第二話 歌い鳥の旅立ち

 私掠船の襲撃と、その撃退の後はこれといった事件もなく、交易船は無事、自由国境域のダウ港に到着した。

 ダウ港側には事前に連絡が入っていたのだろう。すぐさま水先案内の小舟がやってきて、戦闘で受けた損傷を修復するために、ドックへと案内された。

 船乗り達の結束は堅い。冬を目前とした繁忙時であっても、自分の仕事を放り出してでも、身内の助けになろうとするのだ。まして、北海を荒らす私掠船を撃退してきたのだ。交易船とその乗員はちょっとした勇者扱いを受けていた。

 ドック手前のはしけを占有して、出航時よりも数をいくらか減らした乗員達も作業に追われていた。乗客の降船も仕事の一つだ。

 サティンにとって、久しぶりの地面の感触は感慨深いものがあった。フレイズとは少し土が違う。風も、水も、人も違うだろう。

「ねえ、サティンはこれからどうするつもりなの?」

 サティンの後ろから、姉を伴って降りてきたティフがそう訊いてきた。

「ここからザイスまで南下して、バーバィグ港で船に乗るわ。そちらからのほうが、結局は早く戻れそうだから」

 ここ数日の間、地図を睨んで決めた道筋だった。この道筋ならば、妹の行方を自由国境域北部周辺で探しながら、最短でフレイズに戻ることができる。レイシュの遺言に従うというだけではない。ここまで来た以上、最後までやり通してみせようと決めたのだ。

「じゃあ、カイムまでは一緒ね。家にも寄っていってよ」

 安全の保証ができない以上、ティフ達とは別れたほうがいいかもしれないとも考えた。だが、貴重な友人を失いたくないという気持ちの方が大きかった。それに、彼女達の師は高名な【式使】だという。何か助力を得られるかもしれない。

「ええ。じゃ、行きましょ」

 結局、サティンはティフ達との別れを延期することにした。せめて、ティフ達の家があるというカイムまでは危険がなければよいのだが、それも難しいのかもしれない。

――この少女は、そんなことはきっとわかっているのだろうけれど。

 そんなことを話している二人の前に、ディオールとカーツォヴがやってきた。驚くべきことに、二人ともあの乱戦の中でも傷一つ負っていなかった。甲板上での防戦に徹したディオールはまだしも、単身で敵船に特攻を仕掛けたカーツォヴが無傷というのは到底信じられることではなかった。何者なのだろう。

「よお、お前らはどっちへ行くんだ?」

 この二人は信用するべきだろう。再び、自分の道筋を簡単に説明するサティン。

「そうか、ならば途中までは一緒だな」とディオール。

「じゃあ、ここでお別れだ。俺はクルク山の方まで行かなきゃならんのでな」とカーツォヴ。

 同時に言う。この二人も、常に共に在るというわけでもないようだ。むしろ、二人とも孤高こそが似合う人種にも見える。

「また会うさ、そのうちな。きっとお前らとはまだ縁があるだろう」

 カーツォヴがおかしな言い方をする。まるで、これからのことを何か知っているかのようだ。

「あばよ。ディオール、ムスメっ子ども」

 それだけだ。挨拶もろくにせず、カーツォヴは雑踏の中に消えた。

「きちんとお礼を言いたかったのだけれど、言いそびれちゃったわね」

「あれはああいう男だ。気にするな。それより、貴女達はどうする。駅馬車を使うのか?」

 残ったディオールがそう言った。ここからカイムまでは結構な距離がある。歩いて行くには遠い。

「そのつもりよ。一緒に来ていただけるのかしら?」

 そんなサティンの問いに対し、ディオールは「途中までだがな」と返した。これはありがたい話だ。彼ほどの戦士が一緒であれば、道中の安全が増すというものだ。いや、それ以上に、彼個人と話がしたい。

「じゃ、行きましょ」


 ダウ港は北海経由で収集した交易品を、自由国境域北部最大の都市カイムへと運ぶための入口だ。実質はカイムの付属港に近い。しかしその割には、ダウ・カイム間の陸路交通は意外に貧弱のようだ。ダウとカイムを結ぶ街道はトレゴー森林南部を貫通している。そのため、その維持管理の経費がかかりすぎるのかもしれない。それよりも、ダック河口から遡上してカイムを目指す水路の方がよく利用されているようだ。

 しかしそれでも、一行は駅馬車を使っての陸路を選択した。追っ手を気にしてのことだが、それ以上に船はもうこりごりだとの意識が働いたのだ。

 交易船の到着を待っていた馬車達の内、最初の便を捕まえることができた。御者を含めて8人まで乗れるほどの大きさのものだったのだが、他に同乗者はいないようだった。船上での出来事が噂になっているのかもしれない。

「大損害ですよ」

 御者がぼやく。それでもいやな顔をするわけでもなく乗せてくれるあたり、随分とお人良しなのだろうか。客が少ない分、結構な量の物資を載せていたが、それでもサティン達は広々とした空間を得ることができた。

「それじゃ出ますよ、お客さん。カイムまでは森の中を通って5日ほどかかりますんで、何回か休憩も入れますが、何かあれば言ってください」

「大丈夫よ、よろしく」

 そうして馬車が動き出すのを待って、サティンは話を始めた。

「ねえ、ディオール、失礼を承知で訊くのだけれど。10年前の【大戦】の英雄、【蒼鷲】【群青の戦士】たる【三つ名】ともあろうものが、こんなところでなにをしているのかしら?」

