第十話 恋人達の時間

 姉妹再会からしばらくして、ザイスから馬車が到着した。その頃には、サティンもディオールも輸送に耐えられる程度には回復していたので、それを使ってザイスに向かうことになった。道中にはサティン、ディオール、テリウス、そしてリィンとで話す機会を得ることができた。

「まずは、あらためてお礼を言わせてもらうわ、ディオール。私の為に、そんなに傷つけてしまった。お詫びのしようもないわね。それにテリウスも。貴方のおかげで、九死に一生を得たわ」

 サティンは酷い高熱の重症だったが、なんとか持ち直した。いまなお身体を半ば横たえてはいるものの、順調に快方に向かっている。

「私からも礼を言わせてもらおう。私はリィンドレイク・フレイズ。姉の危機を救っていただいた。この恩には必ず報いる」

 サティンと同色の髪が揺れる。並べて見てみれば、なるほど姉妹だと皆が納得するであろう彼女の外見は、しかし姉に比べて冷たい印象を与えた。無感情というわけではない。冷徹さを感じるのだ。

「貴女がサティンの妹君とは。この地上も意外と狭いものだ」

「僕もそう思いました。最初会ったときにはとてもそうは見えなかったですから。なんていうか……見かけはともかく、雰囲気が違いすぎますよ。あ、これは変な意味で言ったのではないですけど」

 リィンは17歳のはずだ。それが第一線で騎兵を従えて先頭に立っているなど、誰が想像しよう。

「姉上は私を捜しにきたのだとか? なぜ、そんなことを?」

 そんな事を妹に言われて、サティンは心底呆れかえった。

「そんなことって……あなた、連絡もなにもくれないのだもの。心配だったのよ」

「姉上に連絡しようとすれば、どうやっても父上の目に触れる。それだけは絶対に嫌だった。そうか……心配をかけてしまったようだな」

 申し訳無かったと、再び頭を下げるリィン。

「元気にやっているようだから、安心したけれど」

(少々元気すぎはしないかとも思うけど)

「姉上も。貴女がこれほど行動的な人だったとは思いもよらなかった」

 クックックと、リィンが悪戯っぽく笑う。それは確かに17歳の少女の仕種だった。

「人に聞いても、まるで手がかりが無かったのだもの。こんなところで会えるとは思わなかったわ」

「本当は、私は休暇中なのだ。それでだろう。これでも、ここらでは有名人なのだが? 【戦姫】なんて呼ばれた事もある」

「……貴女らしいわ」

 リィンの直情径行な性格は5年前からまったく変わっていないらしい。なるほど、肉親とは遠く離れていても、それとわかるものらしい。

「ははは、姉上もあんな格好をしているとは思わなかったな」

「ふふふ。あれはディオールの提案でね。変装よ。いろいろと危なかったものだから」

 そこで、リィンには思い出した事があったようだ。

「そうだ、その件で貴女達にもう一つ謝らねばならない事がある」

「あのアーエンフルの襲撃のこと?」

 あれは間違い無くクラウトセイムの手の者によるものだった。リィンと何らかの関係があるのだろうか。

「それもある。この度、姉上に迫った危険の多くは、実は我々の失敗によるものなのだ。順番に説明しよう。……まず、我々は姉上が自由国境域にやってきたことを察知した。そこで、いらん気を回して情報を流した。貴女に関わるべからずとな」

「そうしたら、あの【魔人】がそれに掛かってしまった、ということ?」

「なに、【魔人】だと? 待て、私はその話を聞いていないぞ。ただの野盗の類ではなかったのか?」

「え、ええ」

 【魔人】といえど、実際に相対してみなければ通常の人間と見わけがつかない。後から死体を調査したところで、何の痕跡も見当たらなかったことだろう。その話を聞いて、リィンの顔色が青ざめた。

「なんということだ、謝罪のしようもない。よくぞ無事で居てくれた」

「あれはなかなか大変だったわよ。まあ、私はほとんど見ていただけだけど。ディオールとティフがいなかったら危なかったわね」

 森の中の襲撃。あの悪意の塊と向かい合ったときの恐怖は忘れられそうにない。

「ティフとは?」

「私の友達のことよ。まだ小さい女の子の【式使】でね。彼女には何回も助けられたの」

 彼女は元気だろうか。無事にフレイズに帰り着いたなら、連絡をしないといけない。――サティンには、ティフが師の死と共にカイムを発ち、トラント炎上に関わっているなどと、知る由があろうはずがない。

「そうか。では、私もその少女に礼を言う必要があるな。ともあれ、それは置いておいてだ。これ以降の事は、私も詳しい話を聞いていないのだが、こんな事が二度と無いようにと、貴女達に見張りをつけていたらしい。そうしたら、今度はグヴァイン達がそれに感づいてしまった」

「グヴァインとは、あの男のことか?」

 ディオールと交戦し、結局は自滅してしまった男。

「そう。貴方と戦った男のことだ。理由はわからないが、あの男は貴方を憎悪していた。それで命を狙った。末路は貴方が知っての通りだ」

「?……それじゃ、サティンさんを狙ったという事じゃないのですか? ディオールさんを狙ったのであって」

 テリウスの疑問はもっともだっただろう。彼等は、これまでサティンの安全こそを考えてきたのだから。推測の根底が間違っていたことになる。

「さて。私怨もあっただろうが、こんなに目立つ姉上を見落とすとも考えづらい。一挙両得とばかりに姉上を害して、それを謀略の種にする程度は考えていただろう。自殺行為としか思えないが、奴にはそれだけの想像力もなかったらしい。いや……既に狂っていたのかもしれないな」

