第九話 邂逅

 デランダがディオール一行の襲撃に失敗して、オーレットに暗殺された頃、クラウトセイムに重大な情報が入ってきていた。それは、イザークをして驚愕させるに十分な内容だった。

「トラントが炎上崩壊しただと!?」

 トラントで大きな叛乱があったという情報は得ていた。それだけならば、クラウトセイムとイザーク達にとって、それほどの関心事ではあり得ない。しかし、都市一つが焼失したとなると、話は別だ。確かな情報なのか、確認を急がせる必要があった。

「はい。リーリンバロス宰相率いる叛乱一派は街全体を占拠しておりましたが、俄に混乱をきたし、支離滅裂。街の数ヶ所から火の手が上がり、トラントは灰塵に帰したとのことであります」

 どうやら、真実だったらしい。複数の情報が同一の事実を指し示している。

「トラントの領主と、その宰相とやらはどうした?」

「トラント領主オムニ・ガンヒスは、叛乱一派との交戦中に殺害されている模様です。宰相の方は消息不明だとか。なお、叛乱一派による都市占拠から数時間後に、領主館にて戦闘らしき騒動が発生していたとの報告もあります。領主派の残党が、占拠後の混乱を狙って反撃に出た可能性が高いかと」

「そんなところだろう。で、結局、領主も宰相も共倒れで、消火活動も救援活動も行われていないまま炎上崩壊というわけか」

「はい。おそらくは。駐屯していた自由戦士団【鉄の腕】と【大熊】が一定の秩序を維持したようですが、消火と市民の救助まで手が回らなかった模様です」

――困ったことになった。トラントはカイムとコットエム、それにメイの街を繋ぐ交通の要所だ。一帯の領有権を近隣の領主達が主張し、抗争が発生するのは目に見えている。さらに、難民の問題もある。周辺の都市領主とて、領有の主張はしても、難民の全面的な受け入れを行うとは考えにくい。溢れた難民がクラウトセイムまで到達する可能性は高い。既に、コットエム辺りまで到達しているかも知れない。

「あのバカどもがこんな騒ぎを起こしてなければなあ……せっかくの機会だっていうのに。【蒼鷲】に構っている余裕が無くなっちまったぞ。ええい、どうしてくれよう」

 度重なる無用な活動のために、イザーク配下の行動力は限界に近い。不測の事態に対応するには、戦力が不足していた。それでも打てる手は打っておかなければ。

「おい、キーヴォン!」

 イザークは部下の一人を呼んだ。古くからの部下で、統率力に優れ、しばしば別働隊の指揮を執る男だ。イザークの言わんとするところを既に理解していたようだ。

「は、どこで防衛線を張りましょうか?」

「ザイスの手前だ。難民をここまで誘導しろ」

 イザークには、あの領主どものために、【鴉党】を一兵たりとも動かすつもりはない。だが、クラウトセイムとトラントの住民のためならば、納得できる。

「追い返すのでは無く、ここまで誘導してよろしいので?」

「ああ、構わん。あの阿呆どもに、少しは苦労させてやる」

 そんなことをすれば、大赤字必至だ。しかし、そうすることによって、クラウトセイムの将来的な人的資源の補強になる。そのくらいの余力はある。今後、トラントの跡地と復興に関しても介入しやすくなるという利点もある。政務を執る領主や官吏達は対応に追われるだろうが、この程度の働きは期待しても良いだろう。

「正規軍の方からも、工兵、衛生兵を引き抜いて連れて行け。この際だ、グヴァインの手足も削ってやれ」

「了解いたしました」

「ないとは思うが、もしも、例の【蒼鷲】達を発見したら、手厚く保護しろ。あのバカ二人には教えなくて良いから、俺だけに報告しろ。いいな、誰に何を言われても、絶対に手放すなよ」

「は。全て了解しました。では!」

 キーヴォンは一礼すると外に出ていった。難民を制圧するわけではないから、戦力が必要なわけではないが、それなりの救援物資を調達する必要がある。この物資とて、多くは【鴉党】の持ち出しになる。

 難民の方は、キーヴォンに任せて置けば大丈夫だろう。次の問題はアーエンフルと【蒼鷲】一行の方だ。

「オーレットはどうした? 報告はまだか?」

 そう言っているそばから、白髪の男が入ってきた。

「ただいま戻りました。早馬を飛ばして急いだつもりですが、少し遅れました」

「首尾は?」

「さすがは【蒼鷲】と称えるべきでしょう。我らが介入する必要もなかったかも知れません」

「グヴァインの部下は?」

「すべて口を封じました。グヴァインの脱走兵達がアーエンフルに逃げ込み、仲間割れを起こした。そうなるはずです」

 その実行犯はデランダで、責任者はグヴァインということになる。

「上出来だ。【蒼鷲】一行はどうした?」

「それが困ったことに、我らも確保できなかったのです。ちょっと目を離した隙に、西の間道に入ってしまいまして。現在、残してきた部下が探索中のはずです。いやはや、【蒼鷲】というのは空を飛ばんばかりですね」

 オーレットが冗談を交える。こんな事を言っている場合ではない事はわかっているが。

「冗談はいい……それは困ったことになったな。西か……ふうむ、冬の山中を抜けるつもりなのか」

 あの間道は決して平坦な道ではないが、真冬でも凍結するほどではない。それに複数の樵夫小屋や猟師小屋が存在している。そうしたものをうまく利用していけば、十分に突破は可能だろう。バーバィグかザイス側まで抜けてくれれば、あとはキーヴォンが拾ってくれるはずだ。

「あとはあの阿呆どもが、ろくでもないことをしでかさなければいいが。お前達もよくやってくれた。少し休んでくれ。これから忙しくなるだろうからな」

「ありがとうございます。まあ、グヴァイン閣下のほうは、しばらくはアーエンフルの対応に追われると思いますがね」

「ああ、グヴァインどもからは目を離すなよ?」

「見張りは既に付けてあります」

「よし、ご苦労だった」


 情報戦に関して右に出る者無しといわれるイザークでさえ、トラント動乱の変化の察知が遅れたのである。【能力欠如】【腰巾着】の三つ名グヴァインは推して知るべし、であった。イザークが部隊を動かして対処を行っている最中にあっても、全く情報を入手できていなかった。

 それ以前に、彼は別の問題の対処で精一杯だった。アーエンフルから厳しい抗議が届き、それでようやく、デランダ達が失敗したことに気が付いたのである。

「く、くそう! おのれ、【蒼鷲】め!」

 アーエンフルからは厳しい抗議――詰問に近いものが届いている。

「グヴァイン閣下の部下8名が街中で、しかも、夜中に戦闘行為に至った。幸いにして当市の住民、財産には被害が無かったものの、重大な不安を招くこととなった。なお、その8名について、身元を照会した結果によれば、正規軍からは既にその者達の名は抹消されているというにも関わらず、グヴァイン閣下の指令書、ならびに正規軍装備を保有していた。どうしたことか、釈明をしていただきたい。それが受け入れられぬというならば、我らにも考えがある」

――釈明のしようなど有るはずがない。真相は抗議の内容どころではなく、もっとまずいのである。特殊部隊を派遣してフレイズ藩の公女を暗殺しようとしたなどと言ったら、アーエンフルの方も目を回すだろう。

「くそう! くそう! ……テス・ディオールめ!」

 これはイザーク一派の思惑と、グヴァインの部下達の無能が悪いのであって、ディオール達には一切の責任はない。彼達は被害者のはずなのだが、グヴァインの憎悪はあくまでディオール達に向いた。

――グヴァインの精神は病んでいた。原因はイザークが察した通り、過去のディオールとの戦闘による。そのときのグヴァインは、クラウトセイム右翼部隊に属していた、そして、ファルファイファ・ディオールの騎兵部隊の突撃に蹂躙され、恐怖を骨の髄までたたき込まれた。あの時はファルファイファ軍の他部隊の連動がなかったために、九死に一生を得たが、この時から、グヴァインの精神はもやいの切れた筏のように、暗い水面を漂い始めた。その後、ディオールが【大戦】で英雄と呼ばれるに至って、グヴァインの精神の筏には水漏れが生じ始めた。

(あの男が英雄だと? 【群青の戦士】だと?)