 ディオールは正真正銘の生きた伝説だ。しかし、なぜか彼はその事にはあまり触れたがらない。

「貴女は妹君を探すのだと言っていたな。……それと似たようなものだ」

 一瞬だけ、彼の顔に、やや昏い感情らしきものが浮かんだ。やはり、この話題は好ましくないらしい。質問を変えてみる。

「私を助けてくれるのはなぜ? 相応以上に危険な上に、報酬も見込めないのに」

「船上では、そうしなければ俺も死んでいた。レイシュ殿との縁もあったがな。今、こうしているのは偶然の産物だ」

 この質問に対しては、表情一つ変えない。おそらく、返答をあらかじめ用意しておいたのだろう。

「素直じゃないわねー。『貴女に惚れたからだ』くらいは言って見せなさいよーっ」

 ティフが茶々をいれる。相変わらず、物怖じのかけらも見せない子だ。それでも、そう言われたディオールが表情を和らげる。

「ふふ。では身代金目的の公女誘拐事件ということにしておいてくれ」

 この無愛想に見える男が、こんな冗談を言うというとは意外だ。そんな軽薄さを備えているとは思っていなかった。俄然、興味が沸いた。

「貴方の戦闘術ってすごいのですってね。今度見せていただきたいわ」

「そのうちな。まあ、見せないで済むに越したことはあるまい」

 最初に食堂で会ったときに感じた、妙な威圧感は消えていた。これこそが、テス・ディオールという男の本当の姿なのだろうか。しかし、そうであって欲しいと考えるのは、サティンの我侭だ。結局、彼は戦場において死を振りまく戦士なのだから。

(不思議な人……)

「その剣も変わったつくりをしてるのね。妙に長いし、珍しい色をしているわ」

 ディオールの長剣は長い。剣身だけでも、長身のサティンの身長より少し短い程度、つまり170cm以上はあるだろう。全長で2mに達している。ずば抜けた長身のディオールが振るっても、普通よりもずっと長めに見えるほどだ。こんなひょろ長い両刃の直剣が、どうして折れ曲がらないのか不思議でならない。フレイズ戦士団の剣など、これの10倍近い体積があるが、それでもしばしば折れ砕けると聞いている。

「義父は【星】剣と呼んでいた。これが何物なのか、正直なところ、俺にもよくわからん。だが、これくらいは無くては、【魔人】とは戦えん」

 サティンはディオールの口許に自嘲的なものが浮かぶのを見逃さなかった。何か複雑な事情があるのだろう。そう、彼からは昏い影を感じるのだ。戦士の素朴さの裏腹に、なにか途方もない闇を抱えている。とはいえ、それをここで暴いても意味はない。意識的に話題を変える。

「【魔人】! 私はそんなものと会った事も無いし、多分、これからも会うことは無いでしょうね」

 【魔人】。真王国開闢以前の、古の種族ともいわれている。極めて強靭な肉体と、残虐性を持ち合わせた存在。人知を超えた力を持ちながら、その力を自分の気分の赴くままに行使して、多くの人間を殺戮したという。真王即位とほぼ同時期に起こった【大天変】で、その大半は死に絶えたと伝えられている。現在は真王国の南方の砂漠にわずかばかりの遺跡が残っているだけだ。

「何を言っている。貴女達は既に【魔人】に出会って、話もしているぞ」

 ディオールは昏い影を振り払って、おかしそうにそんなことを言った。

「え……?」

 サティンにも、ティフ達にもそんな覚えはないのだけど。

「あの男、カーツォヴだ。あの男は【魔人】、それも【竜】の末裔だぞ」

「うそー! そんなあ、普通の人にしか見えなかったよ」

 ティフが大声をあげる。サティンにしても同じ気分だ。あの男は、外見的には普通の人間と差は無かったし、伝承に聞く残虐性の持ち主にも見えなかった。しかしなるほど、通常の人間が敵船に単身特攻するなど狂気の沙汰でしかないが、【魔人】にとっては簡単なことなのかもしれない。その事実こそが一番の証拠なのだろう。

「伝承などというものは、そういうものだ。自分で見聞きしたものが一番だろう」

 サティンはディオールのその言い草に反感を覚えた。自分の伝承知識を馬鹿にされたと感じたのだ。

「それは私が楽師志望だってことに対する嫌味かしら?」

「そんなことはない。ただ、いわれの無い先入観は危険だと言いたかっただけだ。すまないな」

 サティンの反感は自分の拙い言葉によるものだと感じ取ったのだろう。顔を真面目に戻して、ディオールはそんなことを言った。

「それはわかるわよ。そうね……調べてみる価値はありそうね」


 一行はティフの家族の話をしたり、サティンの歌を聴いたりしながら、馬車での旅を楽しんだ。それはディオールにとって新鮮なものだったかもしれない。このようにくつろいだ気分になるのは久しぶりだった。

(こんなものも、たまには悪くないのかもしれん)

 その一方で、戦士としての意識が覚醒していく。もう3日目だ。襲撃があるとすれば今日中、おそらくは今夜だろう。駅馬車を使った程度で、刺客達を振り切ったなどとは思っていない。なにより、サティンはあまりにも目立ちすぎた。次第に緊張感を高めてきているのは、彼女も一緒のようだ。浮かれている様に見えて、その実、ふっと醒めたような顔をすることがあった。そんなときの彼女からは、見ていてぞっとするほど感情が消える。

 つくづく不可思議な娘だと思う。確か20を超えているはずだが、10代半ばにも見える。ただかしましいだけにも見えたが、船上で見せた意志の強さは十分に驚嘆に値するものだった。守役の死を否定することなく自然と受け入れ、このように在ることができる強い娘だとも思う。さらに言うなら――美しい。なるほど、【白夜の歌姫】とはよく言ったものだ。艶やかな銀髪と神秘的な色違いの瞳は、見る者を虜にする。しかも、それをただの白痴美にしないだけの知性と感性を持ち合わせているのだ。よくも今まで多数の求婚者に取り囲まれずにいたものだ。

