第七話 交わる運命

 カーツォヴの家はトラントから2日ほど南下したところで、街道筋から外れてさらに2日ほど進んだ所にあった。人里からは大分離れている。やはり他人の目を気にしているのかもしれない。三軒隣りは魔人の家、というわけにはいかないのだろう。

 コットエムへは、ここからさらに10日以上かかる。現在の一行の路銀と物資では、ここまでが精一杯だった。――ミンスの死体から奪ったものだ。イエムの死者に対する無関心は徹底していた。

 ティフはカーツォヴと一緒に先頭を歩いていく。少し離れて残りの三人がついてくる。

「ほれ、あそこだ」

 カーツォヴが指さす先に、一軒の家があった。木造のごく普通の家で、思ったよりも大きくて立派だ。いろいろと妄想を膨らませていたティフにしてみれば、拍子抜けしないでもない。

「なーんだ、普通の家ね」

「だから言ってるだろ。お前は俺を何だと思っていやがるって。薄暗い洞窟の中にあって、天井から生えてるとでも思ってたのか?」

(どっかで聞いたような言葉ね。……ああ、サティンが私の家のことをそう言ったんだっけ。そういえば、サティンは元気かなあ。無事だといいんだけど)

 独特の雰囲気を漂わせた超美形のフレイズ公女を思い出す。彼女と交わした約束を守ってもらうためにも、無事に帰り着いてくれるといいのだけど。

 彼女とは初めて会ったときから、すぐに仲良くなった。飾らない暖かい雰囲気に惹かれたのだのだと思う。彼女のような人には長生きして欲しい。きっと、この地上も随分よくなるだろう。

「うーん。あんたの家だっていうから、もっと凄いのを想像してたんだけど。通常の幾何法則に反して、有り得ない角度で構成されてるとか、空をふよふよ漂ってるとか」

 頭上からため息が聞こえた。

「ふー。おめえらは俺達についてもっと勉強した方がいいな。それじゃ【式使】失格だ」

 呆れ顔をされてそんなことを言われると、ふつふつと怒りがこみあげてきた。この短絡思考の権化に、そこまで言われる筋合いは無いだろう。

「なによそれ」

「【式使】にしては、知識が足りねえ、って言ってるのさ。そもそも……っと。まあ、いいや。そういうのは家に適任がいるからな」

 カーツォヴが何か言いかけたが、途中で止めてしまった。なにか思惑があるらしい。ティフもひとまず矛先を収めることにした。

「適任って? なんのこと?」

「いいってことよ。着いたぞ」

 家の前で立ち止まってヴェン達三人が追いつくのを待つ。

「ここが俺の家だ。ま、上がってくれや」

「なんか普通の家だね。【魔人】の住処てのは巨大な鯨の背中にあって、海を漂ってるって聞いたんだけど」

 イエムはティフ以上に偏見に満ちていたらしい。いくらなんでも、それはあまりにも無茶だ。

「……」

 カーツォヴは頭を抱えている。実に大げさなリアクションをする男だ。

「ま……いいか。おーい! 帰ったぞ」

 カーツォヴは大声で家の中に呼びかけた。先程、適任がどうとかいっていた気がする。家には同居人がいるということだろうか? 確かに、家の周りが荒れているということもなく、丁寧に手入れされている。それに、一人で暮らすには大きすぎる家だ。

 しばらく待つと、中から女の声がした。扉が開く。

「ああ、おかえり。後ろの方々はお客さんかい?」

 中から現れたのは15~17歳くらいの小柄な少女だ。亜麻色の髪と赤い瞳の取り合わせが、独特な感じを醸し出している。別段、態度が大きいという訳でもないのに、妙に挑戦的な雰囲気がした。

「ただいま」

「こんにちは。お邪魔になりませんか」

 急の客に驚くでもなく、少女はにこやかに微笑んだ。

「いいって、いいって。あたしは賑やかな方が好きなんだ。家にお客さんが来るなんて滅多にないからね。さあ、どうぞ」

 そう言って中に戻っていく少女。

(大人びた感じがする人だな……。カーツォヴとはどういう関係なのかな?)

 少女の素性が気になる。カーツォヴに訊いてみようかと思いかけたティフだが、義兄に先を越された。

「妹さんですか?」

 確かに、ティフもそんな感じを受けた。恋人だと言われれば、ちょっとショックだろう。この男にまともな恋愛ができるとは思えない。しかし、返ってきた返事は、それ以上に想像もつかなかったことだった。

「バカ言え。母さんだよ」


 一行は居間のような部屋に招待された。椅子を勧められて、それぞれ腰を下ろす。正面にカーツォヴの母親が、その隣にカーツォヴが腰を下ろした。

 妙に居心地が悪い。最初に感じた挑戦的な感じというのは、どうやら、迫力と取り違えたようだ。可憐な外見と、親しみやすそうな雰囲気と裏腹に、圧倒的なほどの威圧感を受けた。只者ではないだろう。

「さてと、じゃ、挨拶からだね」

 そう言われたので、先にこちらから自己紹介することにした。順番に名乗っていく。彼女からは、そうさせるだけの権威が感じられたのだ。全員の自己紹介が終わると、おもむろに彼女が口を開いた。

「ほう……レーヴのね」

 どうやら、彼女は先生の知り合いだったらしい。先生を略称で呼び捨てにする人と会うのは初めてだ。

「あたしはここの主。名はサリア・ポーラントという。こいつの母親をやってる」

 そう言ってカーツォヴの頭をこづくサリア。

「いてえよ、母さん。いきなりなにするんだよ」

「なんとなくだよ」

 あの傍若無人の具現象のカーツォヴが、まるで頭が上がらない。驚きを通り越して、なにか偉大な奇跡を見ている気がする。

「【月の権使】だの【竜主】だのって呼ばれる方が多いね。あたしは【三つ名】だから」

 【三つ名】! 巨大な名声や実力をもって、称号や通り名を二つ持っている人間をこう呼ぶ。世界的にも、歴史的にも、それほど多く存在するわけではない。事実、ティフ達が直接見知っているのは、【蒼鷲】【群青の戦士】のテス・ディオールだけだ。

 しかも、【月の権使】【竜主】といえば、真王建国記などに度々登場する超大物の【魔人】のことだ。伝承の中では、かつての【魔人】達の長の一人で、不可思議にして強大な力を気ままに振るって【真王】達の協力をしたり、邪魔をしたりする存在として描かれている。――ということは?