 狂気はとどまるところを知らなかったが、それでも、ここクラウトセイムで栄達を重ねることによって平衡を保っていた。しかし、それも長くは続かなかった。ふと、目障りなイザークがおかしな動きを見せている、これは奴を貶めるチャンスかも知れないと探ってみた。それが、なんと、あの男の話だった。――小さなきっかけが、彼を破局に追い込んだ。筏はあっけなく崩壊、沈没した。

(あの男が、単身、しかも女子供連れでここに向かっている!)

 そのときのグヴァインの感情をどう表現すべきだろう? 恐れ、困惑、狂喜!

 巧妙に情報を隠しながら、領主のタネルを言いくるめるのは簡単だった。この役にも立たない愚鈍な領主にフレイズ公女とテス・ディオールを殺害させ、その責任を取らせて追放する。謀略としては単純なものだが、それゆえに成功率は高かったはずだ。雇われ軍人のイザーク一人くらい、どうでもなる。すべて、うまくいっていたはずなのだ。

「くそう! くそう! くそう!」

 処置は無い。全ては遅きに失していた。アーエンフルの追求を躱す術がない。このままでは、追放されるのは自分の方だ。

(……くそ……なら、やってやるまでだ)

 しばらくして、政務室から姿を現したグヴァインは、部下に出撃を命じた。その目には危険な決意がある。

「閣下! それは無謀でございます!」

「黙れ! これより我が指揮下の全戦力をもって、アーエンフルに赴く。釈明はそこでする。早急に準備するがよい!」


 この窮地にあって、グヴァインがどのような行動を起こすか。無論、イザーク達は相応の予測と準備をしていた。しかし、さすがのイザークも、この大暴走を予見できていなかった。彼は正常な人間であり、グヴァインの異常を理解できていなかったのだ。

「バカな! グヴァインが軍を率いて、アーエンフルに向かうだと?」

 狂気の沙汰だ。釈明に赴くというのに軍兵で威圧するというのか? 全面戦争間違い無しだ。

「はい。確かな情報です。グヴァインが兵権を握る総勢2000を率いて、アーエンフルへ出兵しようとしています」

 グヴァインは事前に兵力を集めていた。おそらくはフレイズ公女殺害成功後に、クーデターでも敢行するつもりだったのだろう。その場合の対処策もあった。しかしまさか、その兵力を丸ごと別都市へ向けるとは想像できなかった。

「奴め……ついにキレやがったな。くそ、やりすぎたか」

 放っておく訳にはいかない。とはいえ、どのようにして止めるか。狂人の元を直接訪れて制止するのは愚の骨頂だ。となれば、軍兵をぶつけるしかない。

「いまから力尽くで止めるのは難しいか?」

「こちらの数が足りません。ザイスへ難民救助に向かった部隊、クラウトセイムの防御部隊、情報部隊と、我らの部隊は分散しています。残った正規軍兵と残存兵力だけでは、彼に追いついても、一撃の下に粉砕されてしまいます」

 オーレットの言う事は正しい。むざむざと死にに行くわけにはいかない。たまらず、イザークは頭を抱え込んだ。

「どうする? どうする? 考えろ……どうする……?」

(……駄目だ。どうやっても、アーエンフルとの全面戦争は避けられない。……それだけならまだいい。フレイズ公女一行が近隣の山中に逃亡中なんだぞ。これになにかあったら……クラウトセイムは砂漠になるまで焼き尽くされかねない。冗談じゃないぞ……)

「悩んでいるようだな?」

 女の声がした。傭兵部隊である【鴉党】には、女性は珍しくない。だが、この鋭く鐘を鳴らすような凛とした声を聞き間違えようがない。妻だ。

「ああ。お前か。……困ったことになった。どうしたらいいと思う?」

「ザクのやりたいようにすればいい。私達はついてゆくだけだ。それが嫌なら部隊を離脱する。それが、私達【鴉党】の唯一の原則だろう?」

 厚い信頼は、そのまま重圧に変わる。自分を信頼してくれる者達を破滅に追いやるわけにはいかない。

「今から奴の鼻先を叩いて足止めするだけの戦力が無い以上、もう、アーエンフルとの戦争は避けられない。クラウトセイムとアーエンフルの戦力にそれほど差はない。なんかの間違いが起こって、初撃で陥落でもしない限り、長期戦化するのは目に見えている。あの領主に戦争が支えられるか? できるはずがない。真っ先に逃亡するのがオチだ。トラントの難民の問題もあるし……。くそ! あの欲ボケどもが……」

 イザークは頭を掻き毟った。自分達だけ離脱して難を逃れるという選択肢を選ぶことが出来ない程度に、彼は律儀だった。

「ザクは戦争をしたくないのか?」

「それはそうだ。あの阿呆どもがどうなろうと知ったことじゃない。だが、クラウトセイムを滅ぼすわけにはいかん。先代の義理もあるし、これ以上難民を増やしたら、自由国境域の秩序の崩壊に繋がりかねん」

「一つだけあると思う。アーエンフルと戦争しないで済む方法が。かなり荒っぽい方法だが」

「そんなものがあるのか?」

「奇計、策略の長者【白鴉】ネイ・イザークともあろう者が情けない。長い宮仕えで、脳軟化を起こしたかな? いけないな、呆けるにはまだ若かろう」

 女は呆れた様に、自らの夫を見下ろした。やれやれ、とばかりにため息を漏らす。

「……かもしれん。お前の言っていることがわからん」

「こうだ。……まず、難民の相手は切りあげよう。ザイスにいるキーヴォンの配下の内、機動力に優れた部隊を選んで、間道を通してアーエンフルの側面まで侵攻させる。ついでだ、ザイスの部隊は全て引き上げてしまおう。各地の情報を集めている部隊は、どこか集結地点を決めて……そうだな、バーバィグが良い。バーバィグに集結させておく」

「まさか……お前……」

 我知れず、喉がゴクリと鳴る。

「我々は全残存兵力をかき集めてグヴァインを追う。アーエンフル軍と挟撃して、これを包囲撃滅、可能なら投降させる。これなら何の問題もない」

 敵と結んで味方を討つ。それによって、事態を解決しようというのだ。その手ならば、戦力的な問題は無い。倫理観の問題だけだ。

「そう誉めてくれるな。だが、この策には大きな問題がある」

「味方を討った我々を、クラウトセイムの民衆は許さないでしょうな」

 軍の構成者の多くはクラウトセイム市民だ。一人でも殺せば、民衆を敵に回すだろう。

「仕方があるまい。我々はクラウトセイムを追われるだろう。だが、もともと我ら【鴉党】は自由戦士団のはずだ。新しい勤め先を捜せばいい。だからこそ、バーバィグで船を押さえておく。真王国に行くのも面白かろうし、南部のヘーリクスも興味深いな。せっかく守ってやった我らを追ったクラウトセイムが、あとはどうなろうと知ったことではない」

