白い楓・後編 作・柴田隼人
明を取り逃がした後、改めて貫一は自分の脇腹を確認していた。彼は明に何度か刺されたので、血が出ていた。そのままでは生死にかかわるために、止血しながら彼は紅葉を電話で呼んだ。移動手段を確保する必要がある。
河原の道を外れた雑草畑の上で貫一は足をのばしていた。この時間帯は、福岡市から唐津方面へ向かう車が多く、いつまでも橋の上は混雑していた。ここ数日はずっと晴れていたが、土はまだ湿っていて、腰を下ろすのは心地のいいものではなかったが、応急処置を済ませるためにはこうして地面に尻をつかねばどうにもならない。空を見上げた。地球は、今冬の場所まで移動を始めていたために、空気は少し乾燥し、星々が澄んでいる。
応急処置を済ませた彼は、手を後ろへやった。姿勢が楽になった。すると、右手に拳程度の石が当たった。持ち上げて、様子を見た。角が取れて、すっかり丸くなっていた。きっとかつてはとがった部分を有していて、こうして触る者を傷つけたことであろう。
猫の鳴き声を聞いた彼は、そちらへ目をやった。彼の右横には猫がいた。猫の大きさからしてまだ幼い。鈴のかかった首輪をしているので、誰かの飼い猫だ。色は白いようだが、ところどころに泥のような汚れがあった。
周りを見て、誰もいないことを確認した貫一は、右手の石を思いきり投げつけた。子猫の顔面に当たり、子猫は悲鳴を上げたかと思うと、痙攣してすぐに倒れた。それから子猫は動くことはなかった。彼は子猫を室見川へ投げ入れた。硬直などしていない子猫は、川の水流にだらしない姿勢で流されていった。
貫一は、明を取り逃がした口惜しい感情を処理していた。感情は感情で大事にしないといけないが、それに呑まれては理性的に行動ができない。理性的に行動できなければ、自分の狂気を発揮することができなくなる、と彼は考えていた。
到着した紅葉は貫一を見るなり狼狽しながら駆け寄り、肩を貸そうとした。到着時には彼は止血を済ませ、もとより必要のない助けだったが、彼は彼女の肩に手を回し、彼女とともに車に乗った。
「ねえ、あんた、本当に病院行かんでいいと?」
「いらん心配だよ、ありがとう」
こんな会話を何度も繰り返していた。彼女は何度言っても納得はしなかった。
貫一は明と対峙した際、明の腰にカラビナでかかっていたAirPodsを奪い取っていた。自分が仕事をしくじったときの保険として奪ったのだ。自分が仕事を一度で完遂できると思うのは、大変に危険な自己肯定だ。AirPodsは、持ち主がその場所を確認できるようになっているが、明が彼の位置を把握できるわけではなかった。
奪ったのは、彼の性格を利用するためだった。
彼のジムにおける言動は、かつての自分を想起させたために、貫一は彼の行動や衝迫を手に取るように分かった。明が自分の位置を知れば、仕事へのプライドが明を突き動かす。きっと彼のプライドは、自分のミスを同僚に明かすことをよしとしない。となれば、必ずお宮を連れて自分の首を取りにやってくる。
狂気を隠せぬ人間は、自分を脅かすのだ。
しかし、お宮はうまくやったのだろうか。彼からは一切の連絡が来ていない。逃走した明が妨害しているかもしれない。
貫一はお宮に電話をかけた。応答したのは聞き覚えのない声だった。お宮が拘束された事実を知った貫一は、今後の仕事に支障を考え、動揺して下手な出まかせを言ったが、香山はそれを見抜いた。賢い奴であるのは間違いない、と貫一は思った。
しかし、貫一には明のAirPodsがあった。
……運命が味方している、とはこのことだった!
『会話の内容から、明が俺と会ったことを隠していることは分かった。そして、仮に香山が明の嘘を見破っても、明は止められない。香山は明と働いて長い。狂人が殺意を持つとき、それを妨害する者に待つのは、狂人の刃であることは彼は承知のはず。彼を殺そうとするときに分かったが、明は激しい修羅場を経験している男だった。ブローカーに狂人を止めることなどできない。従って、香山が嘘に気づくにせよ、気づかないにせよ、俺の位置を知る明は、必ずここにやってくる。お宮がいなくたって構わない。明の仕事のプライドを葬るのが、俺の楽しみだった。
しかし、妙だった。俺は、香山の口調から、何も感じなかった。彼は本当に?……』
香山は貫一の要求に応じ、貫一は博多駅で待つことにした。
先に着くと、貫一は博多口のロータリー近くの掲示板に立った。この時間は、徐々に人影が薄くなってゆく。お宮を明が連れてくれば、力づくで奪還することは可能だった。彼の実力は認めるが、腕っぷしでは貫一が上である。そして、博多口を指定する際に、交番の近くだから、と言ったのも、相手に交番の監視を意識させるために言ったことだ。この場所は交番から見えない。交番の目を気にしながら来るのは、明だけだった。
十分ほど彼は掲示板によっかかっていた。すると明が来た。
彼は一人だった。お宮がいない。
彼の目が、貫一の目ではないところ、顔の下あたりを見ている。即ち明は貫一の首を凝視していた。
明は微動だにしなかった。姿勢を見ても、かかってこようという気概が感じられない。明は閉口していた。貫一がこのまま明の首をへし折るのは全く容易なことで、それではつまらん所業だと考えた。それよりも、明のプライドをへし折るにはふさわしい方法があるのではないか、と思い、妙案が浮かんだ。
彼ら狂人は何を求めるのか?
***
仕事以外でも人に手をかけてきた明が人の首を切るのはこれが初めてではない。後ろから対象の口を押え、悲鳴を絶ってから強い力で引っ張る。そうすれば対象は確実に理性を失い、事態を理解できなくなる。そこで首に刃物の先端を入れてゆく。忽ちに血が飛び散り、痛みに耐えかねた対象は倒れる。あとは息の根が絶たれるまでめった刺しにし、八つ裂きにする。理性を携えた者が、狂乱に満ち満ちた者を殺すという、この非対称な関係で行われる凶行は何と狡猾であろうか。
これは襲撃する人間が、後ろから近付いたがために容易に成せる芸当だった。しかし、対象が襲撃者を認識している場合はさらに策を講ずる。対象がどう動くのかで全く勝手が異なるのだ。
明を視認した貫一を前に、明は一切の手段がなかった。手も足も出せず、おののいていた。彼の肌の質は液晶のように滑らかでありながら、呼吸を感じさせない。彼の頬には、右目から右耳へかけて縫合の跡があった。腕組みでのぞける手の甲にも似たような跡がある。これらの傷が明だけではなく、数多の人間の人生の終結を表していているように明は感じた。彼はいつの間にか自分の死をその傷に重ねはじめていたのである。
酒を飲みすぎた後のように胃が痛み、何か得体の知れぬものが逆流しようとしていた。
「お前、死を怖れるかね」
貫一は液晶の掟を破り、明に声をかけた。明は答えられなかった。
明は自分が一本のマッチ棒であるように思いはじめた。
明は堕胎したての未発達な胎児だった。言語の全てを彼は失念していたのだ。
そういった自覚をすると、明はいよいよ幼児化が明らかに進んでいった。アスファルトがタイヤで削られる音や、ビルから吹かれる風、街灯の灯を跳ね返す革靴の全てが記号になった。記号は記号でも、明には刺激でしかなくなった。生来初めて味わう刺激が、過剰に周囲に現れて、明に威厳を示そうとしていた。
彼は心の中で、合わせ鏡の間に入った自分を見ていた。安価な鏡で、薄く青みがかかり、それが遠方に見える自分の像を不明瞭にしている。だんだんと、彼の足が歪み、鏡に触れてみるがそれは全くの平面で、実際の明の足も歪んではいない。ネクタイが歪みはじめた。するとネクタイの歪みは渦を生じ、鏡像に映る明の肉体の全てが台風のように螺旋をかたどった。しかし、このすべてを彼は改めて理解することができなかった。光がそうやって重力の法を無視することがいかに現実性のないことなのか、全くわからずに眺めていた。
明の意識の外に住む貫一は唇を横へ伸ばした。薄い微笑だった。
「俺は、怖くはない。きっとお前も怖くなかろう」
明は貫一の言葉が届かず、合わせ鏡の世界にとどまった。小さな水の粒が額に触れた。上を見ると、雲はなかった。それでも雨は降っていた。次第に雨は強まり、そして弱まった。地面は、水をすべて吸収し、乾いたままだった。地面に触れると、それはビニールのように思えた。彼は鏡に向かって歩き出した。鏡に入ると、彼は残された側の鏡を見てみた。緑色ですべてが埋め尽くされていて、この場所の何も反射していないことは明らかだった。彼は叫び声をあげたが、音も反射されなかった。
貫一は続けた。
「金にも関心を与えられないだろう」
貫一が明の腕を取り、ホルスターのナイフを抜き取り、握らせた。
明は変わらず緑を見ていた。この色に何らかの変化が起こるのを、佇んで待っていたのだ。鏡の中でも雨は降った。相変わらず、強弱に定まりがなかった。次第に明は鬱屈を覚えだした。こらえきれず気をそらそうと手のひらを見れば、それはサイコロでできていた。彼の側には、一の赤い点が向いている。裏返してみると、それもすべて赤い点だった。どうも二層構造らしい。手を振ってみると、簡単に崩れてサイコロがぽろぽろと落ちて行った。一つが鏡の外へ踊り出た。落ちたサイコロはまた一の目が上になっていた。拾いに歩みを進めていった。鏡に体が当たり、自分が幽閉されていることを知った。ふと上を見上げたが、ずっと終わりのない空があった。すると自分に脱出の手段がないことに気づき、悲嘆した彼は叫びの限りを尽くした。
鏡を蹴った。叩いた。肩で突進した。
四苦八苦して漸く鏡が割れた。脱出した明は暗闇の中にいた。先ほどまで落ち着きのなかった雨は、霧雨に変わっていた。すると彼はさやかな安堵を得て、訪れたまどろみに体を委ねた。……
明の意識は博多駅に戻っていた。手にはナイフがあり、貫一が彼の腕を握っていた。顔に温度のない液体がかかり、触ってみると赤かった。ナイフは明の支配を逃れ、貫一の言いなりだったが、それは確実に彼の首を水平に進んでいった。
「何をためらうことがあるか、やれッ」
貫一が叫んだ。貫一は明のナイフだけを支配していたのではない。彼の肉体すべてを従えていたのだ。明は力を込めた。貫一は途中まで明らかに何かの言葉を口にしていたが、ナイフが食道を通過してから言葉ではないものを口にしていた。代わりに、ぶくぶくと赤い泡が口から絶えずに生まれていた。そしてナイフは止まらなかったし、腕を握る彼の力も一定のままだった。にわかに彼の頭が落ちた。それは目を閉じ、口はささやかに開かれていた。やっと楽になった、と思ったときだった。それはだしぬけにやって来た。
明はバランスを崩して横に倒れたのだ。その衝撃は明を完全に覚醒させ、事態を急速に理解していった。どうも、彼に腕を握られ、ナイフで彼の首を両断させられたらしい、と明は状況を読み取った。明が倒れたのは、慣性によるものではなかった。倒れた明は頭部に痛みを覚えていた。彼の拳だったのだ。地面に横たわる、頭部を失った貫一は、手足をじたばたとさせていた。彼は、頭部を失った後、明を殴ったのであった。首から上のない鶏が走り出す原理がどういうものかを理解しているわけではないが、明はそれは単に神経の誤ったはたらきによるものだと思っていた。それと、彼の殴打には別の原理があるように明には思えてならなかった。脳ではなく、魂が彼の肉体を動かしたと考えるにふさわしい事態だった。
明は、肉体にとどまらぬ人の殺意を未だかつて見たことがなかった。あの拳は、確実に自分を殺すつもりだったのか、いいや違う。彼の発言からも明らかなように、彼は明を殺すつもりなんぞ毛頭なかったのだ。彼は明の手で殺されることを拒み、自殺によって彼から永遠に雪辱を奪ったのだ。するとますます彼は、あの拳に殺意があったようには思えなかった。死とは永続性をもつ概念であることを、明は心底味わされたのだ。果たして自分にそんなことが可能とは、思えなかった。貫一からそこまでの狂気を引き出したのに、それが全く何の喜びも得ることができなかった。
そして、彼が言うように殺人の報酬なんぞ、明や貫一には何ら意味を持たない。その狂気を発揮するための引き金に過ぎなかった。彼は狂気をもって明の狂気を上回り、その狂いっぷりを明の目に焼き付け、冥土へ旅立って行ったのだ。これは明の肉体に焼き印のような消えない傷跡を残した。地獄から明の焼き印を見上げ、腹を抱える貫一を見ているようで、明は怒涛の恨みを覚えた。
血の水たまりができていた。それは彼の半ばの首から広がっていった。断面からのぞける食道が、こちらに穴を向けていた。そこから何かがうねりながら出てきそうだった。
女が叫んだ。ドアが開いて、こちらへ走ってきた。ナイフを拾い上げた明は、女の顔を確認せずに逃走した。
構内を走りながら、凶手はどうにかして死人を再び殺す手段を考えた。しかしどれもが後の祭りである。死人を冒涜したところで死人は何も苦しまない。人が死ねば無に帰すという自身の断言は、今凶手に牙をむいていた。牙は深く刺さり、なかなかに抜けずこれから先も苦しんでゆく。
途切れそうな意識の中で、凶手は博多駅の中を走っていた。息を切らしているし、頭を強く殴られたために痛かった。シャツには血がついているが、素早く走っているために、それを気に留める人間がいなかった。視点が定まらず、自分が何を見ようとしているのかが分からなかった。足がもつれて転んだ。恥ずかしいとは思わなかった。誰だって、これだけ動揺していれば転んでも不思議はないのだ、と考えたのだ。しかし、この動揺は明の精神的な骨折を予感させる、大変に気味の悪い動揺だった。
走りながら彼は、山中の台地で焚火が赤々と燃え上がるような映像を思い浮かべていたが、何の変哲も無いこの映像が何を暗示するのかは、振り返ってみても分からなかった。
それからこの事件を振り返ったある日、これが解離であることを知った。精神の未成熟な者が、強いショックを与えられたときに一時的に記憶を消去し、自身をそのショックから守る機構がそれである。するとあの合わせ鏡の不可解な世界は、明が自身に、貫一の首にすくみ上っていることを認識させぬように作り上げた、夢のようなものだったことになる。
これは、明にとって貫一の首が恐怖の対象としていかに優れていたかを表すのみにはとどまらない。解離とは、一般には幼少期に起こりやすいものである。つまり、いかに当時の明が未熟であるかをも鮮明に表すものだった。ああ……二十六年の空洞たるや!
