大空の詩
瓜庵
第一部:陽の章
第一話 そして出会った二人
潮の匂いがする。サティンはぼんやりとそんなことを考えていた。
ダイクの港。300年の歴史と繁栄を誇る真王国北の雄、フレイズ藩主が領有する港の一つ。さほど大規模な港ではないが、フレイズ藩にとって貴重な貿易港だ。サティンはその往来に一人立っていた。
少し肌寒い。もう十一月になるのだから当たり前だ。こんな見かけだけのぺらぺらの生地の服よりも、もっと厚地のものを選んだほうがよかったかもしれない。すこし後悔してみる。
「ま、しょうがないかしらね。このくらいは」
フレイズの夏は短い。あと一ヶ月もしないうちに、流氷が押し寄せてくる。そうなってしまえば、港は使い物にならなくなる。それまでに冬の備えができれば良し。さもなければ、凍死なり餓死なり、どちらにせよ惨めな未来が待っているだけだ。そんな目にあって堪るものかと、港は今、冬篭りの準備の真っ最中だった。
「活気があるってのはいいことだけど……落ち着きがないとも言えるわよね」
彼女に何を言われようと関係が無いとでも思っているのだろうか? 街人達が落ち着く様子はなかった。水夫や荷駄夫が慌ただしく行き過ぎ、売り子は声を張り上げている。冬の息吹を前にしてもなお、人々の顔は決して暗くない。
「これも父様の威光ってものかしらね、立派なこと」
サティン=フレイズ藩公女サティナルクレールはぼやいてみる。
サティンが乗る予定の船が出るまで、まだ少し時間がある。それでも、彼女は船の方向に向かって歩き出した。あちらのほうが落ち着いていられそうだ。
「ふう」
サティンは手近な柵によりかかって、地面に腰を下ろした。荷物を下ろして確認をする。まず、手に持っていた大琴。亡き母の形見だ。両手で抱えても余るこの大琴は、長旅ではきっと荷物になるだろう。しかし、これだけは置いていく気になれなかった。
次いで金銭。通貨の持ち合わせはそれほど多くないが、換金可能な貴金属宝石の類はそれなりに用意してある。無駄な贅沢をしようと考えなければ、かなりの長期間にわたって生活することが可能だろう。あらかじめ出入りの宝石商に見積もりをさせて、常識的な――比較的価値が低く、目立たないものを選んで持ち出してきたのだ。抜かりはない。
さらに背負っていた荷袋を開ける。数着の着替え、非常用の食料、護身用の短刀と、順番に確認しているうちに、一番奥にしまってあった数個の小筒に目が留まる。父より預かった親書だ。
「……レイシュには悪いことしたかしら?」
サティンは口うるさい守役の顔を思い浮かべた。
――彼女のような立場の娘が、供も無しにこのような場所にいるはずがない。彼女の本来の目的は、各地の領主へ親書を届ける使者なのだ。仮にも真王国八藩主の一柱、フレイズ藩の第一公女なのである。当然ながら、数十もの護衛やら世話役やらが付いている。しかしまさか、その主人たるサティンが、これぞ機会を得たりと、使節団を抜け出してきてしまうなどとは、想像もできなかっただろう。誘拐事件などと誤解されないように残してきた書き置きが一両日中には発見されたはずだが、後の祭りである。残された彼らは今頃、一つ前の街で右往左往しているだろう。
「ううん。多分、これで最後だから。レイシュには悪いけど、今回限りはぐっと堪えてもらうとしましょう」
サティンには目的があった。五年前に行方不明になった妹、リィン=リィンドレイク・フレイズを探すのだ。いや、行方不明というのは正確な表現ではないのかもしれない。妹は12歳の幼さでフレイズを飛び出し、それきり音信不通なだけだ。
激しい妹だった。探し出したところで、フレイズに帰るなど、決して承諾しないだろう。それでも、消息くらいは知っておきたい。五年前までは、仲の良い姉妹だったのだから。
父、フレイズ藩主ヴィダルモールはサティンから見ても底の見えない人物で、娘にすら全く隙を見せようとしない。とうの昔に妹の所在を掴んでいるのか、そもそも探しもしていないのか、良くわからない。聞いて教えてくれるような父ではない。ならば、自分で探してみようと考えるのが、サティンという娘だった。今回は絶好の、それも最後の機会だった。あの船に乗ってしまえば、追っ手を振り切れる。北海を越えて、自由国境域まで辿り着いてしまえば。あの船が今年最後の便なのだ。
(この親書は処分したほうがいいかしら?)
そんなことも考えたが、思いとどまった。旅先では、どのような危険があるかわからない。そんなとき、これは自分の身を守ってくれるかもしれない。フレイズの印章にはそれだけの力があるのだ。処分はいつでもできる。大事にしまっておくことにした。
そんなことを考えながら荷物を整理しなおしているサティンに、女の子が声をかけてきた。
「ねえ、綺麗なお姉さん」
「綺麗なお姉さん」とは、サティンのことだろう。彼女は美しい。白銀の髪と美しい顔立ち。180cm近い身長は女性としては相当な長身だが、それを感じさせないしなやかな体つきは、今年で21歳になる彼女を、10代の少女の様にも見せていた。そして、彼女の外見を最も特徴付けるのは、その瞳だろう。右目は藤色、左目は髪と同じ白銀という神秘的な容貌は、一目見れば二度と忘れないほど、強烈な印象を与える。近隣では【白夜の歌姫】と呼ばれる美姫なのだ。
「私に、なにか用かしら?」
サティンはそんな返事をしながら、視線をそちらに向けた。
「うん」
赤い髪をした、10歳くらいの少女が立っていた。興味津々といった感じで、サティンに向かって微笑みかけている。
サティンは素早くその子を観察する。追っ手ではなさそうだ。身のなりは風変わりではあるが、清潔で、無法者の手先にも見えない。――と、そこまで考えて、思い当たるところがあった。この特異な服装――この少女は【式使】なのだ。世界の知を集め、理を超える【式】を振るう賢者達の一人だ。サティンは【式使】というものに直接会うのは初めてだった。つまり、その程度には珍しい存在だという事だ。
「綺麗なお姉さん、楽師なんでしょ。船が出るまで、一曲お願いできないかしら?」
この少女が勘違いをしたわけではない。現在、サティンは楽師の格好をしているからだ。この少女から楽師に見えたというのであれば、変装は成功していると見ていいだろう。サティンは内心でほくそ笑んだ。勿論、彼女には楽師としての素養がある。伊達に【白夜の『歌姫』】なのではない。これは亡き母の教育の賜物だ。
「綺麗なお姉さんとは、私のことかしら?」
サティンはつい上機嫌になって、わかりきったことを聞いてみた。
「そう! 夜空の星が輝くみたい! 太陽の光とはまた違う、そう……夜の、雪の光ね。貴女みたいな人がどんな歌を歌うのか、興味が沸いちゃって」
その女の子は、大きな翠の瞳で覗き込む様にして言った。随分と詩的な表現をする子だ。
「まあ、ありがと! お礼に、お代はタダにしてあげるわね」
最初から金など取る気はない。それでも、そんなことを言った。
「わあ、それ、すごく嬉しい! 実はおこづかいの残りがもう怪しくてさ、えへへ……ありがとう。じゃ、姉さん、ここに座って。一緒に聞きましょ」
