呪文の描き方
「ステラさん! こちらですよー」
向かった先の教室の位置取りは、製図室と資料室の並び。集合先が製図室ではないあたり、今日は実際に製図には取り掛からないんだろう。
教室に入ると、教室の中程の席から目一杯手を挙げて呼びかけてくれるアイラさんの姿が見えた。それでも位置が低くて、立って談笑してる生徒の頭に紛れそうになっているのがなんだかおかしかった。
その隣にはヴァイオレット。机に肘を立てたまま、同じく手を振っている。認識した時点で僕の足は彼女らの座る席の方に向かっていた。
「お二人共どうも、お昼ぶりです。攻撃魔法の授業はどうでした?」
「私にも唱えられたよ。ステラなら退屈してたかも」
すごい。初回から唱えられたんだ。
ヴァイオレットは自分の体のこともあって、病床についている間も回復魔法や薬学を学んでいた。努力が実って、今やイレーナも一目置くほどの実力を見せている。
ただ、攻撃魔法を学んでいるとは聞いたことがない。予習していたとしても、昨日今日で唱えられるようになるとも思えない。やっぱりそういう所を見ると、彼女も貴族なのだなと思わさせられる。領土を魔法で守ってきた人たちだからね。
と言っても、僕でさえ退屈しそうと評するような内容だ。僕が攻撃魔法を苦手とすることは、ヴァイオレットも知るところ。つまり、他の授業と同じで初歩的な内容に終始したんだろう。
「え、だったら、アイラさんにはなおさら退屈だったのでは?」
「そうですね、この単位の実習では教えられる事はないって言われました」
そこまでか。でもそりゃそうだ。何年もの間、ミアズマを相手に火炎魔法一つで生き抜いて来た人だ。それこそ、入学したての学生が半年で学ぶ単元なんて、今更学び直すほどのことでもない。実力を鑑みて授業を免除して、自習の時間でもくれたほうが余程生産的だ。
「結果だけを見るなら出席を免除しても良いけど、私のやり方はいくらなんでも我流が過ぎるって。ある程度、世界で体系化されているやり方も学ぶようにおすすめされました」
アイラさんが学習の頼みとしていたのは入門レベルの手引書一冊だけだ。それこそ、生存圏外では攻撃魔法の上達は命に関わる問題なので、時間さえあれば穴が空くほどに読み倒しているに違いない。それでも書いていないことは、自分で解決するしかない。試行錯誤の機会は山程あっただろう。その中で、アイラさんなりの適解を見つけて実践しては上達させてきたんだと思う。
しかし、場合によっては出席免除も考慮してもらえていたとは。召喚術の教師もそのくらい柔軟性を持ってイレーナに接してくれればいいんだけど。
「横で見ててもすごかったもん、火がブワーッて」
ヴァイオレットは両腕を大きく広げ、宙に円を描いた。
「そこまでは大げさですよ。でも、これだけが取り柄ですから……他でついていけるかが心配です」
すると、アイラさんにとってみれば、これから学ぶ分野は初めて触れる部分になるんだろうか。授業開始を告げる鐘が鳴る。授業準備をとっくに終えて、眠そうにしていた教師が立ち上がって教壇についた。
「ふぁ……おっほん。おはようございます。そして、入学おめでとう。私は金曜の朝も含め、皆さんの製図を担当する、セシリー・スペイサイドと申します。実のところ、私も今年からの着任なので皆さんと同じ立場なんですよね。よかったら、仲良くして欲しいです」
新任の先生だったのか。通りでやけに若いと思ったわけだ。二十代の半ばを超えているかどうか、というぐらいの人だった。出で立ちもアイラさんよりは背が高い……かな? それも相まってより若く見える。
髪が明るいグレーなので、このルディングか近い辺りの出身の人ではあると思う。けれど、この年代の人を今の所、ルディングの教師で見かけたことはない。とすると、この若さで教師を任されているということは優秀な人なのだろうか。この授業の今後の期待が強まる。
「多くの人にとって、スクロールはより複雑な魔法を使う助けとなるものですね。今や原理を転用して、機械に実行させる手法が浸透し始めていて、生活に欠かせないものになってきています。例えば、冷蔵庫がない生活なんてもう考えられませんし……。この授業では毎週二時限を使って、基本的なスクロールが描ける段階を目指していきます」
