第五話 巫女
「ねえねえ、なんだかおかしくない?」
ティフがそう言う。ヴェンも先程からずっと同じ事を考えていた。
「まるで、これから戦争でも始まるかのようですね」
「本当に始まるんじゃないの? これ」
彼らの家のあるカイムから、目的地であるトラントまでには大きな街道が存在する。一大交易地たるカイムと、トラント、コットエム、リーダイン、マーセルシンジュまでを繋ぐものだ。通常ならば、双方向に多くの人の行き来があるはずなのだ。しかし、今はトラントからカイムへ向かっている人の流れのほうが圧倒的だった。つまり、トラントから人口が流出している事になる。しかも、旅人や交易商の他にも、妙な大荷物を抱え込んだ人々の姿が目立つ。
「トラントに向かっているのは、私達だけのようですね」
「……そうでもないよ。ほら、いかにも荒くれな人達が同じ方向に歩いてるじゃない」
ティフが指差す先には、「荒くれ者」でひとくくりにできる風体の人間達がいた。「正義の味方」であるとか、せめて「紳士」であるとかいう風体には程遠い。すなわち、見かけのままの人種だろう。しかも、足取りからして、おそらく酒が入っている。
「……ティフ、そういうことはあまりしないほうがいいですよ」
彼らは、親代わりでもあった師が謎の突然死を遂げた際に残した遺言に従って、トラントを目指している。ヴェンは義妹達に危険が及ぶ事を一番恐れていた。無用ないざこざは可能な限り避けたいと思っていた。
その忠告も少し遅かった。そのいかにもな風体をした男二人が絡んできた。
「おうおう、嬢ちゃんよう。これからどこ行くんだい? こっから先は危ないよう?」
「ねえ、おじさん達。これからトラントで何かあるの?」
義妹の物怖じしない性格には、いつも驚かされる。ヴェンは内心でため息を吐いた。
「おう、これからちょっとした祭りがあるんだよう。嬢ちゃんたちも怪我しない内にどっか別の方に行ったらどうだい」
言っていることと裏腹に、男達からは好意のかけらも感じられない。ヴェンは緊張を解かず、【式】の起動を狙うことにした。こんな往来で無茶はしないとは思うが、念のためだ。
「おう、こっちの姉ちゃんと兄ちゃんもよう!」
いきなり、男はリアの胸倉を突き飛ばした。突然の無法を受けて、バランスを崩して後ろに倒れこんでしまう。彼女にはそれほど素早い反応はできない。
「なにするの! あんた達!」
ティフが激昂する。最初から、男達は何かしでかすつもりだったらしい。しかし、昼間の往来で、よりによって【式使】を狙うとは。彼らには余程の自信があるらしい。もしくは、冷静な判断ができていない愚か者なだけなのかもしれない。
【式使】は伊達や酔狂で、こんな特異な衣装を身につけているわけではない。【式使】は危険なのだ。たとえ丸腰の子供であっても。【式使】がその気になれば、完全犯罪も脱獄も簡単にしてのけるだろう。大量殺戮とて可能かもしれない。未熟なティフでさえ、訓練された戦士を一撃で斃している。だからこそ、【式使】達は自らと一般人を区別しているのだ。それは義務や必要によるものではなく、自制と警告のためなのだ。
「……荒くれ者ではなくて、無法者の間違いでしたね、ティフ」
憎まれ口がすらすらと出る。言ってみてから、ヴェンは自分でも意外だと思った。こんなことを言ったのは、初めてではないだろうか。
「なんだと、てめえ!」
二人の男はとうとう武器を抜いてしまった。剣と大斧だ。女子供連れに向けるには、少々無骨すぎる。
「子供だと思って、私をなめないでよね。おじさん」
ティフは【式】の起動を始めようとした。しかし、それは遮られた。
「おおっと。そんな物騒なことはやめてくれよ」
すばやく距離を詰めた男が彼女の頬を張ったのだ。
「きゃあ!」
【式】に意識を集めていたティフに避けられるはずが無い。同世代の少女達と比べても小さい身体が、吹き飛ぶ様にして倒れた。かなり強く打たれたのだろう。
ヴェンの頭の中で何かが醒めていく。
「ふへへへ、【式】を使うには時間がかかるってことくらい知ってるんだよう」
「……で?」
「へへ、兄ちゃんも変なことをしないほうが身のためだって事だよう」
この連中に何を説いても無駄だ。ヴェンはそう判断した。彼は極めて穏やかな性格をしてはいるが、大切な義妹達を守ることに躊躇するほど愚か者ではない。意識を集中する。まずは手に持っている武器だ。
「ふへ……う……?」
男達の内、剣を持った方が獲物を取り落とした。
「う……な、なんだこりゃ」
大斧のほうも同じだ。
「う……あ……そ、そんな、いつ【式】を使いやがった」
ヴェンは男達の持ち物にかかる重力を増大したのだ。【式】の中でも、かなり上等なものだ。
「う、うげ……」
とうとう、男達は倒れこんだ。身につけているものの重さに耐えられなくなったのだ。
「う、ぐあああ……悪かった、謝る。だから、げっ」
倒れた拍子に転がった兜がベキベキという音と共に変形し始めた。ヴェンはそのまま男達を押し潰すつもりだった。重力を増していく。
「ちょ、ちょっと、義兄さん。やりすぎだってば!」
ようやく、ティフが立ち上がってきた。顔が腫れている。
「ティフ。怪我はありませんか。ああ、これは酷い。今、仇を取ってあげますからね」
「私は大丈夫だけど……。ああ、もう、だから、ちょっと、待ってってば!」
ティフが手で宙を切る。【式】の解除だ。パシンという、なにかが爆ぜるような音と共に、【式】が解除された。
「義兄さん、いくらなんでもやりすぎよ」
「ティフ……わかりましたよ」
冷静になってみると、自分でもやりすぎたと思う。
「ちょっと頭に血が上ってしまいました」
どうしたことだろう、こんなことは初めてのことだ。
「げふ、げふ……くそ、バケモノめ」
男達は一目散に逃げ出した。ヴェンは、後ろからとどめを刺そうかと考えて、そんなことを考えている自分に気が付いて、慌てて考えを打ち消した。