「貴女、もしかして……今、何歳なの?」

「あれま、年のことは訊かないでおいてよ。……えっと、21だよ」

 サリアはケラケラと笑う。すかさずカーツォヴがつっこみを入れる。

「当年とって321歳の間違いじゃねえのか」

「あら、この子はいつの間にそんな嫌らしい子になったのかね!」

 321歳!??? それが本当だとすれば、ティフの30倍だ。今年は真王国歴304年だから、真王建国以前から生きていることになる。

「さ、さんびゃくにじゅういち……」

 イエムが呆気にとられたようにつぶやく。ティフとて同じ気分だ。とても想像がつかない。

「まあ、そんなにかしこまらないで頂戴。あたしは楽隠居の身なんだから。あとは静かに朽ちていくだけよ」

「嘘つけ。あと一万年でも一億年でも生きてそうじゃねえか」

 サリアは再び無言でカーツォヴの頭をこづく。

「疲れてないなら、少し話を聞きたいんだけど。うちの子は迷惑をかけなかったかい?」

「いえ、とんでもありません。危ないところを助けていただきました」

「ほー。そりゃよかった。この子は昔っから、1の感謝と同時に100の恨みを買ってばかりでさ。心配してたんだよ」

 それは言い得て妙だ。確かに、自分達は助けられた。感謝もしている。だが、トラントの人間にしてみれば、人の形をした災厄以外の何者でもなかっただろう。彼自身の責任ではないとはいえ、結局、街一つが焼失してしまった。

「で、どうだったんだい?」

 義兄がこの旅の経緯を簡単に説明した。【陽杯】のことも含めてだ。この女性なら、何か知っているかもしれない。なにしろ、齢300年を超える世に並ぶものなき伝説の【魔人】なのだ。隠し事は無用たろう。

「……そうか。そりゃ大変だったね。あんた達みたいな子供には大変なことだ。よく今までがんばってきた。それは素晴らしいことだ。誇っていいことだよ」

 誉めてくれたのはとても嬉しい。今まで誉めてくれた人は、もういなかったから。

「レーヴが逝ったことは知っていたさ。……あたしの古い友人も減る一方だね」

「先生とお知り合いだったの?」

 疑問を率直に口にした。サリアは怪訝な顔をしたが、何かに気が付いたように語り始めた。

「……? ……そうか、あんた達はなんにも知らないんだね。……どうしようかね。……うーん……。よし、とりあえず食事にしよう。あんた達は疲れてるだろう? 休憩してから、ゆっくりと話をしてやる。先生と、そのお宝の事、あたし達【魔人】のこと、その他諸々の事をね。今日は泊まっていくんだろう? くつろいでおくれよ」

 一行はサリアの好意に甘えることにした。聞きたいことは沢山ある。

「では、そうさせて頂きます」

「じゃ、決まりだ、そうしよう。ほら、バカ息子! 準備するよ。ついでに、色々と報告してもらおうじゃないか! あんたの悪行三昧をね!」

 ごちん。再び頭に拳骨が落ちた。


「さてと……何から話したものかな?」

 夕食を済ませた後、再びサリアと話を始めた。今現在ここにいるのは、話手たるサリアと、ヴェン、ティフ、それにイエムの四人だ。カーツォヴは調べものがあるからといって席を外してしまい――頭をこづかれ続けるのが嫌なだけかも知れないが――リアは疲れが出ていたこともあって、早めに休ませた。

「貴女におまかせします」

「そうは言ってもね。どこから説明を切り出したものか迷うんだよ」

 齢300年の【魔人】にかかれば、世の中のほとんどの人間は無知無能でひとくくりにされてしまうだろう。想像もつかないほどの知識と経験を有するであろう、この女性がどんなことを話し出すのか、皆、実に興味深く耳を傾ける。

「よし。まずはあんた達の使う【式】の話からいこう」

 ヴェンとティフは【式使】だ。まずはその業たる【式】についての話題から進めるのが良いと、サリアは判断したようだ。

「さて、問おう。あんた達は【式】をどんなものだと考えているんだい?」

 そのサリアの問いには、ヴェンが応えた。

「特定の手順でもって、世界を構成する物理諸法則に干渉し、それを無視、もしくは、ねじ曲げることによって世界の在り方を変える。それが【式】だと理解しています」

「教科書通りだね。まあ、大体そんなもんだ。じゃあ、次の質問だ。式では、【時間】と【精神】と【生命】への干渉ができないのはなんでだい?」

 【式】の持つ、三つの不可侵。実を言うと、ティフは理由を知らない。彼女が返答に困っていると、再び義兄が応えた。

「【式】は【時間】にまったく干渉できないわけではありません。時間遡航が不可能なのは、時間の持つ存在規模が極めて巨大だからです。

 例えば、今から一時間前に干渉して、先程いただいた夕食の献立を変えようとしたとします。ですが、その食事の献立という現象は、一時間とちょっと前――ここでは一時間十分前としておきましょう――の現象によって定義されています。つまり、一時間前の現象に干渉するために、一時間十分前の現象に干渉する必要があります。ですが、一時間十分前の現象に干渉するためには、さらに一時間二十分前に干渉する必要があります。そして、そのためにはさらに一時間三十分前に……という風に、際限なく対象が増えてしまいます。このため、【式】による時間遡航は不可能とされています。

 仮に成功したとしても、巨大な存在規模に押し潰されて、【なかったこと】にされてしまうでしょう。時間の持つ方向性を変換したり、時間軸そのものを破壊したりできれば、話は別でしょうけれど。まだ、我々はそこまで達していません」

「その通りだ。あんた、教師に向いてるね」

 サリアが感心したように頷く。ヴェンがなおも説明を続ける。

「未来予知の場合は、もう少し単純な理由によります。

 ええと……現在は過去によって定義されます。すなわち、未来は現在によって定義されると言い換えることが出来ます。つまり、現在の森羅万象すべての現象が把握できれば、未来も完璧に把握できるはずなのです。ですが、把握すべき現在の現象というものは、あまりにも莫大です。できたとしても、現在より数瞬後の、ごく身近な出来事の予測だけでしょう。これでは、目で見て考えた方が、よっぽど有効です。仮に、それを乗り越えて、未来の観測に成功したところで、実用に耐えられません。あまりに莫大な情報と、無限に連なる未来の事象に……人の心はついていけませんから」

