールの手から飛んだ棒を躱すのが精一杯だった。その隙に間合いを詰めてくるディオールを追いきれない。イザークは無理に離れるのを諦めて、敢えて距離を詰めた。盾ごと身体でぶつかる。二人の体躯は非常に優れているが、ディオールの方が若干軽い。体重差を技量で補うことはできないのだ。
後ろに突き飛ばされたディオールだが、転倒することもなく、後退しながら足元に蹴りを放った。それはイザークの膝下に命中し、少なからぬ衝撃を与えた。イザークの前進が止まる。二人は再び間合いを取った。
「凄い……」
二人の戦い方は教本にあるようなものではなく、むしろ出鱈目とさえいえる物だが、それがそれとして完成している。第一線に在る人間の生き延びてきた力そのものを感じた。二人の動きを必死に追う。たとえどんな小さなことでも、記憶に止めておくのだ。絶対に自分の財産になる。テリウスはそう確信していた。
再び、二人が詰めた。左からディオールが打ちつけたのを、イザークは盾で防いだ。次の瞬間には、左から来たはずのディオールは既に右に回り込んでいた。さらなる一撃。反撃する暇も与えられず、イザークは内心で歯がみしつつも、ぶつける勢いで盾を突き出す。
ディオールはイザークの盾のふちを掴んで防御をこじ開けると、イザークの懐に入った。イザークは慌てて盾を捨てたが、その分だけ反応が遅れた。ディオールが身体を半回転させて放った肘を躱しきれない。さらに頭を狙った回し蹴り。これは何とか防いで、木剣を振り下ろした。ディオールの体勢は蹴りからまだ戻っていない。この一撃が命中するかとも思われたが、彼の反応はさらに迅かった。
(あっ)
先程まで右手に持っていたはずの棒が左手に移っていたことに気がついたのはテリウスだけだっただろう。回し蹴りの勢いでさらに身体を半回転しながら、空いた右手での腹部への鈎撃ち。
「うぐっ」
試合であるから籠手も手甲も身に付けていないし、ディオールも手加減はしているだろう。それでもイザークの動きが完全に止まった。いや、イザークが持ち前のタフネスで押し切る。勢いに任せて木剣を振り下ろした。
ディオールは身体を開いて攻撃を躱すと、イザークの木剣を掴んで引っ張った。模擬戦闘ならではの裏技だ。これには、さすがのイザークも対応しかねた。
「うおっ!」
堪らず、イザークの体勢が崩れた。立て直そうとして踏み出した足の甲を、ディオールが踏みつける。足の甲は急所だ。イザークの表情が歪む。たまらず腰が崩れる。それでも身体を支えようとするのはさすがだが、ディオールがそれを許さない。ディオールはイザークの手を取り、倒れ込むようにして押さえ込むことに成功した。
「勝負あり!」
審判が宣告した。同時に割れんばかりの拍手が鳴った。
「大丈夫か?」
ディオールがイザークの手を取って立たせる。二人とも、さすがに疲労していた。
「なんとかな。……お前の何処が病み上がりだ。それだけ動けるなら、本当の病人に失礼だ。お前は強すぎる」
リィン達も駆け寄ってきた。
「凄いな。貴方とは絶対にやり合いたくない。勝ち目がないからな」
「凄いものを見せてもらいました。ありがとうございます」
口々にそう言う。
「それだけ言ってくれると、やられた俺としても慰められるってものだ。ディオール、お前の戦い方はやりにくいことこのうえない。もう少しなんとかしろ」
優れた体躯と身体能力でもって猛禽の如く敵に襲い掛かり、そのまま喰らい尽くす。それがディオールの戦いの本質だ。その上で打撃、間接、投げ技、急所撃ち、さらには罠をも使いこなすことで、相手に相手の戦いをさせない。優れた体躯と豊富な戦闘経験を持つイザークでさえ、圧倒された。
「そうでなければ意味が無かろう」
「まったくだ。……お前は強すぎるよ」
イザークは肩をすくめた。
その日の訓練を終えて、テリウスは甲板の上から遠くを眺めていた。その先には陸地が見えている。【真王】による建国以来300年の歴史を誇る真王国。間もなく、船はそこに到着しようとしていた。テリウスは自由国境域との空気の違いを、遠目にも感じていた。疲れた身体を休めながら、遠くの陸地をのんびりと眺める。そうしながら、以前読んだ建国についての書籍の内容を思い出していた。
豊富な記録とは裏腹に、真王建国記には謎が多い。かつて、突如として現れた【真王】は、三人の使徒【陽の権】【月の権】【星の権】を従え、大陸統一に乗り出した。彼等は人知を越えた【力】を振るい、大陸に秩序をもたらそうと、法を整え、文化を築き、国を建てた。この世界に【国】はただ一つ、真王国があるのみだ。【蛮族】や【魔人】を辺地に追って、地上を今の形に整えたのもこの頃である。