「ありがとう。……もう少しで人殺しをしてましたよ」
落ち着いてみると、自分も酷く消耗していた。堪らず、膝をつく。
「大丈夫? いきなりあんな高等な【式】を使うからよ。大変! 凄い顔してる。少し休もうよ」
カイム・トラント間は主街道だ。休憩する場所ならば豊富にある。三人は手近の茶店に入ることにした。
「ちょっと、義兄さん、大丈夫なの?」
「ああ、少し休めば大丈夫だよ」
そんなはずはない。重力を扱う【式】はかなり上等なものだ。ティフには使えない。知識的、技術的なものは解決できるかも知れないが、体力が保たないのだ。それを何の準備も無しに使ったのだ。反動が出て当然だ。
――【式】を使うために時間が必要だというのは、ある意味で間違っている。【式】を起動する際には、それなりの準備、例えば道具の使用や身振りといったものを行う。そうすることによって、世界を成立させている諸法則を知恵の輪のように一つ一つ解きほぐしてくぐり抜けるのだ。
しかし、実力のある【式使】ならば、その準備をせずとも【式】の行使が可能だ。力技で一気に障壁を通り抜ける。鍵のかかった扉を体当たりで破るようなものだ。ヴェンはそれをした。しかも、かなり頑丈な扉に。
「だめよ。ほら、横になって。真っ青よ」
茶店は小奇麗な店だった。ティフは冷たい水を注文して、義兄を横たえた。
「う……。グエッ」
ヴェンはとうとう胃の中のものを吐き出してしまった。顔色はますます悪くなっている。
「義兄さん、ほら、しっかりしてよ。はい、水を飲んで。ゆっくりね?」
ティフが水を手渡す。それを受け取って口に運ぶ。
「すまないね……。うっ」
また吐き戻す。胃にはもう吐くものが残っていないから、大変な苦痛のはずだ。
「義兄さん!? ……ごめん、すこし奥を貸してもらえない? それから、水をもっと頂戴!」
ティフは店の者に訴えた。とにかく、体を休めた方がいいだろう。このままでは義兄の体が保たない。強烈な反動を出してしまっている。危険な状態だ。
「水より、もっといいものがある。どれ、見せてごらん」
そう言って割り込んできたのは若い女だった。大柄で肉感的な感じのする女だ。日に焼けた肌に薄手の皮鎧を着込んでいる。金に輝く髪と瞳が印象的だった。
「あなたは?」
いきなり登場した女性に、ティフは戸惑った。
「私はイエムという。ささ、そんなことはいいから、ちょっとお兄さんを診せてごらん」
「ちょ、ちょっと! 貴女、医者なの?」
「違うよ。でも、似たようなもんだよ。細かいことは気にしなさんな」
そういうわけにもいかない。しかし、とりあえず、ティフはその女性の話を聞くことにした。悪い人間には見えない。
「義兄さんは具合が悪いのよ。なにか良いものがあるの?」
「まあね。……大分消耗してるね。それに……。まあ、いいや。始めるよ」
イエムと名乗った女性は、いきなりヴェンの胸を押さえ込んだ。そして、手のひらを重ねて、ドンと音がするほど叩いた。
「グエッ」
ヴェンが咽込む。そんなことをされれば当然だ。
「わあ、なにするの!」
ティフの抗議も当然だが、イエムは至極真面目に言った。
「いいから静かにおし。お兄さんの【力】を呼んでるんだ」
「【力】?」
「そう、お兄さんが生まれつき持ってる【力】をね。いいかい? 人間ってのは、生まれつきにその人なりの【力】ってのを持ってるんだ。それは腕力かもしれないし、生命力や意志の力かもしれない。あんた達は【式使】だろう? それだって【力】の一種だ」
ヴェンの胸を抑えたままで、イエムは解説を始めた。
「それはわかるけど……?」
「それは普段から表に出てるってわけじゃあない。腕力が強いからって、触るものを全て壊しちまうわけじゃあ無いだろう? 【式】だって同じだ。【式】を使おうって思って、初めて使える。そうだろう?」
この女性は【式】のことにも詳しいらしい。到底、【式使】には見えないのだけれど。
「私はそれを呼んでやってるんだ。お兄さんの【力】に、私の【力】をぶつけて刺激するんだ。……ほら、もう大分良くなってきた」
なるほど、義兄の顔色が先程よりも大分良くなった。それにしても、初めてみる能力だ。一体、何をしたというのだろう。【式】は人間の身体には直接干渉できないのだから、きっと別種の能力なのだろう。ティフの興味は尽きない。
「もう大丈夫だろう。あとは安静にしてるこった」
「ありがとう。おかげで助かったわ。義兄さんに代わって、お礼を言うわ」
「いいってことさ。ああ、あんたも怪我してるじゃないか」
イエムはすっとティフの頬を撫でた。慣れない感覚に戸惑う。
「わ、私は大丈夫だから……」
「綺麗な顔なのにさ。無粋な連中だこと」
そうしているうちに、頬の痛みは消えた。凄い【力】だ。そう感嘆する以上に、その手が離れるのを惜しく感じてしまう。
「あ、ありがと」
「実は、さっき、あんた達がそこで絡まれてるのを見てねえ。これはどうしたものかって思ってたら、お兄さんのあの凄さだ。すごいねえ。【式】ってのはあんなこともできるのかい」
この女性は無法者達とのいざこざの一部始終を見ていたらしい。それで、その結果を知ったのだろう。
「うん。下手するとこうなっちゃうんだけど」
「まあ……ねえ。毎回これは勘弁したいねえ。体が保ちやしない」
イエムはヴェンを見下ろした。もうだいぶ良くなったようだ。かなり回復が早い。この青年はかなり強い【力】を持っているようだ。
「義兄さんも、いつもはこんなじゃないのよ。いつもは優しすぎるくらい優しいのよ。ただ、私達がやられたものだから熱くなっちゃったみたいなの」
ティフは、義兄があれほどの殺気を放ったのは初めてみた。凍り付くような気配だった。彼は完全に、何の躊躇いもなく、男達を殺すつもりでいた。
「そうなのかい?」
「うん。やっぱり、少し疲れてるのかも」
先生の謎の死は、ティフに凄まじいショックを与えた。義兄とて同じだろう。反動があってもおかしくない。