「ふーん。【式】については私もそれなりに知ってたつもりなんだけどね……まるでわかんないよ」

 イエムにはさっぱりの様だ。無理もない。本職であるティフにさえ、理解に苦しむのだから。

「じゃあ、肉体や心に干渉できない理由は?」

 サリアが第二、第三の謎について問う。

「……申し訳ありません。不勉強なもので」

 ヴェンにも知識が無いらしい。ティフにはもっとわからない。時間の話の段階で限界に近かった。そんな兄妹を見て、サリアが笑う。無知を嘲笑っているのではない。

「ふふふ。わからなくても仕方がないさ。【式】が生命に干渉できない理由。それは、できないからだよ」

「は?」

 それでは理由になっていない。できないものはできない、とでもいうのだろうか。サリアの赤い瞳が可笑しそうに笑う。

「今のあんた達にわかってるのは、あくまで世界を物理的なもの、見たままのものとしてだけ捉えたものだけだ。それだけじゃあ、この地上の本質的なものは見えてこない。これから私の話すことを荒唐無稽と思うかもしれないが、聞いてくれるかい?」

「もちろんよ」

 【式使】にとって、あらゆる知識と思考が糧になる。かつて、先生はそう説いていた。それが全き狂気の産物で無い限り、あらゆる知識を否定してはならないと。多くの知識を得て、世界への理解を深めることで、【式使】としての能力、世界への干渉力を高めていくのだと。

 了承を受けて、サリアが語り始めた。

「ありがとうね。……この世界全てを構成し、表現しているものは、三つの柱からなっているんだ。あたし達はそれぞれ【陽】【月】【星】と呼んでいるのだけれど、まあ、これは便宜的なものだね。まず、【陽】というのは、つまりは物理的な事を指すんだ。次に、【月】は人の心、精神の事だ。最後に、【星】というのは、生命そのものを指す。あたし達は普通、この三つの、ごく一部にしか干渉できない。【式】というのは、【陽】の範囲での約束事には強い影響力があるけれど、ほかの二柱には何の効果もない。この話はわかるかい?」

「うん」

「この三つの柱は互いに絶対不可侵ってわけじゃない。【式】でも人を殺すことはできるだろ?」

 ティフはそれをやったことがある。大事な友人のために必要だったからであって、別に後悔はしてない。

「人というものには、この三つがほどよく与えられてる。【陽】の範囲で活動して、【月】の範囲で恋をしたり、相手を憎んだりする。【星】の範囲で人を殺したり、子供を産んだりする」

 サリアはそこで一旦言葉を切った。その瞳に、透徹したものが顕れる。

「あたし達はその三つの柱を統べている。あたしは【月】だね。【月の権使】だから。あんた達の先生だってそうだ。【陽の権】だろ?」

 それが事実だとすれば、先生は正真正銘に【式使】達の頂点に立っていたことになる。それ以上に――

「あたしが【月の権使】を名乗ったのは【大天変】の時だ。確かアレは真王建国の前年の話だったから、305年前になるのかな。あんた達の先生はもっと前から……少なくとも、そのさらに20年以上も昔だから、私より年上なのは確実だね」

 この話が本当ならば、大変な事実が浮かび上がってくる。

「ちょ、ちょっと待って。それじゃ先生は320歳以上だったってこと?」

「ふう。やっぱり、話してなかったんだねえ。あいつらしいといえば、らしいけれどね。……そうさ。あんた達の先生はあたしと同年代どころか、それ以上って事さ」

 サリアの口から、ため息ともつかぬ声が漏れる。そこには明らかな寂寞がある。

「でも、先生はれっきとした人間だったよ?」

 普通の人間が300年も生きていられるはずがない。【式】では老化と衰弱は回避できないのだ。

「それにも理由がある。じゃあ、それより先に、あたし達【魔人】について説明してあげよう。どうも、変な偏見や誤解に満ちているみたいだし。家が海の底にあるとか」

 これには、ティフは赤面するほか無い。

「あんた達は【魔人】について何処まで知ってる?」

 ティフは、以前ディオールに聞いた話と併せて語り始めた。

「ええと、真王建国以前の勢力で、【大天変】で壊滅した。基本的に野蛮で獰猛、残忍、そして利己的。つまりは邪悪。極めて強靱で、通常の手段では死ぬことがない。しばしば不思議な力を振るう。……ここまでが伝承にあること。以前、人に聞いた話だと、【魔人】の肉体は意志を裏切らなくって、物理現象を超越することが可能だって。……なんだか、貴女にすごく失礼なこと言ってるよね、私。ごめんなさい」

 野蛮だの、邪悪だのといわれて気を悪くしない人間は希少だろう。ティフは説明のためとはいえ、そんな言葉を使った事に反省した。

「そんなのはいいけどさ。その話をした人ってのは誰だい?」

「あの有名なテス・ディオールだけど?」

 その名を聞いたサリアが納得顔をする。彼とも、カーツォヴを通して面識があるのかもしれない。

「なるほど。まず、伝承の方はだいぶ認識が甘いよ。後半のほうはかなり的を得てる」

「どういうことです?」

「まず、真王建国以前の、ってはいい。だけど、【大天変】で壊滅したってのは嘘だね」

 なぜかニヤニヤ笑いながら、サリアは話を続ける。

「有力な【魔人】ってのは、結構な数が【大天変】を生き延びたんだよ。【主】か、それに匹敵するのが片手で足りない程度。その従者程度の連中を含めると、百は残ってたはずだね。あまり古伝承の類は読んだりしないのかい? 真王建国の周辺伝承なんかには、わりとこの手の連中が顔を出してるんだけどさ」