かくて貫一の死は明の精神へ時を跨って作用したのだ。
***
明がお宮を連れて出ていくと、ドアを閉める音がして、周旋人は一人ぼっちになった。何となく、彼はドアの淵を撫で、ざらつく素材が指に与える感覚を楽しみ、やがて彼は無聊に落ち着いてしまった。
頭の中に、キャバクラの店内が映し出された。隣に座る嶋が笑っていた。過去を想起しているのだと気づき、嶋が笑う前の発言を思い出した。
「俺も含めて、この世の中は実に吐き気のするほど穢れた人間どもであふれていると思っている。みんな、馬鹿から金を合法な形で盗み取っているんだ。信頼の壁に向かって知恵の糞便を投げつけて、その壁を見ては清々しい達成感を覚える。そして『さあ、明日も頑張ろう』と言うんだ。それが、俺達が呼ぶ労働というやつの黒幕さ。俺は今日、気まぐれでせめてもの罪滅ぼしと思って、馬鹿どもから奪った金を、ここで働き、人身で商いをしている馬鹿どもに返してやるんだよ」
侮蔑は先の発言からも明らかであった。嶋はこらえきれぬように笑っていた。ここで働く女性が、男性が、裏で涙を流していることを知っていた香山は、純粋な心で嶋に賛同することができずにいた。それでもそんな男を目の前に、香山は愛想を振りまいていたのだ。自分の希薄な罪悪感が、他人に媚びること、見えない人への侮蔑を許してしまっていた。過去の出来事は万事不可逆な決定性を持つため、過去に戻れたら、などと夢想することは決してなかったが、この男を殴り、店を離れればよかった、とこのときは一人で繰り言をしていた。
仮にこの男を殴っていたとしたら、今の彼の経済状態はどうなっていたのか。きっとこの業界のコネも得られず、生活の安定を望んで手を抜いた犯罪を働いて懲役を自ら望んでいたのだ。頭のどこかで、金銭が得られず所在を得られぬ仕事をするよりは、檻の中の生活がいいと思っていた。嶋を殴り、細々と生活することを、今の潤った自分が心底望むとは考え難かった。……
『では、やはりは俺この男を殴らなかったことを称賛する心理にあるのか? だとすれば現存の俺は、矛盾そのものではないか! 矛盾をかき消すことができないのなら、それが罪悪の苦悩ととらえるとするなら。……』
改めて博多駅の人々を見回した。彼らと自分は根本で共有するものがある。誰もが人目のないところで倫理観に唾を吐きつけ、生存の欲求を実現するために生きている。すると彼らはきっと言うだろう、『私達と犯罪者と同じにするな』、と。ところが誰もが社会契約を恐れて道から大きく外れぬようにしているだけで、その上にちょうど良くつまづくように配置された小石があったのであれば、刹那に自分と同じレッテルを持つようになるのだ。『犯罪者』など、人間が超偶然に配布する安っぽいちゃちなレッテルなのだ。法律的犯罪とは、あくまで自然権から経験や演繹をもって導かれた行儀のよいお約束である。いったいこの中の何人が一人暮らしの部屋で正座して飯を食っていると神に誓えるのであろうか?
かつて香山は和白という大変に辺鄙なところに住んでいた。どうにも金がなかった当時の彼は、畑の野菜を盗み、腹が満ちるまでむさぼった。それが善なのか、悪なのか、ではない。その作物の裏にある年間通しの苦労を完全に思考から消していたのだ。他人の痛みなど想像の極限にあるもので、そんな得体の知れぬものを自己生存の論理に組み込む必要がないと確信していたからだ。この国では、法律を破り、国家システムの機構に絡まれば収監される。それが単なるシステムというものなのだ。遠目で見つけた脆弱性らしきものをつついてシステムの網を潜り抜け、彼はかろうじて寿命の延長を図っている。社会形成の観点や労働への姿勢から見れば、彼は『嶋』と何らの相違を持たない。
論ずるまでもない、了解されたことであるが、彼が進んで殺人を請け負っているなどと勘違いしてはいけない。第一に彼は、殺人に生理的な嫌悪を覚える。少なくとも今はその自覚がある。
殺意がなかったとはいえ、お宮が首を絞めたとき、今から縊り殺されると誤認したのだ。一時的に死を完全にわがものとしたのだ。その瞬間に確実な死を目前にしたのだ。あの瞬間に人生を悔いていることを思い知った。風俗店で働いていたときに芽吹いたあの感情など、若さゆえの誤謬で、とうに消失したと思い込んでいたのに、確実にあの86の中で、追い払ったはずの罪悪が培われはじめたのだ。人を傷つけたとき、自身も傷ついていたのだ。
香山は罪悪感から暗黒に身を堕とすことを禁じえなかった。彼の抱く暗黒では自らの作り出した地獄がありありと描かれていた。こんなはずではなかったとむせび泣く農夫、子供の死をしらされ、かつてなされた過度に行き過ぎた叱責を宛てもなく謝罪する夫婦、喪った恋人の切手コレクションを抱きかかえる背中、植え付けられた仮構の期待を裏切られた客に容姿をののしられるソープ嬢、偽物の愛に自尊心を無残に扱われた女達。そして、ソープ嬢が再来した。……
『では死ぬのか? あの一種の臨死体験の際に彼が見た死には、確かに万物に絶対的優位を見せつける美しさがあった。今一度苦痛に伴われる死を眼前に置けば、再びあの美のシャワーをかぶり、そして俺は、免罪を得て永遠に旅立つのではないだろうか?』
自問を中断して、自身の死が遁走であるという反対の観念を得た。他人に負わせた傷と自身の負った傷の両方を彼は抱擁し、癒さねばならないのではないだろうか? 彼が死ねば、その将来性行為は永遠に失われる。生理学にならえば痛覚は生命機能の停止とともに消え去り、罪悪を根拠とするその痛みは損なわれる。この種類の痛みは、彼にとって損失ではなく、利益である。かくて痛みは「損なわれる」のだ。ショーペンハウアーによる寓話で次のようなものがある。ヤマアラシが寒空にておしくらまんじゅうをするとき、近すぎてはお互いの針が刺さり、遠すぎては温め合うことができなくなる。このとき、一方のヤマアラシは相手に針を刺してしまい、自分も同様に刺される痛みを感じて、お互いにとって適切な距離を探るのだ。痛みを次のおしくらまんじゅうの糧にして、お互いを温め合っている。香山は人を殺して、絶対的な孤独に入水することで距離のジレンマを脱した。それでもヤマアラシ達と同じ結果に終わるのが、香山にとっての倫理に沿うことを、頭では分かっているつもりだった。
彼のミラージュは続いた。腕時計を見て、彼はその文字盤を見た。鏡越しに左耳のフープピアスを見た。ついでに背中を観察すれば、それは真っ黒に日焼けしていた。運転しながらタコメーターを見た。信号機を見た。前触れもなく満月を見た。その満月の地中に埋まり、青々と煌めいて自転を伴う公転を繰る地球を見て、太陽を見た。そしてそのすべては黒い闇へと沈み込み、それまでぶつぶつと何かを彼に訴えていたのに、突如沈黙を決め込んだのだ。
闇が晴れていった。魔物じみた、異界の存在が現れた。それは三つの目でまっすぐと彼を見ていた。足と手には長く鋭利な爪が生えている。しかし手と足は合計で六本見える。ふとその存在をどこかで目にしたことがあるような気がした彼は、記憶の本棚の前に立った。何かに操られるように彼が手にした本は仏教の絵図を紹介する者であった。その絵を参照にすると、自分の前に立つ存在の正体を知った。それは神であった。名称は、羅刹天だった。これが抱擁するものは、ちょうど馬車の車輪を思わせる円状のものだった。車輪の中には細かく区切られた映像が映し出され、人の一生が場面ごとに描かれていた。再び羅刹天の目を見た。恨みでも怒りでもない、全く異種の切迫をもっていた。その目にはひとたび恐怖を覚えても、徐々にその感情が色を変えて、畏敬になった。どこかで見たような、見なかったような景色であった。
一連の光景を彼は理解しようとした。確実に、自分の内界で生まれた何かが独立して自分に何かを伝えねばならぬと使命にみちたものに思えたのだ。それは彼の想念であり、想念ではない。外界からやってくるものが、こうして一人いる空間で、一人寂しく描かれるはずがないではないか。
香山はここで、『自死』を垣間見た。
香山は一体いつからこんな罪悪に苦しみを感じるようになったのかふしぎがった。確か風俗店で働いていたときにこれまでに罪悪感で苦しんだことはなかった。先ほど縊り殺されかけたとき、香山は当時ソープ嬢を相手に、人の苦しみを感じたと想起したが、それもなるほど、それほどまでに罪悪感に敏感であれば、この世界に入るはずがないのだ。自分は死を目前に、やはり自分の人生を罪悪感で美化しようとしていたのだ。それは生を得た後で『死んでたまるか』と活力を得たことが証明している。死を近くに見れば、人は幸福を得ようと自分の人生を美化しはじめるらしい。
そう……この仕事を生業にしたのは、他人の利益なんぞどうでもいい、と考えていたからだ。
契機を探った。請負殺人をはじめた後であると考えると、一つ思い当たる節があった。今までの人生のレールを敷いた存在を、彼は殺してしまったのだ。
―周旋人は、助手席に気配を感じた。車には一人ぼっちのはずだった。すなわち、香山はその気配を無視しようとした。しかし、のっぴきならぬ心地がして、念のために左へ顔を向けた。
女が座っていた。Kだった。遠くから見つけて、写真を撮った、あの女に相違なかった。Kは、下を向いて座っていた。白いブラウスを着て、黒い短めのスカートを履いている。濃い色の苺を思わせる口紅は、少しの冒険心を表すような風情で、大変に趣深い印象を彼に与えた。そして、その印象には、程よくふくよかな頬や、海風のようにまっすぐな鼻筋が加勢していた。何より、目については段違いなものを持っていた。彼女の瞳には、ラピスラズリや金緑石の放つ光があった。白目には濁りなんぞは言うまでもなく、いかなる穢れも浮かべていなかった。この女を見て、振り返らなかった男は後悔するか、わざとらしく道を戻って拝みに行くかの二種類だけだった。しかし同時に、どこかに一度でも紙を滑らせれば切り傷がついてしまいそうなほどのもろさがあった。
彼がKを前に一切の色欲も催さなかったのは、その現実性の皆無によるものだった、とは言うまでもない。男が女を美しいと評価するとき、それは内に湧き上がる性欲を通過している評価である、というのは有名な話だ。対照に色欲を覚えなかった彼は、Kの魅力を性欲のフィルターを抜いて知ることができたことになる。助手席に座るこの女が女神だと言われれば、彼はその宣告を歓迎し、あがめ続けただろうに。
Kは明によって窒息死させられたはずの女だった。きっと自分は、また罪悪感から幻覚を見ているだけなのだ、とその姿を無視しようとした。しかし彼の試みは暖簾に腕押しであった。
Kがサンシェードを下げてみせたのだ。サンシェードは、彼の前で確かに動いたのだ。自分が夢を見ているのか、わからなくなった。
「香山が風俗店で働いていた時の話を聞かせてよ」
彼はなぜかゆっくりゆっくりと話をしていた。夢の中において、本来起こり得ないことをあたかも起こり得るありふれたことのようにとらえるあの感覚に似ていた。
「ヒモをやめたとき、学歴も職歴もなくて、どこも雇ってはくれなかった。俺は途方に暮れた。親からはすでに縁を切られていたから、もうたくさん稼げるのは水商売だけだと思った。とにかく、その場しのぎでもいい。何か収入がないと死んでしまう。俺はその場しのぎと、水商売の世界への好奇心で入った。きっと何か他の世界でも役に立つことが学べるかもしれない、と思った。実際、役に立つこともあった。店に入って来た客は、原則として帰さない。その場で話をつけ必要とあらば嘘をついてでも客から金を奪っていった。写真を先に見せずに、
『お客さん、今、少しぽっちゃり系とスレンダー系の子がいるんですけど、どちらがいいですかね。ああ、はいはい、そういう条件でしたら、この子ですね』
と言うんだ。客には、自分で女を選んだという自覚があるらしいが、本当は違う。すべて、店側の都合で決めるんだ。結局、客は女に対面するまで本当の姿を見ることなんぞできやしない。部屋に入れば、八割は出てこないで、妥協してセックスをするんだ。こんなのは、映画館のシステムにも似ている。観客は、映画を見終わるまでその映画が本当に面白いものなのか、面白くないものなのかが分からないんだ。あの日も、その嘘がいけなかった。仕事が終わると、俺は部屋にいる女から呼び出された。彼女はベッドに腰かけ、煙草を吸いながら俺を待っていた。彼女は泣いていた。
『どうして泣いているんだい』
俺は分かっていた。でも、違うと願いながら尋ねた。
『あんたのせいやろ、嘘ついて、お客さん入れて、あたしどんだけ暴言吐かれながらやったと思いようと? 何で、あたしだって自分がかわいいなんて思い上がっとらんし、周りの人の反応を見ればどげん風にみんながあたしに腹の中で評価を下してるかぐらい、見透かしとう。あたしせめて会話ぐらいは一流にしようと、頑張りよったんに。大体からあんたなんか、死ねばいいとよ。死ね、死ね……あたし、悔しい……』
俺は慰めてやった。何も考えず、君はこんなにかわいいじゃないか、と繰り返してやった。きっと彼女はそう言ってほしいのだろう、と肌でわかったから。やはり、俺の読みは間違ってはいなかった。彼女はやがて泣き止んだ。彼女は、自己愛の補助を求めるために俺を呼んだのだった。俺の付け回しの改善を要求しているのではなかった! 自己愛ゆえの、結論だったんだ!
俺は帰宅して、自分が正しいことをやったんだ、とばかり思って、毎日毎日過ごしていた。翌日もその翌日も彼女は出勤したしな。俺は、何も考えなかったんだ。これから、俺はこうやって生きて、死んでゆくのだ、と。楽観すらしていた。彼女の選択なのだから、身売りしたっていいじゃないかと。今ではどうだ、義憤で悲しみを催すまでにもなっている。何時の間にか、水商売はその場しのぎではなくなっていた。もう俺はあの職の、時給から逃げられなくなっていたんだ。そんな日が、店がつぶれるまで続いた。俺は、金さえ入ればそれでいいや、とずっと暮らしていた。
俺は今、ずっとそのことを後悔している。すぐに身売りをやめろ、と言えばよかった。エゴだとはわかっているが、肉体を対価に、そぐわぬ大金を得ては使い果たして、何より人の評価を嘘だと勘ぐりながら受け入れるだなんて、俺の道徳が許す行為ではないんだ。それだけじゃない。この論理を正しいとする俺だから、人を殺して営むこの生活が、苦しくてたまらない。思えばこの世界に入ったのも、きっと好奇心からだった。うまそうな危険の匂いに誘われて請負殺人をはじめた。俺は、警察の目を欺く自分の能力にずっと酔っていた。ヒモのころから何の成長もなかった!
好奇心といえば、こんなこともあった。俺は、付き合っていた女の顔に向かって唾を吐きつけた。自分のことを信頼しきった女が、いざ自分に危害を加えられたとき、どんな反応をするのか、知りたかったんだ。女は理由を問いただし、理由をきくと俺に怒号を浴びせた。でも、俺は学んだんだ。信頼は一つの行為だけで簡単に失われると。俺は、好奇心の旺盛な、人として当然のことをしているだけだ」
罪悪を告白する香山をKは冷笑して、彼を一蹴した。
「あっそうなのね。好奇心とか、何とか言って、自分の身に降りかかることを考えず、自分の器量に合わないことをやって、自分で自分の首を絞めているのがあなただわ。あははっ、そういえば、あなた達が私を殺したのも首を絞めて、だったわね。それに、思い入れのない他人のすべての行為に責任を持とうだなんて、可能なはずがないじゃない。お月様をねだるようなものよ」
返す言葉もなかった。Kは続けた。
「私は田舎で生まれてね。田舎って、セックスぐらいしか楽しみがなくてさ。中学校でもう勉強とか、通うのとか嫌になっちゃって、高校へは行かなかった。でも、どうにかして高卒の資格は欲しかったから、通信制の学校を選んで都会に来た。一年に何回かしか学校に行かなくていいし、誰だって卒業できるしね。すると、色々楽しいものね。大体クラブに行けばその日の終電が無くなってもホテル代を出してくれる男が現れる。たった一晩、一緒に寝るだけでだよ、おいしいじゃない。私だって人間だからむらむらとするし、性欲の実現と経済性を考えれば、そんな道に走るのは、おかしくないことだよね?」
「君は、もう少し自分を大切にしたらどうなんだ」
「え? どうして、自分の色欲を大切にすることが、自分を大切にしないことと同義なのかしら? 確かに、一人の、一回やったぐらいで彼氏面する怖ろしいメンヘラ野郎とやったのは計算ミスだったかもしれないわ。けれど、同じ種類のメンヘラに私は報われそうね」
「それは、……傲慢だ」
「どこが?」
香山は不意に口をついた言葉の根拠を知らなかった。答えに窮して黙ってしまった。
「すぐに答えが出ないのであれば、特段考えもなかったってことよね。人のことをそうやって、あいまいな表現で非難しようとするあなたの方が傲慢にふさわしい人じゃなくって?