 次いで【式使】姉妹を見る。妹のティフは10歳くらいだろう。見事なほど真っ赤な髪と勝気そうな翠の瞳をしている。背は同世代の少女と比べても小さい方だが、それを気にする者もあるまい。【式使】としての素養と、それを支える知性。約束された未来とともに、自信に満ち溢れている。善しかれ悪しかれ真っ直ぐで、激しい気性の持ち主のようだ。

 姉のリアはよくわからない。見かけは18歳くらいだが、それも定かではない。ティフとは対照的に、黒い髪と琥珀色の瞳をしている。どこから見ても、精神が虚脱してしまった廃人にしか見えないが、なぜか底知れないものを感じる。意識は無限の混沌の中に没入したままのようだが、その瞳には明らかな光がある。

 三者三様。自分も含めた四者がこの場に集ったこと。それに偶然以上のものを感じる。こんなことを、確か、彼女はなんと言っていたか。

「あ、着いたみたい」

 そうこうするうちに、今夜の夜営地に到着した様だ。

「着きましたよ」

 御者が言う。森の中の小さな小屋だ。街からも適度に離れている。この大きさの小屋では、管理人も常駐してはいまい。襲撃者にとっては、おあつらえの場所だろう。

(ここで来るな)

 穏やかな休暇はここまでの様だった。それに悲しみを感じたディオールだが、それを無理に隠しながら馬車を降りた。


「それでね、【式】というのは万能でもなんでもないの」

 食事の準備をしながら、ティフが言う。食事とは言っても、処置された保存食に少々手を加えるだけのものだ。水を入れた鍋を火にかけて、塩漬けされた肉を周囲に並べていく。フレイズの宮廷での料理とは比べるべくもないが、それでもサティンは不満を感じなかったし、不平を漏らすこともなかった。粗食を躾けてくれた母に感謝する。

「どういうこと?」

 船上での話の続きだ。【式】。人知を集結して世界の理を越える業については、非常に興味がある。サティンは素直に話を聞いてみることにした。

「前も言ったけど、【式】にできるのは、ほんのちょっとのことなの」

「ほんのちょっとって、どのくらいなの? よくわからないわ」

 サティンには【式】の知識は無い。知っているといえば、伝承に登場する【式使】達の活躍程度だが、それらは明らかに現実離れしており、物語の演出としてならばともかく、事実かどうかは眉唾ものだ。

「うーんと、そうね、例えば、ここに湯と氷があるとするね?」

「うん」

「湯に氷を入れるとどうなる?」

「水になる、わよね。量にもよるけれど」

「そう。湯と氷から水を作る、これは簡単にできるよね。じゃ、逆はできる?」

「逆って?」

「水を湯と氷に分けるってこと。もちろん、火や氷室を使っちゃ駄目よ」

「そんなの無理に決まってるじゃない。どうしろっていうの?」

 そんなことは考えたこともない。そんなことができるはずがない。どうして、とは考えたことはないが、とにかく、できないものはできない。そういうもののはずだ。

「でも、私にはできるの」

 ティフはそう言って、手に持ったコップの水の中から氷の塊を取り出した。同時に、コップからは湯気が立ち上った。熱を分離してみせたのだ。

「すごい! どうやったの? ティフ、あなた手品で食べていけるわよ」

 サティンは目の前の現実に胸を打たれた。こんな大技が【式】の初歩だというのだろうか? しかし、ティフは自らの能力を誇るでもなく、冷めた表情で説明を続ける。

「これが【式】ってものなの。私が前に使った熱球や気剣も同じ原理よ。周囲から熱を取りだして集めたってわけ。本来ならありえない物理現象を起こすのが【式】。私達は世界を支配する法則に介入できるのよ。少しだけ、だけどね」

 タネも仕掛けも確かに存在する。しかし、常人には不可視であり、理解できないものだ。それが【式】という現象を、偉大な神秘へと昇華する。

「すごいわね……。これなら、雷霆くらい呼べそうだけど?」

 伝承に登場する【式使】達の活躍も、あながち嘘とは思えなくなってきた。しかし、ティフはサティンの楽観的な考えを否定した。

「簡単に見えるかもしれないけれどさ。結構、大変なのよ、これ。……うーん、熱量が……って言ってもわからないわよね」

 熱量、仕事量、エントロピー、それらを統括する熱力学の諸法則。ティフにとっては一般事だが、サティンにとっては未知と神秘の言葉に他ならない。

「えーっと、簡単に言うと、【式】はそこにあるものの在りかたを変える事ができるだけ。そこにあるものの形を変えることはできても、最初から無い物を作ったりできないの。『起こりうること』は、どんなに起こりにくいことでも起こせるけれど、『絶対に起こらないこと』は起こすことができないってこと。そうね、例えば……飲み水に毒を入れられたとして、この毒水を綺麗な水と毒とに分離することはできるの。でも、水そのものを毒に変えたり、毒そのものを水に変えたりする事はできないの。……わかる?」

「つまり、雷霆そのものを作ることはできないということね」

「雷にこだわるよね? まあ、もっと言うなら、私たちのやってることは、『普通は起こらない現象』があったとして、『その現象が起こりやすい』状態を作っているのであって、その現象そのものを起こしているわけではないということ。雷霆を呼びたいのなら、嵐の日に、空中に雷の通る道を作ってあげる必要があるわけよ。これって、大変な重労働よ。たぶん、使用者が先に壊れると思う」

