〇集え赤点組
5月初日から、早くも1週間が
それでも須藤が日々、多くのクラスメイトから煙たがられていくことには変わりない。
……オレもちょい眠い。この時間が
「たうわ!?」
うつらうつらと頭を前後させていると、突如右腕に強烈な痛みが走った。
「どうした
「い、いえ。すいません
今のが私語
正気の
「やって良いことと悪いことがあるだろ! コンパスはやばいぞコンパスは!」
「ひょっとして怒られているの? 私」
「腕に穴が開いたんだぞ穴が!」
「何のこと? 私がいつ
「いや、だって手に持ってるだろ、凶器を」
「まさか手に持ってるだけで刺したと決めつけたの?」
目は
「気を付けて。あなたが居眠りをして、それを見つかれば間違いなく減点よ」
堀北はDクラスを脱却するために行動を起こし始めた。学校側への抗議は水泡に帰したのだろう。あー痛い。くそ、堀北が居眠りしそうだったら今度仕返ししてやる。
「
Dクラスのヒーローは、どうやらそんな慈善事業も始めるつもりらしい。
「もし勉強を
平田は
「……ちっ」
すぐに目を
入学初日、自己紹介の件で平田を
「
そう言って話を終えた途端、数人の赤点生徒がすぐに席を立ち、平田の元へ向かう。
赤点組で平田の元へすぐに駆けつけなかったのは、須藤、
1
「お昼、暇? もし良かったら、一緒に食べない?」
昼食をどうしようかと思っていると、
「堀北からの誘いなんて珍しいな。なんだか怖いぞ」
「別に怖くないわよ。山菜定食で良ければ
それ、無料の定食ですやん……。
「冗談よ。ちゃんと奢ってあげる、好きなもの食べて構わないわ」
「やっぱ怖いな。なんか裏があるんじゃないだろうな?」
そもそも堀北がオレを食事に誘うと言うこと自体が、怪しくて仕方がない。
突然誘われたら疑問に感じる。前に堀北がそう言ったことを思い出した。
「人の好意を素直に受け取れなくなったら人間お
「まあ、そりゃそうだけど……」
特に予定は入っていなかったし、奢ってもらえるならと堀北と食堂へ向かう。
高めのスペシャル定食を選び、席を確保し堀北と共に座る。
「それでは、頂きますっと?」
オレが食べるのを待っているのか、堀北はじーっと見つめている。
「どうしたの
「あ、ああ」
怖いな。絶対に裏がある。ないわけがない。とはいえ、いつまでも食べないわけにもいかない。それに冷めたら
「早速だけど話を聞いて
「圧倒的に嫌な予感がする……」
逃げようと思って立ち上がろうとすると、手を
「綾小路くん、もう一度言うわ。話を聞いて貰える?」
「ふぁい……」
「
「ま、そうだな。元々難しいことじゃないし」
長続きはしないかも知れないが、少なくともここ数日は以前よりも
「次に私たちがすべきこと、それは2週間後に迫っているテストでより良い点数を取るための対策よ。さっき、
「勉強会か。ま……確かに赤点対策は出来るだろうな。ただ───」
「ただ、何? 随分と含みのある言い方ね。問題でもある?」
「いや、気にしないでくれ。でもお前が他人を気にするなんて珍しいな」
「本来なら、テストで赤点を取るなんて私には考えられない。けれど、世の中にはどうしても赤点を取ってしまうような、どうしようもない生徒がいるのも事実」
「
「事実を事実として述べただけよ」
この学校は敷地内から出られない上に、外部との連絡は一切禁じられているし、塾のような施設も無い以上、結局勉強のできる生徒に授業以外で教わるしか対策の
「
「あいつらはなぁ。平田とは疎遠と言うか、仲良くないからな。参加しないだろうな」
「つまりこのままだと彼らは赤点の可能性が高い、と。そしてAクラスに上がるためには、マイナスポイントを取らないことは大前提で、プラスになるポイントを集めることが必要不可欠でしょう? 私はテストの点数がプラスに結びつく可能性もあると見ているの」
テストで頑張った分、生徒たちに見返りがあると考えるのは自然なことだ。
「もしかして───お前も平田みたいに勉強会を開くってことか? それも、須藤や池たちを救済するって目的の」
「ええ。そう考えて
「そりゃ今までのお前の態度を見てたら、意外だと思わないはずがないだろ」
それでもオレ自身、驚きそのものは少ない。あくまでも自分自身のためってことだろうし、
「まぁ、お前がAクラスに行きたいって思いは伝わって来た。ただ、正直須藤たちに勉強を教えるのは一筋縄ではいかないと思うぞ。赤点を取る生徒は大抵、人よりも勉強することが嫌いだ。それにお前は初日にクラスメイトから距離を置いただろ?
「だからあなたに話してるんじゃない。幸いあなたが親しくなった人たちでしょう?」
「は? ……おい、まさか────」
「彼らはあなたが説得すれば話は早い。友達、と言うありがたい存在だから問題はないはずでしょ? そうね、図書館に連れて来て。勉強そのものは私が教えるから」
「お前
「出来る出来ないじゃない。やるのよ」
オレはお前の飼い犬か何かか。
「堀北がAクラスを目指すのは自由だが、オレを巻き込むなって」
「食べたわよね? 私の
「人の好意を素直に受け取っただけだ」
「残念だけど、それは好意ではなくて他意よ」
「一言も聞いてねえし……よし、じゃあポイント分オレも奢る。それでチャラだ」
「私、人に
「今初めて、オレはお前に対して怒りを覚えたかも知れない……」
「それでどうなの。協力してくれるの? それとも私を敵に回すの?」
「
「ようだではなく、事実脅しているようなものね」
これが
まあ……集めるくらいだったら別に協力してもいい、か?
堀北は
それに、
どうするか迷っていると、堀北はさらに畳みかけて来た。
「
「あの件は責めないって言っただろ。今更持ち出すなんてずるいぞ」
「それは櫛田さんに対してであって
「うわ、汚ねぇ……」
「帳消しにしてほしかったら私に協力することね」
どうやら最初からオレに逃げ道は無かったらしい。
堀北はその材料を残して
「集められる保証はないぞ? それでもいいのか?」
「私はあなたなら全員集められると信じてるから。これ、私の携帯番号とアドレス。何かあったら、これで連絡して」
まさかの形で、高校生活初、女子の連絡先をゲットした。
堀北のだけど。……べ、別に
2
教室をぐるりと見回す。さて、どうしたもんか。
『放課後一緒に勉強しないか?』なんて声をかけて、誰かついてくるだろうか。
須藤や池たちとは、たまに飯を
「須藤、ちょっといいか?」
昼休みに教室へ戻って来た須藤に話しかける。須藤は薄らと汗をかいていて、息が少し上がっていた。もしかしたら、昼休みもバスケの練習に励んでいたのかも知れない。
「今度の中間テスト、どうするつもりなんだ?」
「そのことか……。わかんねえよ、勉強なんて
「お、そうか、じゃあ丁度いい方法があるぞ?