「そうか……結局、危険を呼び寄せて、巻き込んだのは俺の方だったか」

 ディオールも、ようやく腑に落ちた。狂人か。ある意味では、一番厄介な相手だったわけだ。カイムでサティンと約束したときの言葉が現実になってしまったらしい。

「で、奴があまりに無茶をするものだから、いろいろと虐めてやったのだが、どうも、やりすぎたらしい。もともと太くない我慢の糸が切れてしまった。何を思ったか、軍を率いてアーエンフルに戦争を仕掛けてしまったのだ」

「滅茶苦茶ね。それで……?」

「このままでは大変なことになる。そう判断した我々が、アーエンフルと結んで攻め滅ぼした。味方を討つのは心苦しかったが、これ以外に手が無かった」

 リィンは既にイザークからの報告によって、グヴァイン軍は制圧されたことを知っていた。投降者も少なくはなかったが、やはり相当数の死者が出たとのことだ。他ならぬ自分の策の結末に、心を痛めないわけではない。無用に命が失われた。

「やはり、あれは敗残兵だったのか」

 山中の襲撃者達は妙に元気が無かった。やはりそういうことだったのだ。

「そうだ。その一方で、私は手勢を連れてアーエンフルに向かうとともに、山中を探索していた。勿論、貴方達を保護するためにだ。そうしたら……あとは貴方達も知っての通りだ。ただ、まさか姉上が一緒だとは思わなかった。……ザクが私から隠していたのだ」

 リィンはそう言って肩をいからせる。どうやら、そのことで相当に怒っているらしい。

「ともかく、そういうわけだ。我らの失敗の影響が、すべてそちらに行ってしまった。本当に申し訳ない」

 リィンが三再度、頭を下げた。それよりも、サティンには興味の惹かれたものがあった。

「それは済んでしまった事だから仕方がないし、助けられたのだから良いのだけれど。ザクっていうのは?」

「私の夫だ」

「夫!?」

「? おかしいか?」

(……リィンはまだ17歳のはず。いつの間に……)

 サティンの困惑を無視して、リィンがなおも続ける。

「ネイ・イザーク。【鴉党】の創設者にして代表者。【白鴉】の名の方が有名だな。私はザクと呼んでいる。イザークというのは、間延びして良くない」

「自由国境域最高の智将ではないですか! 彼の戦記を読んだことがあります。彼の戦術は素晴らしいものです。クラウトセイムに本拠を置いているのは知っていましたが……そうですか、貴女の旦那様なのですか」

 テリウスが感嘆の声をあげた。常勝を誇る最高の智将にして、勇敢な戦士。【白鴉】イザークといえば、戦士を志す人間にとって一つの目標なのだ。

「私に言わせれば、あんなものはイカサマの類だな。ザクの常勝たる所以は他にある。少年、戦士を目指すならば、それを知ることだ」

 リィンがぴしりと言う。イザークのような存在をむやみに目指して、結果、滅びを追っていった存在を数多く知っているからだ。彼らはうわべの華麗さに目を奪われて、本質というものが見えていなかった。

「はい」

「いい返事だ。ふふ、素直なことは、それ自体が財産だ。期待しているぞ」

「頑張ります」

 テリウスがそう応えた。それを見て、リィンは満足そうに微笑む。

 そんなやり取りを見ながら、サティンは先程から気になっていたことを口にした。

「ねえ、リィン? そういえば、この馬車は何処に向かっているの?」

「ああ? そうか、言ってなかったな。これからザイスを経由してバーバィグまで行く。そこで本隊と合流する予定だ。そこから先は未定だから、皆で相談して決める」

「クラウトセイムには帰れないの?」

「ああ。ザクからの連絡によれば、市民達から石を投げて追われることまではなかったものの、かなり険悪な様子だったらしい。想像できたことだが……辛いことだ」

 もっとも、今回のことは自分が提案したことなのだ。それを後悔はしていない。

「客観的に見ても、大局的には貴女達のしたことは正しい。非難されるべきはグヴァインとやらと、それに盲目的に従った兵達だろう。 情けないことだ」

 ディオールの言葉はリィンにとって嬉しかったが、それだけでは片付かないのがこの地上というものだ。

「これは【蒼鷲】殿は辛辣な意見をお持ちのようだ。だが、グヴァインもその愚かさに見合った末路を遂げた。市民にしてみれば、八つ当たりする対象が欲しいのだよ。まあ、我らも積極的に市民とうち解け合おうとはしなかったのだから、あまり悪し様には言えんな。これからは、なるようになるだろうよ。あの領主の解任くらいは期待してもよかろう」

「ねえ、なら……フレイズには来ないの?」

 すると、リィンは心底嫌そうな顔をした。顔が嫌悪感に歪む。

「冗談ではない。父上の言いなりになるくらいなら、空中分解した方がましだ。姉上には悪いが、それだけはできない」

 サティンとて最初から期待はしていなかったが、やはり無理そうだ。妹と父の間に横たわる溝は、自分と父のそれに比べても、遙かに深い。妹には妹の生活がある、そう割り切るしかないだろう。残念だが、悲しいことではない。

