第十一話 一つの結末

 ヴェン、リア、ティフ、それにイエムの四人は、その後3日間、カーツォヴとサリアの家に滞在したものの、その翌朝には出発することにした。

「もっとゆっくりしていってもいいんだよ?」

 サリアが言う。

「いえ。これ以上のご迷惑をおかけするわけにはいきません。それに、トラントの難民の移動が気になりますから」

「その難民にしたって、半分はウチの子のせいだろう? 春までいろとは言わないから、せめてあと一月くらい待ったらどうだい? 遠慮しなくてもいいんだよ? 教えたいこともたくさんあるし」

 サリアはなおも勧めてくれたが、やはり、そういうわけにはいかない。

「そうかい……仕方がないね。じゃあ、これは餞別。路銀の足しにしておくれ」

 袋を手渡された。かなり重い。相当な金額ではなかろうか。

「こんなに頂くわけにはいきませんよ」

「いいから、いいから。金なんてのはいくらあっても困らないけれど、使わない奴が持ってても仕方がないんだ。レーヴの香典とでも思っておくれ」

 サリアは肩をすくめながらそう言った。

「わかりました。ありがとうございます」

 素直に受け取ることにしよう。確かに、路銀は多いほど良い。安全は、ある程度は金で買える。

「気をつけて行くんだよ。いろいろあるかも知れないけれど、頑張るんだよ」

「はい。わかりました」

「いろいろ世話になったよ。感謝する。カーツォヴも。この恩は必ず返す」

 と、イエム。

「ありがとう、カーツォヴ、サリアさん」

 ティフもまた、別れの挨拶を交わす。

「元気でな。ちび。また会おうぜ」

「ありがたいと思ってくれるなら、きっと元気でいるんだよ?」

「うん、わかった、【先生】!」


 四人が去っていくのを、二人で立って見送る。

「いい子達だね」

「ん? ああ、そうだな。今時珍しいくらい、素直な連中だ」

「だから、余計に可哀想だ。あんたは、あの子達をどう思った?」

 カーツォヴは母親がそう悲しげに言うのを聞いて、どきりとした。

「まさか、母さん。あいつらになにかしたのか!?」

「バカを言うんじゃないよ。……逆だよ。なにもしなかった。なんとかできないこともなかったと思う。だけど、しなかった」

 否定の言葉を聞いて安心する。なおも落ち込む母に向かって、カーツォヴは励ます様に言った。

「大丈夫さ。あいつらは見かけによらず、しぶといぜ。母さんが心配することはないさ」

 それでも、サリアの表情が明るくなる事は無かった。

「それを本気で言ってるとしたら、あんたはまだガキだね。危なっかしくて、目が離せやしない。……あの子達は非常に危険な状態なんだよ」

 言いながら、サリアは頭上を見上げた。雲の間に浮かぶ昼間の月。

「本当に……これでよかったのかい? アーフ。あたしはね、とんでもないしくじりをしでかしたような気がして堪らないんだ」


 4人は街道に戻り、南へ進む。トラントから焼け出された難民達も、まだここまでは到達していないらしい。これなら、コットエムまでスムーズに移動できそうだ。

「ねえ、コットエムからはどうするの?」

 ティフは、自分達がこれからどうするのかを、決めておかないといけないと考えた。いまのうちに義兄の考えを聞いておきたい。

「コットエムには先生のお知り合いがいらっしゃったはずですから、まずは訪ねてみましょう。サリアさんのおかげで路銀には困らなくなりましたが、先生のことについて相談してみたいと思っています」

 これはヴェンが前から言っていたことだ。ティフにも異論は無い。

「その【陽杯】のことはどうするんだい?」

「それは……まだわかりません。なにせ、あの人にさえどうともならなかった物なのですから。コットエムでなにかわかればよいのですが」

 サリアは偽物でも傷物でもないと言っていた。ならば、なぜだろう。これが力を失っているのは。

「私は反対だね。たぶん、あんた達の先生が遺した品物なんだろう? あまり弄り廻すのも良くないと思うよ。あの人にわからないなら、誰にもわからないだろうし、そっとしておいたらどうだい」

 イエムは、そんなものはそのままにしておけばいい。そう考える。なぜか――危ういものを感じ取ったのだ。

「でも……先生のことについてはまだ何もわかっていないのよ?」

 先生の怪死。その原因については、まだ何もわかっていない。遺言は果たしたとはいえ、ティフとしては、ここで退くわけにはいかない。自分は、まだ何も【知って】いない。

「それはわかるけどさ。……ただ……なんとなく、猛烈に嫌な感じがするんだ」

「イエムのなんとなくは当てになるんだけど……」

「なんでかはわからないんだけど、どうにも引っかかるんだよ。それに何の【力】も残ってないことは確かなんだけど……なんでか、とにかく薄気味悪い。あの人の話じゃないけど、何かとんでもない爆弾を抱えてる気分がするんだよね」

「どうする? 義兄さん」

 イエムの底知れない能力には何度も助けられた。一考の余地があると思われた。

「そうですね……結論を出すのはカイムに帰ってからにしましょう。それからでないと、何とも言えませんよ。まずはコットエムですね」

「それもそうね」

 何をするにも、まずはコットエムまでたどり着いてからだ。先生の知り合いから、器具類を貸してもらえるかもしれない。カイムに戻る前に、最低限の観測をやっておきたい。

「……何ごとも無ければ良いんだけどね」


 その後もとりとめのない話をしながら数日ほど歩いた。その間、ティフは色々と思うところがあった。

 どうにも、義兄とイエムの様子が怪しい。何かあったのかもしれない。言葉や態度に変わりはないのだけれど、雰囲気の問題だ。

 それでも良いと思う。この頃の義兄は以前のような落ち着きを取り戻したようだし、イエムにとっても良い影響が働いているように感じられる。義兄もイエムも、しっかりしているように見えて、どこか危なっかしいところがあるから、互いに支え合ってくれればいいと思う。