「そうかい。それで、あんた達はこんな時にトラントに行って、どうするつもりなんだい?」
「私達は……そういえば自己紹介もしてなかったっけ。私はティフ・セントール。で、こちらが姉のリア・アルセルト。で、ここで寝てるのがニク・ヴェンタール。見ての通りの【式使】よ」
「私はイエム。他に名前はないよ。んー、一応、傭兵くずれってことになるのかねえ」
名前が一つしかないとはどういうことだろう? 真王国人だろうか? しかし、姓も名乗らない。
「私はあんた達の言葉で言うなら【蛮族】なのさ」
【蛮族】! 【魔人】ほどではないが、珍しい存在だということに違いはない。ティフは【蛮族】に直接会うのは初めてだった。
「私が怖くなったかい?」
「ううん。そんなことはないよ。助けてもらった恩人に、そんな失礼なことができるもんですか。ちょっと驚いただけ。だって、噂で聞いてたのよりも、ずっといい人なんだもの。もっと怖い人達だって聞いたんだけど」
そう言われてイエムはからからと笑った。
「はははは。私が特別なんだよ。……大概はあんた達の想像通りだよ。【巫女】って言葉はわからないかい?」
それはティフも聞いたことのない言葉だった。【蛮族】の方言だろうか。
「それは初めて聞く言葉よ」
「じゃあ、せっかくこうして友達になったんだから、教えてあげようかね? 【式使】ってのは、知識があればあるほど良いんだろう?」
この人はいろんなことに詳しいようだ。それに――いい人だ。ティフはそう判断した。これでも、人を見る目はある方だと思っている。
「うん。お願い。……っと。ねえ? 急いでるの?」
「いや、そんなことはないさ」
イエムは何かを無理に押さえ込んだような含み笑いを見せた。以前、ディオールやカーツォヴから感じ取った気配とはまた違う感覚がある。
(なんだろ?……なにか強烈なものを感じたのだけど)
わずかな怯みを抑え込んで、提案をしてみる。
「じゃあさ、ここって宿もやってるんでしょ。私達は今日は泊まっていくことにするから、一緒にどう? もちろん奢りよ」
「それはありがたいね。懐が少し寂しくなってたところなんだ」
「じゃ、決まりね」
どちらにせよ、義兄はここで一日休んだ方が良いだろう。ついでというわけではないが、この女性からもいろいろと話が聞けそうだ。
一晩借りた2階の部屋に移動しようとしたちょうどそのとき、ヴェンが目を覚ました。
「義兄さん、良かった……。今日は泊まることにするからね。あと、この人、イエムさんが助けてくれたんだよ」
「ああ、ありがとうございます。……不甲斐ないところをお見せしてしまった」
ヴェンは弱々しいながらも、はっきりとした声で応えた。もう、大分良くなったようだ。
「いいんだよ。私もなかなか見れないものを見させてもらったからね。ささ、部屋に行こう。あんたはもう少し休んだ方がいい」
「いえ、もう自分で歩けますから」
ヴェンがなんとか立とうとする。さすがに、足元がおぼつかない。
「おいおい、無茶はするもんじゃあないよ。足下がふらふらしてるじゃないか。ささ、ここは年長者に甘えておくんだね」
そう言ってイエムは、軽々とヴェンを持ち上げてしまった。
「え!?」
イエムは女性としては大柄だ。上背だけならばサティンもいい勝負だが、体積が全然違う。だからといって、男一人を片腕で持ち上げるのは尋常ではない。怪力などという言葉では片付かない。
「ふえー……イエムって、すごい力持ちね」
「ははは、さ、遠慮は無用だよ」
イエムはさっさと上がっていってしまった。ヴェンのことなど重しにも感じてはいないだろう。
「……これはこれで、少し情けないですね」
「で、いわゆる【蛮族】について、どの程度知ってる?」
四人は部屋に入った。ヴェンは横になり、他の三人は寝台に座って話をすることにする。
「実を言えば、あまり知らないの。えーと、一箇所に定住していることはあまりないこと、真王国とも、自由国境域とも違う生活習慣を持っていること、ああ、あとは10年前に真王国に攻めてきて、こっぴどくやられたって話なら知ってるけれど」
ティフが自分の知っている限りを話す。
「あのときは、私はまだ子供だったからねえ。参加してないんだよ。【群青の戦士】とかいう男一人にやられたんだって? なさけない話だねえ。それとも、その男が凄すぎるのかね?」
「私達、その人に会ったことあるのよ。それも大親友なんだから!」
イエムからディオールの名前が出たので、ティフはつい自慢したくなった。大親友は少し言い過ぎかもしれないが、きっと戦友くらいには認めてくれるだろう。
「ほう。それは私も是非会ってみたいね。凄い男なんだろう? 今度紹介しておくれよ」
「うん。機会があったらね」
そんな機会は多分ないだろうけどと思いつつも、そう言う。それは予感というよりも、確信めいていた。なぜかはわからない。
「それはさておき。【蛮族】についてあんた達が知ってるのはそんなものだろう。じゃあ、【巫女】については?」
「その言葉は初耳なのよ。義兄さんは?」
「私も知りませんね。何なのです?」
義兄も知らないのなら、あまり一般に知られていないものなのだろう。イエムが解説を始めた。
「私達の一族はね、いつの時代でも必ず一人、変わった【力】を持ったのが生まれるんだ」
「【力】というと?」
「さっきあんたに使ったやつのことさ。他にもいろいろあるけどね。で、仮にそいつが死んでも、しばらくすると、一族の誰かが【力】を使うようになる」
「つまり、常に一族の誰かが特殊能力者ってこと? それは一人だけなの?」
「ああ、必ず一度に一人だ。なんでかはわからない。そして、その一人は一族の指導者的な立場に立つんだ。これを【巫女】と呼ぶ」
なぜだろう? あんな【力】を使えるなら、たくさんいた方が良いに決まっていると思うのだけど。きっと便利だ。【式】にはできないこともできるのだから。