「とりあえず、バーバィグまでは一緒に行ける。……そうだ、姉上は身体の具合はどうだ?」

 リィンは何かを思いついたようだ。ふと、表情を明るくする。

「大分いいわ。一時期は本気で死ぬかと思ったけれど」

「久しぶりに姉上の歌が聴きたい。駄目か?」

 リィンをして望郷の念に駆られたのだろう。昔と変わらぬ姉の姿を見て。

「とんでもない。他ならぬあなたの為ですもの。テリウス、そこの大琴を取って頂戴」

 サティンが馬車の片隅に置いてあった大琴を指す。

「それは母上の大琴だったな。こんな危急の事態でも手放さなかったのか。……姉上らしい」

「ええ、こればっかりはね」

 サティンはテリウスから大琴を受け取って一つ鳴らすと、澄んだ音が響きわたった。調律に狂いはなさそうだ。

「さあ、なにがいい?」

「そうだな……やはり、フレイズの歌がいい」

「わかったわ」

 二人の思い出深い歌を選ぶ。まずは厳しい冬から春を望む【エイシュールの陽】の詩だ。歌い出す。

「ふふふ……姉上が羨ましい。私には、そういったものの才能がまるでなかった。懐かしい……昔を思い出す」

 リィンは目を閉じた。

「……もうレイシュもいないわ。寂しくなってしまったわね。レイシュの手紙がなければ、私もここまで来られたかわからないのよ」

 サティンの脳裏に、口うるさくもあったが、自分を愛してくれた守役の顔が浮かぶ。

「レイシュのことは残念だった。また一人、私の知っているフレイズの人間がいなくなってしまったな」

 馬車はゆっくりと山道を進んでいった。


 山道を出てすぐ、ザイスに集結していた部隊と合流した。その指揮のためにリィンは色々と忙しくなってしまって、のんびり話をしているような時間をなかなか取れなくなった。テリウスはその見学を申し出たために外に行っていて、ここにいない。おかげでサティンはディオールと二人の時間を持つことができた。

「傷の具合はどう?」

 ディオールが傷を負ったのは右腕と左足だ。特に、右腕は相当酷い傷だったと聞いている。

「ああ、治療がよかったのだろう。大分よくなってきている。彼等はこういったことにも知識があるようだな。助かる」

「今回は本当に申し訳ないことをしたわ」

「グヴァインとやらは俺を狙っていたという。貴女の責任ではないさ。今回のことは、俺にとってもいい経験になった」

 ディオールは、余計な罪悪感は必要無いと言ってくれている。

「そう言ってくれるとありがたいけれど」

「これから貴女はどうするつもりだ? 妹君は見つかったのだし、フレイズに帰るのか?」

 もともと、サティンは妹を捜すために使節を抜け出したことが発端なのだ。その目的は果たされた。同時に、レイシュの遺言も果たしたことになる。確かに、あとは帰るだけだ。そう、帰るだけなのだ。

「そういうことになるわね。それにしても……リィンがこんなところにいるとは思わなかったわ」

「なるほど、あれは確かに【猛々しい】だな。貴女に似ているようで、似ていない。……姉妹だな」

「あれほどだとは、私だって想像していなかったわよ。しかも、結婚しているなんて。【白鴉】イザークといえば30半ばでしょ。親子ほども年が離れた、というのではなくて?」

「俺としては、彼等の馴れ初めに興味があるが。それに、あの気性だろう? イザーク殿とて苦労していそうだ」

 二人で笑い合う。

「あら、貴方がそんなことを言うなんて意外ね。それは置いておくとしても……やっぱり、リィンはフレイズには帰りたがらないわね」

 そもそも、リィンは父親と顔を合わせたくないがために、12歳の時に家出しているのだ。その溝は深い。

「貴女達は父君とうまくいっていないようだな。……ああ、これは失礼した。他人が口出すことではないな」

「それはいいけれど……私達がなんで父様とうまくいっていないか話しておこうかしら? ……これは以前、途中まで話した、私の左目のことに関係あるのだけれど」

「いや、無理に訊くつもりはない」

 ディオールは辞退しようとしたが、サティンはこの際、話をしておくことに決めた。

「……いいのよ。私が話したいのだから。貴方には聞いて欲しいの。嫌ならやめておくけど」

「……いや、わかった」

 ならばディオールには断る理由は無い。サティンはぽつぽつと語り始めた。

「私が9歳、リィンは5歳の時、母様が死んだわ。暗殺されたの」

 悲しい思い出。だが、彼には知っていて欲しいと思う。

「原因は私達姉妹。母様は私達を狙った刺客から、私達を庇ったの。私達を庇ったせいで、あんなに強かった人が何もできなかった。しかも、刺客の武器には、御丁寧にも毒が塗ってあった。私の左目はその毒に灼かれたの。だからよ、私の左目がこんな色してるのは」

 左目が最後に映したものは、母の死だった。勇敢だったが、あまりに無残な。もう10年以上経つというのに、あの光景が網膜に焼き付いたまま消えてくれない。

「……素晴らしい母君だったのだな」

 サティンには、ディオールの言葉が有り難かった。そう、強くて、勇敢で、少し不器用だったけれど、優しくて。自分の身体に、あの人の血が流れていることこそ、誇りなのだ。

「ありがとう。父様は母様の死を、それは悲しんでいたわ。父様はあの通り敵の多い人だから、自分のせいだって、自分が殺したも同然だって。ずいぶん自分を責めてた。だけれど……父様は……」

 父が裏切ったとは思わない。ただ、釈然としないだけだ。

「父様は母様の仇を討つことさえしなかった。……母様の死を政治材料にしたの。あの変わり身の早さにはついていけなかったわ。それからの父様は見ていたくなかった。今では【北の餓狼】呼ばわりされているわね。リィンはそれに耐えられなかったのだと思う。真っ直ぐな子だから」

「……」

「父様と母様の間に愛が無かったとは思わないし、その愛が偽りだったとも思わない。【真王】の末裔たるフレイズの藩主として、必要な行動だったということも、今なら理解できる。けれど……父様を許すことはできないわ」

「俺からは何も言うつもりはない……貴女の気の済むようにするのが良いさ」

「ありがとう。貴方ならそう言うだろうって思ってた。……私は多分、父様の跡を継いでフレイズの藩主になると思う。その時に子供に誇れるような人間でありたい、そう思っているわ」

(その時に……)

「貴女にはその素質がある。……きっとそうなれると信じている」

(貴方は何をしているの? どこか遠くで戦っているのかしら……? それとも……私の隣にいて、私を守ってくれているのかしら?)


