白い楓・前編 作・柴田隼人
私はペンのノックをいじり始めた。目の前には香山と明という、筆者である私が作り上げた登場人物たちがいる。私は話をはじめた。
「まさかこんな取って付けたような作者と登場人物との対談が用意されるとは思いませんでした」
「そうですね。明?」
香山はパイプ椅子に乗った体を後ろへ反らし、今にも倒れそうな椅子のバランスを器用に取りながら明に顔を向けた。香山のこうした素行に限らず、ブリーチを繰り返された耳にかかるまで長い髪、そしてスーツの上からでも伺える病的な細身の肉体からは、小悪魔を連想させるような印象を受けた。尻尾と槍を何処かに隠していやしないか、とふと妄想してしまう。
「執筆、お疲れ様です」
そう言う明は、前屈みになってこちらを下から見上げている。大きな黒目に太い眉毛。そしてジェルで固められたオールバックの黒髪には、ありあわせで拵えられたようなオンボロ車のイメージが似合った。請負殺人の業務に従する彼の動向を試しにじっと観察しても、特に殺意を感じることは無かったことから、彼が誰彼気に留めず殺人を犯す男とは判断しかねた。
人生のどこかで、失恋かもしれないし、反抗期かもしれないが、きっと想像するに彼らは道徳を行動決定の指針とすることをやめる決意をしたのだろう。踊らされるノクタンビュールに向かい、「木っ端微塵になれ」と叫んだわけだ。
見せかけの労いは、だから響かない。私はまたノックをいじる。
「紹介しておきますがね、外見のモデルは香山さんがジョニー・デップで、明さんが吉川晃司です」
「受け取り側の想像力に働きかけるタイプの作品で、そういった類のことをやすやすと口にするものかね」
「どういういきさつで殺し屋というジャンルの設定にしたのかには興味があるが」
と香山、明が口々に言う。香山の顔には拙劣な文章への蔑み、明にはトピックへの無関心がうかがえた。こういった二体一の対話においては、お互いの集団が一対一の会話が不可能であることが了解されているため、持ち上げられた話題のどちらを採用するかは私の判断でよろしいものだ。仮にその決断が批判に合えば、すぐに訂正する他ないし、それで充分かつ適切だ。
「幼少から殺し屋のキャラクターへの趣向には強烈なものがありまして。それで色々と知識が増えていったもので、まあ意図的に増やしたとはいえるのだが、そちら方面の知識を、ここは張り切って具現化しようかと思い立ったわけで」
香山が返答した。
「てことはあれですか。僕たちは柴田さんの理想の殺し屋って訳ですか」
「まあそんな所でしょうな。だから、なるだけ死んで欲しくない、という英雄視の反面で、やはり死んでもらわねば困るとも思うのであるわけで」
すると二人は揃って訝し気な表情を浮かべた。自分も敢えて気取った話し方をしたし、おそらく腑に落ちぬのはその口調が板についた後者の主張であろう。
「つまるところ、君たちには私の作り出した世界で好き勝手やらせたわけだがその大部分はこの社会において法律で厳しく罰せられるところにある。そんな人間を易々と生き延びさせては私の体裁が良くないし」
論理をまとめるべく、一息入れた。使い慣れぬ「私」という呼称が話の邪魔をしているらしい。「僕」に変えることにして再開した。
「僕は決して殺人が長い歴史の中での検証もなしに肯定される世の中になるべきでないと考えているのです」
彼らは私の創造した存在であった。つまり、殺人が一体どれほどの非道徳を抱える概念であるのかを指摘するということは、彼らにとっては以下のような換言が可能であることと等しい。そもそも請負殺人をさせるがために創られた自身の存在を、その根底から丸ごと否定された。彼らから、悲し気な表情が滲み始めた。
そしてどうやらここにきて私の話し方は完全にしっくりきたらしい。ますます饒舌になってゆく。そして再びペンをノックしてから言った。
「もちろん、僕自身の願望と、それにまつわる矛盾と、それらをさらに上の次元から眺めた考察の結晶が君たち二人であって、死ねと思ってはいない。ただ、死んだ方が物語や出版にとって都合が良いと思うだけで、またいつか変わるやもしれないのだよ」
二つの悲しい顔は、親に諭される子どもの表情で上塗りされた。私が彼らの生みの親であるのでこの表現は極めて正しい。
「なるほどね」と、明が安堵とともに口からそう出した。
いつの間にか、香山はバランスよく椅子に座っていた。このような討論のスタイルをとると、香山は明に比べ数段頭の回転が速くなるが、それは当然の事柄である。この由を問えば、そうでなければ請負殺人の相場などはかり知らぬ堅気から、自ら望むだけの報酬を受け取り、保身のために口封じをすることはできぬためである。香山は考えをまとめて、私を嘲笑するように言った。
「別に怒らせたくて言うつもりはないが、その主張はどうせ大したことなんてない、誰かの受け売りに過ぎないのだろう?」
「インスパイアといういうのは、本当にいい言葉だとしみじみ実感する次第だよ」
これを受けた香山は鼻で笑った。今、私は彼の前で思いきり尻尾を突き出したからだ。彼は再び言った。
「認めるわけだ。まあそれでいい」
「そう。みんな、それが引用であるか否かの宣言の必要性は、その認知度によって使い分けているのさ」と私が開き直りをおおっぴらにすると、香山はまだ攻めてきた。
「その通りだよ。それは見逃さない」
話の流れにしっかりとついてきているらしい明は、香山に追随して私に追い打ちをかけてきた。
「この文章すべてが、何かのパッチワークになっているわけだな」
私は無視して話題を転換させた。
「ところで、君たちは殺人についてどう思っているのかを教えてくれるかね」
香山が返す。
「請負、は頭につかないわけだ」
やはり鋭い、香山は私の質問の補完すらこなしてしまう。明は話にはついてきているらしく、目をそらして考え始めた。
「人というのは、例えば上司なんかと電話するときなど顕著であるのだが、何か別のことをしながらであれば、従事に際して緊張を伴うような作業をたやすく行うことが出来るようになるらしい。そら、このボールペンを使いたまえよ」
……私、香山は柴田隼人からボールペンを受け取った。じっと考えてみる。
私にとって、殺人を最も近距離から分析する瞬間とは、依頼受注の瞬間である。そして殺人の依頼を受注する際の課題としては、その人間が自分の裏をかき、私に何か危害を加える可能性がないかどうかを吟味することが最重要である。そして、無事に行ったときに、果たしてその依頼を明と共有するべきなのかどうかを考えている。もちろんである。それは私が私として利益を享受するためにも、必ず考えなければならないのだ。明が同席するならまだしも、同席しないのであればなおさらのことである。
