第三話 なすべきこと
カイムの街は自由国境域北部最大の交易都市だ。人と物資の移動の多いこの街は、冬が近いにも関わらず、なおも外を歩く人の姿が多かった。ダウを拠点とした北海交易は一休みであっても、東のジーファステイア、南のコットエムなどとの流通は止むことがない。多くの街道と、中型船も遡上可能なダック河、スレート河がそれを支える。
この市場規模は、自由国境域ならではの風土がもたらしたものだろう。周辺地域からの流入も流出も清濁併せ呑んで、ただひたすらに市場であろうとする。堀も無ければ城壁もない。まともな軍も持っていない。そんなカイムは、だからこそ真王国八藩主に手が届きかねないほどにまで巨大化したのだ。
ティフ達の家は、街の中心からやや南よりに外れたところにあるという。姉の手を引きながら、先頭を進むティフ。
「あそこよ」
ティフが指差した先には、小綺麗な一軒家があった。小さな庭があって、母屋があって、ついでに倉庫らしきものが付いている、ごく普通の家だ。
「……普通の家ね」
サティンは、少し拍子抜けしていた。仮にも世の理を越える賢者達の根城だ。もう少し、何かを期待させるような外見をしていて欲しいものだ。
そんなサティンを見て、ティフは口を尖らせた。
「いったい、どんなところに住んでると思ってたのさ」
「なんていうのかしら……こう、もっと自己主張の激しい家を想像してたのだけど」
「どういう家よ、それは。もしかしてガケに横向きに生えてる家とかがよかった? そんなわけないでしょ。【魔人】の家じゃあるまいし」
「再会」
その家に近付いていくと、一人の青年が1階の窓際の椅子に腰掛けているのがわかった。かしましい声に気が付いたのだろう。手元から顔を上げて立ち上がると、玄関を開けて迎え入れてくれた。
「あっ。義兄さん、ただいま。お客さんを連れてきたよ。先生は?」
手を大きく振って、帰りを告げるティフ。
「ああ、おかえり。ティフ、リア。怪我はないかい?」
どうやら、この青年はティフ達の義兄らしい。穏やかな物腰の青年だ。20歳くらいだろうか? 服装からすると、彼も【式使】なのだろう。青く染めた髪と、同じ色の瞳をしている。ティフと、その後ろに続く客人の姿を見ると一礼した。そうしてみると、いかにも【式使】といった風の印象を受ける。
「これはようこそいらっしゃいました。義妹達がご迷惑をおかけした様ですね。私はニク・ヴェンタールと申します。ヴェンと呼んでください。なにもないところですが、我が家と思ってくつろいでください」
「ありがとう。私は、えーと…」
挨拶を返しかけて、サティンは言いよどんだ。本当の事を言っていいものだろうか。この青年を信用しないわけではないが、無闇に巻き込むことはしたくない。しかし、サティンがそんなことを考えているうちに、ティフが言い放つ。
「義兄さん、失礼、いや、無礼不遜極まりないじゃないのっ。この人は真王国はフレイズ藩の公女【白夜の歌姫】サティナルクレール様よ。それに、こっちはあの【蒼鷲】【群青の戦士】テス・ディオールよ。頭がたかーい!」
――気遣いは無用ということらしい。しかし、よくもサティンのフルネームを覚えていたものだ。
「君の頭は私よりずっと高いじゃないですか?」
ヴェンと名乗った青年は複雑な顔でそんなことを言った。物怖じしない性格は家族共通のものであるらしい。
(?……なに?)
そう言いながらも、ヴェンの視線はサティンを通りぬけていた。サティンの後ろにはディオールがいるだけだ。ディオールはこの光景を見守っているだけの様にも見える。
(なんだろう? なにか、そう……肝心な何かを感じるんだけど……)
「いいのよ。私達は友達なんだから! ね、サティン!」
「え……あ、そう、もちろん、かけがいの無い親友よ。彼女には危ないところを何度も助けていただきました」
考え事をしている時に、急に話を振られたので、サティンは慌てた。せっかくの思案が消えてしまったが、まあ、深く考えたところで、どうなるものでもあるまい。
「ね、だから私はいいの!」
ヴェンは諦め顔だ。深々と頭を下げ、芝居がかった仕草で改めて一礼する。
「ふう……かしこまりました。サティナルクレール公女様、ならびにテス・ディオール様。あばら家も同然の我が家で御座いますが、一時の休息を御提供いたします」
そう言いながらも、やはりヴェンは何かを気にしている。彼には別の懸案があるようだ。ディオールも何か感じたのだろう。何事か考えている様だった。
「あれ? なんで私には挨拶ないの?」
自分の顔を指さしながらティフが言う。どうやら、それが狙いだったらしい。
「君はただの友人なのでしょう? ほら、お二人に上がっていただきなさい」
「ちぇー、下克上を狙ったんだけどなあ。はーい。では、お二人様ご招待~」
家の中はよく片付いていた。沢山の書籍や実験道具がきちんと整理されて並べられている。相当な量だ。さらに倉庫にも同程度の資材があるとすれば、個人で研究を進めるには十二分な規模といえよう。
「せんせー! ただいまー」
ティフが元気な声で言う。こうしてみると、ティフもまだまだ幼年の娘らしく見える。我が家に帰り着いたという、緊張からの解放もあるだろう。
「ああ、先生は倉庫です。すぐ呼んできますよ」
ヴェンは倉庫の方に行ってしまった。戻りを四人で待つ。
「先生はねえ、ちょーっと変わった人だけどねえ、いい人よ。私達三人はみんな先生に育てられたの」
そういえば、ティフ達の両親について聞いたことが無い。事情があるのなら、そっとしておこう。自分がむやみに訊いて良い事ではない。サティンの好奇心にも、その程度の分別はあった。
「ちょーっと変わった人、はないんじゃあないかな」
声が掛けられる。そこに若い男が立っていた。優しい笑みを、娘達に向ける。
「あ、先生。ただいま」
「ああ、お帰り。あっちは楽しかったかい?」
「ええっ!」
