寝坊助
「はぁー。ほほう、なるほどなぁ。そうきたか……」
妹は斬新な内容の本を見ると、声を漏らしがちになる癖があった。今やどんな召喚術の本を読んだって、こんな姿は見られなくなっていた。物語本では大抵やかましくしているので、別に珍しい光景ではないけれど。
「……ステファ兄。どうしよう。これ読んでたら私、召喚術と二本でやっていってみたくなってきた」
「あはは。今からでも製図の授業に出てみる? スペイサイド先生なら実力を見て課題をくれると思うよ」
「ダメ。いきなり入れ替わって、実力が落ちただなんて思われたくないし」
「あー……」
いくら才能ある妹とはいえ、流石に製図を継続してきた僕とでは実力に差が生まれていた。でも、製図じゃなくて召喚術で比べたらまさに雲泥の差があるのだから、気を落としちゃいけないよ。
今イレーナが読んでいるのは一冊目。そして、僕が複写に励んでいるのは二冊目。楽しすぎて、一通り目を通すのは一瞬のように終わってしまった。イレーナにとっても、同じように楽しめる本というのは間違いなかったので、少しでも早く読ませてあげたかったのもある。詳しい理解をするのはこの作業の後でいい。火曜日に返すとしたら、複写でもしないと時間が足りなすぎるから。
今週は土曜日も外出の予定がなかったので、金曜はたっぷりと食材を買い込んだ。男の格好でいられるのは家の中でだけだからね。一日でも女装する日は減らしたい。
そんな甲斐もあって、読書にも複写にも使う時間がたくさんあったというわけだ。もう夕食も食べ終えたような時間だけど、二冊目の複写は半分ほどまで進んでいる。この分なら、もう一冊も明日をフルに使えば写し切れるかな。このためにたくさん複写のスクロールを用意したんだ。頑張って写し切ろう。タイムリミットは、日曜である今日の夜まで……。
「……」
「ステファ兄、起きてる?」
「……ゥうん? 起きてるよ」
「学校あるのに。珍しいね」
あれ、もう朝なの? 本二冊の複写には、やはり時間がかかってしまった。一冊目が土曜夜で終わっていなかった時点で、所要時間については考えておく必要があったんだけど。やっぱりちょっと無理があったようだ。せっかくゆっくり登校な月曜日なのに、イレーナが起きてくるまで完成しなかった。
ご飯も用意しないといけないし、仮眠をとっている時間は……なさそうかな。
「授業は、日用魔法だけだから、大丈夫だよ」
「日用魔法だからこそ心配なんだよ。寝ないで受けられるの?」
「うーん……多分寝ちゃうかも」
「……まあ、多少サボったって、単位さえ取ってくれるなら別にいいよ。朝ご飯は私が用意するから、今はちょっとでも寝てて」
「いいの? ……ありがとう」
「私がご飯作るっていってもまるで反応が弱いね。うん、ここまで疲れてるのなんて見るの珍しいから、ご飯食べて元気だしてね」
言葉に甘えて、少しだけ机に伏せさせて貰うことにした。ちなみに出された朝ご飯は、コーンフレークにヨーグルトと、フルーツのジャムをかけたやつだった。……おいしいよね。
――――――
「すぅ……すぅ……」
「なんて心地よさそうな寝息なんでしょう。毛布をかけてあげたい」
「そんなことしたら永眠しちゃうよ。でも、いい顔してるね。写真撮りたかったなー……くうぅ、ここにカメラさえあれば」
「ありますよ!」
「え、なんで持ち歩いてるの……」
「学校でひとしきり研究した後、帰り道を撮影してるんです。この辺り、きれいな景色や建物が多いですから!」
「そっかそっか。そういうことなら、ステラちゃんのきれいな寝顔も収めない訳にはいかないよね。しっかり可愛く撮ってあげてくれる?」
「はい! お任せ下さい……はい、出来ました」
「あー、すぐ現像できるタイプのやつなんだ。いいね。うん、よく撮れてる」
「ふふっ、どういたしまして。それはヴァイオレットさんに差し上げます。よしっ、もう一枚」
「いいの? ありがと。……さて。授業は寝る時間じゃないんだし、そろそろ起こしてあげようか。それ、フーッとな」
「うわ、わわぁ!」
右耳がぞわついたお陰で、椅子をガタつかせて飛び起きる。ぞわついた方を見てみれば、ヴァイオレットの顔が近い。案の定、眠ってしまっていたようだ……。
授業中にうるさくしたのに先生に注意はされなかった。けど、なんだか冷ややかな一瞥を浴びせられた気がする……ごめんなさい。
「……っ、ふぅん、…………んぅ……」