「本気か? 学校の授業ですら
「その辺は安心しろ。勉強を教えるのは
「堀北? あいつのことはよくわかんねぇしな。
案の定、須藤は勉強会をすぐに断った。粘ってはみるものの聞く耳を持たない。
くそ、ダメか。須藤にこれ以上
「池、なあ────」
「パス! 須藤に言ってた話聞こえてたぞ。勉強会? 嫌だね、そんなの」
「赤点取ったら退学だって分かってるのか?」
「俺、確かによく赤点取ってたけどさ、大体乗り切ってきてんだよな。どうしても頑張るときは須藤と一緒に一夜漬けで暗記すっから」
本気を出せば大丈夫とタカをくくっているのだ。退学に対する危機感を持っていない。
「この間の小テストも不意打ちじゃなかったら40点くらいとってたって」
「お前の言いたいことは分かった。でも万が一ってこともあるだろ?」
「放課後は高校生の貴重な時間だぜ? 勉強なんてしてらんねーよぉ」
もう行けよ、と手で払われる。携帯でクラスの女子とチャットすることに熱中している。平田が彼女を作った話を耳にして以来、池は彼女を作ろうと躍起だ。オレはわざとらしく肩を落とし自分の席に戻った。頑張ったけど無理でしたアピールで、許してもらう作戦だ。
「使えない」
「……今聞こえたぞ、何て言った?」
「使えない、って言ったの。まさかそれで
くっそー。人に頼んでおきながら、なんてふてぶてしいヤツだ。
「そんなわけないだろ。まだオレには四百二十五の手が残されてる」
オレは腰を据えて教室の中を見回した。授業中の緊張感とは裏腹に、
勉強嫌いの人間を勉強させる方法。それも授業中ではなく、自由な時間である放課後を利用しての勉強。普通なら断られて
今は拒絶する須藤も、きっかけさえあれば参加してくれるはずだ。
となれば、後はエサを用意するしかない。勉強をすればこんなラッキーなことがあるんだぞと思わせる。出来れば具体的で、かつ分かりやすいもの。そして効果的なものがいい。
───
天啓が舞い降りたオレは、目を見開き
「勉強を教えるのは堀北の役目だが、
「別の力? 一応聞いてあげるけど……何をすればいいの?」
「例えば、こういうのはどうだ? もしテストで満点を取ったら、堀北を彼女に出来るとか。そうすれば間違いなくあいつらは
「死にたいの?」
「いいえ、生きていたいです」
「
いや、割とマジでこういうのが効くと思うんだけどな。多分人生で一番勉強に励む気がする。しかし、そんな男心は堀北には全く理解して
「じゃあアレだ。キス。満点取ったら堀北にキスしてもらえるとか」
「やっぱり死にたいの?」
「ま、まだまだ生きていたいです」
鋭い手刀が、素早く首筋にあてがわれる。くそ、やっぱりこの手のご
と、オレは教室の中で
ルックスは
「なあ───」
櫛田を仲間に引き入れないか? と言いかけて、思いとどまる。
「なに?」
「いや……何でもない」
こいつは基本的に人との
3
あっという間に放課後がやって来る。堀北はすぐに教室を出て家に帰ってしまった。勉強会用にテスト範囲の絞り込みでも行うんだろう。こっちは
「ちょっといいか?」
帰り支度をしていた櫛田に声をかける。思いがけない来客に、櫛田は首を
「珍しいね、
「あぁ。もし良かったら、少しいいか? ちょっと教室の外で話がしたい」
「この後
嫌がる素振りひとつ見せず、
廊下の隅に連れて来られた櫛田はわくわくした様子でオレの言葉を待っていた。
「喜べ櫛田。お前は親善大使に選ばれた。これからクラスのために尽力してくれ」
「え、えーと? ごめん、どういう意味かな?」
かくかくしかじか、オレは
もちろん、その勉強を教えるのが
「この勉強会を通じて堀北と仲良くなれるかも知れないし、そう思ってさ」
「仲良くはなりたいけど……そういう心配はいらないよ? 困ってる友達がいたら助けるのは当たり前じゃない? だから
こいつ、良いヤツ過ぎ……。
「本当にいいのか? 嫌だったら無理強いは出来ないぞ」
「あ、ごめん。さっきの間は嫌って意味じゃないの。ただ……
「赤点を取ったら退学なんて
オレの手を取り、櫛田は
なんて浮かれている場合じゃない。無難な男を目指すオレは
「じゃあ、是非頼む。櫛田が居れば百人力だ」
この笑顔を見せられて、コロッといかない男はいないはずだ。意味不明の根拠。
「あ、でもひとつだけお願いを聞いてくれる? その勉強会に私も参加させてほしいの」
「は? そんなことでいいのか?」
「うん。私もさ、みんなと一緒に勉強したいし」
こちらとしては願ったり
「それで、勉強会はいつからなの?」
「一応明日から開始出来るように手配してある」
堀北が。と心の中で付け加えておく。
「そっか。じゃあ
「あ、須藤たちの連絡先教えようか」
「大丈夫だよ~。3人とも連絡先知ってるから。私がクラスで携帯登録してないのは、
知らなかった……。つか、オレと堀北だけって。
「率直に聞くけど、二人ってもう付き合ってるんじゃないの?」
「ど、どこの情報だよそれ。堀北とは友達……いや、ただの隣人だ」
「クラスの女子では、結構
うーむ、気が付けば女子たちの間でもそんな噂が立ち始めていたのか。
「残念ながらオレと堀北の間に、そんな甘いストーリーは皆無だ」
「じゃあ問題ないってことだね? 私と連絡先、交換してください」
「喜んで」
こうして、オレは女子二人目の連絡先をゲットしたのだった。
4
夜中、自室でボーっとしていたオレの元に一通のメールが届いた。
『
「早っ」
つか池のヤツ、オレの誘いは断っておいて早い手の平返しだな。やっぱり女の子の存在って男にとっては大きいんだろうなぁ。エロとか、無限のパワーを発揮するって言うし。
『今、
更にメールが届く。おー。このペースなら本当に明日、全員集まるかも。
予想以上に早い展開に、オレはこのタイミングで
「さて風呂にでも入るかな」
とベッドから立ち上がった途端、即、堀北から電話がかかってきた。
「もしもし?」
「……ちょっと、言ってる意味が理解できないのだけれど?」
「何だよ、意味が理解できないって。簡潔に書いたつもりだぞ? 良かったな、多分須藤含めて3人とも集まりそうだ」