あとは、多少は、電車内でぶつかる人に申し訳ない、と思うのと同じくらいには明のことを心配はしている。
「うちの相方が無事かどうかは心配なところだ。彼がいなければこちらも仕事にならんのでね」
嘘だ。他にも契約を結んでいる殺し屋は山ほどいる。
「では君の気持ちもうかがってみたいね」
平たい音調で彼が言った。私はそれに合わせて自然とペンを明に手渡した。
……私は香山からペンを受け取った。先ほどから、香山が考えている間もずっと考えるための時間はあった。ところがだ。別に、
「何も、仕事だから」
そしてペンを作者へ返した。
……私は明から自分のペンを取り戻した。
「でしたら、これで僕があなた方から聞くことはもう何もありません」
これは少し、突き放したような表現であるのだが、特にもう気に留める必要もない。
「そちらのドアから出て行っていただければ大丈夫ですよ」
「どこへつながっているのか、このドアは」
戸惑う香山を置き去りにして、明がパイプ椅子から立ち上がる。遅れて、香山が歩き出す。
***
一貴山の深閑な住宅街に馴染むように汚れた、三階建てのアパートがある。同じように錆びついた階段を一つ登ったところから数えて三番目の表札には「香山」と掲げてある。そこの住人は請負殺人の周旋人であった。香山は宅の冷めた床で寝ていたところを正気に返ったが、今まで自分が一体何をしていたのやら、直近の記憶がなかった。
その周旋人が持つ最後の記憶は、作者との対談であった。そうかきっと作者が自分の記憶を消したのだろう、と考えた。ドアから出て……気がつくと周旋人は自宅にいたのだ。こんな芸当が人に扱えるはずがない。
周旋人はその対談を終えた後、この世界に自分が囚われている、ただのマリオネットであることを明確に認識せざるを得なかった。この世界を作った神なんぞいるわけがないと考えて彼は今までの人生を過ごしており、この仕事を選んだのも彼の自由権を根拠とした選択であると考えていた。しかしその悲しい妄想は、筆者との対面により簡単に粉砕されてしまった。香山は、自分が何の自由もない、神の意志で動かされるお人形だったことを知った。万事が神の頭の中で考えられ、気まぐれによって書き換えられる世界に香山は生きている。その事実は、とんでもない絶望をもって彼を打ちひしがらしめた。そして、自分が対談でわざとらしく振舞った強気な態度を顧みては、それが今感じている苦痛の諸悪の一つだと思った。
真理を悟り、それから何の意欲も湧かぬ日々を送り、彼はパソコンで仕事のメールをチェックすることもやめてしまった。
彼の家には、ベランダがある(ああ、この設定ですら筆者の思うがままに作られている、彼は私利私欲を尽くしている……神の存在を知った俺はもう、己の意思というものを全く否定しているのだ! そしてこの否定すらも、俺の意思ではない!)。そこに設置された室外機の上に黒いガラス製の灰皿を置いて、香山はよく煙草を吸っていた。一本吸い終わり、彼はサッシを開けて部屋の中に戻ろうとした。冬の冷たい風を受けて、スウェット程度では耐えられるはずがなかったが、彼は煙草が恋しくなって、もう一本目に手を伸ばした。徐々に手指がかじかみ、痛みを訴えはじめていた。何も音楽をきかずに一人、彼は冬のベランダにいる。
煙草は燃え尽きた。また一本を喫みだした。銘柄はピース、キングサイズで、タール量は六ミリ。香山が自らの経験をもとに考えても、短時間に吸って吐き気を催さないのは、四本が関の山であるのに、結局彼はこの日、十二本の煙草を費やしてから部屋に戻り、案の定悪心に襲われて寝床で一時間ほど過ごした。何本をチェーンしたのかと、自身の選択権が生来より与えられておらず、永遠に取り返すことができぬという事実を変えられるかどうかとは、提灯と釣鐘の如く無関係であるために、彼の鬱屈とした気持ちは消えることはなかった。
暗鬱を脳裡に浮かべながら、周旋人は考え始めた。この世界の真理など、単純明快である。万物は作者の思うつぼ、というだけのこと。活力を感じないのは、すべて作者が自分にそうさせた方が都合がよいと考えているからなのだ。
絶対的な力を認めると、やけくそになりながら布団にもぐった。訥々と彼は、何かこの真理を変貌させる手段があるのではないかと模索をするようになった。
『俺は、彼に手出しができぬのだ。……しかし、本当に俺のあらゆる行為は無意味なのか?』
果たして周旋人はほのかな光を見出していた。彼は作者の住む場所を知っていた。そこで対談が催されたからだ。彼の身分は大学生であった。平均的な貯蓄額を考えれば、そんな彼にとって住居の移動はそう簡単に下せる決定ではない。第一、先日訪れた彼の部屋は散らかっており、引っ越しの気配などはかいくれ無かった。あの糸島のマンションを出ていないはずだ。かくて芽生えた懐疑がだんだんと言葉になっていった。それが、『この世界の神を殺せば、自由を手に入れられるのではないか?』というものであった。しとどに彼の独り問答は続いた、以下のように。
『柴田隼人を殺せば、俺の自由は実現されるのか? 俺が、柴田隼人の創作ノートから生まれ、筆者にとって都合がいいように動かされていることは、対談で知らされることになった真理だ。しかしその作者が死ねば、同時にその意思は消え、そこを起点として俺は神の予定抜きで生きることになるのだ。個人の認識のみがこの世界の真理として君臨するものになる。鎖を引きちぎった、野生の動物がそこに生まれるのだ』
活路も束の間、この企みが一つの根本的な欠点を抱えていることを見逃さなかった。それはこの世界の終結である。この物語を書く人間であるという柴田隼人が死ねば、他に誰が筆を執るのであろうか? 彼が死んだ途端、この世界が消え失せるというのを、否み切れぬ未来として憂慮していた。これを仮定すれば、自由どころの騒ぎではないが、このまま真理の緊縛を耐えるぐらいなら、いっそ死んだ方が賢明なように思われた周旋人は、依然として計画を取りやめる気がおきなかった。
言語化された観念が彼に活力を与えたことはいうまでもない。周旋人は常の仕事でそうするように、作者の行動パターンを調べて、殺害を実行させる明に仕事の打ち合わせをする旨を電話で伝えた。