「うわ、あっという間に船漕ぎ始めた。これは重症だね」
「起こすにしても、あまり驚かすようなのはかわいそうですよ。他の手段を選びましょう」
「……いや。今日はもう寝かせといてあげよう。今ぐらいの日用魔法なら、ステラは熟知してるだろうし」
「……はっ。起きてますよ、大丈夫です」
「あれで起きてると主張するんだ。すごいね」
「うふふ、なんだかステラさんの意外な一面を見た気分です」
「うーん……、むにゃむにゃ」
「何この子。もうどうしようもないね……授業が終わったら、起こしてあげよっか。全くこんな態度許すのは、今日だけなんだからね?」
「今日だけはしょうがないですね! うふふ」
学院の椅子と机は質が高いものだけど、寝具ではない以上は寝心地は悪い。普段はこんなところで寝ようなんて考えもしないけど、今日はなんだか暖かいものに見守られているようで、とっても心地よく眠れた感じがするね。
「あ」
「おはよう、ステラ!」
「おはようございます、ステラさん!」
「あ……」
すかさず懐中時計を取り出した。思わず両手で持ってしまった。
いくら嘆願を込めて見つめたところで、針が巻き戻ってくれるわけもなかった……。針が示しているのは十一時四十二分。もう昼休みに入っている時間だ……。
そして、授業が終わったことを認識すると、途端に冴えてくる己の目がこれまた憎らしかった。
先週末はやはり、はしゃぎすぎていたようだ。いくらあれだけいい本を読む機会を得られたからって、授業をおろそかにするのは良くない。
……というか、居眠りしていてはイタズラされてもおかしくない。その質によっては、普通に女装がバレることだってあり得る。
こんなんじゃダメだ。そろそろヴァイオレットに甘えられる範疇も超え出して来ていると思う。守れられてばかりではいけないね。
――――――
「ステラは今日もお弁当なんだ。いつも精が出るね」
「ええまあ、朝ご飯作るついでですので」
「朝ご飯もご自分で用意されてるんですね!」
今日に限っては嘘になる。今日のお弁当は、昨夜のおかずの残り物をイレーナが詰めてくれたものだ。たまたま夕飯を日持ちするものにしておいて本当によかった。
「そういうアイラさんこそ、下宿生活は大変ではありませんか?」
彼女の地元、シュラムブルクとルディングはかなり距離がある。大陸を横断する高速鉄道、ルミナス・レーンを使っても五時間はかかってしまう。まあ、そんなところから通学するのは時間的にも交通費的にもまず無理だ。
「家事が上手な妹も一緒に来ているんです。あっちでもそうだったんですけど、こっちに来てから助けられっぱなしです」
「妹さんがいらっしゃったのですか!」
「アイラちゃんに似て可愛い子なんだろうねぇ」
「えへへ、妹は可愛いですよ。ただ、料理の腕はそこまでなので、こうして定食を頼んだりするんですけどね」
アイラさんのことは兄弟がいても、勝手ながら末の方だと思っていた。けど、それだと上の兄姉からすれば立場がないもんね。ミアズマから彼女の魔法の力で守られることになるのだから。
「もしかしてアイラさんって、ご家族の中では長子にあたる人なのですか?」
「そうなんです。こうみえて、一家ではお姉ちゃんやってるんですよ!」
にっぱりと笑うアイラさん。こんな可愛らしいお姉さんがいたら弟としては楽しいだろうね。同時に、そんな人に守られっぱなしではやきもきもするだろう。僕は長男で良かったなあ……そう、僕はフィデック家の長男なんだ! モーレンジ家の隠し子ではないんだ。
……上がって来そうになった両の握り拳を抑えることが出来た。ちょっとは成長できたね。
「一度はお会いしてみたいですね。いつかはこの学校に入学されたりするのでしょうか?」
「あー……今はこちらの幼年学校に通っていますが、魔法を学ぶ気があるかはちょっと怪しいですね。それに、三つ下ですし……」
ああ、残念。三つ下だと繰り上げて入学しない限りは、在学中に互いに生徒として顔を合わせられることはないだろうなぁ。
女装している立場上、彼女とは住まいに招いてもらえるほど、仲良くはなれなさそうだとも考えている。妹さんとは今後会うことができなくても仕方がない。人に招いてもらうのに、こちらは招かないなんて真似はできないからね。