(イエムになら……義兄さんを取られても、いいかな)

 そう思うようになった。確かに、二人は住んでいる世界が違うけれど、それでも――いや、だからこそ、うまくやっていけると思う。

(もっとも……私の勘違いかもしれないけれど)

 そうだったなら、残念とさえ思う。イエムは敵を全部倒したら、どうするつもりなのだろう。カイムへは来ないのだろうか。直接訊いてみたかったが、それも憚られた。

(一つ余った椅子ってのは……嫌だよ。先生の席に……)

 そんなことを考えていた時だ。

「なあ……コットエムに入るのはよそう。まずいよ」

 いきなり、イエムが妙なことを言い出した。豪胆な彼女にしては珍しく、酷く緊張している。

「どうして?」

「今までもなんとなく嫌な予感がしてたんだけど、その原因がやっとわかったよ」

「なんなのです?」

「最後の一人さ」

 イエムは5人の獲物のうち、残るはあと一人と言っていた。それがコットエムにいるということだろう。

「なら、なおさら行かなきゃいけないんじゃないの?」

 それこそが彼女の目的だったはずだ。彼女が、自らの悲願達成を躊躇うほどの理由があるというのだろうか?

「本来ならね。……でも今はまずい。なんとか、迂回できないかな?」

 イエムがこれほどにまで消極的になるとは。つまりは、それほどの危険が感じ取れたということだろう。ミンスという巨漢の男がそうだった様に、獲物がただ一方的に狩られるのを受け入れるはずが無いということもある。

「下手に戻れば、トラントの難民に飲み込まれてしまいますから。そっちの方がよっぽど危険だと思いますよ。万が一、私達の顔を覚えている人がいたら、私刑にかけられても、文句が言えません」

 集団的な混乱というものは、時として大きな問題になる。あの炎の夜に妙な【式使】達がうろついていたのを覚えている者がいれば、犯人と決めつけられたあげくに嬲り殺しになる可能性だってある。

「だよね……。じゃあ、コットエムでは、できるだけ目立たないようにするんだ。いいね?」

「それはいいけど。なんで?」

「行けば……多分、わかる」


 コットエムは北方のトラントと、さらにその南方のザイスと西のリーダインを繋ぐ拠点だ。自由国境域においては目立たない地方都市の一つでしかないのだが、場所が良いのか悪いのか、周辺都市からの影響、有り体に言えば攻撃に晒されることがしばしばあった。そのためにか、市街は水堀と高い城壁に囲まれており、外部からの侵入を徹底的に排除していた。よく言えば堅牢、悪く言えば排外的とも言える。

 コットエムに着いた一行を待ち受けていたのは、予想外に厳しい検問だった。完全武装した兵士達が門を固めており、非常にものものしい空気が漂っていた。防塁が積み上げられ、多数の逆茂木や弩砲まで用意されている。自由国境域中北部の拠点であるコットエムが、戦時というわけでもないのに、これほどの検問を布いているとは。尋常ではない警戒ぶりだ。

 いや、ある意味でコットエムは戦時だったのだ。トラントには多数の傭兵や自由戦士団が集められていた。その振り上げた剣の落とし先として、コットエムが最初の標的となっていた可能性は高い。しかし、そのトラントが自滅に近い形で破綻したという情報も既にここまで届いているはずだ。

「なにあれ?」

 ティフはイエムに訊いてみた。何事なのかは、ティフにもわかっていたけれど。訊いてみただけだ。

「……畜生、あいつらは難民を叩き返すつもりなんだ。少なくとも、この街を素通りさせて、南の方に誘導するつもりだろう。トラントを燃やした張本人の私達が言うことじゃあないかもしれないけれど……最低だよ」

 イエムの金の瞳が怒りに燃える。

 トラントの難民達は取る物も取らずにここを目指しているのである。ここまで来ればなんとかなる、その思いだけで希望をつないでいる者も少なくないはずだ。ここで難民を一切受け入れないと言うことは、彼らの多くを見殺しにする行為に他ならない。コットエムの城壁は高い。門扉を閉ざされてしまえば侵入は不可能だろう。

「この街には入れないって事?」

 これは困ったことになったかもしれない。ここに滞在できないにしても、せめて最低限の物資の補給だけでもできないと、さらに南方のザイスまでは保たない。

「そこまではしないと思いますよ。頼る親類や縁者のある人まで追い返しはしないでしょうし、我々は【式使】ですから」

 幸い、自分達は【式使】だ。一目でそれとわかる服装をしているし、その証拠も実演して見せることができる。イエム一人なら同行者、協力者扱いで通じるだろう。悪目立ちするのは避けられないが、入れないよりは良い。

「ご苦労様です。これは何の取り締まりですか?」

 内心で冷汗をかきながらも、ごく自然を装って、にこやかに言う。兵士の一人がそれに応えた。

「【式使】か? 珍しいな。君たちもトラントから来たのか? 現在、ここは封鎖している」

 やはりそうだ。やはり難民を阻止するために違いない。それをおくびにも出さずにティフが言う。

「なんで? 私達、ここに用事があって、入りたいんだけど」

「君達には関係無い事だ。この街に親類はいるのかな? いれば取り次ごう」

「いえ、親類はいません。知人を訪ねてきたのです」

「知人かね……残念だがまたの機会にはしてくれないか」

 思った以上に厳しい検問だ。何者かに関わらず、一律で通行止めにしているようだ。相手が自分達の顔を覚えてくれているか、少々危うい賭けになるが、取り次ぎを依頼してみるしかなさそうだ。

