干上がりかけのイレーナ
「あ、真ん中の……ステラさん。こんな時間まで精が出ますね」
「お疲れさまです、スペイサイド先生。さっきは大丈夫だったんですか?」
フィオナさんに教えてもらった無限回廊の術式。
一年棟と召喚術棟とで行き来しやすいものの他に、二年棟と一年棟で対応しているものも教えてもらった。これで今度から迎えに来てもらわずともフィオナさんの研究室に行ける。早速使って下見は済ませてきた。これで明日はスムーズに行き来ができる。スペイサイド先生に声をかけられたのは、丁度その帰りだったものでどきりとした。
でも、アイラさんのような笑顔でにこにこしている先生の様子を見るに、見咎められたという心配はなさそうだった。
「フフ~、大丈夫でしたよ。あんまり続くようならクビだって、学長にはどやされたけど」
なんか笑ってるけど、それは大丈夫とは言わない。授業がわかりやすいのは結構なことだけど、教員として必要な業務を怠ってクビになってしまっては元も子もない。
「先生が辞めさせられたら、誰が私達の製図を見てくださるんですか。せっかくいい感じの授業に当たったなと喜んでいた所ですのに」
「え? いい感じだった? どの当たりが?」
急に一歩踏み出してきて僕の片手を両手で握る先生。
ああ~きっとこの人もいわゆる『がっつき族』の一人だ。今の所、他の仲間は僕とフィオナさん。うっかり周りが見えなくなりがちな傾向の人に、勝手に名前を付けていた。なんだか親近感が湧くね。
「わわっ。えーっと、私は遠巻きに聞いていただけですが……初めて製図に触れる人に向けて、とても配慮されていた授業でした」
「うんうん。しっかり準備した甲斐がありましたね。それでそれで~?」
「えっ」
まだ褒めろというのか。別になんとでも言うことはできるけれど、あえて言うなら。
「う、うーん……経験者にも配慮があると思いました。私はひとまず描けはするという程度の実力ですが、いくら良い授業でも、わかっていることの学び直しはちょっと退屈ですから。暇することなく課題に取りかかれるのはありがたいことでした」
「よかった~。ちょっと自信湧いてきたかも。授業がんばったらクビにならなくても済みますよね? 励ましてくれるこんなに可愛い生徒も居ますし、ここに戻ってきてよかった~」
なにか余計なことを言われた気がするけれど。それを押しても気になることが一つ生まれた。
「戻ってきた、と言いますと?」
「ええ。実はここの卒業生なんですよ~」
「そうだったのですか!」
やっぱり。無限回廊の存在を差し引いても、複雑な構造をしているルディング。その中でも一目散に学長室へ駆け込んで行くのは、新参者には中々難しいことだと思う。そりゃあ教員なら把握していて欲しいとは思うけれど。生徒と一緒に迷ってたら話にならないからね。
「中でも、学長室には何度も行きましたからね~。採用の時から懐かしい思い出が浮かんできて、何度頭や胸を痛めたことか」
職員室ならともかく、学長室に何度も行く経験があるのは不可解だ。呼び出され常連だったのだろうか。それも思い起こされるのは頭や胸を痛めるような経験なんて。今も先生は己の胸をさすっている……僕よりよっぽど不良じゃないか?
「……学生時代、一体何をしていたのですか?」
「いやあ~、興味の赴くままに、いろんな分野に手を出してしまいまして」
「えぇ……」
大体察した。先生が言っているのは、おそらく禁忌と呼ばれる分野のことだろう。研究自体を自粛するよう言われている魔法はいくつかあるが、中でも死霊術に関しては、国によっては学ぼうとした。と人に知られるだけでも忌み嫌われるものだ。
確かに、死者の魂を弄んで生み出される、悪趣味極まりない召喚獣……アンデッドを呼び出すにも使われたことはある。だけど、そういった存在を清めるための技術も死霊術で研究されているんだ。最近では先進的な学者が多い召喚術の界隈だと、研究内容によっては出版物にも特にぼかされずに載ってたりするぐらいだ。
僕はこれ自体はいい風潮だと思っている。いくら過去、悪行に使われた技術であっても、正しく扱うための研究すら避けては進展はないからね。
「うふふ。不良仲間が見つかったと思いまして勝手に喜んでたんですけども~、ステラさんは至っていい子ですね。授業中のあれは偶然だったかな?」
「あれについてはすみませんでした。単純に配慮が足りていませんでした」
「そうだね。まあ、私の術式でちょっとは使いやすくなったと思うし。ステラさんでもまたいいのができたら教えてほしいな~」
あ。うっすらと感づいてはいたけど、ついに丁寧語が抜け切った。まあ、今までの態度はあくまで教師としての距離感を保とうとしていた態度だったと考えるなら。それが緩み出しているのだと思えばちょっとは嬉しいかも知れない。
「えへへ、まだ手帳には不便な所も多いですし……勉強がてら、改良には挑んでみるつもりです。伝えられる程の出来が生み出せればいいのですが」
「その様子なら頼もしい限りだね。不便は発明の母って言うし! そうだ。ちょっと遅い時間だけど、もしまだ大丈夫そうなら一緒にちょっといじってみない? 手帳!」
「ああっ、いいですね……ああああああああ!」
「うぅわ、どうしたの!?」
うっかり大声をあげてしまった。スペイサイド先生と手帳の改良。中々にない提案だったけれど……懐中時計は十八時を示していた。今から急いで帰っても、イレーナにご飯を出せるのは早くて十九時。あの子はちゃんと生きているだろうか!?