少女には連れがいた。16歳から18歳くらいの娘だ。この娘も【式使】の服装をしている。どうやら、この子の姉らしい。その娘は、妹に手を取られつつ、ゆっくりとその場に座った。その動作がひどく虚ろなものに見えたのが、少々気になる点だ。
「あのね、姉さんは心の病気でね……。だいぶ良くなってはいるんだけど……」
サティンの視線に気が付いたのだろう。少女が少し沈んだ声でそう言う。
いかにも勝気で元気な妹に、人形じみた姉。はっきり言って、とても姉妹には見えない。よく見れば、目鼻輪郭の造形には似ているところがある。しかし、あまりに印象が違いすぎるのだ。身に纏う色も。妹の持つ、朱と翠の明るい取り合わせに対し、姉の方は黒髪に琥珀の瞳という、落ち着いた雰囲気を感じさせた。
それでも、両者の間には明らかな共通点があった。知性溢れる瞳の光だ。【式】を扱うには膨大な知識が必要になるという。それを支えるだけの知性が、二人にはあるのだろう。
「ごめんなさいね……。さあ、どんな曲にしましょうか?」
不躾を詫びつつ、サティンは大琴を抱えた。
「せっかく港にいるんだし、海の曲。望洋詩がいいな」
「わかったわ」
サティンは一曲の歌を頭に浮かべる。かつて真王国を捨て、自由国境域へ旅立っていったアーメルテインという女性の歌がよいだろう。まさに今の自分にこそ相応しい曲だ。
「じゃ、はじめるわね」
結局、女の子の熱烈なアンコールを受けたサティンは、そのまま3曲ほど歌う羽目になった。そうして、歌が終わるころには、船に乗る時間になっていた。別れを告げて船に向かおうとしたのだが、奇遇にも、姉妹も同じ船に乗るのだという。それならばと、このまま三人で行こうということになった。
そうして三人で歩きつつ、互いに自己紹介をする。姉妹は姉がリア・アルセルト、妹がティフ・セントールと名乗った。リアとティフだ。どうやら自由国境域人らしい。
――自由国境域では父親がファーストネームを、母親がセカンドネームを名付け、生まれてきた子供が男子ならばセカンドネームを、女子ならばファーストネームを名乗る。もしも、この二人が男だったならば、アルとトールとでも呼ばれていただろう。
真王国では両親のどちらかから姓を受け継ぎ、自由国境域のそれに比べて長めの名を名乗り、しばしばその略称を用いる。これは真王建国以来の風習となっている。
サティンは偽名を使おうかとも思ったが、やめた。自分を「サティン」と呼ぶ者は妹と亡き母だけだ。公的には「クレール」が略称ということになっているから、名前から正体が露見する可能性は低いだろう。そんなことよりも、このやたらと目立つ瞳と髪を気にするべきだ。髪はともかく、瞳は変装のしようが無い。いつまで誤魔化せるだろうか? おそらく、長くは保たないだろう。
「で、私達は先生のお使い兼休暇の帰りってわけ。サティンは何をしに行くの? もしかして、愛の逃避行とか? アッハハハハ! でも相手がいないや! でも、サティンなら選り取りみどりだと思うよ。ねえねえ、こういうのはどう? どっかの街のお偉いさんをたらしこんで、乗っ取っちゃうの!」
そんなことをするまでもなく、サティンは次代フレイズ藩主だ。真王国八藩主の力は自由国境域の都市領主など遙かに凌駕している。だが、そんなことはおくびにも出さずに言う。
「あらあら、自分を知らないって怖いわ。あと5年もすれば、貴女だっていい線行くと思うわよ。素敵な人をお捕まえなさい」
無論、二人とも本気でそんなことを考えてはいない。そんなことを言いながらも、サティンは周囲に目を配ることを忘れない。追っ手はいない様だ。どうやら、この賭けは彼女の勝ちとなりそうだった。
(あれは……?)
視界の隅に、いかにも戦いを職業にしている風に見える二人の男が映った。サティンは一瞬ドキリとしたが、すぐに思い直した。二人は船長らしき人物と話をしているだけの様だ。その様子から察するに、3人は古い友人か何かなのだろう。そういえば、この船の船長は、かつて自由国境域の軍人だったと聞いた。その関係者だろう。
サティンは男たちと関わる事も無く、船室まで辿り着いた。もちろん一等船室、と言いたいところだが、残念な事にこの船は、本来は客船ではなく、交易船だ。貨物に余裕が在る場合に、ついでに人間も輸送しているとのことだから、この部屋も倉庫と兼用なのだろう。それでも、清潔で風通しの良い部屋だ。
旅先では避けられない相部屋と、それによる身の安全の確保の難しさは大きな課題だったのだが、信用のおけそうな二人の友人を得たのは幸先が良かった。【式使】に狼藉を働く愚か者も滅多にいないだろう。
この時期の北海は嵐などにも滅多に出くわさない。気の早い流氷に激突するようなことがなければ、たいした危険はないはずだ。10日程度で、自由国境域のダウ港まで着く予定だ。
そうしていると程なく、鐘が激しく打ち鳴らされた。出港の合図だ。フレイズはどちらかといえば山岳地だ。海を見るのは久しぶりなのだ。これからの旅路への期待もあって、胸が高鳴る。手を広げ、胸一杯に海の風を吸い込んでみる。
そうしていると、ティフ達も荷物の片付けを終えたようだ。
「ね、無事出港したことだし、食事にしない? 一緒に行きましょ」
三人が食堂に着いた時には、既に先客がいた。先程、船長と話をしていた戦士風の二人の男だ。
「あれー? 一番乗りだと思ったのに」
ティフが残念そうな声をあげる。すると、二人組の片方が言った。
「ははは、すまないな。港で食い損ねたんでな。一番乗りは俺達が頂いた」
がははと笑う。随分と陽気な男のようだ。
「うむ、ならばしかたない、ゆるしてしんぜよう」
それを受けて、ティフがおかしな返事をした。この娘は実に物怖じしない、剽軽なところがある娘だ。
サティン達は彼らと同じ卓に腰を下ろした。そうしながら、サティンは二人を観察した。――どうにも、この観察癖は直らない。楽師としての習性ではあるのだが。
いましがた声を掛けてきた男は20代前半くらい。オレンジの髪と青い瞳の取り合わせはよく映えて、すっきりと見せていた。長身……サティンより少し上回る程度だから180cm程度だが、その一方で、やけに痩せて見えた。実際にはさほど痩せてはいないのだが、妙に手足が細長く感じられて、蜘蛛を連想させたのだ。しかし、その一方で、貧弱さのかけらも感じられない、不思議な力強さがあった。
もう一人は20代後半くらいの男で、さらに抜群の上背があった。190cmは優に超えているだろう。巨躯というべき体格でありながら、それでいて鈍重さのかけらもなく、「切れ」のようなものが感じられた。黒髪、漆黒の瞳の取り合わせも珍しいが、それ以上に、地の果てまで射抜くような眼光が印象深かった。それでいて、威圧されるような視線ではないのが不思議だ。こちらは先程から一言も喋らない。サティンはこの男に不思議な既視感を覚えた。
「で、お前らどういう旅なんだい?」
細い方の男にそう言われて、ティフが簡単に自己紹介をする。無論、サティンの本当の目的は明かしていない。とりあえず、旅の楽師ということにしておいてある。
「ほー、【式使】ねえ。俺には理解しがたい代物だな。そうそう、俺はカーツォヴ。こいつはディオールだ。ま、旅の目的は聞いてくれるな」
また、がはははと笑う。
(どっかで聞いた名前ね……?)