「クレン・バーテルという元【式使】の方なのです。ご多忙かと思いますがお取り次ぎいただけませんか?」

 その名前に門兵達も心当たりがあったようだ。

「むむ、バーテル氏かね。あの人のご友人となると無碍にもできないな……」

「先触れはお出しできていませんが。カイムのレーバゼィンの使いで、ヴェンタールが来たと伝えていただければきっと通じるはずです」

「ふむ、少し待ちたまえ。外は寒いだろうから、詰め所の中で待っていてくれていいぞ」

 そう行って、待たされる間、詰め所に入れてくれた。暖炉の火にあたる。お茶も出してくれた。そうして小一時間ほど待たされた後、一人の恰幅の良い中年男がやってきた。

「おお、私だよ、クレン・バーテルだ。待たせてしまったようだな」

「ご無沙汰しております、バーテルさん」

 そつなくヴェンが応対する。

「それにそっちはリア君とティフ君だな? おお、立派になって」

 ティフはこの男を知らない。というよりも、昔のことだから記憶にないのだろう。特別に目立つ容姿をしているわけではないこともあってか、印象が薄い。

「ああ、覚えていないかな? 2年前のことだからね」

 バーテルはそう言うと、門兵達と交渉を始めた。

「この人たちは私の大事な友人なのだ。通してくれんかね?」

「バーテルさんのお知り合いなら……でも、領主様には内緒ですよ?」

 不承不承ではあるが、門兵達も許してくれた。

「わかっておる。君達に迷惑はかけないよ」

「お手数をおかけして申し訳ありません」

「うむ。遠慮することはない。ようこそコットエムへ」

 そうして、どうにか、一行はコットエムに入ることができた。

 初めて来たコットエムは、なんとなく閉塞感を感じた。理由は解らない。街行く人々も妙に緊張しているような感じがする。北門の封鎖の影響だろうか。

「さあ、とりあえず私の家に来てくれ。レーバゼィン殿の話も聞きたいことだし」

 表情も明るく言う。バーテルは先生の死を知らないようだ。隠すわけにもいかない。

「そのことですが……」

「なにかあったのかね?」

「先生は……先日、お亡くなりになりました」

 それを聞いたバーテルは心底驚いたようだ。

「そんな。あれほどの方がなぜ?」

「原因はわかりません。我々はそのことで……」

「そうか……あの方が……ならば、ますます私の家に来て欲しい。詳しい話はそこでしよう」

「では、そうさせていただきます」

 バーテルの邸宅は街の中心から少し離れた一等地の素晴らしいものだった。丁寧に手入れされた生け垣に囲まれ、2棟に分かれた建屋は空中廊下でつながれている。広い庭と厩舎まである。これほどの邸宅に住んでいるのならば、相当な資産家なのだろう。本人の語るところによると、大商人だった父親の事業を受け継いだことによる資産とのことだ。事業は順調なのだが、その一方で、【式使】としての修養ができなくなってしまったという。

「【式使】としての私はとても一人前とは言えなかった。しかし、それ以外の面でならば、君たちへ助力ができると思う」

(じゃあ、【陽杯】や先生のことはわかんないよね)

 人にはそれぞれの事情がある。【式使】としての道を貫けなかったからといって、非難すべきものではない。とはいえ、そうなると【陽杯】や先生の死の謎については望み薄だろう。

 四人はバーテルの家の応接室に通された。

「なにはともあれ、ようこそコットエムへ、そして我が家へ。ゆっくりしてくれと言いたいところだが、私としては、レーバゼィン殿の事を聞きたいな」

 そうバーテルに求められて、ヴェンは今までのことを説明した。ただし、トラントでの出来事や【陽杯】のことは意識的にぼかした。彼を信用しないわけではないが、やはり話すべきではないと判断したのだ。【陽杯】のことは何もわからないだろうし、トラントでの騒動は説明のしようもない。この男が荒事慣れしていないのは見た目にも明らかだ。騙すようで心苦しいが、「先生の遺言に従ってトラントまで来たが、騒動に巻き込まれて何もできずに脱出してきた」以上の説明は避けることにした。