「……さすがは。現役を引退しても、恐ろしさは衰えるどころか、増す一方です。貴女を敵に回すことだけはしたくありません」

「私は引退した覚えはないが。一時休暇と言ってもらおう。で、ザクはどうする?」

 イザークはしばらく考えていたが、決断を下した。

「よし、お前の案を採る。クラウトセイムは空にしてかまわん。動かせる全兵士を動員して戦列を揃えろ。情報部隊はバーバィグの港に集結させて、大型船を一隻、中型船を何隻か押える。これは平和的にやれよ? 領主の金庫から持ち出せ。退職金代わりだ。それと、ザイスのキーヴォンに連絡。……ここは少し変更するか。全軍を、間道を通してアーエンフルに向かわせろ。隊列にこだわる必要はない。可能な限り早く、先頭集団をアーエンフルに到達させるんだ。格好だけでいいから、グヴァイン軍の側面を脅かせ。【蒼鷲】も押えろと言っておけ。それから、密書の用意だ。アーエンフルに送って、こちらに呼応させる」

「それは私が書こう」

「よし、文面はこうだ。『貴殿らに害をなさんとするは我らの真意にあらず。これはクラウトセイム宰相ディ・グヴァイン一人の暴走である。我ら二都市の友好と正義のため、これを討つに、我らは躊躇を覚えず。されど、事情を知らぬ我らが同胞を討つは信義に悖る行為であり、正義の許すところにあたわず。彼らに投降の機会を与えたし。それでなおディ・グヴァイン宰相に味方するは、我が同胞にあらず。これを討つに、我らはいかなる痛痒を覚えず』 これでどうだ」

「問題なかろう」

「よし。ここを引き払う準備を進めておけ。多分、ここには帰って来られないからな。あとは俺がグヴァインに負けなければいい。投降者がどの程度出るか次第だが……」

 絶対に負けるわけにはいかない。もしも負ければ、全てを失う。戦いの場に生きる以上、それは当然のことだが、今回はいささか馬鹿馬鹿しくもある。本来、必要のない戦いなのだ、これは。

「ザク、私は間道を使って山中に入る。20ほど兵を貸してもらおう」

「なにをするつもりだ?」

「キーヴォンが間に合うとは限るまい。私が遊撃する。【蒼鷲】の捜索も引き受けよう」

「よし、許可する」

「助かる。……では、今度はバーバィグで会おう。我が愛しき夫よ」

「ああ、死ぬなよ? 我が愛しき妻よ」

 そんなことを言いながら、二人は口づけを交わした。荒っぽいが、彼らの間にあるものは確かに愛なのだ。


 ディオール達はアーエンフル近隣から間道に入り、北西を目指す。冬の山中とはいえ、予想通り、少なからぬ設備と物資が残されていたことために、飢えに苦しむことはなかった。だが、それ以上の問題が発生してしまった。

 十日目に、サティンが倒れてしまったのである。しかし、誰が彼女を責められよう? 真王国最北のフレイズから遠く離れたこの地まで、はるばるやってきた彼女は確かに生命力溢れる女性だろう。しかし、彼女はこれまでフレイズ公女として、何一つ不自由のない生活を送ってきた人間なのだ。

 移動の殆どを徒歩に頼り、たえず緊張に晒されて、命の危険も度々あった。自分でも気が付いていなかったが、とうの昔に限界を超えていたのだ。ぷっつりと、唐突に動けなくなった。結局、途中の山小屋で、回復するまで休むことになってしまった。

「ごめんなさい……」

 サティンは横になったまま謝った。自分のせいで、彼らを危険に晒すことになってしまった。

「いいんですよ。サティンさん。今はゆっくりと休んでください」

「こればかりは仕方があるまい。貴女はよくやっている。気が付けなかった俺の責任だろう」

 二人の慰めが嬉しかった。疲れきった身体に、やさしく染み渡る。

「ありがとう……。ねえ? ザイスまであとどのくらいかしら?」

「まだ三分の一といったところか。安心しろ、物資はまだ保つ」

「ここは、危険は無いかしら?」

 それが一番心配だった。この状態で襲撃されれば、どう足掻いたところでそれまでだ。

「追っ手が来ている可能性はありますけど、本格的な山狩りでも行わない限り、大丈夫だと思いますよ。ちょうど小屋が見つかって、よかったですね」

「ああ、その通りだ。……そんなことは今の貴女の心配することではない」

「……そうね」

「僕とディオールさんとで交代で見張りしましょう。いざとなったら、ここを撤収する必要があるかも知れませんから」

「そうだな。……よし、まずは俺が外を見てくる。……お前も体を休めた方がいい」

「そうします」

 テリウスも疲労が激しい。彼まで倒れたら、それこそどうにもならなくなる。

「本当にごめんなさいね。いつかこの埋め合わせはするから」

「期待させてもらいますよ。フレイズ公女様の埋め合わせってものには」


「おのれ! なぜ開門しない!」

 グヴァインはアーエンフル市外で荒れ狂っていた。アーエンフル市が門を堅く閉じ、彼らを閉め出したためだ。これは都市防衛として、当然のことだ。アーエンフルは強固な城塞都市というわけではないが、その程度の防御施設くらいは用意されている。

「我らは犯罪者を追ってきただけだ。奴らはそれを庇うつもりなのか!」

 アーエンフル側としても、言い分はある。追っているという犯罪者の人数と姓名は明かさない、先日の騒ぎの謝罪も釈明も未だに無い、それでいて、軍を引き連れて突然押し掛けて、中に入れろの一点張りである。これで相手の要求を受け入れるのは、絶対的人間愛の信奉者か、真性のマゾヒストか、どちらかだ。当然、彼らはそのどちらでもなかった。むしろ、クラウトセイムとアーエンフルは長年のライバルだ。これまでは「ライバル」を「友」と当て字されることが多かったが、これからは「敵」と当て字されるだろう。

 アーエンフル市民代表兼軍司令ネーシスライアン・ターリ――彼は真王国出身の人間であるが、市民に推挙されて市代表になった。この混在性こそが、自由国境域の最大の特徴である――は敵の侵攻を知るや、迎撃の準備を速やかに整えた。彼はごく正常な精神の持ち主であったから、クラウトセイムは何をトチ狂ったのだろう? あれだけの数で、ここを攻略できるとでも思ったのだろうか? それとも、こうした示威行動によって、なんらかの要求を通そうとでもいうのだろうか? もしかすると、何らかの奇計か? といった思考が頭をぐるぐる回っていた。どうしても、整合性のある答えが見つからないのだ。