周旋人はその凶手を中洲川端にあるビルの前で待った。約束した時間の通りに明が現れ、周囲を警戒した彼は一旦凶手を無視して中州大通りを国体通りへ向かって進んだ。ちらと後ろを見れば、周旋人の意図を察した凶手はついてきていた。信号待ちになって人が増えだしてからようやく、周旋人は口を開いたのだ。彼らはいつもこのようにして簡易な会議を行なっていた。
「今回は、殺害だ」
「誰を」
凶手は目を合わさずに質問した。周旋人は答えた。
「柴田隼人」
これを受けて明は、一瞬噴き出したかと思うと、へそで茶を沸かした。
「お前、注射のしすぎで気でも狂ったかい」
「断じてそうではない。熟考の末だからね」
「しかし、俺達は最近彼と会ったばかりだ。彼を殺すことはリスクでしかないと思うよ」
凶手は作者と会ったことを意に介していないように見えた。周旋人は、むきになって説明をしようとして、やめた。理屈の分からぬものに説こうとしても時間の無駄でしかないと感じ、凶手を別の面から説得するために動き出した。
「明、ボーナスはしっかりと払う。二倍でどうだろう」
明は、香山の提案を聞いて少し黙り、長く考えてから答えた。
「三倍ならしよう」
周旋人は、世界を捻じ曲げる方法へ一歩迫ったことを確信し、高揚した。
『神よ、柴田よ、見ているか? 俺は、お前の命を奪うために動きはじめたのだ。お前を殺して、俺は完全な自由を実現するのだ。しかし、完全なる自由に代償はないのであろうか?』
筆者の殺害の中に死兆星を再び見つけたのはそのときだった。周旋人はここにきて、また筆者の死から演繹される世界の死の予感を濃くした。そして、ちょうど戦争に行く前の兵士が子孫を残そうと精を強めるのに自分を重ねた。ばかばかしいおまじないのようなものであると自覚しながらも、その結論を明に伝えた。
「女でも買いに行かないかね」
「どうした、お前がそんなことを言うとは」
明がネガティブな反応を示したことは、香山にとっては返す返すも無念であった。
「別に……ただ俺は今、妙に色にきちがいなんだ……行くか?」
「くだらない、一人で行ってこい」
明は香山を置いて南新地を抜け、キャナルシティへと歩いて行った。
明が柴田隼人を殺した、と報告をしてきたとき、香山は思わずベランダから外を見た。世界は、昨日と同じようにそこに存在していた! あんな予感はたわ言だったことを確信した。彼は生きたのだ。
ベランダに出ると、周旋人は風が揺らす木々の音を聞きながら喫煙を楽しんだ。その後に待ち受ける逃走劇やトラジディなどを知らなかったからこそ、彼はそれだけ自由を喜べたのだ。
***
高等学校に身を置いていたころの周旋人に向かって、彼のもとを去る決断を言い渡した女の名前はナナであった。ナナはその決断を、敢えて対面を避けて文字だけでそれを成し遂げてみせた。しかしこの過去もこれでは終わらぬために巷でよく聞く話に成り下がらなかった。
ナナは、香山との交際を始めてすぐのころ、暴漢に襲われて激しい人間不信に陥った。当然人間不信というのは、自分の肉体への干渉を受け入れるはずの男性から乱暴されたことにより育まれた憎しみに似たような行動なので、その牙は、暴漢と同じく男性である香山にも向けられた。
使命を思って慰めようと電話をかけた香山に女は告げたのだ。
「今は話したくない、男の人が怖いの」
たったこれだけの音声データが香山の心を残酷に抉り取った。自分の何がナナにそう言わせしめたのか、いやその前に一体自分に非はあるのか、思い悩んで彼は、ナナに狂言ばかり吐きつけるようになった。振り返れば、女へ、この心のくぼみにはさまった本心をありのまま見せつけることが適切でないように思われたからだったのだろう。こうして愛を打ち明けて交際を始め、それでも正直な傷を香山から隠さんとするその行動が表しているものは、ナナの抱く彼への不信だった。自問の末に見出されたその解答は悔恨の情を香山にひとまず植え付けた。自分がどんと構えることのできぬ男だった。そしてそんな男に付き合わせてしまった。もっと、何事にも動じることのない石の姿勢が必要だと感じた。そうすればナナの気を引き止めておける、と甘ったれた希望を持っていたのだ。
数日ナナからの連絡が途絶え、一週間後に女が別離を提案した。
「何で」
「何で、って?」
「俺がいけなかったんだろう、信頼してもらえるように頑張るから」
香山にはこういった掛け合いがありふれたものだと直感した。この問答を開始した時点で、いつかこの別れ話の顛末を誰かに容易に語ることができるようになるであろうと想像した。
僅かに沈黙したナナは答えた。
「もう私の答えは決まったんだよ。あなたは彼氏なのに、苦痛の中で叫ぶ私を前に口をつくのは、絵空事な冗談ばかり。正直傷ついたし、そうね、さすがに怒ったよ。きりなしに一人ぼっち。私は寂しかったわ。女が孤独の酩酊にまみれて歩く夜道の暗黒を知ってる? 暗闇の中は寂しかったわ。私はもうあなたに頼る気なんてさらさらないのですから」
言葉の最後を飾った慇懃な語尾が、逆説的に我が身を疎かにしているようで、その上、香山は先述のような、関係の行末を鑑みてすっかり憔悴したため、これ以上話を続けようとは思わなかった。彼は明確に拒絶の意を示されて、それでも一人の女に縋りつこうとする自分の体裁を恥じたのではない。恥という他人の存在を強く意識するような結論ではなく、あくまで自分が主格となって生じた内発的な結論である。
ナナの別れの申し立てを時折振り返って、つぶさに単語を見ていったとき、そのどこにも「愛していない」とは無いことに気づいた。香山は喜んだものの、やがて血の通わぬ発見だと思い直して打ちひしがれてしまった。
かくて、香山はそれでもナナをぞっとするほどの長い年月の間、頭の隅に置いたままだった。未練じみた精神が、彼がこの女の名前を忘れることのできぬ所以であった。自分の置かれた状況、即ち、ただひたすらに離れたがるナナと、それを引き留めないで一緒にいようと懇願する姿を隠匿したまま強がりを振舞う自分、この対立を俯瞰して見つけても、それは一切のカタルシスを彼に与えず、漠然なる不安を植え付けるばかりだった。
先ほど「ひとまず」と記したのも関係している。自問は痛感を帯びて拷問へと転化した。ナナが香山を信頼しなかったのが、自分はそもそも信頼の置けぬ男だったからなのではないかという、人が答えるに能わぬ問題である。その解決の不可能性の原因は、解答を握るのが自分でもなく、彼女でもない点にあった。ただでさえ自分のことについて知ろうとしても、知ることができぬのである。それは、歴史上の哲学者が証明済みだ。そのことを認識しなかった当時の彼は、とにかく自分の頼りなさを追い求めては自責を繰り返したのだった。幾度自分を責め立てても、自分はずっと、自分に向かって、ナナに向かって、ごめん、ごめん、と泣きわめくばかりだった。