 バーテルは話を聞き終えるまで黙っていたが、やがて、神妙な表情で口を開いた。

「そうか……色々と大変だったようだね。それで、君たちはこれからどうするつもりなんだい?」

「ひとまず、カイムに帰ります。家を長く空けていますし、義妹達の体力が心配ですから」

 義妹達の限界が近い。ヴェンはそれを感じ取っていた。バーテルも頷いた。

「そうか。それが良いだろう。そちらの、ええと……」

「イエムだよ」

「イエムさん。貴女はどうなさるので?」

 バーテルは、イエムが自分達とは別の人種だということを本能的に悟ったのだろう。そう言った。

「私はまだわからないよ。実はここまで来たのも成り行きでね……一つ聞きたいのだけれど、ジンウって名前に心当たりはないかい?」

 ジンウというのは、イエムの敵の最後の一人の事のはずだ。それがコットエムにいるというのであれば、バーテルなら何か知っているかもしれない。

「ジンウ? ……ああ、憲兵隊長のジンウ殿の事かな? それがなにか?」

 憲兵隊長! なるほど、イエムの嫌な予感の出所がわかった。さすがに、憲兵隊長を敵に回してはまずいだろう。

「いや、古い知り合いなんだ。この街にいるって聞いたから、ちょっと気になっただけだよ」

 嘘だが、本当のことを話したところで意味はないだろう。

「そうか……彼には気をつけた方がいいかもしれない」

 イエムの言葉に対し、バーテルは意外なことを言った。この善良な男が、そんなことを言い出すのは少し意外だ。

「彼は憲兵隊長だ。しかし、私はあの男に危険なものを感じている。数年前、コットエムに現れて、あっという間に憲兵隊長まで出世した。得体が知れないと思っている」

「得体が知れない……ですか?」

「私の立場上、いちいち商売に難癖を付けてくる憲兵達を煙たく感じることもあるから、そのせいかもしれないけどね。ともかく、君達のような、この街に無関係な人間に何かするという事はないと思うよ。安心したまえ」

 バーテルは、それきりでそのことについて興味を失ったようだ。再び、ヴェンとこれからの話を始めた。

 ティフは何気なく横目に見た、そのときのイエムの顔は忘れられそうにない。

――イエムの眼は爛々と輝いていた。妖しく、激しく。


 その後、バーテルの貸してくれた部屋に入った。結局は、数日と待たずにここを立ち去ることになるだろう。バーテルによれば、トラントの難民が本格的にここに到達してからでは、出入りがさらに難しくなるかもしれないとのことだ。二日後にリーダイン行きの馬車を出す予定があるから、それに乗せてもらうことになった。

「私は、この冬の空の下に難民達を放逐するのは人の道に外れていると思う。その一方で、この街に彼等を受け入れるだけの余力がないことも確かだ。私個人としては断固反対だが、では私の資産を投げ打って、彼らすべてを救うことができるかと問われれば、できないと答えざるを得ない。政策としては……仕方がないのかもしれないね」

 そう言っていた。今後、何かあったときのための紹介状を用意してくれるとも言っていた。

 【陽杯】の観察のための器具も借りようとしたのだが、バーテルが持っていたものは、カイムで使っていたものよりも数段は落ちる物だった。新たに購入するとしても、この手の器具は全て受注生産になるから時間がかかる。ひとまず諦めざるを得なかった。うまく調達できたら、後でカイムまで送ってくれるとのことだ。

 なにはともあれ、客室を用意したので、今日はゆっくり休みなさいとのことだ。この申し出は一行にとって非常に有り難かった。カーツォヴの家から歩き詰めとあって、皆、少なからず消耗していた。

 貸してもらったのは二人用の部屋を二つだったので、二手に分かれる必要があった。

「あ、姉さん、こっちこっち」

 ティフは姉の手を取って一方の部屋にさっさと入っていく。と、思ったら、ドアから顔だけ出して言った。

「私さ、姉さんを寝かしつけるから、あとよろしく!」

 反論を許さず、そのまま扉を勢いよく閉めた。残されたヴェンとイエムとで顔を見合わせる。

「ふふ、何の気を回してるのやら、ね」

 ともあれ、二人で部屋に入った。掃除が行き届いた部屋だが、少しだけ埃っぽいのは、客人が宿泊するような機会があまりないからなのかもしれない。

(ティフは気付いているかもしれませんね。あの子は勘の良い子だから)

 ヴェンがイエムと関係したのはあの一晩だけだ。だが、いや、だからこそ、今のイエムが心配でならない。

「まさか、憲兵隊長を襲撃するなんて言わないでしょうね?」

「さすがに、それはしないよ。私はそこまで無謀じゃない。……少なくとも、あんた達を巻き込んだりはしない」

 イエムはそう言いつつ窓を開けた。涼しい風が部屋に入ってくる。風に揺られて、長い金の髪がたなびく。

「なら、よろしいですけれど。今日の貴女は、何か恐ろしく感じるのです。……トラントであの男と戦った時のように」

 イエムにとっての最後の宿敵がすぐそばにいるのだ。興奮するのも無理はない。しかし、それ以上のものを、ヴェンは感じ取っていた。

「心配してくれているのかい?」

 窓際を背にして、イエムが言う。

「勿論です。……私は……自分の傷を自分で舐める趣味はありませんからね」

 ヴェンのその言い方は、いささか婉曲表現が過ぎたかもしれない。イエムはそう言われても嬉しそうな顔はしなかった。それでも、口では別のことを言う。

「嬉しいよ。ただ、もう少し素直になった方がいいんじゃないかい? 私はあんたが好きだ。愛してる。だから、あんたが心配してくれているうちは……無茶はしないよ。まだ、あんたの正体も教えてもらってないんだ」

「そう……そうしてください。お願いしますから」

 ヴェンの不安は消えなかった。それでも、イエムを信じよう。彼女自身の問題なのだ。

「ふふふ、あんたがそう言うならそうするよ」

 イエムがヴェンの顔をのぞき込むようにする。これは彼女の癖だ。

「私はまだ、あんた達の家族になれるかどうかわからない。私の中で、まだ色々と整理できてないからね。……でも、努力してみせるさ」

 そう言って抱きしめた。ヴェンもそれに倣う。

(そうさ。私は多分、あんたより先に死ぬんだろう。でも、その瞬間まで、あんたの側にいる。そう決めたんだ。……それまでに私は。私のいた証拠を……痕跡を、あんたに残したいんだ。どんな形にしてもね。私はいままで生きてなかった。殺して、殺して、また殺して。それだけだった。

――私は、生きる目的が欲しかったんだよ)


