用紙と顔をキャンバスにして

「はい。じゃあこれ着ていってね」


「うわぁ……」


 おかしいなぁ。ここ数年、制服以外でイレーナがスカートを履いているところは目にしたことがない。でも今僕に着せようと、履かせようとしているのは紛れもなくスカートだった。本人が履いてるところ、見たことがないスカートなんだけどなぁ。膝まで覆える丈の制服と違って、膝にちょっと届かないぐらい短い。なんでこんなのがあるんだろうなぁ。

 

「脚、ほんっと細いなぁ。もうちょっと肉つけてくれないと、私との比較でバレそうじゃない? 一緒にもっと食べよう?」


「……複雑だけど、細いほうが良いっていうなら、そうなるように頑張るべきだとは思わない?」


「ううん、まるで」


「……だよねぇ」


 顎に手を添えて、まじまじと足を見比べるイレーナ。別に比べてみても、そんな太さに違いはないと思うけれど、イレーナは僕の脚の方が細いと感じているようだった……。どうして一向に男らしい感じにならないんだろうね。

 

 その機微については、女の子特有の感覚なのだろうか。その視線だけは、これからも身につきそうにないからちょっと安心だった。僕は男だからね。例えスカートを履いていたとしても。

 

「じゃあ……行ってきます」


「よく似合ってるよ。行ってらっしゃい」


 いらない一言で見送られながら、僕は家を後にした。化粧を教わる覚悟を腹に決めて。これは、愛する妹の為になることなのだから。

 そうでも考えて、割り切らないわけにはいかなかった。僕の精神衛生的に。

 

 

――――――



「よし、揃ったね。ではお勉強を始めよう」


 意外にもすぐお遊びに取り掛かるつもりではなかったようだ。非常に助かる。このまま真面目に学習一辺倒に取り掛かってくれれば、この上ないことなんだけど……。ヴァイオレットのことだから、絶対に化粧の時間を取ろうとするんだろうなぁ。

 

「わぁ……本当に大きなお屋敷ですね」


「そう? こっちは別荘だからそれほどでもないよ」


「うわぁ~……貴族って、本当にすごいんですね」


 アイラさんはラガヴーリンの別荘で見るもの一つ一つに驚いていた。建物自体の大きさだとか、いちいち使用人に頭を下げられる辺りとかね。ここまでの家は、ここより都会でもそうそうないよ。

 

 やはり侯爵家が別荘として所有している建物なので、立派という他にない建物だ。庭園の生け垣は今朝にでも手入れしたのかな、というぐらいには綺麗に刈り揃えられている。

 この別荘でさえ、シュラムブルクでは見かけないサイズなんだろうか。ラガヴーリン本邸はこの何倍も大きい建物だよ。それをアイラさんが見たら腰を抜かしてしまうかも知れないね。その様子を想像すると、なんだか微笑ましかった。

 

 皆でスクロール用紙を机に広げる。一つの机だが、三人で使うには持て余すぐらいには大きい。さすがはラガヴーリン家の調度品というべきか。

 製図に使えるインクも、ルディングの製図室でさえ顔負けなぐらい用意されている。魔法の研究をするのに十分な、アトリエとしての環境が整えられているというわけだ。

 

 二人が広げた用紙は真っ白なもの。授業で描いている分とは別に自習を進めていくつもりなのだろう。だとしたら、初心者向けには何を勧めるべきだろうか。

 

「お二人は一から描くつもりなんですね。じゃあ、虫除けの薬と同じ効果がある図式でも描いてみますか? 難易度も所要時間も、最初に描く分としては丁度いいと思いますよ」


「ふふっ、いいですね。うまく描き上がれば、自分でも早速使っていけそうな効果です」


「そっか。製図は製薬にも応用できる部分もあるよね……ちゃんとやらなきゃだ」


 いい流れだ。ヴァイオレットが専攻する薬学に繋げた提案をした甲斐があった。このまま熱心に取り組んで貰って、化粧については忘れてもらえれば何よりだ。どんな質問でもどんとこい!


「うーん……ステラさんにはどんなお化粧が合うんでしょう」


 その話題はやめてえええ!!!!

 インクを選んでいたら、ちょうど僕の肌色に近い物があって、そこから何故か化粧の話題に派生した。

 

「うーん。やっぱり素材がいいから、ナチュラルな方針で行こうと思ってるよ。でもまずは製図をある程度やりきってからね」


「はっはい。ほんと、製図の質問待ってますからねー。いつでもいいですよー、どしどし来いー」


 提案をした張本人たるヴァイオレットに助け舟を出されるとは思っても見なかった。

 

「……お顔にルーンを描いたら、どうなるんでしょう」


 アイラさん……君はよっぽど化粧に興味津々なんだね。いや、この年代の女の子としては至って普通の反応なのかなぁ。他に僕が知ってる同世代の女の子というと……イレーナとヴァイオレット、あとはフィオナさん辺りかな。でも三人共、自分の化粧については、あくまで作法の一種として身に着ける技術、ぐらいにしか考えていなさそうな印象を受けていた。皆、通学するぐらいじゃしてこないぐらいだし。

 だから今、僕にさせようとするのはどうしてここまで熱心になるのか訳がわからないでいる。今は勉強会なのだから、そっちに集中してね!