***
「大学の卒業証書は運転免許のようなものだよ」
という、姉の言葉が気になった香山は、ぞんざいに大学の文学部へ進むことにした。気は進まなかった。どうせ人生は楽ではない。自分が経験したことのないような苦難があることは何となく予想がつく。それが、人口の半分近くが通過するライフステージを潜り抜けた程度で軽減されることはあり得ないのだ。そうやって反抗しつつも、免許証という言葉の軽々しさが妙にしっくりきた。なのでとにかく自分の低い学力に見合うところを必死になって見つけて、そこを受験した。福岡にある私立大学だった。
「東大とか、有名大学以外のことを企業はほとんど知らないからね」
とも、彼女は付け足した。名を高くする大学の求める成績のレベルは非常に高く、自分の手の届くところではないので、都合がよかった。
香山の何を言われようと穿った見方をする嫌いは、教鞭をとる人間の鼓舞などに空虚ゆえのうさん臭さを感じさせた。それでも姉のそういった発言にはどこにも抵抗なく受け止めることができたあたり、姉の言うことがもっともらしく聞こえたり、姉への信頼を持っていたのだとうかがえる。幸いにも同調する彼を後押しするだけの経済支援を申し出た両親を背に、とにかく大学へ進んで様子を見てやろう、と思った。
大学へ入るとすぐにバイトを始めた。父親が送った仕送りで何の苦労もなく生活が望めたので、時給にこだわらず面白そうな職種ばかりを選んだ。飲食店は当然やったし、危ない職にも手を出した。色々な危険も体験することになったが、若いからにはそれも重要な経験であると前向きに捉えて、親心は無視することにしていた。目論見通り、転々とした勤務先で得れるものはたくさんあったから、後悔はしていない。
大学を出た香山は定職に就かなかった。代わりに、中洲川端の南新地にある風俗店にてバイトをはじめた。常に石鹸と煙草の匂いが店内を占めていた。仕事をするのであれば常連を得るために対象の深い部分にまで入り込むのがふさわしい。体裁を求め、彼は休みの日でも客と会うことがあった。
「こんなシャンパンが五万とは、本当にあほらしい世の中だよな、君」
嶋と名乗る男が、メニューを見ながら風俗店のボーイをしていたころの香山に問いかけた。二人は、中洲川端のビルの一室を借りたキャバクラにいた。キャストがそのシャンパンを取るために席を外している間のことだ。彼は、香山の勤める風俗店の常連であった。
「他のところはどうなっているのか知らないが。実にあほらしい。ところで、俺は建設関係の仕事をしている、と教えたことはあったかい」
アルコールの回った客が他人の目を忘れるようにして始める、こういった独白じみたものが香山は好きであった。以前にもそのことは聞いていたのだが、首を振った。
「そうかい。では明かすがね、実はそうなんだ。うちの会社はね、客に物件の値段を提示して、それを払わせるのだがね、その値段の内訳なんか、まるで嘘っぱちだ。レトリックに酔うのなら、嘘で塗り固められた請求書を送りつける、とこうくるわけだ。コンビニの握り飯と同じさ。実際、あの米の塊がどんな内訳になっているのか、つまり、商品の原価率なんぞは誰も考えようとは思わないんだ。 俺達の商品の原価率なんかはな、四割にも満たない。でも残された六割は利益だけじゃない。では、一体その虚ろな金はどこに行くと思うかね」
香山は、嶋の機嫌をとろうと間抜けの様をまとった。
「さあ、考えたこともないですなあ。嶋さん個人の給料ですか」
「それもあるがね、君、暴力団だよ、物騒だろう? 実に物騒だよ。俺達は、その虚ろな金を、暴力団に払っているんだ。いつのころからかは分からんがね、そういうことになっているのだよ。どこの建設会社だってそうだ。そういうことになっている、というだけでそうなっている。俺は、金払いのいい会社だし、そんな危ないことを目にするわけではないから、辞職しようなんてことはこれっぽちも考えちゃいないのさ」
彼は一見、温厚な人間に思え、そんな一面があるとは夢にも思っていなかった。彼の他にも、そういった類の人間は枚挙にいとまがなかったが、こんな男ですらその一人だとは思わなかったのだ。予想もしていなかった返答に、香山は善悪のない興味を惹かれて話に聞き入った。人間が好奇心をもって歴史を歩んだからこそ、今の文明があることを忘れてはならない、という彼の信条がそれに味方していた。
「俺も含めて、この世の中は実に吐き気のするほど穢れた人間どもであふれていると思っている。みんな、馬鹿から金を合法な形で盗み取っているんだ。信頼の壁に向かって知恵の糞便を投げつけて、その壁を見ては清々しい達成感を覚える。そして『さあ、明日も頑張ろう』と言うんだ。それが、俺達が呼ぶ労働というやつの黒幕さ。俺は今日、気まぐれでせめてもの罪滅ぼしと思って、馬鹿どもから奪った金を、ここで働き、人身で商いをしている馬鹿どもに返してやるんだよ」
嶋は侮蔑の滲みかかったまなざしで店内を見渡した。彼の内部に存在する虚構の色恋でにぎわうこの店内に座る二人は、互いに虚構の関心を装っていた。
無関心になるのは、狭い空間に密集された人間の発揮する性、人間ならせうがなひのだ。
そのとき香山は嶋、風俗店の経営難から、物騒なことを商いにしようかと考えていることを告げた。その考えは貧困に追いやられ、無関心の境地にたどり着いた人間の結論であるかのようであった。彼は、知り合いの暴力団員を香山に紹介した。その暴力団員は、中崎滉介
なかざきこうすけ
という、香山と歳の変わらぬ、服装の柄が悪い男だったが、どこか香山よりもはるかに分厚い経験を隠し持っているような男だった。
「嶋さんから聞きましたよ」
香山と中崎は、タクシーの中、喫茶店へ向かう途中であった。彼は話を続けた。
「それにしても、そろそろ暑いでしょう、その服装では」
「そうですね、福岡もすっかり暑くなってきました」
香山は季節外れの長袖の背広を着ていたので、それを気遣っての発言であった。春も終わりに差し掛かり、ちらほらと薄着の人間は街に現れはじめていた。実際香山は汗ばんでいた。香山は中崎に成り行きを説明した。
「そういうことでしたらこちらから、お仕事を回しますよ。こちらも、警察の世話になることが減って助かるってもんです」
