第六話 炎華の輪舞

 実を言えば、イエムには期待があった。この山には、彼女の感覚をもってしても、奇妙に不透明な地域があったのだ。二人はその辺りを重点的に捜してみることにした。

「駄目ね……それらしいものは全然ないや」

「うん。そうだね。……これは私の勘違いかな?」

 その期待は外れたようだった。かなりの時間歩き回ってみたが、それらしいものは何一つ発見できなかった。

「……もう暗くなってきちゃったし……一回戻ろうよ。義兄さん達が来てるかもしれないし」

「そうだね。ほらほら、足下に気をつけて」

――それにしても、この少女はタフだ。10歳やそこらの都会育ちの子供が山中を歩き詰めだというのに。だが、それもそろそろ限界のように見えた。

「おぶってやろうか?」

「……い、いいよ。遠慮しとく」

 照れくさいのだろう。ティフは慌てて首を振った。しかし、イエムはティフの小さい体を無理矢理抱え上げてしまう。

「ほら。子供が生意気言わないの」

「もう……わかったわよ。ありがと」

 抱え上げられたティフは背中で大人しくなった。やはり、相当に消耗しているようだ。イエムはその状態で再び歩き出した。彼女にとって、子供一人くらいは重石にもならない。

「ねえ? イエムはさ、なんでこんなに優しくしてくれるの? 私達を見捨てて逃げても、誰も文句は言わないはずだと思うんだけど」

「……さっき言ったろう? 【運命】ってものがあるって。あんた達にそれを感じたんだよ」

「?」

「あんた達から……そういうものを感じたんだよ。きっと、いろんなものを巻き込んで、たくさんの人を巻き込んで、いろんな事をするんだろうって確信だね。私には望むべくもないことだよ。私は多分、なにもできずに、情けなく死んでいくんだと思う。そういう【運命】だからね」

 イエムの口調に自嘲的なものを感じたティフは、慌ててそれを否定した。

「イエム……そんなことないよ。きっとイエムはなにか意味のあることをすると思う。空しくなんか無いよ」

「ふふ、ありがと。でも、それが良いことかどうかわからない。本当はね、人は静かに幸せに暮らすのが一番いいんだ。それが自然な姿ってもんさ」

「……【運命】なんてものは、私には無いよ。もちろん、立派な式使になれたらいいなって思ってるけどね。たぶん、適当に生きて、適当に死ぬんだと思う」

(こんな娘は幸せになんかなれやしないだろうね。やっぱり……悲しいことだね)

 自分の今の顔を見せたくなくなって、イエムは正面を向いた。声は平静を装ったが、わずかに震えたかも知れない。

「それは自分を過小評価してるねえ。まあ、それはおいといてだ。とにかく、私としては、その時のために恩を売っておこうって思ったのさ。『私がここまで来られたのは、あの時会った一人の女性のおかげだ』って思わせたいんだよ。それだけさ」

 背中でプッと吹き出すティフ。

「ふふふ。青田買いってわけ? やっぱりおもしろいわね、イエムって」

「ははは。いいじゃないか。……いいかい? あんたはまだ子供だ。これからも、いろんなものを見聞きすると思う。そのことを、死ぬまで覚えておくんだ。それは絶対役に立つ。……いいかい? どんな些細なことでもだ。あんたの【運命】が明るくあるようにね」

 そうして歩き出そうとしたとたんに、ティフが妙な声を出した。

「……んんん?」

「どうしたんだい?」

「ごめん、ちょっと降ろしてよ」

 言われて降ろしてやると、しきりにかがんだり背伸びしたりしている。

「ご、ごめん、もう一回背中に上げて貰って良い?」

 もう一回背負ってやると、背中の上から、じっと一方向を睨み付けている。

「降ろして」

 降ろしてやる。

「何かあったのかい?」

「んん……あったというか、無かったと言うか、なんだろう? これ、【式】なのかな? なんだか、変な感じが……」

 そんなことを言いながら背伸びをしているティフを後ろから抱えて持ち上げてやる。

「やっぱり、これ、【式】だ。目の高さで見えるものが違うよ」

「ほう! 大発見じゃないか」

「でもね、【式】の痕跡があるってだけで、何もないんだよ。何だろう、これ」

 言いながら、ティフは虚空に手を伸ばす。

「よくわかんないけど、解除してみるね、ちょっと目を瞑ってて。たぶん眩しいから」

「気をつけておくれよ? 私は【式】のこととなると何もできないんだから」

 言いながら目を瞑る。【式】となるとこの子に任せておくしかない。

「大丈夫、光操作系は得意なんだから、私……えっと、これかな」

 ティフがそう言うなり、目映い閃光が瞼を白く染めあげた。光が収まるのを待って、目を開けてみれば、目の前には小さな祠のようなものが現れていた。びっしりと得体の知れない文字が刻み込まれている。

「こりゃあ、どうしたことだい?」

「これが先生の言ってた【陽】の【結界】だっていうのかしら? いままで気が付かなかったのは、【式】で光を操作して隠してたからみたい。……凄い技術」

 【式】によって光線を操作し、視界から消していたのだ。技術的な事はともかく、極めて大規模な【式】によるものだということはわかる。イエムは驚愕し、ティフは感嘆した。

「こりゃすごいね……正直、ここまでできるとは思わなかったよ」

「こんなの人間業じゃないよ、スーレイルの総主達にだってできるかどうか……」

「明らかに超上等な【式使】の手によるものってことだね……あんた達の捜し物はこれで間違いなさそうだね」

「うん。ねえ、入ってみようよ」

 二人で中に入っていく。ティフはいままでになく興奮しているようだ。無理もない。敬愛していた、父親も同然だった先生の死因がわかるかもしれないのだ。

 祠の中は半地下の小さな部屋になっていた。狭い部屋なのだが、異常に明るい。目を細める必要があるくらいだった。見てみれば、天井に空いた天窓からの光によるものだとわかったが、それだけにしては明るすぎる。【式】が関与していると見て間違いないだろう。その光は部屋の中心のテーブル、その上の一つの杯に集まっていた。