サティンは驚きを声に出してしまった。「先生」というからには、もっと年上の人間を想像していたのだ。この先生は見たところ、せいぜい30代にしか見えない。20代前半と言われても納得するだろう。
「ちょっとぉ、サティン。なにが変なのさー?」
ティフがむくれる。先生を馬鹿にされたと勘違いしたのだろう。
「ごめんなさい。想像していたよりも、ずっとお若くていらっしゃるから」
慌てて姿勢を正すサティン。フレイズ公女としての自分を取り戻す。
「お恥ずかしいところをお見せしました。私はサティナルクレール・フレイズ。フレイズ藩主ヴィダルモールの一女です」
「お初にお目にかかる。俺はテス・ディオールだ」
二人の挨拶を受けて、先生はにこやかに微笑んだ。
「これはご丁寧に。私はプロス・レーバゼィン。【陽の権】の名を受けております。この通り、しがない【式使】でございます」
またもや、サティンは驚かざるを得なかった。【陽の権】といえば、真王建国記などに登場する、超の付く大【式使】だ。もっとも、それは300年も昔の話だ。おそらく、その名前を継いでいるのだろう。この若さでこれだけの工房を持ち、子供とはいえ弟子を3人抱えている上に、【陽の権】の名。なるほど、この先生は相当に凄い【式使】に違いない。
「ああ、先生。実はいろいろ相談したいことがあって……」
「わかっているよ、ティフ。とりあえずは湯を使って来るといい。長旅で疲れているのだろう? 公女様達も連れていっておくれ」
「うん、わかった。サティン、ディオール、こっちよ」
「ああ、俺は後でいい。どちらにせよ、一緒に入るわけにはいかんだろう?」
ディオールの言葉に、ティフは顔を赤くした。どうにも、この少女は羞恥心まで気が回るのが遅いらしい。いや、ませて見えるとはいえ10歳の少女に、ようやっと羞恥心というものが芽生え始めたというべきか。
「あ、そっか……あはは。じゃ、サティン、姉さん、いきましょ」
浴室から戻ったティフとサティンは、居間で待っていたレーバゼィンと話をしていた。リアは寝所、ディオールは浴室、ヴェンは先生の後片付けのために倉庫へ行っている。
「ふーむ。それは難儀だったねえ」
レーバゼィン先生がさして大変そうには聞えない口調で言う。
「ええ。でも、ティフやディオールに何度も助けられました。感謝しています」
これはサティンにとって偽らざる気持ちだ。彼らに受けた恩は忘れまい。
「それはよかった。遠くにお使いを頼んでみたのですが、うちの子達が人様になにか迷惑をかけていないかと心配だったものですよ」
レーバゼィンは穏やかに微笑む。どうにも、この先生の怒った顔というものは、想像することさえ難しい。
「ちょっとぉ、先生。それはないんじゃない? なんで、私が迷惑を振りまかなきゃいけないのさ?」
ティフがむくれながら口を挟んだ。それに対し、動じる風でもなくレーバゼィンが切り返す。
「ふむ……この前……」
「?」
「私の本を汚したね、食事当番をさぼったね、街の子と喧嘩しただろう、近頃……」
一気に言う。まだいくらでも続きそうな様子だ。秘密が次々に暴かれていく。
「だぁー、待った、待った! 私が悪かったから、そんな暴露は勘弁してよぅ」
ティフが両手を挙げて敗北を認めた。レーバゼィンがハハハと笑う。サティンもつられて笑う。この家には、確かに家族があった。暖かい空気が心地よかった。フレイズにはない、それが。
「さて、ここからは真面目な話だ。クレール様、貴女はこれからどうなさるおつもりです?」
レーバゼィンは、今度は真面目な顔をして言った。その瞳には、ティフやリアと同種でありながら、明らかに異なった光が在る。
「ザイスまで妹を探しながら南下して、バーバィグで船に乗るつもりです」
サティンが決めている道筋だ。今のところは、変更するつもりは無い。
「その間、刺客から狙われっぱなしとわかっていて? サティン、ここは真王国じゃないんだよ」
これはティフだ。さすがの彼女も船上と森の中とで襲撃を経験して、フレイズ公女がどれほどの危険にさらされているかを思い知ったのだろう。サティンとて、彼女の言いたい事はわかるが、そこまで甘えていられない。
「クレール様。刺客の素性と出所に心当たりは?」
レーバゼィンがさらに問う。
「いいえ……父は敵が多い人ですから。見当もつきません」
サティンの父、フレイズ藩主ヴィダルモールは、後ろ暗さでは右に出る者はいないほどの政略家だ。【北の餓狼】とまで呼ばれている。自らの目的のために手段を選ばないその姿勢は、多くの政敵を生んでいる。間近でそれを眼のあたりにしてきたサティンですら、とても把握できる数ではない。レイシュが健在ならば、もう少し具体的な情報を掴んでいたかもしれないのだが。
「いくらかは絞れるはずだな」
そこにディオールが浴室から戻ってきた。話を途中から聞いていたようだ。
「まず、私掠船だ。あれは個人的な行動ではあり得ない。状況証拠があるはずだ。
1・あの海域周辺に港を持っている。少なくとも、同盟港がある。
2・フレイズ藩主と敵対している。もしくは、これから敵対しようとしている。
3・フレイズの使節と交易船の情報を把握していた。
4・公女はできうる限り殺さず捕らえたかった。
この4つだな」
言われて、サティンは頭の中に地図を描き始めた。
まずは真王国。真王国は約300年前に【真王】によって建国された。その後、【真王】は領土を八つに分割して、それぞれ自分の血族達に与えた。これが真王国八藩主の起源だ。
北から順にフレイズ、タージス、リーモス、アシン、クロレトゥ、ビード、クォール、ネイツだ。この内、クロレトゥ以南はフレイズから離れすぎているし、タージスには海軍がない。
次に、自由国境域の都市領主だ。こちらは真王国のような系統だった支配組織があるわけではなく、常に戦国的な様相となっている。有力どころとしては、ここ、北方の貿易都市カイム、東の工業都市ジーファステイア、中部の港湾都市マーセルシンジュ、それに最近勢力を大きく伸ばしつつあるという南部のヘーリクスあたりか。