 

 ……ところで、今アイラさんが持った疑問は割と鋭い。そういう事例はないわけじゃない。それを知っている以上、伝えておかないわけにはいかないと思う。

 

「ルーンに使う中でも、特殊なインクで入れ墨をすることで、詠唱の手間を省く手法は知られていますね。でも、お化粧の範疇で実現できた例はないといいます」


「入れ墨だとちょっとハードルが高いですね……」


「ハードルの高さは扱いに関しても言えることですね。体内の魔力がルーンに反応すると、意思に反して発動することもあります。魔力の利用にも扱える実力と、細心の注意が必要になってしまいますから、なかなか覚悟のいることですよ」


「うわぁ。他の魔法使うの難しくなるっていうなら、簡単には手が出せないねぇ」


 二人はルーンの入れ墨に対して引き気味だ。僕も初めて知ったときは似たような感想を抱いたものだ。その状態ではスクロールを使うのも、一苦労になってしまうからね。現状高度な魔法を使うのは、スクロール頼みになってしまう僕にとっては死活問題だ。

 

 それだけに、入れ墨に採用された例のある術式は暴発しても問題のないものが多数を占めている。魔力を使う以外にリスクがない範囲で、身体能力を向上させるものだったりね。

 

「ともあれ、入れ墨に関しては殆ど縁のないことだと思います。そろそろ製図にかかりましょうか」


「はい! お願いします、ステラ先生!」


「え、先生ですか」


「ステラ先生かぁ。ふふへっ、よろしくお願いしまぁす」


 まーたヴァイオレットが変ににやけた顔をしているよ。何がそんなにおかしいのやら。でもいいよ。気にせず解説するから。

 

「虫除けの効果がある図式は……このあたりでしょうか。レイアウトや相性を気にせず使えそうな図式に付箋を貼っておきます。まずは描き方から覚えましょう。『オーヘン父さんの図式録』は描き順が丁寧に載っていますんで、とても参考になります」

 

 入れ墨の話題はそこそこに、虫除けの術式について簡単に解説した後、資料から大体この辺りにあるよ、という範囲を選り出した。二人は資料を元に製図を始めた。さっきまでのかしましさはどこへやら、見違えるほどに集中していた。

 

 二人がこの調子なら、思ったよりは僕も自分の製図を進められそうだ。インクはアトリエの物を自由に使っていいと、ヴァイオレットからお達しが出ている。太っ腹だね。

 

「ステラ。点検お願いできる? 結構自信あるんだけど」


「もちろんです。……はい、よく出来ていますね。お手本通りに描けていると言っても差し支えありません。これなら虫除けの効果もまず期待できそうです」


「よかったぁ。明日、学校行く時にでも使ってみようかな」


「いいですけど、そのまま学院の昆虫飼育室には行かないようにしてくださいね」


「わわ、わかってるよぉ。使うのは帰りにしよっかな……」


 先に図面を完成させたのはヴァイオレットだった。本人が言っていたように、製図の分野は製薬と通じる部分があるからね。この点においては、アイラさんよりもヴァイオレットに一日の長があったというわけだ。

 そして製薬には、昆虫由来の触媒をよく使う。虫除けを使ったまま飼育室に入ったら、いくら最期は触媒になる定めとしても、昆虫に余計な苦痛を強いることになってしまう。忠告しておいて正解だったね。

 

「わぁ、もう出来上がったんですね。ヴァイオレットさんも凄いなぁ……」


 一方のアイラさんの進度は、だいたい半分ぐらい描き上がったかなと言うぐらいだった。今週に学び始めた人としては本当に上出来だから、気を落とさないで欲しい。

 

「アイラさんも、途中経過を見せて下さい……あぁ! 本当に学校に来てから初めて製図に触れたのですか? よくここまで進められましたね」


「えへへ、ありがとうございます。褒めて下さると気が楽になります」


「お世辞とかじゃありませんよ。私が製図を学んだときは、この半分も……」


「ステラが製図始めたのって、何歳のときだったっけ?」


「……九歳です」


「あうぅ……」


 僕の製図の技術は乳母さん由来のものだ。彼女がフィデック家に来たのは僕が六歳のときだった。乳母さんは義務教育を執り行う資格を持っているので、家庭教師がてらにフィデック家に雇用されていた。通常七年受ける必要がある義務教育だけど、手際よく教育してくれたおかげで兄妹揃って、半分近くの四年で課程を修了することができた。相当にスピードの早い教育だったので、ついていくのはかなり大変だったけど。