「……やっぱりすごいわね。私には【式】の素質がないから、どういう世界なのか想像もできないわ」

 【式使】としての素質というものは、非常に個人差が大きい。大【式使】の子供に【式使】の素質があるとは限らないし、またその逆も然りだ。姉妹で【式使】というのは珍しい。それに、ティフの話は10歳やそこらの子供のするものではなかった。いったいどれほどの知識をその小さな頭蓋に修めていることだろう。

「それに、【式】を扱うには、今から起こそうとしている現象について熟知してなければならないの。さっき見せた湯と氷の分離なら、熱の扱いと、そのいろんな法則をね。だから、知識の多い【式使】は、それだけ強力な【式使】なの。それにね、【式】の対象には制限があるの」

「制限って?」

「生き物には直接使えないの。人の心を操ったりは勿論、直接に血を沸騰させたり、肺を潰したりはできないのよ」

 ティフが少女らしからぬ物騒な例えをする。もしそれができるのならば、【式使】こそ究極の戦士となるのだろう。

「なぜかしら?」

「さあ? 先生は生命には別の法則があるからだって言ってた」

 そんなものなのかもしれない。それで二人は話を止めて、食事の準備を再開した。

 そこにディオールが戻ってきた。彼はここに着くなり、周囲の見張りに行っていたのだ。出て行くときに大量に抱え込んでいた道具類は、既にどこかへ消えていた。

「お喋りはそこまでだ。来るぞ」

 なにが? などと訊く愚か者は、ここにはいない。


 敵の目標はフレイズ公女たるサティン一人だろう。とはいえ、8人乗りの馬車を襲うというのだ。敵は少なくとも10人はいると見ていい。

「どうするつもり?」

「なんとかやり過ごしたいところだが、無理だろうな。ここで叩く。そうすれば、しばらくは安全なはずだ」

 本来ならば、ディオールは無関係だ。だが、彼はこの公女を見捨てることができなかった。既に、彼女達を守る事を決意していた。

(この娘は生き延びれば、きっといい藩主になる)

 そこまで考えて、心の中で首を横に振る。

(欺瞞だな。俺は許されたいだけだな。そんなことはあり得ないというのに)

「でも、どうやって? 私達の中で、まともに戦えるのは貴方だけなのよ」

 サティンが言う。どんなときでも、視線を真っ直ぐに向けるのは、彼女が世界に対して正直な証拠なのだろう。

(ああ、この眼だ)

 ディオールは感慨深いものを感じていた。間違い無く、この美しい娘の魂は戦士のそれだった。

「その通りだ。俺が全員片付けるまでの間、貴女達が逃げ延びる。それだけでいい」

「すごい自信ね。でも、それしか無いかしら。じゃあ、貴方を信じて、私達は隠れてる。それでいいの?」

 この娘の判断は正しい。そうとわかっていながら、ディオールは言った。

「俺が裏切ったら、それで終わりなんだぞ」

「それはないわよ」

 即座にそう言い放つサティンに、ディオールは驚きを隠しきれなかった。平静を繕いつつ、言う。

「なぜ、そう思う?」

「貴方は裏切らない。……そうでしょう?」

 この娘には何が見えているのだろう。ディオールにはわからなかった。だが、それは間違いのない事実なのだ。


 男は手下を2つに分けた。相手は5人。それも女子供ばかりだとわかっている。なんとかという高名な戦士が同行していると聞いたが、そんなものはどうとでもなると考えていた。何よりも、獲物を逃がさないことが大事だ。

(狩猟というのは、獲物が高貴なものほどいい)

 フレイズ公女は絶世の美姫と聞いている。それを捕らえ、貶める。きっと良い声で泣くだろう。――男の精神は光も差さない昏い海底に沈んでいた。

「ぎゃああー! なんだこりゃあ!」

 突然、前を歩いていた部下の一人が悲鳴を上げた。愚かな。獲物にこちらの存在が知れてしまったではないか。見てみれば、足を押さえて転げまわっている。どうやら、罠があったらしい。足下に張られた縄と手斧の組み合わせだ。獲物もなかなかにしたたかなようだ。

 その部下は足から血を吹いていた。血だ。この暗さでは単なる黒い水にしかみえない。血だ。この鼻腔をくすぐる鉄の臭いを。血だ。間違えようは。血だ。ない。血だ。血だ血だ血だ血だ血だ血だ。精神が高揚していく。目の前が赤く染まる。口元がだらしなく歪むのを感じる。

 男は躊躇う事なく、部下の身体を蹴り潰した。肉と骨の砕ける心地よい感触が伝わってくる。他の部下が息を呑むのがわかったが、構わない。さらに数撃。それでやっと静かになった。さらに長剣を抜いて串刺しにしてやろうと考えたが、思い直した。こんな下賎な獲物に満足している場合ではない。

「いくぞ。獲物が逃げる」


 ディオールは男の悲鳴を聞いた。設置しておいた罠が、効果をあげてくれたらしい。その悲鳴と同時に、前方の気配が動くのがわかった。

(やはり二手だな)

 片方の集団の通り道に罠を仕掛け、前進を遅らせる。その間に、もう一つの集団を平らげてしまうというのがディオールの作戦だった。随分と雑な作戦だが、必勝を期するには、あいにくと戦力が足りない。

 サティン達は小屋の中に避難させてある。しばらくは時間が稼げるだろう。ディオールは前方の集団に意識を集中した。敵は4人だ。

(少ない……こちらは分隊か)

 先手を取る事が大事だ。ディオールは戦闘を開始した。隠れていた木陰から、ゆっくりと敵前に姿を現した。

 誰何も許さず、先頭の男の首に切りつける。迅い。不意を突かれた男は首から血を吹きながら、なすすべもなく崩れ落ちた。

 すぐに二人目の懐に潜り込む様にして近付いて頭突き。さらに顎と鳩尾を連続で殴りつける。これに堪らず、敵はよろめきながら離れようとしたが、それは大きな隙になった。ディオールは絶好の間合いになった敵を易々と切り伏せた。

(こいつら……訓練された動きではない?)