だけど、今日はまだ新学期二日目。例によって講義内容は基本的な部分に触れるに留まりそうだ。しょうがないね。
「このスクロールの書き方を学ぶ授業が『製図』と呼ばれるのには理由があります。平面用のルーン文字を闇雲に、用紙の左上から詰めていっても、まともなスクロールにはなりません。どこにどのルーンを描くのかという、レイアウトが大事です」
配置の他にも、使うインクの種類も大事だよね。ちゃんと魔力を吸収するインクでないと、いくらルーン文字を書いても意味がない。それらが相互に作用して初めて、有用な効果を持つ。
例えば、制服を誤魔化すのに使ったスクロール。まだ制服が一着しかないうちに、兄妹揃って通学するにはとても役に立った。いくら見た目をごまかすだけの幻惑魔法とはいえ、効き目を持たせたい範囲がここまで広がれば当然難易度は上がる。あれの再現を目指して僕が一から作るとしたら、かなり骨が折れるだろう。せっかく学ぶ機会を得たのだから、挑戦してみるつもりでいるけどね。
もちろん、スクロールを開いて中身を確認すれば複製は容易い。けれどそんな簡単に複製なんてされては、発明した人がいたたまれない。というか収入に関わるので、いたたまれないだけでは済ませるはずがない。
昨日のスクロールで言えば、巻き付いた面が魔法で貼り付けられており、剥がすことができなくなっている。この複製対策の隠蔽だって立派な技術だ。他には効果に影響が出ないようにしつつも塗りつぶしてしまうとかね。
さて。製図も組紐に並んで気になる分野の一つだ。他で手を抜くわけじゃないけど、より一層取り組んでいきたいと考えている。なんせ、魔法を詠唱する能力と、スクロールに描き上げて再現する能力とでは全くの別の物が要求される。スクロールなら魔力の扱いが下手な僕にも十分上達の余地がある。
もちろん、自分で唱えられたほうが魔法の仕組みを理解するのは早い。だから唱えられるに越したことはない。
こちらもこちらで、易しくはない道だとは考えている。真剣に挑むなら覚悟はしなければ。……まあ、しばらくは学び直しみたいな授業になるんだろうけど。
「どこに何を描いたら何が起きるのかは、その都度本を見てもいいですけど。やっぱり、頭の中に入っていたほうが手が早くなりますよね。というわけで、この授業ではしっかり知識を身に着けて欲しいと思います。課題はレポート。何をやったらどうなるのか、それを何から知ったのかと合わせて用意してください。内容は知識を得ることが目的なので、自分が知らなかったことならなんでもいいです。時間中の教室の出入りは自由とします」
おや。なんだか雲行きが良さげな方に変わってきたぞ。
「もちろん、製図に初めて触れる人もいるでしょう。本格的には金曜の朝に触れるつもりですが、今から基礎的な講座も行いましょう。希望者はいますか?」
「はーい。私、初めてでーす」
即座にヴァイオレットが挙手した。こういう時、いの一番に手をあげるのってちょっと恥ずかしかったりするんだよね。だけど、侯爵家の娘というだけあって、ヴァイオレットは新入生の中では目立つ存在だ。そんな彼女が一番槍を果たしてくれたなら、ためらうこともないよね。結局、その後にすぐ続いたのは、ヴァイオレットの地位を知らなそうなアイラさんだったけど。
僕は内容が基礎ということなので、手を挙げようとは思ってなかった。でも、スペイサイド先生がどんな授業をするのかちょっと気になってはいる。隣の資料室から資料を取ってきたら戻ってきて、盗み聞きしてみよう。
「意欲的でいいですね。じゃ、希望する人から前の方に集まって下さい」
結果的に、教室の半数ぐらいが挙手して受講の意思を示した。呪文を唱えるよりは地味な分野だから、経験者が少なくとも仕方ないね。
「ステラさんは製図もなさったことがあるんですね。すごい……でも、攻撃魔法に続いてまた一緒に授業を受けられないんですね……ちょっと寂しいです」