香山は謝辞を述べた。中崎の手首のブレスレットががちゃがちゃと音を立てる。左手にはロレックスを着けていて、間隔をおきながら誇示するように時間を確認する素振を見せた。
「香山さん、一つ警告じみた、説教じみたことを言わせていただきますがね、この業界、一度入ったら戻れませんよ」
香山は、中崎の警告を聞きながらも、選択を変えようなどとは思わなかった。危ない稼業とは承知しての選択であったし、今更大上段に構えられたところで、何の仄聞もなければその想像を膨らますほどの警戒心は備わっていなかったのだ。香山は生返事をした。
「そういうものですか。ところで可能なら、そのあたりのことをしてくれる人間を探しているのですが、心当たりはないですか」
「ちょうど、昨日組に入ったばかりの男がいましてね。呼びましょうか」
「しかし、彼にも組に入った目的だとかがあるのでしょう。すぐに移しては彼も反発するのでは」
「いいえ、あいつは人の目をしていない。かといって、すすんで悪意を発する奴でもないのです。気まぐれでこの世界に入ってきたみたいな、気に食わん輩です。時として、そんな奴がふらふらとこの世界に入って来るのですよ。集団生活なんぞ屁とも思っていない奴なんでしょう。明、と名乗っていますがそんなのどうせ本名でもないんでしょうな」
去来する車であふれる道路をタクシーは駆けて、博多駅の近くに位置する喫茶店に着いた。運転手の女性が、料金を告げた。香山はここから、何が起こるのかがおおよそ分かっていた。ほとんどの関係に置かれた二人は、料金を払う役割を到着までに決めず、到着したとたんに、ここは自分が、と言い始めるのだ。実際、確実に中崎は財布を取り出すつもりであった。
中崎の財布は、灰色の長いルイ・ヴィトンであった。ロレックスにルイ・ヴィトン。彼の靴を外観だけでブランドをあてることはできない。そこで、おそらく財布同等の名声を持つものであると暫定するのは、過誤である。それは彼の背広についても同様だった。背広やネクタイ、靴といった、服飾を見抜く目が洗練されている者でなければ判別のできない範疇にあるものまで高貴な会社のものにする必要が、人にはないのだ。人は、いざショップの中で気に入った背広を見つけても、値段を見た時にその値段の必然性がないと考えては、安価なものに鞍替えする傾きがある。一体、ブルックス・ブラザーズを選択しておきながら、クロムハーツのブレスレットを装着する人間などいるはずがないのだ。香山は、彼が背広や靴へのこだわりが決定的に欠けている男の一人だと推測していた。香山がそういうがさつな点を鑑みては、彼が堅気から外れた人間だと考えた。彼の身に着けるものがコピー商品に見えてしようがなかったのは、そのせいだった。しかし香山は自身を俯瞰して同じ結論が見出した。香山はコピー商品を多量に所持していた。
香山はグッチの長財布を取り出して一万円札を抜き取った。無論、彼はこの紙幣を出すことに抵抗があった。それでも彼は支払いをしようとするふりをした。
「中崎さん、今日は僕がお世話になるので」
「これぐらいなんでもありませんよ。そのお金は、僕らの協力のために他のところでお使いください」
香山が下手に出たところを中崎の発言が包み込んだ。香山はもとより余裕のある生活をしていなかったので、支出への抵抗が中崎より強かった。しかし、中崎にその余裕があると考えたのは、香山の傲慢さ故だった。中崎が取り持つことになり、先に降車した。彼が降りたとき、香山は自分が気づかずに緊張していたことに気づかされた。彼が暴力団員であることを認識していた香山は、彼の逆鱗に触れるまいと慎重になっていたのだ。改めて見ると、彼は背広でわかりにくかったが、彼の肩幅はその屈強さを表し、大きな黒目と刈り込んだ髪が、偏見だと思いながらも怖ろしくてならなかった。やせ細った香山の体では勝ち目がない。先ほどのやり取りで、自分が仮に無理やり料金を支払っていたら、と考え、結論を出さずに彼は喫茶店へ急いだ。
香山は中崎のためにドアを開けた。中崎は一瞥もくれずに電話をしながら入店し、即座に指を三本立て、煙草を吸うしぐさをしてみせた。店員が席へ案内するように手を上げ、歩いていくので、二人はついていった。香山は何人が席に座るのか、完全に頭から抜け落ちていた。自分が緊張していることをまじまじと思い知って、少し動揺していた。
「お前、今から博多駅の近くのコメダに来れるか。今すぐ。タクシー代はだそう。おう、じゃあ。待たせるなよ」
彼は明という男を早口でまくしたてた。電話を切り、香山に向き直った。香山は慌ててメニューを開き、彼だけが読めるよう自分とは逆向きにした。中崎が片手でメニューの向きを、お互いが読めるようにし、すぐに注文を決めてカフェオレを頼んだ。香山は追従するようにカフェオレを注文した。
「この年になっても、甘いものが好きでして」
中崎は笑ってそう香山に言うのだった。中崎が煙草に火をつけ、自分も続こうかと思ったが、気が引けてやめておいた。
「香山さん、煙草は吸わないんですか。僕はてっきり夜の仕事の方はみんな吸うのかと。明は煙草を嫌がります。あいつの心象を気にされるのなら、遠慮せず今のうちにどうぞ」
そう言われて香山は煙草を吸うことにした。カフェオレが届いても、彼らはそのまま座り、ぎこちない会話をするしかなかった。いいや、香山自身は二人ともぎこちなく振舞っているように感じたが、実際には香山ばかりがぎこちない話し方で、中崎は徹頭徹尾どすんと構えた話し方だった。その威圧に香山はどこか頼りがいのある印象を受けた。
中崎は世間話ついでに質問した。
「どうして、風俗店員から殺し屋の周旋人になろうと思ったんですか」
それは、香山が自分でも考えていたことだった。今の店が廃業しようが、他の店に移ることも可能だったからだ。
「意外と、給料が悪くて。法律を破ることは慣れたので、もういっそ、と」
彼は答えなど持ち合わせていなかったが、それらしい答えを口にした。それを受けた中崎も、どこか納得しきっていない様子だったのはわかった。彼は、無視して明の話をはじめた。
「明は、僕が面倒を見ることになったのですが、先ほども言ったでしょう、気に食わん輩だと。肌でわかる、というと胡散臭いでしょうが、でも話していると、急に饒舌になって嘘をでっちあげたりする男ですよあいつは。あいつと働くのなら、覚えておいた方がいいですよ」
入店して、二十分も経たずに明が到着し、挨拶をした。電話を受けた時にたまたま近くにいたのだという。彼は、背広にオールバックの髪型で、高校生のような青臭さがあった。肉体と服飾の不釣り合いが、どうにも奇妙な印象を与えた。香山は中崎に言われたことを思い出して煙草を消火したが、中崎は意に介せずに煙草を吸い続けた。明は中崎からタクシー代を受け取って彼の横に座り、中崎が話し始めた。