「なんだてめえは!」

 三人目の男が掴みかかってきた。その掴み掛かる腕に、ディオールの長い手が絡む。そのまま反対の手で肘を打つ。男の肘関節があり得ない方向に曲がる。ぼきりという骨の砕ける音を聞きながら、そのまま逆手にとって投げ飛ばすと、男はまともな受身も取れずに脳天から落ちて悶絶した。

 四人目が切りかかってきたのを、身体を開いて躱す。素早く間合いを詰めて足の甲を踏み抜く。苦悶する敵に組み付いて膝を打ち込み、そのまま回し蹴りで地面に叩きつけた。

 それで全部だ。4人を制圧するまでに、二分とかからなかった。まさに猛禽。この敵を圧倒する戦いこそが【蒼鷲】と呼ばれる所以だ。野盗風情の抗し得る戦闘能力ではない。とはいえ――

(もろすぎる? 主力はあちらか! 間に合うか……)

 ディオールはその懸念がすぐに現実になったことを知った。小屋の方向から、少女の悲鳴が聞こえたからだ。


 小屋の明かりは灯したままにした。もとより、脱出は不可能なのだ。わざわざ暗くして、不意を突かれる危険を冒すつもりはない。今はディオールの邪魔にならないようにするのが一番だと、サティンは判断した。彼が敵を撃滅して戻ってくるまで粘る、それで【勝ち】だということにしよう。彼女はそう決めた。

「扉は大丈夫?」

 ティフは扉の補強に余念が無い。

「どうにか。体当たりくらいじゃ、絶対に破れないよ」

 【式】で封印を行ったのだ。簡単には突破できまい。

「で、でで、でも……火を放たれたら同じじゃあないですか!」

 御者が言う。顔が真っ青だ。緊急事態に慣れていないのは一目瞭然だ。サティンとティフは、いつの間にかこういった事態に慣れてしまった自分に気が付いた。なんとも順応性が高いものだ。二人で顔を見合わせる。

「あ……それは考えてなかった」

 敵にしてみれば、わざわざ扉を破らずとも、ここを囲んで焼き討ちにしてしまえば、それで目的は達せられるのだ。その危険はある。サティンは少し考えてみたが、すぐに思い直した。

「でも、敵にそんな時間を与えていたのでは、私達の負けよ」

 まったく危険が無いわけではない。だが、そのような事でじたばたして、敵に隙を見せたくなかった。こうしている間にも、外から音が聞こえてくる。明らかな断末魔も数度聞こえた。何度聞いたとしても、決して慣れることはないだろう。

「ディオール、大丈夫かしら?」

 不安が無いと言えば嘘になる。だが、自分が心配しても、どうにもならないことくらいは承知していた。

 自分には戦う力はない。それを恥じるつもりはない。しかし、大事な友人達を危険に晒したまま為す術もなく立ちつくして、あげく彼ならやってくれる、そんな陳腐な考えしか浮かばない自分の語彙の少なさに、サティンは惨めさを感じていた。

 たとえばここにフレイズの一軍とは言わずとも、せめて近衛の一団でも在ったなら……いや、考えるまい。それを振り払ったのは他ならぬ自分なのだ。


「!」

 突然、扉が大きく叩かれた。その場に居る誰もが思わず息を呑む中、ティフは自分の戦いを開始すべく、意識を集中した。扉を破る力と、【式】で扉を封印する力。扉自体は決して頑丈なものではないが、【式】によって、衝撃の大半が跳ね返っているはずだ。とりあえず、並大抵の力には負けることはないという自信がある。

 扉はしばらく揺れていたが、やがて静かになった。奇妙に反発する扉を前にして、一時、体勢を整えなおそうというのだろう。

「やっちゃうよ、切れろ!」

 その隙にティフが仕掛けた。指先で宙を一文字に切る。

「うわああ!」

 扉の向こうから男の悲鳴が聞こえた。おそらくは、ティフの攻撃で傷付いたのだろう。直接に目で見えなくとも、大体の位置さえ掴めていれば攻撃はできる。

「あああ! ……げっ!」

「……?」

 その悲鳴は急に静かになった。とりあえず扉を破るのは諦めたのだろうか、とも考えた。しかし、そうではなかった。

「……? ……っ!」

 突如、扉を突き破って手が生えたのだ。屋外の敵は【式】で封印された扉を一撃のもとに砕いてみせたのだ。

「きゃああ!」

 ティフが悲鳴をあげて崩れ落ちた。扉そのものを破壊されたことによって【式】が崩壊し、反動に襲われただろう。サティンは慌ててその小さな身体を抱きかかえた。ティフは気絶していた。血の気が完全に失せてしまっていて、明らかに危険な状態だ。しかし、それを介抱してあげられるほどの余裕がない。

 破られた扉の隙間から、目が覗いた。その目と視線を合わせた瞬間、サティンは心臓を握りつぶされたような感触を受けた。

「ひっ!」

(狂ってる)

 目が焦点を結んでいない。興奮に血走っているわけでもなければ、欲望の色に染まっているわけでもない。どろりと濁っていて、死んだ魚の目のようだ。一目見ただけではっきりとわかる――狂人だ。

 その狂気の手が扉の枠を掴んで引いた。すると、扉はまるで紙切れの様に後方に素っ飛んでいって、遙かむこうの木にあたって砕けた。普通の人間には不可能な動きだった。

(【調整】されているのかしら? いや、違う)

 戦場で生きる人間などは、【調整】と呼ばれる精神的刷り込みを行って肉体的能力を一時的に補強することがある。興奮剤のような薬物を使うこともある。しかし、目の前で起こっている事は、そんなものを遥かに超えている。

(嘘……。【魔人】なの!?)