「ねえ、姉さん。義兄さんとイエムのこと、どう思う?」

 道中ずっと考えていたことだ。イエムが家族になってくれれば嬉しいと思う。だけど、イエムは自分のことが全て片付くまでは、そうしないだろう。さっきのイエムの顔を見てしまってから、嫌な予感がしっぱなしだった。まさか憲兵隊長を襲撃するような真似はしないとは思うが、完全に諦めたわけではないだろう。

「よろしいとおもいますよ」

 姉の返事を期待していなかったティフは意表を突かれた。そういえば、姉が喋るのは随分と久しぶりな気がする。もしかすると、先生が死んで以来だったかもしれない。

「そう。やっぱ姉さんもそう思ってるんだ」

 それならいいと思う。イエムの事は好きだ。だから、それでいい。難しいことを考えるのは、本人達に任せておこう。

「そういえば……サティンとディオールはどうしてるんだろ。まだ一緒にいるのかな」

 いま思えば、色々なことがあった。あの二人が家に来たときには、所詮は他人事だった。それが、まさか自分の目の前に展開するとは思ってもいなかった。いろいろと危ない目に遭ったし、怖い思いもした。それでも、ティフはカイムで家に籠もっていたら決して体験できなかったような大冒険を、半分は楽しんでいた。

「でも……もう疲れちゃったよ。……家に帰りたい。先生はもう居ないけれど……それでも……帰りたいよ」

 姉が頭を撫でてくれるのが嬉しかった。


 夜も遅くなってから、バーテル邸に不意の来客があった。大きな音に起こされた主人が玄関口に赴くと、使用人が何やら揉めている。

「旦那様、その、憲兵隊が……」

「憲兵?」

 憲兵がこんな時刻に何の用だと言うのだ。自分には疚しいところなど無い。このまま押し問答を続けても意味はない、まずは話を聞いてみよう。

「よい、開けなさい。私から話をしよう」

 扉を開けると、いきなり、武装した兵士に囲まれた。数十人はいる。いったい何事だと言うのだろう。

「これは何事だね? こんな夜遅くに押しかけるなど、礼を失しているぞ!」

 無礼な来客を強くたしなめる。

「我々は犯罪者を捜している。トラントの崩壊に関係していると思われる人物だ。貴方の手引きによって、この街に侵入して、潜伏したという情報があった。調査させてもらう」

 バーテルの剣幕にもたじろぐこともせずに、先頭の男がそう言った。この男の言い分は図らずとも真実に合致しているのだが、バーテルには知る由も無い。自分の大事な友人達を侮辱されたと感じただけだ。

「何のことだ? 私は今日の午後、確かに、門兵に頼んで四人の客を入れてもらった。それが規律違反だというなら話はわかる。だが、その客は、私が以前大変お世話になった方の養子達で、怪しい人物ではない。そもそも、たった四人でそんな真似ができるものか!」

「……わかるものか」

 男がそう呟いたのをバーテルは聞き逃さなかった。我知らず頭に血が上る。

「それは聞き捨てならない。彼等は私の恩人の縁者だと言っただろう! 私を疑うというのか!?」

 バーテルは非常に裕福で、人望もある。多額の税金を納めており、この街の施政に対しても、それなりの発言力がある。そうした自信に支えられて、そう言った。

「かまわん。奴らを連れてこい」

 しかし、先頭の男はバーテルの言葉と権威を無視して、そう部下達に命令した。それを受けて、部下達が侵入しようとする。それを必死に押しとどめようとした忠実な使用人は、剣の柄で殴り倒された。

「な……貴様……! こんな事をして、ただでは済ませないぞ!」

 バーテルはこんな無法者達に対して道理を説くのではなく、門扉を固く閉じて守るか、あるいは速やかに攻撃をしかけるべきだったかもしれない。その時になってやっと、【式】を使ってでも排除すべきだと考えた。【式】を起動する。

「貴様は邪魔だ」

 バーテルが切り伏せられるのは、【式】の起動よりも遙かに早かった。さらに繰り出された数本の剣に滅多刺しにされて、バーテルは血の海に沈んだ。


 玄関の騒ぎのことは、家の客人達も気が付いていた。四人そろって廊下に飛び出して、明かりをつけた。

「何事です?」

「わかんない。バーテルさんが話をしてるみたいだけど」

 客室は三階だ。下の方から声が聞こえた。あの温厚なバーテルが凄い剣幕で怒鳴っている。どうやら、招かざる客の様だ。

「何の騒ぎだろ……」

 ティフは何気なくイエムの顔を見上げた。すぐに、見なければよかったと後悔した。

「まずいかもしれないよ」

 悲鳴。いや、断末魔だ。バーテルの声に間違いない。さらに、複数の足音や怒号が聞こえる。四人の間を流れる空気が凍り付く。イエムが悄然として言った。

「……私のせいだね」

「強盗か何かでしょうか? 何とか手を打たないと……」

「私が決着をつけなきゃいけないってことだろうね」

(何か新しい事をする前に)

「まさか……」

(清算しとけってことだろうね。自分を)

 廊下の向こうから複数の人影が現れた。皆、一様に武装している。その先頭に立っていたのは。

「久しぶりだねえ、ジンウ。そっちから来てくれたのは、あんたが初めてだ」

「やっと見つけたぞ、イエム。一族の仇、取らせてもらおう」

 やはりイエムの敵だ。それを聞いて、イエムが哄笑した。――もはや彼女は常の彼女ではない。【巫女】のイエムだ。

「ははははは! 仇! 笑わせるんじゃないよ! ……あんたが何をした。欲望の為だけに、私を犯しただろう? しかも、戸締まりまで忘れてくれたときてる! はははは! みーんなあんたのせいじゃないか」