 それも乳母さんからしてみれば、目を離せば勉強そっちのけで、魔法の本を読んでる双子の面倒を見るのも大変だっただろうなあ。見兼ねたのか、その最中に手こずっていた製図についても教えてくれていた。

 だから僕らが製図を始めたのは確か、九歳ぐらいの時のことだった……それと比較しては、アイラさんに申し訳が立たない。

 

「でも、始めたて一週間での進度と考えれば、本当に上出来ですよ。今度の授業で同級生の進捗を確認してみて下さい」


「うーん……でも、ステラさんがそういうのでしたら、自信を持ってみます」


 僕が学びだした歳を伝えたときよりは、明るい表情で決意を表明してくれた。その方が教え甲斐があるというものだからね。

 

「では、ここからは一緒に進めて行きましょうか。私の製図も、もう授業の時間で終わらせられそうですし」


「わぁ! それは頼もしいです。ありがとうございます」


 既に僕のスクロールは九割方完成を迎えていた。ここまで進められたなら、人に教えていられる余裕も生まれてくる。アイラさんは教えた通り、スポンジのように知識を吸収していく。僕はここまで物分りのいい方ではないから、これは追い越されてしまうのも時間の問題だなぁ。学習を怠らないようにしなければ。

 

「……いかがでしょうか?」


「はい。描き方についてはもうばっちりです。基本レベルの図式でしたら応用が効くと思いますし、これからはどういった図式があるかを調べていくことをお勧めします」

 

「あっ。なら、丁度課題と同じですね!」


「やっぱり、知識が物を言う分野ですから。調べた分だけ実力に繋がりますよ。お互い、頑張りましょう!」


「はい!」


 アイラさんの表情は、本日一番の満開の微笑みだった。つい往年のイレーナを彷彿とさせるものだから、こちらまで微笑ましい気持ちになってしまう。

 いや、今のイレーナも微笑んだら可愛いんだよ。食事中以外では微笑む頻度が激減してしまっているけれど。十分の一……いや、そこまではいかないかな?

 

「では、製図の自習も皆だいたい切りのいい辺りまでいった所で~、お待ちかねのメイクアップタイム開始です! わ~」


「わぁ~!」


 ……二人ははしゃいでいる。何がそんなに楽しいんだろうなぁ。

 この後に待ち受けている運命を思うと、僕の心は雨模様だった。

 

 

――――――

 

 

「むぇっふ。ステファ兄……なんか、木の匂いがするよ」


「……ヴァイオレットは、高品質な香水って言ってたよ」


「わかんないなぁ、香水は。大人になれるのはまだまだ遠そうだ」


「……頑張ってね」


 すっかり本格的なメイクを施されて、僕は自宅へ帰ってきた……というか、一部は自分でやった。ヴァイオレットの指導は中々に厳しかった。それこそフィオナさんを彷彿とさせるように……。

 アイラさんに対してはなんだか優しい感じがした。けれど、僕へのヴァイオレットに対する態度に近しいものがあるのだろうか、遠慮がないと言うか……。人のふり見て我がふり直せだね。

 

 がんばったご褒美として、今着けている香水を瓶ごと貰ってきた。これのどこがご褒美だというのか。香水なんて着けていなければ即座にわかること。イレーナがこれを身に着けると言い出したら、僕も着けざるを得ない……とんだ爆弾を抱えさせられたという他になかった。

 

 高価なものには違いないだろうから、捨てるわけにもいかないし。僕の机の奥の奥の方に安置しておこう。イレーナに見つからないように。貰っていることに気付かれたら、イレーナなら当然付けていくと言い出すだろうから。

 だから、この香水にまた用事があるとしたら三年後。僕が女装をやめられた時にイレーナに……ダメだ。どこの世界に兄が使いさした女性用の香水を使いたがる妹がいると言うんだ。あげることもできないとなれば……触媒として使えたりしないかなぁ……。

 

 それでも、買い物は済ませて帰ってきた。今済ませておかないと、外出の予定のない明日にも女装する羽目になってしまうからね。普段だって、なんだか見られているような気がして不安はある。市場じゃその傾向がなおさら強い。今日の買い物では普段以上にチラチラと見られているような気がして、バレてはいないかと心細いにも程があった……。

 

 本当に、何が悲しくて女装に磨きをかけるような真似をしなくてはならないのか。学生の時分なら、まだ化粧を身につける必要もないだろうに。軽々しくアイラさんに習得を薦めた時の自分ほど、呪わしい存在はいなかった。

 

「お風呂、沸かしてあるよ。先に入る?」

 

「……うん」

 

 そんな僕の顔を見てもその点に触れない、イレーナの優しさがありがたかった。

 

「あ、その前に。完成図としてそれ、残して置く必要があるよね。カメラどこにあったっけ」


「え、嘘でしょ?」


「だってそれ普通によくできてるし。私の今後の参考にさせてね」


 前言を撤回します。僕の妹は、もはや鬼でした。

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