 大きさは、高さ20cm、直径10cm程度。金属らしい光沢を放ってはいるが、材質は得体が知れない。【式】語による祝福が無数に刻んである。

「これは……もしかして……【陽杯】?」

「なんだいそれは?」

 イエムが初めて聞く言葉だ。ティフが淡々と語るのを聞いた。

「私達【式使】が目指すものは三つあるの。1つ、肉体、生命への関与。2つ、時間遡航。3つ、完全な未来予知」

「どれも実現は難しそうだね」

「昔、それを実現しようとした【式使】がいるんだって。真王建国記に登場する、初代【陽の権】なんだけど。これはその秘宝よ。……うん、間違いない」

「たしか、あんた達の先生は【陽の権】の名を持っていたといったね? これをあんた達に受け継いで欲しかったんじゃあないのかい?」

 確かに、そう考えれば筋は通る。

「これが……先生の……?」

 ティフがそろそろと手を伸ばす。しかし、彼女は誰にも予想できなかった反応をした。【陽杯】を手に取ると、いきなり振り上げたのだ。

「こんなものが?! こんなもののために先生が死んだっていうの?! こんな!」

 今にも地面に叩き付けんばかりだ。イエムが慌てて止める。

「ちょ、ちょっと待ちなよ! 壊すのはいつでもできるだろ。気持ちは分かるけど、落ち着きなさいな。ほら」

 イエムはティフの手から杯を奪い取った。確かに、手に取った杯から受ける印象は、奇妙に弱かった。何の力も感じない。これが究極の秘宝? 見た目は凄そうだが、これではただの骨董品だ。

「先生……先生がなんのつもりだったのか全然わかんないよ。ここまで来て、これ一つ? 義兄さん達ともはぐれちゃったっていうのに!」

 とうとう、ティフは泣き出してしまった。何とも激しい気性の娘だ。

「ティフ……。でも、先生の言いつけを守れたんじゃないか。それに、これを調べれば、なにかわかるかもしれないじゃないか?」

 イエムはなだめようとしたのだが、ティフは首を横に振った。

「ううん。それ、ただの杯よ。まったく、なんの力もないよ。ただ、長い間、ここで陽の光を浴びてたってだけ」

「嘘だろう? こんだけ大がかりなもの作って?」

「本当よ。【式】の触媒にもならないよ、そんなもの」

 ティフはぽつりぽつりと話し始めた。

「……私はね、この秘宝の話が本当ならね……先生を生き返らせたり、過去に戻って、先生を助けられるって思ったのよ。なのに……こんなのって……ないよ」

 失われたものは永遠に戻らない。ティフは絶対不可逆なものへの反抗を夢見たのかもしれない。哀れというには、あまりにも胸を打たれる光景だった。

「さ、行こう。兄さん達を見つけて、家に帰るんだ。いいかい?」

「うん。わかってる。……行こ」

 そのまま二人は外に出た。あとは義兄達を見つけて、家に帰るだけだ。


 しかし、外に出た二人を待ちかまえていたのは、多数の武装兵だった。

「なにこれ? ……あんた達、誰?」

「……どっちの兵隊さんなんだい?」

 宰相派か領主派か。その疑問はすぐ解けた。宰相リーリンバロス・メッセナの姿――イエムもティフも、彼の顔を知っていたわけではない。名前さえ知らない。服装でそう判断しただけだ――があったからだ。首謀者自身がこんなところにいるからには、どうやら叛乱には成功したらしい。

「さあ、そこで手に入れたものを渡してもらおうか」

 どうやら、祠を隠蔽していた【式】が解除されたことで、トラント市街からも丸見えになってしまったようだ。これだけの光量を持つ建築物だ。夜の街からは、さぞかし目立っただろう。いらぬ人の目を引いてしまったようだ。

「……こんなもの、何に使うのよ」

「おお、それが【陽杯】か! そうだ。よこせ」

 世界の理を制するといわれる究極の秘宝が目前にあるのだ。宰相は興奮を隠そうともしない。

(なんで、こんな男が【陽杯】を知っているのだろう?)

 イエムの頭の中を警鐘が鳴り響く。しかし、謎を解く鍵が明らかに足りない。

「嫌よ。これは先生の言いつけで取りに来たものだから。家に持って帰る」

「ティフ……」

 イエムがそれを制そうとした。ティフとてわかっている。ここから自力突破できるなどと思ってはいない。だが、感情が理性を上回っていた。子供じみているのかもしれないが、とにかく、絶対に、イヤだ。

 しかし、ティフは宰相の言葉を聞いた瞬間に敗北した。いともあっけない敗北だった。

「大人しく渡すんだ。……それとも、兄達がどうなってもいいのか?」


  結局、二人は【陽杯】を取り上げられて、牢に放り込まれてしまった。牢にはヴェンとリアの姿があった。

「義兄さん! ……大丈夫なの?」

「ああ、ティフ、それにイエムさん。すいません、足を引っ張ってしまいました」

「いいんだよ、そんなことは。怪我は?」

「体の節々は痛みますけどね。なんとか」

 ヴェンは少々痛めつけられはしていたが、骨折などはしてないようだ。それに、リアはほぼ無傷だ。彼らはそれなりに紳士的だったらしい。その姿を見て、イエムの脳裏に一つの懸念が浮かんだ。

「あんた……まさか。私の言いつけを守って?」

 殺してはいけない。イエムはそう説いた。その魂を健全に保つ為に。

「……ふふふ、それは過大評価ですよ、イエムさん。どのみち、敵が多すぎて戦うどころじゃなかったですから」

 本当にそうだろうか? とてもそれだけとは思えない。そう思った瞬間に思わず、イエムはヴェンを抱きしめてしまった。

「よかったよ。みんな無事でさ……。本当によかった」

「い、イエムさん。……周りが見てますよ」

 ヴェンは赤くなっている。さすがに、これは照れる。イエムも照れを隠しながら身を離した。

「あ……。ははは、すまないね。……あれからどうなったんだい?」

 ヴェンが経緯の説明を始めた。

「貴女達とはぐれてから、私達もあの山に入ろうとしたのですけれど、宰相派の兵士が集まってきてしまったので、身動きがとれなくなってしまったんです。それでも、日が落ちて暗くなってくれば、なんとかなると思ったのですが、急に、山から光が漏れてきまして」

 ちょうど、ティフとイエムが祠に入った頃だろう。解けた光学迷彩が、そのままスポットライトになってしまったとは、少々運が悪かった。

「それじゃあ、山には入ってないんだね?」

「ええ。その手前で捕まってしまいましたから。それで、山中には何かあったのですか?」

「うん。たぶん、先生の言ってたものだと思う。【陽杯】があったよ」

「【陽杯】ですって!?」

 ヴェンは驚きを隠せなかった。まさか、それほどの秘宝がこんなところに存在しているとは思ってもいなかったのだ。

「宰相は妙にあの山に固執していましたから、余程の理由があるのかもしれないとは思いましたが。そんなものが……。先生はそれを言いたかったでしょうか?」

「あったのはいいんだけどね。どうも、ただのガラクタらしいんだよ、それ」

 ティフから取り上げたときに、イエムも手に触れている。確かに、これといった何か特別な【力】は感じなかった。ほんのりとした残り香のようなものは感じられたけれど。ティフの言うことに間違いはないだろう。