「で、その一人ってのが私なわけだ」
「ええ……さらっと言ったけど……それは大変なことの気がするのだけど? イエムは一族を放り出しちゃったわけ?」
ティフはそういう結論に達した。
「はははは、まあ、そういうわけだね」
言われて、イエムがからからと笑う。
「なんでまた?」
「いいじゃないか。色々と面倒があったんだよ。まあ、隠すものでもないんだけどさ。私が【巫女】になったときには一族の空気が悪くなっててね。何もかも面倒臭くなっちまった」
「空気が悪いとはどういうことです?」
これはヴェンだ。
「あんた達はこの街道を行き来する人の姿を見てどう思った? そういうことさ」
一族が剣呑な雰囲気になったということだろう。イエムの表情が少し曇る。なるほど、周り全部がそんな空気に包まれたなら、イヤになるかもしれない。
「……さて、私の話はここまでだ。こっちの質問にも答えてもらおうかね。あんた達はなんでトラントに行くんだい?」
イエムは表情を戻すと、そう問いかけてきた。それにヴェンが答える。
「私達は見ての通り【式使】です。少し前に師を亡くしまして、その遺言に従っています。今はそれしか言えません。私達も、そこに何があるのかわかってないのです」
ヴェンもイエムを信用している。しかし、隠すつもりがなくとも、これ以上は語りようがない。
「遺言ねえ……。どうしても行くのかい?」
「ええ。そう決めました」
イエムは渋い顔をして、少し迷っていたようだが、やがて言った。
「……トラントで戦争があるんだよ。それでも?」
「やっぱ戦争なの?」
「ああ、間違いないね。あちこちから傭兵や自由戦士団を呼んでる。どこに仕掛けるつもりかは知らないけどさ。きなくさいことで誠に結構、結構」
「イエムもそうなの?」
イエムはさぞかし強かろう。あの不思議な【力】といい、腕力といい、凄いものを持っている。ティフとしては、あのディオールとさえも、いい勝負になるのではないかとさえ思うほどだ。
「私は違うよ。……あんた達はどうしてもトラントに行く必要があるんだろう?」
「ええ。しかし、先ほどのようなことがたびたびあったのでは堪りません。戦争だというのであればなおさらです、いまからでも遅くはない、私一人で赴くべきだと考えています」
「義兄さん! 駄目よ、行くならみんなで行くの、言ったでしょ」
「しかしですね、ティフ……」
「いいの、行くったら行くの」
――兄妹で喧嘩を始めてしまった。「何があるのかわからない」とは言っても、やはりこの兄妹達にとって大事なことだというのは間違いのだ。
「よし、あんた達がトラントで目的を達成できるまで、私が一緒に行ってやる。そのほうが安全だし、さっきみたいなことも減るだろ?」
「え! 本当なの?」
イエムのような存在が同行してくれるというのであれば、これほど頼もしいことはない。
「ああ。ただし、条件があるよ」
「条件?」
その言葉の持つ響きに、ヴェンが警戒を強めた。それを感じ取ったか、イエムの語調が軽くなった。
「ああ、そんなたいしたことじゃない。私には目的があるんだ。もし、その時になったら、絶対に私の邪魔をしない。……たとえどんな場合でもだ。これだけだよ、どうだい?」
「目的というのはなんなのです? それを聞かないことには了承できません。私はともかく、義妹達に危険な目をあわせるわけにはいきませんから」
ヴェンはあくまで釘を刺した。彼女には助けられたし、信頼のできる人物だと感じている。とはいえ、無用なトラブルに巻き込まれるのは避けたいのだろう。イエムもそんなヴェンの態度に怒るわけでもない。むしろ嬉しそうだ。
「ふふ、あんたは家族思いのお兄さんだね。そうだね、さっきは一族を放り出したって言ったけどね……私は人を追ってるんだ。わかりやすく言えば、一族の掟破りだ。それを狩るのが私の目的さ」
「狩るというと、やっぱり……」
「ああ、殺す。それを邪魔しないでもらいたいんだ。手伝えなんて言わない。見ない振りをしてくれれば、それでいいんだよ。間違ってもあんた達の縁者や友人ってことはあり得ないんだからさ」
「殺人を見逃せと?」
「理由のある殺人は罪じゃない。少なくとも、私はそう思ってる。殺人が悪いことと決めてるのは、こっちの人間だろう? 真王国の法律は私達に通じない。獲物は私の一族の人間なんだ。私の【法】で裁かせてもらう」
随分と物騒なことを言ってはいるが、この人は嘘を言ってない。言っていることにも、一本筋が通っている。ティフはそう考えていた。
しかしその一方で、ヴェンはこの申し出を冷静に考えていた。確かに彼女の存在は心強い。随分と荒事馴れしているようだし、事実、さぞかし強かろう。人格的にも問題あるまい。嘘を吐いているとは思えないし、だとすれば随分とお人好しだ。問題があるとすれば、彼女側の条件。つまりは彼女の存在がかえって騒動を招く場合――そこまで考えて、ヴェンは内心でため息を吐いた。
(何を馬鹿なことを考えているんだ、私は)
彼女は明らかに善意で言っている。その善意を、こんな愚にもつかぬ考えで否定して良いはずがない。もともと、危険は百も承知。この申し出を受けない理由など何一つもないのだ。
「わかりました。道中よろしくお願いします」
「ああ、ありがとうよ。よろしくだね」
握手を交わしながら、イエムはにこにこと随分嬉しそうに笑った。
「ありがと。でも、私達と一緒にいても面倒なだけじゃないの? ありがたいんだけど、邪魔したら悪いなあ」
いくら【式使】とはいえ、これから先では単なる足手まといにしかならない筈だ。目的の達成のためとあらば、なおさらだろう。
「そうでもないさ。うん……いろいろとね。私は世話焼きなんだってことにしておいておくれよ」
「それはわかってるけど」
普通は見ず知らずの人間に、あんな力をいきなり見せたりはしないだろう。だが、性分の一言で片付くものだろうか?