「そこじゃないわ。櫛田さんが
「さっき決まったんだよ。クラスメイトの信頼が厚い櫛田が協力してくれればオレが勧誘するよりも
「私はそんなことを許可した覚えはないわ。彼女は別に赤点を取ったわけでもないし」
「あのな──オレが声をかけるよりも、クラスとのネットワークを持つ櫛田を引き入れた方が、遥かに成功確率は上がる。単純に確率が高くなる手段を取っただけだ」
「……気に入らないわね。私の許可を取ってからするべきでしょう?」
「お前が櫛田のような積極的な子が嫌いなのはわかってる。けど、赤点を出さないための手段だろ? それとも今からお前が地道に声をかけて赤点組を集めるか?」
「それは……」
堀北は、頭では櫛田の協力があった方が良いことは理解しているはず。
自分のプライドがそれを邪魔していて、素直になれないのだ。
「テストまでそんなに時間もない。いいだろ?」
こういえば、堀北にだって余裕がないことは伝わるはず。それでも、何かが堀北の中でまだ引っかかっているのか、即決できなかった。少しの間訪れる沈黙。
「……分かったわ。背に腹は代えられないもの。けど、櫛田さんの手伝いを認められるのは赤点組を集める作業だけ。勉強会に参加させることは認められないわ」
「……いや、だからな? それが
「櫛田さんが勉強会そのものに
「それはアレか? 前にオレと櫛田でお前を騙して呼び出す
「それとこれとは無関係よ。彼女は赤点組じゃない。余計な人を招き入れるのは手間と混乱を生むだけだと判断したの」
一応筋は通っているようだが、とてもそれだけが理由とは思えない。
「なんか露骨に櫛田を嫌ってないか?」
「あなたは自分のことを嫌いな人を
「え?」
櫛田は間違いなく堀北を誰よりも理解しようとし、
その櫛田が堀北を嫌っている、という風にはとても思えなかった。
「櫛田が来ないからって人が集まらなかったらどうするんだよ」
「……ごめんなさい、テスト範囲の絞り込みに思ったより時間を取られてるの。まだかかりそうだからそろそろ切るわね。じゃ、おやすみなさい」
「あ、おいっ」
一方的に通話を切られた。人嫌いもここまで来ると大概だな。だが、Aクラスに上がることを目標とするなら、歩み寄りも必要なはずだ。
携帯を切った後、充電器に差し込んでテーブルに置くと、ベッドで横になった。
この学校に入学してから
「不良品、か……」
入学式の日、二年の先輩がオレたちをそう言っていたっけ。
不良品を英語で言うと、Defective product。
あれはオレたちDクラスの生徒を
「どうすっかな……」
このまま強行するか? しかし、その場合堀北の離脱という最悪の展開も考えられる。
勉強を教える堀北が抜けたら、完全にみんなの時間を無駄にしてしまう。
重い気持ちのまま、携帯で櫛田の番号を押すことにした。
「もしもーし」
ぶおー、という強い風の音と共に通話が
「もしかして、髪乾かしてたか?」
「ごめ、聞こえちゃった? ちょうど
風呂上がりの
「いや、あの、すげぇ言いにくい話なんだが……。
「…………えっと、それはどうして?」
少しの沈黙の後の返答。怒っていると言うよりは理由を知りたがっている様子だ。
「悪い。詳しくは話せない。だが、ちょっと難しくなったんだ」
「そっか……。やっぱり
「堀北は関係ないよ。こっちでミスがあっただけだ」
「隠さないでもいいよ~。私別に怒ってないよ? 堀北さんは私を嫌ってるみたいだから、拒否られても仕方ないって思ってたし。想像出来てたしね」
女の勘、って奴だろうか。
「とにかく、
「ううん。
それは否定しようにも、
「ねえ、堀北さんには何て言われたの? 私が人を集めることにも反対だった? それとも、勉強会には呼びたくないって言ったの?」
まるで、隣で通話を聞いていたと言われても、驚かないほどに正確で的確なセリフだ。
「……後者だ。気分悪いよな、悪い」
「あははは、だよね。だから綾小路くんが謝ることじゃないよぉ。ほら、堀北さんって人を寄せ付けないオーラがあるじゃない? だからそんなこともあるかなーって」
だとしても、鋭すぎる。
「でも、皆には私も参加するからって理由で納得してもらったからなぁ……。私も誘った手前、参加できなくなった理由に
オレは櫛田に対し、少しだけ恐怖心を覚えた。根拠は何もないが。
「今回の件、私に任せて
「任せる?」
「明日、全員を堀北さんのところに連れて行くよ。もちろん、私も行くね」
「それは───」
「大丈夫だから。ね? それとも、今から綾小路くんが全部解決させる? 私抜きで全員を集めて、堀北さんを納得させられる方法がある?」
残念だがそれはほぼ不可能だろう。
「……わかった。お前に任せる。その代わり、何があっても知らないぞ」
「大丈夫。
数分ほどの、
堀北は誰が相手であっても、気に入らないことには
明日のことを考えると───やめよう、そんな
どうせ悩んだって明日は来るし、明日は終わる。何とかなるさ。
5
朝から堀北は不機嫌、怒り心頭だった。これが
話しかけても終始無言、無表情。まるでオレの存在など空気のように
こっちも無視してやろうと背中を向けると、コンパスを取り出す音が聞こえるから
「勉強会に参加すべき人は、集まったの?」
「……櫛田が集めてくれてる。今日から参加するんじゃないかな」
「櫛田さんが、ね。彼女にはちゃんと伝えたの? 勉強会に参加はさせないって」
「伝えた」と返すと、堀北は納得したらしく図書館へ行くことを促す。教室を出る
図書館の端、長机の一角にスペースを確保し、赤点組を待つ。
「連れて来たよ~!」
座って待っていたオレと堀北の元に、櫛田がやって来た。その背後には───。
「櫛田ちゃんから勉強会を開くって話を聞いてさ。入学したばっかで退学なんてしたくないしな。よろしくなー」
「あれ、沖谷って赤点取ったっけか?」
「あ、う、うん。そうなんだけど……その、テストなんだけど、赤点ギリギリだったから心配で……ダメ……だったかな?