「ガラクタですって?」

「うん。ただの骨董品よ、あれは。秘宝ってのは嘘だと思う。そうでなければ、偽物かもしれないけれど」

「偽物のために、あれだけの設備を作ったというのですか? ……なにか違いますね。先生の意図が、ますますわからなくなってしまいました」

「宰相があの山のことを知ってたって事も変だね」

 街人は誰一人そんなことを知らなかったこと、【陽杯】のことを宰相が知っていたことなどを簡単に説明した。なるほど、何者かの見えざる手が存在していることは間違いなさそうだ。

「この件はおかしなことが多すぎますね」

 確かにその通りだ。だが、今は、その見えない第三者を捜す以上に、やらなければいけないことがある。

「……それより、これからどうします?」

「あれを取り返して、ここから逃げ出す。当たり前でしょ」

 ティフは即答した。ただし、途中経路の全てが省略されていたけれど。

「……あんたが正直者だってのは、私も重々わかってるつもりだけれど。後先考えない言動は慎んだ方がいいと思うよ? どうやって? いくらなんでも、ちょっと無茶だと思うけどね」

 イエムの口から、ため息が漏れる。ヴェンも同様だ。この少女がこういう気性の持ち主だとはわかっているのだが。

「それより心配なのは、あれがガラクタだとわかったときのあいつの行動だよ。あいつが叛乱を起こした理由もわかってないんだよ?」

 自由国境域の領主というものは、一部を除いて、みな歴史が浅い。組織の充実という点では真王国に及ぶべくもない。ゆえに、このような事件はしばしば起こったが、今回は少々事情が違う気がする。

「まさか……あれが目的だっていうの?」

「そうと断言はしないけれどね。こんなドタバタしてるときに、大将御自ら山の中まで出張って来たわけだし、期待してた可能性は高いね。なんにせよ、行動を起こすなら早いほうがいいよ。やっこさん、今頃は王様になったつもりになってるかもしれないんだから」

 どんな無茶をしても、【陽杯】さえあればどうとでもなる。そんな幻想を抱いていたとすれば、今頃はどんなことになっているか、想像に難くない。偽物をつかまされたと思い込んで、自分達を拷問にかけるくらいはしでかしかねない。

「とにかく、あいつからあれを取り戻して、逃げる。まずはここから逃げ出すのが先よ」

「だから……!」


「おいおい、あんまり笑わせるな……っくっくっ」

 言い争う三人に、いきなり男の声が掛けられた。三人で顔を見合わせる。

「ククククククククククク………」

 笑っている。心底可笑しくて抑えきれないといった声だ。向かいの牢から聞こえてきている。

「誰?」

「やっぱ面白えよ、お前は。最高だ。ここ数年で最高の出来だな。ッククク」

 誰だろう? 随分とガラが悪そうな男だ。自分達の誰かの知り合いだろうか?

「いいよ。お前。俺が手伝ってやる」

「誰です?」

「ハハハ、そっちのチビども以外とは初対面だなぁ」

「あっ! あなた……船で一緒だった……」

「そうさ。久しぶりだな、元気のいいちび」

 ガラの悪い口調。オレンジ色の髪。青い瞳。蜘蛛を連想させる体つき。

「カーツォヴじゃない! なんでこんなところにいるのよ!?」

「おいおい。まるで俺はここにいちゃいけないみたいじゃねえか」

 カーツォヴは呆れたような口調でそう応えた。

「ディオールに聞いたよ。あんた【魔人】なんでしょ?」

「【魔人】ですって?」

 ティフの言葉を聞いたヴェンが警戒を露わにする。この期に及んで、よりによって【魔人】などというものが登場するとは。

 そんなティフ達を見て、カーツォヴが肩をすくめて手を広げてみせる。

「おいおい、そりゃあんまりだろ。せっかく、海の上では助けてやったってのに。俺がいなかったら、お前らは海の藻屑だったんだぜ? 恩を売るつもりはないが、さすがにそりゃあ、寂しいなあ」

 その通りだ。あの絶望的な戦力差を埋めたのは、ディオールとカーツォヴだ。【魔人】というだけで、他人に対する偏見を持ってしまった。恥ずべき事だ。ティフは素直に反省した。

「……ごめん」

 そんなティフを見て、カーツォヴはニヤリと笑った。不思議と、嫌らしさは感じなかった。

「いいんだよ。こういうのには慣れてるからな」

「ごめん。本当にごめん。そうだよ、助けてもらった恩人なのに……」

 ティフは手を合わせて頭を下げた。それを見て、カーツォヴは再び笑い出した。

「ハハハ、ちび、おめえは面白いだけじゃなくて、いいやつだな」

「私も、失礼をしました。義妹達を救っていただいたそうですね。礼を言います」

 ヴェンもそれに倣う。

「おめえがこいつらの兄貴かい? ……ふーん。で、そっちがおめえの女だな?」

「ちょ、ちょっと。変なことは言わないでください」

「隠さなくても良いのによ。まあいいさ。お前らはここから逃げ出したいんだろ? 俺が手伝ってやるよ。いい加減、退屈してたんだ」

 さらっと、こともなげに言う。たしかに、カーツォヴが行動を共にするのならば、脱出は可能だろう。たった一人で軍船を沈めて、無傷でいられるような男なのだから。

「ちょっと待ってよ。あんた、【魔人】なんだろ? なんでこんなところにいるのさ?」

 【魔人】ならば、こんなところで捕まっている必要など無いはずだ。そもそも、確か北の方のなんとか山だったかに行ったのでは無かったのか? ダウ港で別れるときに、そう聞いた気がする。

「クルクから降りてくるのに思ったより手間取ってな、実際、俺がここにいるのはつい昨日からなんだがね。ここなら、雨が降っても寒くない。とりあえず飯もくれる。いいじゃねえか。それより……いや、まあいい。お前らの事情は、さっきの話で大体わかった」

「聞いてたの?」

「聞こえてた、のさ。内緒話ってのは、もっと小さい声でするもんだ。あんな大声で脱獄の相談を始める連中も珍しいな」

「……反省します」

 言い争う声が大きなものになっていたことには自覚があった。

「ま、それはおいといてだ。おめえらの事情は大体わかってる。あの忌々しいゲスのクソ領主をブチ殺して、お宝を取り戻す。そんで手に手を取って愛の逃避行というわけだ」

 もしかしたらとは思っていたが。この男、デタラメだ。

「どこがわかってるのよ……。全然違うじゃないの。だいたい、敵は領主じゃなくて、宰相のほうよ。叛乱があったって言ったでしょ。肝心なところは聞いてないんだから」

 単細胞というわけでもなさそうなのだけれどなあ、と自分のことを棚に上げつつ、ティフの口から、ため息が漏れる。

「なんだと? ……あの宰相がか? ふーん……よし、わかった。どうやら、ますます協力してやる必要があるらしい。こちらとしても、確認しにゃならんことができた」

 カーツォヴの表情が俄かに引き締まる。ヘラヘラした惚け兄貴の顔から、戦う人間の顔に変わる。一抹の軽薄さを残したままなのは、実はちっとも緊張などしていないからに違いない。