「正直なことを言うとさ、私はあんた達に興味があるんだよ。あんた達がどういう人間で、なにをするのか。面白そうじゃないか。私は退屈してるのさ」
「掟破りを狩るんじゃなかったの?」
「それとは別だよ。ただ単に、退屈が嫌いなのさ。あんた達は面白そうだ。一緒にいれば、しばらく退屈しないで済みそうだ。これが同行する理由。これでいいかい?」
翌朝、四人は出発した。早朝には、外を歩く人影は少なかった。街道を並んで歩く。
「さてと……せめてトラントに着くまでは何もなければいいんだけどねえ」
「何かあると思いますか?」
「あんた達は目立ちすぎるからね。普段ならともかく、この時期に、ヤワな男と子供。それに自失状態の若い娘じゃね。昨日みたいな物を知らないバカが引っかからなければいいんだけど」
「義兄さんはヤワなんかじゃないんだからね。義兄さんは戦闘術と【式】の複合を目指してるの。イエムにはとてもかなわないけど、それなりのものよ」
イエムの言葉に、ティフが反論した。義兄は穏やかではあるが、決してヒヨワではない。自慢の義兄を馬鹿にされたように感じたのだ。
「そんな大層なものではないですよ。起動時間と消耗の問題が大きすぎて、いかんせん、実現は難しそうですね」
ヴェンが謙遜する。【式】を実戦で使用するためには、速度的な問題の解決が前提になる。そうそう反動を受けてもいられない。
「ふーん。面白そうだねえ。まあ、それじゃ、前言は撤回するとしよう。だけど、問題はお姉さんのほうだ。これじゃ、いざというときに行動が起こせない」
「わかっています」
「ねえ、イエムのあの力で、姉さんを治療できないの?」
これは質問と言うよりも、ティフの願望に近い。【式】にできなくとも、あの【力】でならば。
「……無理だね。ごめんよ、【力】の方向が違いすぎる。そもそも、姉さんの病気の原因はなんなんだい?」
そうそう都合よくはいかない。そんなことはティフ本人にもわかっている事だ。ただ、何らかの可能性を見出したかっただけだ。
「私もよく知らないのです。おそらくは心の外傷かと」
「私が物心ついたときからこうだったから……。先生なら知ってたかもしれないけど」
そう。ティフは姉の病因を知らない。それがまた歯がゆいのだ。
「ふーん。しかたがないさ。気をつけるしかないね。まあ、なにも起こらなければ、それでいいんだけどね」
「トラントまであと四日ほどですか。……難しいかもしれませんね」
「そうなったら、私と兄さんで万難を排することだね。あてにしてくれていいんだよ?」
そう言うイエムは腕を捲り上げたりはしなかったが、その姿はたしかに頼れるものだった。
そうやって四人で歩いて二日目。そろそろ日暮れかという時間に、前方に見覚えのある顔を見つけた。数人の仲間らしき人影もある。
「あーー! あんた、あの時に私の顔をぶったやつでしょ!」
ティフが叫ぶ。
「おお、確かにあの時のゲス共だ。遠目にも、子供連れに対する態度じゃなかったねえ」
これはイエムだ。嫌悪感を露わにしている。それなりの正義感の持ち主でもあるらしい。
「なんだってんだ、俺達は殺されそうになったんだぜえ?」
どうやら、仕返しのために待ち伏せしていたらしい。日没前とあって、他人の目もほとんどない。襲撃にはもってこいだろう。そのわずかばかりの通行人も、慌てて逃げ出してしまった。ヴェンは無意識のうちに、リアを後ろにかばった。
「へへ。今度はあの時みたいにはいかないぜ? おまえがあの後ひどいことになってたってことは知ってるんだ」
(……こいつらは阿呆だ。救いようがない)
「おやおや、大人げない」
イエムが身構える。彼女は徒手空拳だ。しなやかな身体を軽く折り曲げて。長い金髪が風にたなびく。そんな彼女には、サティンのような娘とはまた違った美しさがあった。――雌豹のそれだ。
「ささ、あんた達は後ろにいるんだ。こんなのは私がやっつけてあげるからね」
「いえ、そういうわけにもいきませんよ」
「そうよ」
ヴェンとティフは前に出ようとした。これは自分たちの問題だ。彼女にだけ任せておくことなどできない。
(……この人達には思い知らせる必要がありますからね)
身構えていたイエムが突然振り向いた。向き直って、ヴェンの顔を覗き込んだ。ずいと、互いに息がかかるほどの距離まで顔を近づける。
目前にイエムの顔がある。ヴェンは不意のことでドキリとした。それでも、何とか目をそらさずに済んだ。
そのまま優しく語るイエム。
「いいから、私の言うようにおし。あんた達はこんな奴らに関わることはないんだよ。トラントで用事が済んだら、兄妹で静かに暮らすんだろ?」
彼女の話を聞いているうちに、高ぶった精神が落ち着いてくるのを感じた。イエムには、ヴェンの知らない何かがあった。すとん、と何かが抜けるような感じで、気分の高揚が収まった。
(……思い知らせるだって? 私は……なにを考えていた?)
そんなヴェンを見て、イエムも息を吐いた。こん、と額を軽くぶつけて、顔を離す。
「ああ、もう大丈夫だね。よし、後ろで見てなさいな、と言いたいところだけど……目を瞑っていたほうがいいね」
イエムの言いたいことはわかる。彼女は敵を全員殺戮するつもりだ。
「ううん。そこまで失礼はできないよ。私達は見てる」
ティフにもそれがわかったのだろう。心配は無用だと言いたいのだろう。ティフの意志をイエムも理解した。
「……よし。私の実力を見せておいてあげようかね。今後の信頼関係のためにも。そういうわけだ。あんた達の相手は私一人。かかっておいでよ」
イエムは敢然と言い放った。彼女にはそれだけの力量がある。素人にも、それとわかる。
「ばかやろう! なめやがって。殺してやる!」
(やれやれ。語彙の貧弱なこと。しかもあの嫌らしい目! 知性も理性もかけらほども感じられやしない。この子達には100年かかっても敵いやしないだろう)
「さてさて。前口上はいいよ。人語を話す蛙どもが。早くかかってきたらどうだい? それとも丸腰の女一人が恐ろしいかい?」
「てめえ! 馬鹿にしやがって!」
イエムの明らかな挑発に乗って、一人が突っ込んでくる。後の三人は回り込むつもりのようだ。
「うおおおおおお!」
叫びとともに斬りかかってくる。案外、この男達は実戦慣れしていないかもしれない。威嚇のつもりなのかもしれないが、それにしては中途半端だ。それに、目の前の女がなぜ丸腰なのか考えてもいないだろう。イエムが丸腰なのは、彼女には彼女だけの武器があるからだというのに。
「おやおや。気の短い」
イエムは男の斬撃を手で受け止めた。手甲が鉄を咬む音がして、そこで止まる。普通ならば、そこで力比べになるのだろう。しかし、そうはならない。膂力が違いすぎる。始めから勝負にもならない。片手で軽々と男を押し込むイエム。