これら都市領主達については、サティンには情報が足りなかった。だが、自由国境域の都市達と、真王国八藩主とでは、基本的な実力があまりにも隔絶している。望んで事を構えようとするとは考えにくい。八藩主の小指の先で弾かれて、破滅への道を転げ落ちた者は、枚挙に暇が無いほどだ。彼等は真王国を敵に回す恐ろしさをよく知っているはずだ。
他には、真王国のさらに北や西の蛮地、南の魔人遺跡、各地を渡り歩く自由戦士団などがあるが、これらはこの際は問題にならないだろう。
「2番目と4番目は、私にはわからないけど……あの周辺に港があって、港の情報を入手できる立場といえば、リーモスとアシン。でも、リーモス藩主は重病で虫の息だというし、アシンは数少ない父様と友好的な相手よ。どちらも考えにくいわ。でも、自由国境域の軍船とは思えないのよね。兵士達の服装とか、船の装飾とかね」
これが、この件に関するサティンの考察だ。結局のところ、一歩も真実に近付いていないが、情報が足りないのだ。
「うーん」
ティフが腕を組んで考え込んだ。さすがに、これは話が難しすぎるだろう。数学や物理学とは、また違う話だから。そもそも、その直情的で親和的な性格は、おおよそ政略に向いているとは思えない。
「ふむ、とりあえずこの件は置いておいてよかろう。あれだけの軍事行動を起こして失敗したのだ。運航業者の間でも相当な騒ぎになっただろうし、父君が手を打っているだろう」
「うん。私もそう思う」
あの父がこのままやられっぱなしでいるはずがない。それこそ、三倍返しだろう。ディオールの意見は決して楽観論ではないのだ。確かに、父には政敵が多い。だが、その内5割は憎悪を、8割は恐怖を抱いている。余分な3割分は、その両方を抱いている者達だ。
「では、次に簡単そうな方から片付けよう。2つめ、森で君達を襲ったという【魔人】だね」
レーバゼィンが二本の指を立てて、次の問題提起をする。
「あれは多分、裏の情報を聞きつけた野盗の類だと思うわ」
サティンはあの襲撃の後、ずっとその事について考えていた。
「それが、たまたま、よりにもよって【魔人】だったというのは考えにくいんだけど?」
ティフが反論する。しかし、サティンはその反論を予測していたし、答も用意できていた。
「敵にしてみれば、何でもいいのよ。危険な連中に私の情報を流す、それだけよ。あとは放っておけばいいんだから。確かに、【魔人】は出来過ぎなのだけれどね」
客観的に見れば、フレイズ公女サティナルクレールともあろう者が供も連れずに自由国境域をうろついているのだ。政略的観点は勿論、身代金目当てでも至上の獲物と言えるだろう。もっとも、そんな脅迫があの父に通用するはずもないのだが。
「ふむ……私もその線が濃厚だと思いますね。それも、船上での襲撃に失敗した敵と同一の可能性が高い。襲撃に失敗した以上、貴女を放っておくわけにはいかないはずですから」
レーバゼィンが彼なりの意見を述べる。だが、ディオールが否定した。
「サティンの意見は正しいと思う。だが、敵が同一とは思えん。そのためには、自由国境域に活動拠点が必要だからだ。それに、最初の襲撃と、その方法とでは、あまりに性格が違う」
かたや明白な軍事行動。かたや情報戦に属するものだ。非正規とはいえ水軍を動かした一方で、結果を予測できない策謀を練るというのは考えづらい。
「うーん。どちらにせよ、この件は要注意よ。仕掛けた本人が止めたいと思っても、止まるものじゃあないから」
あの【魔人】に、サティンを生かしておく気があったとは思えない。首謀者のコントロールを離れてしまっている以上、かえって危険が大きくなっている。
「そうですね。では、あとは……」
レーバゼィンが三本目の指を立てる。
「船上の内応者だな」
「内応者について、ですか」
正直なところ、サティンは気が重かった。だが、この勢力が一番危険なのだ。近衛をまとめあげ、情報顧問として藩主の相談役だったレイシュですら、看破できなかったのだ。父ですら、感知できていない可能性がある。
「まず、真王国人であること。言葉や習慣の類は、簡単に身に付くものじゃないから……もちろん10年掛かりで準備していれば、別でしょうけれど。それから、当然だけれど、フレイズ内部に深く潜り込める立場であること。そして、最初から私とレイシュの殺害、そう、命を狙っていたこと。……ということは、私掠船とは明らかに別勢力ということになるのかしら」
三再度、サティンが状況の解説を行う。
「四人の内、二人が敵だったってことは?」
「四人全員が敵だったかもしれんぞ? なにしろ、あの戦闘の後だ」
そうかもしれない。あの激しい戦闘によって、レイシュが連れてきた四人の内、二人が脱落していた。そうでなければ、四人で襲い掛かってきた可能性は、充分にある。あの敵からは、それだけの悪意を感じた。
「既に、フレイズ藩の主要組織が何者かに深く浸透されているということはありえませんか?」
それが普通の人間の意見というものだろう。だが、サティンは、それはないと考えていた。あの父のやることだ。その手のことで、そうそう抜かりがあるとは思えない。
「少なくとも上層部にはいないと思うわ。父様はそういう事に敏感な人だから。ただ……」
「藩という巨大組織で、末端にまで目は届かない」
「だけど、数が多ければ、それだけ目立つんじゃないの? たまたまレイシュさんが連れ出した四人の内、最初から二人が裏切り者だったなんて、やっぱり変よ。確率的にもさ。うーん、なにか間違ってるのかな?」
話に矛盾が生じすぎる。四人は、なにか不審な空気を感じた。何者かの作為を感じる? そうかもしれない。
そんなことを話ながら、サティンには別の思案があった。
――あり得ない。