 理性が、感情がそれを否定したがっていた。それは自分達の絶対的な死を意味するのだ。


 獲物はこの小屋にいる。それはわかっていた。彼は自分の感覚を信じて疑わなかった。

「やれ」

 最初は、部下の生き残りに扉を破らせようとした。だが、その扉は見た目よりずっと頑丈だった。いくらやっても開く気配がないし、妙な弾力性があって、身体が跳ね返ってしまうのだ。手間取っているうちに、何者かの攻撃を受けた。刃物のようなものが飛んできて、部下と彼の腕を切りつけたのだ。部下が悲鳴をあげる。耳障りだ。この耳は獲物の甘美な声を聞くためのものだというのに。だまれだまれだまれだまれ――。

 気が付いたときには、部下に剣を突きたてていた。これで部下は全滅だが、役に立たないから、いらない。自分がやってやる。扉に手をかける。簡単に破れた。やはり最初から一人でやるべきだったのだ。隙間から、獲物のものらしき姿が覗き見えた。

「きゃああ!」

 悲鳴が聞こえた。素晴らしい。甘美なものが、病んだ精神を駆け巡った。もっとよく聞きたい。もっとよく見てみたい。そう思ったから、目の前の邪魔な板切れを毟って放り捨てた。これで中がよく見える。中には三人の女と一人の男がいた。予想した通りの、素晴らしい獲物だ。特に銀の娘はいままで見たことも無いような、至上の輝きを放っている。思わず、その輝きに目を奪われた。

(素晴らしい!)

 銀の娘が息を呑むのがわかった。だが、すぐに気を取り直して、睨み返してくる。彼は言い様のない不快感を受けていた。今までの獲物は、どれも小さく縮こまって震えているか、取り乱して泣き叫ぶのが普通だったからだ。こんな反応は初めてだ。

「ふへ、ふへへへへへ」

 血に染まった長剣を見せて脅してみる。それでも、女は手に持った棒を構えた。そんな爪楊枝で何をしようというのか。よく見れば、やはり小刻みに震えているではないか。

「ふへへへへへへへへへへへへへへ」

 笑いが止まらない。獲物は今、彼の手中に在った。


 小屋に駆け戻るディオール。少なからず、焦慮がある。

(馬鹿な……早過ぎる)

 さしものディオールでさえ、敵が部下を潰しながら突き進み、強化された小屋の扉を毟り取ったなどとは、夢にも思わない。答を求めて、森の中を駆ける。

 ディオールが小屋の近くまで駆け戻ったのは、扉が完全に破られた直後だった。小屋の内部から漏れた光が、一人の大柄な男のシルエットを浮かび上がらせていた。

(一人だと? そんなはずはない……)

 素早く辺りを見回す。しかし、置き去りになった侵入者達の無残な死体が転がっているだけだ。ディオールが仕掛けた罠は、あくまで侵攻を遅らせるためのものであって、直接的な殺傷力は低いものばかりのはずだ。かといって、御者やティフが討って出て戦ったとも思えない。

(どういうことだ?)

 ディオールにはよく事態が飲み込めなかったが、まずはサティン達が直面している危機の回避を優先した。足下に転がっている死体の一つから剣を奪い、投じる。

 【飛剣】と呼ばれる投剣術。バランスが悪く、本来は投擲に向いていない剣を、離れた目標に正確に命中させる技術だ。そして、ディオールによって投じられた剣は、狙いあやまたず男の背中に深々と突き立った。

 しかし、男は倒れなかった。少し苦悶したようにも見えたが、それだけだ。何事も無かった様にこちらへ振り向き、自分の背中に突き立った剣を引き抜くと、投げ返してよこした。破壊的な速度と威力を持ったそれを、ディオールはかろうじて躱した。剣は背後の木の幹に根本まで刺さった。

(【魔人】だと!?)

 ディオールは、サティンとは別の意味で驚きを隠せない。【魔人】は自分の感情を最優先するはずだ。無論、自分の知っている【魔人】達にも、かなりの個体差がある。だが、人間の部下になって公女暗殺を請け負うなどあり得ない。それでは【魔人】は自らの存在自体を否定していることになる。だが、そんな疑問も、目の前の【魔人】の、光の無い瞳を見たときに氷解した。

(狂気、か)

 目の前の敵は狂っているのだ。それは精神の均衡を崩した者の瞳だった。しかし、事情はどうあれ、この相手が危険極まりない敵だというのは確かだ。

(これを使わざるを得まい。セル……頼むぞ)

 ディオールが長剣を抜く。【ミエグ・クルタ・ジーン・ユン】と銘された黒い剣。真王国以前の古語で【母・兄・妹・子】という意味だ。【生命】を破壊、中和する武器だという。この場において、【魔人】を殺害する唯一の手段だ。それは手の中で黒い輝きを放っていた。


 今度こそ、もう駄目かもしれない。絶望の淵に追いつめられていたサティンは、目の前に現われたディオールの雄姿を見て心を打たれた。明るい小屋の内からは、外は見えにくいはずなのだが、彼女の目には不思議なほどはっきりと見えた。

(間に合ってくれた! 助かった!)