「黙れ!」

「嫌だね、男の躁狂は。一族の仇が取りたいなら、自分の腹でもかっ切ったらどうなんだい。お仲間の4人が空の上で待ってると思うよ。ほぅら、私に遠慮なんてしなくていいから、ざっくりといきなよ!」

 イエムの言葉を聞いたジンウの顔が、更に険しくなる。

「四人を殺したのか?!」

「ああ、殺したとも。無様な最期だったとは言わないよ。少なくとも、あんたみたいに責任転嫁したりはしなかったからねぇ」

 イエムはそう言ってジンウに指を突きつけた。とんぼ取りのようにくるくる回して見せる。明らかな挑発だ。

「責任転嫁などしていない! 貴様の血を断つのは一族の悲願だ!」

 ジンウがわめき声寸前で叫ぶ。

「あらあら、あんた何様だい? たしか憲兵隊長とか聞いたけど。無関係な人間を好きなだけ殺したりしてもいいのかい? それはすごいや、あんたもずいぶんと出世したんだねえ。おめでとう。あんたは一族の誇りだね。よし、一族を代表して、私が表彰してあげよう」

 嘲笑う。イエムの言葉の毒は強烈極まりない。

「ぐ……貴様……!」

 ジンウの顔は怒りのあまり真っ赤だ。イエムの強烈な挑発を受けて、声も出ない。

 そんなジンウを、イエムはいっそ哀れにさえ思う。次代の族長の座が惜しくて自分を陥れておきながら、その因果が巡り巡って、結局は一族を破滅に追い込んだ。陥れた無力な娘が、実は本物の怪物だった、ただそれだけだったのだ。結局、この男は途方もなく運が悪かっただけなのだ。

 自分一人逃れておきながら、いつ現れるとも限らない復讐者の影に怯え続けてきたジンウ。ある意味では、イエムは旧友でもあるこの男を既に許していた。

 しかし、それでも対決を避けることなどできない。この男の存在は、イエムという存在を危うくする。この男を除かない限り、自分は一歩も前へと進むことなどできはしないのだ。

「エーレイは潔かったよ。パルトに家庭があることを知ったときには、さすがにためらったさ。トゥンの懺悔は、今でも耳に残ってる。ミンスはさすがに強かった。……なのにあんたはなんなんだい!? 兵隊さんの陰に隠れて、無関係な人間を殺して、一族の悲願たぁ、笑わせなさんな!」

 もはや、ジンウがなにを思おうと大した問題ではない。しかし、こんな話を聞いているにも関わらず、後ろの兵士達――これらは明らかに憲兵隊といった感じの姿をしている。それにしては、随分と重武装なのが気になるが――に動揺が見えないことの方が、よっぽど問題だ。明らかに無関係のバーテルとその使用人達を容赦なく殺害したことを考えると、もしかしたら、憲兵というのは仮の姿で、本当は特殊部隊か秘密警察の様な集団ではなかろうか。そうだとすれば危険だ。こういった処理にも慣れているのだろう。

「やれ! 殺せ!」

 とうとうジンウが自己の正当化を諦めた。その命令を受けて、憲兵達が武器を構える。その動きも、どこか無機質だ。

「おやおや。さあ、あんた達は後ろに下がって……隙を見てうまくお逃げよ」

 イエムはそう言った。今回ばかりは危ないかもしれない。だからこそ、三人を巻き込むわけにはいかないのだ。なんとしてでも逃がしてみせる。

「いえ、今度はお手伝いさせてもらいます」

「私も!」

 だから、そう言われて、イエムは心底驚いた。

「駄目だよ。あんた達は……」

「静かに幸せに生きなさいと言うのでしょう? 貴女なくして、私達に幸福はありませんよ。お手伝いさせてもらいます」

「そうそう。私達の事は気にしないで、がんばるから!」

「あんた達……ありがとう」

 イエムの胸に、初めて満ち足りたものが訪れた。――自分は、自分達の為に戦うのだ。目から熱いものが零れそうになったのを、慌てて拭った。

「じゃあ、いくよ! ついておいで!」


 戦闘はイエムが前に出て、それを三人で援護する形となった。イエムの戦闘能力は兵士達を凌駕している。三人の【式使】が無理に前に出るよりも、後方から彼女を援護する方が有効だと判断したのだ。

「姉さん、お願い!」

 静かにリアが【式】を起動する。圧縮空気の固まりだ。それをティフが投じる。ごおっという音とともに破裂して、兵士達に衝撃を与えた。その隙にイエムが突っ込む。彼女の突きを受けた兵士が後方に吹き飛んだ。さらに一撃。

「くそ! ひるむな!」

 ジンウがお決まりの台詞を吐く。それを受けて三人同時にイエムに斬りかかった。迅い。タイミングもいい。練度が並の兵士とは桁違いだ。ただの憲兵に望むべくもない。

「くっ!」

 イエムはなんとかその同時攻撃を躱して、一人に組みかかる。突き、肘と放ち、最後に手刀で喉を叩きつぶす。それとほぼ同時に、残りの二人がさらに切りかかってきた。これは躱しきれない。

 それは後ろの三人にもわかっていた。ヴェンが待機させていた【式】を発動した。見えない【盾】によって、兵士達の攻撃が逸らされる。その間に、イエムは体勢を立て直した。深追いしてきた一人を髪剣で貫く。

「すまないね。助かったよ」

「ね、私達が手伝っててよかったでしょ?」

「まあね」

 それでも、多勢に無勢という状況は変わらない。さらに、廊下の反対側にも敵集団が現れた。回り込んだのだろう。挟み撃ちだ。

「ティフ、援護はよろしくお願いしますよ」

 ヴェンが【式】を起動する。彼の手に空気の剣が現れた。挟み撃ちしてきた敵に斬りかかる。空気の剣は重さこそ無いが、その切れ味は凄まじい。攻撃を盾で受け止めようとした敵兵は、その盾ごと両断された。

 さらに、ヴェンはそのまま剣を投じた。それは躱されたものの、向きを変えて再度襲いかかり、見事に背中を貫いた。

(戦える!)