真王国人で、フレイズ内部に浸透できて、自分達の命を狙いながら、父とレイシュの情報網から漏れていた者達? そんな勢力は存在し得ない。まして、レイシュが選んだ四人の内、二人以上が敵だったとは。確かに、サティンが使節を抜け出したせいで、レイシュには時間が無かった。しかし、それは敵にとっても同じことだったはずだ。ダイクの港で姿を見られたとしても、その後のわずかな時間で、どうやって刺客は潜り込むことができたのか。あるいは、彼らは――
「……それ以上は考えても意味はないでしょう。とりあえずは、お休みになってはいかがですか? お食事の準備をさせていただきました」
いつの間に戻っていたのだろう。厨房から出てきたヴェンがそう言った。
「そうしましょう。他にも聞きたいこともありますからね」
「義兄さんの料理は久しぶりね。姉さんも起こしてくる」
ティフはリアの寝室に向かった。
食事は楽しい時間だった。ヴェンの作ったという料理は質素なものだったが、丁寧な仕事なものだった。聞いた話によれば、カイムは野菜類の収穫量が多いらしい。水利もよく、川魚の類も豊富とのことだ。自由国境域北部随一の大都市の意外な側面ということだろう。そうして、ティフが旅の話をしたり、サティンが物語を紡いだりしながら、終始和やかな雰囲気で食事できた。
食事が終わると、やはり疲れているのだろう。ティフとリアはすぐに寝所に行ってしまった。ヴェンが食事の片付けをしている間、レーバゼィンとディオール、サティンの三人で話をする機会があった。今度は先程とは違い、世間的な普通の話題が主だったが、唐突にディオールが言った。
「レーバゼィン殿。ティフ達、それにヴェン君は、本当の兄弟ではないのか?」
なるほど、ティフはリアを「姉」、ヴェンを「義兄」と呼ぶ。それに、このレーバゼィンも「先生」であって、父親ではない。だが、それよりも、ディオールがこんな話を始めたことの方が、サティンには興味深かった。
「あの子達は本当の家族ですよ。ああ、怒っているのではないのです。ええ、リアとティフは両親も【式使】だったのですが、ティフがまだ赤ん坊の頃にお亡くなりになったので、私が引き取って育てているのです」
レーバゼィンが事情を簡単に説明する。その顔に昏い影はない。
「ヴェンはそう……6年くらい前ですかね、その頃に出会いました。道の真中で雨に打たれて突っ立っていましてね。身寄りが無いというので、一緒に暮らすかい? と訊いたら、ついてきました。それからです。私は親の愛というものを知らないで生きてきましたからね。彼らには、その分の愛情を注いできたつもりです」
「……すまない。失礼なことを訊いた」
不躾を恥じたか、ディオールが詫びる。
「あなた達は本当の家族よ。私が保証するわ」
心からそう言った。サティン自身、母を幼い頃に亡くしている為に、その心情はよくわかった。――ふと、少し違和感があった気がしたけれど。
それを聞いたレーバゼィンも顔を和らげる。
「ありがとうございます。では、お返しというわけでは無いですが……ディオール殿、貴方はなにが目的でこのようなことを? 世間から離れた【式使】の私としても興味がありますね。貴方は、流れの戦士などをする必要の無い人間のはずです」
サティンも同じ事を思っている。ディオールの過去は栄光に彩られていたはずだ。仮に、何か問題を起こして故郷に居られなくなったのだとしても、輝ける大英雄にして最強の戦士たる彼を迎え入れたいと考える勢力は少なくないはずだ。自由国境域でも、真王国でも、引く手あまたに違いない。それが、行くあてもなく流浪している。何かあったのかと考えるのが普通だろう。それも、生半可ではない何かが。
しばらくディオールは遠くを見るようにして沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……義姉とその子の仇を探している」
その応えはサティンにとって意外だった。彼の纏う昏い空気はそんな事情で生じていたのだ、ということについてではない。彼が自分の目的を話した。そのことが意外だった。彼の心に何が起こったかは、想像もつかない。
「どのような相手です? お力になれるかもしれませんよ」
「【魔人】だ……【魔人】の女。それも、この前の【魔人】など比べ物にならないほど年経た、強大な相手だ。義姉を殺し、生まれたばかりの義姉の子を攫っていった」
苦しそうな表情だ。この男は我が身が剣で切られたとしても、これほど辛そうな顔はしないだろう。そんな顔だった。
「名はわからん。俺が最後に見たのは義姉の死……8年ほど前……その時だけだ」
義姉……それだけではない。この人はまだ何かを隠している。サティンは確信していた。だが同時に、それを詮索してはいけない。そうとも思った。それは彼の存在自体を崩壊させかねない危険を孕んでいるに違いない。彼女自身、なぜこう思ったかはよくわからない。黙って話を聞く。
「【魔人】ですか。それも強大な。天地を切り裂き、永劫を生きる。……そう、【主】と呼ばれる者達でしょうか? そんな相手を探してどうするというのです? 第一、その子とて生きているかどうかは……失礼、失言いたしました」
【魔人】がそんな赤ん坊を生かしておくはずが無い。 それは、この場の人間にとって常識ですらある。
「だが、探さねばならん! でなくては……!俺は!」
ディオールが感情を激するのをはじめて見た。悲しみ、辛さ、虚しさ、苦しみなどが詰まった声と顔だ。その鷲を思わせる鋭い黒い瞳からは――涙だ。この男の背中には、いったい何が在るのだろう。
(なんだろう。それだけじゃあない、なにか、他の感情を感じるわ。なにかわからない。そう、私が知らない感情を。なんだというのだろう。彼が知っていて、私が知っていない感情……だめだわ、わからない。でも、不思議と『わかりたくない』とは思わないわ。いや、むしろ知りたいとさえ思うの。……それはなに?)