 そうやって司令室で頭を悩ませていたところに、クラウトセイム軍司令イザークの密書が届いた。部下が内容を確かめる。

「【白鴉】はなんと言ってきた?」

「は。この度の侵攻は宰相一人の暴走であると」

「それで? 軍を退かせるのか? ふん、早くさせろ」

 それで全部片付く。別段、戦いを望んでいるわけではないのだ。後で賠償でもしてくれれば、それでいい。

「いえ……これを挟撃して壊滅すべく協力を、と」

「何……味方を討つというのか?」

 ネーシスライアンは戦慄した。そんな馬鹿な事は有り得ない。密書の真偽のほどを疑った。

「は。まず、投降を呼びかけられたし。それに従えばよし。さもなくば撃滅して構わない、とのことであります」

 部下から密書を渡される。確かにそう記されている。偽書である可能性もない。

「……【白鴉】は何を考えている」

 クラウトセイムのネイ・イザークといえば、最高の智将として名高い。あるいは、何らかの策略の可能性もある。例えば、挟撃すると見せかけて、我らを攻め滅ぼすとか。

「イザーク軍の現在位置は?」

「イザーク軍は現在、クラウトセイム主軍の後背に達しようとしています。この速度ならば、明朝には、ここにたどり着きます」

「数は?」

「は。現在、市外に集結している部隊よりも、かなり少ない模様です。400から600程度かと」

 なかなか微妙な数だ。市外にいる敵は2000程度。アーエンフル防衛軍は約1200。急な動員だっただけに防御兵の数は少ないが、時間があれば3500程度までは補充できる。初撃を撃退さえすれば負けることはあり得ない状況だが、相手は精強を謳われる【鴉党】と、【白鴉】イザークだ。【鴉党】は、その性質故に人数の変動が激しいが、多い時で1000を越えるというから、伏兵の存在も考えられる。

「ますますわからなくなった」

 相手の真意がまったくわからない。ネーシスライアンの両肩にはアーエンフル市民の生命がかかっている。迂闊な動きはできなかった。かといって、このままクラウトセイム主軍と睨み合いを続けるわけにもいかない。やがて結論を下した。

「消極策で行くぞ。当面は、我々は都市防衛に全力を注ぐ。【白鴉】につけいる隙を与えるわけにはいかないからな。イザーク軍が密書通りの攻撃を行ったのを確認した後、それに呼応する。本当に消極的だが……やむを得ん」

 消極的な対応だというのは百も承知だ。だが、ここで必要なのは市の安全と、戦力の温存である。

「投降勧告の件はいかがしますか?」

「行う。奴らに現状を教えてやれ。お前達は味方に狙われているのだぞ、とな。イザーク軍が姿を現したと同時に行うのだ。投降者は東の平原に待避させろ。間違っても、街に近付けるな? 何が潜んでいるかわかったものではないからな」

「了解致しました」


「どうだ?」

 イザーク達は可能な限りの戦力をかき集めて、グヴァインの後を追っていた。どうにか正規軍300と鴉党で200、合計500ほどの軍団になった。

 グヴァインがろくに斥候を残していかなかったのは好都合だ。これならば、ぎりぎりまで接近を知られないで済みそうだ。夜の間に距離を稼いでおかなければならない。

「アーエンフルは専守防衛に尽くすつもりのようですな」

 予想通りだ。イザークが一番恐れていたのは、アーエンフルが「我関せず」を決め込んでしまうことだった。そうなれば、2000対500。一撃の下に粉砕されてしまう。だが、グヴァインがそうさせない。真相が明らかになれば、破滅は避けられないのだから。

「始まりました。グヴァイン軍がアーエンフル市に攻撃を開始した模様です」

 とうとう、二都市間戦闘が始まった。布告なしの夜襲とは、いかにもあの男らしい。だが、アーエンフルのネーシスライアンは機を見るに敏な男だ。グヴァインごときに遅れを取る事はない。そう簡単に屈服はしないだろう。そもそも、兵の士気が違う。自都市を防衛する兵と、事情もわからず戦闘を開始した兵とでは、比べるのも愚かだ。

「よし。計画通りだな。俺達は明朝に投降勧告を行った後、総攻撃を開始する」

「いよいよでございますね」

「ああ。できればグヴァインの阿呆以外の全部の兵が降参してくれれば楽なんだがな」

 そうすれば、全てが一気に片付く。これほど楽な事は無い。

「……そうはならんだろうな。せいぜい半分。ま、500ってところだろう。それよりも心配なのは……」

「西の山中の高貴なお方でございますね。キーヴォンか奥方が間に合えばよろしいのですが」

「俺としてはキーヴォンに頑張って欲しいな。そうでないと、色々とまずいことになる。……考えるのも恐ろしい」


「後背に軍が! ……あれは【鴉党】です!」

「イザークだと? あれだけの戦力で何をしに来た? 援護ならいらんといっておけ。我々だけで充分だ」

「いえ……これは……敵対しています! 【鴉党】が寝返りました!」

「何だと……! おのれイザークめ!」

(なんで、みんな私の邪魔ばかりをする! ……ちょうどいい、あいつは目障りだ。潰してしまえ。きっと胸がすっとするだろう)

「閣下! アーエンフルから……」

「今度は何だ? 降伏するとでも言ってきたか?」

「いえ……投降勧告です。我が軍に投降を呼びかけています」

「な、なんだと? おのれ……【白鴉】めが。敵に内応したな! 裏切り者めがっ!」

 そう叫んでみたところで、事態は好転しない。正面に敵都市。後背には母都市の敵軍。しかも自軍の士気は著しく低い。既に投降者が出始めている。――これは【鴉党】隊員が正規軍に潜入して、事の真相を流布していることが大きい。虚報を用いる必要はなかった。事実そのものが、兵士達の戦意を削ぐには十分なほどに衝撃的だったからだ。

「どうなされますか……?」

 イザーク軍に呼応して、アーエンフル軍が討って出てきた。完全に挟撃された。戦術的には、既に勝敗がついている。混乱と意気消沈をきたした前衛部隊が壊滅するのは時間の問題だ。

「おのれおのれおのれおのれおのれ……」

 もうどうしようもない。いまさら降伏したところで、良くて追放、おそらく極刑だろう。それでも、この期に及んで、グヴァインは比較的まともな指令を下した。

「全軍を後背に向けろ! 裏切り者どもを粉砕してやる!」

 イザーク率いる【鴉党】は数が少ない。全軍でもって粉砕し、クラウトセイムに逃げ込めばいい。

「【白鴉】め、目にモノをみせてくれるわ!」

 グヴァインは吼えた。


「グヴァイン軍が反転、突撃してきます」

「くそ……まだやるつもりなのか」

 予想していた事態だ。グヴァインが生き残るためにはそれしかない。

「迎撃なさいますか?」

「当然だろう? 黙って通してやるほど、俺はお人好しじゃない」

 グヴァイン軍は投降者・戦死者・負傷者を併せて800を数える。もはや瓦解寸前で、一歩進む度に痩せ細っていく。それでもなお、こちらの2倍もいるのだ。

「射撃部隊に援護させろ。ここはまかせた。俺が行く」

「了解しました。お気をつけて」

 このままでも負けはしないが、敵味方の損耗が馬鹿にならない。本陣突撃によってグヴァインを倒す。敵軍は彼一人の思惑で動いているのだから、それを除けば済む。

「いくぞ! グヴァインを倒した奴には報酬を出す! 奴だけを狙え!」

 戦術的な細かい指揮は必要無い局面にまで至っている。あとはイザークが自ら前線に向かい、グヴァイン軍中枢を撃破する。


 グヴァインは焦っていた。こんなはずはない。小勢のはずのイザーク軍は恐ろしく強力だった。自軍の動きは信じられないほど無様だった。後背から迫るアーエンフル軍は凄まじい重圧に感じられた。

