第八話 夜空を翔る
サティンとディオール、テリウスの三人はジーファステイアを発ち、アーエンフルに向かっていた。
本来、サティンのさしあたっての目的地であるザイスを目指すならば、コットエムを経由した方が近い。だが、ジーファステイアで騒ぎを起こしたことを考慮すると、目的地への直行は危険が大きい。あの親書の内容も気になる。そこで、東寄りに迂回する経路を採ることにした。アーエンフル、クラウトセイムと廻って、港のあるバーバィグへと向かおうというのだ。慎重すぎるのかもしれないが、この場合に最優先すべきは身の安全であって、時間ではない。それに、この道筋ならば、サティンの妹リィンことリィンドレイク・フレイズを捜すのにも問題はない。
リィンの事はリトラスとテリウスにも聞いてみたが、やはり、手がかりはなかった。多くの情報の集まるカイムやジーファステイアでさえ、何の情報も手に入らないとなると、もっと南部の方で捜した方がいいのかもしれない。
「目立てないっていうのは、やりにくいわね」
表だって「我々は密命を帯びてフレイズの公女を捜している!」などと、できるはずがない。「わけあって17歳くらいの銀髪の少女を捜している」がせいぜいだ。おかげで、効率が上がらないこと甚だしい。今のところ、手がかりは皆無だ。サティンとて愚痴の一つも出る。
「……サティンさん? それ、本気で言ってます?」
テリウスが口を開いた。訝しげな視線を上方へ送ってくる。
「本気って? 私はいつだって本気のつもりだけど?」
「……ふう」
ため息。この少年はまだ10歳だというが、とてもそうは見えない。身体はまだまだ成長途上だが、精神面の成熟は、そこらの大人を軽くしのぐだろう。いまのため息にしても、妙な含蓄があった。
「なによ、そのため息は。なにか問題あるの? ねえ、ディオールはどう思う?」
サティンは、前を歩く長身の男に呼びかける。
「貴女は既に目立っている、ということだろう」
「それはそうだけれど……だからこうやって変装してるのよ?」
フレイズから出る際、サティンは楽師の姿をしていた。途中からは、ディオールの提案を受け入れて、戦士の格好に変えている。彼女はこの格好を気に入っていた。
「……並外れた体躯の戦士。雰囲気からしても、只者とは思えない。強烈な迫力。敵として正面に立ったら、それだけで腰が抜けそうだ。共に在るのは見たことも無いような美貌の女性。銀髪と瞳の印象は極めて強い。二人とも武器を携帯してはいるものの、女性の方は経験が少ない様子だから、年がやや離れた恋人同士というところだろうか?」
テリウスがやや棒読み口調でそう語った。
「なにそれ?」
「僕の、貴女達に対する第一印象ですよ。まとめると、大体こんな感じです。まさか、これほどの有名人とは思いませんでしたけれど」
「まあ、嬉しい! ディオール、私達恋人同士ですって!」
勿論、これは冗談だ。下方から冷たい視線。
「……わかってるわよ。私達はただ立ってるだけでも目立つって言いたいのでしょ?」
「ご理解頂けまして、恐悦至極」
「前から思っているのだけれど、テリウス、そうやって悪役振るのはやめておいた方がいいわよ。似合わないから」
時折、テリウスはこうやって皮肉めいたことを言ったりする。それがこの少年の印象を一定させないものにしていた。彼なりの自己主張なのかもしれないが、あまり褒められたことではない。
「まあ、それは置いておくとして。じゃあ、どうしろって言うの?」
「……それは……」
そう言われると、今度は考え込んでしまった。テリウスは確かに優れた素質を持ってはいるが、明らかに経験不足なのだ。
テリウスの代わりにディオールが応えた。
「テリウスも含めて、俺達は人目を引く。最初から、完全な隠密行動ができるなど考えてはいない。これは妹君の捜索という点では利点だ。妹君の方が、我々に気が付く可能性もあるからな」
もとより、訊ね歩いただけでは、リィンを発見できる可能性は低い。むしろ、彼女の方からの接近を期待する面が強い。「妙な連中が、銀髪の少女を捜し歩いている」となれば、彼女にとっては狼煙を上げているも同然の目印になる。
「この道はカイムとジーファステイアの間のような大街道に比べて人通りが少ない。その分、目立ちやすいが、情報の伝達速度そのものは低減する」
「そうね……それで?」
「俺達がカイムからジーファステイアに向かうまでの間は何もなかった。これは、敵の情報収集能力が低下していたことによる可能性が高い。以前にも話した通り、ビードなどは貴女に構っている余裕がないだろうからな」
「私も、あの父様がやられっぱなしで黙っているとは思えないわ」
なにせ【北の餓狼】だ。ビードの現藩主はミンネアスルトという女性で、これまた結構な食わせ者だというから、完全には安心できないが。
「そうだ。そして、カイムに向かう途中の森で【魔人】を撃破した。それきり、襲撃はない。だが、そろそろ敵が俺達を捕捉していてもおかしくはない。俺の素性も調べただろう」
「まさか……敵の位置を調べているのですか?」
テリウスが驚いた様子で訊いた。
「どういうこと?」
「ええとですね、僕達がジーファステイアを発った事が敵に知れているとすれば、バーバィグに到着するまでに、もう一回仕掛けてくるはずです。少なくとも、僕ならそうします」
バーバィグから真王国領までの海域は中立海域となっている。例えばビードの艦隊が戦闘を仕掛けようものなら、他の七藩主すべてから強い批難を受けてしまう。これは、交易船を北海で襲ったこととは、わけが違う。この海域は、いわば聖域なのだ。
もし、自由国境域の都市領主がそんなことをしようものなら、さらに悲惨なことになる。真王国八藩主はしばしば抗争を繰り広げてはいるが、外敵に対する連帯感は極めて強い。10年前の【大戦】の際には、戦闘中だった藩同士でさえ停戦し、肩を並べて闘ったほどなのだ。自由国境域の割り込む隙間など、ありはしない。八藩主から様々な形で攻撃されて、無残に砂漠になるまで焼き尽くされるだけだ。