サティンの感情は混沌として、まとまらなかった。知らない感情について、考えがまとまるはずもない。その意味では、サティンはいまだ無知蒙昧、未熟な少女でしかなかった。
その夜、ディオールはなかなか寝付くことができずにいた。先程取り乱したことは無様とも思っていないが、どうにも昔のことばかりが思い出される。少し外に出てみることにした。もう、冬がそこまで来ている。風が涼しかった。
「どうするのか……だと? 俺にもわからんさ」
このように、過去を顧みることを覚えたのは、いつ頃からだろう。それに虚しさを覚えるようになったのは、おそらく、あの時からだろうが。
「セルよ……お前はどうしたい?」
応えは無い、当たり前だ。彼女はもはや亡いのだから。庭の椅子に腰掛ける。
空を振り仰いでみれば、星々はただそこに在る。その静かな光に、失われた過去の残像を見た。こんな過去に捕らわれるなど、無様だと知りつつ、止めることができない。
(――馬鹿馬鹿しい)
あの頃はただ前を見て進めばよかった。進めば進んだだけ世界は広がった。それがいまや後ろを振り返って、後じさってばかりいる。それでも時間はただ流れ、前へと推し出されていく。
(俺は何をしたいのだ)
「おや、どなたかいらっしゃるので?」
声がした。あのヴェンという青年だ。
「寝付けないのですか?」
「ああ、まあ……そんなところだ」
「私でよろしければお話し相手になりますよ。私も少し寝付けないみたいです。今日は少々賑やかでしたから。これでは、まるで子供ですね。ティフのことを笑えません」
ヴェンが穏やかに微笑む。
(まあ、いいだろう)
ディオールはヴェンと少し話をすることにした。確かに、話し相手を求めていたのかもしれない。沈黙を諒承として、ヴェンはディオールの向かいに腰掛ける。
「では、失礼して、と。まず、あらためてお礼を申し上げなければなりませんね。私の義妹達の命を救っていただきました」
「そのことについてはいいさ。俺自身が助かるためにしたことだ。むしろ、こちらが謝らねばならん。危険な目に遭わせてしまった」
ディオールにとって、式使の姉妹達の無事は結果に過ぎない。少なくとも、積極的に助けようとはしなかった。 ――と、思う。
「いえ、そのようなこことはありませんよ。感謝しております」
「そうか。そう言ってくれると助かる」
落ち着いた物腰の、穏やかな青年だ。このくらいが、ティフの様な娘の激しさと、帳尻が合うのだろう。それでいて、彼からは力強さを感じた。打たれれば、その分強くなる、焼けた鉄の様な感じだ。
しかし、それ以上に、ディオールはこの青年から何かを感じた。初めて会ったときからずっと感じていることだ。考えてみても、よくわからない。
「貴方は不思議な感じがしますね。強さ、激しさ、悲しさ……そして優しさ。いろいろなものが在ります。私には望んで得られていないものばかりです」
俺のどこが優しいのだ。ディオールはそう思う。そういえば、彼女も同じようなことを言っていた気がする。
「そうですね、初めて会った気がしないですね。……一言で表すなら……【父親】ですか。ふふ、そう、これは言い得て妙ですね。私は父を知りませんから、なんだか憧れてしまいます」
ディオールは黙して語らない。しばらくは、そのまま時間が過ぎていった。
「先程の、仇のお話……ああ、申し訳ありません。盗み聞きしたわけではないのです」
ヴェンはあの時、厨房で食事の片付けをしていた。居間での会話が聞えていても不思議ではない。
「……俺にもわからんさ」
ディオールとて、ヴェンの言いたい事はわかっている。仇を探して、見つけて、それでどうするのか、だ。
「わからないのですか?」
「わからんな。俺自身。仇を、子を見つけて何をしたいのか」
(もしかしたら、俺はただ死にたいだけなのかもしれん)
「意外です」
ヴェンがそう言う。なにが意外だというのだろう。
「貴方は為せることを為せば良いのですよ。仇なら討てばいい。負けるかもしれない。でも戦う。貴方の全てを賭けて。そのことを誇れこそすれ、断じて恥じることはありません。その子を見つけたなら、怖くはなかったか? 寂しくはなかったか? そう訊いて、抱けばいい。我が子として育てればいい。違いますか?」
なるほど、そうなのかもしれない。いま、できることをすれば良いのだ。そうすれば――そうすれば、何だというのだろう。
「そうかもしれん。だが……」
言いかけたディオールを、ヴェンが制した。
「いえ。申し訳ありません。……言い過ぎました。事情も世間も知らない小僧の言い草です。お気になさらない様に」
「いや……いい。少しは楽になった」
これは本当のことだ。ヴェンのような人間の存在は、荒んだ精神を回癒する。
「そうですか。そう言ってくださって、ありがとうございます。さあ、夜も遅いです。そろそろ、お休みになられたほうがよろしいでしょう。お身体も冷えますから」
「ああ、そうしよう」
そうして、二人は寝所に入った。
「そして時は動き出す」
その光景をじっと見ていた影がある。この家の主人【陽の権】プロス・レーバゼィンだ。
「【陽】は巡る。【時】は動き出す。【月】は輝き、【心】は通うだろう。【星】は夜空に在る。【命】さえも!」
歌う様に言う。そして、そっと。
「いよいよ、か」
寂しさを感じないわけではない。いっそ、このままでも良いではないか、とも思う。しかし、ずっと前から決めていたことなのだ。これだけは曲げられない。例え、どんなことになっても。