 敵を倒したヴェンの顔に後悔の色はない。以前のような嫌悪感も襲ってこなかった。彼は大事なもののために戦える自分に感謝した。

 前方はイエムが圧倒している。彼女得意の髪剣に、また一人貫かれた。

「くそ! 後退だ!」

 兵士達はじりじりと退がっていく。敵兵の損害も大きいが、イエム達の方も疲労が激しい。ようやく8人ほど倒したが、敵はまだ数え切れないほどいるのだ。


 ジンウにしてみれば、あの【巫女】を相手にするのだから、それなりの損害は覚悟していた。だが、一緒にいる【式使】達が意外と強固な障壁になった。たかだか学者風情と侮っていたが、妙に戦闘慣れしている。このままでは、こちらの損害が増える一方だ。それに、あまり時間をかけすぎては、街人の注意を引きかねない。彼は決意した。

「あれを用意しろ」


 戦闘はまだ続いている。4人は既に12人ほどの敵を倒し、館の空中廊下まで後退させていた。しかし、限界も近い。このままでは、みんな疲労で力尽きてしまう。このまま全員を倒すというのは現実的では無い。では脱出を図るか。いや、バーテル邸はともかく、コットエムの高い城壁を越えて市外に脱出するのは不可能だ。市内に潜伏してもバーテル殺人犯に仕立てられて袋のネズミになるだけだ。

 故にイエムは一点突破を図った。ジンウを直接狙って撃破し状況を打開すべく、敵兵士達の攻撃をかいくぐって肉薄し、目標に飛びついた。

「くっ!」

 さすがのイエムも相当に疲労している。それにジンウも異例の出世をしたというだけあって、一筋縄でいく相手ではない。なかなか打撃を決められない。ヴェン達は既に自分達の方だけで手一杯で、彼女を援護している余裕がない。しばらく打ち合ったものの、突き放されてしまった。敵に囲まれる形になったのを、大きく跳んで躱す。天井が無いからこそできることだ。そのまま空中で髪剣を投じる。二人の兵士が倒れた。

 イエムはジンウの間合いに着地すると同時に、手に【力】を集めた。トラント郊外でミンスを倒した、あの【力】だ。人知を超えた、不可視の巨大な質量が集まる。

(一気に決める! でないと、あの子達が保たない。私は……私の大事な物を守るんだ!)

 しかし、それはイエムの隙になった。彼女に感知できたのは、何か空気を切るような音がしたことだけだった。


「えっ……」

 イエムは全く予想していなかった攻撃を受けた。突如として飛来した、二本の銛のようなものに貫かれたのだ。あまりの衝撃に、そのまま吹き飛んで壁に縫いつけられてしまう。堪らず、口から大量の血を吐き出した。

――致命傷だった。

 ジンウが用意したバリスタ――攻城戦などに使う巨大な弩砲だ。一介の憲兵隊長ごときが持ち出せる代物ではない。イエム達は屋外の弩砲の射程まで誘導されていたのだ。

「やった! やったぞ! ついにやったぞ!」

 ジンウが快哉をあげた。

「いやあぁ! イエム!」

 ティフが悲鳴をあげた。壁に張り付いたイエムに、三人が駆け寄ってきた。

「いや! イエム、死んじゃ駄目!」

「馬鹿言うんじゃないよ……私がこれくらいで」

 イエムは強がって見せようとしたが、身体が動かなかった。なんでだろう。ああ、そうか、これが身体に刺さってるからだ。なら、こんなもの引き抜いてしまえ――ない。

「……あれ?」

「イエムさん! ……嘘でしょう? イエムさん……」

 ヴェンの、愛しい男の声が聞こえる。顔が間近に見えた。

「ああ、なにをそんな顔をしてるんだい?」

 力が入らない。そんなはずはない。だって、どこも痛く無いじゃないか。

「そんな……はず……」

「駄目だ……駄目だ駄目だ! まだ、私は貴女に何も言ってない! まだなにも!」

「大丈夫だよ、私は……あんたを……」

 置いていったりはしない。一緒にいるんだから。そう言おうとして、言えなかった。

「嘘だろ……私……死ぬのかい」

 血が、力が抜けていく。今まで、気配すら感じたこともなかった死の予感が、確実に現実になっていく。

「死なないわ! 私達の家族になるんでしょ? 死んだら……なれないじゃない。イエムが死ぬはず無いわ! ……ねえ、死なないでよ。おねがいよ……」

(嘘だろ。私は【巫女】なんだよ? 【魔人】じゃあなかったのかい? だったら、これくらいで死ぬはずがないじゃないか。そうだ、私が死ぬはず無い。だって、まだ、何もして無いじゃないか。……嫌だ! 私は死なない! 死にたくない! だって、私は……まだあのこに、私の、……いきてきた証拠を……だってわたしは……)