サティンがそんな思索をする間にも、ティフとカーツォヴという男とでじゃれ合いをしている。二人とも、相性が良いのか悪いのか。
「うあ~唾が飛んできたぁ……汚いなぁ、もう! 食事中でしょ!」
「ははは、すまん、すまん」
そこで、もう一人の男、ディオールと紹介された方が、初めて口を開いた。
「貴女は……サティンといったな?」
低いわけでも高いわけでもない。だが、不思議とよく通る声だ。
「ええ。それがなにか?」
「いや……すまない。何でもない」
ディオールはそれきり喋らない。なにか考え事をしているかのようでもあった。
先程から、サティンはこの男から妙な既視感を受け続けている。いや、間違いない。自分はこの男の姿に見覚えがある。
「貴方……私と会ったことない?」
「無いと思うな。おそらく。俺とて、貴女ほどの女性を覚えていないほど不躾ではない」
そんな世辞は軽く流して、なおも考える。名前にも聞き覚えがある。
(……ディオール、ディオール?……まさか……ねえ……でも、一応)
「もしかして、あのテス・ディオール?」
男は少し苦い表情をしながらも、はっきりと応えた。
「そうだ」
「……まあ」
夢の様だ。テス・ディオールといえば、【蒼鷲】【群青の戦士】の三つ名を持つ伝説的存在だ。大人から子供まで知っている大英雄だ。道理で姿に見覚えがあるはずだ。彼を讃える絵画が何枚も城の廊下に飾ってあったのだ。
【群青の戦士の伝説】はこう伝えている。10年前――真王国暦293年、真王国に辺境の異民族が同時に侵入してきた。彼らは真王国軍を圧倒した。一説には真王国軍の中枢に内応者が居たとも言われているし、【魔人】の助力があったとも言われている。真相はともかく、精強無比を誇るはずの真王国連合軍の動きが奇妙に鈍かったのは事実である。
そして、アームの峡谷で決戦が行われた。圧倒的な戦力差を前にして、真王国軍が総崩れになりかけた、まさにその時、敵軍の後方から小部隊を率いて乱入した男が在った。そして、その男は真王国軍を勝利に導き、真王国の秩序を取り戻すことに大きく貢献した。その功績を称えられ、既に得ていた【蒼鷲】の名に加え、【群青の戦士】――彼は常に青い装束を身に付けていたと言われている――の名を得た。弱冠19歳の英雄の誕生だった。戦後、報償も求めずに真王国を去ったことと、彼が率いた部隊の出自が明かされなかったことから、国威高揚のために生み出された架空の人物だったという説さえあった。テス・ディオールといえば、まさしく生きた伝説なのだ。
「信じられないわ。……こんなところで会えるなんて」
サティンはテス・ディオールのことをよく知っていた。【群青の戦士の伝説】は、しばしば歌曲の題材になるのだ。勇ましく高潔な英雄譚は人を選ばず受けがいい。
「へえー! 貴方、そんな大物だったんだ。私って運が良いなあ」
ティフも驚きを隠さない。だが、ディオールは静かに言う。どうやら、この話題は避けたいようだ。
「できれば、他言無用にしてくれないか。騒ぎを起こしたくない」
「……わかったけど」
サティンは、このディオールという男とさまざまな話をしてみたかったのだが、なぜか言葉が出てこない。緊張とは違う。なにか人を寄せ付けないものが、この男には在った。しばらく一緒に食事をしていたが、そのうち二人の男は立ち上がって、食器を片付けて去っていった。
「なんだか変わった人達ね。こう、なんていうんだろう……もの凄い迫力というか、殺気みたいな物を感じるんだけど。不思議と怖くないのよね」
そう言いいつつ、ティフは姉の口に食事を運ぶ。こうして見ていると、この娘はよく働く。姉の介護など、面倒とも思っていない様だ。勝気に見える少女が優しく介護をする姿に、サティンは好感を抱いた。
「お姉さん、その……原因はなんなの?」
「知らない。私が物心ついた頃からこうだったから」
ティフはこともなげにそう言うが、つまり、彼女は姉の健康な姿を知らないということになる。それは不幸なことだ。おそらく、彼女自身が考えている以上に。
「そう。ごめんなさいね、変なこと訊いて。そうね、お詫びと言ってはなんだけど、また一曲歌ってあげるわね。なにがいい?」
これには、ティフは迷いもなく応えた。
「【群青の戦士】の歌! ちょっと興味沸いちゃった。当然、知ってるんでしょ? 有名だものね!」
そのまま3日ほどは、何の問題もなく過ぎた。二人組の男とも、あれ以来、これといった接触をしていない。
最初はさまざまなものが新鮮に見えたのだが、やがて飽きてしまった。はっきり言ってしまえば、サティンは退屈していた――彼女は元来、相当に飽きっぽいのだ。船内はほとんどすべて見て回ってしまったし、天候は至って順調。他の乗客相手に歌ってみたり、【式使】姉妹と話をしてみたりもするが、そろそろ刺激が欲しい。
甲板から遠くを眺めながら呟く。
「うーん。なんか、こう、面白いことでもないかしらねえ」
彼女の祈りが空に届いたのだろうか? 見張りの男がなにやら声をあげた。慌てている。どうしたのだろう? 野次馬根性を発揮したサティンは、さっそく船員の話を聞き集めはじめた。どうやら小型船が後を追ってきたらしい。ただ、海賊船にしては小さすぎるらしいとのことだ。
誰かに詳しい話を聞いてみよう。そう思い立った、ちょうどそこにティフがいた。彼女もまた、サティンを探していたようだ。
「あ、いたいた。サティン! 話聞いた? なんでも、フレイズの役人がこの船を追っかけてきたんだって! なんだろ? もしかして密輸の取り締まりとかかな?」
サティンは眩暈を感じた。彼らの目的はサティン自身以外にあり得ない。彼女がどこに消えたか素早く察知して、追跡してきたのだろう。口うるさい守役のレイシュの顔が浮かぶ。忠実にして謹厳な近衛隊長殿はいまいましいほどに有能だった。姿を消したお姫様の動機と目的を素早く察して、少数精鋭で追いかけてきたのだ。
それにしても、海の上に出てしまえば大丈夫だと思っていたのに、まさか足の速い小型船で追いかけてくるとは。そこまで無理をするとは思ってもいなかった。
「どうしたの? 青い顔して?」
困ったことになった。ここは海の上だ。逃げ場がない。隠れてやりすごすには、サティンはこの船の中で目立ちすぎていた。シラをきるのも無理だ。他人の空似で通じるはずもないことはよく理解できている。かといって、ここまで来た挙句、ただ捕まって連れ戻されるのでは面白くない。なんとかしなければ。
(どうしよう……)
「なんだあ? あんな船で追いかけて来たっていうのか? 無茶するなあ」
そんな声がする。確かに、追ってきた船は小さい。おそらくは、十分な物資は積んでいないだろう。
(悪いことをしたかもしれないわね)
そんな船で追いかけてきたレイシュに少し同情してみる。その素晴らしい忠誠心は、もう少し別の方向に有効利用してくれれば良いものをと、思わないでもない。
(……この船が見つからなかったら、どうするつもりだったのかしら。遭難してしまうかもしれないのに)
サティンの脳裏に打算が巡った。簡単なことだ。自分がレイシュに捕まる。しかし、あんな小船では真王国まで連れ戻すことも、単独で自由国境域まで行くこともできない。つまり、この船と共に行くしかない。向こうに着いてしまえばこちらのものだ。供の人数も減っているし、再度抜け出す機会も得られるはずだ。親書もまだ持っている。いざとなれば、使者としての役目を盾にすればいい。彼女は覚悟を決めた。
「ねぇ、どうしたのってば!」
ティフがずっと呼んでいたようだ。考えに没頭していたせいで気が付かなかった。
「さっきから青くなったり、ニヤニヤしたりして。変なの! もしかして……心当たりあるの?」
ティフをどうしたものか。正直に打ち明けてしまおうか? この娘ならば、きっと味方になってくれるだろう。向こうに着いてからの脱出を手伝ってくれるかもしれない。
「えーとね、実は……」
小型船が接舷した。5人の武装した男が上がってくる。その先頭にレイシュの姿を見つけて、サティンはげんなりした。寸前まで、何かの間違いだったなら良いと思っていたのだ。
しかし、なにやら様子がおかしい。真っ先に自分を探しに来るかと思っていたのだが、それよりも先に船長達と何やら話し込んでいる。そこで一つの疑問が浮かぶ。
(なぜ、レイシュは武装しているの?)