 たとえ相手が【魔人】であろうとも、ディオールが負けるなどとは、サティンは微塵も考えていない。出会ってからの僅かな間に、彼女の心には、彼に対する絶対の信頼が築かれていたのかもしれない。

 そのディオールが長剣を抜いた。夜の闇でもはっきりわかる輝き。長剣は、それ自体が黒く発光していた。決して黒光りなどという生やさしいものではない。剣が発光すること自体不思議だが、通常の光にはあり得ない【黒】という色はなおさらに異様だ。

(不思議な輝き……暖かいような感じもするけど……なんだか不安になる)

 黒い光に対するサティンの感想は、【生命】に対する感想だともいえた。魔人の方も、黒く輝く剣から何かを感じたらしい。だが、どうやらサティンの感じたものとは異なる様だ。


 彼の精神は狩猟を邪魔された怒りで満ちていた。目の前の男はやたらひょろ長い剣を抜いて、構えもせずに突っ立っている。殺してやる。八つ裂きにしてやる。そうだ、小屋の中の獲物どもの前で食ってやろう。どんな顔をするか楽しみだ。

 しかし、先ほどから、この目の前の男から感じているものはなんだ? いままで感じた事の無いものだ。よくわからない。目の前の男が敵意を持っていることはわかる。その敵意を受けたときに、何かを感じたのだ。

――この【魔人】は【恐怖】を感じていたのだ。


 ディオールが突進した。地を這うような姿勢で一気に間合いを詰めると、下から振り上げるように切りかかる。

(……浅い!)

 敵が闇雲に振りまわした腕を避けたために、斬撃が浅くなった。腕を傷つけたものの、致命傷ではない。だが。

「ぐおおおおぉ」

 【魔人】が苦悶の声をあげた。先程の背中の傷などよりも、遥かに大きな衝撃を受けた様だ。ディオールがさらに切りかかる。肩、太腿、胸を連続で切り付けるが、【魔人】の出鱈目な動きのせいで、これといった有効打にならない。

 【魔人】が腕を振りまわした。まともに食らえば一撃で終わる。ディオールは左手の皮紐で絡めとって動きを封じようとした。しかし、圧倒的な馬力を誇る【魔人】は、そのままディオールを吹き飛ばした。長身が宙を舞う。

「うっおっ!」

 さすがのディオールも受身を取りきれずに転倒した。体勢を立て直しつつ、絡めた皮紐を切り離すのが精一杯だ。

「ごおおおおおおおおお!」

 そこに【魔人】が突進してきた。ディオールは紙一重でそれを躱し、突きを撃ち込む。1撃2撃。並の相手ならその場に崩れ落ちるほどの打撃だが、これは拳を傷めただけだった。まるで効果が無い。この敵は【魔人】としては下級に属するだろう。それでも、やはり一筋縄ではいかない。

 この距離は危険だ。唯一の有効攻撃手段となり得る剣を振り切れない。――間合いを離さなければ。この相手に牽制は無意味だろう。関節技や投げ技は自殺行為だ。ならば蹴りだろう。頭は狙わず、まずは膝下に一撃。体勢が崩れたことを確認しながら、胸元を蹴り抜いた。この一撃で、さすがの【魔人】も後退した。いかに怪力の【魔人】といえど、重心崩しと体重差による衝撃は有効だ。

 両者は間合いをとって見合う形になった。一呼吸おいて、【魔人】が突進してくる。

 正攻法では駄目だろう。そう判断したディオールは、左手で自分の外套を巻き取り、投げつけた。敵はそれを避けようともしない。それ自体には殺傷力は無かったために、狂い病んだ精神には、その危険が伝わらなかったのだ。狙い違わず、視界をふさぐ。

――そこに決定的な隙が生まれた。

 それはたったの一瞬。だが、それで十分だった。その瞬間、ディオールの長剣は過たず【魔人】の胴を薙いでいた。

 【星】剣は、【魔人】の生命を撃ち砕いた。たったの一撃。だが、それだけで【魔人】は滅びたのだ。


 戦慄の夜が明けた。とうとう、この絶体絶命の危機を全員無事に乗りきったのだ。

 昨夜の内に、襲撃者の正体などを調べたかったのだが、あいにくと、そんな余裕は誰にも無かった。ティフはショックで力尽きていた上、ディオールも少なからず消耗していた。

「そっちはどう?」

 サティンは小屋の周りを見回しながら、同様に周囲を注意深く見回しているディオールに訊いた。

「駄目だな」

 昨夜の襲撃者たちの痕跡を調べていたディオールが応える。彼が打ち倒した4人――内一人は息があったらしく、既に逃亡していた――と、どうやら同士討ちしたらしい5人と、彼らが残したものを調べてみたが、これといったものは発見できなかった。

「そう。仕方が無いわね」

 それはサティンにも想像できたことだ。別段に落胆することでもない。

「それにしても……昨夜のアレ、本当に【魔人】だったの? そうだとしたら、なぜ?」

 目の前で行われていた戦闘は人知を超えていた。なるほど、まさしく【魔人】というイキモノだったのだろう、アレは。

「【魔人】は強力な能力を持ってはいるが、反動も大きい。狂った【魔人】が何を考えていたかは、俺にもわからん」

 昨夜の【魔人】は完全に狂っていた。どういう経緯でサティン達を襲ったのかなど、知りようがない。襲った本人にもわかっていなかったのかもしれない。

「ともかく、長居は禁物だ。お前はまだ辛いかもしれんが……やむを得まい」

 ディオールはそう言ってティフの方を見る。

「わかってる。大丈夫だから。早く行きましょ」

 ティフは昨夜に比べかなり回復していたが、さすがに常のような元気は無いようだった。それでも、そう言う。甘えるつもりはないようだ。

「昨日のは凄かったぁ! なんていうのかな……こう、ぎゅーっと、強烈な圧力みたいなのを受けたと思ったら、ガツーン!って感じでさ。高いところから落ちて地面に叩きつけられたみたいだったよ。あんなのは二度と勘弁してよ」