「資料を取ってきたら、教室に戻ってきますよ。わからないことを聞くのは先生にした方がいいと思いますけど、手伝えることがあったらいつでも言ってください。応援してますから」
「わぁ! ありがとうございます!」
アイラさんは顔をにっこりとさせた。なんだか、数年前の素直なイレーナを見ているようで、むしろこちらがどうしてか安心させられてしまう。思わず吊られて頬がゆるむ。
僕の妹はすっかりたくましくなってしまったからね。成長は喜ばしいことだけど、もうちょっと度合いが緩やかでも……。いや、これでは欲張りな兄だね。妹は成長しているのに情けない話だ。それに、せいぜい十歳ぐらいまでの頃のイレーナと比べては、アイラさんに失礼が過ぎる。
「私も初めて学ぶんですけどー」
一方のヴァイオレットは膨れっ面だった。蔑ろにしたつもりはないけど、ちょっと存在を忘れかかっていた……。ごめんね。ヴァイオレットにはどうしてもお姉さんというイメージが強くて、つい甘えたような態度を取ってしまう。というか、実際に一つ年上なのだから当たり前だ。
ルディングには満二十歳を迎える歳まで在籍できる。課程が三年分あるので、満十八歳になる年度に入学すれば卒業までできるというわけだ。けれどやっぱり、あえてずらして入学する人の数は多くない。魔法などの専門分野を扱う学校には、義務教育を受け終えた後に入学するのが一般的だからね。
でもヴァイオレットには体の事情があったので、入学を一年遅らせる判断をしたんだろう。今の薬を飲み始めて、効果が出始めたのは一昨年の夏頃だったと記憶しているけど。大事をとったのだろうか。
……かねてから僕ら兄妹がルディングに行こうとしていたことは伝えてあった。入学時期を合わせようなんてことは考えてないよね。まさかね。
「わわ、もちろんヴァイオレットさんのことだって応援してますよ。助けが入用でしたらいつでも声をかけてくださいね」
「よかった。人に優しいのもいいけど、やっぱり私に優しいステラちゃんが好き」
ああっ。またちゃん付け呼ばわりに戻った。そんな呼ばれ方をすると、自分が今どんな格好をしているかを思い出す。現実に引き戻されるような思いだ。別に現実逃避していたつもりはないのに。
だけど、魔法のことになると興奮しがちな僕のことだ。ついうっかりこの女装のことを忘れて暴走してしまえば、取り返しのつかないことになりかねない。勉強も大事とはいえ、そのための環境を失っては元も子もないからね。改めて気を引き締めてくれたヴァイオレットには感謝しなければ。
「ありがとうございます、ヴァイオレットさん」
「ん、あれ? えっと、どうも?」
当のヴァイオレットは呆けたような顔をしていた。
「さて。じゃあ、私は資料を取りにいこうと思います。お二人も頑張って下さいね」
「はい! 行ってきます!」
「んん~?」
既に立ち上がっていたアイラさんは、まだ納得いかない様子のヴァイオレットの手を引いて、前の方の席へ移っていった。
数歩進んで、手ぶらだったことを思い出したらしいヴァイオレット。彼女が振り返ると、もとの座席にあった筆記用具が浮かび上がる。
これは比較的軽い物体を宙に浮かべられる、日用魔法の一種だ。彼女は病床に伏せる生活が長かったのもあって、かなりのレベルで日用魔法をマスターしていた。お家柄、そりゃ使用人はいるけど、介護をされていたという話は聞いていない。そんな彼女だから当然、日用魔法の授業なんて履修する必要はなかった。
ステラ・モーレンジとは今日の回復魔法まで、被っていた授業はないことになる。いきなりそこで鉢合わせ、なんてことにならなくて本当によかったと思う。
考え事はそのくらいにしておいて。僕も彼女らの後に続いて、隣の資料室へ向かう。資料室は図書館のように立派だった。これ全部製図関係の書類なんだろうか? やっぱりルディングはすごい。目につくもの全てに興味を惹かれる。