「こ、こんなバカな……」

 グヴァインには、自分の輝かしかったはずの未来への扉が閉じていくのがわかった。代わりに、暗い深淵への口が大きく開いて、自分を飲み込もうとしている。

「う……」

 不意に前方が騒がしくなった。敵がすぐそこまで接近してきているのだ。グヴァインは恐ろしさに身を震わせた。以前、経験した恐怖が蘇る。

「イザーク見参! ディ・グヴァイン! 覚悟せよ!」

 その声に、グヴァインの感情はあっけなく飽和した。後ろも見ず逃げ出す。

「うああわわああぁあわわああああああああああああああああ」

 涙と鼻水を無様に垂れ流しつつ、だらしない悲鳴が口から漏れた。


「なあっ?」

 このグヴァインの狂態に一番驚いたのはイザークだ。まさか一言威圧しただけで、後ろも見ずに逃げ出されるとは思っていなかった。プライドだけは異様に高いこの男が、ここまで後先考えずに遁走するとは。

「くそっ、キーヴォンはどうしたっ!?」

 クラウトセイムとアーエンフルによって南北双方から挟撃し、東の平原には投降者達が集められている。逃げ場は西の山中しかない。それを予期して、ザイス方面の部隊が逃げ道を塞ぐように手配していたのだ。しかし、そのキーヴォンも、先行遊撃したはずの妻も間に合わなかったようだ。山中に紛れ込まれてしまっては、捕縛が難しくなる。最悪の場合、公女一行と山中で遭遇する可能性もある。

「ええい、くそ……事態が悪い方、悪い方へ傾きやがる」

 あの公女一行によほど運がないのか、グヴァインの狂気が瘴気の一番濃い方向へ向かっているのか。おそらくはその両方だろう。イザークはいまだに戦意を失わずに迫ってきた敵兵を、大剣で殴り倒した。

 グヴァイン軍中枢に切り込んだイザークの手勢はわずかに30程度。混戦を切り開いてグヴァインを追うには数が足りなかった。


 数日ほど休息を取ることで、サティンも歩ける程度には回復した。冬の山中の乏しい物資では限界がある。それに、すぐそこまで追っ手が迫っているかも知れない。このまま山小屋で隠れ続けるのは危険と判断して、先を急ぐことにした。

――彼等にはクラウトセイムとアーエンフルで戦闘が起こり、司令官グヴァインが僅かな残存兵を率いて山中に逃亡したことなど知る由もない。

 速度はかなり低減してはいたものの、数日の間は平穏無事に進むことができた。だが、とうとう八日目に、グヴァインに捕捉されてしまった。驚くべき事に、これは全くの偶然で、狂人の思考がたまたま正解を突いたにすぎない。

「捕まったな……」

 しかし、接近してきた兵達の様子がおかしい。数は40ほどいるが、妙に元気がない。敗残兵のようにも見える。事故か何かによって、負傷した集団なのかもしれない。それでも、三人を捕殺するのには充分な戦力だ。

「どうします?」

 敵もこちらの存在に気が付いているはずだ。今から逃げたところで、逃げ切れるはずもない。仮にも、相手は軍隊なのだ。騎兵や弓兵の姿も見える。

 サティンの体調も良くない。ここまではディオールが背負ってきたが、なんとか一人で歩けるという程度で、戦闘はおろか、長時間走ることも難しいだろう。テリウスも頑張っているが、消耗が激しい。

「俺がここで食い止める。お前達は先に行け」

 食い止めるというのは正しい表現ではない。短時間食い止めたところで、すぐに追いつかれてしまうだろう。ここで撃滅してのけるしかないのだ。

「駄目よ! ……それは駄目」

 ここで別れたら、もう二度と会えない。その予感がサティンの胸を締め付けた。

「サティン……すまないが、今だけは俺の言うことをきいてくれ」

「駄目。今、ここに貴方だけ残ったら確実に死ぬわ。私のせいで遅れてるのよ? 私を置いていってなんて愚かなことは言わないから、とにかくそれだけは駄目」

 サティンも、自分でも滅茶苦茶なことを言っているということくらいわかっている。高熱のせいで、思考がまとまらないのだ。

「サティン、貴女の言ってることは支離滅裂だ。敵の様子もどこかおかしい。大丈夫だ、俺は死なんよ」

「敵の様子より、貴方の様子の方が変よ。……約束して。死なないって」

 わけもわからず、必死に懇願するサティン。確信などないが、それに応えるディオール。

「ああ、わかった。約束する」

「駄目。貴方は嘘吐きだから」

 サティンは即座に否定してみせた。

「サ、サティン……」

 ディオールが困惑しているのがわかる。この男でもこんな表情をするのかと、サティンはぼやけた頭で思った。

「冗談よ……。任せたわ」

「……すまないな。テリウス」

「はい」

「サティンのことは任せたぞ。ザイスかバーバィグまで行けば、なんとかなる」

「わかりました。僕はまだ何も貴方に教えられていません。【支払い】はまだ済んでいませんよ? 未払いはジーファステイアでは重罪ですので」

 そんなテリウスの憎まれ口も頼もしく感じる。この少年ならきっとサティンを守ってバーバィグまで辿り着くだろう。

「よし、行け」

 二人を先に送ると、ディオールは迎撃の準備を始めた。


 グヴァインは後悔していた。【蒼鷲】とフレイズ公女の一行に手を出したこと。部下の無能に気が付かなかったこと。軍団を率いて戦争を仕掛けたこと。戦場で恐怖に駆られ、逃げ出したこと。きりがない。――すべて彼自身が悪いのだが。

 こんなはずはない。今までうまくいっていたことが、突然、すべて駄目になった。今まで積み上げてきたもの全てが水泡に帰した。もはや、自分を受け入れてくれる所はあるまい。戦犯として捕縛され、惨めな死が待つだけだ。残った手勢は40に満たない。長くは保たないだろう。彼は自分の不運を呪った。

 だから、前方に女子供連れの男を発見したという報告を聞いたとき、彼は小躍りせんばかりに喜んだ。素晴らしい。今までの不運はこのときのための【真王】の思し召し、与えられた試練なのだ。きっと、奴らを殺せば全てうまくいく。そう信じて疑わなかった。

 前方に【蒼鷲】の姿があった。以前、姿を見たのは10年以上前のことだが、忘れもしない。あの男だ。一人で仁王立ちしている。どうやら、一人でこの数を相手するつもりらしい。無謀極まりない。ならば引導を渡してやるまでだ。

 グヴァインは自ら先頭に立って指揮を執って、あの男に思い知らせてやろうとして――できなかった。心の城壁に塗り込まれた恐怖が蘇ったのだ。

「と、とと、突撃だ! 奴を殺せ!」

 無様にどもりながら、そう命令するのが精一杯だった。


 相手は騎馬、弓兵を含んだ40人ほど。まともにやっては、ディオールに勝ち目がない。身を隠して不意を打つような戦いを仕掛けるようなこともできない。一兵たりとも、ここを通すわけにはいかないのだ。絶望的な戦況だ。私掠船との戦闘や、森の中の【魔人】の襲撃などと比べても。だが、前方に現れた敵は薄汚れて、疲労しているのがありありとわかる。

(これなら……なんとかなるかもしれん。……カーツォヴ、貴様の言葉でもあてにしてみるか)

 まだ、死ぬつもりはない。そう、まだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。

 隊長らしき男がわめき声で突撃を命じた。三騎が駆けてくる。さしものディオールとて、騎兵と正面から戦うつもりはない。彼はそれなりの準備をするだけの時間を与えられていた。

「ぎゃあーっ」

 突然、目の前に迫った先頭の騎兵が倒れた。ディオールが仕掛けておいた針金に足を取られたのだ。後続も次々と衝突していく。人の倒れる音、悲鳴、馬のいななきが混じる。

 それをかいくぐって、ディオールは一気に接近をかけた。遠巻きに射殺されるのが一番恐ろしい。乱戦に持ち込んで敵の指揮官を倒すしかない。敵の士気は低い。あの隊長らしき男を倒せば、四散する可能性もある。