「んー、物語は嫌いじゃないけど、なかなか読む機会が無かったの。真王建国記くらいは読んだけど。友達に凄く詳しい人がいるから、今度訊いてみようかな」

 サティンならこの手の話は得意なはずだ。本人から聞いた話では、フレイズの書庫の蔵書のほとんど全てを読破したそうだ。さすがにそれら全てを記憶しているわけはないだろうが、それでも基礎となる知識量は相当のはずだ。

「いろいろあって、減ってはいるけれど、それでも『壊滅した』にはほど遠いね。だいたい、あたしが生きた見本じゃないか」

 確かにその通りだ。サリアは真王建国記にも度々登場しているほどの【魔人】だ。【大天変】から真王建国に至るまで、すべてをその目で見ていたのだ。

「言っちゃなんだが、凶暴で邪悪ってあたりは、まったくもってそのとおりなんだ。私や、ウチのバカ息子は変わり者だと思った方が良い。忠告として言っておくが、私らを標準的な【魔人】だと思ってくれるな? 痛い目に遭うからね」

「うん、もう怖い目には遭ってるよ。ディオールのおかげで痛い目には遭わないで済んだけれど」

 ティフにとっては、順序が逆だ。あの森の中の【魔人】と遭遇した後で、カーツォヴが【魔人】だと知ったのだ。

「テス・ディオールね。あの男、相変わらずそんなことばっかりやってるのかい。【魔人】と戦うなんて正気の沙汰じゃないよ」

 やはりサリアとディオールは面識があるようだ。

「おっと、少し話がそれたね。まあ、一言で言ってしまえば、【魔人】ってのは【月】に偏った人間だってことさ」

「どういうことですか?」

「【月】、つまり意志の力、精神力ってのが、人間を凌駕してるんだ。比べものにならないほどね。だから、肉体的に死んでるはずなのに、まだピンピンしてたりする。傷を負ったところで、【月】が【陽】を補ってしまうから、【星】まで届かない。だから、死なない」

(……どこかで、似たような話を聞いたような……そうだ)

「わかった! ディオールの剣は【星】に干渉するんだ。だから、【魔人】が殺せるんだ」

 ディオールの剣、という言葉に、サリアが反応を示した。

「テス・ディオールの剣? ああ、あれのことだね。あれは見事なもんだ。そうさ、いくら【陽】を補ったところで、【星】が崩れれば意味がないからね。【陽】と【星】を同時に破壊することで、【月】を孤立できるのさ。よくわかったね、あんたは頭の良い子だ。……ちなみに、【魔人】を殺すもう一つの方法は、さらに強力な【月】をぶつけて崩壊させること。あたしなんかにとっては、これが一番手っ取り早い」

 ティフは謎が解けたことが嬉しかった。サリアが誉めてくれた事も。今度、機会があったら本人に教えてあげよう。

「……つまり、【魔人】というのは、とてつもない意志の力を持った種族って事だね?」

 そこでイエムが口を挟んだ。

「ほら、もう勘違いしてるよ。【魔人】って言ったって、人間と変わらないんだよ。というより、元々が同じ生き物なのさ。人間との間に子供だって作れるんだよ? 『種族』って言葉は間違いだね」

(俄には信じられない話だけど……?)

「【魔人】っていうのは、生まれたときには普通の人間と変わらない。【魔人】の要素っていうのかい? それは内に潜んだまま姿を出さないんだ。自分が【魔人】だって知らないまま一生を終えた人間だって、沢山いるんだよ?」

「……なんだか怖くなってきた。隣の家の小父さんがいきなり【魔人】になったらどうしよう」

 だが、サリアはそんなティフの不安を一蹴した。からからと陽気に笑う。

「ははは、大丈夫だよ。いいかい? 【魔人】ってのは巨大な存在規模を持ってるって言ったろ? その力は何処から来るんだと思う? これがまた面白いことにね、先祖からしか来ないんだ」

「先祖というのはどういうことです?」

 サリアの目がすっと細められる。そうしてみると、やはりぞっとするような威圧感がある。

「要するに、【魔人】の血脈に連なる者だけが、【魔人】として在り得るってことさ。もちろん、例外はあるかもしれないけどね。あたしも理由はよく知らないさ。【魔人】の元祖なんて話は聞いたこともないからね。

 でも、あたしはこう考えてる。【魔人】ってのは、もともと精神的な存在、【月】の要素そのものなんだ。それが、自らの血脈に連なる者達の内から適当な個体を選んで、憑依する。もともとが精神的なものだから、肉体を破壊されても死ななかったりするのは当たり前だろ? 憑依された分だけ【月】が上乗せされて、常人より強くなる。それが【魔人】の発現ってわけさ」

「でも、それだと、凶暴な【魔人】が多いってことの説明がつかないよ。貴女やカーツォヴはいい人だけど、私が森の中で襲われた奴は完全に狂ってたらしいし」

 ティフは気絶していたために、よく知らないのだが。サティンも自身の恐怖体験について多くを語ろうとしなかった。

「そこが肝なのさ。いいかい? 【魔人】てのは巨大な存在規模を持ってる。そのこと自体が、もの凄い重圧になるんだよ」

「どういうこと? よく意味が分からないや」

「そうだね、ちょっとこのコップを持っててごらん?」

 ティフはやや大きめの古びたコップを渡された。素直に受け取って、両手で支える。

「このコップは人間そのものだ。【魔人】には【力】――ここでは水ということにしよう、その入る器ってものがある」

 そう説明しつつ、サリアはチョロチョロと水を注ぎ始めた。

「水の量は、そのまま力の大きさだと考えればいい。たくさん入る器なら、それだけ大きな力の持ち主だってことになるけれど、決して無限ってわけじゃない」

 コップの9割ほどまで注いだところで、手を止める。

「で、これが爆薬かなんかだったらどうだい? 火を近付けたらドカン。こぼしてもドカン。それをずっと持って歩けっていわれたらどうだい? 大変だろう? 危険な物や貴重な物なんかは、持ってるだけでも嫌なものだろう? さあ、あんたならどうする?」

「怖いよ。捨てようか?」

「その水をこぼしたら叩き潰すよ、って私に言われたらどうする?」

 突如として、サリアの表情が変わる。邪悪な笑みに。

「ええ! 本気なの?」

「ああ、本気も本気。一滴でもこぼしたら最後、あんたは挽肉さ。あたしの明日の晩餐だね」

 冗談だと思いたい。だが、サリアの表情は嘘とは思えない。なおも水を注ぎ続ける。

「ええと、あの、どどどどどどうしよう! ちょ、ちょっとタンマ」

「待たない」

 そうこうするうちに、水面が上がってきた。

「待って、待って待って~」

 ティフはもうパニック状態だ。冗談ではない。こんなところで死にたくない!