今まで、失恋だってたくさんしてきたわ。最初はこの世界のどこかに自分と心を通じ合わせられる人がいると思って、そんな人を求めて数多の男と交際したの。私、結構美貌には自負があるから、男に不自由はなかったわ。でも、何回やっても、結果は同じね。あ、セックスのことじゃあないわよ。まあそれもそうだけど。離縁しては、プリクラを破り捨てて、LINEをブロックしての繰り返し。もうたくさんよ。ようやく十八のとき、この世の中に自分の完璧な味方は自分しかいない、と悟ったわ。
すると今度私を苦しめたものが喪失感だった。そうして生まれた孤独の夜は明けない。病的なしじまが四六時中私を囲んでいたのよ。私一人を残して、なんのうしろめたさもなしに世界が消え去れば孤独が消えるっていうやつ、誰が発明したのかしらね。私はそうやって自慢げに渡される処方箋を憎むタチだわ。いくらなんでも、人の煩悶が仮象で癒すことができるだなんて、実証のできない思いつきの特効薬じゃない。
今まで、職場に行きたくない日なんてたくさんあったのよ。女だから仕方ないよね、と仕事の成果を甘く見られたり、仕事の相談と言うから話をきいてみれば体目当てだったり、結局は男の論理についていけなければいいポジションなんて得られなかったわ。飲み会に行けば、必ずといっていいほど嘔吐するし、翌日の気分なんて最悪よ。生理休暇をとって家にいたら、人の悪口がどこからか聞こえてきて、それ以降は申請をやめてしまった、なんてこともあったわね。自分の拵えた、見えない他人の悪口って、聞いていてとっても辛かったわ。この都会には地元の女友達もいないの。私は、一人で生きて行かないといけなかった。それでも、私に癒しがあってはいけない、というの? これだけ毎日苦行に耐えて生活していたのに、精神的均衡の根拠を官能に求めてはいけないの?
理解に苦しむのは、それだけ罪悪感を感じる心を持ちながら、どうして私を殺す決断を下したときにその心が不能に陥ったのか、よね。それも、利益を得るための合理的な解だったとしてかたをつけるのかしら。あなたはあのとき、何を考えていたの?」
「何も考えなかった、意識をそらしていた」
「この」Kは香山に顔を向けて言った。「卑怯者、人でなし」
すると女はまた続けた。
「あいまいな表現は、こういうときに使うのよ。あなたの心にしっかりと傷はついたかしら」―彼女はサンシェードを上げた。
「……一つ聞いていい?」
「なんだ」
「どうして、その拳銃を頭に向けて発砲しないのかな。生きていて、自己矛盾や罪悪感で苦しいんだよね? 私、首を絞められながら、何度も懇願したわ。『やめて』って。明はやめてくれなかった。もう、自分の未来が喪われるという気持ちは、あなたも十分味わったでしょう? それに、あなたが死んでも誰も寂しいなんて思ってはくれない。誰もね。だったら、善は急げだよ、死ねばいいじゃない。死に遅れているのよ、あなた」
「何を言うんだ」
再びサンシェードを下げたKは、おもむろに香山に顔を近づけた。表情が近づくと張りのある頬や目元がよくよく見えた。キスをされる、と思った時にはもう目を閉じたKの鼻が自分の鼻と触れ合う距離にあって、唇が重なっていた。死霊の接吻は、彼の体温を奪ってゆくかのような、霰のようなものだった。Kは顔色をたいそう悪くし、青白くなった顔を遠ざけて言った。
「冥土産の、冥土の土産よ。自分の身を守るためにそのコルトガバメントがあるんでしょうに。このまま苦痛に耐えられると思って? 悔い改めても無駄だからね。人を殺して利潤を創出して、そんな人間に幸せになる権利はないわ。もうあなたは限界よ。早く死んだ方が無難だわ、そうね、あなたの言葉を借りれば、『合理的』よ。思い出して、あなたが見た死は、美しい観念のはずよ……」
女は香山の左側に座っているはずなのに、右耳にも同様の声量で声が聞こえる感覚が、彼の意識を現実から離れた場所へと吹き飛ばしていった。サンシェードを上げて、Kは消滅した。
風俗店の娘の声が切り取られ、文脈を失って現れた。
「あんたなんか、死ねばいいとよ」
彼は一人ぼっちになり、助手席には、置いた覚えのない彼の拳銃だけが残っていた。覚えがないだけで自分が無意識に置いた、と考えるのが普通だが、たった今死霊と会話した彼が信じたものはそうではない。Kが残したのだ。銃口がこちらに向き、何かを彼に訴えていた。人智をあざ笑う力学がバレルの中から彼を殺そうとしていたのだ。
ここまでして自分の中に自死を望む声が響いても香山は敢えて反対の意思をもっていた。彼の脳裡にあったのは、サバイバル精神というよりは、もっと下世話な頑固さだった。そうして彼は繰り言をした。何を考えようとこのまま、俺は命を絶つわけにはいかない、と。
『何かあれば、遠慮せずに電話してくださいね』
中崎の声だった。もはや機械的に動いていたが、香山はそのくせ震えながら彼に電話をかけようとしていた。……やはり俺は死ぬべきではないのだ。しかし、この一連を彼にどう説明したものか。死霊を見た、と伝えて、彼はそれでも自分に手を貸すのか。中崎は電話に出なかった。絶望を感じながら、コール音が繰り返されるのをきくばかりだった。
明がお宮を連れてくるのが見えて、慌ててスマートフォンを捨てて窓を開けた。虚ろに受け答えをしたが、香山には聞き取ることができなかった。かろうじて、自分の与えられた仕事だけを心得た。
香山はお宮に拳銃を突き付け、動きを封じていた。
「なあ、逃がしてはくれないか」
お宮がかすれた声で言った。香山の目を見つめていた。車の中は何も音楽が流れない。二人の呼吸の音だけがあった。香山は首を横に振った。
「どうしてだ、もうあんたたちの怖さは分かった、頼むよ、もう何も企んではいない。お願いだよ、後生だから」
癇癪を起した香山は拳銃の底で殴ろうとしてためらい、足で蹴った。五回蹴ったところでお宮が悲鳴を上げた。
香山は涙をこらえていた。そのまま彼に銃口を向け、明が帰るのを待つことにした。お宮を拳銃で殴りつけることができなかった。彼の痛みを想像してしまったのだ。自分の内面世界に彼の感覚を想像で取り込んでしまった。
***
力ない歩き方で明が86に着いた。ふらふらと、わずかに道をそれながら、それでもしっかりこちらへと歩んでいるあたり、完全に意識が飛んでいるわけではないことを周旋人は確認した。遠目から観察すると凶手のシャツには血痕があった。そして、目は座り、どこを見るでもなくきょろきょろとしていた。香山は窓から顔を出して言った。
「どうしたんだ」―このときばかりは香山はすっかり我に返っていた。
心配する香山をよそに明は何も答えなかった。黙ったまま後部座席に座り、お宮の首に血のついたナイフをあてがっていた。
三人は例の貸倉庫へ戻った。再びお宮を拘束して、二人でこれからどうするのかを考えるつもりであった。車を停め、鍵を引き抜いた。引き抜いたその鍵を握り、香山はしばらく何もせずに座っていた。
考えようとしても、何も考えることができない。香山は、ただひたすらに黙り、明もそうしていた。明には明なりに何かがあったのだろうと思うが、そこで思考の道は途切れた。続いて、タコメーターが目に入った。クラッチをつなぐとき、これを目にするようでは序の口だ。そうではなく、エンジンの音を聞いて回転数を予想しながらつなぐのが、運転するときに求められる姿である。そうして道の傾斜や後続車両との距離を見ながらでないと安全が確保されない。それでいて快適な乗り心地を……
そういう具合に、何か他事に思考を働かせようとしても幾度となく失敗していた。何べん下を見ても暗い地割れの世界が広がっているだけであった。何の恐怖も覚えずに香山はその地割れを凝視していた。飛び降りることも思いつかず、何も欲せず、ただその淵に立ち、時折しゃがんで、時折立って、を繰り返していた。
香山はとにかく動けなかった。煙草を吸おうと窓を開いた。火を灯して、煙草に呼吸を与えた。煙草は先端の赤色を濃くして、口の中にその煙を吹き込んだ。普段なら沈静を得るはずのこの行為が、どうもこのときには何の安らぎを得ることもできなかったことをここに述懐しておこう。朦朧とする明は一貫して一切の苦言を呈しなかった。
香山が車を出ようと決断した契機は、寒気であった。それは実に生き物らしからぬ、生き物らしい矛盾の心情だったが、外気に合わせて冷え込むこの車内に、どうしても体を動かして熱を発さねば辛抱ならないと思ったのだ。煙草はすでに三本吸っていた。窓を開けて吸い殻を投げ捨てていたことが災いしたのであった。
貸倉庫は相変わらず鈍色の迫力をもって香山を迎え入れた。再びお宮を椅子に縛り付けた明が、彼に問いた。
「これから、どうするんだ。貫一は……もう気にする必要もなかろう」
お宮が割って入った。
「香山、あんたは何なんだ」
香山は自分の場違いを指摘されたと感じて焦燥を覚えた。そう感じたからには香山にはその意識があっても、それをまだ認めたくないと拒否する立場にあったのだ。
「どういう意味かね」
「あんた、さっき俺を拳銃で殴ろうとしてやめただろう。しかも、ためらってやめたんだ。あんな赤が透けて見える嘘を言われ、それでも侮辱されたことへの憎悪を握りしめて俺に危害を加えるなんて単純なこともできなかった。あんたがどうしてこの世界に入れたのかが不思議でならない。もしや改心のつもりか?」
「改心? 貴様にそのような指摘をされる謂れはない」
「……間抜けみたいな、空のペットボトルをぶっ叩いたみたいな喋り方をしなさんな。お前は狂気を持っていない。社会から外れてそれでも笑うのは、狂気の沙汰なのだ。すなわち、あんたはここにいることが可能でない人間だ。しかし俺も馬鹿ではない。俺の次の質問に納得する受け答えができたなら俺の過誤を認めよう。なんの間違いで請負殺人をはじめようなんて大それた計画を企てた」
「効率がいい」
「それは、本の、音かね」
「そうだ」
香山は決着のついた話ではなかったが、虚勢を張ってやろうと聞こえのいい答えをはじき出した。お宮は平然と言うのであった。
「俺の抱く疑問は一体解消されんね。狂気の毒が全身に回っていなければ、経済は罪悪をかき消さないからだ。つまりはそう、お前さんは嘘をついている。そこから導出される俺の推論を述べようか。
お前さんは足を踏み入れるときにはさぞかし残酷だった。人の命なんぞ顧みない脳みその構造だったんだろう。それが、どういうわけか急に変わっちまったんだ。俺にはそんな気がしてならない、ああ情けない、蛆虫野郎だこと」
視界が真っ赤に染まった香山は握った拳を振り上げた。すると拳がそのまま動かない。怒りをぶつけるに能わない。赤色が薄くなっていって、拳を降ろした。自分が今何をしようとしたのか、それを考えると怖ろしくなり、踏みとどまった自分を称えた。お宮が挑発した。
「自分を守ったつもりか? そうやって非暴力にへこへこするようでは正気の証明が再び為されたぞ」
明がお宮に蹴りを入れた。お宮はそれでもやめなかった。
「これが俺達の世界なんだ。あんたは腰抜けの、かわいそうな善人なんだ……」明が再び足を出した。「あんたはもうだめだよ、退職しなよ。これ以上はもう、かわいそうだ」
言葉と裏腹に、彼の顔には煤まみれの汚い笑みが浮かんでいた。煤の正体は軽蔑であった。プライドを傷つけられた香山は、それを認識しながらも歯ぎしりしながら納得した。香山は煙草をポケットからつかみ出して、火をつけた。先ほどと打って変わって、煙草を喫んでいる心地をよくかみしめることができた。お宮がひらめいたように目を輝かせた。その目は排水溝を覗き込んだときに見えるような暗さも持っていた。
「そうだ、いいことを思いついたぞ」
「何だ」
「嘱託殺人をしてくれんかね」
「なぜ」香山は咽喉元を詰まらせ、もう一度言い直した。「なぜそんなことを言うんだ」
「いいじゃないか。携帯を渡してくれれば、俺はすぐにお前の口座に振り込める。お宅らはそういう商売をやっているんだろうに」
「おちょくるのもその辺にしたまえ。そんなことをしてみろ、トランザクションが残るだろうが」
「ならば、俺が現金や貴金属で保有する財産のありかを教えたっていい。世の中、解決できぬ問題は存外少ないんだ」
「なぜそんなことを……命が惜しくはないのか」
「はっはっは、下品な質問をするもんじゃないよ」
自身の質問が下品だとけなされて当惑し、一体何と返したものか思い浮かばずに圧倒されてしまった。椅子に座らされて身の自由が利かずにこれからどういたぶられるかもしれぬはずの人間が、どういうわけでこのように自分に言葉の剣山を投げ続けることができるのかが分からなかった。
「その拳銃を額に当ててドカン、もしくは肺に穴を開けてくれてもいいんだぜ。人は肺に穴が開くと、血が肺に溜まってゆき、おもむろに溺れ死んでゆくんだ。ナイフで頸動脈をプチン、でも悪くないな」
撃つことができないことは分かっていたのに、香山はデニムから引き抜いた拳銃を彼の額に向けた。一向に彼は表情に変化を催さなかった。一点の曇りもない冷笑だった。
引き金を引けばお宮は死ぬことは百も承知であった。香山は自分がお宮から与えられた苦しみを思い出した。86の中で彼が首を絞めるときの苦しみだ。しかし、それを打ち消すように香山は、初めて人を殺す決断を下した日に戻っていた。
***
香山は宅の机に置かれたノートパソコンで、中崎から送られてきた依頼を見ていた。組に持ち込まれた、娘を強姦された父親からの依頼であった。彼はその犯人を殺してほしいと頼んできた。彼が泣きながら組の門をたたき、その場で風呂敷に包まれた金を取り出して、泣きながら土下座をして恨み事を述べる場面などを妄想し、多少の義憤を覚えながらも金を得るためと計画を立てた。何しろこれが正真正銘初めての仕事で、それも非合法中の非合法だった。しょっぱなからお縄にかかるわけにはいかない。恐怖に心を溺れさせ、恐怖色の精力をもって取り組んだ。目的の達成のためには、過去の完全犯罪、それに対する社会の対策(Kの事案がいい例だ)を調べ上げなければならない。成功を望むのなら成功者の道にならうのがよろしい。
気にかかった問題は強姦の犯人の正体だった。父親の突き止めたところによれば、犯人は今宿に身を置く中学生だという。法に頼らず死の裁きを与えようというのだ。中学生とだけあって、住所を調べるのも、生活パターンを調べるのも、難しい課題ではない。初心者には簡単な課題がふさわしい、というがこれは実にそうだった。すると不意に香山は仕事のスキルアップなるある種崇高な思いを見出し始めていた。不純な追い風を受けて香山は突き進んだ。
両親と一人の弟がいる少年は、電車で学校へ行き、学習塾へ通って夜の十時頃に駅から歩いて帰宅する。その時に殺害を実行すると決めた。
計画がひと段落着いたところで、香山は法の定めた罰則を考えた。一旦立ち止まるだけの倫理はもっていた。少年の扱いはまだ「少年」であるため、少年院送致、そして保護観察だ。やがて時を経て社会復帰だ。女子高校生をコンクリート詰めにした少年達は実際にそういった道をたどった。今ではのうのうと陽を浴びている。
そして香山はこの依頼を、まるで静かで、鬼のような側面すら持った森の木々に見守られながら水を噴き出すように生み出した、家族の感情を垣間見た。娘を強姦され、それだけで生き延びさせるわけにはいかないという憤怒だった。なるほど泉というよりは噴火口の方がふさわしい。
香山は明に会って計画を伝えた。数日後、明は香山に電話をしてきた。今貸倉庫にて回想し、夢想する周旋人は、その電話の内容を知っているのにも関わらず、仕事の電話ではないことを祈った。代わりに『さっき流れ星を見つけたぞ』と言ったのだと虚妄を作り上げたが、鮮明さが記憶の改変を阻んだ。
「少年は見つけたがね、まだ殺していない」
「どうして」
「彼の父親も一緒にいたからね。会話からして、二人でラーメンを食べた帰りだったらしい。危うく捕まるところだったぞ。調べはついているんじゃあなかったのかい」
「俺の調べた時にはいなかったんだ。言い訳させてもらうが、彼はいつも一人で帰路に就いていた。とどのつまりそれは初めてのパターンだ」
「なるほど、まあ次が最後の機会だろう」
「気づかれたわけかね」
「そうだな、しかも、少年は少し俺を警戒していた。ちらちらと俺を見ては、会話が上の空って感じだ」
初仕事とはいえ、自分の不手際で仕事の遂行に支障が出ている。もう一度行動パターンを調べるべきだった、と悔いた。そしてこうして回想している周旋人は、別の方面から自分を苦しめる感情を横目に、もう少し待つように、と伝えるべきだった、と悔いている。
父親が一体何を目的に過ちを犯した息子を食事に誘ったのか。その目的の詳細なんぞは、本人すらも分からない部分はあろうが、父親はもしかしたら息子の異変に気付いて打ち解けようとしていたのかもしれない。おどおどと、もしかすればこの世で最も親密やもしれぬ息子に向かって食事を提案し、何かを聞き取ろうとしていたのかもしれない。
「お疲れ、何か食べるかい」
「いいの」
「お前、あの店のラーメンが好きだったろう。俺も好きなんだ。あそこに行こうか」
「うん」
息子はきっと、父親の傲慢に腹を立てる日々で感じる、ふとしたそんな優しさと自分の犯した過ちを同時に認識し、泣きながら告白したのかもしれない。いいや、人間はそんなに綺麗ではない。少年院や学校での立ち回りを怖れ、それとなくぼやかして告白したのかもしれない。少年にとって父親の愛情は、キリスト教のアガペーに似た存在である。父親が叱れば、それで許されたような感覚を得ることができる。
さて、この先に彼らの身の上に降りかかる事態を、香山は知っている。彼は一貫して貸倉庫の中で回想をしているのだから。
香山が彼に命じて、明は家族全員を殺害したのだ。ほかならぬ香山の命令で。そのときの香山は煙草を喫んで暗雲を晴らしていた。暗雲が自分をどんな気分にするかを知っていたくせに、それを無視したかった。
これを想起して、今の香山は立ちながら膝ががくがくと震わせていた。お宮や明の体裁を気にしなければ、倒れこんでいるほどにまで震えていた。そして、これまでの悲しみや、やるせなさを抱えてまで体裁を気にする自分が嫌になってしまった。
あのとき自分が奪った命に包み込まれた、重大な過去と未来をすべてこの世から消し去ってしまった。
戻ることはできないのか、あの決断の日に。
できない。
お願い神様、と無信仰に生きているくせに懇願をしていた。何度も神を裏切り、それでいて恩恵を受けるつもりかい?