 敵兵は混乱しながらも、目の前に三人ほど立ちふさがった。ディオールは素早く一人の顔を斬りつけた。返す刀で左手の敵に斬りつけたが、これは防がれた。敵は全て重武装しており、一撃で致命傷を与えるのは難しかった。

――ディオールの【星】剣【ミエグ・クルタ・ジーン・ユン】は長く、鋭く、そして軽い。だが、その軽さ故に、重武装の敵を倒すのに向いていない。身体の露出している部分や、鎧の継ぎ目を正確に狙う必要があるのだ。一対一ならばいざ知らず、この乱戦では、どうしても戦闘効率に悪影響が出る。

 ディオールの一撃を防いだ敵兵が、そのまま体当たりをかけてきたのを素早く飛び退いて躱し、左肘で顎を打つ。そのまま回し蹴りの要領で、後ろの敵の頭を蹴った。防具の上からでも、相当の衝撃があったはずだ。ディオールは蹴りの着地の体勢を立て直すと、そちらを見ることもせずに胸を打ち抜いた。これで6人。敵はまだ30人以上いる。あまりに多すぎた。


 グヴァインにしてみれば、これほど恐ろしい光景は他に存在しない。【蒼鷲】が一歩近付いて来る度に、恐怖の喫水線が上がっていく。あの黒い輝きが一閃する度に、身が削られる思いがする。恐慌寸前の頭で命令した。

「射て! 射ち殺せ!」


 射撃に身を晒すのは得策ではない。ディオールは素早く後退して、倒れている騎兵達を盾に取った。だが、敵はまだ息のある味方もろともにディオールを射殺するつもりらしい。まったく手をゆるめようとしなかった。

「くっ!」

 外套で矢をうち払う。射撃の合間を縫って、転がっていた騎兵の剣を奪って投じた。ディオールの【飛剣】は狙い過たず敵弓兵の一人を撃ち倒したが、射撃は止むどころか、激しさを増す一方だ。盾にしている騎兵達は、既に針山のようになっている。最初の転倒の際には命のあった者もいたはずだが、これでは堪るまい。

(これは……異常だ)

 ディオールは知らない。敵兵の指揮を執るグヴァインは既に正気を失っていることを、その狂気が部下達にまで伝染していることを。そして彼等の目的はフレイズ公女ではなく、彼自身となってしまっていることを。

 不意に射撃が止んだ。再び敵歩兵が三人接近してくる。ディオールは騎兵の死体の影から出て、その一人と打ち合った。初撃を打ち合ってすぐに左右から斬りかかって来たのを飛び退いてかわすと、短剣を投じた。それは兵士の鎧に弾かれた。

 再び斬り合おうとしたディオールと三人の兵士に、信じがたい声が届いた。

「射て!」

 グヴァインは味方を巻き込む形で射撃を命じたのだ。矢の雨が迫ってくる。最初の被害者は、味方に背を向けていた三人の兵士達だった。さすがのディオールとて、これでは無事で済むはずがない。避け損ねた矢の一本が、右上腕を射抜いた。

「う! お……」

 腕を砕かれた様な衝撃に耐えかねて、堪らず転倒した。さらに、左の臑にも一撃。なんとか左手で剣を構え直したときには、既に目前まで敵兵が迫ってきていた。

 ディオールは倒れ込むようにして、その一人の足下に斬りつけた。そのまま寄りかかりつつ組み付いて、剣の柄を顔面に打ち込む。至近距離での一撃は、顔を完全に潰した。その身体を盾に使って一撃を防ぎ、さらに一人を斬り倒した。

 そこまでが限界だった。立ち上がることができない。目の前が霞む。――旅の疲労は彼の身体にも確実に蓄積していたのだ。


 グヴァインは狂喜した。とうとう、あの憎むべき男を倒したのだ。あとは自身でとどめを刺すだけだ。倒れ伏した【蒼鷲】へ悠然と歩み寄る。

(やった! 俺は勝ったんだ! 俺はやったんだ!)

 味方を多数巻き込んでの戦果なのだという事実など、彼の脳の前頭葉の表面にも達していない。目の前には、傷つき疲れ果て、立つこともできない【蒼鷲】がいる。なおもこちらを睨む眼光は衰えていないが、虚勢と呼ぶべきだろう。

「貴様はよくやった。だが、それもここまでだ。死ね!」

 グヴァインは勝利の確信とともに剣を振り下ろした。


 テリウスは前方に20ほどの騎兵の姿を発見した。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。彼はこの悲惨な状況にも構わず、いまだ戦意を失っていなかった。

「サティンさん。今度は僕の番です。貴女一人で逃げてください」

「駄目よ……いくらなんでも無理よ」

「大丈夫です。いくら何でも、子供一人をいきなり殺したりはしないはずです。時間を稼ぎますから、その間に」

「そうじゃなくて。……もう走れないわ。目の前がぐるぐる回るの」

 高熱があるにも関わらず、ここまで走り詰めで来たのだ。逃げようにも、一人では歩くこともできない。とうとう、膝をついてしまった。意識が朦朧としているようだ。

「わかりました。では、そこの茂みに隠れていてください。……なんとかしてみます」

 交渉次第では、まだ望みがある。テリウスとて恐怖がないわけではないが、覚悟くらい既に決めている。

「駄目よ……貴方も一緒じゃ……なきゃ駄目……貴方との約束を……果たして……嘘つき……貴方は……じゃない……」

 サティンはもう意識を失う寸前だ。テリウスはうわごとをぶつぶつ言うだけのサティンを引きずって茂みに隠すと、一人で道に戻った。

 前方の一団が迫る。そのまま襲いかかられて、一気に死んでもおかしくないと思っていたが、その集団はテリウスの前で止まり、声をかけてきた。よく訓練されている様だ。

「そこの子供! この辺りで戦士と女子供の三人連れを見なかったか?」

 先頭の女が誰何してきた。もの凄い威圧感がある。怒りを買えばただでは済まない、そう感じさせる声だ。野盗の類には有り得ないものだ。間違い無く軍人だろう。しかも、相当に上等な。

「え? い、いえ。知りませんが」

 テリウスは内心の冷や汗を隠して言う。本当なら「あっちにいった」などと誤誘導したいところだが、目の前の女はそれを許さないだろう。隙が無い。下手なことは言わない方がいい。

「そうか……我々は【蒼鷲】【群青の戦士】テス・ディオールを捜している。事は一刻を争うのだ。何か心当たりはないか?」

(この集団からは敵意を感じない? ……敵ではないのかもしれないけれど)

「ディオール様ですって? えっと、その、そんな方がこんなところに?」

「理由は私もよく知らん。……そうか、知らんか。呼び止めてすまなかった。どこか横道に逃れたかな……どうするか……」

 もしかすると、この人達は味方かもしれない。だが、確信がない限り、下手に動けない。自分一人ならともかく、サティンの命まで巻き込むわけにはいかなかった。しかし、彼女もあの様子では長く保たない。

(どうする?)