「ってなるよね、普通」

 サリアの表情がもとに戻る。水を注ぐのも止める。どうやら、挽肉云々は冗談だったらしい。ティフは安堵のため息を吐いた。水面がギリギリまでせり上がったコップをそっと置く。

「【魔人】てのは、常に爆発の危険を抱えているんだ。その【力】に器が耐えきれなくなると、大変なことになる。間違いなく破滅してしまうんだ。これには例外がない。なにしろ、とてつもなく巨大な【力】だからね。こぼしても駄目、溢れても駄目、器にヒビが入ったりしようものならもう駄目だ。……保たないんだよ。だから、時々そこから水を抜いてやる必要がある。つまり、【力】を行使するわけだね」

 あの【魔人】も哀れな被害者なのだろうか。

「誤解をするんじゃないよ。発狂して暴走するような奴は精進が足りないんだ。とはいえ、こういう力を持っているから、だいたいのことはできてしまう。それがいつの間にか『この力があれば何でもできる』にすり替わるのは、ある意味自然なのかもしれないけどね。――そうなってしまうと、早い」

 サリアがそっと目を閉じる。そうやって暴走に至った同族達を数多く見てきたのだろう。あるいは自ら処刑してきたのかもしれない。

「大体わかりましたが、それと先生が300歳ってことと何の関係があるのですか?」

 話の流れが見えない。【魔人】の力と年齢に何の関係があるというのだろう。そんなヴェンの疑問を解くかのように、サリアの説明が続く。

「【魔人】にしろ、なんにしろ、巨大なものを抱えてる存在には、それ相応の器ってものが必要だろ。ヨボヨボの老人になってたら、あっという間にドカンだ。個人が持ってる【力】こそが、その個人の肉体を決めるのさ。その【力】が衰えない限り、老いることをしない。基本的に【魔人】が老衰することはない。あんたの先生は【魔人】ではあり得ないけれど、似たようなものだってことさ」

「なるほど……」

 実を言えば、ティフは今の話に少々の違和感を感じとっている。それが何かがはっきりしないからには、口に出すつもりは無いのだが。

「実はもう一つあるんだけど……まあ、いいか。これはあんた達には関係ないしね」

 ティフにはその一つというのが気になった。この人が関係ないと言ってるからには、本当に関係ないのだろうけれど。

「それってなに? 教えて欲しいな」

「あまり人に言うようなことではないのだけど……まあ、いいか。これが一番効果的なんだ」

「なんだろ?」

「他人を愛するのさ。他人――普通は異性だね。同性のこともあるけれど――を愛し慈しむことが一番いい。互いが愛し合っている限り、【魔人】は絶対にキれたりしないんだよ」

「……本当?」

(なんだか嘘臭いなあ。本当だとしたら、赤面ものね)

 サリアはティフの表情を読み取ったらしい。情けない、とでも言いたげな声をあげた。

「ああ、だから言いたくなかったんだ。……でも、これは本当なんだよ。【魔人】は一生涯に一人の相手しか愛さない。いや、愛せない。相手に何かあった場合には、後を追ってしまうほどなんだ。そうならないように……いや、いい。とにかく、私達は自分にとって大事なものを失うことに耐えられない。そういうことさ」

「ふうん。なんだか素敵かもしないわね」

 燃えるような恋というやつだろうか。ティフにはまだわからなかったが、憧れを感じないでもない。

「さっき言った通り、あたし達は【月】の生き物だからね。そういうのが大事なのさ。まあ、これが私達の捉えてるこの世界と【魔人】についてだ。何か質問は?」

 特にない。わかりやすい説明だったと思う。正しいかどうかはともかく。

「じゃあ、長くなったけど、最後に【陽杯】についてだね」

 いよいよ、真打ちの登場だ。

「それで、あんた達がトラントで手に入れたっていう【陽杯】だけどさ、ちょっと見せてくれるかい?」

「うん、これよ」

 【陽杯】を差し出す。サリアはそれを手に取ると、しばらくはジロジロと見回していた。その表情は険しい。

「ふーん……ちょっと待っててくれよ。ついでに、少し休憩にしよう」

 なんらかのあてがあるらしい。サリアは席を立って、奥に行ってしまった。

「ふう。ねえ、義兄さん。さっきの話どう思う?」

 ティフは、義兄に先程からのサリアの話のことを訊いてみようと思った。ティフ個人としては興味深い話だと思ったが、客観的な意見を聞いてみたい。

「信憑性は高いと思います。一つ一つの話が経験に基づいているようですね。321歳ですか……」

「イエムは?」

「私は途中でついていけなくなったよ。……最後の愛がどうたらってところは面白いと思うよ。あとは何とも言えないね」

「ふーん」

 大体はティフと同じだ。なかなか興味深い話だと思う。だけれど、よくわからない。そんな感じだ。でも、先生はこの事を知らなかったのだろうか? そんなはずがない。だとしたら。

(……なんで?)

 自分達に何を隠していたのだろう。しばらく考える時間が必要だろう。

 一つだけ、決してしたくないことがある。先生を疑うことだ。先生には先生なりの、何らかの思惑があったかもしれない。それでも、それを疑って、憎みたくない。他人はそれを愚かというのかもしれないが、それで良いのだと思う。

 そうしているうちに、サリアが戻ってきた。

「はい、お待たせしたね。これがあった方がいいだろうと思ってね」

 サリアは元の椅子に座ると、お盆のような円盤状のものを取り出した。月を内に閉じ込めたように輝く、直径30cmほどの大きな丸い鏡だ。

「それは?」

「あんた達も名前くらい知ってるだろ? 【月鏡】さ。【月】の秘宝だよ」

 【月鏡】! まさか、現存しているとは思いもよらなかった。三つの秘宝【陽杯】【月鏡】【星珠】のうち、【月鏡】は【大天変】の際に失われたという記述がある。ちなみに、【星珠】は実存したかどうかさえ怪しい代物だ。