 馬車の外では、リィン達【鴉党】隊員がてきぱきと仕事をこなしていた。

 テリウスは荷台の上から、その光景に見入っていた。現在は自分に手伝える事はないが、将来、役に立つかも知れない。そう考えてのことだ。こういうときにこそ、自分の記憶能力が役に立つ。【鴉党】は私設部隊でありながら、組織的に極めて強固な様だから、手本とするには一番だろう。

 不意に、テリウスに声がかけられた。

「フィン・テリウス君。ちょっと話があるのだが、よろしいか?」

 リィンだ。テリウスは、彼女が自分のフルネームを覚えてくれていた事を嬉しく思った。

「テリウスでいいですよ。なんでしょう?」

「じゃあ、テリウス。なあに、ちょっとした内緒話さ」

 リィンはそう言って顔を近付けてきた。声を低くして言う。

「……なあ、あの二人、お前の目から見て、どう思う?」

 テリウスは思わず吹き出しそうになった。この激しい女性が、こんな話をするとは思ってもいなかった。二人というのは言うまでもない、サティンとディオールの事だ。

「笑うことはないじゃないか。私には私なりの考えがあってのことだ」

「好奇心と信念は混在させないのが賢明ですよ」

「いいから。で、実のところどうなんだ?」

「……あの二人は、そういう関係じゃないですよ。『まだ』とか、『多分』とかの修飾がつきますけれど。いい雰囲気だと思う時もありますけれど……互いに垣根越しに話をしている節がありますね。こう……なんていうか……壁を作るというか」

 これはテリウスの正直な感想だ。彼等の間には、何か埋めがたいものが横たわっているように見えたのだ。それを聞いて、リィンは落胆した様だ。ため息を漏らす。

「なんだ。姉上もだらしがない。あれほどの男と四六時中一緒にいるくせに、なにも感じないのは変人だぞ。そうか……まだか」

(この人は何を期待していたのだろう?)

 なんとなく興味があるが。テリウスはそんな事を考えていたら、いきなりとんでもないことを訊かれた。

「で、お前の方はどうだ? 好きな娘はいないのか?」

「え!? ええ!? 僕ですか?」

「おや、自分の方は全然か? それだけ冷静に二人を評価しているくせに」

 リィンが呆れたような顔をする。

 テリウスは決して明るくない幼少時代を過ごしてきたためか、そういった経験はない。近所にも同年代の女の子はいたが、そういう感情は抱いたことがない。――ただし、テリウスにそういう感情を向けていた少女は、実は大勢いたのだが。それと気が付かなかったのは、テリウスの朴念仁のせいだ。

「お前は年の割にませているからな。それに素材のほうも悪くない。てっきり、百戦錬磨だと思ったのだが」

「ひゃ、百戦錬磨って、なにをですか!」

 テリウスは自分の顔が熱くなっているのを感じた。心の準備というものができていなかったのだ。

「なんだ、意外とウブなんだな。まあ、私も人のことは言えないが。お前くらいの年の時には、何も考えていなかったさ」

(この人の恋愛談を聞きたい気がする。もしかしたら、凄い話が聞けるかもしれないな)

「僕としては、貴女達の馴れ初めの話を聞きたいですね」

 テリウスにしてみれば、ささやかな仕返しのつもりだ。

「うん? ザクと私のことか?」

「ええ。ちょっと僕には想像できないものですから。後学のために」

「私達の場合は、ちょっと特殊すぎると思うからなあ、あまり参考にならないと思うぞ。まあいい。もう少し時間もあることだし、少し話してやろう」

「お願いします」

 リィンが話し始めた。

「私が12の時にフレイズを出奔したという話は知ってるな」

「ええ」

 テリウスも、その話はサティンに聞いたことがある。とても信じられないが、どうやら真実らしい。

「幸いにして、金は父上の金庫の鍵を破って持ち出していたから、生活にはまったく困らなかった。何回か私に不埒な真似をしようとした輩にも出くわしたが、熨してやった。あちこち見て回ったし、道場のようなところに入っていたこともある。それで、調子にのって傭兵の真似事をしていたときだ。ザクに出会った」

 波瀾万丈の人生と言い表すべきだろうか? 高貴な生まれの幼い少女のすることでは無かろうに。

「第一印象は?」

「最悪だったな。あいつは、その時には既にクラウトセイムに所属していたのだが、私は近隣のポルタイア市にいた。今は友好条約を結んではいるが、その時は敵同士でな。味方はザクにいいように翻弄されていた」

「敵同士だったというのですか?」

「ああ。お前はザクの戦記を読んだことがあると言っていたな? あれは味方や第三者にしてみればいいが、敵にとっては、何かズルをしているとしか思えん。それはともかく、私はどうしたと思う?」