「はいよ」
イエムがそのままの姿勢で、空いた方の手を剣に叩き付けると、それはぽきりと折れた。
「あ、な……なに?」
男にしても、ヴェン達にしても、俄かには信じがたい光景だろう。素手で鋼剣を叩き折ったのだ。それも、格別に力を込めるでもなく、至極簡単に。イエムはうろたえる男の鳩尾に拳を打ち込んだ。
「ゲッ。フッ……」
男の身体が半ば宙に浮かぶ。男は肺の息を全部吐き出す羽目になった。「悶絶」という言葉がぴったりの表情になる。
「はい、いっちょあがり!」
イエムは男の顎を掴んで後ろに捻った。グシャリという首の砕ける音が響き渡って、男はそのまま崩れ落ちた。即死だろう。頸椎が砕けて生きている人間などいない。
「はい。次はどいつだい?」
こともなげに手をひらひらさせるイエムを見て、男達が息を飲む。目の前の女が常人ではないことが、今頃になってわかったのだろう。
「う……化け物……!」
それでも、三人がかりで斬りかかってくる。勇気ではない。無謀と呼ぶべきだろう。
「心外だねえ。こんな美人を捕まえて化け物呼ばわりかい?」
さすがのイエムも、三人同時では危ない。一人に走り寄って斬りつける。
「え……」
彼女は武器を持っていなかったはずだ。彼女の手に煌くのは――糸、いや、自身の髪の毛だ。指に挟むようにして三本持っている。彼女の手が二回交差すると、男は輪切りになって血溜まりに沈んだ。凄まじい切れ味だ。返り血を避けてイエムが飛び退く。
「てめええええええ!?」
既に、残り二人の男は半狂乱になっていた。常識では考えられない事態に直面して、思考停止に似た症状を来したのだ。
飛び退いた勢いのまま、イエムは後ろからかかってきた男に背中をぶつけた。同時に顎に拳を打ち付ける。そのまま回し蹴りをたたき込む。迅い。まともに蹴りを食らった男の首が、ぐるりと一回転した。 ついでに、身体ごと縦にぐるりと一回転した。
「ヒ……ヒィイイイー!」
ようやく、目の前の者が常人ではないどころか、女の形をした暴力だということに気が付いたのだろう。最後の一人は全速力で逃げ出した。仲間の死体には目もくれない。
「悪いけど……逃がすわけにはいかないんだよ」
イエムが髪を投じる。六本の金の剣に貫かれて、男は絶命した。
「さて、片付いたよ」
良いところを見せようと思ったわけでは無いが、少々派手にやりすぎたかもしれない。子供には刺激が強すぎただろう。イエムはそれが心配だった。
「すごーい! イエムってつよーい!」
そうでもなかったらしい。おおよそ修羅場慣れしているようには見えないのだが。リアは相変わらず無表情。ヴェンはよくわからない。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
「いいってことさ。まあ、これで私の実力がわかっただろ? これからはどんどん頼って頂戴よ。遠慮しなくていいからさ」
これはイエムの本心だ。この子達のような人間は静かに暮らしていくのが良い。修羅の道になど追いやりたくない。この三人は、どこか危ういところがあるから心配だ。
「ねえねえ、どうやって髪の毛で切ったの?」
「髪の毛は自分の体の一部だろう。下手な武器を使うよりも、【力】が乗りやすいんだ。【巫女】の実力をなめちゃあいけないよ。人を切るくらい簡単だよ」
「凄いなあ!」
ティフは単純に感嘆している。この少女は乾いたスポンジのようなものだ。たくさんのことを吸収するだろう。教師のし甲斐がある子だ。
「じゃ、人が戻ってこないうちに急ごうか。役人にでも見とがめられたら面倒だからね」
トラントの街は想像通り、酷く殺伐としていた。いかにもな風体をした人影が、街道で見かけたよりもさらに多い。四人はできる限り目立たないように宿を決めて、部屋に入った。
「想像通りね。街全体が凄い……なんていうのかな? 血臭いっていうの? 立ちこめてるというか何というか……。 イエムの言う『空気が悪い』って話も分かる気がするなあ」
ティフは思ったままを口にした。この空気で心の安らぎを覚える人間がいるとしたら、それは異常だ。しかし、戦士というものが、このような世界で生きている人種だと言うこともわかる。
「さて、これからどうするんだい?」
これからどうするのか。あまり長居ができない以上、速やかに行動を決める必要がある。
「まずは、先生の言っていた【陽】の【結界】を探さねばなりません」
「どこにあるかわからないのかい?」
先生は近くにある、としか言わなかった。それ以上のことは、誰も知らない。
「残念ながら。ですから、情報を集めなければならないのですけど。これでは……望み薄かもしれませんね」
街の空気が悪すぎる。街人も緊張してしまって、怪しげな【式使】の相手などしていられないだろう。ヴェンは首を横に振った。
「そうかい……。じゃあ、とりあえず今日は休んで、明日になったら、私が外の様子を見てきてやるよ。あんた達は部屋を出ない方がいい」
あの男達のような輩に目を付けられると面倒だ。それに、【式使】だということ自体が、街人に無用な緊張を強いるだろう。ここはイエムに甘えるべきだ。
「そうかもしれませんね。では、お願いします」
「イエムって人を追ってるんじゃあなかったの? それは良いの?」
言われて、イエムがギシリとぎこちなく笑う。ちょっと怖い。
「良いわけないだろう。掟破りは5人。うち3人は始末したからあと2人。きっちり決着をつけてやるさ」
「でも、私達につきあってたら逃げられちゃうでしょ。 ……あれ、おかしいな? なんで、イエムはそいつがここにいるって知ってたの?」
「ふふふ。知ってたって訳じゃあないさ。私にはわかるんだよ。あいつらが今どこにいるか。で、一人はここに向かってることが【わかった】から来ただけさ」
相変わらず、不思議な女性だと思う。【式】とは違う力だ。ただ、彼女の顔に少し悲しげな色が混じっているのが気になるけれど。
「それって、たとえば私達のこともわかるの?」
「いや、あいつらのことだけだ」
「ふーん。で、そいつはいまどうしてるの?」
「この街に向かってるねえ。明後日くらいに着くんじゃあないかな?」
「どうするの?」
「あんた達に言ったとおりのことをするまでさ」
その夜。リアとティフはさっさと眠ってしまったが、ヴェンとイエムは夜の街を眺めていた。喧噪もだいぶ落ち着いた時間だ。
「……兄さんよ」
窓の外を眺めていたイエムが部屋を振り向いて、口を開く。
「?……なんです?」
「この街のこと、どう思う?」
「嫌な感じですね。できれば、長居したくありません」
ヴェンの正直な感想だ。
「ふふふふ。あんたは正常だよ。……まだね」
イエムの髪と同じ色をした瞳が可笑しそうに揺れる。