「敵が自由国境域の勢力だとすれば、バーバィグまで逃がしては、どうにもならなくなります。それ以降は真王国との全面戦争を覚悟する必要がありますから。これから襲撃があるなら、その時間と戦力によって、敵の位置が大体はわかると思います。……勿論、諦めたのなら、話は別ですが」
テリウスはそう解説した。ディオールが少年の明察を補足する。
「そうだ。襲撃を指揮しているのが個人ではあり得ない以上、早い時期に十分な戦力をもった襲撃があれば、西のトラント、コットエムあたり。アーエンフル以降ならば、少々、候補が多いが、ザイス、クラウトセイム、それにオーエン、ファルファイファあたりだな。……俺の素性を調べたのなら、ファルファイファは有り得んか」
ファルファイファは、かつてディオールが部将として所属していた都市だ。サティンは詳しい事情を知らないが、彼がそう言うからには大丈夫なのだろう。
「つまり、リィンに対しては目印を出したい。でも、敵は怖い。なんで怖いかと言えば、敵の正体がわからないから……ってことね」
敵の正体がわかれば、それなりの対処もある。
「言っただろう。どちらにせよ、俺達は目立つんだ。せいぜい、餌を撒いてみてみるしかあるまい」
「貴方って人は……まあ、貴方らしいとも思うけれど」
慎重なようでいて、案外大胆な男なのだ。戦士らしい思い切りの良さなのか、あるいは地の性格によるものか。
「勿論、既に敵が諦めたという可能性もある。そうだとすれば、俺達は最初からいない敵に怯えていることになる。間抜けな話になるな」
「それはそれでいいんじゃないかしら? 是非、そう願いたいわね」
その後もこれといった出来事はなかった。嵐の前の静けさというものかもしれない。それならそうと、サティンは、この一時の平穏を享受する事に決めた。
途中、ディオールの戦闘術についての話をする機会があった。
「ディオールさんの戦い方は凄いですね」
テリウスが言う。サティンも同じ事を思っている。これまでの2度の戦闘においても、傷一つ負っていない。
「うん。私も、色々とそういった本とかを読んだことがあるけれど、あんなのは、ちょっと載ってなかったわね。『卑劣』の一歩手前って感じもするわ。助けられてる私が言う事じゃないけれど」
組み技、打撃技はもとより、目潰し、金的くらいは平気でしてのけるだろう。なによりも、その尋常でない速度。敵を圧倒することこそが、その本質といえるだろう。【蒼鷲】とはよく言ったものだ。この男の戦いは、まさに猛禽のそれだった。
「我流なのですか?」
そこでディオールは少し言い澱んだ。
「いや……もともとは義父の戦いぶりを真似たものだ。もっとも、義父が我流だった可能性は高いがな」
「義父?」
サティンもテリウスも、ディオールの事については色々と興味がある。義父ということは、本当の父親ではないのだろうが、それは今訊くべき事ではない。
「俺は幼いころから義父に連れられて旅をした。義父は偉大な戦士だった。人格、実力ともに、素晴らしい男だった」
そう言うディオールはどこか誇らしげだ。この男にも、そのような存在があったのだろう。――かつては。
「それほどの人物にしては、名を知られていないわね。なぜかしら?」
「義父は偉大な戦士ではあったが、妙な一面も……有り体に言えば変人だった。特に、名前に関しては徹底していたな。一度として、同じ名前を名乗らなかった。俺ですら、本名を知らん」
「それは……確かに変わっているわね」
何らかの事情があったのは確かだろうが、想像もつかない。ただの趣味や信条にしては、手間がかかりすぎているだろう。
「そんな妙なところはあったが、それでも偉大な男だった。どこに行っても、あの男の周りには人が集まった。あの男が一声かければ、軍兵の士気が一段挙がったのが目に見えてわかった。そして一度戦いとなれば、まるで何百年も研ぎ澄まし続けたような緻密な戦技でもって敵を粉砕した」
「その人はどうされたんですか?」
「廃鉱で落盤に巻き込まれて、生死不明……いや、死んだ。あれほどの男が、あんなに簡単に死ぬとは思ってもいなかった。人間なんてものは、そういうものなのかもしれんな」
カーツォヴなどは逆のことを言う。お前の様な人間は簡単には死ねないと、何度も言われた。しかし、そんな言葉も、現実となった過去を前にしては虚しいだけだ。
「僕に貴方の戦闘術を指導してくれませんか?」
テリウスがディオールの圧倒的な戦闘術に惹かれない筈が無い。彼にしては珍しく、少年的な興味を見せた。だが、ディオールは首を横に振った。
「やめておいた方がいいだろう。お前にはお前の戦い方というものがあるはずだ。それは、もしかしたら俺のものと同じかもしれない。だが、今はまだ早い。お前はまだこれからだ。無理をしない方がいい」
「……そうかもしれません。ですが……」
なおも食い下がるテリウスを、ディオールは制した。
「俺はお前の祖父から、お前について頼まれている。今はまだ、お前に戦いの手ほどきをしてやることはできないが、戦士としての在り方なら教えてやれる。俺を見ていろ。さらに言うなら、サティンや他の物もだ。お前は記憶力が良いと聞いた。いいか、全てを見ろ。ただ見るだけではなく、理解しろ。理解できないものは記憶して、後で分析しろ。それこそが、お前にとって一番の財産になる。必ずだ」
(俺には手が届かなかった高みへと、お前は辿り着くかもしれんのだ)
とある街の、とある一室。そこはかなりの広さがあったが、薄暗く、不健康ですらあった。そこを飾る装飾は華美かつ豪勢な物だったが、そのことが、部屋の雰囲気をまた一層と陰鬱なものにしていた。陰謀の類という物は、このような部屋でこそ練られるべき物なのかもしれない。
そこに在るのは3つの人影。3人とも男だ。それぞれ、机の一辺を囲んでいた。その内の一人、この三人の中では一番立場らしき男が口を開く。