そうして大陸の大半を支配するに至って、その侵攻速度は急激に低下し、やがて停止した。その際の未侵攻地域が、自由国境域として現在まで残っているのである。以降、自由国境域は形式的にも、実質的にも、真王国の支配下に入ったことは無いが、建前上は真王国の一部とされ、暦等が共有されている。
侵攻停止の理由はわかっていないが、海を越えての侵攻に付きまとう諸問題をついに解決できなかったという説が有力だ。奇説には、【真王】が支配に飽きたからとの説もある。既に建国戦争の開始から30年が経過していた。人的資源を含めた地力の消耗と、それに伴う厭戦気分が高まったのも当然なのかも知れない。
【真王】は八人の血族、五男三女にそれぞれ各領域の支配を命じ、歴史の表舞台から姿を消した。これが真王国八藩主の起源であり、現在に至っている。三人の使徒――【月の権】は【大天変】の際に既に落命していたが――も、主同様に真王国を去った。
残された八藩主は、決して仲の良い兄弟というわけではなかった。互いに抗争を繰り返し、しばしば侵略戦争も起こした。だが、彼等はその拡大要求を自由国境域に広げることはなく、身内の間のみで終始した。互いを滅ぼし合うほどに過激化することもなかった。外敵に対する連帯感は極めて強く、いかなる場合でも肩を並べて戦った。だからこそ、【真王】の子孫たる八藩主が300年もの間、一つたりとも欠けることもなく、存続してきたのである。自由国境域の人間にしてみれば、真王国の内部抗争など、単なる兄弟のじゃれ合いにしか見えない。
「無邪気にじゃれあっているだけかもしれないが、彼らは自分たちが巨人だということを、しばしば忘れている」
かつて、そんなことを語った者も在るという。テリウスにも共感できる。外の世界を求めない巨人達。それは酷く不自然でもある。【真王】がそのような戒律を残したという事実もないようだ。
(サティンさんなら、なんて言うかな?)
「ねえ、テリウス?」
不意に声がした。ティフだ。おかしな略称で呼んだところで、自分が窮地に立たされるだけとわかったのだろう。この頃は、普通に呼ぶようになった。テリウスとしても、「ティー」は勘弁して欲しいと思っていたのだ。
「なんだい?」
「ん……いや、なんとなくなんだけど、少し退屈してたから……今日もお稽古お疲れさま」
いつものティフらしくない。そのままテリウスの横に来ると、手すりに顎を乗せてもたれかかった。一緒になって遠くに見える真王国の陸地を眺めてみる。
「ティフは真王国に行ったことあるのかい?」
テリウスにはジーファステイアの外を旅行した経験はない。真王国に渡るのも今回が初めてだ。
「うん、あるよ。先生のお使いで。サティンと初めて会ったのもこっちの事だし」
「そうなんだ。どう思った? 感触というか、雰囲気というか……自由国境域と比べてさ?」
「そうね、大分違うと思う。自由国境域よりも落ち着いてるのかな? 建物なんかも古くて、凄いのがあったりするよ。もっとも、私もそんなに歩き回ったわけじゃないから、あんまりわかんないけど。あっちも街によっていろいろ違うみたいだし」
「ふうん。じゃあ、フレイズのことは?」
「うん。ちょっと寒いけど、良いところだと思う。人の行き来も多いし、活気があると思う。治安もいいんじゃないかな? 怖い思いをしたことはなかったよ」
「そう……」
「うん? 何か考え事があるの? 私で良ければ聞いてあげるよ?」
テリウスの考えている事が気になって、ティフはそんなことを言った。顔を上げる。
「うん。……サティンさんのお父上のこと。少し気になって」
「いい人だ、って話は聞かないものね」
【北の餓狼】は伊達ではあるまい。その政略のえげつなさは地上随一との噂もある。実の娘二人に、あそこまで嫌われている父親も珍しいだろう。ティフもテリウスも、今のところは直接に被害を受けてはいないが、これからはわからない。フレイズ藩主にかかれば、自分達など小指の先で消し飛びかねない。それほどまでに、存在の大きさが違うのだ。そして、結局、サティンはその公女であり、後継者なのだ。
「うん。サティンさん達、どうするつもりなのかなって」
「どうするつもりなのかな……サティンはやっぱり跡を継ぐつもりなのかな?」
真王国の藩主位は男系女系を問わずその血族のみを後継者とする。リィンとその子シュリクが拒否する限り、サティンが次期藩主ということになる。建国以来300年間、断絶の危機は何度となくあったが、実際に絶えたことはない。藩家間の婚姻は原則禁止とされるために、藩家間で継承権の奪い合いになったこともない。真王国の人間は、これを【血輪】と呼ぶ。ただし、ある種の皮肉も込めて。
「うん。そのつもりだと思う。あの人、藩主になることについては、絶対に否定しないから」
父を嫌っていると言う。妹に憧れを感じると言う。人の上に立つことに怯みを感じると言う。しかし、藩主にならない、なりたくない、とは言わない。