……ああ! 原生触媒図鑑もある! カラーで製本されている触媒の図鑑はとっても貴重だ。一冊を手にとって適当なページを開いてみる。載っている植物はどれも見たことがないものばかりだった。どこの地域に焦点を当てたページかを知って、その理由に納得できた。この天体の裏側にある地域の植生だったらしょうがないね。あっちの方はじめじめと熱い地域だと聞くけど、そんな環境は想像すらつかない。
原生触媒図鑑は全六十五巻。いち、に、と端から数えていく。しっかり六十五巻、耳を揃えて鎮座している。その一冊一冊が平民の月収ぐらいの価格で取引されているものになるので、やっぱり、さすがはルディングだという他にない。今もなお刊行を続けているので、これから揃えようとしたら骨が折れるどころの騒ぎじゃない。
流石にここまでの資料となると、『持ち出し禁止』と札の貼られた棚に入っていた。しょうがないね。
さて。講義が始まってから教室に戻るのも気が引ける。後ろにいると宣言した以上、資料探しはそこそこにして戻らないと。手近な持ち出し可の資料、図式録を適当に何冊か手にとる。何をどのように描けばこの効果が出るよ、という風に、この道の権威たちが認めているルーンの描き方が図式と呼ばれている。それがたくさん掲載されている本だ。
そっと扉を開けて教室へ戻る。前の方では授業をしているだろうから、後ろからこっそりと。特に注視されることなく、元の席に戻ることができた。
アイラさんとヴァイオレットの二人は教室の前の方で、スペイサイド先生の講義を受けていた。僕がかけているのは中程の席なので、それほど距離は離れていない。どういった講義をしているのか、途中からだけどちょっと聞かせてもらおう。
講義内容はインクの種類や、レイアウトに関する専門用語の解説が中心だった。資料にちょっと目を通せば頻出するワードばかり。目的はわかった。インク向けの触媒に関する資料ならともかく、ことレイアウトの資料は予備知識がない人には、模様が沢山載っている本にしか見えない。それで製図に苦手意識を持つ人も多いだろう。
でも、この講義はそんな人が一人でも読めるようになる、助けをするものだ。用語それぞれの解説はとても丁寧でわかりやすい。昨日まで意味がわからなかったはずの本に、また目を通したらなんだか意味がわかるような気になれる。また学んでみようかな、という意欲をかきたてるには十分な要因となるだろう。
僕もその口だった。僕ら兄妹は、お母さんの蔵書を拝借して魔法を学んできた。だけど、魔法ができるはずのお母さんが、二人に手ずから魔法を教えてくれたことはない。幼い時分では独学しようにも、理解に限界がくる分野がいくつかあった。
その一つがこの製図だった。たまたま、その時の乳母さんが製図の知識がある人だったから、教えてもらうことができた。それがなければ、僕も前の席で講義を聞く立場にあったと思う。
乳母さんが本格的に製図する姿は見たことがない。実力については結局知らないままだけれど、幼い僕らにもわかるように説明してくれた。それに匹敵するぐらい分かりやすいと思える講義をスペイサイド先生は行っていた。
これなら、あとで二人が質問してくることもないか、あっても少なそうだ。その時間を取る必要もなさそうなら、今日の放課後はフィオナさんの所へ顔を出したい。手帳でイレーナに帰りが遅れることを伝えておこう。
さて、メッセージを送るたびに研究室番号を入力するのは面倒だ。僕ら兄妹の手帳には、あらかじめ記入しておいた番号に触れるだけで送れるように改造しておいてある。ルーン文字をいくつか足せば実現できた。
チリーン。
イレーナからの返事は早かった。「わかったよ」と簡潔に答えてくれた。新規メッセージが着たら、呼び鈴を鳴らして通知する機能も改造して付け足した。せっかく送ってくれたことに気づかないままでいるのは忍びないからね。
ふと、教室の雰囲気が変わったことを察知する。室内全ての視線がこちらに向かっているからだ。皆急にどうしたの。
「今の音は?」
「ステラの方からしましたねー。ふへ」
先生の疑問に答える、にやついたヴァイオレットの顔が目に映る。悪巧みする時はいつもあのようにふやけた顔をするから、つい身構えてしまう。なんで今そんな顔を?