「すごい、きれいな鏡ね」

 言いながら、思わず手を出しかけたティフの手を、そっとサリアが押さえた。

「およし。狂うよ?」

 言われて、慌てて手を引く。

「覗き込むのも禁止。……脅かすわけじゃないけれどさ、あんた達に取っては危ない代物だよ。これは【陽杯】と同等の存在だからね。伊達に世界の意志の具現ってわけじゃない。さてさて、これならどうかなっと……ふうん…………」

 二つの秘宝が互いに干渉する。誰の目にも、何も見えない。何も聞こえない。ただ、そうしている事だけがわかる。

 サリアは渋い顔をしている。何か悪いことでもあったのだろうか。しばらくそうしてから、おもむろに口を開いた。

「……確かに、これは間違いなく【陽杯】だよ。本物のね。ただ……」

「ただ?」

「あんた達の言うとおり、今のこれはガラクタさ。【力】がまるで感じられない」

 【月鏡】を【陽杯】から遠ざける。あまり長い時間干渉させても良い事はないからだろう。平衡を失って暴走するようなことになれば、大惨事になる可能性だってある。

「【力】が感じられないって、どういうこと?」

「本来、秘宝ってのは、その象徴する【力】の具現なんだ。【力】そのものが形を取る。【力】そのものが、存在そのものなんだ。だからこその秘宝なんだけど、これからは、そういったものが一切感じられない。そういう意味では、これは【陽杯】とは言えない。だけど、これは間違いなく本物の【陽杯】なんだ」

 サリアの言っている事は、子供でもそう感じるであろう矛盾にも聞えた。

「よくわかんないや」

「これが何らかの損傷を受けてるっていうなら、まだ話がわかる。だけど、これにはそんな傷もない。勿論、偽物でもない」

 それではなぜ、これが【力】を失っているのだろう。

「あり得るのは、より高次な媒体と接触したって可能性だね。この【陽杯】を上回る媒体が存在して、それに【力】が移ってしまったという可能性はある。そんなものがあればだけれどね」

「そんなものが存在しうるのですか? 貴女の言葉を借りるなら、それは【陽】の具現なのでしょう? 【陽】そのもの以上に【陽】であるもの。ありえませんよ」

「うん。そのはずなんだけど……。やっぱ、それ以外に考えられないね。……これはどうしたものかな……。ああ、でも、【陽門】にでも行けば、なにかわかるかもしれないね」

 【陽門】? 三人が初めて聞く言葉だ。名前からすると、【陽杯】に関係深そうだが。

「【陽門】というのは? 耳慣れない言葉ですが」

 ヴェンの問いを受けて、サリアは意外そうな顔をした。

「【陽杯】は知ってるのに、【陽門】は知らないんだね? 【陽門】ってのは、文字通り、【陽】の門さ。【陽】の力があふれ出ているところ。この地上における、全ての【陽】の源。そこなら、なんとかなるかもしれないね。そこで、なにを、どうするかはともかくとしてね」

「それは何処にあるの?」

「さあ? それはあたしも知らない」

 サリアはそう言って手をひらひらさせた。

「なにせ、【月の権使】のあたしが【月門】の場所を知らないんだよ。自分で捜してみたらどうだい? スーレイルにでも行ってさ」

(そんな凄いところなら、もっと目立ってもいいはずなのだけど……なんでだろう?)

 【陽】の【結界】が世間に知られていなかったことを考えると、あるいはそんなものなのかもしれない。【式使】の総本山たるスーレイルでもわかるかどうかは怪しいものだ。それでも、この人がそう言うからには、捜してみる必要があるかもしれない。

 しかし、ヴェンが首を横に振った。

「いえ……。これ以上は無理です。捜すにしても……一回帰ってから、もう少ししっかり準備してからということになりますね」

 サリアはそう言われても落胆した様子でもない。むしろ、納得をしているようだ。

――彼女は表情豊かな少女のような女性ではあるが、逆に、それ故に感情が読み取りにくい。真意を心深く隠しているのかもしれないが、それを看破することは、おそらく不可能だろう。300年の月日がそれを許さない。

「そうかい。それがよかろうね。力になれなくてごめんよ」

「とんでもありません。とても勉強になりました。ありがとうございます」

「うん。凄く色々わかった気がする。ありがとう」

「そうかい。それはよかったね」

 サリアもにこやかに微笑む。

「ああ、随分長く話し込んでしまったようだね。さ、あたしの話はこれで終わり。2階の客室に寝床は用意してあげたから、ゆっくり休むんだね」

「ええ。本当にありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

「いいってことさ。代わりにといってはなんだが、バカ息子のいい友達でいてやっておくれ」

「うん、約束する」

「ああ。ありがと。じゃ、あたしは、もう少し調べものがあるから。お休み」

「お休みなさい」

 サリアが一人残る。その口から呟きが漏れた。激しい口調ではないし、悪意に満ちているというわけでもない。むしろ、善意さえ感じられたが、その言葉を聞いた者はことごとく地上から蒸発するであろう程の迫力を秘めていた。これが【竜主】の持つ瘴気だ。

「いい子達だね。……ふふふ、レーヴ、怒ってるのかい? いいじゃないか。あたしはあたしなりにあの子達のためにって考えてるんだ。先に死んで自分だけ楽しようなんて考えるからさ。あんたにはそれができなかったんだろ。自分にできなかったことを私に押しつけてくれるなよ。文句を言いたいなら、いますぐ生き返って責任を取ることさ。

 ……なんだい、それとも、あたしがあんたの目論見通り動くなんて思ったのかい? それこそ、【魔人】の在り方に反するってものさ。あたしは【竜主】なんだよ? 命令されるのが、一番嫌いなんだ。ははははははは。

 言っておくけど、あたしは何も【月】を起こしてないよ? 人の心なんてのは自由じゃなきゃいけないんだ。

 これからどうするか決めるのは、あの子達の義務。

 これからどうするかは、あの子達の自由。

 これからどうなるかは、あの子達の責任。

それでいいんじゃないか。そんなこともわかってないのに、大きい顔して親代わりなんてやってたのかい? それこそ、理不尽ってものさ。理屈の長たるあんたのすることじゃ無かったねえ。

 ふん……結局、あんたは本当の愛なんてものはわかっていなかったんだよ。そこで大人しくしてるがいいさ!」

 それは確かに独り言のはずだった。


 サリアの話が終わった後、イエムは一人、寝台に入ることをせずに、家の外をとぼとぼと歩いていた。

 憂鬱だ。自分がこんなにふさぎ込んでいるのは、あの時以来だろう。自分でも、なんでこんなに沈んでいるのかわからない。

 畏れ? 失望? それとも……?