可愛く頬を赤らめ、オレを見上げてそう言う沖谷。
「別に、
「赤点の心配がある生徒なら、構わないわ。ただし
「う、うんっ」
「櫛田さん。
「実は、私も赤点を取りそうで不安なんだよね」
「あなたは……前の小テストで悪い成績ではなかったはずよ」
「うーん、実はあれ、偶然って言うか。選択問題が多かったじゃない? だから半分くらい当てずっぽうだったんだよ。実際は、結構ギリギリで」
櫛田はえへへ、と
「沖谷くんと同じくらいか、ちょっと下くらいだと思うんだよ。だから私も勉強会に参加して、しっかりと赤点を回避したいなって。いいよね?」
図太いと言うか、思わぬ櫛田の策略にオレは驚きを隠せなかった。沖谷が勉強会の参加を認められたことを確認してからの切り返し。これでは堀北も、許可をせざるを得ない。
「……わかったわ」
「ありがと」
櫛田は
「32点未満は赤点つってたよな。32点じゃアウトってことか?」
「未満だったらセーフだって。
「どちらでも構わないわ。私はここに居る皆には50点を目指してもらうから」
「げぇ、それってその分大変ってことだよな?」
「ギリギリのラインを越えるように勉強に挑むのは危険よ。赤点を楽に越えられるようでなければ、もしもの時に困るのはあなたたちよ」
堀北の正論に、渋々従うように
「今度のテストで出る範囲はある程度こちらでまとめてみたわ。テストまで残り2週間ほど、徹底して取り組むつもりよ。分からない問題があったら、私に聞いて」
「……おい、最初の問題から分からないんだが」
須藤は半ば
『A,B,Cの3人の持っているお金の合計は2150円で、AはBよりも120円多く持っています。また、Cの持っているお金の5分の2をBに渡すと、BはAよりも220円多く持つことになります。Aは始め何円持っていましたか』
連立方程式の問題か。高校生が十分に解ける問題で第一問としては無難なところか。
「少しは頭を使って考えろ。最初から考えることを放棄していたら前に進めないぞ」
「んなこと言ってもよ……俺は勉強の方はからっきしなんだ」
「皆よく受かったよね」
学校側はテストの点数だけで入学の合否を判断してない。
「うげ、俺もわかんね……」
「
「えっと……A+B+Cが、2150円で……A=B+120……で」
お、どうやら沖谷の方は赤点を回避しただけあって、連立方程式の式を書き始めた。
その様子を隣で見守る櫛田。
「うんうん、合ってる合ってる。それで?」
「正直言って、この問題は中学1、2年生でも、やり方次第で十分に解ける問題よ。ここで
「俺たちって小学生以下……?」
「でも
「いい? これは連立方程式を用いて簡単に答えを求めることが出来るの」
堀北は迷うことなくペンを走らせていく。残念なことに、その式を読み解けているのは、櫛田と沖谷くらいだった。
「そもそも連立方程式って何だよ……」
「……本気で言っているのか?」
よほど勉強とは無縁の生活だったんだろうな。須藤はシャーペンを机に
「ダメだ、やめる。こんなことやってられるか」
勉強を始めて間もないのに、リタイアを宣言する須藤たち。
そのあまりに情けない姿を見ていた堀北は、静かに怒りを蓄えていた。
「ま、待ってよ皆。もうちょっと頑張ってみようよ。解き方を理解すれば、後は応用だからテストでも生かせるはずだし。ね? ね?」
「……まぁ、櫛田ちゃんが言うなら、頑張ってみてもいいけどさ……。と言うか、櫛田ちゃんが教えてくれたら、俺もうちょっと頑張れるかも」
「え、えと……」
チラッと堀北にお伺いを立てる櫛田に対し、堀北は無言だった。イエスともノーとも答えない一番困る展開だ。しかし長い間沈黙が続けば、赤点組は勉強を放棄してしまいかねない。
「ここはね、
そう言い三行の方程式を書きつらねていく。頑張ってはいるみたいだが、基本を理解できていない赤点組に答えとなる式を書いて見せてもダメだろう。これは勉強会とは名ばかりの居残り授業みたいなもの。漠然とした勉強方法に、
「で、答えが710円になるの。どうかな?」
本人としては会心の運びだったんだろう、櫛田は笑みを浮かべて
「……え、これで答え出せるのか? なんでだ?」
「う……」
そして直後に痛感する。自分の説明についてこられている者が居ないことを。
「あなたたちを否定するつもりはないけれど、あまりに無知、無能すぎるわ」
無言だった堀北が、ついに言葉を発した。
「こんな問題も解けなくて将来どうしていくのか、私は想像するだけでゾッとするわね」
「っせえな。お前には関係ないだろ」
さすがに堀北の言い方が
「確かに私には関係ないことよ。あなたたちがどれだけ苦しもうと、影響はないから。ただ
「言いたいこと言いやがって。勉強なんざ、将来なんの役にも立たないんだよ」
「勉強が将来の役に立たない? それは興味深い話だわ。根拠を知りたいわね」
「こんな問題解けなくても、俺は苦労したことないからな。勉強なんて不要だろ。教科書に
「それは違うわね。こういった一つ一つの問題を解けるようになって初めて、今までの生活にも変化が生じてくる。つまり、勉強していればもっと苦労しなかった可能性がある、と言うことよ。バスケットにしても同じ道理ね。あなたはきっと自分に都合の良いルールでバスケットに取り組んで来たんじゃないかしら。本当に苦しい部分には勉強のように背を向けて逃げていたんじゃない? 練習に対しても
「っ!」
須藤は立ち上がると、詰め寄り堀北の胸倉を
「須藤くんっ!」
オレが動くよりも早く、櫛田は立ち上がり須藤の腕を掴んだ。
「私はあなたには全く興味ないけれど、見ていればどんな人間かは大体わかるわ。バスケットでプロを目指す? そんな幼稚な夢が、簡単に
「テメェ……!」
須藤は、明らかに制御が
「今すぐ勉強を、いいえ、学校をやめて貰えないかしら? そしてバスケットのプロなんてくだらない夢は捨てて、バイトでもしながら
「はっ……上等だよ。やめてやるこんなもん。ただ苦労するばっかりじゃねえか。わざわざ部活を休んで来てやったのに、完全に時間の無駄だ。あばよ!」