ちなみに、学校に届け出ているステラの住所はこの間行った、ヴァイオレットの別荘になっていた。まあ、親戚に下宿先として別荘を貸すのは貴族間ならありがちだからね。それにあそこは、学生にはうってつけの環境になっているし。
あー。同じ住まいから通っていることになっているのなら、ヴァイオレットの帰りを送っているのも変ではないのか……。というかむしろ、時間が合うなら一緒に帰ってないほうが変じゃなかろうか。これからは気をつけないと。
アイラさんにはこんなこと明かせないね。ヴァイオレットに招かれた時は、明らかに住んでない態度で接してしまったし。生徒手帳をしっかり確認されない限りは大丈夫だろうけど。
「今度のお昼は、ステラにお弁当を頼もうかなぁ」
「えっ。多分、食堂の食事の方がおいしいと思いますよ」
「そんなことないない。ていうか、ステラの料理は食べたことないしわかんない。物は試しに、一回だけお願い。ね?」
「んん~……じゃあ、明日お持ちいたします。ただ、あまり期待なさらないように」
「やった!」
「いいなぁ、ステラさんのお弁当……あっ」
アイラさんのぼーっと開かれた口から、何の思慮も挟むことなく一言が漏れた。そんな感想を聞かされたら、はいそうですかと淡白に済ませることはできないよね。
「よかったら、アイラさんの分も用意しましょうか?」
「そんな! そこまでは悪いです」
「そう仰るなら構わないんですが……」
「あっ、あうぅ、うぅぅ~~~」
「用意してきますね」
「…………はい、お願いします……えへ、嬉しいです!」
恥ずかしそうにはにかんで見せる姿を見るに、やっぱりアイラさんは、人に頼むのが下手なようだった。長子であることを聞けた今では、なんとなく気持ちがわからなくもなかった。僕もイレーナに頼み事なんて、振る舞いの矯正ぐらいしかできそうにないからね。
――――――
「……はっ。…………」
「……ウフフフ」
にこやかに見守ってくれているのはとても嬉しいことなんだけれど。こちらは意識を保つのに必死だ。ただでさえ単調な作業は、この寝不足の体には堪える。
遅刻した直後に休ませてくれ、だなんてことは絶対に頼めない。ましてや、また製図のことで言い訳を重ねると、そっちに完全に乗り換えたと判断されてしまうだろう。そうなってしまえば、例え技術の伝授を継続してくれたとしても、今のような熱意は失われてしまうんじゃないだろうか。
だけど、僕は当然人の子だ。抗えない睡魔というものも存在するのであって。
「……あっ。ごめんなさい、失敗してしまいました……」
途中から一種の糸を切らしてしまっていたようだ。カルカノはあるはずの糸を当てに編み続け、結果、組紐は縮れ上がった靴下のようになってしまっていた。
「随分とお疲れのようですものね。まあ、今のままでは触媒も足りませんし、気晴らしの散歩がてら、一緒に調達に向かいましょうか」
「はい。申し訳ありません」
解いて再利用が出来ないわけじゃないけど、伸ばし直して使える状態にするのも手間がかかる。それなら、糸をまた作ったほうが早い。触媒に事欠く環境ならともかく、ここはルディングだ。ありがたく使わせてもらおう。
「謝り過ぎないでくださいな。私は好きで貴女に教えていて、貴女はそれに付き合ってくださっているのですから」
「……ありがとうございます」
「それにここまで、失敗なく進められたことについては想定外なんですよ。もっと自信を持ってくださいな」
「完成したときに考えることにします」
「いい心がけですね! ウフフフ」
触媒の保管室は、共同研究室からほど近くにあった。
今回足らなくなってしまったミラーモルフォの翅。昆虫類の保管はすぐそこの棟でされているからね。あちこちに設置されたガラスケースに目を通していくと、中には背中が真っ赤な甲虫もいた。以前に作った組紐のような鮮やかさ……嫌な記憶が思い出される。
「わぁ、エンジコガネ。綺麗ですね。こんなのまで揃えられてるんですね」
「む……虫が綺麗だなんて、ステラさんも妙なことをおっしゃいますねねねぇ」
生きたまま、新鮮な状態で保管されている各種の虫を見て、僕はその姿の美しさにいちいち感動していた。
だけどあれ、フィオナさん。なんだかガタガタと体を震わせているような。足取りすらおぼつかない様子なので、肩を支えてみることにする……その瞬間、即座に腕にしがみつかれた。
「ううぅ……くっ……ふうううううう」
「虫が苦手なのですか? それなら、私一人でも用意してきましたのに……先に戻って待っていて下さいますか?」