「こちらの方は、香山さん。殺し屋を探しているそうだ」
明は、歓喜を顔に浮かべてすぐに快活にしゃべった。
「僕、結構好きですよ、そういう仕事」
香山は彼の返答に心底驚き、恐怖した。人を傷つけ、それが好きという人間を目の前にして、戦慄していたのだ。きっと彼にペンチを与えたなら、彼は喜んで人を捕まえて抜歯をするタイプだ。急に香山は自分の歯の所在が心配になった。
「なら、話が早い。お前、この人の下で働いてみたらどうだ。突き放すようで悪いが、昨日話した感じだと、任侠の血がお前には流れているようには思えなかった。むしろ、こういうのの方が向いているだろう」
藪から棒に中崎が、破門を意味する提案をしたが、明は歓喜を取り下げる気配がなかった。え、いいんですか、僕、そんなの許されるんですか、などと中崎に言い、彼は了承した。すると、中崎が退店しようとテーブルに一万円札を置いて立ち上がった。そして、世話人さながらの台詞を口にして去った。
「では僕は邪魔でしょうし、あとはお二人に任せますよ。香山さん、何かあったらすぐに電話してください。明、お前とはこれでお別れだが、この人に迷惑をかけるなよ。そんなことがあれば、俺も黙ってはいないからな」
香山はだんだんと露わになる、中崎の語意の過激さを感じた。金の受け取りを辞退しようかと思ったが、同じことの繰り返しだと思い、香山は礼を告げ、彼を見送った。香山は中崎の金に全く辞退の態度を示さない明を見逃してはいなかった。
中崎が去り、雰囲気も軽くなったように香山は感じた。
「香山さんは、いくつ」
「二十六になったが、そちらさんは」
香山は甘ったるいカフェオレを飲み、唾液すら甘くなっているのを感じていた。本来はこのような飲み物は好まない。明はまだ何も注文していなかった。
「じゃあ、同い年か」
明が少し語調を強めた。香山は中崎と話したときと同じ威圧を覚えた。
「そうか」
今度は、香山は特段気に留めなかった。他人に暴力をふるう人種などそんなものだろうと思った。そして、そこまでかしこまった態度は、もしかしたら自分が望むところではないのかもしれない、とさえも考えた。香山は、明と同じ態度で接することにした。
「天神の本屋にでも行ってみないか」
香山はそう提案した。特に見たい本は無かったが、彼のひととなりを知る機会だと思ったからだ。しかし、今後彼に頼む仕事の内容を考えると、慎重になれば彼との接触は可能な限り避けた方がいいのは確かであった。それを上回る香山の生来の好奇心の強さがあったのだ。それに、仕事仲間には、互いにある程度の信頼がなければならない。このように非合法な場合は、どちらかが口を割ったりしないようにしなければならず、大変に重要だ。彼に自分の信頼を示し、少し信頼を与えるつもりでもあった。これは、彼に道徳の精神があれば成り立つ話である。この時の香山は、明との差異を軽く見積もっていた。
店を出た二人は、天神まで歩くことにした。再び日光を浴びた香山は汗をかき、乾き始めたシャツを湿らせていった。
歩く途中、昼の陽が照らす中洲川端の風俗街を通り過ぎた。そのとき、香山はこの場所に自分が抱く暗黒が映されているのを見た。彼には諸悪の根源が、すぐには何か理解できなかった。自分の、水商売は身売りの化けの皮であるという観念を見落としたためであった。人の観念は、それが一つの命題であることを認識しないと、その奥に埋没する重要な命題を見落とさせる効果がある。彼は街並みから水商売を、水商売から身売りを、身売りから従業員の恥辱を連想し、水商売が表面に見せぬ人の苦痛をまじまじと想起したことを理解した。その暗黒はまがまがしいもので、太陽の光を全て吸い込み、そして不穏を彼に見せつけた。だが、彼は暗黒を無視した。
続いて彼は、ここの同業者に関していえば顔が広くなかったことを思い出した。特に働いているとき、目新しい客引きをしたり、いないはずの警察の目を気にして店の外に出なかったためであった。すると、この場所なら監視の目がないかもしれないことを考えた。明と次に会うのは、ここがお互いに都合がいいだろう、と考えた。
「明、お前は昨日暴力団に入ったそうだね」
「いいや、違う。そうではない。俺が入ったのは数カ月前だ」
香山は困惑した。世間話をはじめるつもりで出した話題が、嘘だったのかと教えられ、ビルの土台をダイナマイトで爆発された気分になった。しかし、ここで香山はすぐには諦めなかった。明に虚言癖があり発言に神経をとがらせなければならない、と中崎がぼやいていたことを思い出したのだ。嘘とは、現実の模倣品である。香山の持つコピー商品と同じだった。顕微鏡で細かに観察すれば、必ず縫製の質の悪さといった粗悪が白日の下にさらされるのだ。彼の話を掘り下げてみれば、ぼろが出るのかもしれない、と思い、香山は質問をした。
「ほう。どうしてだい」
香山は、わざと自分の疑問の境界をわかりにくくした。
「それは、数カ月前に入った点についてききたいのか」
香山はこの時点で疑いの感情を強めた。彼はわざと自分が抱える疑問の焦点をぼやかして喋ったのだ。彼の質問は、どうして暴力団に入ったのか、という見方もできる質問であった。しかし、明が注目して口にしたことは、明の意識の集中する場所を暗示するものであった。彼にとって隠すべき事実があるのであれば、それを確実に精査したうえで嘘を作らなければならず、それはむしろ、大変に彼の意識をその事実へと傾ける。そう、繰り返すが、嘘が孕む矛盾をあぶりだすには、詳細に現れるぼろを見つければいいのだ。パズルは、ピースを無理やりにはめ込んでも完成したときに絵のぎこちなさを生み出す要因となる。そして、まだ彼が嘘をついているという証明にはならない。彼の答えをきく必要があった。
「そうだな」
そう言って明は少し笑うと、修辞をもって続けた。
「悪魔のきまぐれさ」
これをきいた香山が、彼が嘘をついていることを確信したかといえば、そうではない。彼には、口をつぐむだけの過去があるのかもしれなかった。だとすれば、これ以上の詮索は彼のかさぶたをめくり、彼が自分に柔和な態度を示さなくなる怖れもあったし、香山自身も中崎に似た返答をしたばかりで、どうもそれを望む気になれなかった。結局、彼の答えは何の確証も彼に与えなかった。そればかりか明の過去は、さらに謎を得た。