「ああ、なんだ。そうだったんだ。……私はあんたの……子供が欲しかったんだね、きっと。……わたしは……」

 それが、イエムが感知した最期だった。


 目の前で愛しい女が死んだ。陽気で豪快な、それでいて包容力溢れる女性だった。悲しい影を、空しい過去を、傷ついた身体を引き摺って、それでも自分を愛してくれた女性だった。これから、四人で生きていけるはずだった。

(嘘。嘘だ。私は……まただ、また何もできなかった。今度は……絶対に……)

 呆然。思考停止。虚無に滑り落ちていく意識。

「やったぞ。ついに俺はやったんだ! 一族の祖霊よ、ご照覧あれ!」

 そうだ、自分にはまだやることがある。あの男を彼女の墓前に添えることだ。

 殺してやる。彼女を慰めるのだ。彼女の遺志を継ぐのだ。ただでは殺さない。この自分を敵に廻したということが、どれほど不遜なことかを思い知らせてやる。痛覚を持っていることを後悔させてやる。そうして――そうして――そうして――どうするのだろう? 彼女はもういないのに。彼女はもういないのに。彼女はもういないのに彼女はもういないのに彼女はもういないのにもういないのにいないのにいないのに――!

「義兄さん! しっかりして。そんな……義兄さんまで……」

 義妹の声が聞こえたが。反応できない。

「よし、あの連中も殺せ。この館に火をかけろ。痕跡を消すんだ」

 そんな声が聞こえてきた。殺すってなんだ? 火? 消す? なんだそれ? そもそも、声って何だ? 「何だ」ってなんだ? なんだってなんだってなんだって――


「義兄さん、義兄さん! お願いよ、しっかりして!」

 姉のような存在の、もしかしたら、もうじき本当の姉になってくれたかもしれない人が死んだ。しかも、義兄まで。そのどろりとした瞳は――狂う一歩手前の眼だ。澄んだ青い瞳が、悲しみと狂気で濁っていく。

「義兄さん……!」

 危機は去ったわけではない。敵はまだ周りに大勢いて、自分達を殺そうとしているのだ。

 ティフはなんとか自分だけでも【式】で抵抗しようとして――できなかった。【式】がうまく起動できない。手順が思い出せない、物理法則が頭に浮かばない。意識を集中できない。何をしようとしても、死んだ人のことしか考えられない。理性が、戦え、生き残れ、と空しく命令した。

「あれ? ……こう……? どうするんだっけ……嘘、できないよ」

 幼い少女の限界が、とうとう訪れた。

「……もう……嫌だよ! 助けてよイエム! 誰でもいいから助けてよう!!!」

 ティフは叫んだ。あるはずもない助けを求めて。


「……わかりました」

 返事。あるはずのない応えがあった。

(誰………………?)

「え?」

 呆然と、声のした方を向くティフ。そこには、リアがすっくと立っていた。その姿には、かつての虚無的な様子は全くない。その顔には強い意思が感じられた。

「私が助けてあげます」

 そう妹に微笑みかけると、手を何回か交差させた。何事か呟く。ティフにわかったのは、なにやら巨大な【式】が動いているらしいということだけだ。あまりに高度で、よくわからない。

「え……? 姉さん? なんで?」

 ティフの問いには答えない。リアの【式】が凄まじい密度でもって完成されていく。さほどの時間もかからずに、【式】が発動した。包囲を縮めてきていた兵士達の周りに、何か薄い膜のようなものができた。

「ん? なんだ? これは……?」

 兵士達は、すぐにそんな暢気なことを言っていられなくなった。空気が抜けている! 膜で遮断された小部屋の中が、真空になっていっているのだ。兵士達は金魚のように口をぱくぱく開けながら必死になって自分を取り囲む膜を叩いていたが、外に音も声も伝わってこない。

「……姉さん、なにを?」

 リアの異常をどうやってか感知したのか、それまで自失状態だったヴェンが、突如として叫んだ。

「駄目だ! 駄目だ、リア! やめてくれ! やめるんだ! やめろ!」

 しかし、その声もリアには伝わらなかった。

 間もなく、膜の内部は完全に真空状態になった。兵士達は喉をかきむしりながら次々と死んでいく。そうしておいてから、小部屋を圧壊しつつ、抜けた圧力を一纏めに叩き付ける。自然には在り得ない強烈な気圧差と衝撃を前にして、人間の身体はあまりに無力だった。兵士達は、まるで水風船で作った人形のようにパンパンと爆ぜて砕け散っていった。この屋敷全体を囲む兵士の全員が、一度にそうなった。ジンウを一人残して。

 凄まじい破壊力だ。効果範囲といい、殺傷力といい、常識では考えられない。【式使】一人の限界など、完全に越えている。姉がこんな力を秘めていたなど、ティフは今まで気が付きもしなかったのだ。

「う……そんな……こんな。化け物……!」

 ジンウが呻き声を上げた。

――そんな声も、すぐに消えた。


 リアは全ての敵を砕くと、そのままどこかへと歩いていった。

「待って、姉さん!」

 ティフは姉を止めようとして、できなかった。まるで、姉が得体の知れない怪物のように感じられたのだ。そんなことを感じたこと自体、初めての経験だった。ここで行かせれば取り返しがつかないことになる。そうとわかっていても、ティフは自分の両足をどうしても動かすことができなかった。地面に張り付いたように動かない足と、気持ちばかりが急く上半身とでバランスを崩して、その場で転ぶ。

「どうしよう……姉さんが行っちゃった」

 しばしそのまま、二人で呆然としていたが、ようやく少し気を取り直して義兄に語りかけた。

「義兄さん……イエムを降ろしてあげようよ。このままじゃ、可哀想だよ。もう……休ませてあげようよ」

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