人生のどこかで俺は人の道を踏み外したのだ。
ふっ、と肺の空気を抜いて、心の中にある黒色の空間を見つめた。親しみのある空間だった。目を通じて染み入る不安で胸が冷たく感じるのも、それはそれで抱きしめたくなるぐらいに愛しい感覚だった。
宝くじで小金を引き当てたり、新しく交際相手が見つかったりして幸福を感じても、そのたびに殺されたあの家族が彼の前に現れては、「いい気になるんじゃないよ」と口をそろえるのであった。ちょうど先ほどのKのように。
萬のいがみ合いが自分から発されているかのように思えた。自分がこんな仕事をしなければ、こんな汚い人間でなければ、と己への嫌悪を烈火へ注ぎ込んだ。
仕事を終えた日の自分を思い出し、自分の行動を改変した。きっと今の自分があの日に戻ったなら、自分なんか死んでしまえばいい、とベランダを見ただろう。窓を開ける気すら起らないのだ。諦めの果てには黙って向き直り、ため息をつくのだろう。そのまま暖かい布団にくるまって寝ようとした。仰向いて天井を見上げ、目をずっと開いていた。天井にある線を引いたような模様を見れば、黒い汚れがその模様に沿っている。今この家のドアが開いて誰かが入り、俺を葬ってはくれないか。そのとき決してあらゆる生への渇望を放棄する。
死にたかった。俺なんぞは死んだ方がいいのだ。
罪を浄化する白い光があれば、それはきっと俺が全力で欲しがる賜物だろう。それがないのだから、俺は自害によって解毒を試みるしかないのだ。思えば、俺は今までの人生で他人の行動に責任を示そうとしては失敗し、あるときは責任を持っている素振すら見せることができなかった。こんな人間がいつまでも生きていれば、これから先にもっと取り返しのつかないようなことをするのは明白な将来である。星占いに頼るまでもない。人を救うためにも、一人の人間が死ねばよいのであれば、それは大変に小さな代償だ。
命の重さは測ることができる。そう思う人が多いから、多くの人間がトロッコに乗ってより多くの人間を救おうとする。
飛行機が飛び立つ音が聞こえた。
罪は水のように彼を呑み込むのであろう。
香山はその水の上に立っていた、船もなしに素足で。空は快晴、周りには何も見えず、水面が空の紺碧を反射して、同じ表象をもつウユニ塩湖を超越するほどの高貴な光景がそこにはあった。生まれて初めて息を呑んで、その景色を味わってやろうとしていた。しばらくそうした後で水上に立っていた彼はしゃがみ込み、中を覗き込んだ。サンゴの枝の間にはハタタテハゼやゴマチョウチョウウオ、カクレクマノミが何喰わぬ顔で泳いでいた。どれもこれも、コストさえ抑えられるのならいつか飼育したいと夢想していた魚ばかりであった。すると、後ろから水が弾けるような音が聞こえ、振り向けばそこに顔の見えない人間が、香山と同じようにして水上に立っていたのだ。彼か彼女か、無根拠に香山はそれを女だと信じて疑わなかった。とにかくその人間を視認すると香山は何の抵抗も感じないまま、のろのろと浮遊を始めていった。水面が離れ、陽が暗くなってゆくと、何時の間にか脛に刺さっていた草刈鎌を払い、貸倉庫に降り立った。
膝は相変わらず震えていたので、煙草を吸って落ち着いた。拳銃はデニムにしまった。
会話の接ぎ穂を失って三人は黙っていた。漸く決心した香山は明に話しかけた。
「お前、嬉しくはないのかい。仮にもお前の命を奪おうとした人間がいなくなったんだぞ。お前は自分の命を失う可能性を減らしたんだ。喜べばいいじゃないか」
「それが……そう明快にもいかんのさ」
明は何かを思い詰め、ふさぎ込んでしまったように見えた。
「どうしたんだい」
明はうつむいたまま、香山に目をくれずに扉を眺めながら答えた。
「彼を殺すことができずじまいだった。俺は自分の殺意が及ばぬ存在を初めて目前にした。彼を殺したくて仕方がなかったのに、それがかなわなかった。狂気からなるこの欲望はもはや紙やすりで削り取られてしまったのだ、それも容易で、意外な方法で。俺は、この仕事を始めてから自分の狂気を実現することを知ったし、それが生きがいにも近い存在になってしまったんだ。しかし、彼は自刃で俺の狂気を冷笑し、そして川の向こうへ行ってしまった。結局自分の能力の証明の機会は永遠に手に入らなくなってしまった」
「生きがいは、人生の価値を決めるとでも言うのかい。死にたいとでも言うつもりかい」
こう言う彼は一体どんな面構えでいたのだろうか。恥というものを知らぬ人間に成り下がったのか。
「申し訳ないがそんな観念はちっとも浮かばんね」
「生きがいを失ってまで生にすがりついて、それでも生の意味があると言うわけだ。お前にとって生とはなんだ」
「人生への呪詛を捨てないことだ。呪いが生に意味を、美貌を与える」
香山は呆気にとられた。明が扉へ歩き出してこう言った。
「少し散歩へ出る」
扉がやや乱暴に閉められ、なんだか気が張り詰めていたのが楽になったような感じだった。香山は、箱に残った最後の煙草に火をつけた。
上を向いて、煙を吐いた。白く、力のない糸のようなその煙は、水平へ動きながらも上昇していった。
これからどうしたものか、考えなければ。……
香山は煙草が燃え尽きるまで、自暴自棄にそうやって散漫に歩いていた。首が所在なく動き、視界は意識との接合を失いだしている。彼はそうやって考えているつもりだったが、その実は先ほどの86の中でやっていたような、儚い思考を踏むばかりであった。ゆえに彼は後ろから近づく危険を許した。
「香山」
いかなる構えもなく、香山は振り向いた。
束縛をほどいて自由になったお宮が香山の顔面に拳を打ちつけたので、抗うことができずに倒れた。注意を怠っている間にお宮は反撃の機会を得たのだった。対策を思いつく前に、みぞおちに蹴りを入れられて失神した。
意識を飛ばしているときになんの夢も見なかった香山は、相当に疲労がたまっていたことがうかがえる。暗闇を眺めていると、三半規管を激しく揺さぶられて外へと躍り出た。目を開ければ、眉を顰める明の姿があった。
「まんまと逃げられて、調子よくおねんねかね、なんとも気楽なもんだ」
周旋人は凶手を、彼の家から近い姪浜駅まで送っていくことにした。頬は膨らみあがり、痛んでいた。しびれは引きはじめていたが、しばしばそこを撫でていた。二人は向かう道中、一度も口を開かなかった。
駅の手前の信号で停止したとき、周旋人は胸の内を明かした。
「きいてくれないか」
「みすみすお宮を逃がしておいて、なんだい」
「……罪悪感で弾けそうなんだ」
「そりゃ俺とは縁のない感情だね。生来罪悪感を知らない人間らしいんだ、俺は」
そう言われて返す言葉のなくなった香山は、明と自分との相違を思い出した。彼とではこの感情を共有することができないのだ。二人の殺し屋の世界は平行線どころか、別の次元に存在するようなものに思われる。周旋人はむなしくなり、話題転換を図った。
「こんな感情は、特にこの業界だと、誰かに相談できるものではないのだよ。今回のようなことだって、この仕事を続ければまた出くわすさ、きりがない」
興味を一向に惹かれぬ凶手はおざなりに会話を続けることにした。
「お宮じゃあないが、お前のようなタイプは珍しいね。むしろよくここまでやってこれたもんだ。そんな感情は生まれてこの方備わっていたものではないのかい」
「多分違う。お前は、自由を信じるか」
「藪から棒に。信じちゃいないさ」
「どうして」
「お前さんは今、自由なのかい。俺の目に映るお前は、そんな感情に縛られ、大変生きるのが苦しそうだ。自由とは対極の状態にあるじゃないか」
自身の考えを問われ、説法した凶手には徐々に本領を発揮してゆく。対する周旋人は以下のように喩えを持ち出した。
「たとえば、レールを奪われた電車はどうなると思う」
「脱線どころではないな」
「きっと今までレールの上を走っていた以上、多少のあいだはまっすぐ進むが、それでもいつかバランスを失って、横転するか、街を破壊するかだと思わないか」
「想像に難くはないね、たしかにそうだろうね。だがそれで一体何を言おうとしているんだい」
「俺達はきっと、レールを奪われた列車なんだ」
「誰がレールを敷いて、奪ったのかしら」
「神が敷いて、俺達が奪ったのではないかね」
「待て、レールは何のメタファーだ」
「神が個々に与えた性格、……そうだな、キャラクターといえばいいのかもしれないね」
「神の言うことに服従すれば、それで自由なのかね。神を信じる立場からなら、それは正しいことかもしれんがね。あくまでも神を信仰する人間にとっては、だよ。お前さん、宗教はあるのかい。あるとすれば、それは殺人を良しとする宗教なんだろうね」
「それは特にないが……だが、神を信じてはいる。この世界は特定の存在によって創造されたんだ。その、神は、世界をどう進めようかも考えていた。世界を作る神がいなければ、自由が手に入るとも思う。しかし、その代償は大層に大きかった。俺はあれ以降、自由意志に基づいて行動してきたつもりだ。しかし、神のレールを失った今、俺には……」
「おかしな話だ。それではフィクションとノンフィクションの議論のようじゃないか。フィクションの世界の人間が急にノンフィクションの世界に迷い込んだような」
明は要領を得ない具合でこう答えたのであった。
香山は神を信じている。今は亡き存在を。
車が姪浜駅に着いた。ロータリーに入って、凶手を降ろそうとした。
***
姪浜駅のロータリーに車を乗り入れ、香山は明に別れを告げたが、彼はその挨拶に沈黙で答え、助手席にとどまって長いこと口を閉じた。
「香山、お前はやはり変だ」
「何が言いたいのか」
「自由がどうのこうの、と話しただろう」
「そうだとすれば、それがどうして変になるのかね」
「どうして、ときたか」
明が怪訝な顔をして、手の施しようがない、というようにそっぽを向いた。
香山は、彼が気にかけていることが何たるかに気づいた。香山が内に抱える罪悪にまつわる葛藤が、あらゆる決心を鈍らせていて、それを明は感じとったのだ。
香山はそう予測して、相談する具合で話すことにした。しかし、人には自分でも分からない自分というものが存在する。今の香山もまさにそうで、自分を苦しめるものが何なのかが分からない。ジョハリの窓で喩えるのなら、「Blind Spot」であることを祈りながら、本題に入ることにした。個人がひた隠しにするその皮を裏返して、そこに書いてある文字を読んでもらうようなものだった。
「申し訳ない……実は、俺も自覚はしている。本当に、自分がやっていることが正しいことなのか、分からなくなってしまった」
「それは人間ならば普通のことだろう。安心したよ」
と、彼は流そうとした。
「待て、お前はまだ理解していないようだ。俺は……自分のために人を傷つけたり、殺したり、なんてもう苦しくてたまらないんだ。それにきっと、こんな事態をこれから先も、仕事を続ける限り免れない。貫一の配偶者がきっと次の敵だ。もう……」
「頭を冷やしてよく考えるんだね。これ以上は付き合っていられない」
根幹を何も理解しない明が86から出ようとした。香山はすがる思いで彼の袖を引っ張った。よせよ気持ち悪い、と明が突き放そうとした。
「ちょっと、待ってくれ……」
「待つ分にはいいが、俺はお前に性欲を発揮できないよ。すまないけど、俺はヘテロセクシャルなんだ」
香山は噴き出して、語調を整えながら言った。
「何を言うんだ。俺が言おうとしているのはそんなことではない。俺はおかしくなってしまったんだ。……おそらく、あの臨死体験じみたもののせいだと思う」
話を聞きながら彼は座席に座り直し、香山の言った内容を言い換えた。
「なるほど。死にかけて、命の尊さというやつを理解した、と。現実とは皮肉なものだな」
「そうかもしれない」
一旦はこう言ったものの、自分の返答には確信をもってはいなかった。彼の発言に違和感を覚えたからだ。さらに問題なのは、その所感の正体が全く不明であったことだった。明がにやつきながら言った。冗談めかして人をおちょくるような顔だった。
「香山、もしかしてお前、薬をやっているのかい」
香山は明の突拍子もない質問に驚いた。冗談じみたことを口にされ、心外に思った。
「荒唐無稽な。どうしてそんなことをきくんだ」
「仕事に支障が出るから、もしそのつもりが少しでもあるのなら、やめるように諌言させてもらったがね」
相手の言うことは、理解せずに呑み込むものではない。かみ砕いてその味を確かめなければならないのだ。ところが回想してみても、そんな記憶が見つからない。とすれば彼の発言が何を意味しているのか、全く理解できなかった。彼は『諫言』というへりくだった表現を用いたために、香山に対して殊更無礼をはたらくつもりはないらしい。では、『薬』、とは何かのメタファーなのか? だとすれば、それは一体何を暗示しているのか。
明は笑っていた。やはり、自分の話を茶化すつもりらしい、と香山は踏んだ。
香山はそれでも口をぽかんと開いたまま、彼の言葉の意味をたどった。すると香山が呆気にとられているのをいいこととして、ここぞとばかりに明がつらつらと饒舌に話し続けた。
「その様子だと、当ては外れていないらしいね。人はハイになると、神経が昂り、はたまた現実と妄想の区別がつかなくなる。大体の人間は根っからの狂人でないから、狂気の取扱説明書を持っていないんだ。悪いことは言わない。今すぐに持っている薬を捨てて、絶つんだ。請負殺人のブローカーに言うのも実に奇妙だが、真人間を目指して生きたまえ」
的外れな見当をきいて、香山は自分の危機感を感じ取られていないことを悟った。彼はこういう性格で生まれてきた人間であるらしい。自分と相手の関係に優位性が見いだせれば、それを契機に舌がよく回るようになり、あることないことを話し出すのだ。しかし、彼が饒舌になってくれたおかげで、自分が先に感じた違和感が何たるかを突き止めた。それは自分に考える時間と、言葉の切れ端を与えてくれた。香山は真に言おうとしていたことを受け入れ難い事柄だとして胸にしまい込み、遠回しに伝えようとしていたのだ。
香山自身がその事柄を悟ったときにどうなったのか。浮かんだのは、パソコンを開いては閉じ、開いては閉じ、喫煙で悪心を催し、布団にくるまって必死に世界の掟から逃れる術を求める、振り返れば滑稽な姿だった。
だが、そう、一時とはいえ怖ろし気な虚脱に包まれたのだった。それほどまでに彼にとっては大事件であった。いわば地球事変である。神が死ぬ時点までの自分が、神の思うままに行動することを強いられていたということは、次の事実を認めることと同義である。即ち、同時点までに為された決断の根拠となる意思がすべて、それが自由意志であったと願うが故の仮構の代物だということを認めねばならぬことになる。体重を預けていた幹には血が通っていなかった。枝の上の鳥も贋作だった。