旅装や儀礼装などではなく、臨戦の完全武装だ。両手剣や斧槍まで持ち込んでいる。なぜ、レイシュはこれほどの重装備で現れたのだろう。サティンを連れ戻すだけならば、武装の必要はない。男どもを千切っては投げる女傑というわけではなく、肉体的には常識的な女性なのだから。つまり、女一人を連れ戻す以上の荒事が予測されたということだ。
船長が船員に何か指示を出した。慌ただしく船員達が散っていく。緊迫感が船を包んだ。
(これは……なにかあったわね)
そうして、ようやっとレイシュがやって来た。
「サティン殿!」
いつもの「クレール様!」ではない。つまり、その名を出すわけにはいかない、なんらかの事態になったと見ていいだろう。サティンは頭を切り替えた。
「サティン殿。少々問題が発生しました。……ここではなんですので、貴女の船室に案内しては頂けませんか?」
小声で言う。レイシュの目は笑っていなかった。自分の守役がこんな冗談を言うような人間だったならよかったのにと思いつつ、サティンは自分の船室へ案内をすることにした。
フレイズの小型船が接舷したとき、ディオールは船室にいた。フレイズの役人になど興味がなかったからだが、部屋までやってきた船長の話を聞いては、さすがにのんびりとしてはいられなかった。
「私掠船だと? ばかな、この時期にか?」
この船は今年最後の便になる。それが沈んでしまえば、多くの人間が飢える。道理もわきまえない海賊ならばともかく、私掠船、つまりは軍船が、この時期に北海を航海する交易船に攻撃を仕掛けるのは禁忌となっているのだ。
「だが、本当のことだ。先程のフレイズの軍人の情報と、船仲間の情報が一致する。おそらく今日の昼すぎから夕方には……遅くて明朝だな」
船長――名をカトゥ・キリングといい、かつて自由国境域の都市ファルファイファの軍士官で、ディオールの戦友の一人だった――が説明する。百戦錬磨とまではいかないが、充分な戦闘経験がある男だ。緊張はしているが、狼狽している様子はなかった。ディオールも思考を切り替えた。戦士としての自分が覚醒していく。
「こちらの戦力は?」
「武器で戦える船員は半分……40ってところだ。それにフレイズの軍人5人。ただし、船上戦闘の経験は少なそうだな。斧槍なんて持ち込んで何に使うつもりなんだ」
確かに腕は立ちそうなんだがなあとぼやいて、船長はやれやれと手のひらを見せる。
「フレイズは陸の雄だ。無理もなかろう。客は?」
「俺が見た限りでは、客で戦力になりそうなのはお前さん達だけだ。知ってのとおり、この船は、本当は客船じゃないんだ。もともと、たいした数は乗ってない」
「敵の戦力はわかるか?」
「おそらく、中型の巡洋船2隻といったところかな。最初から、この船を狙っていたのなら、な」
この規模の船を制圧するためには、それなりの人数が必要だ。かといって、大船団を組むわけにもいかないだろう。足が速い船でなければ追いつけないからだ。2隻で挟み討ちにするのが常套となる。無論、禁忌破りの私掠船団に、常識が通用するとも限らなかったが。
「了解した。できるだけ早く準備する」
「物分りが良くて助かる。フレイズの連中には話を通しておいたから、細かい調整は任せるよ。無事に向こうについたら、いくらかは出してやるからよ。頼りにしてるぜ、【蒼鷲】!」
そう言いながらディオールの腰の上を叩いて、船長は足早に去っていった。他にも準備があるのだろう。ディオールはそれを見送ることなく部屋に戻った。面倒ではあるが、協力せざるを得まい。甘んじて海の藻屑になるつもりはない。
「【蒼鷲】、か……カーツォヴ、貴様も手伝え。俺はフレイズの軍人とやらに会ってくる」
「わあった、わあった。寸前になったら呼べ。俺は寝る」
ディオールとキリング船長の会話を聞いていたはずのカーツォヴだが、何か準備をするでもなく、そのまま寝台に寝転がってしまった。まったく緊張感が無いが、この男はもともとこういう男なのだ。自分が死ぬかもしれないなどと、考えたことも無いのだろう。しかも、それが驕りとは言えないだけの実力を持っている。現在のディオールにとって、最も信頼できる戦力だ。
「ま、お前も適当にやれ、適当に。【蒼鷲】様はこんなところじゃくたばりゃしねえ。俺が保証してやる」
傲然とそう言い放つ。この男は時折おかしなことを言う。今の言葉も、自信と信頼の顕れと言うよりも、むしろ予言じみていた。しかも、この男の予言は滅多なことでは外れたことがない。
「……では、後でな」
そんなカーツォヴを放って置いて、ディオールは部屋を出た。
自分が参戦するのは良いが、フレイズの軍人達と詳細を詰めなければならない。そう考えたディオールは、彼らの後を追った。行き先は想像がつく。案の定、あのサティンという娘の部屋の中から声が聞こえた。
「クレール様。よくお聞きください。この船は、まもなく私掠船と接触いたします」
(やはり。フレイズの公女か)
あれほどに特異な容姿をした娘は、二人と在るまい。どうして一人でこんなところにいたのかは知らないが、フレイズ藩主ヴィダルモールは策略家として知られている。何かしらの任務があったのかもしれない。ディオールはそう考えた。――真相は大分違うのだが。
「私掠船?! どうして? 考えられないわ。この時期にそれはありえないでしょう」
どうやら、彼女もディオール達と同じ疑問を抱いたらしい。思ったよりも聡明な娘だ。
ディオールが中の様子にかまわず呼びかけるとすぐに、中から40代半ばの男が現われた。その男は、軍人という割には、それほど武骨には見えなかった。武装していなければ、多くの人間は文官と勘違いするだろう。しかし、この男は間違いなく精強な戦士なのだ。ディオールはこの男をよく知っていた。相手もディオールを知っていた。
「おお、お久しぶりですな。テス・ディオール殿。レイシュローグ・ハサートです。貴方もこの船にご乗船だったとは。これは心強い」
10年振りにもなる。なるほど、この男が来ていたのならば、情報が早い事にも納得がいく。精度も相当に高いと考えた方がよさそうだ。
「レイシュ殿もお変わりないようで安心した」
「いや、老けましたとも。手のかかる娘がおります故」
そんなことを言いながら、レイシュははにかんだように微笑んだ。
「テス・ディオールと知り合いだったの?」
中からフレイズの公女――サティンが顔を出す。
「……クレール様。そのようなことを言っている場合ではないのですよ」
レイシュはそう言いつつ、ディオールを部屋に招き入れた。
「ともかく、先ほど申しましたとおりに、私掠船が迫っております。貴女は我がフレイズにとって、無二のお方。ご自愛下さいませ」
「隠れていろ、ていうの?」
サティンはやや憮然とした風に言った。
「出来るならば、我々の乗ってきた小型船で落ち延びていただきたいところです」
「それは無理ね。あの船じゃ陸まで保たないじゃないの」
「その通りです」
サティンは少し俯いて、何やら考えていたようだが、すぐに顔を上げた。ディオールは、その色の違う瞳に満ちる強い意志を感じとった。
「そう、私が目的なのね。この時期はずれの海賊達は」
ディオールは感嘆せざるを得なかった。この娘が、これほど冷静に状況を分析できるとは思ってもいなかった。美しいだけの娘だと思っていた。それは侮りだっただろう。
「わかったわ。おとなしく隠れてる。レイシュ、この船で一番安全なところはどこ? 他の人達と一緒に隠れてるから」
その顔は戦う人間の顔だ。無力な娘などではありえない。
「船底の船倉と言いたいところですが、沈没時には一番危険な場所になりかねません」