「いまだに【蒼鷲】は見つからないのか?」
それを受けて別の一人が言う。
「このことについてはイザーク殿に一任していたはずですな」
そうして、もう一人の男の方を向く。
「そう慌てることはありませんな。彼らを獲るならば、ここまで来るのを待っていればいいはず。なぜ、そう焦りなさる。それとも、なにか別の理由でも?」
最後のイザークと呼ばれた一人が含みをたっぷりと聞かせた声でそう言う。
「ええい! 貴様の知ったことではないわ! どうだ、見つかったのか?」
リーダー格の男が、いとも簡単に激昂する。
「知りません」
イザークと呼ばれた男は、そんなリーダー格の男の様子など無視して、あっさりと言った。
「知らんで済むか! それが貴様の仕事だろう!」
もう一人も怒りを露わにした。どうやら、イザークと呼ばれた男と、他の二者はあまりよい関係ではないらしい。
「仕事? これは心外な。私めの仕事は兵を以って外敵にあたることのはず。あの男一人が我々の脅威になるとはとても思えませんな。この度の事は超過勤務なのですよ? そもそも、貴方達がいきなり呼び出したりしたものですから、私めは部下どもの報告を聞きそびれてしまったのではないですか。何か大事があったら、どうしてくれるのですか」
この男は残りの二者を完全に馬鹿にしていた。のらりくらりと言い逃れる。
「こ、この【白鴉】が! ええい、ああ言えばこう言いおって! そのような戯言はいい。とにかく、奴を捕捉したのか?」
「だから、知らないと言っているではありませんか。人の話はよく聞いてください」
「ならば、今すぐに調べてこい!」
そこで、もう一人の男が口を開いた。
「その必要はありませんな。実は、あの男は既にアーエンフル近くまで来ているという報告を受けております。これはイザーク殿の怠慢としか言えませぬな」
「そ、そうか! グヴァイン、よくやってくれた。よし、イザーク。早速、部隊を差し向けろ」
「申し訳ありません。私めの部下は情報収集に奔走しております故、広範囲に拡散してしまっております。再編成するまで、それは不可能でございます。しばらくの時間を頂きたいですな」
しれっとして応える。この男からは、やる気が全く感じられない。
「この役立たずが! ええい……!」
リーダー格の男はいらだちを隠さない。
「ご心配なく。私の部下を既に待機させました。作戦行動には充分とはいえますまいが、男1人を捕縛するには事足りるでしょう。貴方様のお許しさえあれば今すぐにでも奴を押さえて見せましょう」
グヴァインと呼ばれた男の方がそう言った。追従の阿諛が含まれているのは明らかだ。
「よし、グヴァイン、お前に命ずる。早速、行動に移れ」
「了解いたしました。きっと戦果をご期待くださいませ」
恭しく指令を受け、部屋を出ていこうとした男に、イザークと呼ばれていた男から声がかけられた。
「失礼。グヴァイン殿の部下とは、何人でございますかな?」
「8人を用意した。なにか問題でも? 充分だと思うが」
「いえ、ご健闘をお祈りいたしております」
「ふん、貴様に言われる筋合いもないわ!」
部屋が暗いおかげで一番得をしたのは誰だろう? イザークと呼ばれた男の口元にあったのは――歴然とした冷笑だった。
密談に使われた薄暗い部屋から出たクラウトセイム軍司令ネイ・イザークは自分の部下の待つ軍舎に向かった。
陽光の下に晒された彼の体躯は非常に優れたものだった。年の頃は30半ば。鋼のような鈍い灰色の髪と瞳。鍛え込まれた肉体には無数の傷がある。常に第一線に在った証拠だ。彼を見た人間の多くは、彼が最前線で重装歩兵の指揮を執る場面を想像するだろう。だが、真相はやや異なる。彼は現在の自由国境域における最高の智将であり、クラウトセイム軍の司令官であった。敵の裏をかいて翻弄し、常勝を誇る様は、敵からは畏怖と軽蔑を込めて、味方からは尊敬と敬愛を込めて、【白鴉】と呼ばれている。鴉とは黒いものであるから、いるはずのないものという意味である。
そんな勇将にして智将のイザークだが、現在の精神状態は最悪だった。
あの際限なく自我の肥大した連中と話をしていると、人はどこから来てどこに行くのだろう、この地上は矛盾に満ちている、地の果てにはなにがあるのだろう、などという、どうしようのない思案が頭に浮かんでばかりいる。先代のクラウトセイムの領主とは長い付き合いで、気心もよく知れていたのだが、その後継者パント・タネルは最悪だった。就労意欲を殺ぐことこの上ない。やはり、あの男は領主になどなるべきではなかった。肉屋で逆さまに吊られている方が、よっぽどお似合いだ。具合の良さそうな霜降り肉だろうし、高く売れるだろう。その腰巾着のグヴァインも気に入らない。あの男は部下をまるで奴隷の様に乱暴に扱う。そのくせ、自身の能力には欠陥が甚だしい。彼の部下が気の毒になる。あんな男達がこの街の領主と宰相であり、自分の上役なのだ。
(【蒼鷲】に何がある?)
そもそも、【蒼鷲】テス・ディオールに手を出す必要があるのか? イザークはその理由について密かに各方面を調査してみてはいたのだが、どうしても決定的なものが見つからなかった。【蒼鷲】【群青の戦士】といえば、10年前の【大戦】の英雄だ。その前後には、ファルファイファで部将として活躍している。8年前に突然退役し、各地を放浪しているとのことだ。これほどの男が、なぜ栄光の舞台から去ったのか。その理由はわからないが、クラウトセイムと、あの領主達には関係なさそうだ。
ファルファイファ部将時代には、間接的にだが、彼と戦ったこともある。あの時は彼の率いる騎兵部隊に右翼を突破されそうになった。あれは本当に危ない局面だった。部隊編成も体勢もまるでおかまいなしの、もの凄い突出だった。あやうく前線指揮官一人に戦場全体を制圧されるところだったのだ。あの時はファルファイファ軍の他部隊の連携が遅れたこともあって、事なきを得たのだが。因縁があるとするなら、この辺りだろう。――私怨か?