「あの子達は強い……愛された子だから」
レーバゼィンはそう言いながらも、首を横に振る。そこには、救いがたい絶望があった。
「違うな……。結局、私は【愛】というものを知らなかった、理解できなかっただけなのかもしれない」
――そう自覚するのは、悲しい事だった。
「では、お世話になりました」
翌朝、サティンは出発することにした。【式使】の一家と別れるのは寂しかったが、これ以上、彼らを巻き込むわけにはいかない。彼らは【式使】として特異な力を持ってはいても、荒事には耐性が無い。ここがサティンにとっての引き際なのだ。これ以上は、決して甘えることはできない。
「そう……でも、また会えるよね?」
ティフが言う。
「もちろん。そうだ、来年の夏にはフレイズに遊びに来なさいよ。歓迎するから」
「ふふふふふふふふ。いいわねえ、それ。いろいろと貸しもあるし……むふふふ」
ティフが怪しげな笑いを発する。色々と含みがあるようだ。サティンも応酬する。
「ええ、公女たるもの、受けた恩は決して忘れないわ。国賓として招待して、大々的に宴を催して、そうね、ついでにその日を【ティフ・セントール訪問記念日】にしちゃうわ。毎年のその日になると、お祭りをするの」
「もう、意地悪っ!」
やり込められたティフが拗ねる。そんなことをされては堪ったものではない。
「ふふふ、冗談よ。でも、歓迎するのは本当だからね」
「うん。絶対に行く! それまで元気でね!」
「ええ、貴女こそ」
そのためには、サティンは生き延びなければならない。だが、互いにそのことは言わない。
「サティンさん……お気を付けください。それにディオールさんも。きっとご無事で」
ヴェンだ。
「たいしたもてなしもできませんでしたが……。貴女の道が陽の差す場所でありますように」
レーバゼィンが言う。リアは、相変わらず何も言わない。儚げに微笑んでいるだけだ。
「ありがとうございます。ここでの一時は終生忘れません」
「では、さらばだ」
「さようなら、お達者で」
「うん、じゃあ、またね!」
ティフ達の家を離れ、表通りの広場に出る。自由国境域最大の交易地というだけあって、人通りも多い。
「さてと……ディオールはこれからどうするの?」
サティンは自らの目的のために南方のザイスを目指す。その一方で、ディオールの動向が気になった。
「風の向くまま……と言いたいところだが。これから、ジーファステイアまで行かねばならん」
「何をしに行くの?」
「人と約束がある。だから……」
「あら、そう、偶然ね。私もジーファステイアまで行くのよ」
ディオールの話を遮って、サティンはそう言った。
「……どういうつもりだ?」
ディオールが睨む。明らかに、サティンは行き先をディオールに合わせた。カイムからジーファステイアを通っていては回り道になる。
「私は妹を探しながらザイスまで南下するって言ったでしょう。ジーファステイアなら、すこし寄り道するだけよ」
サティンには、自分が出鱈目な事をしようとしていることはわかっている。これでは、ティフ達は巻き込めないが、ディオールなら構わない、と言っているようなものだ。
「私は貴方を雇う。護衛として、案内人として。報酬は貴方の望むままでいい。さらに付け加えるなら、無事にフレイズに帰りついた暁には、藩を挙げて貴方の仇を探し出すことを約束する」
サティンにできるのはここまでだ。これで駄目なら、諦めるしかない。実現できないことは約束できないし、そんな言葉でディオールは動かないだろう。
――サティンにとって、これは【賭け】だ。今の自分にとって一番安全なのはディオールの側だという事に、ディオールが自分を見捨てない事に対する【賭け】なのだ。
ディオールはじっとサティンを見つめたまま、何も言わない。しばらくして、口を開いた。
「俺一人にできることは少ないぞ」
これは肯定だ。サティンの心に喜びが満ちる。
「俺の方も、平穏無事な道行きとは限らない。逆に、貴女を危険に晒すことになるかもしれないぞ?」
そんなことはわかりきっていることだ。サティンに無用な負担を強いまいとする、ディオールの不器用な優しさが感じられた。
「それで構わないと言うのであれば、その依頼を引き受けよう」
不覚にも、涙が込み上げた。見捨てないでくれた。自分のことを、たとえ僅かでも大事なものだと思ってくれた。
「サティン……」
少し驚いた風のディオールの顔は、すぐに涙に歪んで見えなくなったけれど。
「ありがとう。本当に。そして、これからもよろしくお願いしますね」
サティン達と別れてから2週間ほど経ったある日のことだ。
「ティフ、ヴェン。申し訳ないけれど、街まで買い物に行って来てくれないかい?」
先生はそう言ってティフにメモを差し出した。ティフの方も、サティン達と別れて、退屈に腐っていたところだ。このままこのやたら難解な本を読みふけっていても宜しくない。気分転換にはちょうどよかった。
「うん、いいよ。行きましょ、義兄さん、姉さん」
「ええ、行きましょうか」
試験管をなにやら弄っていたヴェンも、外出を承諾した。ティフの代わりに、先生からメモを受け取る。
「いえ、私はここで……」
リアが拒否した。彼女が意志表示することは少ない。そして、不思議とそのことが良いことに繋がることが多いのだ。
(なにかあるのかな?)