言いながら、レイシュも迷うそぶりを見せた。彼らはこの船の構造をよく知らない。ディオールが口を挟んだ。
「船の中心部の船室が良かろう。そこなら船員達の戦闘の邪魔にもならんし、守備も可能だ。乗客全員を押し込めるだろう」
船員達にとっても、レイシュ達にとっても都合のいい場所だ。防衛網の中心としては最適と言える。
「わかった、そこにする。他の人達も誘導してくれる?」
「承りました。そのように取りはからいます」
「任せたからね」
部屋を出て去っていくサティン。軽やかに走り去っていくその姿を見て、ディオールは再び感嘆した。
「良い女性にお育ちになった」
「お恥ずかしい限りです。この一件で、自分がどういう立場なのか御自覚なされると良いのですが」
「いや、力強さを感じる娘だ。いい藩主になるだろう」
「ありがとうございます」
レイシュは少し赤面してはにかんだが、すぐに表情を引き締めた。
「ディオール殿。貴方にこのようなことを申し上げるのは筋違いと言うものかもしれませぬが、頼まれて欲しいことがあるのです。……他に、信用に足る者がおりませぬ故」
サティンは言われた通りの船室に向かった。こんな予想外の緊急事態にすんなり対応できることに、自分でも少なからず驚いていた。
(教育が良かったのかしら……いいえ、これは血よね)
そんなことを考えながら、部屋を手早く調べる。なるほど、壁も厚いし、窓も小さい。甲板から遠からず近からずなのも良い。しばらく待つと、20人程の乗客が集まってきた。その中にティフ達もいた。
「サティン! どうかな? 大丈夫かな?」
サティンは、自分の正体を知ってなお、ティフがまだそう呼んでくれているのを嬉しく思った。もっとも、この少女は相手が【魔人】だろうと【真王】だろうと、同じ態度で接する気もするのだけれど。しかし、それは傲慢とは違う。これは彼女の持つ最大の素質なのだ。
「大丈夫だと思うわよ。レイシュ達もいるし、それにさっき、あのテス・ディオールに会ったわ。彼も手伝ってくれるって」
テス・ディオールといえば、伝説的な英雄だ。それこそ、子供でも知っている。ほかの乗客達も、その名前を聞いて少しは安心した様だ。
「とりあえず私達にできるのは、戦える人達の邪魔にならないこと。いい?」
「私達は手伝わなくていいの?」
なるほど、ティフ達は【式使】だ。戦力になるかもしれない。【式使】の能力は、子供とはいえ馬鹿にならない。
(子供を巻き込みたくないけど……)
そう考えていたサティンに静かな声がかけられた。
「ここで、大丈夫ですよ」
その意外な声に、サティンは驚いた。ティフの姉、リアが初めて喋ったのだ。だが、リアはその一言だけを言うとまた、だんまりになってしまった。
なんとも不思議な娘だと思う。表情に乏しいその顔は廃人にも見えるが、やはり瞳の光は消えてはいなかった。いったい何者なのだろう。
「うん、わかった、姉さん」
姉の言葉に、あっさりとティフが納得する。
(随分と信頼しているのね)
なるほど、常には何も言わない分、こんな一言になんとなく信頼感がある。不思議な感じがした。
その頃、ディオールは甲板に出ていた。
「どうだ?」
「駄目だな。思った以上に相手が速い。日が暮れる前に仕掛けてくるぞ」
「そうか……。やはり白兵戦になるか」
中型の武装巡洋船2隻と、敵戦力は予想通り。大型交易船一隻を撃破するには十分な戦力だ。
「幸か不幸か、風は安定してる。やるしかあるまい。フレイズの連中はどうした?」
「彼らは船上戦闘に不慣れだ。内部を担当してもらうことにした」
彼等の任務は公女の保護だ。そちらを優先させた方がいい。甲板に出たところで、海に転落するのが関の山だろう。
「そうか。なら、俺達は相手を潰すことに専念すれば良いというわけだ。水は準備してあるか?」
「急いで準備させている。だが、少々量が足りないな」
暗くなってしまえば、軍団行動の経験の差が現れてくる。さらに、互いに火を使う量が増える。それはすなわち、自分達の生き残る可能性が低くなることを意味する。
「早まることはない。だが、覚悟は必要だろう」
自分達が生き残るためには、逃げるのではなく、相手を撃破しなければならない。それを思うと、ディオールの心は沈んだ。やれるだろうか? いや、やってみせるしかあるまい。
状況は絶望的と言って良い。しかしそれでも、船長は快活に笑った。
「ハハハ、あてにしてるぜ、【蒼鷲】。さあ、ファルファイファ時代の再現といこうか! なあに、海の上か陸の上かの違いだ、空の上のお前さんには関係あるまい!」
2隻の私掠船が近付いてくる。定石通りの、左右から挟み撃ちだ。幸いなことに、火矢や弩砲の攻撃がない。
(やはり、あの公女だな)
白兵戦でこの船を制圧して、捕虜にしたいのだろう。いずれの手の者かは不明だが、それしか考えられない。フレイズ藩の公女サティナルクレールという娘には、それだけの価値がある。それこそが、自分達の生き残る可能性を高めることになるのが皮肉だ。
その頃になって、やっとカーツォヴが甲板に上がってきた。いかにも寝起きといった風だ。軽く左右を見渡して、言う。
「どっちをやる?」
「右手を任せた」
「わかった。沈めて問題無いのか?」
凄まじいことをあっさり言うカーツォヴ。顔色一つ変えない。
「かまわん、好きにしろ。せいぜい派手にやればいい」
この男にはそれだけの実力がある。右手の敵は任せてかまわないだろう、ディオールはそう判断した。この男の戦果次第で戦局が変わる。それだけの戦力になり得る存在なのだ。
「さっきも言ったが、ま、気楽にやれ、気楽に。肩の力を抜いてな、こんなもんさくっと片付けようや」
相も変わらずに、そんなことを気楽に言ってくれる。この男はいつもこんな風だと理解はしていても、この楽観主義はどうにも受け入れがたい。
船員達の奮闘もあってしばらく粘りはしたが、大型交易船と中型の軍用巡洋船とでは、速度はともかく舵の利きが違う。結局、右手の敵船に前方の進路を塞がれてしまった。
「総員! 手近なものにつかまれ!」
キリング船長が叫ぶ。ディオール達もそれに従った。すぐに衝撃がきた。船同士が接触したのだ。木と金属とがこすり合う音が響く。さらに、もう一揺れ。交易船は右前方と左側を挟まれて動きを封じられてしまった。
いよいよ白兵戦の開始だ。水際で敵兵を食い止めたいところだが、あいにくと味方の人数が足りない上に、こちらの船が大きすぎる。こちらの甲板に上がってきた敵兵を迎撃する形にせざるを得ない。各所に積み上げられた船荷を盾に、船員達が連携して防衛線を張る。
カーツォヴはといえば、一人で右手の敵船目がけて飛び出していってしまった。理由を知らない他人の目には、自殺行為に映っただろう。
(120人。いや、前線に出てくるのは100程度だな)
敵の数を推算する。こちらの倍以上だが、勝てない相手ではない。少なくとも、ディオールはそう考えていた。
――ディオールの戦闘術は特殊なものだ。対人戦に特化すべく極限まで研ぎ澄まされたそれは、もはや異常といって良い。武装した敵を目の前にして、背中を向ける、武器を持ち変える、素手で組みかかるなど、武器戦闘における常識をことごとく無視したものなのだ。彼の卓越した身体能力は、常識では到底考えられない挙動を実行可能にしていた。
それでいて、尋常ではない速度。接近、攻撃、回避、そのすべてが恐ろしく迅い。これが2m近い抜群の体躯から繰り出されるのだ。攻撃はまさに一撃必殺の威力を秘めている。
その手に在る長剣もまた不可思議だった。通常の長剣よりさらに長く、しかも奇妙なほど細身だ。しかし、それ以上に印象深いのは、その剣がほのかに【黒い輝き】を放っていることだ。黒光りなどというものとは明らかに違う、剣それ自体が【黒く発光している】ことに気がついた者もいるだろう。見る者に畏怖を与える、そんな光だ。