いや、私怨なりの因縁があったとしても、それにフレイズの公女を巻き込む理由はない。あまりにリスクが大きすぎる。さすがのあの二人とて、真王国と敵対することがどれほど危険なことかくらいは理解できるはずだ。
(まさか、同行者がフレイズ公女だと気がついてないのか?)
いや、そんなはずはあるまい。領主のタネルはともかく、実働を指揮しているグヴァインがそれに気がつかないはずがない。だとすると、公女を巻き込むリスクよりも巻き込むメリットを選んだというのだろうか。
そんなことを考えながら歩いているうちに、イザークは軍舎に到着した。現在、ここには彼が創設した自由戦士団、いまはクラウトセイムにおける独立部隊となった【鴉党】が駐在している。我ながらこの名前はどうかと思うが、定着してしまったものは仕方がない。この部隊は彼の直属であり、もともとは彼の声望によって集まってきた傭兵達である。正式にはクラウトセイムの軍隊ではなく、数も少ない。しかし、十二分な実戦経験と精強無比を誇り、正規軍よりも遙かに信頼がおける。現領主のタネルには、これも気に入らないらしい。何度も正規軍に無理矢理編入しようとして、いらぬ紛争を招いた。
イザークは、軍舎2階の軍務室まで赴いた。そこには、彼の副官セイク・オーレットが待機していた。白髪の細身の男で、外見で言えば、この男こそ【白鴉】の名に相応しい。外見は頼りないが、十分な技量の持ち主だ。何より、頭が切れる。イザークの頼れる右腕だ。
「おかえりなさいませ。将軍」
【鴉党】の面々は、しばしばイザークを将軍と呼ぶ。イザークは「様」だとか「閣下」だとか呼ばれるのが嫌いな人間で、それを嫌がっているうちに、いつの間にか、この呼称が定着してしまった。似たようなものなのだが、いまさら変えようもない。
「どうだ? 俺がいない間に何か変わったことは?」
「これといってなにも。【蒼鷲】殿の一行はアーエンフルで宿泊する模様です。何日ほど滞在するのかまではわかりませんが、長居をする可能性は低いでしょうな」
イザークは、この情報を会談前から知っていた。知らないふりをしていただけだ。あんな奴らに有益な情報の一つも流してやるほど、自分はお人好しではない。それだけの金と人数を擁しているのだ。自分達でやればいい。
「あとは、グヴァインの部隊が姿を現していますね。なんのつもりなのやら」
「ああ、領主様々の許可が下りたからな。奴め、張り切ってやがる。女子供連れを狙って何が楽しいのか。俺には理解しがたい生き物だな。きっと、普通の人間とは血の流れる向きが逆なんだろう。それで頭の発育不良なんだな。気の毒な奴だ。暖かく行く末を見守ってやろうじゃないか」
イザークの口からは、辛辣な言葉がすらすらとでてくる。あの連中を貶す言葉ならば、あと100は言えるだろう。
「どうなさいます?」
「さて……どうしたものかな。正直なところ、俺は【蒼鷲】には興味はない。個人的に会ってみたい相手ではあるが、捕らえてなにをするということはないな。たった一人の男を追いつめるのに、こんなに人数を動かしやがって。何を考えてやがる」
「その予算は領主の金庫から出ているのでしょう? 我らの懐は痛みませんが? 人的被害も出ていませんしね」
「同じ事だ。俺達は痛くも痒くもないが、元は税金だからな。領民に示しがつくまい。まあ、雇われ司令官の俺が心配する事じゃあないんだがな」
「では、放っておきますか?」
雇われの身であるだけに気楽だ。だが、自分達とて、それなりの責任というものくらいは理解している。放置するわけにもいかない。
「【蒼鷲】【群青の戦士】たる【三つ名】、地上最強の戦士の実力拝見と言いたいところだが……」
「お連れの高貴な方と、子供が気になりますね」
フレイズ公女に何かあれば、フレイズ藩と、いや、真王国全てと全面戦争になりかねない。そんな最初から勝負にもならない絶望的な戦争の指揮を執るなど冗談ではない。ついでに言うなら、子供を巻き込むのも気に入らない。
「そうだ。なにかあろうものなら、今度こそあいつに殺されちまう。俺は生きたまま薫製になるのは嫌だ」
「私だって嫌ですよ。我々は一回、失敗しているのですから、二回目は無いでしょうね。あの方の怒りを受けるくらいなら、自ら谷へ身を投げた方がましです」
――情報に聡いイザークは、フレイズの公女が自由国境域にお忍びで来訪したことを、いち早く知った。そして、裏の情報を流した。
「とある高貴な方がお忍びでやってきた。その真の目的は諜報活動と外交使節である。そして、護衛のために一人の男を雇った。その名はテス・ディオール。【大戦】の英雄であり、地上最強の戦士だ。かの高貴な方に手出し無用である。この警告を受け入れぬものは【北の餓狼】の怒りを覚悟せよ。さもなくば【蒼鷲】の剣の錆となる名誉を与えられるであろう」
といった類のものである。後ろ昏さでは右に出る者のないフレイズ藩主と、英雄テス・ディオールの名は効果覿面だった。よからぬ算段を企てていたであろう連中も、まるで潮が退くかのように、手出しを控えるようになった。
ところが、不測の事態が起こったのである。どこからか現れた野盗が、彼女達に襲撃をかけてしまったのだ。イザーク達は肝を冷やしたが、さすがは【三つ名】。無事に乗り切ってくれたようだ。