(ああ……すっきりしないね)

 そのまま森の方へ歩いていく。多少の危険ならば、排除する自信がある。そのまま、暗い森の中を進んだ。ちょっとした広場に出たところで、大きめの石に腰掛けた。ため息を吐く。

「いい月だね」

 見上げると、頭上に大きな月がかかっていた。先程見た、【月鏡】と同じようで、微妙に異なる色をしている。

(【月の権使】か……。あの嬢ちゃんだか婆さんだかわかんない人は何者なんだろうね)

 不意にがさりと音がする。イエムはとっさに身構えかけたが、現れた姿を見て緊張を解いた。ヴェンだ。おそらくは、自分の姿を見かけて、追いかけてきたのだろう。

「こんばんは。イエムさん。もう、冬なんです。風邪を引きますよ」

「それはこっちの台詞だろ。【巫女】ともあろうものが風邪など引くものかい。私はあんたの方が心配だね」

「ふふ。ご心配なく。そこ、よろしいですか?」

 イエムの隣を指し示すヴェン。

「ああ、いいよ。ただし、私の愚痴を聞く羽目になると思うけどね」

 ヴェンはそれには応えず、穏やかに笑い、静かにイエムの隣に座った。

(ああ、この笑みなんだね)

 トラントで自分が守ろうとしたものだ。一時期のこの青年の状態はかなり危なかった。張りつめた緊張と重責で、いまにも崩壊しそうに見えた。今は大分落ち着いたように見える。どうにか旅の目的も果たしたことだし、このまま、無事に家まで帰り着ければいいと思う。

(ああ、私は何をしたいんだろうね)

「イエムさんは……なにを焦っているのですか?」

「焦ってる? 私が?」

 なるほど、さっきから落ち着かないのは、焦慮のためかもしれない。イエム自身にも自覚がないでもない。

「ええ。……今の貴女は……かぶるのですよ」

「かぶるって、何とだい?」

「以前に言いましたよね。私が【親】を感じたのは二人目だと。……一人目の【親】とですよ。あの時も……こんな涼しい夜の事でした」

 ヴェンが少し寂しげに笑う。

「ふうん。その一人目の人ってのは、あんたのなんなんだい?」

(そして、私はあんたのなんなんだい?)

「大事な人ですよ。私にとって、かけがいのない人です」

 イエムは決心した。自分の澱みを吐き出すことを。

「……今から私がする話を聞いてくれるかい? たぶん、あんまり気分のいい話じゃないと思うけれど」

「ええ。構いませんよ」

 ヴェンは穏やかにそれを受け入れた。イエムは淡々と語る。

「わたしは【蛮族】の【巫女】だって話はしたよね。その話さ。トラントでミンス……あの男と闘ったとき、あんただって聞いてただろ?」

 イエムはそこまで話して、隣を伺う。ヴェンは穏やかに見つめているだけだ。この青年は面倒なことを何も言わないで、黙って聞いてくれるようだ。酷く臆病になっている自分に気が付く。

「自分で言うのもなんだけれど、私も昔は普通の女の子だった。同世代に、特に身近にさ、5人の男の子がいてね。そいつらとしょっちゅう喧嘩したり、遊んだりしてた。私は一族の中では頭の出来がよかったから、次期族長だって、期待もされてたし、それに応えるつもりだった。でもね、私が14のとき、いきなりさ。両親に、お前は【巫女】だって言われて、牢屋に放り込まれた」

 悲しい思い出。あの時の両親の、恐怖と絶望に引きつった顔を忘れることはできない。そう、次の【巫女】の出現を遅らせる為だけに、無為の時間を生かされると決められた瞬間の。

「以前言っただろ? 【巫女】は一族を統べるって。あれね、半分は本当で、半分は嘘なんだよ。一族では時折、一人だけの特殊能力者が出る。だけど、すぐに投獄されて、そこで一生を終える。できるだけ長いこと生かされた上でね。呪われた【巫女】の血を絶つためさ。……たぶん、怖いんだろうね。同族に理屈抜きで飛び抜けた存在がいるって事が。でも、中には、そこから脱獄したり、事情があって投獄されなかったりして、一族に復讐したり、支配、君臨したりする奴もいた」

「貴女もその一人なのですか?」

 初めて、ヴェンが口を開いた。青い瞳でイエムの顔を見つめる。イエムはさらに話を続けた。

「いや……私の場合はちょっと違うよ。私はその時はまだ、ただの女の子だったんだよ? 訳も分からず、泣いてばかりいたさ。きっと何かの勘違いだって。でも、いつまで経ってもそのままだった。

 それで、牢屋に放り込まれて2年くらいしたときかな? その5人の幼なじみが牢に潜り込んできた。その時の私の気持ちが分かるかい? ああ、やっぱり勘違いだったんだって。これで元に戻れるんだって思ったさ。……半分は正解だったけどね」

 裏切り。いや、おそらくはもっと前から裏切られていたのだろう。あのとき、先導していたのは、さて、誰だったか。

「きっと、最初は私を助け出すつもりだったんだと思う。だけど、すぐに目的が変わった。私は5人に犯された。で、目的を遂げた5人はさっさとトンズラしちゃったのさ。牢の鍵も確認しないでね」

「……」

「意外と立ち直りは早かったと思うよ、自分でも。まっとうな青春を送ってなかったから、犯されたってことの意味がよくわかってなかったのかもしれないね。で、茫然自失から立ち直った私が最初にしたことは、牢を抜け出して、一族に復讐することだった。なんで、2年間も我慢してたんだろうってくらい簡単だったね。特に両親は最高だった。それぞれ馬と交わらせたまま縛り付けて、谷から突き落とした」