右から来た敵に、右手首に巻いてある皮紐を撃ちつける。相手が怯んだと見るや、長身を腰下まで沈めて接近。横殴りの剣撃をくぐって距離を詰めると、喉下に肘を撃ち込む。首から上が吹き飛びかねないほどの一撃だ。
そのまま倒れ込みかける敵兵の腕を取って、体の位置を入れ替える。そのために、後ろから向かってきた敵兵は、味方の体に切りつけることになってしまった。盾にした敵兵もろともに長剣で貫くディオール。敵から非難の声があがるが、構わない。
いったん離れると見せかけておいて、一気に間合いを詰めての飛び回し蹴り。顔を潰された敵兵は海上へ落下していった。さらに飛び掛ってきた敵の一人を躱し、返す刀で袈裟切りにする。
――これが【蒼鷲】ディオールならではの、猛禽さながらに敵を圧倒する戦いだ。
既にディオール一人で10人近い敵兵を倒していた。只者ではない戦闘力を見せる敵を前にして、私掠船の兵達は明らかに戸惑っていた。闇雲な攻撃は効果がないと見たか、じりじりと距離を空ける。
キリング船長達も善戦しているようだ。船員達の多くが軍人、傭兵あがりである故か、行動にも統制がある。しかし、彼らがいかに奮戦しようと、結局は多勢に無勢だ。次第に劣勢に追い込まれていた。
(まだか? 案外とてこずっているな)
敵船内部に突入したカーツォヴがやったことは三つ。船尾の舵を破壊すること、船倉に火を放つこと、竜骨の中心部を叩き折ること。たかだか中型船を沈めるならば、それで充分だ。だが、それらをわずか数分で片付けるとは。
「おいおい、金のかかってねえ船だな。本当に軍船かよ。欠陥品じゃねーのか」
木片と死体の山の中で一人げらげらと笑うカーツォヴ。みしみしという音が響いて、船が折れ曲がり、傾いていく。自分の行動が充分な効果を上げたことを確認して、ようやっと彼は離脱を開始した。
右前方の敵船から火の手があがった。そのまま、急速に傾いていく。単身で特攻したカーツォヴの仕業だ。とうとう、一人で船を沈めてしまったのだ。味方の船員達が歓声をあげる。敵兵達が浮き足立つ。まさか、自船が先に破壊されるなどとは、夢にも思っていなかったに違いない。
しかしそれでも、一部の敵兵が船内に進入していってしまった。船の拿捕は諦めて、本来の目的であるフレイズの公女を探し出すつもりだろう。集団としての意志を感じる。敵兵はよく訓練されているようだ。
「すまない、ここは任せた」
甲板上はもう、味方が圧倒しはじめている。ディオールは乗客達の集められている部屋に向かった。
サティンは外の喧騒に耳を傾けていた。危険が迫っていることを少しでも早く感じ取るためだ。外にはレイシュ達がいるし、中には他の乗客もいる。怖くないと言えば嘘になるが、無様な姿を晒したくはなかった。
ティフが何やら準備を始めた。【式使】である自分ならではの武器を作るつもりの様だ。空気を凝縮して、熱の塊のようなものを宙に形作りはじめている。
【凝縮】【熱】などを意味する言葉が、ティフの口から漏れ出る。手を宙に閃かせて、なにやら文字のようなものを描いているようにも見える。これが【式】というものか。サティンに【式使】としての素養があったならば、ティフの動きに従って、【式】が構築されている過程が見えただろう。しかし、素養がない人間には、その結果を感じ取ることしかできない。
「どうせなら、敵の接近を知らせる結界とかは作れないの?」
ティフの準備が一段落つくのを待って、サティンは口を挟んだ。
「無責任な事言わないでよ。これで精一杯」
「【式使】は雷霆で敵を撃つとか聞いたけど?」
無茶を承知で聞いてみる。そんなことができるのなら、最初から敵船を燃やしているだろう。
「誰よ、そんなデタラメ言ったのは。【式】にできるのは、この地上での約束事をちょっと無視することだけ。雷なんか呼べないよ」
「その熱球も大差無いと思うけど?」
「大違いよ。これはね、熱量の法則を……って、そんなの後で説明してあげるから。とにかく、これ以上は無理」
ティフはそう言いつつも、さらに次の【式】の展開を始めた。今度は空気の剣のようだ。それ自体は透明なのだが、蜃気楼じみた歪みのようなものを感じる。おそらくは空気の圧力と振動をぶつける武器なのだろう。どの程度の威力を秘めているのかわからないが、ティフの態度を見る限り、鉄の剣よりも信頼できるようだ。
熱球と空気剣。【式】の構築が終わると、彼女は深いため息を吐いた。どうやら、この二つが彼女に維持できる【式】の限界らしい。
「面白そうね、【式】っていうものも」
こんなことを言っている場合ではないのは、サティンとて百も承知している。それでも、この緊張感が息苦しいのも確かだった。ティフにしても同じことなのだろう。さすがに表情が硬い。リアだけが、ティフを後ろから抱きかかえる様にしながら、涼しい顔をしていた。他の乗客達は推して知るべしである。
「勉強することは楽しいよ? まあ、サティンは頭良さそうだし、それくらい……あ! っ……」
唐突に、外の喧騒が激しくなった。敵の接近を許したのだろう。扉のすぐ向こうから金属同士を打ちつける音が聞こえてきた。船室内を凍りついた緊張感が支配した。ぐしゃりという、聞き慣れない音。何かバシャバシャという水音。人の断末魔も聞こえた。
(彼らは私のために戦っている。私のために死んでいっている。目を逸らしては駄目)
しばらくすると、扉の外の喧騒は収まった。息を吐く一同。とりあえず、迎撃に成功した様だ。レイシュが部下に指示する声が聞こえた。一人、やられたようだ。次いで、柔らかな声が船内にかけられた。
「乗客の皆様方、戦局はとりあえず小康状態です。何があっても貴方達を守る。もうしばらく、もうしばらくだけ我慢して頂きたい」
柔らかな声ではあっても、それが必死で平静を装っているものだということを、サティンは聞き取った。自分にしかわからないだろう。そんなレイシュの声は、遠い昔に一度聞いたことがあるだけだ。
「……レ――」
サティンは言葉を掛けかけて、やめた。大丈夫、無事に戦いが終わったなら、存分に労えば良い。こんなときに自分が慰めを言っても、彼の戦意を挫くだけだ。自分は彼らに任せると決めたのだ。最後まで見届けるとしよう。
「うーん、大丈夫かなあ……」
ティフが言う。こんな内部で戦闘が行われたのだ。彼女の心配はもっともだ。
「大丈夫よ。いまのところは、戦況自体は悪くなさそうね」
この船は所詮交易船に過ぎない。相手が本格的な私掠船だとすれば、弩砲なり火矢なりで、あっという間に撃破されていてもおかしくない。白兵戦になったとしても、早々に甲板上から蹴散らされているはずだ。サティンが単独でこの船に乗り込んだという情報を得てからの行動ゆえに、敵も必要以上の戦力は用意できていなかったのだろう。
「そうかなあ、まあ、一人二人なら私でもなんとかなるかもしれないけどさあ」
そんなことを言いながら、ティフは宙に浮いたままの熱球と空気の剣をもてあそんでいる。【式】の維持だけならば、それほどの労力はかからないらしい。そんな様子を見ながら、このような理を越えた力が自分にあったなら、自ら先陣を切って戦うことを望んだのかもしれないなどと考えてみる。なるほど、これは血だ。妹を笑うわけにもいかない。
一際大きな歓声があがった。やはり、味方が有利に戦っている様だ。だが、その直後、少し離れた場所から、先程と同じような金属音が響いてきた。第二陣だろう。
――――――――――――――――
(――っ!?)