あんな思いは、もうたくさんだった。それに懲りて、もしものためにと【鴉党】の要員を監視に付けていたのだが、今度は、それが自分達の上役の目を惹いてしまったのである。今のところ、イザーク達は失敗続きだ。
――つまり、サティン達の推測は、ほぼ的中していたのである。その目的が正反対な事を除いては。
「よし。できるだけ目立たないように援護しろ。三人の安全を優先する。もし、我々のことがグヴァインの阿呆に露見しそうになったなら、奴の部隊を排除しろ。人数は8名。今、我々の行動に掣肘を加えられるのは困る」
イザークは決断した。この男、いい加減なようだが、基本的には正義漢なのだ。
「それがよろしゅうございますね。では、そのようにしましょう」
オーレットもそれに賛同する。
「まかせた。俺は一回帰る。あのバカ二人に付けられた目垢を落としてくるとしよう」
「ふふふ、では、私はこれにて。今回は、私が直接指揮を執ります。【蒼鷲】には、個人的に興味がありますので」
「ああ。頼んだぞ」
結局、アーエンフルの街に入るまでに襲撃は無かった。
「無かったわね」
「ああ、そうだな。よし、宿を取ろう」
三人は素早く宿を決めた。宿の主人に少しばかりの心付けを支払うと、部屋の選択を快諾してくれた。3階の、周りの様子が見通せる部屋を選んだ。その部屋で暖かい食事を摂る。宿の主人の料理の腕前はなかなかのもののようだ。
「ねえ、どう思う?」
「今まで、それらしい動きは一切無かった。アーエンフルの街中で仕掛けてくる可能性は低い。ならば……敵は南だと思うが。まだ、何とも言えん」
「結構、鬱憤が溜まるのよね。いつ来るかわからない敵っていうのは」
「その気持ちは分かるつもりだ。だが、こればかりは仕方があるまい」
「わかってるつもりだけどね……」
食事を片付けた後、テリウスは寝台に横になってすぐに、寝息を立て始めた。彼も、まだ10歳の子供なのだ。疲れているのだろう。サティンとて同じだが、なんとなく眠れない。寝台から起き上がって、大琴を取り出して夜の歌を歌ってみた。
窓から外を覗くと、フレイズとはまた違った星空が見えた。これはこれで、なかなか新鮮なものだ。しばらくそうしていたが、それにも飽きたので、部屋の方に視線を戻した。すると、ディオールと目が合った。
「あら、まだ寝てなかったの?」
「貴女の歌を聴いていた。美しいな」
「ありがとうございます。他の歌はご所望になられますか?」
「……貴女に任せる」
「【群青の戦士の伝説】はいかがです?」
【群青の戦士】はしばしば英雄譚として、歌の題材になるのだ。とはいえ、こんな夜に歌うような曲では無い。そう言われると、ディオールは苦笑して言った。
「公女様は人を虐めるのがお好きだな。それは避けて、もっと静かな曲がいい……」
「なぜ、貴方がこのことを避けたがるのかに興味があるのだけれど」
サティンはそう言いつつも、注文通り、静かな歌を選んで歌い始める。しばらくは、そのまま静かに時が流れた。
「……良いな。昔を思い出す。昔は……義父がいて、セルがいて……」
セルとは、ディオールの義姉であるセル・セリス――故人の事だ。【群青の戦士の伝説】にも登場するから、サティンも知っている。彼が唯一頭の上がらない、様々な意味で逞しい女性として描かれている。
「……俺が何で【群青の戦士】を避けるのか聞きたいか?」
ディオールは唐突にそんなことを言った。
「聞きたくないわ……」
嘘だ。それも大嘘。本当は聞きたくて仕方がない。だが、そう言っては自分の負けなのだ。サティンはそう決めた。内心を隠して、なおも突っぱねた。
「聞きたくないわ。そんな話」
「そうか……ならいい」
ディオールとて、それほど本気だったわけでもないらしい。また静かに時が流れる。琴をかき鳴らしながら、サティンが静かに語り始める。
「貴方にはとても感謝してる。貴方がいなかったなら、私は何回死んでいるかわからない。本当に感謝してるのよ。カイムの街で私を見捨てないでくれた。貴方にどんな事情があったにせよ、私はとても嬉しかった」
「……」
「私はあの時、いや、もっと前からかもしれないわね。貴方を信頼するって決めた。この人は裏切らない。この人になら裏切られても構わない。そう決めた。いろんな意味でね」
「……サティン」
「でもね、私は嘘を吐かれることに慣れてないの。耐えられなくなるわ。その人が身近な人なら、なおさらね」
サティンは言葉を切ると、視線をディオールに向けた。その色の違う瞳で睨む。
「貴方は私に何一つ本当のことを話そうとしないわ。何が、俺の昔の話が聞きたいか、よ。嘘で塗り固められた昔話なんて願い下げよ」
(ああ、私は何を言ってるのだろう。この人を失うかもしれないのに)
だが、一度高ぶった感情は止まらなかった。そのまま、激情の迸りを許してしまう。
「貴方が、ただの雇われ護衛っていうならいいの。私には関係ないものね。……でもね、私の中にズケズケと入ってきたくせに、そんなことするのは許せないわ。私は辛いわ。八つ裂きにしたくなるくらいにね」
「……サティン。……俺は……」
一息に言ってしまった。ディオールを傷つけてしまっただろう。目を伏せている。サティンも言ってしまってから、後悔していた。