「おかしな事を言うのね。勉強は苦労するものよ」
「おい、いいのか?」
「構わないわ。やる気のない……ここまで勉強の出来ない人間に構うだけ無駄よ。退学がかかっているというのに。学校に対する執着心なんて、
「お前みたいな
「殴る勇気がないだけでしょう? それを性別のせいにしないで」
始まったばかりの勉強会は、既にボロボロ、崩壊していた。
「俺もやーめよ。なんか、勉強についていけないってのもあるけどさ……正直ムカつく。堀北さんは頭いいかもしんねえけど、そんな上から来られたらついてけないって」
我慢ならなかったのか、
「退学しても構わないのなら、好きにするのね」
「ま、そこはほら、徹夜でもするし」
「面白い話ね。自分で勉強できないから、今ここに居るんじゃないの?」
「っ……」
普段ひょうきんな池までも、堀北の
「み、皆……本当にいいの?」
「行こうぜ、沖谷」
この場に残ったのはオレと
「……
「確かに私が間違っていたわ。もし、今回あの人たちに勉強を教えて
「それって、どういう、こと……?」
「足手まといは今のうちに脱落してもらった方がいい、ということよ」
堀北の出した結論だった。赤点組が居なくなれば教える手間もなくなり、結果クラスの平均点も上がる。そう結論付けた、ということ。
「そんなのって……ね、ねえ
「堀北がそう結論付けたなら、それでいいんじゃないのか?」
「あ、綾小路くんまで、そんなこと言うの?」
「まぁ、あいつらを切り捨てたいとまでは思ってないけど、オレ自身教えられるような人間じゃないし、どうすることも出来ないからな。結局は堀北と似たようなもんだ」
「……そう。わかった」
櫛田は表情に影を落とし、
「私は何とかする。してみせる。こんなに早く皆と別れるなんて絶対に嫌だから」
「櫛田さん。本気でそう思っているの?」
「……いけない? 須藤くんや池くんたちを見捨てたくないって思っちゃ」
「あなたが本心からそう言ってるなら、構わないわ。でも、私にはあなたが本気で彼らを救いたいと思っているようには思えない」
「何それ。意味わかんないよ。どうして堀北さんは、そうやって敵を作るようなこと、平気で言えちゃうの? そんなの……私、悲しいよ」
櫛田は顔を一度伏せたが、
「……じゃあね二人とも、また明日」
短く言葉を残し、櫛田までも立ち去って行く。こうして
「ご苦労だったわね。勉強会はこれで終了よ」
「そうみたいだな」
静まり返った図書館は、不気味なほどに静かだった。
「綾小路くんだけは理解してくれたわね。あなただけは、あの下らない人たちよりは幾分かまともと言うことかしら。もし勉強が必要なら、特別に教えてあげるけど?」
「遠慮しておくよ」
「帰るの?」
「
「もうすぐ退学するかも知れない人と接して、得することなんて何もないわ」
「オレは単純に、
「随分と勝手ね。友人だと言っておきながら退学していく様を傍観しているなんて。私からしてみればそれが最も残酷な話だと思う」
確かに、それは否定できない部分だろう。
結局勉強って部分は、個人がどれだけ頑張れるのか、その一点にかかっている。
「オレはお前の考えを否定するつもりはない。勉強を嫌う須藤をバカにしたくなる気持ちも分からないじゃない。だけどな堀北、少しは須藤の後ろにある背景を想像することも、大切なんじゃないのか? バスケのプロを目指すだけなら、わざわざこの学校を選ぶメリットは少ない。
「……興味ないわね」
オレの言葉に耳を傾けることなく、堀北はずっと、一人教科書に目を落としていた。
6
図書館を出ると、オレは
意気込み携帯を
しかし、一向に出る気配がない。気づいていないのか、出るつもりがないのか。
敷地の中をあてもなく小走りで探し回っていると、学校の校舎に入っていく櫛田らしき人物の背中を見つけた。もう時刻は六時近く、部活動で残っている生徒以外はいないはずだ。まぁ、櫛田なら部活で仲の良い友達に会うって可能性もあるか。
一応追いかけて、誰かと合流していたら後日にしよう。そう思い校舎の中へ。
どうやら二階へ続く階段を上ったらしい。後を追う。足音はどんどんと上に向かっていて、三階を過ぎる。確かこの上は屋上、だよな? 昼は食事用に解放されているが、放課後は施錠されていて出られないはず。不思議に思いながらオレは階段を上った。誰かとの待ち合わせも考慮し、ちょっと気配を殺して。そして、屋上へ通じる階段の中ほどで立ち止まる。
すぐ上で人の気配がする。
そっと手すり付近から、屋上の扉が見える方へと顔を
こんな人気のない場所での待ち合わせって言ったら……、もしかして櫛田には彼氏が居て、こっそり
そして───。
「あ──────ウザい」
あの櫛田が発したとは思えないほど、低く重い声だった。
「マジでウザい、ムカつく。死ねばいいのに……」
呪文を、
「自分が
櫛田がムカつくと言っている相手は……
「あー最悪。ほんっと、最悪最悪最悪。堀北ウザい堀北ウザい、ほんっとウザいっ」
クラス一の人気者で、誰の世話でも焼く優しい少女のもう一つの顔を見た気がした。彼女の誰にも見られたくないであろう姿だ。ここに留まるのは危険だと脳が告げる。
しかし、ここで奇妙な疑問が生まれる。彼女に裏の顔があった、という部分はともかく、堀北に対して
強行し、無理してまで勉強会に参加した意味は何だったのだろうか。堀北と近づき仲良くなりたかった? あるいは参加者の誰かと親しくなりたかった?
どうもそのどれもがしっくりと来ない。ストレスを
いや……この兆候は、思いがけないほど初めのうちからあったのかも知れない。
オレ自身、そこまで深くは考えていなかったが、この櫛田の状態からして、1つのピースが当てはまった気がした。もしかして、櫛田と堀北は───。
ともかく、今はここを離れるべきだろう。櫛田も暴言を吐いている姿を、他人に見せたくなんてないはずだ。気配を殺したまま、すぐにこの場を離れることにした。
ガンっ!