「まさか、寝返ったとか?」

 テリウスとて本気で言ったわけではない。だが、リィンの顔がいきなり厳しい表情になった。

「いいか、少年。運や実力が足りなくて敗れるのは仕方がない。だが、これは覚えておけ。――誰かに頼られる、信頼を置かれる、他人を命令できる立場に就く、約束をするということは、何よりも尊いことだ。それを軽く見る人間は、他人から愛されることはないし、自分自身でもどうしようもない奴になってしまう。私はそういう人間をたくさん知っているが、どいつもこいつも一回引き裂いた方がましとしか思えん」

「申し訳ありません」

 テリウスは素直に謝った。確かに、失礼な事を言ってしまった。それでも、すぐにリィンの顔が和らいだ。本気で怒ったわけではないのだろう。

「素直なことは、それ自身が財産だ。お前がそうはならないと信じているよ」

「はい。気を付けます」

 テリウスの返事に満足したか、リィンが話を再開した。

「それでだ、私は短絡だから、じゃあ、あいつさえいなければ勝てるのだろうと思った。だから、単身敵陣に潜り込んで一騎打ちを挑んだ」

(……この人らしい。実にこの人らしい行動だ。賢明とは言い難いけれど)

「なんだ、その納得顔は? 私はその時は14だったが、負ける気はしていなかったぞ」

「でも、負けたのでしょう?」

 彼女が勝っていたのなら、現在こんな事にはなっていないはずだ。

「違う。私が戦ったのはザクじゃなかった。あいつの副官と間違えて、それがまたいかにも【白鴉】な奴だった上に、相手もそう名乗ったのでな」

「それで?」

「勝った。なかなか手強い相手だったが、私の細刀術の敵では無かったよ」

 14歳の少女が、【白鴉】イザークの副官に勝利したというのか。小娘風情がと油断もあっただろうし、見慣れない細刀術にとまどったのもあるだろう。それにしたって……。

「勝った! と、思ったら、その時になって初めて、人違いだとわかった。仕方がないからもう一回と思ったら、あいつめ、こんな事を言った。『貴女は疲れているだろうから、体を休めてから正々堂々とやろう』だと。くそ! あいつは最初からそのつもりだったんだ」

 リィンは怒りに身を震わせんばかりだ。よほど悔しかったらしい。

「どうしたのです?」

 彼女の話は面白い。テリウスはわくわくしながら聞き入ってしまう。

「あまりに丁重に扱われたものでな。私はすっかり油断してしまった。そのまま夕食を振る舞われて、上機嫌で寝床に入ったら、次に目を覚ましたのは一週間後だった。……一服盛られたんだ」

「……なんだか凄いですね。それで貴女はどうしたんです?」

「その時には既に和平が結ばれて戦闘は終わっていたのだぞ? どうにもできなかった。脱走兵も同然だったから、自軍に帰るにも帰れないし、いまさら敵大将を倒しても、意味がなくなっていたんだ」

「なるほど……戦う理由が無くなってしまったのですね」

「私はあんまり頭にきたものだから、それでも約束は約束だといって、あいつと戦った。……一週間も寝ていたのだぞ? 身体はフニャフニャだったよ。見事に負けた」

(なんだかとても愉快な話だ。きっとイザークさんは近日中に決着がつくことを知っていて、彼女に一服盛ったのだろうな)

 怒れる戦牛を躱す闘牛士の如くだ。

「……なにを可笑しそうな顔をしている? 私は本当に悔しかったのだぞ。で、あまりに悔しかったから、そのまま居座ることにしたわけだ。責任を取れってな。まあ、これがあいつとの最初ということになるな。しかも、後で聞いたら、最初から私の素性に気がついていたというじゃないか。しかも……いや、これはまだいい。私には遠大な計画がある。でだ、いいか、テリウス。あれは確かに【白鴉】だ」

 そうして、リィンは話を終えた。

「ははは。ありがとうございました。とても面白かったです。後々役に立つかどうかは疑問ですけれど」

 リィンが肩をすくめる。

「あまり役に立って欲しくない気もするが。まあ、出会いというものは、往々にして奇妙なものだ」

 私の場合は奇妙すぎるのだろうけどな、とリィン。

「それと、先駆者として最後に一言。こういった感情というものは、相手の顔色を窺ったり、互いの全てを理解しようとか考えては駄目なんだ。互いによくわからないことや、知らないことがあるからこそうまくいく。そうしないと……それぞれが穏やかに生きてきた場合には、互いがつまらなく見えてしまうし、それぞれが深刻な人生を歩んできた場合には、傷の舐め合いになる。きっと、あの二人はそれがわかっていないんだ。……よし。私の話はこれだけだ」


 バーバィグの港に到着した頃には、ディオールの傷も良化して、ある程度は動けるようになっていた。まだ本調子とは言い難いものの、【鴉党】の面々もいる。急場の事態には十分対応できるだろう。

 バーバィグの港には、既に【鴉党】の他部隊も集結を完了していた。サティン達は馬車から降りて、出迎えたイザークと対面した。がっちりとしていて、いかにも戦いを生業としている男そのものという雰囲気がした。智将というイメージはあまり伝わってこない。まずはこの外見に騙された人間も多いのだろう。

「この度は危ういところを救っていただき、お礼の申し上げようもありません」

「妹(続柄によらず、年齢の上下によって呼ぶ)の危機を救うのは兄として当然のこと。御無事でよかった」

 イザークはそう言うと、姿勢を正した。

「お初にお目に掛かります。サティナルクレール・フレイズ様。私はネイ・イザーク。【白鴉】と呼ぶ者もおります。この自由戦士団【鴉党】800余名を率いております。それから……」