香山は一旦彼のペースに合わせるために彼の言うことに耳を傾けることにした。放置しておくだけで気ままに話す彼の性格はむしろ操作がしやすいのかもしれない、と香山は余裕すら感じだした。
「お前のような人間は、自分が穢れていると感じてそれを許すことができないタイプだね。お前の脳の構造は社会的体裁ではなく、いわゆるスーパー・エゴの存在が占める部分が大変に大きいと俺は踏んでいる」
彼は、まだ香山を薬物に溺していると決めつけて話を続けた。このまま彼の話を聞いて、機会を待っていてもらちが明かないので、香山は話を遮ることにした。
「いいや、違う。俺は分かった。俺は薬物中毒など患っていはいない。俺はすっかり分かったんだ。どこから話そうか。……俺達が殺した作家を覚えているか」
「作家、だけではどうもね。もう少し冗長性を備えた情報をくれるかい」
「柴田隼人だ、『白い楓』の作者だ」
明はその名前をきいて即座に、とはいかなかったが、思い出したらしい。そして香山は自分が抱えていた違和感の根源とも言える単語をずばり抜粋し、指摘した。
「俺達が彼を殺してしまったから、この世界、つまりお前の言う『現実』にほころびが生まれ始めた」
「あいつは、そこまで大きな存在だったのかい」
明が声の調子を下げて言った。香山は、これからどう説明しようかと考えながら、明の迷いを打ちそうと口を開いた。
「当たり前さ」
ゆっくりと言い、言葉に一種の同情のような気持ちを込めた。果たして彼に理解させることに意味があるとは考えにくいが、どうだろうか。いいやとにかく、一人でも理解者が多ければ、香山の苦悩が軽減されることは間違いない。世の中にはだからこそ、被害者の会なるものが存在する。自分が一人で苦しんでいるのではない、と認識することは、その苦痛を和らげることにつながるのだ。
香山は認めたくない事実を告げるように、(香山はすでに認めていることだが、明にとってそれはまだ未開の地だからだ)次の言葉を言った。
「彼は……この世界を作った存在なんだ」
「論点を明瞭にしてもらえるかい」
ここでようやく明が真剣になりはじめた。……やはり、柴田隼人の言ったように明は俺より頭の回転が遅いらしい。作者である彼は、自分で作り出した存在のつむじからつま先までを語ることが可能で、そうであるから神なのだった。
成人に遅れて後ろから歩く幼児を見るとき、その知能の遅れを感じて、愛撫することもあろうが、それは幼児の知恵の不足への嘲笑とまじりあう、ミルクティーのような感情として表出している。そんな風に、明を蔑む気持ちを伴って話を再開させた。
「俺達が殺してしまった男、柴田隼人は、俺達が住む世界の創造主なんだ。
書物を嫌うお前でも、小説や映画のようなものが虚構と呼ばれ、それがこの世界とは別の次元で動くことぐらいは知っているだろう。虚構が存在するためには、筋書きを組み立てる人間がいなければならない。彼らは、自由自在に物語をあやつる権利のある存在なのだ。
そこで、こんなことが可能になる。
フィクションの中の人間が、観客側に向かって話しかけてくる演出や、自分達がフィクション内にしか存在しない認識がなければ成立しないような演出をするのだ。急に舞台を暗転させ、あからさまな演出を為した『古畑任三郎』、『このままじゃあ、面白くないですよね?』とカメラ目線で話す『ファニー・ゲーム』、作者と会話をする『銀魂』。……絵が浮かぶようだよ。
これらはなべてメタ・フィクションと呼ばれる技法だ。フィクションであることを強調することで、観客には興奮を与えることが、興味を与えることができる、画期的な技法だ。しかし使い方を一歩間違えれば、観客は興ざめする危ない綱渡りさ。
お前はきっと受け入れることができないのかもしれない。しかし、これが真実である以上は、受容するしかない。どんな状況にあっても真実を自分に取り込む姿勢が、魂の健康を保つ秘訣だ。しかし良薬は口に苦し、お前もいつかは俺のように煩悶に直面する。
俺達はフィクションの中にいる、現実には存在していない、架空の存在……『登場人物』なのだ。至って単純さ。
思い出すんだ……俺達が冒頭にて行った演出を。
対談。あれは非常によくある形式のものだ。読んでいてとてもではないが目をそむけたくなるほど痛々しい気持ちになる種類のものではあるが。あれはステレオタイプのメタ・フィクションなのではないのか?
よく考えろ。作者、だなんて、今述べたとんでもない、大それた、そして陰謀めいた理論の上にしか―俺達が現実にはいない、というあの理論だよ―可能ではないぞ。俺も野郎に記憶を消されたのか、すっかり忘れてしまうところだったが、すんでのところでとどまったんだ。お前の立ち振る舞いを見る限りはお前は完全に忘却してしまったらしいね。だが、俺達は作者と確かに会話を交わしたんだ。
最も単純な言い方を選ぶなら、いわば、柴田隼人はこの物語における神そのものなんだ。俺達はそいつを、こともあろうに殺してしまった。殺すべきではなかったんだ。彼の緻密に計算されたお膳立てがあったからこそ、俺やお前には明確なキャラ設定があり、読者にとってブレのない掴みが望めたのに、彼がいなくなってからというものそれは否定され、俺は請負殺人を生業としながらその職業が抱えるそもその問題―法律的、倫理的な犯罪という観念から生じるものだが―に悩み始めたんだ。もう、俺には人を殺すだけの気概なんぞ一ミリも残っちゃいない。
そうだ、お前がさっきフィクションの世界の人間が、急にノンフィクションの世界に迷い込んだ、と言っただろう。あれが完全にではないが正解に近い。俺達は結局フィクションの世界から脱出することはできていないが、筋書きを失い、性格も首尾一貫したものではなくなってしまった。
俺達にとってこの真理は、人生における選択の全てに、自分を超越する存在による力が働いていたことを明晰に示すものだ。俺は煩悶し、一日中何の活力も見いだせずに過ごした。その結果が、あの殺人だ。神を殺すことで俺は自分だけの選択を得ようと試みた。すると……どうだ。俺は自分がかつて抱かなかった罪悪感を抱きはじめ、竹が風に揺れて葉を鳴らすような安らかな心地の苦痛を得たんだ。それは美的な筈なのに、かつての自分の醜悪を脳裏に焼き付ける忌々しい感情だった。しかし、俺は生まれ変わろうとしている。もうこんな仕事はこりごりだ。これが真に俺の望むことならば、希望に身を任せて足を洗おうじゃないか」
廃業の提案、そして彼への偽善として言わずまいとしたことを洗いざらい話した。話しながら半ばやけくそになっても、結論と道筋を言葉にちりばめることを忘れなかった。それを聞いた彼が、あまりの衝撃でものを言わぬようになるのでは、と心配もしていた。反駁もあろうし、悲嘆もあろう。しかし香山の期待は薄氷を破るように裏切られたのだ。
「やれやれ、お前は薬中だよ」明は呆れながら、二度口にした。「薬中だ」
香山はしっかりと論拠を併せて話したはずなのに、明は再び心を閉ざしてしまったらしい。そう決めつけた香山は喧嘩腰になりはじめた。
「臆病な中傷でこの話を済ませるんじゃない。それなら淫蕩を為す男の方がずっと大義を感じるね」
「いいや、薬中だよ。試しに自分の腕を見てみるといい。きっと針の痕がびっしりだ」
彼は、この期に及んでおどけるようにべっと舌を出して、嘔吐するふりをしてみせた。もはや香山がはじめた慎重な相談は、売り言葉に買い言葉の泥仕合となっていた。だが、あくまでも香山は、冷静に、彼に言い聞かせて理解させねばならない、と義務じみたものを感じた。そして沈着さを取り戻す意識を得たくせに、その意識を破り捨てた。すると癇癪玉が破裂し、あからさまに、大仰にクラッチを踏みつけてから言った。
「では見てみるんだね。俺の腕を見て、健康な肌を視認して、幻想を消滅させるといい。それからお前は、謝罪しながら俺の話を聞くんだ」
そのとき、挑発を受けて矢庭に眉間にしわを寄せた明が、自分の首に手を伸ばすのが見えた香山は、殴られるのかと思って目を閉じた。殴られるなら、先ほどお宮が殴ったのではない左頬にしてほしいと願った。しかし、香山が見たのは、自分を殴る明ではなく、首を絞める明であった。気管が絞まる感覚を得て、あの六本松駅での惨事を思い出した。すると、彼は今まさに再び死の危険にさらされていると感じた。両手で彼の手を離そうとするが、全く彼の手は離れなかった。自分がこれほどまでに真剣に事柄を伝えようとしているのに、沸点に達して衝動で人を殺めるとは、やはり彼に信頼をおくべきではなかったのだ、と後悔した。
香山はKを思い出した。彼女も同様に苦しんだのだった。やはり、自分には生きる資格などありはしなかった。いつの日かこうなることを夢見ていた。
「おい」
明が言った。もう抵抗をやめたのに、彼はまだ何かの苦痛を与えるつもりだと思い、悲しくなった。
「なんだ」
「何をしているんだ、お前は」
頭の中にくつろぐようにあった、蛇がとぐろをまくようにあったわだかまりが去っていったような感じだった。
明は前を向いて座ったままだった。自分の首元にあるはずの彼の手は、しゃんと彼の下に収まっていた。自分の認識と現実に起こる事象のギャップを歴然と見せつけられた香山は、何が起こったのかを理解できずにいた。ギャップというのは人の感覚を狂わせる。
明が意を決して香山に向き直った。そして徐に香山のシャツの袖をまくって、左腕を露出させた。その上にあるものは、香山が明にひた隠しにしていたある事実を証明する根拠であった。しかし、それを見ても彼は驚いている風ではなかった。
「冷酷無比だった、とは実に滑稽だね。自分に嘘をついていることを自覚しようぜ。悲しいだろうが、受け止めるんだ。それと向き合うんだ」
そう言って明がなだめた。香山はもはや明にかける言葉を思いつかなかった。
このことを決して彼に打ち明けるつもりがなかった。きっと彼は自分を毛嫌いする。個人にとって欠かすことのできぬものは、他人から見ればただのくだらないものであることが多いし、理解を示そうとする人間も少ない。ユーザー数の多いゲームを楽しんでいても、同じ趣向を持つ人間を周りに見つけることは難しい。人は『そんなゲームにのめりこむなどあほらしい』と一蹴するのだ。そんなことは、誰だって人生の中で学ぶ孤独の横顔だった。特に、香山は明のように他人に重きを置かぬ人間が、こちらの世界へ歩みを進めることなどあり得ないと、あきらめのような感情を持っていた。
頭の中を真白にした香山は閉口していた。そう、ギャップは人の感覚を狂わせる。……
明が得意げにしゃべるのを聞く他はなかった。
「ほら、尻尾を出した。お前は薬中じゃないか。これはどう見たって疑いようのない注射痕だろう、実に夥しい。仮に入院時のものだとすれば、ここまでミスをする藪医者は殺した方がいい。それぐらいにひどい数だよ」
「どうして……」
と、かろうじて言った。
「言っただろう。お前は現実と妄想の判別が全くできなくなるタイプだと。性根がまともな証拠であるとはいえるがね」
香山の腕には、ざくろの果実をばらまいたような赤い斑点があった。どうして彼の腕にこれほどの注射痕があるのか。それは、明の言い当てたように、香山は薬物に依存していたからだ。
「そうやって、まともだからお前は、俺と違って罪悪を強く感じ、忘れることもできないんだろう」
香山は、驚きのような、それでいて悲しみのような感情で息が詰まった。「お前は……知っていたのか……」
明が最初に香山の薬物依存を疑ったときに笑っていたのは、それとなく確認するつもりだったのだ。聞きづらいことを聞くとき、詰問ばかりに陥るのは得策ではない。自分が味方であることを示す方がいい場合もある。今回、香山は何としてもこの事実を隠そうと決心していたためにうまく作用しなかっただけだ。例えば、『お前さん、さっき仕事をさぼっていただろう?』ぐらいの軽い隠し事を聞き出す際にはうまく働くように思われる。
もはやごまかしようのない証拠を見られ、隠匿していた犯行を自白した香山を前に明は語りはじめた。
…………………………。
…………………………。
俺が、お前の気がおかしくなったと思ったのは、確か柴田隼人と対談をする前だった……お前はあのときも、俺達の仕事の根本的な問題とやらに悩んでいたんだ。俺にとっては他人の命へ敬いなんぞどうでもいい。むしろ蔑ろに扱ったり、人の優位に立ったりすることが楽しいと思うタイプの……そうさな、いわゆる狂人だったから、お前の葛藤を横目に、哀れなやつだと笑う程度だった。ここまで言えばおおまかに俺がお前のことをどう評価していたかは分かるだろう。月並みに言えばお前は俺にとって、数ある道具の一つ以上の何ものでもなかった。役に立たなくなれば代替品で置き換えるつもりだった。
しかし、そんな俺の認識が打ち砕かれる非常の出来事があった。何の必然性もなくある日を境にお前は様子がおかしくなったんだ。話していてもやたらといらいらして、痙攣し、叫びながらガードレールを蹴ったり、支離滅裂な電話をかけてきたり。どうやら、人と意思疎通しようにもうまくいかず、人の怒りが理解できないとかを言い出したのもあのときだった。しかもお前は世間と自分との齟齬を一寸も認識していないときた。
そしてお前はいつものように無茶苦茶な電話をかけてきて、しまいにこう言ったんだよ。……
『なあ、明、俺は人を傷つけるのが楽しいよ』
笑ったよ! とうとう正気の人間を狂気が支配し、しかもその瞬間に立ち会えたと思ったからね。俺にとって、そうやって人がこける瞬間の証人になることは、とてつもない人生最大の娯楽だったのさ。だから今まで幾度となくそんな一連を観察してきたし、機会があれば自らすすんで引き起こしてきた。しかし、今回ばかりは自分の上司の発狂ときた! そして、俺はあそこまでの口調で狂気を見せつける輩を見たことがなかった。人生で初めて、自分を上回る狂気を手にした男を見たと思い、俺は感服してお前に従おうと思ったんだ。自分の口調を、肉体の全てを狂気に任せて演出する様を俺は見たことがなかったからね。そんな男を目の前に一体俺はどうやって仕事をしてゆくのか、楽しみですらあったのさ。さあ、明日から俺はどんな仕事を引き受けるのだろう? わくわくしては、面倒なことでなければいいが、といった程度に俺は楽観していたのさ。
そんなことを考えて、俺はお前からの電話を待っていたんだ。誰だって、自分にとんでもないことが訪れるなんて思わない。自分を待ち受ける不幸は思いたくないからね。そうだろう?