「無理です。この部屋を一人で歩くなんて、もう二度と御免です」
あー。最初に使う分は一人で取りに行ってくれていたんだよね。ここまでの怯えようなのに、よくぞ用意してくれたというものだ。
……甘口指導をお願いしたからと、期待の度合いを下げられたのではないかと危惧したことがあった。けれど、全くもって心配する必要のないことだった。虫の好き嫌いは生理的なものだ。それを押して触媒を用意してくれたフィオナさんには敬服する他になかった。
ふと、ガラスケースの壁面を這って歩く蜘蛛が目に入った。僕が手のひらを広げたぐらいの大きさだ。めちゃくちゃ大きいね。背中に浮かんでいる模様も原色が色とりどりで毒々しい。さすがに僕も、ここまでの大きさ・様相になると、ちょっと忌避感が湧いてしまう。フィオナさんの側から見えないように、さっと体でケースを隠す。
「ではせめて、目を閉じていて下さい。蝶のケースはあっちですね。誘導いたします」
「ああ、蝶ならまだ目にすることはできるんです……ここのは特に、その、綺麗ですから?」
「はい! すぐそこです……はい、目を開けて下さい」
「ありがとうございまッピィイィヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「ちべたい!」
金切り声と共に目をカッと見開いたフィオナさんが向けてきた指から、冷凍光線が発せられた。氷属性の中級攻撃魔法、『天銀の
君、脱走していたんだね。そりゃそうだ、ケース向こうで壁を伝っているのに、背中が見えているのは考えてみれば変だ。脱走できたのは運が良かったかも知れないけど、虫嫌いのフィオナさんの目に留まってしまったことは不運だったね。
目といえば。僕は目にしてはいけないものを目にした。
「……フィオナさん」
「はっ!」
彼女はばっと目を閉じる。普段の真っ黒な瞳とは打って変わって、煌々と放たれていた赤い光が閉ざされる。間違いなく、込められた魔力に反応して発光していたんだ。魔力を使う授業で目を閉じていたのは、これが本命の理由か。これを見なかったことに出来ないのは、二人ともわかりきっていた。瞳が赤く光るのは、吸血鬼であることの証左なのだから。
「博識な、ステラさんのこと、ですから……わかりますよね! 黙って接近していたことは謝ります。私から、私なんかから、教わろうなんてことは、もうありませんよね」
「ですが……そうだ、かの種族には、後見制度があったでしょう。貴女のような方なら、いらっしゃいますでしょう?」
「あー……んっんうぅ~~~~」
なんか顔を赤くして悶え始めた。僕が言えたことではないけれど、吸血鬼が後見人を立てず、人間社会に忍び込んでいるとしたら大問題になる。そんな場面に似つかわしくない表情だと思える。だけど、居るなら堂々としていられる。それができないということは……。
「……いません! いないんです!」
「えっ、ええええええ!?」
案の定だった。後見人のいない吸血鬼が人間社会に紛れ込んでいるというのは、性別や戸籍を偽っているぐらいには大問題だ。そういった意味では、僕も同類と言えるかも知れない。
「そんな。他の生徒や教師に話したりはしません。……私だって、明かせば立場を危うくするような秘密を抱えています。私も、それを明かしましょう」
「聞くつもりはありません。話さないで下さい。私はただでさえ、自分のことで精一杯なのです。人の重い秘密なんて抱えられようがありません。同類であるならともかく」
唐突に正体を表すことになって、たじろいでいたように思えたフィオナさんが毅然とした態度を取り戻した。正しい意味での同類ではないから、僕は口を噤む。
「もし、これまでのことで情けを頂けるのであれば……仰る通り、誰にも伝えないでいてくださると助かります。……そうして下さるとすれば、これからは、召喚術の授業では顔を合わせることもあるかも知れませんね。それでは……」
「フィオナさん……」
彼女は力強い足取りで昆虫飼育室から出口に向かって一目散に駆けていく。だけど、その扉に手をかけた瞬間。この世の終わりのように膝から崩れかかった姿が、それでなおいち早く退室しようと、おぼつかない足取りが僕の脳裏に焼き付いていた。
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