 そうして傍らの女性の方を指して言う。

「ご存じの通り、貴女の妹君リィンドレイク・フレイズの夫でもあります。以後お見知り置きを」

 どうやら、二人が夫婦だということは本当らしい。サティンはこの瞬間まで心のどこかで疑っていたのだが。

 イザークはさらにディオールにも話しかけた。

「それに、テス・ディオール殿。【蒼鷲】【群青の戦士】たる【三つ名】の英雄に直接会う機会を得ることができた。とても嬉しい」

「俺のほうこそ。勇名鳴り響くイザーク殿の手腕の一環を得ることができた。危ないところも救っていただいた」

「それとて我々の不手際によるもの。礼にはおよばん」

 ディオールもそれに応える。イザークはさらにテリウスにも声を掛けた。

「それから君がフィン・テリウス君だな。君の活躍ぶりはリィンやオーレットから聞いている。まだ小さいのに大したものだ」

「ありがとうございます」

「戦士を志していると聞いた。君のような少年に対し、我ら【鴉党】の門戸はいつでも開いている。いつでも頼ってきてくれ」

「はい」

 イザークはそこでまで言ってから姿勢を崩した。この手の緊張が苦手な人種らしい。

「よし、堅苦しい挨拶はこの辺にしてと。これからどうするので? やはりフレイズへ?」

「ええ。私は妹の消息を探しにきたのですから。貴方達はこれからどうするのですか?」

「我々の進路については、まだ決定していません。これから会議をせねばなりますまい。その結果に関わらず、貴女達をフレイズに送ることはしますよ」

「それは助かります」

 帰りの道中の安全が保障されれば心強い。

「このバーバィグは我々が駐在しておりますから、危険は無いはず。我らの方が落ち着くまで、すこし街を見てみてはいかがです? 港の方はなかなかにぎやかで、見聞を広めるには良い機会でしょう」

 それはいい考えだと思っていたら、リィンが口を挟んだ。

「ああ、その前に。ザク、シュリクはどうした?」

「ん? 当然、連れてきているぞ。そこの宿にいるはずだ」

 イザークがすぐ近くの家屋を指した。兵舎として接収しているのだろう。

「そうか……ふふふ、姉上、少し待っていてくれ」

 リィンは含み笑いをしながら、その家屋に入っていった。

「なんなの?」

 妹の行動が気になったサティンはイザークに訊いてみた。

「……そう言えば、なにやら計画がどうのと言っていたな。……最初は随分あのことで責められた。私はまだこれからなのに、どうしてくれるんだってな。今はこれで良かったと思っているみたいだが」

 だが、イザークはニヤニヤしながらそう言うだけだ。訳が分からない。そのうちにリィンが戻ってきた。

「お待たせしたな、姉上」

 その手にあるのは――

「ねえ? それ、なに?」

「以前から思っていたことだが、姉上は存外に冷たいお人だ。甥を『それ』呼ばわりするとは」

 リィンが呆れた様にそう言う。甥というのは、自分の兄弟姉妹の子供のことだ。サティンには兄弟姉妹は一人しかいない。

(……え?)

「ほら、シュリク。お前の伯母様に挨拶しなさい」

「もしかして、その子……あなたの子供なの?」

 認めたくない事実がそこにある。知ってはいけない事実がそこにある。

「他になんだというのだ? キリーン・シュリク。私とザクの長男だ。まだ一歳になったばかりなんだ。どうだ、可愛いだろう?」

 リィンが心底嬉しそうに子供を紹介した。――名前が自由国境域のものだ。

「えーと、ああ、そう、貴女の子なの……ふーん、そう。えーと、こういうときには、なんて言うのかしら……おめでとう?」

「ははははは、ありがとう、姉上。いや、想像通りの反応をしてくれて、とても嬉しい」

 周りの人達もみんな笑っている。まさか、結婚だけでなく、子供まで作っていたとは。しかも、リィンは今17歳だから、逆算すると――16!?