何日待てばいいのか、と気が遠くなる思いだった。だが、富士山は道があれだけ険しいからこそ山頂からの景色を誰もが絶景だと言うらしいね。その通説を思い出して俺は絶景を見るために辛抱して待ち続けることにしたんだ。しかし、待てども待てどもお前は電話をくれなかった。もはや何の意味もなさないあの支離滅裂な電話だけだっていいから、とにかくお前の存在を感じたい、と思いはじめたよ。それほどまでにあのときの俺はお前に魅了されていたのだ。
どんなにいい肉体の女とセックスをしようと、喋るビニール人形ぐらいにしか感じることがなかったのに。
すると、あれはおよそ半年がたったころのことだったかしら。iPhoneの画面を確認すれば、お前からの着信履歴が表示されているではないか。俺は、何時狂気を纏う仕事が来ても、肉体の強弱が原因で失敗するなんてことがないように、ジムで鍛錬にがむしゃらになっていて、気づかなかったんだ。―思えば、あれほど俺が真面目に物事に取り組んだことなど後にも先にもあの登山道の上だけだった!―まあ、こいつはとんでもない失態をやらかした、と悔しんだ。
俺の想像を凌駕するように気の狂ったお前のことさ。癇癪を起こしてどんな行動に出るか分からない。俺を殺すかもしれない。もしかしたら、俺を見放して他の業者に仕事を与え、俺に屈辱を与えようとしているかもしれなかった。俺は見捨てられていやしないかと、媚びるような気持ちでお前に電話を折り返したよ。そこで持ち掛けられた話が、あの対談だった。俺はついぞ聞いたこともない仕事を持ちかけてきたお前に驚き、たいそうな期待を抱いた。なぜなら電話での喋り口、お前はしじゅう異常だったからだ。お前はあのとき確実に何か企てていたんだ。
久方ぶりの地獄図。それは、自分の歩む先には何かが待ち受けていると知らせてくれたんだ。すると、ぱあっと、朝もやが晴れる心地だったよ。
実際、対談の当日お前に会うと、お前は相当に苛ついていた。俺は、お前のきちがい加減をまじまじと見た。『ああ、そうか。俺はこの人に一生ついていこう』。俺はそう自分に誓った。正直……ほれぼれしたよ。お前さんの中に、狂気の極地があるのを予感したからね。そしてあの対談が始まった。俺は、お前が合図か何かをくれるのか、それともお前が直接、柴田隼人を拷問ののちに殺すのか、いや、身動きを封印したままで放置かな?……とにかく彼にどう地獄を見せるのかを想像し昂ったさ。そして待ったんだ。俺はあのとき、またしても登山道を進み、山頂の景色が見えるまでを待ったんだ。もう少しで望んだ絶景が拝める。この長い道もやっとのことで終わりを告げる。あげくには、こうして俺の忍耐を弄び、狂人の俺をさらに狂わせるつもりでこの対談を引き受けたのか、とすら思う始末だったね。そう思えば、苦しみもない。自分のいる道はダイアモンドで埋め尽くされているように思えてきたから不思議なもんだ。あの時点でお前の未来は、全てが極地の闇から出てくる結論になるはずだったのにな。
しかしふと横に座るお前を見ればどうだ……俺はすっかり酔いから醒めちまったよ。何とも無様に強がりやがって。あれではただのチンピラではないか。チンピラの意味を知っているかね。一度調べてみるといいだろう。どれだけあのときの俺がお前を軽薄とみなしたのかがよくよくわかるだろうさ。そこには何の哲学もありはしなかったんだ。俺がいた登山道などぬかるんだ、薄汚れた山道だったんだ。俺は一気に萎えたよ。お前はとうとう何もせずに対談を終えようとしやがった! すると再び朝もやが立ち込み、にわかに朝日は自然法則を無視して元の方向へ沈んでいった。
俺の投資した半年は一体どうなるのか? あの日俺は悲愴と憤怒とを胸に、足早に帰った。一人で家に着き、枕に顔を突っ込んで、叱られた子供のようにむせび泣いた。俺は一体どうして半年も待ったのか、と時間を無下に扱われたと感じたんだ。そしてお前への強烈な不信で涙が止まらなかった。……
俺は、お前がどういう魂胆であの対談を俺に頼んだのかを知りたくて、徹底して調べようと思ったんだ。調べなくては、知らないという自覚からなる苦悩で気がちがいそうだったからね。まずお前に電話をした。すると、お前は全く対談のことなんぞ頭になかった。やはりお前は論理の成立しないことばかり口にした。興奮して、俺の話が聞こえていないようだった。何を言おうと、『中崎は最低のくず野郎だ』、『中崎はいい奴だ』の繰り返しだった。これでは全くもって言葉が意味を成していない。あんな興奮と錯乱の仕方はいくら狂人とはいえ、説明のつく事案ではないのだ。初めから冷静に考えればわかることだった。俺はここで嫌な予感がした。言語化されたその予感を胸に、心底から拒みながらも知り合いの薬物取引を行う人間に聞いて回った。ああ、いたんだよ、見つけてしまった。お前に薬物を売りつけたという人間をね。
俺はそれを真に受けたわけではない。しかし、あれほどまでに魅力を感じた狂人が、中身をのぞいてみれば、とどのつまりが出来損ないのボケナスだった。それは、お前がただの化学物質でできた空っぽの人形だったからかもしれない! そう考えれば、お前の言動も、ある意味で理に適う。お前は、空っぽな狂人の大根役者だったから、罪悪を正当化しようと身近にいる狂人の俺を投影して自己防衛に走ったんだ、という具合にね。所詮ははりぼてだったからさ。だからあの対談でのお前の態度に、俺は自分が切望した狂気を見なかったんだろう、と。
理解をそこまで進めたとき、お前への憧憬を根絶やしにしようとしたよ。その作家のことも、お前の不能を連想するから、記憶から消し去ろうと決意したのさ。そして今度は、俺がお前を見捨ててやろうと思ったし、二度と連絡なんぞ取ってやるものか、そう思ったんだ。
しかし、できなかった。どういうわけか、お前を見殺しにすることができなかったんだ。こんなことがあってたまるか、と必死でお前の電話番号を着信拒否リストに載せようとした。……毎度すんでのところで指が動かなくなるんだ。一体どういうわけなのか全く理解ができなかったよ。そして、俺にはまだ調べなければならないことが残っていると確信した。
それは、俺自身だった。俺は自分の分析を試みることにしたんだ。活字など生まれてこのかたずっと博学を衒うようだと避けてきたのに、自分の存在が理解できない不安に駆られて必死に図書館へ通って学ぼうと意を固めた。まずは手っ取り早く心理学系から攻めていこうと、当該の本棚へ足を運んだ。何冊も本を引っ張り出して机の上に堆く積んだ。はっとなって周りを見渡し、俯瞰した。俺が見たのは、本が隅々まで詰められた本棚がさらに図書館という一つの空間に詰められるという、マトリョーシカのような構造だった。やれやれ、あんな光景には吐き気を禁じえないものだよ。本を読み進めてゆくと、こう記してあった……俺は、自分の狂気は天からの授かりものなのだとばかり思っていたが、その実は全く違ったらしいのだ。『反社会性パーソナリティ障害は、患者の成長とともにその症状が軽くなる傾向がある』、と書いてあった。それは、胃袋の中で突如爆発が起こったかのような驚愕だった。そして漸く俺は理解したよ。俺の狂気は大それたものではない、ただの病気だったのだ。『反社会性パーソナリティ障害』という名前を付けられているうえに、『傾向』、とまできやがった。俺みたいな狂人は唯一無二ではない。俺は治療で回復が望める患者の一人にすぎなかったのだ。そのときの衝撃を表すのに、ここで再びレトリックに頼って終いにするよりは、具体的な話を持ち出した方が理解がいいのだろう。ただでさえ正気と狂気との間に融和を起こすには、夕陽を何度も沈めねばならないのだから。まあお前からすれば、俺が自分の人生を振り返ることで訪れるアンニュイを娯楽にしているように思えるかもしれないね。そして寄り道をしているようにきこえるかもしれない。けれども辛抱してきいてはくれんかね。この話は本題からそれているようで、それてなんかはいないのだよ。
少年期を過ごした家庭環境はなんでもないありふれたものだ。一般家庭だった。貧困も、離婚も、虐待も、ありはしなかった。テレビを傍目に夜を待てば、湯気を昇らせる白飯が運ばれてくる。家族の目は死んでいたが、それだって別に特に特筆すべきことだとは思わない。何も変哲はないのだ。毎日毎日、飽かずに輝いた目で会話を弾ます家族なんているのかい? 普通の家庭とは裏腹に俺は頻繁に問題を起こしたがね。
あのときは五歳だったかな。あの日に空を覆う雲は、雨も降らさずだらだらと頭上にあって鬱陶しかった。俺は近所の公園の砂場で山を作って遊んでいた。山の土台が出来上がると、俺と同い年くらいの少女が父親に連れられてやってきた。幼児用のバケツとシャベルをぶら下げたその少女は、砂場から離れた場所でしゃがんだ父親と向き合って何かを話していた。
父親はにこやかだった。少女はもじもじと何かを恥じているようだった。一貫して言葉は聞き取れなかったが、それまでに何度かこういった場面に遭遇したことがあった。お前もそういう風な親子はよく見るだろうから、容易に会話は想像がつくはずだ。だから次に何が起こるのかは思い描くことには苦労しない。それよりも俺が気になったのは、父親が煙草を吸うかどうかだった。
背中を優しく叩かれた少女はこちらへ歩いてきて、よく回らぬ舌で提案した。
「一緒に遊ぼう」
気づかぬうちに近づいてきた父親も、煙草をふかしながら加勢した。―俺はここで彼が煙草を吸うことを確認したんだ。
「いいかい? うちの子と遊んであげて」
提案には無邪気を装ってうなずいたさ。そして少女と一緒に砂を盛りはじめた。俺は父親が気になって、彼の様子を見ていた。彼はベンチに煙草の箱とライターを置いて座り、こちらを眺めて煙草を吸っていた。俺は少し間を開けて遊びに耽り、再び彼を見た。ベンチの上に彼はいなかった。喫煙具を置き去りにして、こちらに背を向けて電話で話をしていた。奇貨居くべしと思った俺は、素早くベンチに駆け寄ってライターをふんだくった。そして悪意とともに少女に近づいて、美しくはにかんだ。経験を積んでいた俺はこの年齢の少女がどうすれば見咎めずに行く末を見守るかを心得ていたんだ。
「こうすると面白いよ」
俺は少女のシャベルを借りて、ライターで火をおこした。そのままライターを柄に近づけた。少女の持っていたのは幼児用のシャベルだとはすでに言った通りだ。ああいったものは大抵プラスチックでできているのは周知であろう。それに持ったときの軽さで分かった。そして、プラスチックは加熱で溶けてしまうのだ。すぐに柄はひしゃげてしまい、元の形を失った。自分の所有物が台無しにされたと思った少女は大声で泣き出した。気づいた父親がこちらにたどり着く前に俺はすぐに逃げたよ。走りながら胸は収まりを知らぬように弾んでいた。俺は昂っていた。また一つ自分の能力の証明を終えたように思えた。
俺は人を傷つけることを楽しんだ。……しかしこういったものは、行為障害の症状そのものだった。他人の所有物を火によって破壊することがね。
反社会性パーソナリティ障害の一つの重要な診断基準として、アメリカ精神医学会の提唱したものはこうだ。「幼少時に行為障害であったこと」。文章を読むたびに押し寄せる記憶の波が俺を追い詰めていった。
自分の目の前で人が苦しむ様が愉快でならなかった。規則違反、無責任、カリスマ性の演出、暴悪、無鉄砲、罪悪感への不能……それが自分の生きがいだと信仰していたのさ。それもこれも、世界で市松模様のように蠢く人間には自分のように罪悪感を知らぬ、一種の不能の能力なるもの(これは実にメタ的な表現だね)が宿っていないと感じ、優越感に浸れたからだ。その優越感が根拠を失って崩れ去るのは、当然ではないのかね? この病名が存在し、かつ研究対象とされているという真実は、自分のような人間が、ランダムに目の前に現れかねないという説を俺に与えたのだから……!