「協力してくれるというのは助かりますけど……具体的にどうするつもりなんです?」

 この男なりの目的があるのだろう。その目的が一致したというのであれば、今はこの男を信用するしかないだろう。裏切られるとは思っていないが、不安だ。彼が信用できないのではなく、彼の思考回路が信用できない。

「そうだな……うーんと……よし、こうしよう」

 カーツォヴは腕を組んでしばらく考えていたが、どうやら考えがまとまったらしい。そんな仕草も軽薄に見えて、より一層の不安が募る。

「とりあえず牢破りからだな。それで、俺と……よし、ちび、お前だ。お前と俺とで上まで行ってお宝を取り戻す。それと同時に、兄貴どもはここを出ろ。そうだな、南門がいい。そこから街の外に出て、道の脇にでも隠れてろ。すぐ追いつく。よし、完璧だ」

 頭痛がする。短絡思考の度合いでは、常人を遙かに凌駕しているとしか思えない。

「どこが完璧なのよ!? 穴だらけじゃない!」

 牢破りの方法、宰相までたどり着く方法、ヴェン達に追いつく方法。少しも考慮されていない。この錠前くらいはどうとでもなるが、そこから先が成り立たない。

「いいから任せろって。今なら外も暗い。外に逃げちまえばどうとでもなるな。よし、始めるぞ」

「だから! どうやって……ええ?」

 何事でもないかのように、牢の扉を開くカーツォヴ。なんと、そちらの牢には鍵がかかっていなかったらしい。すんなりと開いてしまった。

「さて、行くぞ」

 カーツォヴはそう言って自分の牢を抜け出ると、今度はティフ達の牢も開けてしまった。こちらの牢には、間違いなく鍵がかかっていたはずなのだけど?

「え?……鍵、開いてました?」

 リアを除く三人はぽかんとしていた。何が起こったのか理解できない。

「ほれ、早く出ろよ。見張りが来ると面倒だ」

「あ、はい……じゃなくて、どうやって開けたんです?」

「ほれ」

 カーツォヴの手の中には錠前があった。ひどく変形してはいたが。

「もしかして、毟り取ったの?」

 【魔人】については、ディオールに少し話を聞いた。つまり、この男が「扉を開けたい」と思ったことによって、錠前をねじ切ってしまったのだ。特別に力を込めたようにも見えなかった。やはり、とんでもない。

「そうだ。ほれ、はやくしろよ。……チッ、見張りが来やがった」

 足音が聞こえる。ちょうど見回りの時間なのだろう。三人組のようだ。

「お前ら、武器は使えるか?」

「私達は【式使】よ。それが武器。それに、イエムはもともと武器を使わないわ。でも、凄く強いんだから」

「だろうな……なら問題ねえな。では、作戦開始とするか!」

 そう言うなり、カーツォヴは、自分が先程まで入っていた牢の鉄格子の扉部分を、引き千切って投じた。やはり、何か力を加えたようには見えなかった。机の上に置いてあった果物でも放ったような気軽さだ。

「な、グッ、ギャアア!」

 向こうの方から悲鳴と、重い物が落下する音が聞こえた。彼らとて、まさか数十キロはある鉄格子が、空を飛んでくるとは夢にも思わなかったに違いない。

「ほれ、いくぞ」

 カーツォヴは後ろも見ずに駆け出してしまう。四人は慌てて後を追った。

「やっぱ、凄いねえ。……こりゃ大丈夫じゃないかって気がしてきたよ」

「私もですよ。……いやはや」

 安心とか信頼とかいう言葉とは、また少し違う気もするのだが。とりあえずは、4人にとって頼もしいことこの上ない。

「な、貴様ら! くそ、牢破りだ!」

「どけよ!」

 カーツォヴが先ほど毟り取った錠前を投げた。それは信じがたい速度で兵士の胸元に命中し、鉄鎧と体を突き破り、向こうの壁に食い込むまで止まらなかった。壁に蜘蛛の巣状の亀裂が入る。さらに、もう一人の兵士の胸倉を掴みあげると、上に向かって投じた。その兵士の身体は轟音をたてて、天井に真っ直ぐ突き刺さった。さらに走る。牢と城内を繋ぐ鉄扉を蹴飛ばす。扉はそのままの姿勢で後方にすっ飛んで行って、外にいた三人の兵士を巻き込んだ。

「ほれ、片付いたぞ」

「……非常識だ。あり得ない……」

 場が許すならば、頭を抱え込んでいるところだ。【魔人】を甘く見ていたかもしれない。とりあえず、味方で何よりだ。敵に回して勝てる相手とは到底思えない。

「そんなことはどうでもいいってことだ。これから、俺とちびで上に行ってお宝を取り戻して来る。おめえらは、その間に南に逃げて隠れてろ。すぐ追いつく」

「……わかりました。そのようにしますよ。貴方を信用するしかなさそうですから。ただ、どうしてもというときには、ティフの安全を優先してください。それが約束できぬのであれば、従うことはできません」

 この際、カーツォヴを信用するしかないが、ヴェンもこれだけは譲れない。100や200の敵兵相手に負けたりすることはないだろうが、ティフを省みないで突き進む可能性はある。

「……おめえもいい兄さんだな。よし、わかった。約束はしねえが、努力する」

「ありがとうございます。では、お願いします」

「こっちから行け。外はまだ混乱してるだろ? 外にさえ出れば何とでもなる」

「助言、ありがとうよ。じゃあ、頼んだからね」

「……行け!」

 3人は扉から走っていった。それを見送るカーツォヴとティフ。

「さ、こっちはこっちの仕事を片付けようや」

 一抹の不安を感じないでも無かったけれど。

「うん、わかった!」

 それでも、ティフは元気よく応えた。


 二人で駆け出す。カーツォヴは走る速度をティフに合わせてくれているようだった。見かけによらず、親切な男らしい。

「ねえ、さっきさ、こっちにも用事ができたって言ってたでしょ。あれってどういう意味なの?」

 ティフとしても、今のうちに話を聞いておきたかった。

「ああ、そのことか。俺がクルク山まで行くって話は覚えてるか? あそこには俺が捜してる物の一つがあったはずなんだが」

 ダイクの港で別れるとき、確かにそんなことを言っていた。ティフもそれは覚えている。

「それで?」

「行ってみたはいいが、既に持ち去られた後だった。で、聞くところによると、トラントの関係者だっていうじゃねえか。慌てて戻ってきたのよ」

「まさか、牢に入って機会をうかがってたの?」

「はははは。その通りだよ。ちょっと酒場で喧嘩騒ぎ起こしてやってな。いや、おめえはちびなくせに頭の回転が良い。きっと出世するな。それで、お前らの話を聞いて、大体のつじつまが合ったってわけだ」