そのとき、世界は変貌した。
サティンはその世界に一人取り残されていた。音も無ければ、色もない。わかるのはただ一つ。その感情だけが、この世界を支配しているということだけ。
――悪意。
(なに、これ!?)
サティンは自分が恐慌を引き起こしつつあることを理解した。理解できれば話は早い。
――大丈夫、先程の方が戦場には近かった。レイシュはあれで素晴らしい実力の持ち主だ。味方の歓声もあがっていたし、この時間まで戦闘が続いているということ自体、味方が優勢だという証拠だ。大丈夫、何も心配することはない、落ち着こう。フレイズの公女ともあろうものが、ここで不様を晒すなど許されない。
しかし、そんな必死の思索も、この悪意に満ちた世界においては無意味でしかない。
(なに? これ……怖い? そうだ……今度は私に……殺意が私に向いてる!)
背筋に冷たいものが幾筋も走る。震えが止まらない。なんなのだろう、これは異常だ。敵意、悪意、殺意、害意。邪悪な意志のすべてが自分に向いているような感覚は、魂の芯まで凍り付かせる。我知らず、歯が鳴る。
(怖い怖い怖い。怖い!)
「い、イー」
ついに、悲鳴が口から漏れる。
あ――と、――ティン―――――――だ――――?
「ちょっと、サティンてば! しっかりして! どうしたの?」
声が聞こえた。声は、音だ。先程の金属音、叫び、自分の心音、そして小さな友達の声。
「大丈夫、大丈夫なの、サティン?」
色も次第に元に戻っていく。病んだ世界は駆逐され、サティンは元の世界を取り戻していた。
「どうしたの?」
身体の震えも収まっていく。そうだ、少なくとも、ティフは味方だ。心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「……うん。大丈夫。ありがとう」
「緊張するのはわかるけど。今、凄い顔してたからさ……こっちがびっくりしちゃったよ」
ティフがそう言いかけた丁度その時、歓声があがった。先程の歓声よりさらに大きい。
「やったぞ! ざまあみやがれ!」
どうやら、味方が勝ったらしい。小窓からの光が赤みを増している。まさか日没前に勝利するとは。これほどの短時間で決着するとは思ってもいなかった。
(助かった……生き残ったのね)
サティンは息を吐こうとした、が、できなかった。
――世界の音と色は戻った。しかし、自分を包む邪悪な意志は、まだ消えていなかった。
味方が勝ったらしい。それがわかっても緊張が解けなかった。ティフが怪訝な顔をしているが、説明のしようもない。
「味方が勝利いたしました。敵兵も残っておりませぬ。もう大丈夫です。ここをお開けください」
聞き慣れたレイシュの声が聞こえたが、いまだ敵意が消えない。先程のように、世界が暗転したわけではない。しかし、身を包む恐ろしさのあまり、サティンは動けないでいた。
しかし、そんな彼女に構わず、他の乗客達が我先にと扉の前に積み上げてあった障害物を崩し始めた。彼等の緊張は限界を超えているのだ。扉が開く。戦い疲れた風のレイシュの微笑が見えたが。
――すぐに苦悶の表情に変わった。
「がっ……貴様ら……。く、クレール様。申し訳……」
「え……?」
大量の血を吐きながら、ずるずるとレイシュの顔の位置が下がっていくのを、サティンは呆然として見ていた。彼のすぐ後ろにはフレイズから来た兵士二人が立っていた。背後からレイシュの背中に剣を突き立てたのは、その片方の男だった。
「え……? なに……?」
開きかけていた扉を押しのけて、二人が挑みかかってくる。それを見ても、サティンの意識は凍ったままだった。
「なによ! あんた達!」
ティフが叫びながら熱球を投げつけた。だが、目標をわずかに外れて、その後ろの壁を焼いただけだった。とっさの出来事だっただけに、狙いが定まらなかったのだ。
「サティン!」
サティンはティフの小さい身体に突き飛ばされたらしいということだけはわかった。それが幸いして、刺客の攻撃を避けることができたようだ。二人の刺客はサティンの代わりに、近くの乗客を切りつけてしまっていた。堪らず、乗客達は恐慌を引き起こした。
(……レイシュ?)
「あなた達! 裏切り者! ……よくも!」
怒りが恐怖を払いのけたか、ようやっと、意識が回復した。そこにあった棒切れを手にとってみたが、頼りないことこの上ない。勢い余って転がっていったティフも起き上がって次の【式】を用意している。二人の刺客は体勢を立て直して、サティンに同時に切りかかろうと距離を詰める。
そこにディオールが現れた。背中から刺されたレイシュの死体を見て、即座に状況を理解したのだろう。そのまま刺客の一人に挑みかかる。恐慌を起こした乗客達が死体に怯んで入り口から離れていたのも幸いした。
しかし、もう一人の刺客はサティンの拉致ではなく、殺害を優先した様だ。振り下ろされた長剣を必死に棒で受け止めたまではよかった。しかし、その一撃で限界だった。あっという間に一人を倒したディオールが向かってくるが、間に合わない。
頭上に落ちてくる剣の形をした【死】を、サティンはただ見つめることしかできなかった。
目の前が真っ赤になった。サティンは自身の死を強く意識したが、いつまで経っても、それは現実にならなかった。剣で斬られたというのに、痛くもなければ、死ぬわけでもない。生暖かい温水の感触があるだけだ。不思議に感じて、そっと目を開ける。
「……?」
目の前の男は胸から血を吹いて絶命していた。サティンはその血を浴びていたのだ。
(あれ……?)