「ごめんなさい。言い過ぎたわ。貴方には貴方の事情があるって事くらいわかってるの。私がそれに踏み込んで良い理由はないもの」
「済まない」
「いつか本当のことを話してね、なんて陳腐なことは言わないわ。貴方が、私に聞く権利がある、いや……義務ね。聞く義務があるって思ったらでいいの」
義務――それは何を意味するのか。
「わかった。それは約束する」
「ありがとう。嬉しいわ。さ、もう寝ましょう」
しかし、ディオールが動かない。その姿を見て、サティンは妙な不安を覚えた。
「なに? どうかしたの?」
「……テリウスを起こしてくれ。来たぞ。奴ら、街の中だというのに、お構いなしだとはな」
襲撃。敵の位置を掴むべく誘ってはいたが、よりによって、市中で来るとは思っていなかった。敵は相当に追い詰められているらしい。
「そんな! 街の中で軍事行動を起こすつもりなの?」
「ああ、そのようだ。10、12……いや、もっといるな。これだけの大事を黙認できるほど、ここの市民は謙虚ではないと思うが」
「もみ消す実力か、それとも、権威があるって事よね。……クラウトセイム? それとも、どこかの特殊部隊かしら」
サティンの考えは、実は両方とも当たっているのだが、そんなことを知る由もない。急いでテリウスを起こして、素早く支度を始めた。無抵抗主義は彼女の受け入れられる所ではないのだ。
クラウトセイムの特務士官サイル・デランタは、宰相グヴァインに指揮権を委ねられた7人とともに、目標の宿泊している宿を襲うつもりだった。秘密裏に潜入して三人の目標を誘拐できればよし、うまくいかなくても、宿の中だけで話を片付けてしまうつもりだった。だが、いざ行動を起こそうとした段階で、妙な邪魔が入った。白髪の痩せた男だ。デランダはこの男を知っていた。
「サイル・デランダ様でございますか? 私はイザーク司令の部下、セイク・オーレットと申します」
「なんだ? 貴様は何の用でここにいる?」
オーレットは「貴方の邪魔をするためですよ」とは言わない。その程度のことに気が付けないのならば、この男自身が悪いのだ。そう思っている。代わりにこう言った。
「我が上官たるイザーク司令は、今までの怠惰と不誠実を深く反省し、我ら8人を援軍として派遣するとのことであります」
合計16人というのは、なかなか微妙な数だ。アーエンフルの街に脅威を与えず、いざとなったときには、デランダ以下8人を始末できなければいけないのだ。そのため、さらに5人が伏せてある。
「そうか! うむ。あやつも自分の立場がよくわかったと見えるな。よし、わかった。協力してもらおうではないか。ただし……」
デランダの眼が汚れた光を放つ。オーレットは、その顔に唾を吐きつけてやりたいのを、ぐっと我慢する必要に駆られた。
「目標の捕殺は貴方達に任せろ、手柄を横取りするな、ということでございましょう? 勿論でございますとも。我々は、あくまで手伝いなのですから」
(何の手伝いかは知らなくて良いのですよ、貴方は。失敗してくれればそれでよし。さらに、我々の真意に気がつかなければなおよし。大人しく我々の手に掛かってくれれば、まあ、問題なしとしましょう)
それを聞いたデランダは無邪気に喜んだ。オーレットにしてみれば、愚かしい事この上ない。
「よしよし、うむ。では……配置をどうするか……」
「では、我々は援護に廻るということで、それぞれが貴方達の後ろにつかせていただきます」
「うむ。人数もちょうど良い。それでいこう」
無論、偶然にちょうどいいのではなく、合わせたのである。一人につき一人。デランダはオーレット自身が受け持つ。
「了解致しました。皆の者! 今から作戦行動を開始する! グヴァイン閣下のために力を尽くすのだ!」
オーレットが大声を張り上げる。グヴァインの名を出したのは故意だ。それを受けて、おおー、という鬨の声が上がる。
「わあ! そんな大声を出したら奴らに知れてしまうではないか!」
(それが目的なのですよ。大体、もう気が付かれてますってば)
「は、申し訳ありません。では、今後は注意いたしましょう。……よし、皆の者、それぞれ配置につけ」
そう命令された【鴉党】の面々は、ことさらに物音を起てながら散っていった。勿論、これも故意だ。
「お前の部下もバカの集まりだ。もっと静かにさせろ」
デランダは面白いくらい狼狽する。
「はっ、申し訳ありません。帰還しましたら、厳しく叱責いたしますので」
無能者を虐めるのはこれくらいにしておこう。とりあえずは、【蒼鷲】のお手並み拝見といこうではないか。彼らを全面救助してやるほどには、オーレットは人間ができていなかった。
デランダの部下達がサティン達の襲撃をすべく、目標の部屋の前の廊下まで来たとき、部屋から影が躍り出た。廊下にではない。窓からだ。なんとも愚かしいことに、デランダは屋根上を固めていなかった。これについては、【鴉党】は関与していない。ただ単に、デランダが失念していただけだ。
「くそ、追え!」
もはや、体裁を構っていられない。廊下から部屋にせまっていた三人は部屋押し入って、同じ窓から追いかけようと考えた。
「!!」