「宰相が【陽杯】の事を知ってたことと、いきなり叛乱を起こしたこと?」

 叛乱を起こすには、最適の時期だったとは言い難い。傭兵を集めて戦争準備を行っている最中の出来事だったために、街中の混乱が広がりすぎたのだ。結果的には成功したようだが、体勢を立て直すには時間がかかるだろう。それまでに他の領主に攻撃されない保障はどこにもない。あまりに無謀だ。あの宰相にどれほどの勝算があるというのだろう? あの【陽杯】をあてにしていたというのであれば、これは失笑ものだ。

「そうだ。っとぉ。どきやがれ!」

 目の前に二人の兵士の姿があった。哨戒中だったのだろう。カーツォヴは彼等の身体をひっつかむと、窓から無造作に投げ捨てた。凄惨な悲鳴が尾を引いて、消えた。

(なんでまあ、この人達は、こう簡単に人を殺すかな?)

 ディオールやイエムも敵を倒すことにまったく躊躇しない。戦士というものは、ある水準を超えるとみんなこうなのかもしれない。もっとも、ティフの周りにたまたま特異な人間が集まっているだけかもしれないが。いや、多分そうだろう。そうであって欲しい。

「でだ、俺が捜してた物を宰相が手に入れたのだとしたら、ちっとは気がでかくなってもおかしくないってことだ。……オラッ」

 今度は壁を軽々と蹴り抜いた。騒ぎを大きくすれば、その分だけ、義兄達が無事に逃げ延びる可能性が高くなる。そのことを考えての行動――な、わけはないだろう。面倒くさいだけに違いない。

「その、捜してた物ってなんなの?」

「お前は知らなくていいものだってことは間違いねえやな。俺に【陽杯】とやらがなんの役にも立たんってことと一緒だ。……話は後にしろ。忙しい」

 忙しいのはわかる。だが、ティフはこれだけは聞いておきたかった。

「最後に一つだけ。なんで私達を助けてくれるの?」

「言ったろ? 退屈してたからだ。あとは、おめえらに興味が沸いた。それだけだ」

――どこかで聞いた言葉だった。


 二人はその後も快進撃を続けた。いや、怪進撃と呼んだ方がいいかもしれない。城内は壁を破壊されるわ、天井や床に大穴があくわ、兵士の死体は増える一方だわで大騒ぎだ。叛乱直後のために、城内が混乱していたことを割り引いたとしても、たった二人――というよりも、実質は男一人――だけでできることではあり得ない。

 二人はとうとう領主の部屋までたどり着いた。ここまで、共に無傷だ。

「さ、宰相閣下はここだな。臭い飯を食わしてくれた礼はしなくちゃあなあ」

「あんたは自分で牢に入ってたんじゃなかったっけ?」

 ティフがカーツォヴの冗談に突っ込みを入れる。ある意味、この二人の相性は良い方のようだ。

「それとこれとは話は別さ」

 カーツォヴが扉を毟り取って後方に捨てた。「この男は扉を開ける」という動作を知らないのかもしれない。通り道の扉は全て同じ末路を辿っていた。錠前も蝶番もあったものではない。

「わあ! だ、誰だ!?」

 中には案の定、宰相――新トラント領主と呼ぶべきかもしれない――がいた。彼一人だけのようだ。そうだとしたら、危機管理ができていないといえる。もっとも、護衛の兵士が何人居たとしても、状勢になんら影響はなかっただろうが。

「な、ななななんだ、お前達は……兵士どもはどうした?」

 宰相は情けないほどに狼狽えていた。いっそ、憐れですらある。所詮、自分の実力でもって築いた地位ではないのだ。護衛がいなければ、ただの貧弱な中年男でしかない。

「そんなことはどうでもいいんだよ、閣下。おめえがクルク山の麓で略奪したものを返してもらおうか? あと、このちびから取り上げた物もだ。そうすりゃ、命だけは助けてやる」

 カーツォヴの言葉は、まるで強盗か強請の類だ。だが、それを聞いた途端に、宰相の顔が真っ青になった。

「しししし、しらん、知らない。クルク山ってのは何のことだ? 私は聞いたこともない、知らない!」

「おいおい、嘘はいかんぜえ。おめえは知ってる。お前がそう言ってる。おめえは嘘で一杯だ。俺にはわかるんだよ」

「知らないといっているであろう! ……その娘から【陽杯】を奪ったのは認める。そんなガラクタはさっさと持って行け!」

 やはり、この男にとってもガラクタでしかなかったらしい。やはり偽物か何かなのだろうか? そうだとすると、やはり先生の意志がわからない。

「あんたにとってはガラクタなんだろうけどね」

 ティフは、最初に自分で壊そうとしたことを棚に上げて言う。机の上に放置されていたそれを手に取る。確かにあの杯だ。還ってきた。

「さて、次は俺のだよ。とぼけてんじゃねえ!」

 言うなり、カーツォヴが壁を殴った。すると、壁が一枚まるまる砕けて、この部屋と隣の部屋とが繋がってしまった。

(何度見ても、著しく心休まる光景ね)

「おーおー。欠陥構造だな。どーれ、これはどうかな?」

 さらに柱を蹴飛ばす。かなり太い石の柱だったが、まるで砂糖菓子のように折れて砕けた。

「ひぃー! やめてくれ!」

「さあて、いつまで保つかな? 前からこの建物は背が高すぎると思ってたんだ。下の日当たりが悪くてよくない。俺が縮めてやるよ。きっと、街の連中も喜ぶだろ」

「ま、まて、頼む。やめてくれ。このとおりだ」

 いままで余裕の笑みを浮かべていたカーツォヴの顔が引きつる。

「なめてんじゃねえ! おめえが、祭司を、殺して、盗んだ、【法石】だよ! 早く出しやがれ!」

(ほとんど強盗ね……)

 しかも、凶悪極まりない押し入り強盗だ。

「しらん、そんなものは知らない!」

「てめえ……てめえはやっぱ駄目だ。ここで死ね。あばよ」

 棒読み口調がさらに迫力を引き立てる。カーツォヴから凄まじい敵意が放たれた。味方として側にいるだけでも、その強烈さがわかる。ティフをして、身震いを止められない。これが【魔人】の瘴気というものだろう