「ごめんなさい。妹のご飯を用意しなければならないのに、すっかり忘れていました。ここで失礼します!」
「ああああ。そういうことならそんな畏まらなくても……また今度ね~!」
無礼を働いていることは確実。でも、背後から聞こえてくる声からは不快を与えたようには感じ取れない。声色通りの感情で居てくれていることを期待して、僕は家目掛けて駆け出した。
――――――
「やっと……帰ってきたぁ…………」
「あっ……」
帰宅すると軟体生物のようにフニャフニャになったイレーナが、命からがらといった体で声を振り絞っていた。机には完成度八割方ぐらいの触媒。その辺りで集中が切れてしまったんだね。
理由は明確。単にお腹をすかせているだけだ。熱を出しただとかの体調不良なら、イレーナはもっと気丈に振る舞う。
おやつの棚には鍵をかけたまま。お昼を食べたのが何時頃なのか知らないけど、僕と同じ頃と仮定すれば五時間ほど開くことになる……やっぱり、ちょっと大げさに振る舞いすぎかな? 最近は外出さえしなければマシになったと思っていたけれど、本当にお腹の燃費が悪い子だなあ。
冷蔵庫には流石に鍵はかけていない。食材も切らしていないし、自分で食事を用意することは出来る環境だ。……それでも僕の帰りを待っていてくれたのは嬉しいけど、もうちょっと耐えられるようになってほしいなぁ。三日や四日ぐらい飲み物だけの生活が続いても死にはしないのだから。
本当に食べるものがなにもない時、たまたま手に入ったから飲んでみたビールは本当に腹持ちが良くて助かった。流石に今は口にしていないけれど。
「遅くなってごめんね。急いで用意するから、もうちょっとだけ待っててね」
「私も手伝う……何したらいい?」
「パスタ茹でといて!」
「はいはい~」
イレーナはそれぐらいならとばかりに鍋に火をかけ、湧いてきた湯にパスタを入れる。塩加減について、イレーナは失敗したことがなかった。だからこの工程については何の心配もなく任せられる。
その間に僕はソースを作る。時間は限られているから、手間はかかっても時間はかからないオイルパスタ系でいこう。オリーブオイルに刻んだ調味料数種を混ぜて火にかける。頃合いを見て、鍋から拝借してきた茹で汁を入れて火を止める。ここまで済んだ頃には、イレーナの方も準備が済んでいた。湯上げして和えたら完成だ。
二皿分盛って、二人共席に着くや否や、イレーナは既に握っていたスプーンとフォークでパスタをすくって口に運んでいた。この子も『がっつき族』の一人に加えたほうがいいのかな。
でもなんか、イレーナのがっつき方は族の趣旨とはずれる気がするなあ。部族入りを認めるかは、慎重に検討しなければならない。酋長はそういうところに厳しいんだ。
「部族の掟は、絶対……」
「ああっおいしい。スティバレ王国のシェフでも、きっとこの味は出せないよ……掟?」
「なんでもない。そこまで喜んでくれたら、作りがいもあるってものだね。流石に褒めすぎだけど」
今回作ったペペロンチーノは本場、スティバレ王国では家庭料理。ルイステンから見れば南部に位置する、国土が長靴の形をしていることでも有名な国だね。あちらではこういった間に合せの時に作るものだ。あえて料理店で出すこともなさそうだから、案外シェフは作れても慣れていなかったりするとかあるかも……。
って、そんなところで張り合っても仕方ないか。僕が目指しているのは魔術師であって、調理師ではないからね。
「ふう、お腹いっぱい幸せ。お腹が空いてこそご飯は美味しいものだよね。そうは思うけど、これからはステファ兄も勉強したいと思うし、せめて学校行く間はお菓子の棚開けといてくれないかなあ」
「んー……、しょうがないか」
「やった!」
「でも減り方はちゃんと管理するからね。それを見てご飯の量を考えるから」
「うぐっ、大丈夫でーす……食べすぎないようにしまーす……」
イレーナは笑顔ではしゃいだのも束の間、すっかり肩を落としていた。お菓子よりも僕のご飯を楽しみにしてくれているんだね。それを思うとなおさら腕が鳴るよ。
「でも、どうしてこんな遅くなったの?」
「上級生の人が組紐を教えてくれるって言うから、早速お邪魔してきたんだ。その帰りに出くわした先生とのお喋りが弾んじゃって」
「……なんで? どうせステファ兄のことだから、先生とも仲良くしそうなのはわかるけど。まだ二日目なのに、なんで上級生? どういう縁?」
「あはは、それヴァイオレットにも言われたなあ」