「そう。じゃあ、義兄さん、行きましょ」
ちょっと買い物に出るだけだ。こんなことも、どうせいつものことなのだ。 ティフはあまり深く考えずに、姉の意志に任せて家を出た。
そうして二人で市場の通りまで歩いてきた。
「で、先生はなにを買って来いって?」
「どれどれ……うーん、なんでしょうね、これは」
義兄からメモを渡された。なるほど、わけのわからないものばかりだ。薪、火打石、ランプ、縄あたりはまだわかる。しかし、粘土、石灰、香油、針、絹の糸と布、紫の染料、なめし皮、幌布など、わけのわからないものが並び、しまいには「長剣一振り」などと書いてある。
「戦争でも始めるのかしら?」
「その冗談はおもしろくないですよ。せめて裁縫屋を始めるのかと言っておあげなさい」
二人は途方に暮れた。毎度のことながら、あの先生の変人ぶりは度が過ぎている。自分達は特別に富俗というわけではない。実験道具や書籍にかかる費用も馬鹿にならないのに、こんな無駄使いをして、今度は何をするつもりなのだろう。
「前には第三種永久機関を作るんだとか言って、庭一面にがらくたを敷き詰めたっけね」
「妙な装置ができあがったものの、我々が常時張り付いていてやっと動いて、石臼が少し回る程度でしたけどね」
あれは結局雨に濡れて駄目になってしまい、その後の片付けが大変だった。後で訊いてみたところによると、2ヶ月分の食費に相当する材料費がかかっていたらしい。元々、先生のお金なのだから、文句を言うつもりもないが、せめてもう少し有意義なものにして欲しいものだ。
「どうするの?」
「買うしかありませんね。そのために来たのですから」
お使いにここまでやって来たのだ。これで帰っては、子供の使いにもならない。
「うーん。こんなにたくさんを揃えるのって、時間がかかりそうだね」
「いいんじゃあないですか。どうせ、あの人達が居なくなって退屈してたのでしょう?」
「あら、義兄さんだってそうだったじゃない。なんだか寂しそうにしちゃってさ」
「そうですか?」
「ははーん。さては惚れたね。あの人に。綺麗だものね~ 駄目駄目、高嶺の花よ」
ティフはそう茶化しつつ義兄の顔を見る。それで驚く。なんと、義兄がなにやら考えている。しかも、わずかに顔が上気している。
「うそぉ、まさか本気なの?!」
「え、いや、違いますよ。……本当ですってば」
ヴェンは慌てて否定した。そこには明らかな照れがある。
「隠さなくてもいいのに」
「違いますってば。ほら、行きますよ」
「あ~ごまかしたなー」
しばらく義兄をいじるネタを手に入れたようだ。ティフが笑う。ヴェンも笑った。
――それが、彼らが心から笑い合った最後になるとは、誰も想像してなどいなかったけれど。
結局、ヴェン達が全ての買い物を終え、家路についたのは随分遅くなってからだった。量が多い上に品種もバラバラで、かなり時間がかかってしまったのだ。既に日は落ち始めているが、【式使】たる彼らにそんなことは問題にならない。宙を漂う光に先導させて歩く。
「遅くなってしまいましたね」
「しょうがないんじゃない? こんな変な物ばかり買わせる方が悪いのよ」
「でも、本当のところ、何に使うつもりなのでしょうかね?」
「わかんないよ。後で先生に訊いてみる。第四種永久機関だけは勘弁願いたいなあ」
そんなことを言い合っている内に、前方に家が見えて来た。だが。
「変ね。明かりがついてない……」
あたりはかなり暗くなってきている。しかし、前方の家には明かり一つ見えない。こんな事は初めてだ。
「これは……? ティフ、ここで待っていてください。私が様子を見てきます。これは様子がおかしいから」
ヴェンの顔が、何時に無く厳しいものになる。
「嫌よ。私も行く」
ヴェンはなにか言いたそうだったが、無理に押し止めようとはしなかった。
「わかりました。では、行きますよ。気をつけて」
ヴェンが先に立つ。なにかあった時には、義妹だけでも逃がさなければならない、そう考えているようだ。酷く緊張している。
(うそよ。なにかの間違いがあっただけよね。あの先生に限って、そんな事はないよね。もう……冒険は終わったんだから)
そんな義兄に甘んじて、ティフは後に続く。
「開けますよ……」
扉をそっと開けるヴェン。やはり、家の中には明かり一つ灯っていない。
――いやなにおいがする。
これはティフがいままでに2回嗅いだことのある匂いだ。一度は船上で、二度目は森の中の小屋で。何回嗅いでも慣れることのないであろう、不吉な匂い。
「いや! いやよ!」
ティフは駆け出した。先生の――父親の部屋に。
「駄目だっ! 行くなティフ!」
義兄が叫んだが構わない。構っていられない。義兄の腕を振り切って走る。
「先生! 姉さん!」
部屋には二つの人影があった。部屋は暗かったが、月明かりで、それが誰かわかった。
「先生……姉さん……」
二人とも血まみれだった。いや、よく見れば、傷を負った先生を、リアが抱いているのだ。リアはいつにも増して呆としていたが、別状は無いようだった。
ティフに数歩遅れて、ヴェンもその場に辿り着いた。その光景に、堪らず息を飲む。
「ティフ! う…………先生?」
「先生!先生!先生ってば! うそよ、何とか言ってよ!」
「三人とも、よく聞きなさい」
静かな声だ。かすれて弱々しい。
「嫌よ、そんな言葉聞かない!」
叫ぶ。そんなもの認めない。先生が死ぬ理由がわからない。
「ティフ、駄目だよ。ほら、先生の話を聞こう」
そんなティフを、ヴェンが押しとどめる。先生にはもう時間がないのだと、わかってしまったから。
「すまないね。これは私が選んだ道の……結末なんだ」
なんの結末だというのだろう。そんなものは知らない。ティフの感情は全てを否定したがっていた。
「ああ、この家に来たとき、こんな子供だった君達が、これほど元気に育ってくれているなんてね……。いいかい、最後だからよくお聞き。私が今、ここで死ぬのは決まっていたことなんだ。【運命】と言ってもいい。だから、自分を責めたりしてはいけないよ。私は、こうすることをずっと前から決めていたんだ。そう、ずっと前から」
わけがわからないことを言っている。先生が何を言っているのか理解できない。まるで酔っぱらっているみたいだ。
「いいかい? 私は死ぬ。……ああ、これを言ってしまっては、きっと私の罪になるね。私はこれを言うことによって、どうなるかわかっているのだから。そう、私は全部知っていたのだから」
「何のことだというのです? おっしゃってください」
話がまとまらないレーバゼィンを、ヴェンが促した。ティフが何か言おうとするのも遮った。
「……ヴェン、ティフ、それにリア。君達は強い子だね。……わかったよ、一回しか言わないから忘れないようにね。これから、ここから南東の、トラントの街に行きなさい。そして、そこの近くには、【陽】の、【式】の……結界……とでもいうべきものがある。そこに行きなさい」
「いったい、そこに何があるというのです? それに……」
「行けばわかる……そう言っておこうかな。ふふふ、私はなにを言っているのかな」
この人は全てを自分の中だけで完結しているのだ。こうして語るのも、結局自分で完結したことだけだ。兄妹達はそう感じた。だが、それは語るべきではない。代わりにこう言った。
「わかりました。すべて承知しました。お言葉に従います」
「ああ……さあ、お行きなさい、我が愛し子達よ。はばたきなさい、大空の世界へと!」
それきり、先生はなにも喋らなくなった。ここまで言葉を残すことができたこと自体、常識では考えられないことだった。彼は死の休息を得たのだ。命が、消えるのがわかった。
「先生! 先生!」
「嫌よ! 先生!」
結局、先生の死因はわからなかった。わかったのは、普通の外傷による物ではないこと。つまり、普通の手段ではありえないこと。――心臓がまるごと無くなっていたのだ。二人が来たときにまだ息があったこと自体、在り得ない事だった。不幸中の幸いにして、リアには傷一つ無かった。酷く血に汚れてはいたけれど。
「嫌よ。こんなのは」
あれから三日経つ。三人で先生の葬儀を済ませたところだ。しかし、ティフの幼い感情は、いまだに先生の死が理解できていなかった。あの時、自分は何もできなかった。その苦悶が心を占めていた。
(私はいままで何をしてきたのかな)
――【式】は肉体に直接影響を与えることができない。あの時、一番大事な時に、自分が学んできたことは何の役にも立たなかった。
「ティフ。いいですか?」
部屋の扉が叩かれる。義兄だ。
「いいよ、入って」
ヴェンが部屋に入って来た。旅装をしている。
「私は先生の仰った通り、トラントへ行きます」
「そう、行くんだ……」
「ええ。一ヶ月もかからないと思います。君はリアと一緒にここに居るんです。いいですね」
義兄は行くつもりなのだ。先生が最後に語った場所へ。
(なんで、そんな涼しい顔をしているの?)