「そう、あなた達の真ん中のお友達。ステラさんっていうのね。ではステラさん、今の音はなんですか?」
「ええっと、手帳にメッセージが着たら、通知音が鳴るようにしてあるんです。気づかないと困ることもありますし」
「なるほど? それは便利そうですね~」
「そうなんです!」
「もう、にっこり笑っちゃって。では、授業中に手帳をいじって、お友達とメッセージのやり取りをしていたんですね。授業中にも関わらず」
「あ」
おや。なんだか雲行きが悪そうな方に変わってきたぞ。
「あはは! 不良だぁ!」
「うふふ、そうですね。授業中に寝るくらい不良ですね」
大きな声で笑うヴァイオレット。それにアイラさんまで乗っからないで欲しかった。アイラさんにはヴァイオレットではなくて、僕の味方を……してもらえるような立場じゃない!
確かに授業中に人と連絡を取り合っているなんて、全く褒められたことじゃない。なんで今まで気づかなかったんだろう。それだけに留まらず、バカでかい通知音で注目を集めて授業を妨害してしまった。これなら迷惑度合いで言えば寝てる方がマシなくらいだ。女装姿を鏡で見た時ぐらいに自分が情けなくなった。恐縮して思わず身が縮こまる。
「申し訳ありません。以後、授業中には触らないように致します……」
「ふッ、かっ、かわ……! オホン!」
何やら小さく声を漏らしていた先生の目が、不敵に光ったような気がする。
「よろしい。でも、失態には違いませんので、少し指導を行おうと思います。この時限の後、少し時間はありますか?」
「……あ、はい。もちろんです」
「すみません先生。それ、待ってたら一緒に帰れそうなぐらいですか?」
うわ。ヴァイオレットはすごい質問の仕方をするなあ。これでは指導しようというところに、露骨に時短を願うようなものだ。でも先生は顔をしかめるどころか微笑んでいた。
「ああ、いいんです。いい機会なので、指導の練習をさせてもらえたらなと思っただけですし。どちらかといえば指導というより、ちょっとしたお願いごとの申し出です。真ん中のステラさん以外のお友達も、よかったら同席されますか?」
「わぁ! ステラさんがお試し指導されてるところ、見てみたいです!」
華やぐような笑顔で何に興味を持っているんだ!
アイラさんがなんだか怖くなってきた。妙な提案をする先生も先生だ。反省しているしお願いごとだなんて言われたら、逃げるつもりなんてないけれど。とはいえ、誰が好き好んで叱られているところを見られたいと思うのか!
そうしている間に鐘が鳴る。不良呼ばわりなんて生まれてこの方されたことがないので、居辛い気持ちでいっぱいだった僕には、これほどありがたいこともなかった。
それを契機に、スペイサイド先生は授業の終わりを宣言する。同時と言えるタイミングで着席していた生徒が一斉に立ち上がる。皆早く帰りたいんだね。僕とヴァイオレット、アイラさんだけが残るまでに時間はかからなかった。もうちょっとだけ、この居心地の悪さは続きそうだ。
「さて、ステラさん。こちらへ」
促されるままに前へ向かう。できるだけ、神妙な面持ちを意識する。
「……えーっと、皆さんの手前、指導だなんて言葉を選びましたけど。今したいのは指導というより、本当に単なるお願いなんですよね」
「はあ、お願い……と言いますと?」
「その手帳を鳴らす図式、よかったら教えてくれませんか? 私実はかなりのうっかりやでして、いつもメッセージを見逃してばっかりなんです……お願いします」
ええええええ。まさかの展開だった。
アイラさんやヴァイオレットも、豆鉄砲を食らった鳥みたいな顔をしていた。
「それは構わないですけど、難しい図式ではないですよ。先生なら独自に追加できるはずです」
「取り組んでみれば描けはするでしょうけど、いやー、やっぱり既存の図式があるなら、それを使えるに越したことはないでしょう? 製図ってやっぱり面倒ですし。ほら、頭使うでしょ?」
ええええええ……。仮にも製図の先生が製図を面倒がるのか!?