 彼女の安全だけは守らなければいけない。テリウスは彼とそう約束したのだから。賭けるのは自分一人の命だけにすべきだ。テリウスは覚悟を決めた。

「貴女達は何者ですか?」

 テリウスの声に、不審なものを感じ取ったのだろう。女が気を向けた。その険しい目を正面から受ける。込み上げてきた悲鳴は必死に飲み込む。

「少年? 何が言いたい?」

「……僕は嘘を吐いていました。テス・ディオールが何処にいるか知っています。ですが、貴女達が信用できません」

 危険な賭けだった。だが、テリウスは賭に勝った。

「真か!? よし、貴様を信用する。我々はクラウトセイム司令、ネイ・イザーク率いる自由戦士団【鴉党】の遊撃部隊だ。我が軍の同胞ディ・グヴァインの暴走によって、我らクラウトセイムはアーエンフルと戦争状態に突入した。奴は狂っている。奴の狙いはディオール殿の生命と思われる。一刻も早くディオール殿達を保護する必要がある。……これでどうだ? 少年?」

(味方だ! 助かった……のかもしれない)

 もはや、疑っている余裕はない。

「僕も貴女を信用します。僕はテス・ディオールの同行者、フィン・テリウスです。彼はあの峰の向こうで、単身で敵と交戦中です。一刻も早い援護が必要な状態です。お願いします。彼を救ってください」

「よし。あいわかった。助かったぞ、少年。我らを信用してくれた事に感謝を。そなたの勇気に賞賛を」

 女は部下を引き連れて駆け出そうとしている。このまま行かせてもよかったが、テリウスにはサティンの容態が気になった。こうなったら、毒を喰らわば皿までというやつだ。

「待ってください。そこに……高貴な方が倒れているのです。手を貸していただけませんか」

 それを聞いた女は心底驚いた様だ。しばし考え込む。

「なんだと? ……まさか……。よし、お前達は行ってディオール殿をお助けしろ、こちらは私が見る」

「はっ、承知しました」

 騎兵達が走り去っていく。後は彼らに任せておけば大丈夫だろう。間に合ってくれればよいが。

「で、少年、その方はどこだ?」

 女は一人残って、馬から下りた。

「こちらです」


 サティンは朦朧とする頭で、テリウスの声を聞いていた。内容はぼやけてよくわからないが、相当緊迫していることは間違いないようだ。

(これは、もう駄目かな……なんてこと、結局、ディオールとテリウスを巻き込んでしまった)

 どんどんと視界が暗くなっていく。自分は気絶するのだろう。眠りと違い、気絶というものは、その瞬間に自覚があるらしい。などと思っていたら、冷たいものを顔に当てられた。意識がしっかりしてくるにつれて、テリウスの声が鮮明になってくる。

「サティンさん、サティンさん! しっかりしてください。助かったんですよ!」

「う……あ? テリウス……なにわけのわからないことを……」

 あの状況で助かるはずもない。自分は死を覚悟していたはずだ。すると、テリウスのものとは違う、女の声がした。

「大丈夫か? 私がわかるか? 貴女を助けに来た」

 どうやら、本当に助かったらしい。

「ああ、何処のどなたかは存じませんが、ありがとうございます」

 わけもわからないが、取りあえず礼を言ってみる。すると、女が応えた。

「……貴女は存外に冷たいお人だ。血を分けた妹の顔を忘れたか? ふふ、お久しぶりだな、姉上」


 信じられないことが起こった。激闘に精魂尽き果て、一歩も動けないかと思われたディオールの手が動き、落ちかかる刃をうち払うと、グヴァインに組み付いたのだ。

「う、うわあああぁぁ」

 グヴァインにしてみれば、死者が蘇って襲いかかってきたに等しい。恐怖のあまり腰を抜かして、その場に倒れ込んで、ディオールにたやすく組み伏せられてしまった。

「部下を退かせろ。さもなくば殺す」

 ディオールにしてみればごく当然の要求だが、不幸なことに、グヴァインの恐慌状態の精神には届かなかった。

「ひぃいいいいいい! 殺せ! 殺して構わん! 射て!」

 グヴァインはとっさにそう叫んだ。それが、彼を破滅させる最後の引き金になった。彼の部下達は命令を受けて、条件反射的に射撃を行ってしまった。射程内に自分達の指揮官がいるという、重大な事実さえも忘れていたのかもしれない。

「!……な……」

 ディオールにはグヴァインと心中するつもりなど毛頭ない。組み伏せた身体を上下入れ替えて、グヴァインの身体を盾にした。

「うあ……が……」

 グヴァインは絶命した。他ならぬ彼の部下の手によってだ。忠実な部下達は、さらに続けて射撃を行おうとしている。今度はディオールも防ぎきれない。――限界だった。

(俺もここまでか……セル! ……サティン!)


「ご助力致します!」

 今度こそもう駄目だ。そう諦めかけたディオールの前に、20人ほどの一団が現れた。ディオールに対する攻撃を防ぎ、グヴァインの残存戦力を蹴散らしていく。

(味方か?)

 グヴァインの死体の下から這い出して、ようやく木にもたれて崩れ落ちたディオールに声がかけられた。

「テス・ディオール様でございますね。我らはクラウトセイム軍の遊撃部隊でございます。お助けに参上いたしました」

「そうか……助かった。……子供と女を見なかったか?」

「保護いたしました。お連れの少年の勇気ある行動が無ければ貴方の命もありませんでした。彼に感謝してください」

「……そうか……助かったのか」


 サティン達三人は部隊の野営地の天幕まで移動した。女は――もう隠すのはよそう。彼女こそサティンの実妹、フレイズ藩の第二公女リィンドレイク、その人である――手早く寝床を準備し、姉の身体を横たえた。

「しっかりしろ、姉上」

「しっかりしろも、なにも……リィン、貴女、こんなところでなにをしてるの」

 姉は息も絶え絶えだ。無理もない。相当な重症だ。

「その話は後でする。姉上、今にも貴女は死にそうな顔をしているぞ? 無理をしすぎたな」

「無理も何も……貴女を、捜しに来たん、じゃない。びっくりしたわ」

「私も驚いた。ザクめ、私に隠しごとをしてたな。あとでたっぷり絞ってやらねばなるまい」

「ザクって……」

「ああ、喋るな。とにかく今は休め」

「なんだか、……貴女、ずいぶん。大人っぽく、なったわね」

「5年も経つんだ。大人にもなるさ。ああ、返事はいい。とにかく休んでいてくれ。貴女に死なれたら、私はとても悲しい」

 自分がこれ以上ここに居ると、姉は無理にでも喋るだろう。それは良くない。リィンはそう判断して、テリウス少年に看病を任せて天幕を出た。丁度、部下達が戻ってきたところだった。

「【蒼鷲】はどうだった?」

「保護しました。しかし、深手を負っています。急いで手当をせねばなりません」

 どうにか作戦成功という事になるらしい。なんとも危ういところだったが、まあ、よしとしよう。

「そうか。では、そうしてくれ。ああ、そこの天幕は使ってくれるな。姉上が寝ている」

「やはり姉君でしたか。御無事で?」

「ああ。なんとかな。ザクめ……私にこのことを隠していた。許せないな」

「……お手柔らかになさってくださいね」

――イザーク達が恐れた通り、リィンの感情は怒りに向いたらしい。

「さて、どうしてくれるかな。【蒼鷲】と戦っていたという連中はどうだった?」

「追い散らしました。グヴァイン閣下は戦死なさいました」

「ほう? グヴァインがこんなところにいたか。首級を上げるとは見事。大手柄だな」

「いえ、我々がたどり着いたときには既に。40程度の生き残りとともにディオール殿を襲ったようですが、返り討ちにあった模様で」

「奴らしい無様な死に方だ。同情には値しない。しかし、【蒼鷲】恐るべしだな。40対1だと? なんともはや、伊達に三つ名を名乗っているわけではないな」

「まったくです。これはもう人間業じゃありませんよ。敵でなくてよかった」

「彼にも、後で会わねばなるまい。姉上を救ってくれた礼をせねばならん。ザクの方はどうだった?」

 結局、自分達もキーヴォン達も、アーエンフル攻防戦には間に合わなかった。ディオール達の捜索に手を割いたこともあるが、当初の予想以上に道が悪かったのが主な要因だ。今回は極端に急な展開だったとはいえ、それでも本来あってはならないことだ。夫もなかなか現れない別働隊にやきもきしたことだろう。