夕暮れ時の学校に、扉を
「……ここで……何してるの」
僅かな沈黙の後、櫛田の冷ややかな声が聞こえる。
「ちょっと、道に迷ってさ。いや、悪い悪い。オレはすぐ立ち去るよ」
「聞いたの……」
「聞いてないって言ったら信じるか?」
「そうだね……」
つかつかと、櫛田が階段を降りてくる。そして、自ら左の前腕をオレの首元にあてがい、壁に押し付けた。口調も、行動も、
今の櫛田は、
「今聞いたこと……誰かに話したら容赦しないから」
とても、脅しとは思えないほど、冷たい感情の籠った言葉。
「もし話したら?」
「今ここで、あんたにレイプされそうになったって言いふらしてやる」
「
「大丈夫よ、冤罪じゃないから」
有無を言わせぬ迫力が、そこにはあった。
そう言うと、櫛田は今度はオレの左手首を
柔らかな感触が、手の平全体を通じて伝わって来る。
「……お前、何やってんだよ」
想定外の行動に、急ぎ手を引こうとするが、上から押さえつけられる。
「あんたの指紋、これでべっとりついたから。証拠もある。私は本気よ。分かった?」
「……分かった。分かったから手を離せ」
「この制服はこのまま洗わずに
「約束よ」
念を押すように言い、櫛田はオレから距離を取った。
人生で初めて触れた女性の胸、その感触なんてもう覚えていない。
「なあ櫛田。どっちが本当のお前なんだ?」
「……そんなこと、あんたには関係ない」
「そうだな……。ただ、今のお前を見てどうしても気になった。堀北のことが嫌いなら自分から
こんなことを聞くつもりなんてなかった。聞けば
「誰からも好かれるよう努力することが悪いこと? それがどれだけ難しくて大変なことか、あんたに分かる? 分かるわけないよね?」
「オレは
櫛田は入学初日から消極的な子に話しかけるのは
「たとえ
「ストレスを抱えて、でもか」
「そうよ。それが私が望む生き方。自分の存在意義を実感することが出来るから」
迷わず答えた。櫛田には、櫛田にしか分からない考え、ルールがある。そう言うことか。そのルールに添って、必死に堀北と仲良くなろうと試行錯誤している。
「この際だから言っておくけど、あんたみたいな暗くて地味な男、
今までの
でも櫛田の答えは、本当のことでもあり、
「これはオレの勘だけど、お前堀北と知り合いなんじゃないのか? この学校以前の」
そう口にした瞬間本当に
「なにそれ……意味わかんない。
「いや、櫛田と同じで初対面っぽい印象は受けてる。でも、少しおかしいとも思ってる」
「……おかしい?」
オレは初めて櫛田が話しかけてきた時のことを思い出していた。
「まだ入学して間もないオレのことを、自己紹介を聞いて名前を覚えてくれたんだよな?」
それがどうかしたの、と櫛田は無表情で聞き返す。
「だったら堀北の名前はどこで知ったんだよ。あの時、あいつはまだ誰にも名前は名乗ってなかった。唯一知ってたとすれば須藤くらいだが、須藤と接点はなかったはずだ」
つまり名前を知る機会なんて無かったに等しい。
「それにオレに接近してきたのも、探りを入れるためだったんじゃないのか?」
「もういい、黙って。これ以上
「約束する。それに、もしオレがお前のことを話しても誰も信じないさ。だろ?」
櫛田はそれだけクラスの連中に信頼されている。オレとは天と地ほどの差がある。
「……わかった。綾小路くんを信じる」
表情は崩さなかったが、櫛田は一度目を閉じた後、ゆっくりと息を吐いた。
「オレを信じられる要素なんてあるのか?」
本当に余計だ。自分でそう思っても、口に出してしまったものは仕方ない。
「堀北さんって、変わってるでしょ?」
「まあ、ものすごく変わってるな」
「誰とも
確かに、堀北と櫛田は、真逆に位置するかも知れない。
「そんな堀北さんが、綾小路くんにだけ心を許してる」
「ちょっと待て。そこだけは素早く訂正させてくれ。心は絶対許してない。絶対にだ」
「……かも。でも、少なくともクラスの誰よりも信頼してるはず。そんな警戒心の強い堀北さんが信頼してるってこともそうだし、何より私は、同い年の
「つまり人を見る目は確か、ってことか?」
「私が信じるって言った理由。綾小路くんは基本的に、他人に無関心でしょ?」
そんな素振りを見せた覚えはなかったのに、櫛田は確信を持っているようだった。
「別に不思議なことじゃないよ。バスで老人に席を譲る気配、全然なかったもん」
なるほど、そういうことか。こいつはあの状況下でオレたちのことをしっかり把握していたのだ。それこそ、席を譲る譲らないを、どう
「だから無駄に言いふらしたりしない。そう思えたから」
「そんなに自信があるなら、わざわざ胸、触らせることはなかっただろ」
「それは───さすがに、慌てたって言うか。一瞬パニックになって……」
固かった表情がちょっと崩れ、焦りに変わる。
「とりあえず、
直後、思い切り太ももを
「危なっ! 落ちたら
「バカ言うからだよ!」
顔を
「とりあえず、ちょっと待ってて」
怒った顔のままでそう言われ、オレは小さく
階段を上がると、櫛田はすぐに
「一緒に帰ろっか」
「あ、ああ」
悪い夢じゃないかと思うくらい櫛田の態度はがらりと
7
明日からDクラスはどうなっていくんだろうな。半ば
『やっほー。向こうで
オレは何を打つでもなく、ただボーっと仲間のチャットを眺める。
『今日のこと聞いたよー。
『今日のは俺もカチンと来た。須藤なんてマジギレだったよな。
『明日見たら、殴るかも知れねぇ。それだけ今日のはムカついた』
『あははは、殴ったりしたら大問題だってw それはさすがにやり過ぎ』
『あのさ、相談があるんだけど。明日から徹底的に堀北を無視しない?』
『いや、いつもこっちが無視されてんじゃん(笑)』
『なんか仕返ししないと気がすまない。いっそ
『子供かっつーのwww けど、慌てる姿はちょっと見てみたいかも』
どうやら、佐藤を交えた池たちのグループチャットは、堀北の話題で持ち切りだった。
『ねえ、
『綾小路は堀北に夢中だから無理じゃね?』
『お前、俺たちと堀北、どっちの味方につくんだよ』
皆が堀北に対し、
『既読ついてるんだから、見てるよな? おーい、綾小路はどっちの味方だよ』
『オレはどっちの味方もしない。お前らが堀北を虐めても、別に止めはしないよ』
『出た中立。一番ずるいパターンw』
『どう
『そうやって堀北
チャットだと相手の顔が見えないから人は普段よりも強気になりやすい。もし面と向かっていたら、
ただ皆は堀北をエサに、そこから生まれる連帯感、安心感を感じたいだけ。