飛躍を望んだ俺はさらに突き進んだ。俺は確かに社会への害悪を行使することで自分の幸福を高めていた。俺にとっては、暴悪こそが優越を生み出すものだった。優越からなるこの幸福の獲得に、忘れてなはならない致命的な条件があることに気づくまでは。
いいかい、俺は、周囲の人間を使い捨てタオルのように扱うことで外面世界を否定したけどだ。その否定は同時に、世界の存在を是認したことに他ならない。
世界の是認に含まれるある種の依存関係はもう一つの重要な関係の相似だった。そこで見えてくるのが、優越で裏打ちされる幸福実現の致命的な条件とは何か、という問題の解答だ。この条件の認識は逢着を意味した。
フェイタルな条件、それは優越には固有性の確認が必要不可欠であるということだ。固有性の確認は演繹すれば、自分と他人との間で共有されている一般性の認知が俺の内面世界に存在することを意味するのだ。他者の存在を認め、全体の中で自分の固有性を補足的なものだと呑み込めるまで調べ上げることが必要なのだ。このように固有性と一般性の関係は、火炎と燃料のように切り離せない、哀しき関係なのだ。
俺が歩んできた、二十六年の狂気の裏側に影のようにしてある仮構は、他人を殺しながら、その他人の補助を得てこそ得られるものだった。自分でも知らないうちに、未熟の酒に酔いしれていたんだ。なぜこんな単純なことに気づかなかったのだろうか。他人が存在しているからこそ己の狂気が可能であることに。
……今思えば、周囲の鼻つまみになっても意に介さなかったこの俺が、他人を平等に道具だと見なしていたはずのこの俺が、同じように『他人』のカテゴリーに属するお前の存在を消すのに決心を必要としたときからそれは明らかだった。そう、俺は、かつての鬼畜な俺から変貌をはじめていたんだ。
俺にとっての固有性の一つとは、そうやって他人を完全に道具と見なせる、いわば悪魔的な冷酷だった。どの人間も他人が道具である風を纏っているだけだ。卑近なところでいえば、家族なんかが天秤にかけられると即座に自己犠牲を払ってしまおうとする。それは家族が道具であると割り切れていないからだ。そして、鬼畜の俺が決心しても切れないお前……お前の存在が俺の固有性を消そうとしていた。
ならばお前を殺すのか? いいや、それは叶わない。それを思うと俺の精神が不能に陥るからね。すると俺は認識を改善させるに至ったよ。
他人の渦にからめとられることは、字面だけ見れば情けない。しかし十分に健康の域にあることは、成熟したお前なら承知であろう。同様に俺はこの冷酷が、一般性の名を掲げながらゆらめく重力によって屈折される様を見ながら、これでよかろう、と思った。自分はこの人間社会に属している一要素に過ぎない、という自覚が堕落した幸福を育んでいった。最初はこの堕落を恥じた。ところがやがて堕落は、自分は一人ではない、という認識の向こう側に見た拷問を、抱擁へと癒した。
かくて俺は、自身の成長が、狂気を和らげはじめていることを認識し、そして、お前に対して仲間意識を感じはじめたことを認識した。こんなに人から執拗な監視を受け、長く同じ人間と働いたことは、今までになかった。このナイフにだって愛着なんぞない。刃こぼれを見つければすぐに捨てるタチなのだからね。しかし、お前だけは違った。お前の言う通りに事を運べば、確実に、何の支障もなく仕事を遂行することができた。過去に無鉄砲に犯した傷害事件から何度遡及されて警察の厄介になったことか知れない。しかし、お前の計画を頭に入れた上で仕事に臨めば、俺の衝動は抑えられたし、司法の目を逃れることも安易になった。俺はそんな自分にない論理を持つお前を道具ではなく、また別の概念として捉え、尊敬するようになっていたんだ。そういう自覚のステップは、人生においてはどうも重要なものらしい。お前の存在を頭から葬ろうと躍起になり、それができないと苦しんでいたのに、そう自覚すると一気に肩の荷が下りた心地だったよ。そして、拍車をかけるようにお前への愛着じみたものが培われた。こんな感情は味わったことがない。それを愛情と表現するのは説得力に欠けるのかもしれない。しかし、俺は、これはきっと愛情なのだと思っている。……この自覚は、俺の矜持の心臓を握りつぶす怪物だ。
俺は今日あの筑紫口で、お前についた嘘を告白した。あのときの俺が一体どうして自分の恥をさらしてまでお前に誠意を示そうとしたのか。お前に対して働いた罪悪に心を貫かれたからだ。こうして俺の罪悪への不能も今日消え去った。それでも俺が動じないのは、堕落があるからだ。
人の固有性なんぞはどこにでもある。眉毛の太さだっていい、手のひらの大きさだっていい。だって一般性が存在する以上は、固有性は必ず存在するからね。そしてそれを消すことのできぬものだと呪詛を唱えるから、一人の人生が潤沢を得て瑞々しいものになる。
ここまで話せば、お前も俺が一体どうして六本松駅まで足を運ぼうと思ったのかは、もう分かるはずだ。お前と仲良くなりたかったんだよ。どす黒くて、痛みのある疑惑を抱えながらも、俺はお前と仲良くしたくて今日起床したんだ。どうもまだ衝動を抑えきれない俺は人へ刃を向けそうになることがあった。しかしおそらくそれも今後解消されてゆくはずだ。
今までは他人伝いの間接的な証拠しかなく、確信を持てずにいたが、お前のその腕の注射痕がもう、それを決定づけてしまった。
いいか、俺もお前も患者なんだ。俺は『反社会性パーソナリティ障害』、お前は『薬物依存』という、歴とした病気のね。……となれば、そう。シャーマンの呪術みたいなスピリチュアルな方法ではない、然るべき、確立された方法で病魔は必ず退治できるんだ。孤独に戦う勇気があろうと、助けなしでは孤掌難鳴さ。俺が一緒に模索して治す方法を探してやる。
…………………………。
…………………………。
明が話を区切って息をついた。
明の脳裡が撃つ情念は太陽フレアのように盛り始めていた。彼は灼熱で香山に救済を与えるべく、肉体だけではなく魂ごと発声していた。同時に指先が痙攣しはじめ、(形象のみは香山が薬物を欲するときのように)、彼は自分で気づいていながら敢えてそれを前面へ押し出していた。恐怖ではなく豪胆からなるその震えが果たして、香山を失望させるはずがないと思っていたのだ。―恐怖だけで痙攣を説明するなど、怠惰から発症した精神的吃音を抱えた、言葉が乏しい者のすることだ。
彼の救済は香山の中にあった残酷な通説を否定した。明は香山を信頼していないのでない。実相はそんなものではない。彼は、香山を信頼しており、それを肉体に享受しようと葛藤していたのだ。人を信頼していないのは、外ならぬ香山であった。すると明は途端に光を帯びた一人の青年に様変わりして見えた。明は香山が待ち望んだ賜物、白い光を放っていた。
「そうだった……この世界は虚構なんかじゃあないんだ。その証拠に、そら」
彼がiPhoneを取り出して、メモアプリを開いた。一読するとそこには、香山が信じていた対談が一字一句異なることなく書き記されていた。
「これは、お前から命令されて柴田隼人を殺した際に、役に立つかも知れないと思い、奴のパソコンから抜き取った原稿だ。俺達をモデルに小説を書こうとしたらしいが、所詮は無能な学生だ。素人らしい奇抜な描写で、拙劣極まりない文章で構成された対談だけしかまだ書けちゃいなかった。
おかしいとは思わないか。作者というのであれば、俺達の思考をすべて掌握していなければならない。それなのに、ここに書かれている俺達は裏をかくかのような発言をしているではないか。それに、わざわざ場を設けて登場人物の意見を聞き取る必要がどこにあるというのかね」
啖呵を切る明を前に香山は、まだ認めようとせずに反論した。まだ反駁するための余地があったからだ。それは明から提供されたものだった。
「しかし、しかし、まだ、その原稿に、この世界が現実であることをしめす証拠能力などないではないか。柴田隼人が、こういう、お前が、その原稿を、俺に見せるという原稿を書いたのかもしれない。そうか、彼はきっとまだ生きているんだ」
「馬鹿を言うんじゃない。俺は、しっかりと奴の喉笛を切り裂いたんだ。奴は煌めく赤色の血を流しながら、『どうして、どうして』と言っていた。自分が死ぬ理由を全く理解できていない、よく見るタイプの、面白みのない死にざまだった。奴はただの人間だったんだ。神なんかでは決してなかった!
そして、お前は今この原稿の証拠能力云々の話をしたね。では、仮にお前の主張通り、この世界が虚構で、真実としては現実世界なるものが外界に存在するとしよう。では、その現実世界とやらにいる生命どもは、一体どうやって自分の住む世界が現実だと認識するのか? 万有引力か? それとも自身の五感か? いいや、それらのどれもが『仮想現実内での設定である』と主張されれば証拠能力なんぞ一瞬にして失われるものばかりだ。では彼らは、(そして俺達は)、どうするのか? 無根拠のままに信頼をあずけて、自分の場所に安住する他ないんだ。ほらみたことか、虚構と現実の違いがあるなんて、ただの迷妄ではないのかね。虚構の代表とされる映画にだって、現実の人間はその影響を拭い去ることができない。ならば、映画も現実の一つとしてもいいではないか。人というのは、自分の住む世界は、すべてが現実か、すべてが虚構か、そのどちらかを各々が選択するしかない。そして多くが甘んじて現実であることにしているんだ」
叱責を聞きながら、周旋人は自分に本気で逆らうつもりがかいくれ無かったことを悟るのであった。彼が放つ白い光を浴びながら、安らいだ気持ちで言った。
「ならば……俺はどうすればいい。俺は、こんなにまで穢れた俺を許すことができない。お前のように自分を呪う生き方だってできそうにない。どうにもできなくて足掻いて足掻いて、死にたくなって、モルヒネに手を出したんだよ、俺は」
平安は言葉を進めるに連れて色を変え、悲痛へと転化した。初めて彼の前で薬品名を宣言して、呼応するように筋肉痛で足がこわばった。
「そのときは自分を呪えぬ自分ごと呪詛をかけるまでだよ。『自分を許せない』という自分も許せばよかろうに。俺がお前に罪悪を感じるのはお前への愛情があるからだ。それならばお前は周囲の人間に愛情を振りまいているのではないのかね? お前だけが穢れているのではない。人間は必ず何かに対して愛情を持つんだ。そしてそれを知らないと、愛情は罪悪の根拠となって人間を苦しめる。そうか、気づいたぞ。俺達は相変わらず罪悪の不能に陥ることができるんだ。俺に足りなかったのは、狂気の構造の分析だったのだ。俺が優越を感じる根拠である罪悪への不能の能力は、かくて低次にとどまっていたのだと気づいていなかった。
狂気というのは、文化や風俗から逸脱した者を追放するためにその内部の者が作る烙印だ。誰にでもこれが当てはまるとは思わない。実際、お宮と貫一のようにタッグで仕事をする狂人達も存在する。かくて俺は己の抱える狂気の分析を為したが、手ですくった水の形の不変性を保証できる人間はいない。人の成長というのは、自分の置かれた状況や抱える心理を俯瞰して観察することからはじまる。そしてこの機構は、もちろん俺に対しても適用される。
俺は今まで、生来から自分の中に愛情が備わっていたにもかかわらず、ありもしない凱歌を奏でようとそれを無視して自分の狂気を実現してきた。仮象への期待こそ狂気を象る粘土だったのだ。世界を否定しながら世界を是認し、自分もその中へ投棄された瑣末な存在であることを認めようじゃないか。単に俺は、愛情の働きにくい、エラー的なからくりを持つ人間だっただけなのだ。
寒い冬は終わった。俺の中の稲穂は栄養を蓄え、今か今かと春の真昼を待っている。俺は冬が来ることを知りながら、それでもまた種をまくのだろうね。
……自由、とも口にしたかねお前は。どんな人間にも自由なんぞありはしない。改めて振り返るがね、自由だと? 何にも分かっていないらしいね。あれこそが、本物の仮構だよ。例えば、好きな女を抱いた。これでお前は自由であることを証明できるのかね? 違うさ。単純に遺伝子を残すための本能からなる欲望に束縛された末の行動なのだ。では、激しい物欲に打ち勝って、陳列された商品を盗まずに金を払って買った。これならどうだい? 無念だがこれも違う。これが照らし出すのは法律の算術に踊らさる人の姿だ。どれもこれも、生命が生きるためだったり、他人から押し付けられたりしたプログラムが人を動かしている事象さ。『自由』などはね、勝手な希望を叶えるためにこさえられた、あいまいな狂言だよ」
彼の語りは肉迫で香山の信条を粉砕した。そう、自分の信じるものがすべて崩れ去った。諦観に包まれていると錯覚しながら作った料理をテーブルクロスごと無茶苦茶にひっくり返されたような所感を得た。きっと、ベルリンの壁が崩壊した瞬間にエーリッヒ・ホーネッカーが見たのと同じ景色だった。
明の話を聞いた香山は、明も自分に嘘をついている可能性を考えた。つまり明の、自分はもとより狂人ではなかったという主張が嘘である、ということだ。これは検証のしようがないことだが、彼は実際に狂っていて、それも他人へ共感を覚えず、罪悪を知らぬ人間だったという過去を、現在のこの一点から見直して、彼の内面世界において狂気の構造を作り変えることで改変を図り、自分の成熟を補助しているのかもしれなかった。
……己を殺すものが己の内側で生まれた感情だと知ったならば、その認識は再帰的に己を殺す短剣となるから。
「薬中のお前は、世界の創造主なんぞ嘘っぱちに過ぎないものなのに、それを見たと、大方柴田から送られたこの原稿をハイになりながら読んで錯覚したんだ」
とうとう動揺で視界が揺れ始めた。自我が遊離した香山は、好奇心という、自分を滅亡させかねない内から這い出たものが招いた煩悶の原因を隠蔽し、何でもない学生を殺したことを理由にしたのだった。自分で隠した宝物のありかが自分でも分からなくなってしまっていたように。
明はダッシュボードを開けると、中をまさぐった。出てきた手には注射器があった。彼はまた口を開いた。
「俺が、一緒にお前の薬物依存を治す方法を探すんだ。絶対に、絶対に見捨てやしないからな。お前がいなくなったら、俺は寂しいんだ」
明が肩で息をし、涙をこぼしていた。香山は袖がまくられて露出した注射痕を見つめ、項垂れていた。目の端にはいつも通りムカデやゴキブリどもがうごめいていた。今まで気にも留めなかった虫どもが急に意識の中に入り込んだ瞬間だった。
タクシーが後ろから警笛を鳴らし、二人は姪浜駅を後にした。涙を置き去りにすることは叶わなかった。
***
Kの仕事を終えた香山は、報酬を得て電車の座席に座り、揺られるつり革に目をやった。香山は首を傾け、無気力を露わにしていた。視線は虚ろ、眠いわけではない。
神は許してくれるだろうか?