天神の書店に着くと、香山はどことなく店内を歩きだして、明も黙ってついていった。興味のないミステリー作品の棚へ行き、明は本を実際に手に取ってみせ、難しそうな表情を作っては戻す、を繰り返して、こう言った。
「お前は何か見たい本があるのかい」
「別に、ないね。本だとか、論文だとか、活字というのはどうも衒学的な感じがして俺は好きになれないな。一種のアレルギーみたいなもんさ」
すると、棚と香山の間に空間を見つけた男女が、すみません、と割って入った。香山は反射的に彼らと距離を置いた。人生の中で、他人との衝突を避けるために作り上げたアルゴリズムを無意識に適用したのだ。男女は、二人の存在を無視してそこで会話が盛り上がっていた。痴話話を傍らにしてばつが悪いと考えた香山は、別の棚へ向かおうとした。すると、明が香山に、高らかな声で話しかけた。
「迷惑な人達だね」
人達、というのであれば、対象は香山ではないことはすぐにわかった。彼は、香山ではなく男女へ向かって文句を口にしているらしかった。香山は、この男女に一切の敵意を抱かなかったために、突然敵意をむき出しにした彼を前に閉口し、かろうじて質問を聞き返すことしかできなかった。余計なトラブルに巻き込まれるのを拒んで、彼が発言を取り消してくれることを期待したのだった。しかし、聞き返された明は、取り消すどころか先ほどよりも、声量を上げ、大げさに言った。
「いや、一体なんて迷惑な人達なんだろうね! と言ったのさ。これで聞こえたか?」彼は表情を無くしていた。「この二人は一体、人の道理を知らぬのか、知恵遅れめ」
香山はひどく動揺した。当然男女は驚き、会話をやめて明を見ていた。彼らも、自分たちがここまで直接暴言を吐かれるとは思っていなかったのだ。振り向いた女が口を開いた。
「でも、すみません、と言いましたよね」
女の言い分は分からないでもなかった。すみません、には『前を失礼します』の意が含有されていたのだ。明確にそれを口にしなかったのは彼女のミスかもしれないが、こんなことは腹の立つことではない。街に出れば何でもない、ありふれた場面であった。互いに互いが迷惑で、どちらかが譲歩すればそれで済む話なのだ。今回は幸か不幸か、香山と明が譲歩する役回りだっただけだ。しかし、明は彼女のそんな一見まともな反論を受けても、全く屈することなく言い放った。
「じゃあなるほど、君はさっきの『すみません』で、『どけ』と言いたかったと、こう言うんだね? こうなったら仕方がない、君達に本当のこと、真実を教えてやろう。こちらにいる方は、盲聾者でいらっしゃるのだ! ヘレンケラーのレベルの苦難を抱えて、今までの人生を生きてきた! 毎日、毎日、大変だったろうに、俺はこの方に気に入っていただけて、こうして本屋まで同行させていただき、お手伝いをさせていただいているんだ。こんな思いをさせてしまって、俺はまったく情けないよ。しかしなぜ君達は、真実を知らされてもなお、今こうやってつっ立っていられるのかが不思議でならない。俺が君達なら、今頃、膝をついて、地面にがらんどうの頭をこすりつけて、涙を流して、この方に許しを乞うところだね! いいや、待った。もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない、決めつけてかかってはいけないね。では、もう一度、自分の良心に誓約して言ってもらおうか。君は先ほど、何と言ったのかね?」
女は怪訝な顔で男に、行こう、と言い、二人はその場を去った。彼らはきっと、後で明に対する不平を言うに違いない、と香山は憔悴した。横にいる明は、とても満足そうだった。彼は、本を見るつもりなど毛頭ないのに、『悪魔のきまぐれ』とやらで男女を押しのけたのだ。しかし、彼の激烈な言動をきくとそれは『きまぐれ』で済む事態ではなかった。『衝迫』であった。
「見たか、あいつら。さしずめ礼儀を心得ない愚者が本屋に来たってところか。ひょっとすると俺は、愚の世界から抜け出そうと必死になる愚者を、淵から蹴り落としてしまったのかもしれないね。まったくそう思うと、俺は……愉快でならないよ」
香山は一種の詭弁をしゃあしゃあと並べて人を乱暴に追い払う彼を目の前にして、茫然自失としていた。彼と会ってから時間も経たずにその片鱗を露わにした狂気を、受け入れるのにもう少しの年月が必要だと感じたためだ。そして、佇んだ香山に明はとうとう矛先を向けたのだ。
「おっと、思わずあんたを共犯にしてしまったらしい。まあ、別に気にすることでもないさ。誰だって、死ねば無になるんだからな。そこには何も残らない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。あっはっは」
香山は、明と自分との間に横たわる決定的な違いを思い知った。そして同時に、ものごころついてから良人などというものはついぞ信じられなかったが、彼がそれをきれいに逆さまにした人間だと知った。彼とうまく接するには、もう少しの時間と、知識が必要だった。そしてこの職には適任なのかもしれない、とも思った。
***
任意の二人の関係を考えたとき、彼らが互いに二文字以内の名前しか知らぬ関係であったとしても、それはなんら人間同士の関係に支障を与えない。勤務時間にしか会わない上に、その勤務時間にも滅多に会うことはないからだ。この事柄は、源氏名を掲げて働く人間たちがそれを証明している。さて、香山と明が勤務の外で時間を共有するのは、先述の中崎を通したもの以来、今日の会食が初めてである。先に待ち合わせた場所に86で着いた香山はTogaの黒いシャツを着て、Nudie Jeansの濃いスキニージーンズを履いて、全身に羽織れる程度の薄い緊張を感じつつ明を待っていた。スマートフォンの画面にある時計を見る。よかった、約束より数分早く着きそうだ。
名前について、周旋人はしばしば考えることがあった。最近でこそキラキラネームなるものが問題視されることもあるが、つけられた当人が果たして一体何を欲しがるのかなど、欲望は一時の感情に流されて容易に変化してゆくものであるし、「僕の名前は何某だから、こう生きねばならない」など口にすることは造作ないが、そんな生き方の信条はその時の欲望が粉砕するときが必ず来るのであり、名前の意味などが当人にとって何か意味があるとは思えない。意味と微妙にしか絡み合わない響きなどはもってのほかだ。突拍子もないものでも案外しっくりくるものである。
無論、しっくりこないものもある。それが明だった。