「ひぃー! わ、わかった。出す、出すから助けてくれ」

 それを受けて、とうとう宰相が折れた。気絶しなかっただけ立派なのかもしれない。

「最初からそう言えば良いのによ。ほれ、早くしろ」

「ほほほ、本当に、本当に助けてくれるんだろうな」

「ああ、おめえの命に興味はねえ。仇討ちがどうのとか言うつもりもねえよ」

「これだ……」

 懐に手を入れて、なにやら取り出そうとして、その手が止まる。ティフがその手をつかんでいた。

「なんだ、お前には返してやっただろう」

 ぎっと睨む宰相の視線を跳ね返して、ティフは問うた。

「今、貴方、何しようとしたの?」

 もごもごと、宰相が口の中で呟いた言葉を、ティフは聞き逃さなかった。

「なんてこと……貴方、【式使】じゃないの……」

 それだけですべての説明がつく。【式使】ならば【陽】の【結界】や、【陽杯】のことを知っていていてもなんら不思議は無い。

「駄目じゃないの、【式使】がこんなところでっ――」

「退け! 小娘!」

 皆まで言わさず、宰相は大きく手を払ってティフを払いのけた。懐からよく磨かれた宝石のようなものを取りだしながら【式】を起動する。

――まずい

「カーツォヴ、避けて!」

 宰相の手元が爆発した。いや、実際に爆発したわけではなく、閃光が走っただけだ。それでも、二人の目を灼くには十分な光量だった。

 ティフの声を聞いて回避を試みるカーツォヴだが、さすがの【魔人】も光速より速く動くことはできない。光線はカーツォヴの左肩を打ち抜いた。鮮血と共に左腕が千切れ飛ぶ。

「ぐ、おお」

「カーツォヴ!」

「ははははは! 馬鹿め!」

 とどめとばかりに宰相が剣を抜いて襲いかかる。剣は深々とカーツォヴの胸に突き立った。ティフはその光景を眩んだ目で見た。だが、カーツォヴはそれを意に介した様子もない。ただ、その顔から、すっと感情が消えた。

「やっぱ駄目だな、お前。死んじゃえよ」

 宰相の顔面を右手で掴むカーツォヴ。

「ひ、そんな。嫌だ……俺は勝ったんだ。勝ったのに……!」

 カーツォヴの右手がぐいと動いた。宰相は恐慌的な表情を浮かべたまま、真後ろを振り返り、さらに前に向き直った。残念ながら、人間の首には360度回転する機能はない。この男の首がその例外であるはずもなかった。


「やれやれ。やっちまったか」

「……大丈夫なの?」

「ん? ああ、これか? 痛くもねえよ」

 カーツォヴは何事もなかったかのように、自分の胸から剣を引き抜いた。傷も無い。

 手品を見ている気分だ。魔人というものは、皆こうなのだろうか?

「と、言いたいところだが、一発目のはちょっと危なかった。助けられたな」

 千切れ飛んだ右腕を拾ってあてがうと、それで右腕は元通りになったようだ。さすがにノーダメージとはいかず、少々ぎこちない感じだが、行動には問題なさそうだ。

 昔はこんな連中が沢山居たのだとしたら、さぞかし物騒な世の中だったのだろう。ティフは自分の生まれた時代に感謝した。

「さて、お前のお宝は間違いないのか?」

「うん、間違いないよ。それよりあなたは?」

「さっき奴が出したのは、本物の【法石】だったさ。でなければ、あんなことはできんからな」

「ねえ、それってどういうものなの?」

「さっき言っただろうが。おめえは興味を持たなくていいものだ」

 カーツォヴはその石を、それはとても大事そうに絹布にくるんで、懐に収めた。それだけが、この城内で、彼が唯一丁寧に扱ったものだった。

「でも……」

 先程の閃光といい、宰相の態度といい、気にならない方がどうかしている。ティフは好奇心を隠そうともしなかった。そんな瞳で見つめられて、カーツォヴが折れた。しぶしぶという感じで説明をする。

「あー、えーとな……簡単に言うとな、誰にでも【式】が使えるようになるって代物だ」

「ええ! それってすごいことよ!」

 信じられないことだ。それが本当ならば、伝説の【陽杯】に匹敵する宝だろう。そんなものを手に入れた宰相が、なまじ自信過剰になっていたのも不思議ではない。もし【陽杯】がその伝説通りの力を持っていたなら、おそらく自分達がやられていただろう。

「凄いさ。あたりまえだろ。……さ、このことはもういいな」

 カーツォヴの顔に複雑な表情が浮かんだ。それだけの宝だ。なにか裏があったとしてもおかしくはない。ティフもそこまで詮索するつもりは無い。

「さ、行くぞ。おめえの兄さんたちに追いつかなきゃな」


 ヴェン、イエム、リアの三人は城内を脱出することに成功していた。叛乱直後のせいか、兵士の数が少なかったのも味方した。

「さてと……南だったね。できれば北に抜けたいところだけど、さすがに無理かな」

「ええ。行きましょう」

 三人で駆け出す。不意に、上階から大きな音がした。あの【魔人】が暴れているのだろう。

「……しかし、【魔人】てのは凄いねえ。噂には聞いてたけど、あれほどとはね。しかも、思ったより話が分かるじゃないか」

 話に聞いていたよりも、ずっと付き合いやすい。あれなら、自分の同胞の方がよっぽどろくでもない輩ばかりだ。

「彼が特殊なだけな気がしますよ。伝承に登場する【魔人】達はもっと邪悪ですよ」

「ふーん。そんなものかい?」

「ええ、少なくとも、人間に対して『手伝ってやる』なんて言葉は言いませんね。利己的、暴力的、破壊的。非協調と暴走こそが彼らの信条とされていますから」

 ヴェン達の前には、兵士も傭兵もほとんど現れなかった。いたとしても、城内の騒動に注意が向いていて、彼らには無関心だった。指揮系統が混乱していることもあったのだろう。うまく兵士達と火災とを避けながら、何の問題もなく、南門から外に脱出できた。さらに走る。

――だが、無事なのはそこまでだった。俄にイエムの顔が歪んだ。いままで見せたこともないような邪悪な笑みだ。ヴェンの背筋に冷たいものが滑り落ちる。

「……どうしたのです?」

「私ともあろうものが、忘れてたよ。ごめんよ、ちょっとそっちに行ってておくれよ。最初の約束を覚えてるだろ? ……処刑の時間さ」

 約束。イエムには狩るべき獲物がいること、その邪魔を決してしないこと、だ。以前、獲物はトラントに向かっていると言っていた。ヴェンは、イエムにとって、その獲物がどんな意味を持つのかはよく知らない。はっきりしているのは、イエムがその相手を憎悪しているのだという事だけだ。自分達の安全と脱出より優先するほど。