ふと横を見ると、ティフが青い顔をして固まっていた。
刺客は少女が投じた空気の剣に貫かれたのだ。
生き残った人間は皆、甲板に出た。そこはまだ血の匂いがする惨憺たる状況だったが、それでも活気に満ちていた。倍以上の敵と戦闘し、勝利したのだから当然だ。損害は少なくはないが、航海には大きな支障はなさそうだった。既に日が落ちていたが、明かりは煌煌と焚かれていた。
それを横目に、暗い海面を見ながらサティンはいまだ呆然としていた。
(わたしのせいだ)
あの私掠船が自分を狙っていたのはわかった。だが、内応者が居るとは思ってもいなかった。それも二人。あの二人は、明らかに自分の命を狙っていた。おそらく、最初から。
(わたしが迂闊だったんだ)
ちょっとした旅行の気分でいた。それがレイシュを殺した。サティンが使節を抜け出していなかったとしても、同じ結果に終わったかもしれない。だが、彼は準備にもっと時間をかける事ができただろう。自分が彼を殺したのだ。
(悔やみきれない。償いきれない)
周囲の雰囲気とは逆しまに、空虚な気分が心を埋めていく。それ故か、涙すら出ない。
「ねえ、サティン。元気出してよ。お願いだから」
ティフが見上げていた。彼女も大分憔悴している様だ。
「なんか、傍から見てるとさあ、そのまま身投げでもしそうなんだもの」
なるほど、そう見えたかもしれない。実際、似たような気分だった。
「やめてよね。そういうのは。私がせっかく助けてあげたんだから。私だって、その……人殺しするのは初めてだったんだよ」
サティンの心に新たな衝撃が走る。なんということだろう、ティフに人殺しをさせてしまったのだ。この純粋な女の子の手を汚してしまったのだ。
「だから! やめてってば。……私は、サティンに、死んで欲しくなかったから、やったの。仕方がなかったとか、他の人に強制されてとかじゃない。私が、そうしたかったから、そうしたんだよ。そんな顔されたら……私の立場が無いじゃない」
ティフが本気で怒った風の顔をする。そして、真剣な顔で言う。その翠の瞳は幼い。だがしかし、確固たる世界がある。
「いいこと? 私はね、私の大事なものを守るためならね、なんでもするよ。そのためなら、誰だって殺してみせるから。この命だって投げ出すんだから。躊躇って、なくしてからじゃ遅いんだから」
サティンには「大事なもの」という言葉が嬉しかった。この少女の純粋な心が暖かかった。
そっと目を閉じる。そう、まだ自分を大事なものと思ってくれる人がいる。この少女を抱きしめたい衝動に駆られたが、思い直した。それは、自分らしくない。少なくとも、この少女はそう考えるだろう。
「ごめん、そうね。まだお礼も言ってなかったっけ。ありがとう。貴女は命の恩人よ。一生恩に着るわね」
「ふふふふふふふふふふふ。その言葉、本当でしょうねえ。いいなあ、公女様の恩人かあ。いい響きね。何をお願いしちゃおうかしら」
ティフがおかしな笑いかたをする。サティンもつられて笑う。
「あはははは。やっぱサティンはそうじゃなきゃ。そうそう、せっかく勝ったんだからさ、勝利の歌を歌ってよ」
「そうね、もう少し片付いたらね。とりあえずは、みんなの手伝いをしなきゃ。落ち着いたら、お礼の意味も含めて、一曲歌ってあげるから」
これ以上の言葉は不要だろう。言葉以上の最大限の感謝を込めて、自分は自分らしく振る舞えばよいのだ。
活気を取り戻して歩き出そうとした二人に、声が掛けられた。キリング船長とディオールだ。
「どうだ?」
「お二方にも迷惑をおかけしました。危ないところをお助け頂き、感謝の言葉もありません」
サティンはフレイズ公女として言う。彼等の奮戦で、自分が助かったのだ。感謝している。
「少しは元気が出た様だな。若い娘にいつまでも沈んでいられては、こちらがたまらん」
船長がそう言う。片腕に包帯を巻いてはいるが、深手ではないようだ。
「ええ、心配をおかけした様で」
そんなサティンの様子を見て、ディオールが笑みを浮かべている。この男にそんな表情ができるとは、少し意外な感じがした。
「こちらの損害も少ない。予定通りに向こうまで行けるはずです。驚くべき戦果といってよろしいでしょう」
サティンは自らの意識が切り替わるのを感じた。自分でも驚くほど、冷静に言う。
「内応者達の身元は調査できましたか?」
「駄目だ。何者の刺客かもわからん。その手の専門家だな」
ディオールとてその事は考えついたのだろう。既に調査をしていたが、収穫はなかった。明らかに、それ専門の密偵、つまりは暗殺者としか考えられない。サティンにも十分に想像できたことだ。だが、暗殺者達の出所を知ることは火急必要だろう。
「そうですか。私掠船の方は?」
「偽装はされていたが、あれは真王国の私掠船だな。とはいえ、2隻のうち片方は完全に沈んでしまったし、もう1隻を追いかけるだけの余力もない。その辺の死体程度では、証拠とするには弱いな」
フレイズの公女が単独で船に乗り込んだという情報が無ければ、今回の襲撃は成り立たない。やはりダイクで見咎められていたに違いない。
「それよりも、これからどうなさるおつもりで?」
「さしあたっては、父に報告します。真王国向けの伝書鳩を貸して頂けますか。きっと十分な報償も御約束出来ると思います」
この顛末の報告は必要だ。サティンは父を嫌ってはいるが、憎んではいない。十分な情報さえあれば、父は必要な手を打つことができるだろう。
「それは承知しました。ですが、貴女自身は? 帰るにも、もう船はありませんぞ」
「それは……まだわかりません。ですが……」
旅を続けようと思えば、できないことは無い。だが、あんなことがあった直後に、それは考えられなかった。自分を狙う他の刺客も潜んでいるのかもしれない。いや、間違い無くいるだろう。無理にでも帰還するべきかもしれない。あるいはフレイズに縁がある自由国境域の都市領主を頼るか。どうしたものか。
サティンが考えを巡らしていると、ディオールが2つの紙巻きを取り出して、サティンに差し出した。
「……俺が、レイシュ殿から遺書を預かっていた。こちらは貴女に宛てたものだと思う。もう一方は、ご家族に宛てたものだな。父君への報告に同封するといい」
遺書。あれだけの戦闘だったのだ。几帳面なレイシュのことだ。もしものために用意していたとしても不思議はなかった。それを受け取り、封を開く。手紙は相変わらず一寸の狂いもない字面でもって綴られていた。
――貴女がこの書をご覧になっているということは、私の命が失われたという事なのでしょう。ですが、このことを気になさってはなりません。私は貴女のために死ねたということを誇りに思います。
貴女がリィン様の行方を気にかけておられたということは、よく存じておりました。それを知りながら、今まで見ぬ振りをしたのは私の不肖のなすところ。お詫びの言葉もございません。
この口うるさい男がいなくなった今こそ、御自由に振る舞っていただきますよう。是非、妹君を探し出していただきますよう。歌い鳥は篭の中よりも、大空に在るべきなのです。
貴女は今、大変な危機に直面しておられます。このままフレイズに引き返すもならず、見知らぬ土地で春を待たねばなりません。ですが、そのくらいは見事切り抜けて下さると信じております。私は、そのようにお育てしたつもりでございますから。貴女はそれだけの力をお持ちだと、固く信じております。
貴女の行く大空が、豊かな風と輝きに満ちたものであります様に。
【我が娘】サティナルクレール・フレイズに宛てる。
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