その途端、扉を開けた先頭の兵士の首から血が噴き出した。ディオールの仕業だ。サティン達を窓から逃がし、自分は部屋に残っていたのである。互いに離れるのは危険だったが、この際はやむを得ない。さらに一閃。あまりに長大な【星】剣を狭い部屋内で振り回すのは困難があるが、振り抜く軌道が全くないわけではない。ディオールの戦闘能力は、その程度の制約で損なわれることはない。もう一人の兵士が挑みかかってきたが、ディオールはそれを躱し、その腕を取ると軽く捻った。ポキリと小枝を折るような音がした。すかさず、膝の下を蹴る。ぐしゃりという感覚が、骨の砕けた事実を伝えた。彼我の戦闘力の差は歴然としていた。
次の相手は、とディオールが思ったときには、残りの三人は遁走してしまっていた。まったく後ろを顧みずにだ。
「……どういうことだ?」
しかし、ディオールにはそんなことに構っている余裕がない。腕と膝を砕かれて苦悶の声を上げている男に剣を突き付けて、言う。
「貴様の所属と名は? 言わねば殺す」
「ううぅ。クラウトセイムの第一特殊工作隊のエーケンだ。頼む。殺さないでくれ」
やはりクラウトセイムだ。それだけを確かめると、ディオールは傷付いた男に目もくれず、サティン達を追った。
既に、屋根上に敵の姿があった。これだけの人数が動いているのである。寝静まっていた家々の灯りが次々と点きはじめている。これでは目撃者も相当な数になるだろう。こんな大騒ぎにしてしまって、クラウトセイムはアーエンフルにどういった釈明をするつもりなのだ。
「目標はどっちに行った?」
ディオールは暗さを味方につけることにした。敵兵にそう呼びかけつつ駆け寄る。
「あっちに……!」
そう言いかけた男の首が飛ぶ。もう一人は何故か、首なし死体と一緒に屋根から落ちていってしまった。ディオールは釈然としなかったが、考えている余裕はない。サティン達を追う。
サティンとテリウスは屋根上を走っていた。この街の家の屋根は広い上に傾斜が緩やかで、足を滑らせなければ転落する危険は低い。それは敵も同じことだ。既に複数の集団が屋根上に上がってきていた。敵に追いつかれないように、かといってディオールを振り切ってしまわないように道を選んでいたのだが、やはり甘かった。一団が正面に回り込んできた。前方に敵兵が二人。さらにもう二人は別の経路を回り込むつもりのようだ。ディオールが追いついてくるまで粘るか、それとも突破口を開くか。
半瞬の迷いの後、テリウスは突破を選んだ。
「ちょっと、待ちなさいテリウス!」
武装した兵士相手に怯むことなく、テリウスが【ジルワ・ノエル・クリク・ファーン】を手に突進する。決して単なる無謀ではない。テリウスも状況はよくわきまえていた。自分の膂力は不足しているし、この剣といえば長すぎる。故に勝機は初撃。敵が子供相手に油断している間に決着するほかないと知っての行動だ。
一気に飛び込みながら【ジルワ・ノエル・クリク・ファーン】を振り下ろす。しかしわずかに遠い。空振りだ。斬撃は届かず、敵の目の前に着地する。
外れたのではない、外したのだ。この一撃に怯んで仰け反ったせいで、敵の重心は浮いている上に、「所詮は子供のチャンバラか」と言わんばかりに不用意な体勢だ。大きく剣を振るったのは単なる威嚇。飛び込んだのも、次の一撃のための助走と、間合いの調整のためだ。
緩みきった標的と、限界まで引き絞られた弓のごとく身構えたテリウス。もはや結果は明かだ。次の瞬間、テリウスは敵兵の胸目がけて、矢のように跳躍した。
子供の矮躯とは言え、全体重が一点に集中した一撃だ。鎖鎧の防御を打ち抜いて、心臓を破るには十分なものだった。そのまま突き倒しながら、前転。その過程で、もう一人の敵の足を払う。これは躱されたが、その拍子にバランスを崩して下に落ちていった。もう一度上がってくるまではしばらく時間がかかるだろう。
「て、テリウス! 貴方が無茶しちゃ駄目よっ!」
後方でサティンが慌てている。まさかいきなりテリウスが敵兵に挑みかかるとは思っていなかったのだろう。心配してくれるのは嬉しいが、それで緩んでもいられない。
胸を打ち抜かれた敵兵は完全に絶命している。その死体を思い切り蹴飛ばすと、緩やかな屋根の斜面を転がっていく。それを追いかけるようにして、下の屋根に一気に飛び降りた。
「わあっ」
予想通り、先程回り込んでいた別の二人の敵兵がいた。落とした死体を盾にしながら、その一人に唐竹割に斬りつけた。
(っ! し損じた!)
しかし一撃は兜に弾かれた。兜ごと粉砕するには、テリウス自身も、剣も軽すぎたのだ。兜をはじき飛ばしたものの、致命傷にはほど遠い。
敵の反撃を払いのける。絶対に受け止めてはいけない。それでは押しつぶされてしまう。【ジルワ・ノエル・クリク・ファーン】の形状から考えても、重剣として扱っても効果は薄い。長槍の如く、刺突の連続で突き放す。こんな体重が乗っていない攻撃では威力は期待できないが、敵を怯ませることはできたようだ。
とはいえ、こうなってしまうと厳しい。1対2の馬力勝負では勝ち目がない。自分一人なら、さらに下の街路まで飛び降りても良いのだが、サティンを置いていくわけには――
「ぎゃっ」
と、対峙していた敵兵が悲鳴を上げて倒れ込んだ。追いかけてきたサティンが飛び降りざまに蹴りつけたのだ。
「サティンさん、退いてっ!」
声に反応して、サティンが飛び退く。その脇を駆け抜けて、起きあがりつつあった敵の喉元を切り払った。
(よしっ! ……あ!)