「……お手伝いすべきでしょうか?」

「いい。あんたに毒だ。向こうに行っててくれればそれでいいよ」

「ですが……いえ、約束でしたね。大人しく見ています」

「すまないね、こんなときに。すぐ片付くから、大人しくしていておくれ」


 しばらくして、イエムの獲物とやらが道の向こうから姿を現した。三人連れの男だ。みな、戦士の装いをしている。なかでも、先頭の男の風体は際だっていた。身長は2メートルを軽く超えている。体の厚みもそれにふさわしいものだ。おそらく、イエムの獲物とはこの男のことだろう。

 イエムは道の真ん中に仁王立ちになって待ちかまえていた。その口から、ヴェンが今まで聞いたこともないような笑い声が漏れた。それは、自分の体温が下がっていくのがわかるほど、恐ろしいものだった。

「クククククク、フフフフフ、ハハハハハハハハハァ! 久しぶりだねえ、ミンス。変わってないようで嬉しいよ。元気にやってたかい?」

 言葉だけは普通の挨拶のようだが、同時に凄まじい敵意が放たれている。気の弱い人間であれば、それだけで気死するのに十分だろう。その声に、先頭のミンスと呼ばれた男が顔を上げた。

「ほう……テメエはイエムじゃねえか。こんなところでなにしてるんだ? ん?」

 ミンスはイエムの敵意に気が付いて、一定の距離を取って身構えた。後ろの二人を手で制す。手出し無用ということらしい。そもそも、これから始まるであろう人を越えた戦いに、常人が介入できるはずもない。

「なにをしてるかって? 決まってるだろ。あんたを狩りに来たのさ。言い残すことがあるなら今のうちだよ。はははは」

 イエムの哄笑。ミンスも笑う。

「ははははははは、言うに事欠いてそれかよ。俺はてっきりまたかわいがって欲しくて追いかけてきたのかと思ったぜ。狩る? テメエに俺がやれるかよ」

「やれるんだよ。おばかさん」

 毒蛇じみた不敵な笑みを浮かべるイエム。金の瞳が妖しく光る。

「その根拠のない自信がどこから来るのか、わからんな。いや……テメエが……まさか【巫女】に……? ククククク、そうかい。そうだろうな。それしかねえもんな。……あとの4人はやったのかい?」

 ミンスの顔に、ある種の諦めに近い表情が浮かぶ。

「あとは、あんたとジンウだけだよ」

「……なんで俺の居場所がわかった?」

「あんた達は【巫女】を抱くという行為の意味が分かってないんだよ。なんで、【巫女】が男と交わっちゃいけないのかってことをね。フフフフ、私にはわかるんだよ。あんたが何処で何をしてたのか、全部ね。ハハハハ、だって、あんた達はみんな私の手下なんだからねえ」

 その言葉にミンスは戦慄した。

「……くそったれ。【巫女】はやっぱり化け物だ。【巫女】の血は消さにゃならん、子を作っちゃいけねえ、っていう一族の意志は間違ってねえよ、やっぱりな」

「あんたはなかなか気持ちのいい奴だと思ってたんだけどねえ。あんたは嫌いじゃなかった。でもね、この地上には触っちゃいけないものってものが、確かに存在するんだよ!」

 とうとう、ミンスは開き直った。――覚悟を決めたというべきかもしれない。

「これは久しぶりに楽しめそうだ。いいねえ、一族最強の存在、【巫女】様とサシでやりあえるなんてのは、そうあることじゃないぜ?」

「言い残すことは?」

「ねえよ。……いや、一つだけ聞いておく。……おめえが俺を殺すのは一族の掟のためか?」

「いいや、私怨だよ」

 イエムは迷うことなく言い放った。

「よし。それを聞いておいて良かったぜ。これで心おきなくやりあえるってもんだ」

 ミンスが身構える。背負っていた巨大な戦斧は投げ捨てた。そんなものが通じる相手ではないと知っているのだろう。

「一族の総意に従い、【巫女】の血を絶つ! 俺の名はミンスだ!」

 そんなミンスに感じ入ったか、イエムも応えた。

「一族の掟なんぞ知らないよ。あんたは戦士の誇りを持ってる、それは素晴らしい事だ。だけど私は【巫女】のイエムだ! あんたは私が狩る!」

 互いに名乗る。それが戦闘開始の合図になった。


 イエムが突進する。その手に煌くものがある。以前、街道でも見せた【髪剣】だ。抜く手も見せず投じた。ミンスはそれを避けることをせず、太い腕で防いだ。金の髪が腕に食い込んだものの、貫通できずに力を失う。

 その間にイエムが自分の間合いまで走り寄る。空いた胸元に突きを打ち込む。

 イエムの踏み込みが深い。ミンスは髪を受け止めた姿勢のまま、両腕を振り下ろした。

 間一髪、イエムはそれを受け止めた。力比べの形になる。体重差は数倍にも達するであろう両者だが、その力は互角だ。これでは勝負がつかないとみて、両者とも弾けるように距離をとった。

(凄い)

 ヴェンは感嘆を隠せない。イエムは強い。街道で4人の男をあっという間に倒したことからも、それは明らかだ。だが、ミンスという男もかなりの強者だろう。その巨躯の割には身のこなしが早く、戦闘に慣熟しているようにも見えた。【蛮族】の戦士としての能力の一端を見た気がする。

 これはさすがのイエムも危険かもしれない。【式】で介入をしようかとも考えたが、これは彼女にとって神聖な戦いなのだ。邪魔をするのは躊躇われた。彼女の誇りを傷つけてしまうだろう。

 その間も戦闘は続いている。ミンスが体当たりをかけた。いくら【巫女】とはいえ、体重差は如何ともしがたい。イエムはそれを跳んで躱した。そのまま上方の木の枝を掴むと、くるりと回りながらミンスの延髄を蹴った。流れるような動き。それでいて、さすがの巨躯も倒れ込まざるを得ないほどの衝撃だ。倒れた相手に、さらに追撃するイエム。体を踏み抜かんばかりの蹴りの連打だ。

「があっ!」

 そのあまりの威力に、ミンスの身体が陸の上の魚のように跳ねあがる。それでも、蹴り足を掴んで払いのけた。イエムが体勢を崩す。ミンスはその隙に立ち上がることに成功した。しかし、イエムの強烈な蹴りのダメージは深刻で、ようやく立っているといった有様だ。