「気を悪くしたならごめんよ。ただ、あんた達みたいな素直な人間は、静かに暮らすのが一番いい。そう思ってるのさ。……今なら、まだ間に合う」
「やはり気が付いていたのですね」
最近のヴェンの激情の仕方は尋常ではない。精神的な安定を欠いていることくらい、自分にもわかる。
「そりゃあね。私はあんたの中に何があるのかは知らない。だけど、こんなことをしていたら良くないってことだけはわかるんだよ」
「わかっています。わかってはいるのです」
イエムの言葉をヴェンは激しく否定した。しかし、イエムも退かない。
「いいや。このままじゃ、私一人には庇いきれない。あんたは、そのうち人を殺す必要に迫られる。……あんたはそれに耐えられるのかい? 殺しかけたってだけで、あんなにゲーゲーやってた坊やが」
あの時、ヴェンが衰弱していたのは、【式】による反動だけではなかった。人を憎しみで殺しかけた。その精神的ショックの方が大きかったのだ。
「人を殺したこと、無いんだろ?」
「……ありますよ。一度だけ」
覚えているはずもない。なのに忘れられない忌まわしい記憶。
そう、あるんだ、などと小さく呟いて、イエムは視線を窓の外に向けた。
「……あんたの中には昏いものがたゆたってる。怖いね。危ういね。でも、綺麗だ。青をどこまでも濃くしたみたいな暗昏。澄んだ星空に似てるね。見る人を惹き付けるのさ。せっかく、そんな綺麗なものなのに、濁らせちゃあいけない」
イエムが謡うように言う。
「……」
「あんた達の事情ってのもあるんだろうから、しょうがないとは思ってるんだけどね。でも、いいかい? これだけは約束しておくれ」
再度、視線を戻すイエム。
「ことが済んだらすぐに帰れ。帰って静かに幸せに暮らすんだ。あんたは、まだ、それができる。今なら間に合うよ。……私みたいな人間と一緒にいちゃいけない。いいね?」
言い含ませるようにしてイエムが言う。大きな金の瞳が、ヴェンの青いそれと正面からぶつかる。両者に共通するのは、過去の悲哀か。
「イエムさん。私は……」
「ふふ。柄にもない説教しちまったねえ。気にしてくれるなよ」
そう言いながら、イエムはすこし照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。……そうですね、貴女の言うことに従いましょう。私には義妹達がいますから。彼女たちには幸せになってほしいですから」
ヴェンの本音。そう。自分にはやるべきことがある。
「ふふふ。いい子だね」
イエムが微笑む。それを見たヴェンは、なにかを彼女から感じ取った。つい、口に乗せる。
「……何なのでしょう? 貴女には【母親】を感じますね。暖かくて、優しくて、しかも、甘やかすことをしない。強さ。賢さ。……いろいろありますけど」
「おや、照れくさいね。よしとくれよ。私はまだ23だよ。あんたみたいな大きい子供はいないはずだね」
言われて、イエムは肩をすくめた。呆れたような顔をしてみせる。
「私が【親】を感じたのは二人目ですよ。一人目は秘密ですけれど」
「おやおや。それは光栄な事と受け取って良いのかい?」
「そう受け取ってくれると大変嬉しいですね」
「じゃ、そうしよう。……ありがとうね、ヴェン」
「こちらこそ。色々言って頂いたおかげで大分落ち着きましたから。本当にありがとうございます」
「ああ、大分良くなったね。そうそう、あんたはそういう顔をしてなきゃ駄目だ。義妹達のためにも、あんた自身のためにもね。ささ、寝よう。明日になったら、私がいろいろ調べてきてやるからさ」
次の日、ヴェンはティフに勉強を教えていた。イエムに言われたことを、少しずつでも実践してみようと思ったからだが、外に出るわけにはいかない以上、他にやることもないというのも事実だった。そのイエムは、外に情報収集に行ってしまって、この場にはいない。
「ねえ? 義兄さん。ここはどうなるの?」
「ああ。ここはこうだ。こうして……」
「うーん。でも、これじゃ【式】を起てるのに時間がかかりすぎるよ」
「しかたがないだろう? そもそも、この【式】はかなり無茶なんだから。まずはこれを安定させて、次の段階へ進むんだ」
ティフはうーん、と言って考え込んでいた。なんとかこの【式】の前段階を強硬突破するような抜け道を考えていたようだが、やがて顔を上げた。
「ふう。駄目。ちょっと休憩にしましょ」
「ああ。そうしよう」
水差しから水を飲む。結構な時間、根を詰めていたらしい。肩が痛かった。
「ねえ、イエムは大丈夫かな?」
「彼女なら大丈夫だと思いますよ。……ただ、この街は少し異様です。まったく心配がないとは言えませんね」
「うん……。イエムは強いから大丈夫だと思うんだけど」
イエムは困っていた。まったく情報が集まらないのだ。こういった仕事が苦手というわけではない。だが、街人はことごとく何かに脅えているような様子で、まったく話にならないのだ。それでも、なんとかまともに話が聞ける相手を見つけたところで、これといった話は聞けなかった。いや、別の意味で情報が入手できたと言えない事も無かったが、それはあまり好ましい事ではなかった。
(困ったね)
これでは、何時まで経っても駄目だ。やり方を変える必要がありそうだ。そう判断したイエムは、とりあえず報告のために宿に戻ろうとした。だが、その時、広場の方から喧騒が聞えてきた。危険な気配がした。
二人で話をしながら勉強をしていると、俄に外の空気が変わった。いままでのピリピリした空気とはまた違う、空気。これは――戦いの空気だ。経験の浅い彼等でもわかる。どこかで叫び声があがった。間違い無い。
「なにかあったのかな?」
「わかりません。ですが……ティフ、荷物をまとめてください。これは……いけません。いつでも動けるようにしておいた方がいいでしょう」
「義兄さんもそう思う? ……なにがあったんだろ」
三人が急いで荷物をまとめているうちに、イエムが帰ってきた。息を切らせている。彼女が慌てているのを初めて見た。
「なにがあったの?」
「まずいよ。最悪だ、逃げるよっ」
「なんだっていうのです?」
「私の見込みが甘かったね。戦争の方がまだましだったよ。叛乱だよ」
「叛乱?!」
「ああ。宰相が領主を襲ったんだ。だけど襲撃には失敗して、兵隊同士の戦闘になっちまったんだよ」
「軍の内部で衝突があったというわけですか? でも、それなら……」
それだけだというのならば、兵隊同士だけで決着がつく。危険ではあるが、後ろも見ずに逃げ出すほどの事ではない。しかし、イエムはそんな楽観論を一蹴した。
「それだけならまだいい。ここには他に何がいた?」
「……大量の傭兵」
兵隊が戦闘をしている最中に、流れの傭兵の群。
「もうすぐ、ここは無法地帯になるかもしれない。悪いけど、先生の遺言とやらはまた今度にした方がいい。今はとにかく逃げよう」