両眼に鋭い痛みが走った。吹き出した返り血をまともに浴びたのだ。敵を倒すのに必死になるあまり、その後のことを考えていなかった。
「くっ……サティンさん! 下がって!」
この出血量なら、致命傷だろう。しかし、敵はもう一人いるのだ。せめてサティンの盾になろうと、剣を突き出して身構えてみせる。
(…………っ)
格好つけてみたはいいが、内心では脂汗が垂れ流しだ。ともすれば震える奥歯を無理矢理噛みしめて、敵の出方を待つ。敵の足音、鎧の軋む音、呼吸音、何でも良い、なんとしてでも聞き分けてみせようと、意識を集中させる。しかし、どういうわけか追撃が来ない。来るなら早くして欲しい。こんな緊張感、長くは続かない。
「テリウス、大丈夫みたい」
「……はぁっ、はぁっ」
サティンに言われて、ようやっと息を吐く。随分長い間そうしていたような気がするが、実際にはほんの数秒の間だったようだ。眼を拭って見てみれば、もう一人の敵兵は遁走してしまっていた。
「はぁっ……運が良かったですね」
予想以上に敵の戦意が低かったから助かったものの、さすがに今のはきつかった。疲労と緊張に震える手で、なんとか剣を鞘に戻す。そうして、敵が戻ってきそうに無いことを確認してから、振り向いて見れば、目の前にサティンの顔があった。
「……私の為にしてくれてるんだから、お説教はしないけれど」
額に、こつん、という小さな衝撃。ついで、頬に軽く口づけの感触。
「私の代わりに、自分が死のうなんてのだけは、やめておきなさいね……ありがとう」
――ともあれ、これがフィン・テリウス少年10歳の初陣だった。
その後、三人は街の西南の水路で合流することができた。 揃って街路を走りながら言う。
「無事か?」
「なんとか。テリウスが頑張ってくれてるから」
「ディオールさん、何かおかしいですよ。敵に戦意が感じられません」
経験の少ないテリウスでも気が付いていた。【鴉党】の面々がデランダの部下を見捨てて遁走しているためである。実質的には、襲撃者は見かけの半分しかいない。
「それはわかっている。テリウスは何人やった?」
「致命傷は二人です。一人は屋根から落ちましたけど、あの高さなら無事だったはずです。もう一人は完全に無傷、健在です」
ディオールが倒したのは四人だ。合計六人。彼らが知るよしもないが、襲撃部隊はほぼ壊滅している。
「たいしたものだ。……怖くはないのか? これは殺し合いだぞ?」
「いいえ」
正直な話をすれば、怖かったに決まっている。それでも、テリウスは自分の怯懦を飲み込むように言い切った。
「あの時のディオールさん達に比べれば、全然です」
「たいしたものだな。……よし、こっちだ!」
道を曲がる。周囲に敵の気配はない。どうやら、ひとまずは逃げ切ったらしい。
「そんな……」
デランダは顔面蒼白だ。もっとも、夜の闇のせいで、オーレットにはよく見えなかったが。
「おのれ……そんなバカな……」
任務に失敗しただけでなく、貴重な戦力の大半を失った。しかも、これほどの大騒ぎになろうとは。大失態だ。釈明のしようがない。
「くそ! ……なんということだ」
「どういたしましょうか?」
もともとは彼らだけでやり遂げる予定だったのである。オーレット達【鴉党】隊員が邪魔をしたのは最初だけで、あとは事態を静観していただけだ。目標を逃がしたのは、デランダ達が間抜けだったからに他ならない。
(我々の助力が無くても、なんとかなったようですね。さすがは【蒼鷲】。あの子供もたいしたものです)
「オーレット! 貴様の連れてきた奴らが役に立たなかったから、こんな事になったのだ! この責任は重いぞ!」
(おやおや、そう来ましたか。まあ、そう見えても仕方がないことですが)
デランダにしてみれば、当然の思考かも知れない。なにしろ、オーレット達8人は騒ぎを大きくしただけで、あとは何の役にも立たなかったのである。デランダとしても、なんとかして責任を押しつける先を見つけたいのだ。
「今回の失敗の原因は貴様らにある! 厳罰が下るであろう!」
わめき散らす。唾がオーレットの顔まで飛んだ。なんと不快な男だ。
「これは仕方がありませんね。作戦その2です」
「作戦その2? そんなものがあるのか?」
デランダはオーレットの言葉に救いを求めたようだ。先程までわめき散らしていたくせに、今度はそれにすがろうとする。
「ええ、作戦その2です。我らがイザーク司令は常勝不敗。こんな場合に備え、予め策を練ってありますとも。これなら、アーエンフルの追求を躱せます」
それを聞いたデランダは喜色を満面に浮べた。
「おお、そうか。そんな作戦があるのか。素晴らしい。で、どんな作戦なんだ? すぐに実行しろ」
「え? よろしいのですか?」
しかし、言われたオーレットはきょとんとしてみせる。そんな暢気な態度に焦れて、デランダが語気を荒げる。
「無論だ、急げ!」
「本当によろしいのですか?」
「何度も言わせるな!」
「では、遠慮なく。ほら、これをどうぞ」
デランダはオーレットが放ってよこした何かを受け取った。それはデランダの部下の生き残りの首だった。
「う、うわあぁぁ」
デランダは情けなく腰を抜かした。いつの間にか、【鴉党】隊員達に囲まれている。
「そういうわけです。デランダ第一特務工作隊長殿。貴方達の口を封じて、全ての責任を貴方と、その上官たるグヴァイン殿に押しつける。それが作戦その2なのですよ」
ディオール達は南門から街を脱出し、西に廻ることにした。このまま南のクラウトセイムへ向かうのは無謀だ。間道を通ってザイスまで抜けるか、クラウトセイムを迂回してバーバィグまで行かなければならなくなった。道程変更が裏目に出た形だ。
「襲撃者はクラウトセイムの軍人だった。クラウトセイムは通過できない。間道を使わねばならないな。バーバィグかザイスまで抜けるとしよう」
「無理よ。食料も装備も足りないわ」
三人には、冬の山中を突破できるほどの物資は無い。この街で調達することもできなかった。
「山道というのは、意外といろいろなものがある。三人くらいなら、なんとでもなるだろう。それより、この間道を押さえられていたときの方が怖い」
「どうでしょう? あんな間抜けな敵ばかりなら良いですが……クラウトセイムには【白鴉】のイザーク司令がいます。彼が指揮を執ったなら、こんな簡単にはいかないでしょう」
【白鴉】ネイ・イザーク。ディオールの知る限り、自由国境域における最高の軍事家だ。現状において敵に回すには、もっとも厄介な相手といえる。噂では豪放磊落な男だと聞いているが、必要とあらば、後ろ昏い調略の一つや二つは仕掛けてくるだろう。
「危険がないわけではないが、他に選択肢がない。間道を使用してクラウトセイムを迂回する」
「わかったわ」
――その翌朝、クラウトセイム司令部に極めて重大な情報が舞い込んできたことによって、さらに事態は混迷を極めることになる。
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