これ以上無駄なやり取りをするだけ時間の無駄だ。手っ取り早く話を
『
そう返して携帯を閉じる。すぐに着信が鳴るが
入学式の日、堀北に出会って、それが偶然同じクラス、隣の席の生徒で。気が付いたら
そんな状況を誰よりも間近で見ていたはずなのに、オレはどこか浮遊感を感じていた。
違うな、浮遊感は誤用だ。けして心地よい気分なんかじゃない。ただ、漠然と宙に浮いている感覚。須藤たちが退学の危機を肌で感じていないように、オレは今周囲で起こっている出来事を、まだどこかで
『力を持っていながら、それを使わないのは愚か者のすることだ』
思い出したくもないのに、あいつの言葉がオレの頭を過った。
「愚か者……なんだろうなぁ、オレはやっぱり」
窓を閉めると、やけにテレビから漏れる笑い声が
8
何となく寝付けそうになかったオレは、
ロビーに置かれた自販機で適当なジュースを一本購入してエレベーターの前に戻る。
「ん?」
一階にあったエレベーターが7階に止まっている。何となく気になったオレは、エレベーター内の映像が映るモニターを見た。制服姿の
「……別に隠れる必要はないんだけどな」
顔を合わせ
周囲を警戒しながら堀北は寮の外へと出ていく。
堀北の足が止まったのだ。そして、そこにはもう一つの影があった。
「
こんな時間にどこに行くのかと思えば、男と落ち合う予定だったのか。
「もう、兄さんの知っている頃のダメな私とは違います。追いつくために来ました」
「追いつく、か」
兄さん? 暗がりで姿はよく見えないが、話し相手は堀北の兄貴なのか。
「Dクラスになったと聞いたが、3年前と何も変わらないな。ただ俺の背中を見ているだけで、お前は今もまだ自分の欠点に気づいていない。この学校を選んだのは失敗だったな」
「それは───何かの間違いです。すぐにAクラスに上がって見せます。そしたら───」
「無理だな。お前はAクラスにはたどり着けない。それどころか、クラスも崩壊するだろう。この学校はお前が考えているほど甘いところではない」
「絶対に、絶対にたどり着きます……」
「無理だと言っただろう。本当に聞き分けのない妹だ」
堀北の兄貴は、一歩距離を詰める。陰から、ゆっくりとだが姿を見せる。
それは、生徒会の会長を務めていると名乗ったあの堀北だった。
その表情には一切の感情が無く、ただ興味のない存在を見る瞳をしていた。
堀北の兄貴は無抵抗な妹の手首を
「どんなにお前を避けたところで、俺の妹であることに変わりはない。お前のことが周囲に知られれば、恥をかくことになるのはこの俺だ。今すぐこの学校を去れ」
「で、出来ません……っ。私は、絶対にAクラスに上がって見せます……!」
「愚かだな、本当に。昔のように痛い目を見ておくか?」
「兄さん───私は───」
「お前には上を目指す力も資格もない。それを知れ」
オレは堀北に怒られることを覚悟で物陰から飛び出すと、堀北の兄貴に迫った。
気配を悟られる前に、堀北の手首を
「───何だ? お前は」
掴まれた自分の腕を見た後、ゆっくりとオレへと鋭い眼光を向けた。
「あ、
「あんた、今堀北を投げ飛ばそうとしただろ。ここはコンクリだぞ、わかってんのか。兄妹だからってやって良いことと悪いことがある」
「盗み聞きとは感心しないな」
「いいからその手を離せ」
「それはこちらのセリフだ」
オレと兄貴は
「やめて、綾小路くん……」
堀北の絞り出した声。こんな状態の堀北をオレは一度も見たことがない。
渋々、ゆっくりと兄貴の腕を放した。その瞬間とてつもない速度の裏拳が、オレの顔目がけて飛んでくる。ヤバイと直感し、身体を半身にしのけぞるようにして避けた。細い身体してえげつない攻撃だ。さらに、急所を
「っぶね!」
当たれば、一発で意識を失ってしまうだろう威力だと分かる。
「いい動きだな。立て続けに避けられるとは思わなかった。それに、俺が何をしようとしたのかも、よく理解している。何か習っていたのか?」
ようやく攻撃を
「ピアノと書道なら。小学生の時、全国音楽コンクールで優勝したこともあるぞ」
「お前もDクラスか? 中々ユニークな男だな。
兄貴はゆっくりとこちらに向き直った。
「堀北と違って、無能なんでね」
「鈴音、お前に
「彼は……友達なんかじゃありません。ただのクラスメイトです」
否定するように、堀北は兄を見上げる。
「相変わらず、孤高と孤独を履き違えているようだな。それからお前。
そのままオレの横を通り過ぎ、
「上のクラスに上がりたかったら、死にもの狂いで
堀北の兄貴が去り、夜の静けさに包まれた。堀北は壁
「最初から、聞いていたの……? それとも偶然?」
「いや、なんつーか、半分偶然だ。自販機でジュース買ってたら外に行くお前が見えてさ。ちょっと気になって追いかけた。ただ、立ち入るつもりはなかった、これは本当だ」
また、堀北は黙り込んでしまう。
「お前の兄さん、あれ相当強いだろ。殺気とか半端なかったし」
「空手……5段、合気道4段だから」
うへえ、そりゃ強いわけだ。引いてくれなかったら大惨事になってたぞ。
「綾小路くん、あなたも何かやってたでしょう。それもかなりの有段者」
「言っただろ? ピアノと茶道をやってたって」
「さっきは書道って言ってたわよ」
「……書道もやってたんだ」
「テストの点数をわざと
「点数は偶然
ここにピアノでもあれば、エリーゼのためにくらい演奏してやるところだ。
「あなたには、変なところを見られちゃったわね」
「むしろ
思い切り
「戻りましょう。この場を誰かに見られたら誤解を生みかねないし」
確かに。真夜中に男女が二人きりなんて、絶対に変な
ましてオレと堀北は、ただでさえその関係に探りを入れられてる状態だし。
ゆっくりと立ち上がった堀北は、寮のエントランスへと歩き出す。
「あのさ……お前、本当にもう勉強会はいいのか?」
話を切り出すなら今しかないと思い、オレは思い切って声をかけてみることにした。
「どうしてそんなことを聞くの? 元々は私が開くと言った勉強会よ。
「後味が悪いだろ。クラスの連中ともちょっと険悪になったと言うか」
「気にしていないもの。こんなことは慣れてるから。それに大半の赤点組は
「
「それは彼らが判断することであって、私には無関係ね。それに、退学が迫れば、四の五の言ってられないでしょうし。それでも平田くんにすり寄れないなら、退学してもらうだけ。確かに私はDクラスをAクラスに引き上げることを目標にした。でも、それは私自身のためであって、誰かのためなんかじゃない。他がどうなろうと関係ないわ。むしろ、今回の中間テストで赤点組を切り捨ててしまえば、残ったのは必然的にマシな生徒だけになるでしょう? 上のクラスを目指すことも