これはティフの誤解だ。どう贔屓目に見てもヴェンは精彩を欠いていた。ただ、いつもの彼女の様には、それに気が付けないだけなのだ。敬愛していた義父の死を目の当たりにしてなお平常通りの気遣いを見せるには、彼女の感受性はあまりにも強すぎた。結局、兄妹二人とも茫然自失の態に近い有様なのだ。
(サティンもこんな感じだったのかなあ)
戦闘直後の船上で、サティンはいまにも死にそうな顔をしていた。あの顔は一生忘れられないだろうと思う。自分のせいで、自分の大事な存在を失った。そのあまりにも大きな事実。先生の場合には、自分のせいというわけではないけれど、結局――。
そんなことを考えていたせいだ。湧き上がる感情を押さえきれなかった。ティフは爆発した。
「なんだっていうの! なんで、先生が、ここで、死ななきゃいけないの!」
義兄の体を叩く。身長差があるせいで、顔にも胸にも届かない。そのまま泣いた。ヴェンはしばらくそのままティフの為すがままになっていたが、やがて言った。
「先生は、たぶん、御自分の死ぬ時をご存知だったんだと思います」
「……それはどういうこと? 先生もそんなことを言ってた」
義兄の言葉に、ティフには同感するものがあった。先生の最期の言葉には、それに近いものが含まれていたかもしれない。
「あの買い物。あれは私達を家から遠ざけるためのものだったのですよ、おそらく」
「?」
「わざわざ時間と手間のかかる買い物をさせたのですよ。それに、あの品物。生活必需品のほかは、旅に必要なものが多かったでしょう? ガラクタもありましたけど」
そう言われれば、ティフにも腑に落ちるところがあった。
「姉さんは? 家に居たでしょう?」
「それはわかりません。でも、リアはいつもあんな調子でしょう?」
リアには何が見えていたのだろう。彼女には、普通のものは何も見えていないのに、誰にも見えない何かが見えているのかもしれない。あるいは、先生はリアにのみ何かを見せようとしたのか。
「つまり、先生は自分が死ぬ時がわかっていて、しかも、周りに危険が及ばないことを知っていて、それでいて、私達を遠ざけていた。そういうことなの?」
「……そうなりますね」
それ以外に考え様が無い。ヴェンはそれを否定したい。しかし、この聡い義妹を騙し切るには材料が足りない。
「なんなのよ! それは! いいこと? 義兄さん。それは【自殺】って言うのよ! あの人が、私達を見捨てて死んだっていうの!?」
ティフは言ってしまった。言ってはいけないことだったかもしれないのに。
「ご病気とか……なにかの事情があったのかもしれません」
ヴェンが虚しく抵抗する。自分でも思ってもいない事を述べて、先生を擁護した。
「じゃあ、なんなのよ、その事情とやらは! なんで、あの時、私達には一言も言わないのよ。なんで、謝ってばかりいるのよ。なんで……」
ティフがまた泣く。義兄も、今度は頭を抱いてくれた。
「……いい、私も行く」
「ティフ!? それは駄目です、この前のお使いとは話が違うのですよ」
【式使】であり、特別な素質を持っているとはいえ、ティフはまだ10歳の少女なのだ。しかしティフはなおも言い放った。
「私はね、決めていたことがあるの……。ずっと昔から。……私の大事な物を守るためなら、私は何でもするって。私の大事な物を奪うのは、絶対に許さないって!」
「ティフ……ですが……」
ヴェンはなおも義妹を思い直させようとしたが、それも無駄に終わった。
「いいの、こんなので家にいたら、腐っちゃうよ。行くっていったら、行くの。こんなの認めない、許さない。……私は【知る】の! 全てを、真実を!」
ティフが声高にそう誓った。もはや、彼女を翻意させるのは不可能だろう。
「ティフ、でも……リアはどうします?」
「連れて行くよ、当然でしょ。あの時、先生から後事を託されたのは三人なんだから」
義妹の決意を知ったのだろう。ヴェンは深いため息を吐いた。
「……わかりました。でも、なにかあったらすぐ引き返しますよ、いいですね」
「……わかった」
ヴェンはティフのことを言っているのでは無い。リアまで巻き込むわけにはいかない。そういう事だ。
「じゃあ、準備しなおしましょう。三人分の荷物が必要ですからね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます