ブレンダー

「ああああああ! もうダメ! まるで運指がうんちですわ!」


 けれど、この人の期待には応えられなかったようだ。

 彼女は髪……から少し浮かしたところを両手でかき回している。招いてくれた時の柔和な態度はすっかり鳴りを潜めていた。今の所名前さえ聞けていないけれど、振る舞いから窺うに、どこぞの貴族のお嬢さんに違いない人だ。そんな人にとんでもないことを口走らせてしまうぐらいには期待はずれだったらしい。

 

 勘弁してよ。こちとら家庭用のブレンダーしか触ったことがないのだから。座席を囲むように配置されている八つの操縦円。名の通り、操作するために使うものだ。形が違うにしたって、同様のものは僕が使っていたブレンダーにも当然備わっている。ただ、数は二つだけだった。

 このブレンダーがグランドピアノだとすると、家にあるやつはおもちゃのピアノみたいなものだ。鍵盤の数でいえば、四分の一ぐらいだろう。いきなり四倍に増えた鍵盤を扱い切れという方が難しい注文だった。実際、糸への変換難度で言えば標準ぐらいとなる、植物素材の変換にも手間取っていた。

 

「あ、あら? その辺りの運指はいい流れですね。うんちから児戯へ格上げできそうなものを感じます」


 まだ優雅から程遠い言葉を口にするか。だけど既に大人の界隈でやっていけそうな天才に遅れを取るのは仕方がない。それでも、今後己の実力を伸ばす手がかりに繋がるとあれば、この機会をみすみす逃そうとは思えなかった。見切りをつけられる前に、触る操縦円を二つに絞ろう。

 なんやかんやで、イレーナの練習用に扱う触媒として、組紐を編み上げてあげた経験だったら数え切れないほどにある。家庭用の道具でも触れる、慣れた範囲での操作に抑える。それによって最低限の評価は得られたようだ。

 

 ……でも、これじゃ家庭用を使うのと大差ないんだよね。ガラクタ同然のものでさえなければ、ブレンダーの質は成果物の出来にほとんど関わらない。操作者の技術がダイレクトに反映される。ただ、どこまでのものが作れるかの上限が広がるだけだ。

 それゆえに学生の魔法の実力で使いたい触媒を作るだけなら、家庭用でほとんどは事足りてしまう。この学校ならわざわざ編まずとも、いい触媒がすぐ手に入る環境だからなおさらだね。

 だけど、フィオナさんに先程見せてもらったような、とぐろを巻けるような規模の組紐が必要なら話は別だ。学校を出てからだとしても、上達を目指すならいつかはお世話になる。分かりきっている未来なのだから、その時自分で作れるならこれ以上のことはないよね。


 近くの棚に、予約用の台帳が突っ込んであるのが見えた。さっと確認できる範囲では、飛び飛びの日付でほぼ同じ名前ばかりが記入されていた。先の日付で予約されているものは殆どない。

 これはおそらく、使いたい時に当日予約のような形で名前を書いている感じだ。予約については本当に問題なかったんだ。その点においては負担をかけていなくてちょっぴり安心。

 

「もう、水臭いですわね。最初から、その範囲でブレンダーを扱ってきたことを伝えてくれればいいですのに」


「すみません。ここまで大きいブレンダーは初めて触ったものでして、つい圧倒されてしまいました」


 僕の浅ましい考えについては見透かされていたようだ。ちょっとショック。でもま、やけに手慣れた範囲があることぐらい、彼女ほどの手練なら気づくのも時間の問題と言えただろうか。

 

「……ごめんなさい。まさかうんちだとか、自分でも驚くぐらいに扱き下ろしてしまったとは感じてはいたんです。けれど、扱える範囲さえ広がればその道で生活が成り立つぐらいには、センスを感じているのは確かです。もしその気があれば、今度は私の研究室へいらしてください」


「ご期待に添えず、恐縮で……へ、今、なんと?」


 今までの鬼軍曹然とした態度とは打って変わって。彼女の眉は垂れ下がって、祈るような表情に変わっていた。これではまるで嘆願だ。立場が逆転してしまっている。

 

「もし興味があれば、で構わないのです。より組紐を学ぶつもりがあれば、私の研究室へお越し下さいませんか?」

 

「そんな、かしこまらないで下さい。私としても、ブレンダーの扱いは身につけておきたいと考えていたところなんです。私は……えっと、ステラ・モーレンジと申します。差し支えがなければお名前を教えてくださいませんか?」