「あなたが大人びて見えた本当の理由が、やっとわかったわ。……ふう」

 サティンのため息。

「現役を離れていたって言っただろう? 子育ての途中だからな。こんなに面白いことを、他人に譲るつもりはない」

「ふう……」

 もう一回。今度は深く。

「おお、伯母様はお疲れのようだぞ。シュリクよ、お慰めするのだ」

 リィンから子供を手渡された。抱いてくれということらしい。それを受け取って胸で抱いた。サティンにとっては、勿論、初体験だ。手であやしてみる。無垢な反応が愛らしい。

「せめて『姉様』にしない?」

 それを聞くと、リィンは心底驚いたように言う。かなり演技がかっている。

「おお、なぜそんなことをしなくてはならないのだ? 私は子供に嘘を教えるつもりはない。性根が曲がったらどうしてくれるのだ、伯母様は責任を取ってくれるのか」

 どうやら、最初からこれがやりたかったらしい。「おばさま」を強調、連呼してくれた。

「……もういいわ。貴重な体験をありがと」

 子供を返す。それを心底愛しげに受け取るリィン。

「ははは。姉上にはこの事を知っておいて欲しかった。ちょっと悪戯が過ぎたかな?」

「……ふう」

「さあ、我々は会議もしなくてはいけない。姉上達は暇を潰していてくれ。半日とかからないはずだ」


「さてと、ザク、私に話があるのではないか?」

 ここには二人しかいない。二人の部屋として決めて使っている部屋だ。会議までまだ時間があることだし、リィンは今のうちに夫と話をしておこうと思った。

「な、なんのことだ?」

 イザークの声が上擦る。視線もどこか遠くへ彷徨っている。

「ごまかしても駄目だ。私に姉上のことを黙っていただろう」

「あれは……そう、姉妹の感動の対面を演出しようと思ってだな……」

 普段は剛毅で動じない男が、妻の前では形無しになる。こういう男を恐妻家と呼ぶのではないだろうか。

「姉上は私が誰なのかわからないほどボロボロで、人も通らぬ山道の茂みの中での再会が感動的なのか?」

「……えーとだな……すまん。俺が悪かった」

 とうとう、イザークが観念して頭を下げた。

「まったく……最初からそう言えばいいものを。なんで隠したりしたんだ」

「生き別れの姉が近くまで来ているとわかったら、お前のことだ、飛び出して迎えに行っただろう。……お前が心配だったんだよ。グヴァインどものこともあったし……」

「生き別れじゃない。私が勝手に出奔しただけだ。大体、私はそれほど無鉄砲ではない」

「……どうだか」

 イザークは殆ど聞こえない小さい声でつぶやいた。

「ん? 何か言ったか? まあ、私のことを心配してくれていたというのはわかる。私もうじうじしたのは嫌いだから……」

「そ、そうか。わかってくれて嬉しいぞ、うん、嬉しい」

 大げさにイザークが喜ぶ。しかしリィンの追求は厳しい。

「誰が許すと言った。……そうだな……どうするか……よし、縛ろう」

 リィンはしばらく考えたあと、そう言い放った。

「縛る!?」

「ああ、そうだ。前から一度やってみたかったんだ」

 どこから取り出したのやら、縄を持ってにじり寄るリィン。

「ま、待て、俺が悪かった! もう二度とこんな事はしない。絶対だ。だから勘弁してくれ」

 イザークは後ろの壁まで下がった。冗談ではない。男の沽券、いや、人間の尊厳に関わる。

「そんなに嫌なのか?」

「嫌だ! 頼むから考え直してくれ」

「そうか……残念だ。じゃあ……うーん……よし、尻を出せ」

「……それも許してくれ。部下に示しがつかなくなる」

「なんだ、贅沢な奴だな」

 リィンは小さく肩をすくめる。

「今回だけだぞ? 力一杯の抱擁で許してやろう」

 最初からそう言えば良いのに、リィンにしてみれば、ちょっと悪戯がしたかっただけなのだ。

「それなら大歓迎だ」

 そうして、二人は互いに抱きしめあった。


 サティン達三人はイザーク達の提案に従って、港街を散策することにした。【鴉党】がトラントからの難民をクラウトセイムに誘導したために、ここではそれほどの混乱は起きていなかった。もっとも、クラウトセイムは今頃大騒ぎなのかも知れないが。

 とりあえず、それほど混雑していない広場を三人で歩いてみることにした。いくつかの店舗が広がっている。バーバィグはかなりの規模の貿易港だ。ダイクのように、凍結することもない。自由国境域中北部の流通の要だ。

「サティンさん、体の具合の方はどうですか?」

「ああ……うーん……まあね」

 サティンはまだ先程の衝撃が抜けきらないらしい。テリウスが何を話しかけても上の空だ。

「なかなか愉快な妹君だな」

 これはディオールだ。

「そうですね。あの人が以前言ってましたよ、『私には遠大な計画がある』って。いや、まさかあんなこととは思わなかったですよ」

「人ごとだと思って……いい? リィンは貴方と7歳しか離れていないのよ? 私とは……ふう」

「ははは。僕に姉がいたらって感じがしますよ、あの人は。少し怖いですけれど、面白い人だと思います」

「姉としては複雑なのよ」

「わかるつもりですよ。あ、ちょっと待っていてくださいね。飲み物を買ってきますから」

「お願いするわ」


 ざっと周りを見回すと、いくつかそれらしい店がある。テリウスは広場の向こうにあった一つの果物市を選んで、中を覗いた。【絞りたての果物ジュース】という看板が目に入ったからだ。

「こんにちは」

「はい。いらっしゃい、ちょっと待っててね!」

 元気のいい声がした。中から出てきたのは、テリウスと同い年くらいの女の子だ。真っ赤な髪と大きな翠の瞳が印象的だった。店主とも思えないし、手伝いをしているのだろうか。

「? 私に何か用なの?」

 視線を感じたのだろう。女の子がそう言った。翠の瞳が真っ直ぐに向けられる。どんな相手に対しても、真っ直ぐに見つめて話をする習慣がある子のようだ。

「い、いや、違うよ。えっと、そのジュースを三つくれる?」

「ああ、お客さんだったの? うん、いいよ。ちょっと待っててね」

 女の子は鼻歌交じりに、搾り器に果物を放り込み始めた。

(もう……あの人が変なこと言うから、変に意識してしまったじゃないか)