堀北が間違っているとは思わない。この退学の危機はそもそも、赤点を取ってしまう生徒が悪い。だけど、オレは妙に
「堀北、その考え方は間違ってるんじゃないか?」
「間違ってる? 私のどこが間違ってると言うの。まさかクラスメイトを見捨てる人間に未来はない、なんて寝言を言うわけじゃないわよね?」
「安心しろ。お前にそんな言葉が通じないことくらい、もう十分理解してる」
「じゃあ
「確かにメリットは少ないかもな。だが、デメリットを防ぐことは出来る」
「……デメリット?」
「学校側が、お前の考えに
「それは────」
「もちろん、情報が開示されていない以上、根拠はない。でも、十分に可能性はあると思わないか? 100か? 1000か? あるいは1万10万なんてマイナスの可能性もある。そうなればお前のAクラスへの到達は困難になるだろうな」
「遅刻や私語等のマイナスは、0以下にはならないわ。0の状態である今こそ、勉強の出来ない生徒を排除した方がいい。ほぼダメージは無いのと同じじゃない」
「そうである保証はどこにもないだろ。見えないマイナスが残ってる可能性は十分ある。そんな危険なリスクを放置しても良いと本気で思うのか? つか……頭の良いお前が、その考えに辿り着いてないわけないよな。そうじゃなきゃ、そもそもお前が勉強会を開くと言いだすはずがない。赤点組なんて最初から見捨てておきゃよかったんだし」
オレは少し高揚と言うか、気持ちが高ぶっているのをどこかで感じていた。多分それは、こいつのことを
「よしんば見えないマイナスがあるとしても、赤点組を切り捨てた方が、将来的にクラスのためになる。これから先ポイントが増えてきた時、彼らを切り捨てなかったことを後悔するのは嫌でしょう? 今このタイミングで、リスクを取っておくべきよ」
「本当にそう思うのか?」
「ええ、本当よ。必死に彼らを救おうとするあなたの考え、理解に苦しむわ」
エントランスから、エレベーターに乗り込もうとした
「なに? まだ反論があるの? この問題は、私たち二人で解決できることじゃない。結局答えを知っているのは学校側だけなのだから、押し問答になるだけよ。あなたが好きに解釈していいように、私も好きに解釈をする。それだけのことでしょう?」
「随分と
「それは……あなたがしつこいからよ」
普段の堀北であれば、オレの制止なんて絶対に聞き入れないだろう。
こんな風に強引に引き留めでもしたら、鋭い一撃を見舞われてもおかしくない。でもそれをしないということは、堀北自身、このままじゃいけないと感じている証拠だ。だから手を振り払わない。もちろん、本人にその自覚は無いかも知れないが。
「オレと堀北が出会った日。バスでの出来事のことは、覚えてるか?」
「老人に席を譲らなかった時のことよね、それは」
「ああ。あの時、オレは老人に席を譲ることの意味を考えてた。席を譲る、譲らない。どちらが正しい答えなのか」
「最初に言ったはずよ。私は意味がないと思ったから譲らなかった。老人に報いたところで、何のメリットもないし、ただ労力と時間を浪費するだけ」
「メリット、か。お前はあくまでも損得で行動をするってことだよな」
「いけない? 人は多かれ少なかれ、打算的な生き物よ。商品を売ればお金を
「いいや、間違っちゃいないさ。それが人間だと、オレもそう思う」
「だったら───」
「お前がその信念を持ち続けているのなら、ちゃんと物事を、視野を広く見ろ。今のお前は怒りと不満で、何にも前が見えちゃいない」
「何様のつもり? あなたに、私をとやかく言うだけの実力があるとでも?」
「オレの実力がどうであれ、お前には見えちゃいないことが、一つだけオレには見える。それは
堀北は鼻で笑う。自分に欠点があるのなら、言ってみろと言わんばかりだ。
「お前の欠点を教えてやるよ。それはお前が、他人を足手まといだと決めつけ、最初から寄せ付けず
「……それじゃまるで、
「なら、お前にあいつらが対等じゃないと言い切れるのか?」
「そんなの、テストの点数を見れば一目瞭然よ。それこそがクラスのお荷物である証拠」
「確かに勉強って意味じゃ、須藤たちは堀北に二歩も三歩も遅れをとってる。猛勉強したところで、お前を抜くことは難しいだろうさ。けど、それはあくまでも机の上での話だろ。学校側が見ているのは、知識面だけじゃない。もしも今回、学校側の試験がスポーツ関連だったら、こんな結果にはならなかった。違うか?」
「それは───」
「堀北も運動は出来る。水泳を見た限り女子でも上位だ。立派だよ。でも、須藤の身体能力だって、
堀北は反撃しようとしたが、のど元まで出かかった言葉が
「……根拠に乏しいわ。あなたの話は、
「根拠がないのなら、今ある材料で結果を予測する必要がある。なら、
右へ、左へと論理を展開し逃げようとする
「お前は赤点組を切り捨てた方が後悔しないと言ったが、逆も然りだ。
堀北と、目と目が合う。今現実に手を握っているだけじゃなく、意識間で
「あなたこそ随分と
「かもな」
「あなたの話、悔しいけれど
「……なるほど、そう来たか」
「人を説く以上、説く人物に説得力が無ければ、ずる賢い理論も破たんする」
オレが必死になって堀北を説得し、須藤たちを退学させまいと動く理由を求めている。
「今までの建前は抜きにして、その理由が知りたいの。ポイントのため? ひとつでも上のクラスに上がるため? それとも、ただ
「知りたいからだ。本当の実力って奴が何なのか。平等ってのが、何なのかを」
「実力と、平等……」
「オレはその答えを探すために、この学校に来た」
頭の中では
「手、離してもらえる?」
「ああ、悪い」
少し力の籠っていた手を離すと、堀北はくるりと振り返りオレの正面に立った。
「まさか、
そう言って、堀北はオレに向かって手を差し伸べてきた。
「私は私自身のために須藤くんたちの面倒を見る。彼らを残すことでこれから先有利に運ぶことに期待しての打算的な考え。それでもいい?」
「安心しろ。お前がそれ以外で動くとは思ってない。その方が堀北らしいし」
「契約成立ね」
オレは堀北の手を取った。
もっとも、この契約が悪魔との契約だと知るのは、後日のことだった。
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