「でも、どちらに?」
「街の北口と言いたいところだけど、そっちには人が集まってきてるみたいだ。下手すると身動きとれなくなる。でも、領主の館の方向はもっと危ない」
「じゃあどうするのよ?」
「南門側の山に隠れよう。あっちなら、人も少ないだろ?」
「わかりました。急ぎましょう」
外に出る四人。既に戦闘が始まっている様子だ。領主派の兵士、宰相派の兵士、それぞれに与する傭兵――そのどれにも加わらず、略奪行為を働く傭兵達。逃げまどう住民達。一部の自由戦士団はいまだ秩序を保っているようだが、あいにくと人数が全く足りていないようだ。いつまで戦闘が続くかはわからないが、これはもうどうしようもない。
「ささ、こっちだよ。いそいで!」
四人で走り出す。途中、二人の傭兵に出くわしたが、イエムは問答無用で殴り倒した。彼らの素性も目的もよくわからなかったのだが、全く容赦無しだ。ヴェンとの約束を本気で守るつもりらしい。だが、避難す人々の波が押し寄せてきた。これは殴り倒すわけにもいかない。飲み込まれる。こういった時には、集団のパニックが一番恐ろしい。
「きゃあ!」
「ティフ! ……くそっ! はぐれないで!……リア!」
そんな叫びも空しい。南の山の手前まで来たときには、ヴェンとリアの姿は無かった。おそらく、ヴェンははぐれたリアを探しに行ったのだろう。
「はぐれたね。……どうする?」
「どうしよう。義兄さんはともかく、姉さんは……ああっ! もう! なんでこうなるかな!?」
ティフは頭を抱え込んだ。義兄達の身に何かあったら耐えられない。もう、これ以上家族を失うのはこりごりだった。
「落ち着きなさいって。とりあえず、山に入ろう。ここにいてもしょうがないよ」
「でも、義兄さん達が……」
「わかってるよ。兄さん達はきっとここに来るはずだよ。とりあえずは、あんたの安全が先だ。あんたになにかあったら、私は兄さん達に顔を向けられない」
ティフにとって、そのイエムの言葉には説得力があった。まずは自分の身を守ってこそ、他人の心配をすることができる。
「……わかった。行こ」
山中は予想以上に人の手が入って無かった。道も整備されていないために、二人の歩みも遅い。確かに、ここなら兵隊同士の戦闘に巻き込まれるようなこともないだろう。そのまましばらく歩くと、少し開けたところに出た。ここからなら、ちょうど街を見下ろすことができる。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
「街の方はどうなってる?」
「火の手が上がってるよ。ありゃあ、本格的に内乱状態だね」
叛乱の戦闘と、傭兵達の狼藉によって、街からは火の手が上がりつつあった。可能な限り早くどちらかの勢力が勝利して、街に秩序を取り戻さなければならない。どちらが勝とうと、自分達の知ったことではないのだが、街が燃えてしまうのは困る。
「義兄さん達……大丈夫かなあ?」
「大丈夫だよ。……兄さんは大丈夫だ」
「なんでそう言い切れるの?」
「兄さん達はこんなところでくたばる人間じゃあないってことさ」
(命の危険より、もっと心配なことがあるんだけどね……)
そう思っても、口に出すべき事ではない。この小さな娘を無用に心配させても仕方がない。
「どういうこと?」
「私達の言葉に、【運命】っていう言葉があるんだけどね。要するに、あんた達みたいな人間が、こんなところでくだらない内戦に巻き込まれて死ぬ。そんなことはあり得ないってことさ」
「やっぱりよくわかんない」
「まだ、わかんなくていいんだよ。……そのうち、わかるようになる」
(きっと、この子もそういう【運命】だろうからね。静かに幸せに生きろ、か……あんた達みたいな人間には望むべくものじゃあないってことくらいは、わかってるつもりなんだけどね。これは悲しいことなのかね?)
「うーん。じゃ、そういうことにする。それより……これは難しくなっちゃったかなあ」
先生の遺言のことだ。もはやそれどころではない騒ぎになってしまった。このままうまく災難を避けられたとしても、どうすれば良いのやら。
「そのことなんだけどね」
このことは言っておこう。なにもせずにいるよりずっといい。イエムは直前まで行っていた情報収集の結果を伝えておくことにした。
「街の人間に少し話を聞いたんだけど、みんな知らないんだよ。そのこと」
「知らなくっても不思議じゃないんじゃない? 私達だってよく知らないんだから」
「それでもさ、なんかしらの噂は伝わるもんだろう? たとえば、昔お偉い【式使】様がやってきたとか、一年に一回、なんか妙な現象が起こるとかさ。そういうのが無いんだ。そういう伝承も逸話も全然。しつこく聞いたら、そもそも【式使】なんてのは、この街に来た事が無いなんて言われちゃったよ」
無視されたり、騙されたりしたわけではない。本当に誰も知らなかったのだ。何も話が聞けない、そのことから逆に、この結論に達した。
「そんなはずないよ。先生は【陽の権】の名を持つ大【式使】だったのよ? なにかしらの噂になってもおかしくないと思うんだけど」
「……それとも、最初から人の目が届かないようにしてあるとか、ね」
「たとえばここ?」
「そうさ。私は可能性はあると思うけどね。どう思う?」
「ん……確かに、先生は『トラントの街に』じゃなくて、『トラントの街の近くに』って言ってたっけ」
トラントからは北西、東、南の三つの街道が出ている。カイムに近い北側は交易商達の集落が集まっているし、東側は領主の館と砦、その先は小麦畑、そのまま進めばメイの街だ。西側は小規模な牧場らしきものがあって、幾ばくかも行かずに海だ。「トラントの街の近くの人目の届かない場所」となれば、確かにこの山は怪しい。だいたい、街のすぐ近くの小山だというのに、ろくな道一つないのも怪しい。
「ここが目的地だなんてのは、さすがに都合が良すぎるよ。でも、可能性はあるのかな?」
「御都合は認めるよ。どうだい? せっかくだし、探してみるかい?」
「うーん。でも、義兄さん達が来たときに困っちゃうから」
ヴェン達がここに辿り着いた時、入れ違いになってはまずい。
「【式使】にしか読めない暗号みたいなのはないのかい? それで目印を残しておけばいい」
「【式】に使う古語なら、一般人には読めないよ。じゃあ、ここに刻んでおくね」
ティフは広場の中心に座り込んで、なにやらごそごそと始めた。【式】も使ったようだ。
「なにをしてるんだい?」
「【式】に反応して発光するようにしてるの。これなら、暗くなっても義兄さん達にだけわかるはずよ」
「よし。暗くならないうちに行動しようか」
二人は山の中を歩き始めた。
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