「君はお店の手伝いをしてるの?」

 テリウスは、女の子がジュースを絞り終わるのを待つ間、少し話をしてみようと思った。リィンにいろいろと言われたからではない。なんとなくだ。

「うん、そうよ。ちょっとした事情があって。人を捜してるの」

「ふーん。なんていう人なの?」

「ごめん。教えてあげられないや」

「そう。仕方がないね」

「ごめんね。えっと、そこのコップを取ってくれる?」

 女の子は傍らのコップを顎で示した。

「別にいいけど……自分で取った方が早くない?」

「できたらそうしたいんだけど……手が放せないのよ」

 女の子は搾り器の取っ手にぶら下がるようにしてしがみついている。力が足りなくて回し切れないようだ。

「手伝おうか?」

 テリウスはコップを置きながら言ってみた。この女の子の腕力で、この仕事はきつかろう。

「うぐ……この……んんん。ほら、何とかなった」

 女の子はなんとか搾りきったようだ。力んだせいで顔が真っ赤になっている。息を吐き出す。

「大変そうだね」

「まあね。私も人の世話になってるわけだし、これくらいわね。……はい。できたよ」

 女の子はそう言って、三つのコップを机に置いた。

「ありがとう。これ、代金」

「はい、まいどあり。……ねえ、それをどこまで持って行くつもりなの?」

「うん? 広場の向こうまでだけど」

「三つ持ってくのは大変でしょ。一つ持ってあげる」

 確かに、三つのコップを一人で持っていくのは大変だ。この申し出はありがたかった。

「うん。じゃあ頼むよ」

 テリウスは女の子の好意に甘えることにした。店を出て、二人で歩き始める。

「あなたもこの辺の人じゃないよね。何処からきたの?」

「僕かい? ジーファステイアからだよ。目的は、まあ……武者修行かな。三人で、これから真王国まで行くんだ」

「へえ! 私はカイムから。目的は例によって秘密。ごめんね」

「いいよ。事情ってものがあるのはわかるし。ああ、あの人達だよ」

 ディオールとサティンが待っているところまで戻って来た。相変わらず、遠目にもはっきりと目立つ二人だ。

「……」

 女の子の様子がなんだか変だ。

「どうしたの?」

「いた!」

「え?」

 女の子は持っていたジュースを放り出して一目散に駆け出していた。


 サティンはとても驚いていた。こうも驚きの連続だと、健康に悪いのではないだろうか? 広場の向こうからテリウスと一緒に来たのは――ティフだった。

「サティン! それにディオール! 良かった~! 会えたよう……」

 ティフがそう言って抱きついてきた。なぜ、こんな所にティフがいるのだろう。彼女はカイムに残っていたはずだ。

「ちょ、ちょっと! 本当にティフなの? 何でこんな所にいるのよ?」

「うえぇ、良かったよぅ。もう見つからないかと思ってたのよ! 二人とも無事だったんだ!」

 答えになっていない。後ろからテリウスが追いついてきた。

「もしかして、捜してる人って、この人達のことだったの?」

「うん」

「よかったね」

「うん、ありがとう!」

 満面の喜色を浮かべるティフ。

「なんでティフがここにいるの? 他の人は?」

「それが、えーと、何から話そう……。とにかく、色々あったのよ。よかったよぅ……あのままずっと果物売りをする羽目になるかと思ってたんだから」

 ティフはなおもしがみついてくる。よほど興奮しているのか、しがみついたままぐるぐると身体を振り回す。

「少し落ち着いて。何があったのか知らないけれど、落ち着いて話してよ」

「落ち着くのはいいけれど……果物屋はいいの? 再会に水を差すのは心苦しいんだけど。ほったらかしになってない?」

 ちょっと店を開けるだけのつもりだったはずだ。そのまま放っておいてはまずいだろう。

「あ……。ごめん、ちょっと待ってて。店のおばさんに話をつけてくるから。絶対にいなくなっちゃ駄目だからね! すぐだから、そこに居てよ! 絶対だからね!」

 ティフはだあーっと全速力で駆け出していった。

「ねえ、テリウス。あの子と何処で会ったの?」

 サティンが乱れた衣服を正しながら言う。

「ええ、入った果物屋で偶然にですよ。お知り合いだったんですか?」

「そうよ。以前、話したことあったわよね。色々と助けてくれた【式使】の女の子がいるって。あの子なの」

「ああ! あの子だったんですか。でも、なんでこんな所にいるのかな?」

 【式使】の女の子の話は覚えていたが、いまは【式使】の服装では無かったこともあって、考えが直結しなかったのだ。そもそも、そんな偶然がそうそうあるはずが無い。

「それはこっちが訊きたいわよ」

「彼女に直接訊いた方がいいだろう。……戻ってきたぞ」

 ティフは向こうから再び全速力で走ってきた。

「おまたせ。じゃ、ちょっと落ち着けるところで話しましょ」

「そうしましょ」

 とりあえず座ることのできる場所で、ティフの話を聞くことにした。

――もの凄い偶然だ。もし、サティン達が街の様子を見に来なければ、テリウスの選んだ店が別だったならば、ティフとは会えなかったかもしれないのだ。

「だけど、本当に良かった。前にさ、サティンはバーバィグに行くって言ってたから、ここで待ってたの。でも、よくよく考えてみたら、人に訊いて歩くわけにもいかないじゃない。探す方法が無いって気が付いてね。二人ともすごく目立つから大丈夫だろうとは思ってたんだけど、本当によかった! 心配で心配で、果物屋の主人になってる自分の将来が垣間見えたんだから」

「それはいいけれど……そもそも、あなたはカイムにいたはずじゃない」

「あ。そうか。サティンは知らないんだっけ。うん……いろいろあったのよ」

 ティフは今までの経緯を話し始めた。先生が謎の死を遂げたこと。イエムという女性に会ったこと。トラントで捕まったり、カーツォヴに会ったりしたこと。カーツォヴの母親に会ったこと。そして――

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