「ごめんなさいね……。本当にティフには助けられてばっかりね」

「いいの、私がしたくってそうしてるんだから。でも、扉を【式使】の守護ごと突き破るなんて、信じられない!」

「あの馬鹿力なら、小屋ごと潰せると思うわよ?」

 それどころか、石造りの城壁くらいは突破して見せるだろう。しかし、ティフが首を横に振る。

「昨日も言ったけど、【式】というのは世界の在り方そのものに干渉してるの。私が負けない限り、あの扉は絶対に開かないはずだったの。腕力の強さなんて関係ないの。むしろ、力が強ければ強いほど、反動があるだけのはずなのに」

 【式】で物理法則を曲げていたのだ。どれほど強い力で扉を殴ったところで、その衝撃が扉に届かないのでは、破れる道理がない。どんな怪力の持ち主でも、正攻法では破れたはずがないのだ。

「姉さんはどう思う?」

 だが、リアは妹の問いかけには応えない。わからないのか、それとも声が聞えていないのか。

「お前には時間がたくさんある。自分で調べてみてはどうだ?」

 ディオールが口を挟んだ。

「ムムム。その言い方……なにか知ってるよね?」

「すぐに知りたいのであれば、隠すことでもない、教えてやる。とりあえず、ここを発つ方が先決だ」

 馬車と、それを引く馬が無事だったのは幸運だった。全員が乗りこんで、馬車は森の街道を走り出した。心なしか走行速度が速い気がする。どうやら、御者の方が早くこの忌々しい場所から遠ざかりたくて仕方がない様だ。サティン達にしても同じ気分だが、どうにも御者の様子が尋常ではない。馬を潰さなければよいが。

「【魔人】というものはだな……」

 ディオールが語り始めた。

「【意志】が肉体を支配している人間のことだ。俺はそう理解している」

「そんなの当たり前じゃないの?」

 人は意志によって手を動かし、足を動かしている。食事も、会話も、全部意志によって行っている。

「違うな。そうだな……例えば……なんらかの大怪我、それも致命傷を負ったとしよう。そのとき何を考える?」

「『死にたくない!』じゃないの? よくわかんないけど」

 死の瞬間、自分が何を想うかなどと、考えたことのある人間は希少だろう。

「だが、普通は助からんな。そのまま死ぬ」

「まあ、そうでしょうけど?」

「ところがだ。【魔人】は本当に死なない。『死にたくない』と思う、そのことが本当に肉体を生き延びさせる」

「?……よくわからないわ」

 ディオールの話はよくわからない。二人の困惑を感じた彼は、さらに説明を続けた。

「常人の場合、肉体が意志を裏切ることは少なくない。どれほど強く『死にたくない』と願っても、死ぬときには死ぬ。断崖絶壁にしがみついている時に、『手を離しては駄目だ』と思っても、やがて力尽きて落ちる。他にも、そういうことは多々あるだろう? だが、【魔人】は違う。死にたくないと思えば、本当に死なない。崖から落ちることは決してない。彼らの肉体は意志を裏切らない。そのことに、多少の物理的なことは無関係だ。少し極端に言えば、彼らに『やろうとして出来ないこと』は存在しないとも言える」

「えー! じゃあ、【魔人】には【式】が効かないっていうの?」

 この話が本当だとすれば、物理法則を操る【式使】ですら、【魔人】に対してはまったくの無力という事になる。

「そういうわけではないな。彼らが強い耐性を持っていることは確かだ。しかし、無論、彼らにも限界がある。『やろうとして出来ないこと』はないが、『やろうと思いつかないこと』や『やりたくないこと』は達成できない。敢えて言うなら、気の持ちように限界があるということだな」

 気の持ちようだけでそこまでされては、常人には堪ったものではない。文字通りに怪物ではないか。なまじ人の形をしている分、たちが悪い。

「じゃあ、貴方は? どうやって昨夜の男を倒したの? その話を聞く限りじゃ、剣で殺せる相手とは思えないんだけど」

 昨夜、ディオールの剣に貫かれた【魔人】は完全に絶命していた。実効打は最後の一撃だけだったにも関わらず。

「この剣は【生命】を破壊すると聞いたが。実際のところ、なぜこの剣で【魔人】が殺せるのかはよくわからん」

 ティフとサティンは、今の話に何か不自然なものを感じたが、訊くのはやめておいた。


 それから2日ほどかけて、無事、カイムの街に着いた。まあ、そうそう事件ばかり起こってもらっても困る。

「もう、こんなのは勘弁してくださいよ」

 郊外の駅に着くなりそう言うと、4人を降ろして御者と馬車は逃げ出してしまった。よほど骨身にしみたらしい。過度の迷惑をかけたのだし、追加料金でも払おうかとも思っていたのだが、行ってしまったのだから仕方がない。

「あー帰ってきた!って気がするなあ、ねえ、姉さん」

 リアは何も応えない。いつものことだ。

「じゃあ、ここでお別れかしら」

 最初から、サティンはここでティフと別れるつもりだった。だけれど、正直言って、寂しい。彼女には何度も命を救われたし、なにより、初めての外の友人なのだ。別れが名残惜しかった。

「そんなこと言わずにさ、せめて先生達に会っていってよ」

 だから、ティフにそう言われたとき、心から嬉しく思った。

「お邪魔にならない?」

 逃げていってしまった御者のこともある。無関係な人間を、これ以上巻き込みたくなかった。

「大丈夫、大丈夫! 先生は凄いんだから! ねえ、姉さん」

「ええ、是非」

 どきりとする。リアが口を開くのは滅多にないのだ。それ故にか、不思議と信頼してみようという気になる。

「ね、だから行きましょ。あっ、こら、そっちのにいさんも一緒に来るんだからね!」

 「にいさん」とはディオールのことだ。苦笑い。

「わかったさ。だが、少しだけだぞ」

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