かなりだらしないようだけど、一介の生徒に教えを乞うような柔軟さがある。というのは、やっぱり若い先生ならではというべきなのか。……そうなんだろうか? なんでも好意的にみるのって、意外と難しい。
「わかりました。けど、まだ音を鳴らさないようにする機能がないので、それができてから伝えるということでもいいですか?」
「じゃあ私が今追加しましょう。えっと筆は……あっちか。早速図式を見せてください」
言われるままに僕の手帳の、改造のためにルーンを描いたページを開く。そこにスペイサイド先生は、自分の懐をひとしきり触った後、結局机に置いていた万年筆でさらさらとルーンを描き足していく。
「はい。このルーンの上をなぞればいいですよ。使ってみて」
ルーンで描かれた『仮面』の図式。僕も見たことのある一般的な図式だけど、お手本の通りみたいだ。空見で書かれたものとは思えない。先生が促した通り、図式の上に指を置く。手帳も複雑なスクロールみたいなものだけど、僕だって最低限の弱い魔力ならライターを使わなくても一定に放つことができる。手帳の使用には苦労しない。
それを見届けたヴァイオレットが手帳をいじりはじめる。一分としないうちにメッセージがきたが、通知音は鳴らなかった。
「……メッセージ、着ました。すごいですね」
「フフ~、これぐらいは造作もありません。もう一度同じことをすれば、通知音が聞けます」
もう一度同じ操作を行ったあと、アイラさんも手帳を取り出す。チリーン。音を聞き届けてアイラさんもにっこり。これほどの短時間で求める効果を的確に書き記す。この先生、やっぱり只者ではなさそうだ。
「ステラちゃあん」
「うわ、なんですか」
「私のもあとで改造してー。それとっても便利そうだけど、私にはまるで描けそうもないし。お願いいいい」
ヴァイオレットが僕に甘える時は、必要以上にへりくだる。侯爵家のお嬢さんには見えないくらい顔がくしゃくしゃになるので、思わず居た堪れなくなって願いを聞いてしまう。
「できますよ。先生が加えてくれたものも含めて転写しましょう」
「ありがとおおぉぉぉ」
干物みたいにくしゃった顔が水気を取り戻すように笑顔に変わっていく。これでイレーナとヴァイオレットのやり取りもスムーズになるといいけど。
「……うー」
一方のアイラさんは眉を下げたしかめっ面で唸りを上げていた。この人、きっと人に頼み事ができないタイプだ。僕も少し前までそうだったので気持ちはわかる。
「アイラさんの手帳も改造しますか?」
「わっ、そんな、手間になることは。でも便利そうなので転記させてもらえたら……私にも図式を見せてくださいませんか?」
「ルーンは描き順も大事ですけど、大丈夫ですか?」
「ああっ! 全くわからないです」
「別に苦にはなりませんから、任せてください」
「ううぅ、ありがとうございます、ステラさん……」
アイラさんから手帳を受け取って、図式を転記していく。
チリーン。チリーン。チリーン。チリーン。チリーン。
まだ鳴ってる。一足先に改造が済んだのか、スペイサイド先生の手帳が勢いよく吠えあがる。一体どれだけ新着メッセージを貯めてたんだ。
「うぅわ、わぁ~わわわわ。すみません、ここの施錠、ヴァイオレットさんに任せてもいいでしょうか。学長に忘れていた報告がありまして、すぐ向かいたいんです」
「先生ほんとにおっちょこちょいなんだ。ここは任せて!」
「ありがとうございます。鍵は職員室の、私の席の引き出しにでも入れておいて下さい。それでは!」
戸締りについては本当に完全に任せるつもりのようで、開けた扉を閉めもせずに先生は飛び出していった。その間、手帳は鳴りっぱなしだった。
優秀な人は、どこか抜けている部分を用意する義務でもあるのだろうか。ヴァイオレットからも敬語が抜けてしまっているからね。アイラさんからは……笑いのツボか。僕も成長できたらいずれは何かが抜け落ちてしまうんだろうか。髪じゃなかったらいいな。
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