第68話 無重力の世界で
緑とクリーム色の電車に揺られて。
七里ガ浜駅で降りた俺たちは、駅から少し歩く。
オレンジ色の有名コンビニ店の前にある横断歩道。
体感五分ほど待たされて、ようやく信号が緑色に光った。
「ふふふ~ん……」
鼻歌混じりに歩道を渡るらら。
足取りは軽く、さっきまで死ぬほど江ノ島を練り歩いたとは思えないほどのフットワークの軽さだった。
ザー、とついこないだ聞いた、ノスタルジックな音が聞こえる。
「おぉ~!」
「おぉー……!」
思わず感嘆の声が漏れる。
それもそのはず。
目の前に広がっているのは、江ノ島と夕陽、海に――富士山。
一つだけでも綺麗な景色が、四つも合わさって人々を魅了していた。
人々が立ち止まって、カメラを向ける。
夕陽が富士山に沈んでいこうとしていて、淡い暖色が江ノ島の展望台を照らしていた。
ロマンチックな景色に目を奪われ、言葉を失う。
ららはカメラを向けることもせず、ただその景色を見ていた。
だけどなんでだろう。
――心なしか、ららは悲しそうな表情を浮かべていた。
それは夕陽が沈み込むことに対する寂寥の念からだろうか。
いや、こいつはそんなに太陽に対して思い入れのあるやつじゃない。
第一、また太陽は昇ってくる。
じゃあなんで何かを失ってしまうような、そんな悲しそうな表情を浮かべているのだろう。
ふと、俺の心がズキンと痛む。まるで共鳴するみたいに。
いくらかの塩を含んだ風が空洞を吹き抜けていく。
傷口が、ヒリリと痛んだ。
「さっ先輩! 砂浜に降りましょうか!」
いつものららスマイルに早変わりして、軽くスキップをしながら階段を下りていく。
まるでさっきの表情なんて、なかったみたいに。
「おう」
少し遅れて、ららの横に並ぶ。
黄昏時の砂浜には、まだたくさんの人がいた。
「やっぱりここ、かなりの人気観光地なんですねぇ」
「まぁ実際、綺麗だしな」
「えぇ~私のことが綺麗だなんて、先輩って意外と積極的?」
「この景色が! 綺麗だなって言ったんだよ。この景色がな」
「二回言った上に倒置法とか、どんだけ否定したいんですか先輩は……私、こう見えても結構傷つく繊細な女の子なんですよ?」
「ならまずは俺をからかうところからやめようか? そしたら繊細な女の子らしく扱ってやるよ」
「先輩は鋼の心を持ってるからいいじゃないですか~! サンドバックとそう変わらないし?」
「人をサンドバック扱いすんじゃねぇーよ! 人間らしく、倒れても起き上がるのに時間がかかるんだよ俺は」
「……結局は起き上がるんですね、先輩は」
「…………時間はかかるけどな」
時間が解決してくれる問題もある。
時間が解決してくれない問題も、存在するけど。
しばらく練り歩く。
どこに向かっているのかは分からないが、ららの後について行く。
砂浜を歩いていくにつれて、周囲から人が減っていった。
「さっきあの駅のすぐ近くに高校ありましたね。なんていうのかは忘れちゃいましたけど」
「あぁーあったな。……津波が起こったらひとたまりもなさそう」
「先輩はネガティブですねぇ……私は、高校生活に二周目があるなら、海辺の高校がいいなぁ」
「お前まだ高一だろ……」
「関係ないのです。乙女には!」
乙女って特権階級なの? 特別な待遇受けすぎじゃない?
っていうか乙女の男バージョンってないのかな。
……乙男(おとお)とか?
……いやダセェよ。
「朝起きて、登校の支度して江ノ電に乗り込んで。そして電車に揺られて、少ししか見れない海に思いを馳せて。毎朝感動して、駅に降りたら潮風の匂いを嗅いで」
突然の回想。
俺は黙って耳を傾ける。
「授業中は宝石みたいに輝く海を見て時間を潰して、放課後は友達と青春して」
「理想の高校生活だな」
「はい。でも理想には続きがあるんです」
まるで子供が荒唐無稽に思える夢を語るみたいに。
目を海にも劣らずに輝かせて言葉を紡ぐ。
「帰りは大好きな人と待ち合わせをして、見え方が変わる海を二人で見て。それで『十年後もこうして見ていたいね』って、思い返せば照れるセリフを言い合って」
「…………」
「それで、愛を確かめ合うんです」
ららの歩みが止まる。
それと同時に言葉も出なくなって、沈黙が横たわる。
その沈黙を埋めるかのように、俺たちの間を潮風が吹き抜けていった。
「それで……それで、」
何かを堪えるように、何度もそう呟くらら。
くるりと花びらをたなびかせて踵を返す。
「らら……」
ららは――泣いていた。
ボロボロと大きな雫を、陰のかかった砂浜に落とす。
俺は口を開けて、そんなららの姿を見ることしかできなかった。
なんで泣いてるんだ?
そんな言葉も、口から出ていこうとしない。
「それで……それでっ……!」
何かを決心したように拳をギュッと握りしめて。
だけど力を抜いて、穏やかな表情を浮かべるらら。
ニコッと一輪の花が咲くみたいに、ららが笑う。
涙の雫が輝く。
富士山の隙間から差し込んでくる眩い光が反射して、時が止まったかのように感じる。
浮遊感を感じる世界の中で、言葉が浮かぶみたいに、ららが口を開いた。
「それが、その相手が――先輩であればいいなって、そう思うんです」
その言葉が、俺の心に浮かぶ。
浮き輪が波に乗ってぷかぷかと浮かぶみたいに、優雅に――ではなく。
――確かな痕を、残すみたいに。
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無重力の世界で、何もつかめない世界の中で。
痛む心だけが、生きているんだと教えてくれる。
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