香山はこれ以上は耐え切ることができなかった。神は人を殺めてまで利得にしがみつく愚者を許すことなどできやしない。地獄の門は開いている。
今まで何度仕事をしてきたのか、いつの日か数えることをやめてしまった。
家に帰ると、棚から取り出したファイネストを水で割って飲んだ。すでに八分目まで無くなっていたものの、一本目が空になり、視界がぐらぐらとし始めた。二本目を開けて水で割った。
椅子から立ち上がり、台所の換気扇を回した。部屋の中で煙草を喫むと匂いがつくので嫌がったが、ベランダに出る気にはなれなかった。このまま部屋を匂いで汚す方が自分にはふさわしいように思えたのだ。
周旋人は胸を焦がす日々を感じた。脳裡に映りこみ、自分を責める存在へ抱いた感情であった。スマートフォンからナナの電話番号を探した。―彼は自分とナナとの絆を
酒が十分に回り、ただでさえ悪心で苦しいのに煙草を吸うので、それは加速していった。気がつくとシンクには吐瀉物があった。半分ほどが埋め尽くされていた。
それでも、何かに追われるように酒を飲み、煙草を喫んだ。
シンクの上の吐瀉物は増えていた。
このままでは部屋が汚れてしまう、と相反する想念にとりつかれた香山は酒瓶と喫煙具を持って、寝間着とサンダルのまま車を走らせた。ただでさえ警察官から話しかけられることも少ないのに、この深夜帯、たまたま酒が入った状態のときに限って逮捕されることなどあり得ない。それに逮捕されるならそっちの方が好都合だ。
瞼が重くて、彼は時折信号機の色が分からなくなったり、ガードレールにぶつかりそうになったりした。それでも彼はやめようとは思わなかった。このまま行かないといけない。彼はこうすることをずっと望んでいたのだ。
こんな肉体なんぞ滅んでしまえばいい。
「交通事故のどこに神秘が?」
香山は叫んだ。
都市高速の下を進み、徳永の交差点を左へ曲がった。彼の他、車を走らすものはほとんど見つからなかった。そのまままっすぐ進んだ。だんだんとコンビニは見えなくなり、商業施設もなくなった。暗い田舎道、彼は記憶のままに車を走らせた。
海に行かねばならない。
海道を過ぎ、店じまいしたカフェの駐車場に車を入れた。
彼は車を降りて、空を見て、そして海を見た。耳には漣が緩やかな音楽を奏で、時折大きな波の声がした。波の声は殺意を持っているように思えた。すると急にしゃがみ込みたくなったのでそうすると、嗚咽した。「怖いよ、俺は怖いよ……」
入水せねばならないと考えて、彼は戦慄していた。それが言葉になることを許されて発されたのだ。
暗がりに目が慣れ、周りの草原の形が鮮明になってきた。夜の海には漁船の発する光がのろのろと動いていた。空には貼り付けられた星の光。煌々とする光がすべて自分の絶命を望んでいるように幻想した。うずくまったまま痙攣した彼は、車の中に置いてあった酒瓶に口をつけて注ぎ込んだ。冷たい風の中、酒は彼の肉体を火照らせた。じわじわと熱を感じだした彼は姿の見えぬ味方を得た気がした。恐怖の涙で頬を濡らしたまま、彼は下を向いてこう言った。
「さあ、行こうか。これが俺の神秘だ。許しはこの海の中に」
笑っていた。羽根が生えたように体が軽かったが、敢えて香山はゆっくりゆっくりと草原を超え、砂浜に降り立った。
サンダルと足の間に砂粒が入った。ずぶっと足がとられ、転倒した。そのとき酒瓶は手から離れ、ポケットから喫煙具が飛び出た。
彼は仰向けのまま煙草に火を灯し、最期の喫煙を楽しもうと立ち上がった。髪の毛から砂粒が降り、服の中に入ったのがどうにも気持ち悪くて体をゆすった。ふっと息を吐くと、白い煙が潮風になびいて消え去った。
香山は再び歩き出した。
『どうにも死なねばならぬ。それも海で』
ずっと考えていたことだったので、今更迷いはない。契機となったのは、見知らぬ女性歌手の飛び降り自殺のニュースだった。そんなことで彼は死ぬきっかけを得たのだ。経験の少ない若者が、自分の将来を知らないくせに否定して自殺を選択するのとはまた違ったものであった。
『こうなることはしょうがない。誰にも止められることではなかったのさ』
恐怖に打ち勝ち、心に暗黒を抱えながら彼は波打ち際にたどり着いた。足元の浜は湿っている。
渚では命が生まれ、死ぬのだ。子供のころにアニメで観たことを思い出した。ちょうどそれを香山は体現する前だった。このまま歩き続ければ、海は彼の足を奪い、呼吸を奪い、命を奪ってくれる。そう思うと、海からいただいた命をそのまま海に返上申し上げるのに等しい、と彼は考えた。これが命のあるべき姿でなければ、一体他に何が可能であろうか。すると、疑問が固持を勇気づけ、いよいよ死ぬべきだと思い、心の暗黒が瓦解してゆく心地がした。
それは生暖かい夜の海風を浴びたような感覚だった。海の向こうでは、大きなパソコンがひそひそと何かを話していた。時折クレープを液晶に映し、それを地中に埋めていた。星は、絶え間なく粉々になって砂の雨を降らした。砂粒一つ一つには目を凝らせばよく読める文字が書いてある。文字を読めば、「ちりぬるお」と書いてあった。『「お」ではなくて、「を」なのに……』と、矛盾が心にちくりちくりと痛んだ。西へカレンダーが七枚ずつ飛んでいく。香山は飛び上がってカレンダーをつかみ、破り捨てようとするが、悉く手が切れてゆく。水銀の血を流して、小銭の涙が頬を濡らしたので、ポケットの煙草をすべて食べた。
高波がやってきて、足を打った。海は足を貫くような冷たさで、香山は考えを一瞬にして反転させた。そこから先は脊髄の所業だった。涙を流しながら走って海から逃げて、悲鳴を上げていた。草原を抜け、車のそばまできて彼は再び嘔吐した。手で口周りを拭い、中に入った。心臓が彼を叱りつけるように拍動していた。大それたことだった。自分には自分を殺せるほどの勇気がないと気づいてしまった。
その日は86の中から、腫れあがった目で朝日を拝んだ。
それでも、死なないことが自分の清福であるはずがない、と信じた。
考えた挙句、中崎に電話をかけることにした。
***
「中崎さんですか?」
「そうだが」
「僕です、香山です」
「ああ! 香山さんでしたか! これはこれは失礼を……はて、いかがなされましたかな」
「実は、会ってお話しがしたいのです。可能でしょうか」
「来週の水曜日の夜なんかいかがでしょう」
「水曜日ですか。予定を見てみますが―僕は大丈夫です」
「でしたら、その日に会いましょう。中州のAビルで落ち合いましょう」
終始重たい声で話す香山を前に、中崎は笑いをこらえきれなかった。水曜日は人が少ない。この曜日しかなかった。中崎は、すぐに別の女に電話を始めた。
「おお、お前今大丈夫や」
「はい」
「水曜日の夜、空けとけ。あと、ちゃんと道具とか持って来いよ」
「……なるほど、分かりました」
「なるほど、って、お前誰に向かって口ききようとや」
「申し訳ないです。かしこまりました」
当日中崎が彼女を連れてAビルの前に行くと、中崎が予想した通り、背広に身を包んだ香山は先に着いて待っていた。時間の厳守などは、臆病者のすることだ。何かにおびえていなければ、時間なんぞ守らない。
香山が先に口を開いた。
「中崎さん。そちらの方は?」
「知り合いですよ、さあ、行きましょうか。この街は飲み屋に困りませんよ」
人をあやつることばかりやってきた中崎は知っていた。香山の疑問は無視しても問題はない、と。彼が中崎に畏怖を抱いていることは、以前の話し方、そして電話での話し方で読み取れた。
入った店は、中崎が事前に貸し切りにしていたバーだった。店内には店主含め、四人しかいない。オレンジ色の照明が、几帳面に並べられた酒瓶に反射していた。
「おやおや、マスター。店カラとは珍しいもんですな」
「最近は中州も取り締まりが厳しくなりまして、うちも閑古鳥が鳴いております」
カウンターに座り、三人はハイボールを呑んだ。そうして、香山が泥酔するまで世間話が続いた。
酒の回った香山は暗い顔を浮かべていた。彼の考えていることは手に取るように分かった。嶋から話を聞いたとき、もしやとは思っていたが、喫茶店への道中、中崎は確信したのだ。
「さて、香山さん。本題に入りましょうか。今日はどんな用件で?」
「はい……実は大変情けないとは自分でも思っているのですが、僕はもうこの仕事を続けるのが難しくなってきまして」
「しかし、私はこう申し上げたように記憶しております。『この業界、一度入ったら出られませんよ』、と」
こうして、中崎は一度突き放す。これも一つの、人の操作におけるコツである。
「ですので私も苦しんでおります。自分で下した決断が、今こうして仇となって自分に降りかかってきています。過去の自分に、砂をかまされたようなものです。はじめて殺人の共犯になったときなど、私は、取り返しのつかないことをしてしまった、と悔やんでも悔やみきれない思いでした。しかし、二度目となると私は、もうその感情を捨て去ろうとしていることに気づきました。私は、そんな自分に絶望しました。もういっそ、自分で手首を切り落とそうと、ナイフを手に取りました。しかし、どうしてもできなかったのです。痛みを怖れていたのです。他人の肉体に危害を加えておきながら、いざ自分にはできないなど、私は、なんと卑怯な人間でしょうか。そして、そんな自分も含め、未来永劫許せる気がしないのです。そうだ! 中崎さん、一思いに僕を殺してや下さいませんか。後生です、お願いします」
中崎は彼の発言のすべてが予想通りであったことに少し驚いたが、それは自分にとって大変に好都合であった。
「お気持ちは分かりますが、せっかく親御さんから授けられた命です。間違ってもそれはいけませんよ。それに、僕にとっても香山さんは大切な友人です、僕が手をかけるなんて、それこそ怖ろしくてできやしない」
中崎は、まっぴらだ、という具合で首を横に振った。実際はそうではないのに。ここで香山が引き下がることは中崎の望むところではない。すると、香山は泣きながら訴えたので、中崎は内心喜んだ。
「しかし、もう耐え切れないのです。僕はあまりに罪を重ねてきました。これ以上生きるなんて、許されることではないのです」
あと一蹴りだった。もう少しで、香山は道から転げ落ちる。
「私にどうこうできる問題ではないので、困りましたなあ。しかし、こうして良心の呵責に苦悩される友人をみすみす放っておいても、いつか本当に先立たれてしまいます。すると、私はこう思うでしょう。あのとき、無理やりにでもこうすればよかった、と」
「こう、とは?」
「実はね、香山さん」
中崎は、同伴していた女の足を軽く蹴った。女はリュックから、あくどい道具を取り出した。
「先日お電話いただいた際に、なんとなく、―これも長年の勘なのでしょうなあ、亀の甲より年の劫というやつです―、こうなるのではないかと思い、私も一晩悩みに悩んで、こうされる他、香山さんが生き続ける術はないのではないか、と思いました」
「それが、どうして注射器になるんです」
「私も、こうするのは嫌なのです。ですが、きっと気に入っていただけますよ」
中崎は香山の襟首をつかんで床へ押し付けた。香山は抵抗しようと暴れるが、力が中崎に及ばないことは体格からも明らかだった。馬乗りになり、中崎は香山の背広の袖をまくった。
「おい、抑えとうけん、はよせろ」
「何をされるんです、やめてください」
店主は、店の奥へ行ったきり出てこない。中崎がそう指示しておいたのだった。
中崎は、香山の左腕にモルヒネが静脈注射されるまで、そうして抑えたままだった。香山は忽ち、なんの表情も持たぬガラス細工の人形になった。
中崎の目に映るのはラッシュが駆け巡る金づるであった。その耳元に顔を寄せて言った。
「こうすればいいんです。僕は最初から分かっていました。あなたがこんな業界で生きていける器ではないこと。それに大丈夫、モルヒネに依存性があるだなんて、嘘八百の厚労省の言うことです。まともに耳を貸す必要なんかないんです。人はいつだってモルヒネからおさらばしようと思えばできるんです、そう、大丈夫ですよ。恋しくなっても、それは依存症じゃあないんです。まあ、彼女にも生活があるので、お金はいただきますがね、きっときっと、楽になります。また、苦しくなれば私に電話してください。なあに、必ず、あなたは電話をしてきます。私はいつだって電話に出ますよ」
搾取の火ぶたが切られた。一人の若者が玩具へと成り下がった顚末であった。
***
明の前には、椅子に縛り付けられた二つの死体があった。横にはペンチが転がって、指先ほどの大きさの白い板のようなものがある。中崎と、薬物売買で生計を立てる女だった。この後海に投げ捨てられる二人は、顔をナイフで切り刻まれて、身元は分からなかった。本来なら、顔に傷をつける真似はしない。依頼主に対象を殺したことを示すことができないからだ。
二人は爪を剥がされると呆気なく利益の防御を緩めた。香山に薬物を売りつけ、必要を感じれば無理やり投与していたことを白状した。激昂した凶手は、衝迫に任せて彼らを殺したのだ。
凶手は冷静になって事態を見直した。彼らが本当のことを言っているかどうかは疑わしい。まだ彼は香山当人に確認を取っていないのだ。
『しかし、俺が今までこのように、一種の義憤に駆られて人を殺したことがあっただろうか。香山が薬物依存になろうが、それは俺が彼と関係を絶てばいいだけの話だった。それができなかった俺は、今こうして彼らを惨殺して、佇んでいるのだ。俺の中に、俺の知らない己がいる』
後日明は姪浜駅で香山から薬物依存になっていることを白状され、自分の残虐が間違っていなかったことを確信したが、そのときもう一つのことを悟った。
『友人を弄んだ二人を許せなかったから殺したのだ』
人のことを平等に見下していた明が、香山に特別な価値を置きはじめた。すなわち、明は社会性を身に着けはじめていたし、今後、自分の病気が快方へ向かうのではないか、とも考えられた。成熟した精神は、社会奉仕を望むこともあり得る。自分はそのとき人を殺すことができなくなるのかもしれない。そのとき、凶手の肩書は捨てられることになる。
……まあ、二人で喫茶店でも営めばいいさ。どうやら利益は中々出ない商いらしいが金には不自由していない。
明は図書館へ赴いて、本を読むことにした。自動ドアが開くと、もうそこは都会の喧騒を殺し始めている。ロビーからぼそぼそと声が聞こえるが、それももう一つの自動ドアをくぐれば全くしなくなる。自分の靴音がきまり悪く響いた。
今日の彼は背広だったが、髪の毛はすべて下ろしてしまっていた。前髪が長いので、目にかかるのが目を傷めた。手で払って足早に向かった。
規則正しく配列された本棚の横には一対になるように机といすが横に設置されている。目的の棚へと進むと、横目に本棚が消えていく。とにかく自分に足りないものは知識だ、と彼は考えた。彼は平生より音楽は好まないし、この空間のもつ静けさは心地よく思えた。窓からまっすぐな光が侵入して、外の天気を知らせた。
机の上には先ほど購入した煙草の箱が置いてある。よどんだ視界が求めたものは、煙草だった。
香山を一人家に残したことが、明の唯一の気がかりだった。
***
明は香山の薬物依存を放っておけないと言って香山についていった。薬が絶たれた香山は、一貴山への道中何度か幻覚を見て、その度に明に助けられて、胸を打たれた。香山の宅に着いても明は涙を止めるのにしばらくの時間を要したし、香山も彼が予想に反して自分への思い入れを深くしていたことを知り、彼に寄り添う気持ちがなかったのは自分自身であったことを思い知った。初めて体験する凶手の涕泣でショックから立ち直れなかった。二人の殺し屋は黙ったまま、小一時間車内にいたままであった。やがて住居者である香山は気まずさから口を切って車を出た。
ベッドによっかかって寝る明を置いて、香山はベランダに煙草を吸いに出た。喫めども、喫めども、モルヒネの渇望は収まらなかった。手指がどうしようもなく震え、吐き気が止まらなかった。末に香山は幻影のKに再会を果たした。Kは横で体を齎せて、玩具を買ってもらって喜ぶ子供のようにに言った。
「ねえ、早く飛び降りなよ」
「やめてくれ」
Kは打って変わって厳しい視線を浴びせた。
「嫌だね。しかも、せっかく明は寝ているし、チャンスは今しかないよ。きっと彼はこれからもあなたの邪魔をするはずだよ。ラッシュを忘れたの? 短い時間でも、あなたは肉体すべてで幸福を覚えていたじゃない。あれだけの幸福感を、モルヒネなしでは得られると思って? ラッシュはモルヒネがないと無謀なのよ」
「俺は、治すんだ」
「あはは、無理だってば、分からない人ね。懲役を終えて牢屋から出た人間のうち何パーセントが再犯しているのか、知ってるわよね」
周知の事実であるが、大震災が起こっても自分だけは死なないと信じるのが人間である。希望を口にした。
「明が止めてくれる」
「他人任せな人。大体、彼だってどれだけあなたのことを本気で考えてくれているか知れたもんじゃないわ。自分のことを思ってあげられるのは、自分だけだよ。そういえば忘れたのかしら? 彼ったら、狂人なのよ。いつか嫌気がさして、あなた殺されるわよ」
「香山」ベランダへ出てきた明が、香山の腕を引っ張った。「正気を保て。何を見ているのかは知らんが、何であろうとそいつは幻覚だ。この世に存在しない、お前の作り出した妄想なんだ。そうさな、俺の幻覚でも見ればいい。知らないものより、こうして友達の俺を幻視することくらい造作もないだろう。さっ、部屋へ戻ろう」
香山は、明に連れられて部屋へ戻った。彼の手は、人らしさを感じさせる不思議な感触があった。
何日も明はそうやって、香山のそばを離れようとしなかった。一カ月が経ち、彼はようやく香山を一人にした。
昼下がり、香山は部屋に一人で寝ていた。まどろみの中、枕に頭を置いた香山は、明に認められたと思った。他人、それも親密な人間からの承認は安堵を与えるものだった。すると、自分の依存症など、もう治ったのかもしれない、と思った。ベッドの下から、しゃがんだKが顔を覗き込んだ。
「あら、治ったの」
「こうしてお前を見ているのなら、治っていないらしいね」
「いいえ、人は誰でも幻覚くらい見るわ」
「じゃ、俺は治ったのかい」
「さあ? 試しに、一発やってみればわかるんじゃないかしら。そうよ、それがいいわ。白黒はっきりさせましょう。罪悪を思い出す前に。残ったモルヒネは、タンスの中よ」
香山は、明から隠していたモルヒネを注射した。どうせ自分は薬物をやめることができなくなるだろう、と思っていたのだ。得たものは、全身を走り回る幸福感だった。香山は、ラッシュを終えるたびにモルヒネを摂取し続けた。所持していたモルヒネは底をついた。
夜が更けるまで、香山はモルヒネが残存していないかと探し続けたが、結局はどこにも見つからなかった。
汗で服は滝を浴びたようになり、香山は悪心と痙攣の中にいた。散らかされた部屋にうずくまり、Kはそれを微笑を浮かべて見ていた。香山は女を罵倒した。
「この、大嘘つきめ」
「心外だわ、私、試してみよう、と言っただけよ」彼女は勘弁して、という風に両手を前にやった。「それに、幻覚に拘束力なんぞありゃしないわ」
「明……」
「また彼に頼るつもり? 無理よ彼には。それより、新しい供給源を得た方が賢明よ。金で解決できるのなら、よろしいのではなくって? あッ、自首もいいかもしれないわ」
「明……」
「いい大人が、気色悪うございますわ。そうね、やっぱり飛び降りましょうか」
香山は観念してベランダへ向かおうと這いつくばった。腹をカーペットがこすり、汗で染みが点々としていた。右手を伸ばし、左手を伸ばし、アルミニウムの冷えたサッシに手をかけた。
足音が聞こえたので、後ろを振り返った。彼を促すKの後ろに、仕事をするときのように背広が着た明が立っていたのだ。彼はKの喉にナイフを突き立てた。ナイフはそのまま横へ滑り、壁にKの血が飛んだ。
「なあ、俺はお前がいなくなると寂しいんだ」
九州大学文藝部・新入生歓迎号作品集 九大文芸部 @kyudai-bungei
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