「あの人は物わかりが良すぎると思うよ、私は。今回の家出といい、無茶してるように見えて、実は何か諦めてる様なところがあると思うの。こう……根本的な部分でさ。状況に流されてるっていうのとは、ちょっと違うと思うけれど」
ティフがもたれかかっていた縁から身体を起こしながら言う。
「……君は諦めは悪い方?」
テリウスはなんとなく訊いてみた。この湿った空気を変えたいと思ったからだ。
「もちろん」
ティフは胸を張って言った。
(そんなに威張るほどのものでもないと思うけれど……)
指をビシリとテリウスに突きつけてティフが言い放つ。
「私の諦めの悪さは凄いよ。『私を止めたければ、私を殺す事ね』ってね。必要とあらば、地の果てまででも追っかけてみせるんだから」
「それは、執念深いって言うんじゃないかい?」
テリウスがふざけてそう言った。笑う。
「……やっぱり、あなたとはいつか決着をつけておく必要があるかな」
ティフは低い声でそう言った。怖い顔でテリウスを睨んでいる。
「何の決着なんだい? 例の、どっちが大人かってやつ?」
テリウスには軽く返すだけの余裕があった。ティフとて本気で怒っているわけではない。表情を和らげる。
「それも含めて、いろいろとよ。……まあ、馬鹿な話は置いとくとして。私が興味あるのはディオールの方ね。あの人、どうするつもりなのかしら?」
サティンの方に選択肢が少ない以上、ディオールの去就が全てを決める。
「どうするつもりって?」
「あら、あなた見かけによらず鈍いんじゃないの? 勿論、サティンとの仲の事よ。どうするつもりなのかしら? 私としては、羨ましいと思うんだけど。お姫様と英雄の恋人達だなんて、素敵じゃない!」
ティフは最後の部分だけは夢見るような感じで言った。それがテリウスには意外だった。彼女は現実的な娘に映っていたからだ。思ったよりもロマンチストのようだ。
「前に同じ様なことを言われたことがあるよ。白状するなら、僕には、あの人のことはよくわからないな」
「なんで? ずっと一緒だったんでしょ? 一応は弟子なんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「サティンも婚約者とかが居るわけじゃないって言うし。駆け落ちするのは無理だとしても、フレイズで将軍職でも貰えばいいのにね。あの人なら誰も文句言わないでしょ?」
【蒼鷲】【群青の戦士】と謳われる【三つ名】の大英雄にして、地上最強の戦士。さらに、遠地にて危険に晒されたフレイズ公女を守護したという功績が加わる。他にどれほどの求婚者がいたとしても、裸足で逃げ出すだろう。
「……ディオールさんはフレイズに留まらないと思う」
「ええー、なんでよっ」
「わかんないよ、ただ、なんとなく。でも、僕から見ても、あの人のことはよくわからないって思うことがある。……なんて言うんだろう、虚無的なのか、活動的なのか、激しいのか、穏やかなのか、ええと、結局、なにをしたいのかわからない。そういう意味でわからないって事だよ」
テリウスはうまくまとめられない自分に苛立った。どうにも、自分の語彙は少なすぎる。
「難しい言葉を使えばいいってわけでもないと思うけれど? んふふ、お子様はこれだから。でも、まあ、言いたいことはわかるわよ。イエムもそんな感じだったし」
「イエムさんって……亡くなった?」
「うん……。激しくって、優しくって、強い人だったんだよ。まだ、あの人がもういないって実感が沸かないもの」
「……ごめん」
彼女にとっては、姉にも等しい人間が死んだのだ。その感情が風化するほどには、まだ時間が経っていないはずだ。
「うん? なんであやまるの。いいのよ、あの人の事は。悲しくないって言えば嘘になるけど、私はいろいろなものをもらったから」
(今の私が在るのは……あの人のおかげ、かぁ)
「ほんの少しの時間だったけどね。あの人にはいろいろなことを教えてもらった。優しくもしてもらったし、命も助けられた。せめて、精一杯、彼女の期待に応えたいの」
「……君は強いんだね」
自分とほぼ同い年の女の子とは思えない時がある。テリウスは内心で感嘆していたが、それを隠して言った。隙を見せたくない。
「あら? まだ修行が足りないんじゃなくて? 私に追い付こうなんて10年早いのよ」
「二ヶ月じゃなかったっけ? もうすぐ、同い年なんだよ?」
「内面的には10年違うってことよ」
「すぐ追い抜いてみせるよ。きっと」
「期待してるよ。……ええと、お子さまの相手は疲れちゃうからね」
照れ隠しのつもりか、ティフは手をひらひらさせた。
「うん……」
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