 ともあれ、グヴァインがこんなところで戦死しているからには、作戦は成功したのだろう。それでも主戦場の戦闘結果が気になって、連絡をつけさせていたのだ。

「は。先程、連絡がつきました。戦後処理を行った後、クラウトセイムを通過して予定通りバーバィグに向かうとのことです」

「そうか……これで、我らは再び無所属になってしまったな」

 他ならぬ自分の策案とはいえ、結果として、1000人近い軍団を支えていた都市の支持を失ってしまった。後悔はないが、惜しいことをしたとは思う。早急に次の雇い入れ先を探さなければならない。自由戦士団とはいえ、食わねば餓えてしまう。

「よし、キーヴォンと連絡を取れ。難民救助のための馬車を持っているはずだ。一台こちらに寄こせ。二人の体調が回復次第、移動する。予定通り、バーバィグで合流しよう」

「了解しました。……領主様はこれからどうするつもりでしょうかね?」

「知らん。あの自我と欲望と体重が肥大した汚らわしい姿を、もう見ないで済むと思うとせいせいする。少しは苦労というものをしてみるがいいさ。我らがしてやれるのはここまでだ。……最後の義理というやつさ」

 そう言うリィンの声は冷たかった。


 領主パント・タネルはクラウトセイムの政務室で怒り狂っていた。かと思うと悄然としてみたり、いきなり陽気に哄笑してみせたりした。それを見た近侍の一人が母都市の将来に絶望して、暇を請うたほどだ。タネルの精神はグヴァインの後を追う寸前だった。

 アーエンフルに対する謝罪と戦後処理。戦死者の遺族達への補償。イザーク達がどさくさ紛れに誘導したトラント難民の処理。【鴉党】が去ったことによって、軍の再編成も必要になってしまった。やらねばならないことは山ほどある。タネルの決して高いとは言えない政務能力はあっという間に破綻した。所詮、彼は権力を玩んでいたにすぎない。不測の事態に対応できるほどの能力など最初から無かったし、それを培おうともしなかった。

 完全に無能力をさらけ出した領主に代わって、官吏達が意欲的、能率的に政務をこなしていく。こうした事態はしばしば埋もれた才能を発掘するものらしい。タネルにそれがなかったのは、誰にとっての不幸だろうか? 領主一人が無力化したところで、都市一つが崩壊することもなかった。

 一ヶ月もすると、もはやタネルの手は全く必要にならなくなってしまった。周囲の官吏達が、領主を必要としない政務体制を完成させてしまったのである。新たに選出された領主代行によって政務が執り行われ、事態は一応の決着を見ようとしていた。緊急事態を見事に乗り切った功績によって、彼から代行の二文字が外れる日も近いと言われている。

 その頃になると、タネルは自分の邸宅から一歩も外に出なくなっていた。この手の人間の常として、酒色に耽っていたのである。先代からの忠実な使用人も一人また一人と辞めていったが、もはやそんなことも気にならなかった。

 そんな彼の元に一人の客が現れた。美しい女性だ。

「お初にお目にかかります。領主様」

 女が雅に頭を下げる。その姿はタネルの情欲を刺激するには十分すぎるほど魅力的だった。

「おお、くるしゅうない。して、何の用だ?」

 その女は恭しく言った。

「はい。あなた様に贈り物を。我が主よりの心付けでございます」

 要するに、賄賂ということだろう。ここしばらくは無かったことだ。タネルは自分に権力復活の兆しがあるのかもしれないと、その傷ついた矜持を僅かに回復させた。

「ほほほう。して、それはどこにある?」

 胸をそらして大仰に言う。彼はこういった仕種こそが、その人間の品格を表わすと誤解していた。知性も品性もない人間には、品格など求めようもないというのに。

「いえ……それは……」

 それに畏まったかの様に、女は言い淀んだ。大尽ぶりを見せつけるかのように、先を促すタネル。

「なんだ、遠慮はいらぬ、はっきり申せ?」

「はい、それは……私自らが……」

 どうやら、この女こそが【贈り物】ということらしい。どこの誰かは知らないが、なかなか味のある真似をする。

「よい。さあ、こっちに来るが良い。その贈り物とやら、有り難く頂くとしようではないか」

「では、お言葉甘えて」

 女が立ちあがり、近付いてきた。立ち上がってみると、もの凄い長身だ。そういえば――この女はどこから入って来たのだろう? 取り次ぎもしないで、使用人は何をしていたのだろう? などといった埒も無いことが、タネルの酒に濁った意識に浮かんで消えた。それは、彼の最後の自衛本能の発露だった。

「はい。では、我が主からの贈り物として、死を賜りますよう。お覚悟を」

 そんな女の言葉を聞いて、タネルは飛び上がらんばかりに驚いた。この女は暗殺者だったのだ。

「き、貴様!! おのれ!」

 慌てて飛び退きつつ、手元の紐を引いた。こうした事態のために、壁には弩が隠してあるのだ。はたして、それは女の胸を貫いた。タネルは、目の前の美しい暗殺者が血しぶきをあげて崩れ落ちるのを予測したが、そうはならなかった。女は胸の矢を気にする風でもない。

「それで全部ですか? せめて釣り天井と落とし穴くらいはご用意頂かないと」

 胸を弩で刺し貫かれたにも関わらず、こともなげに言う女。心底つまらなさそうだ。

「な……そんなはずが……【魔人】だと!?」

 タネルは「人に憎まれるのは貴人の証拠」という、歪んだ信念の持ち主だったが、いくらなんでも、【魔人】の恨みを買った覚えはない。

「貴方のような塵芥が何処で何をなされようと、私には興味がございませんが。……あのお方に手をお出しになったのは、許されるべきことではございませんでした。あのお方は、貴方ごとき糞尿にたかる地虫の眷族に害されるべきお人ではないのですから。ああ、あのお方がこのことをお知りになれば、きっと……お悲しみになるでしょう。ですが、私の怒りはそれを越えてしまった。ああ、罪深い私をお許しください」

 タネルには何のことかわからない。この女の言葉も尊敬やら侮蔑やらが入り交じっていて意味不明だ。それが余計に迫力を増した。それに気が付いたのか、女が言った。

「これは申し訳ありません。貴方に恐怖を与えるのがあまりに愉快だったものですから。少々、演出過剰でしたでしょうか?」

 どうやら、タネルを脅かすためだけに、こうした言い回しをしているだけらしい。取り逃がすだとか、返り討ちに遭うだとかいったことは、まったく考えていないようだ。それがまた、彼の精神を揺さぶった。普通なら、失禁なり、錯乱なりしていてもおかしくない。だが、この部屋はそれもできないほどの威圧感に満ちていた。凍り付くような空気とはこのことだ。この部屋には絶対零度の吹雪が荒れ狂っていた。

「では。これにて」

 女は自分の胸に突き刺さったままの矢を易々と引き抜き、それを投じた。それは信じがたい速度でタネルの口内に入り、延髄から抜けた。

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