 クククと笑う。きっと今の自分はひどい顔をしているだろう。醜悪な姥の顔だ。

「で、一族をあらかた殺し尽くしたときに気が付いたね。あの5人がいないじゃないかって。それと同時に、5人がどこで何をしてるのかがわかることにも気が付いた。【巫女】は、交わった相手と心を通じることができるって話を思い出したね。それで、追いかけることにした。……あとは、あんたの知ってるとおりさ」

(ああ、なんでこんな話をしてしまったんだろう)

 泣き出して、叫びながら走り去りたい気分だ。隣の青年の顔を見ることもできない。

「それで?」

 優しい声。

「それだけさ……」

 沈黙。ややあって、ヴェンが口を開いた。

「あと一人。それが片付いたらどうするのですか?」

「……どうもしないさ」

「私達と一緒に来ませんか?」

 驚き。これだけ凄惨な話を聞けば、この青年も離れていくのかとも思っていたのに。

「駄目だよ。あんた達とは行けない」

「……サリアさんのお話ですか?」

 彼がこちらを向く。穏やかで、優しげで、悲しげな顔。昏いが、澄んだ青い瞳。

「やっぱり……気が付いてたかい。……あんた達兄妹は幸せになんかなれやしないよ。勘が良すぎるんだ。好事に気が付くより先に、凶事に気が付いて、それに惹かれてしまうんだ。ああ、それは正しいことさ。強く生きようとするならね。だけど、それじゃ駄目なんだよ!」

 ついに涙が出た。止まらない。

「あの人が話してたよね。【力】の在り方。【魔人】の在り方。あまりにも一致しすぎてると思うだろう? 【巫女】と【魔人】がさ」

 強力な能力と、危険な破壊衝動。血族から選ばれ、突然起こる【力】の発現。あまりに似すぎている。偶然の一致では片付かない。その部分のサリアの話は、難解なものではなかった。イエムはわからないふりをしていただけだ。できることであれば、わかりたくなどなかった。

「私はね、多分、【魔人】なんだよ。すこし毛色が変わってるけどね」

「それがどうしたのです?……なんてことは言いませんよ。そのことの重大さくらい、私にだってわかります。言いたくはないのですけれど……」

 ヴェンはそこで一旦言葉を切った。しばらく黙ったあと、覚悟を決めた様に話を続けた。

「貴女が狂死するのは、時間の問題なのでしょう? 貴女は水の抜き方を知らないのですから。発現した【巫女】は、多くは短命に終わる。違いますか?」

 【巫女】は【魔人】の如き力を振るう事はできない。せいぜいがちょっとした怪力と、少し変わった能力だけだ。爆発の危険に晒されながら、やがて訪れる破綻の時を待つことになる。しかもイエムの場合、5人の仇による狼藉がある。その器には大きな亀裂が入っているだろう。

「まったくイライラするね! 言っただろう? あんたは勘が良すぎるって。ああ、ムカムカする! 私はこの怒りをぶつける場所を、隣に座ってる兄さんしか思いつかないね!」

「よろしいですよ。お好きになさっても」

 ヴェンはそう言い切る。二人の目が合う。澄んだ、綺麗で、昏い瞳。そこに蒼が在る。金が在る。

(ああ、私はこの瞳に惹かれたんだね。私はこの子の持つ、巨大な【運命】という火に惹かれた哀れな羽虫ってことだね。……羽虫は火に焙られて焼け死ぬんだ)

 まさにこの時、イエムは自分を諦めたのかもしれない。

「ふふふ、やめておくよ。……そう、あんたの言うとおりさ。発現した【巫女】は短命に終わる。理由は今まで知らなかったけれど、多分、あの人の言ってたことなんだろうね。だとしたら、私も例外じゃあり得ないさ。ましてや、私は色々あったからね。いつ限界になってもおかしくないんだよ。一人で死ぬならまだいい。だけど、あんた達と一緒じゃ、きっと巻き込む。それはしたくないんだ」

(ああ、だから『焦ってる』のか、私は。……でも、何に?)

「ふふふ……。私の話ってのはこれだけさ。今度はあんたの話が聞きたいな。……あんた達、何者だい? 只者じゃあり得ないって思ってるんだけどね。少なくとも、ただの仲のいい【式使】兄妹ですって風には見えないよ」

「お断りします。私達の事は、私が死ぬことによって永遠の秘密になる。私はそう決めています。よって、お話しすることはできません」

 ヴェンはとりつく島もない。だが、イエムも怒りは感じなかった。逆に、喜びさえ感じた。

「ああ、やっと、あんた達に惹かれた本当の理由がわかったよ。あんた達は私の同類なんだ。自分の内にとんでもないものを隠し持ってる。それを他人に知られることに怯えてるんだ。違うかい?」

「……その通りかもしれませんね」

 沈黙。長い、長い静寂。それを破ったのはイエムの方だった。

「一つ、頼みがあるんだ。いいかい?」

「なんです?」

「抱きしめていいかい?」

「……よろしいですよ」

「ありがとう……」

 イエムは向き直ってヴェンの身体を抱く。ヴェンも手を背中に回してくれた。体格はむしろ、イエムの方が大きい。

「あんたの身体は暖かいね……。ふふふ……こんな気持ちになるのは10年ぶりくらいだね」

 【巫女】だと告げられる前。幸せだった時代。失われた時。

「私は初体験ですよ」

「……忘れてるだけさ……あんたはね」

 そのまま長い間抱き合った。もう、冬の息吹がそこまで迫っている。北風はもはや凍りつくほどだ。それでも、互いに寒さは感じなかった。

 どちらが言い出したわけでもなく。静かに口づけを交わす。

「……いいのかい?」

「……」

「私に関われば、もう、無関係じゃいられなくなるんだよ? 私は【巫女】なんだから」

「それはこちらの台詞でしょう? このまま許せば、私に無関係でいられなくなる。それでもいいのですか? 私は得体の知れない化け物なんですよ?」

「はははは、やっと認めたね。……私と同類だってさ…………嬉しいんだよ」

「私もですよ。イエムさん」

「傷の舐めあいっていうのかもしれないよ。……こういうのは」

「私は一向に構いませんよ。私は……貴女を愛したいんです」

「私もさ……」

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