「あはっ、ハッ……」


 彼女は顔を輝かせて天井を仰ぎ、数秒固まったあと、名前を教えてくれた。


「フィオナ・ミラーズ、ええ、フィオナです」


「フィオナさんですね。よろしくお願いします」

 

 思っていたより短い名乗りだった。台帳に載っているのはファーストネームと個人の研究室番号だけ。ふと彼女の胸元に目が行く。しかし、名札を付けているのは新入生だけ。

 貴い出身の人たちは大抵、口頭で述べるにはめんどくさ、いや、そう。立派な名前をお持ちだ。だからこういった名乗る機会には、家名と併せて固有のミドルネームを一つ名乗る場合が多い。『ヴァイオレット』なんかは典型例だね。


 ところで、ミラーズという家名には聞き覚えがなかった。

 別に貴族の家名を全部把握しているとか、そういった特殊な趣味は持っていない。常識の範囲に照らし合わせてのことだった。

 フィオナさんは、園芸室で見た同級生と比較しても、振る舞いで見劣りするなんてことはない人だ。例えばご実家が遠い地域だったりで、耳にする機会がないだけかもしれない。ミドルネームの名乗りがないのは、単にあまり気に入っているものではなかったりとか。

 

「でもどうして、今日見知ったばかりの私に技術を教えてくれるのですか?」

 

 その他にも一つ、気になることがあった。普通、魔法を志す人間は人に技術を教えたがらない。富の多寡に関わるから当然のことだ。スクロールにしても、国に手法を報告すれば特許が与えられ、数十年の間、ライセンス収入を得る権利が認められる。

 戦争も終わった今どき、魔法使いが食っていく道は限られている。ちょっとでも収入に結びつきそうな物があれば、秘匿しておくのが常だった。

 

「ああ……それは、私には身体のことがありまして。卒業まで学校にいられるかどうかもわからないのです」


「ええっ!?」


「その時がきたら、受け入れる覚悟はできています。だけれど、その後誰からも忘れられてしまってはあまりに寂しいでしょう? この学校に私がいたことを、技術という形で残すことさえできれば。この人の世でも役に立つことができたと、胸を張って去ることができます。ええ、たとえ名前は残らなくとも」


 体のこと……というと、持病を抱えているのだろうか。天才薄命とはよくいうけれど、いざ実例を目にするとどきりとする。

 その上で、考えのなんと立派なことか。思わず目頭が熱くなるのを感じる。


「それは……軽々しく聞いてすみませんでした。でも……」


「あ、あら?」


「感動しました。そのような高い志を持っていたなんて。私の方こそ、お願いします。どうか私に、貴女の技術を教えて下さい!」


「いいえ。当然持つ疑問だと思いますから、気にしないで下さい……?」


 気がつくと僕は彼女の手を握っていた。覚悟しているという言葉通り、本当に気にしていないのか、理由を語っていた時の彼女の顔に悲壮感は窺えなかった。それどころか、今のほうがなんだか申し訳無さそうにしている。

 いけない。昔からこうだった。僕が魔法のことで強い関心を持ったあとは大体の人に引かれてしまう。


「ところで、ええと……四限は受けるんです? もしなければ、早速……」

 

 そわそわしていた彼女はふと、時計を見た。僕もつられて懐中時計を取り出す。針が示しているのは十四時十分。ちょうど三限目が終わったところだ。


「すみません、四限は製図の授業があるんです。そろそろ向かおうと思います」


「そうでしたか。であれば、研究室の番号を渡しておきます。いつでも来て下さいな。寝泊まりもしているので、何事もなければ部屋にいると思います」


「はい! ありがとうございま……えっ、泊まってるんですか……?」


「ハンモックは愛用の物を持ってきています。なかなか良いものですよ。ほら、いってらっしゃい」


 彼女は片足を引き、膝をすっかり覆い隠している長めのスカートの裾をつまんでは、浅めのカーテシーで見送ってくれた。

 

 ……個別の研究室が寮も兼ねているという話は聞いたこともない。そのため、当然寝具は備え付けられてはいない。それでも寝泊まりしているだなんて、かなり独特な人だけど、志も高ければ相応の実力も持ち合わせているときた。そんな人が気にかけてくれるといったら何よりという他にない。

 早速だけど、放課後にはお邪魔してみようかな。晩ご飯の用意があるから、あまり長くはいられないけれど。今から放課後がとても楽しみになった。

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