「そりゃ思うでしょ」
「単なる偶然だよ。共同研究室の大きなブレンダーを触ってる所に出くわしてね。流れで教えてもらえることになった。フィオナさんって言うんだ」
「どういう流れになればそうなるのか検討もつかないけど、まあいいや。ステファ兄も楽しそうだし、お菓子の棚も開くし。フィオナさんって人には私も感謝しないとね」
「調子いいんだから。明日は一限から召喚術なんだし、ちゃんとハーブ飲んで歯をしっかり磨いて早めに寝るんだよ」
「わかってるよ。ニンニクはペペロンチーノに欠かせないからね」
召喚術の授業には他に一年生はいないと聞いている。すると出席している唯一の一年生になるので、どうしても目立つ存在になるのは間違いないだろう。それが他の上級生に臭い奴だと悪目立ちするのは避けたい。
以前から我が家では、こういった臭いがきつめの香辛料を使ったご飯の後には、臭い消しのハーブを飲むことを徹底していた。イレーナは早々に食べ終わってしまったけど、僕も追いついたら飲むつもりだ。食事直後に飲むのが一番効くんだ。
ハーブの後味は中々に、えぐい。でもイレーナは口に入れる物に関しては、好き嫌いが本当にない子だった。たいていなんでも喜んで食べる。このハーブでさえも初めての時から、難なく飲み込んでいた。
僕にはまだこのえぐみはきついので、紅茶に砂糖とミルクをたっぷり入れて流し込まないとしんどい。ハーブの事情に関わらず、イレーナも紅茶は好きだから、食後のお茶がてら付き合って貰っている。
お茶が済んだら、今日のおさらいの時間だ。今日の見本に用意されていた組紐のレシピも教えてもらった。言わば答え合わせだけど、使用した殆どの触媒が一致していたことが確認できた。まあ、カンニング紛いを含めての結果だけどね。
それでも六十七点しか取れなかったのは、僕の実力の問題だ。幸い構成している触媒はありふれた物だったので、家にもある。とりあえず何回か、ある程度納得できるまで織り進めてみよう。
「……う、嘘、ステファ兄? 何作ってるの……?」
「何って、組紐だよ」
「それは見たらわかるよ。けどその……完全に目覚めちゃったの? 女装に」
「……えええっ!?」
「だってわざわざ口紅用の組紐編んでるとか、もう完璧にそうじゃん……素材の良さに気づいたって感じ?」
今回の課題となった組紐。その用途は思わぬ所で明かされてしまった。
「うえええええ! ちがっ、違うよ! これは、今回フィオナさんがテストに用意してくれた組紐であって、用途までは聞いてなかったんだ」
「へえ。じゃあ女の人から口紅貰ったんだ」
「うぐっ」
生まれてこの方、家族と、これまた家族ぐるみの付き合いがあるヴァイオレット以外の女性に物を貰う機会なんてなかった。初めて受け取った贈り物が、口紅って……。
……あ、あー。そうだ。この成り代わり通学を続けていくなら、この上ないお墨付きじゃないか。何も落ち込む事はない。化粧品を女性から贈ってもらえるぐらいには、違和感なく女性を演じられているという証左だ。
「あ。思い出した。フィオナさんって確か二年だよね」
「うん、そうだね……ん、なんで知ってるの?」
「召喚術の授業に出てたよ。すごいはっきりした顔の、一際目立ってた綺麗な人だったから印象には残ってる。特に挨拶はしてないけどね。あー、これからもまず顔合わせるだろうし、せっかく貰った物を付けていかないのも悪いよね。それ明日から私も借りるね」
「あっ、いいね。僕が織り直したやつはともかく、フィオナさんのやつならかなりいい出来だし、気に入ると思うよ」
「なんで他人事なの。朝付けててその後付けてなかったら変でしょ」
「あ」
できればフィオナさんのことを思い出さないで欲しかった。けど……授業が被っているなら無理だ。でもいくら貰ったからとは言え、あえて使う必要性はないはず。
……けど、イレーナが身だしなみにより気を使うようになるというのなら、その気持ちを無下にしたくもない。
「口紅だけも変だし、明日は早起きして、ちょっと全体的に化粧しようかな。ステファ兄にも教えてあげるね」
「ええぇぇ…………そんなぁ……」
「なあに、薄くやればいいの。薄く」
……明日の登校がちょっと億劫になってきてしまった。特に状況を理解されてるヴァイオレットにはそんな所見られたくないけど、明日の二限は回復魔法。現実はとても厳しかった。
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