 既に満身創痍のミンスに対し、未だ傷を負ってないイエム。もはや勝敗は明らかのようにも見えた。それでも、両者とも戦意を失ってはいない。

「ぐ……は、はあ……来やがれ!」

 ミンスが叫んだ。蛮族の戦士の最後の雄叫び。

 イエムの手に【力】が現れた。目に見えるものではない。だが、それは確実にそこにあった。あるいは、とてつもない質量が観測できたかもしれない。

 イエムは一気に間合いに踏み込むと、振り回されるミンスの太い腕をかいくぐって、胸に打ち込んだ。――時が、一瞬、止まる。その一撃で、強靭なはずのミンスの心臓は爆砕された。

「俺の……負けだ」

 巨躯は口から大量の血を吐き出すと、どうと倒れた。決着がついたのだ。


「はあっ、はあっ」

 イエムも肩で息をしていた。慌てて駆け寄るヴェン。ミンスの二人の連れは、とうの昔に逃げ出してしまっていた。

「大丈夫ですか? イエムさん」

「ああ、なんとかね。……ふう。悪いね。私のゴタゴタに巻き込んじゃったね」

 ミンスの死体には目もくれない。あの【力】は完全に心臓を砕いている。生死を確認するまでもない、イエムにとって、既に過去の事柄なのだろう。

「いいんですよ。そんなことは」

 ヴェンには、それ以上に気になることがあったのだが、訊くのは良いことではないだろうと判断した。少なくとも、今訊くべき事ではない。代わりに別のことを口にする。

「ティフ達は大丈夫でしょうか?」

「まあ、あれがついてるなら、心配はいらないんじゃないかな。さて、もう少し進んで待ってるとしようじゃないか」

「ええ……あっ! 来ましたよ。二人とも無事のようです」

 ティフとカーツォヴだ。走り寄ってくる。

「義兄さん! これこれ! 取り返してきたよ」

 ティフは手に持つ【陽杯】をぶんぶんと振り回して見せた。

「ティフ。よかった、無事だったんですね」

 ヴェンは心の底から安堵した。【陽杯】はともかく、義妹に何かあったら、先生に顔向けできない。

「俺のやることに抜かりがあるかよ」

「カーツォヴさん。ありがとうございます」

「いいってことよ。おめえらも、もっと先まで行ってるかと思ったんだが。なにしてた?」

「ああ、ちょっと私の用事を片づけててね」

 イエムがミンスの巨体を指し示す。

「これ……もしかして、例の約束のこと?」

「ふふふ、そうさ。私の獲物の一人さ。これで後一人だね」

「ふーん、このデカブツを潰してたってわけか? ……まあいい。そんなことより、早くここから離れた方がいいぞ。本格的に市街区に火が移った。炎上崩壊するのは、時間の問題だ。こりゃあ、相当やばい」

 既に陽が落ちている。そのために、トラントが火に包まれているのが、余計によくわかる。5人の位置からはっきりとわかるほど。煌々と夜の闇を照らす。

「誰が火を放ったのでしょうか?」

「わかんないね。はぐれ傭兵どもか、ただ単にどっかの火事が拡大したか」

 火事の拡大速度が速い。かなり危険な状態だ。ここしばらく続いた晴天や、戦争のために集められた燃料も影響しているのだろう。

「まあ、いいじゃねえか。おめえらだって、ここが焼けちまえばお尋ね者にはならないで済むんだ」

 カーツォヴが極めて主観的な感想を述べる。それも一理あるが、ヴェン達とて、それに無条件に共感するわけにはいかない。あまりに良心が傷む。

「良くなんかありませんよ。このままでは、難民が発生してしまいます」

「そんなのはお前の責任じゃねえだろが。あの阿呆の宰相が悪いんだ」

 それを言われて思い出す。念のため、確認を取っておきたい。

「宰相はどうしました?」

 言われて、カーツォヴがしまったという顔をした。

「あ……ついやっちまったよ。なるほど、責任者がいないのはまずいな。領主もいねえ訳だしな」

「消火の指揮を執る人がいないってこと?」

 これだけの大火だ。消火活動が行われない限り、もはや街そのものの崩壊は避けられない。どうやら、自由国境域の雄として名を馳せたトラントの街もこれまでということになりそうだ。

「そうです。もっとも、私達が戻ったところで何ができるわけでもありませんけどね。……仕方がありません。街の人には悪いですが、脱出を優先しましょう」

 ヴェンは顔も知らぬ不特定多数の平和よりも、自分と、その周囲の人間の安全を優先した。

「待ってよ。逃げるのはいいけど、カイムはここから北よ。どうやって帰るのよ。ここを突っ切るのは無理よ」

 目的を果たした以上、ここにいる必要はない。もちろん、カイムに帰るのは、迂回すれば不可能ではないが、彼らは牢に入っていたのだ。路銀もなにもかもなくしている。しかも、近い将来発生するであろう難民のことを考えれば、簡単にはいくまい。

「……南のコットエムまで行きましょう。あそこなら、先生のお知り合いがいたはずです。彼を頼りましょう。あそこからなら、迂回してカイムまで戻れますよ」

「コットエムねえ……。よし、私も異存無しだ」

 本来、イエムとの約束はトラントまでということになっている。彼女は、元々は好奇心と親切心で同行してくれていたのだ。ヴェン達にとっても、この期間延長はありがたかった。単に路銀が無いからというだけかもしれなかったが、それでもだ。それに、彼女にはまだ訊きたいことも残っている。

「……コットエムねえ…………俺から提案がある。聞いてみるか?」

 そこにカーツォヴが口を挟んだ。

「なに? できるだけ創造的なものにしてね。これからトラントを占領する、とかいうのは勘弁よ」

 確かに、それくらいは言い出しかねない。しかも、それができてしまうだけの実力があるから余計に始末に困る。

「お前は俺を何だと思っていやがる。提案というのは他でもない。とりあえず、俺の家に来ねえか? 俺はこれから家に戻って、ここで手に入れたものについて調べにゃならん。そのついでにどうだ? 少しなら金も貸してやる」

 意外だ。この【魔人】の男が、これほど建設的なことを言うとは思ってもいなかった。この男は【魔人】としては異端にあたるのかもしれない。常人の中に入れたとしても、善人の部類に入るだろう。善人の【魔人】など、聞いたこともない。

「この大人数で押し掛けて邪魔にならないかい?」

「いいってことよ。よし、決まりだな。ここからなら、すぐ近くなんだ。ついでに、そのお宝についてもなんかわかるかもしれないぜ? 家にはそういうのに詳しいのがいるから」

「じゃ、お邪魔になろっかな?」

「たびたび悪いね。そうさせてもらうよ」

「……」

 リアは何も言わない。旅に出てから一言も喋っていない気がする。急激に変化する環境についてこられていないのかもしれない。

 ティフは姉の心理的疲労が心配だった。感情を表に出すことが無く、その状態がよくわからないから、余計に心配になる。

「わかりました。好意に甘えさせてもらいます」

 それはヴェンとて同じことだった。

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