改めて述懐するに、香山は明との待ち合わせに指定した少し鄙びた六本松駅のロータリーに車を乗り入れ、ニュートラルギアにシフトチェンジしてから足をクラッチから離したところであり、彼は今、日没後の街にありふれた身嗜みをしている。ジーンズに挟んだコルトガバメントが腹を圧迫するので、ダッシュボードの上に移した。よくもまあこんなものを挟んだままで運転をしたものだ。出発する直前まで彼は他事に没頭しており、何かの拍子で時計に目をやったときに、即急に準備して出発せねば遅刻することが発覚した。ああだこうだと独り言を部屋にまき散らして寝間着から外出用の服に着替え、この拳銃を持って彼は車へ飛び乗ったのだ。
周旋人は、妙なこだわりを抱える男であった。特にそれが彼の性格に影響するのかと言えば、そうではない。しかし、やはり妙であった。彼は走り屋のような人種にはかいくれ興味を与えられなかったのに、車を購入するならどうしてもミッション車が欲しいと願っていたのだ。この時代、世間で目にする車のほとんどが(あろうことか、周旋人の乗る86ですらたまに)、オートマであり、人間の程度の低い精密性ではどうしても、(比較する車がおおよそ同じ強さのエンジンをもつものであれば)、オートマの加速力と燃費には太刀打ちできない。
以前付き合っていた女が、この車の助手席でこう言った。
「付き合っている間ならいいけど、結婚するならこのオートマにしてよね」
実に歯に衣着せぬ申し分であった。現実として彼女との婚姻を考えるのであれば、自分用の車を持たぬ彼女は香山の車を普段運転する羽目になる。発停のたびにいちいちクラッチとシフトギアを操作するのは、多くの人間にとってあほらしいのだ。その操作を発停に挟むために、ミッション車ではアクセルとブレーキの踏み間違いによる誤発進の事故が起こらない一方で、運転が楽になったオートマでは多発している。そう、長所と短所は紙一重なのである。換言するのであれば、以下の命題が生まれるし、それは否定のしようがない事実であった。『社会的体裁、経済的効率の点から考えてみると、車を購入するのならオートマが理に適う』。彼は、これについて了解したうえで、86を購入するに至った。その合理性を上回るだけの理由を、ミッション車の運転への快楽に見出したからである。人は「お前は愚かだ」と彼をあざ笑う。しかしここで、この議論から具体性と取り払って抽象性を削り出すと、当該議論の本質が見えてくる。彼はミッション車を買ったとき、快楽に対価を払ったのだ。こう換言すると、普段からゲームに課金をする人々と香山は、何らたがわぬ「愚かさ」を持っていることが丸裸になる。
香山は足を組み直した。二十秒弱、その状態を保って何も考えずにいた。無音の車内では何か予想だにせぬことが起ころうという気配がこれといって感じられない。ドアポケットの煙草の箱に手をかけ、離した(その間は三秒)。明が、肺活量の減衰を気にして煙草を毛嫌いする輩であることを思い出したためであった。一応、と消臭剤を車内に振りまいた。香山は通常、こういった待ち時間を煙草を吸って潰すため、ついつい手を伸ばしてしまったのだが、喫煙が遠ざかったことで苛立ちが芽生え、ガムを噛むことにした。唾液が葡萄の味に染まると、荒波は落ち着いてゆく。煙草を吸い始めたときは、別に喫煙なしでもいらいらすることはないし、ましてや生きるに窮することはない、などと強がったものだが、習慣としてしまった今ではもはやいらいらが止まらない。例えば禁煙席で退屈な相談をされているとき、電車に乗っているとき、煙草を所持していない上に入手する当てもないときなんかが特に暴れてしまいそうでやばい。そうであるのに嫌煙家などが文句を言ってきた時なんぞは、拳をめちゃくちゃに撃ち込んでやりたくなるのだ(それを実行に移さぬのは、何人を殴ったらいいのか知れぬからで、へらへらと笑う程度にとどめている)。
続けてガムを咀嚼するに、再び二十秒弱。ロータリーの出口にある横断歩道に人が密集しだした。スーツに身を包んだ人達が会話をしているらしい。中には若い女がスーパーで買い物をした帰りであろうか、重そうなビニール袋を両手に佇んでいる。信号待ちをする集団の中に明を探してみるが、どうにも見当たらない。信号機は色を青に変えた。ぞろぞろと横断歩道を渡る人々を視界から追い出し、再び時計を確認する。約束した時刻にはまだ達していない(結局どこの社会に出ても、こうまで概念的時間は彼を虜にしてしまうのか、尊敬と恐怖とを催す存在感よ!)。
喫煙が叶わぬのならば、ゲームをして時間を潰そうか。しかし、スマートフォンを使ったゲームでは、電池の消費が気にかかる。どれだけ親密な間柄との会食でも空の会話だけでは間が持たぬのに、こともあろうに今回は奴との最初の会食であるので、確実に物足りなくなるはずだ。そういう人達に見せようと用意した、話のネタになりそうな滑稽な画像やウェブサイトがいくつもある。実際、何度もこれらの手持ちに救われてきた。こういった準備は馬鹿にできない。
香山は、何か別の遊びをすることにした。一人寂しくしりとりでも始めようか、と。必然性もなく、『に』から始めることにして、彼は熱病に罹患したように独言しはじめた。………
「日本人は、店員と会話をしないらしいな」
などと、明は吐き捨てた。受注した依頼についての説明を行うために呼び出し、中洲川端の風俗街を歩きながら説明を終えたところであった。風俗街なら警察の目が少ないのだ。
だが、明、という、彼の名前について考えた。私が今まで出会った人間の中において、あかり、と読ませる男は偏狭であるのだが、彼はそのうちの一人に属する。最初のうちは多少ながらもそう呼ぶことに抵抗を覚えたのだが、人間慣れの生き物と言わんばかりに私はその呼び方が板についてしまった。彼の顔がアンドロジナスな魅力を有しているのかと言えば、どんな工夫をもってしても女装できないような顔立ちであるし、仕事柄、肉体を酷使するために、隆々とした素晴らしい筋肉を宿している。なんにせよ、私は彼を、あかり、と呼ぶのだ。
「だからなんだ。普通のことだろう」
「うむ、確かにそうだ、残念ながら。それが普通なのがおかしな話なのさ」
さあどうだか、という感じで私は肩をすくめる。
「Rude(失礼な)!」
どきっとした。明は割に大きな声でそう言い、続けていく。
「くだらない。例えば、ニュージーランドに目を向けてみたらどうだ。そんな日本人の固定観念、なくまっちまうよ、香山」
「また西洋かぶれが始まったか。何度も言うようだが、民族を一括りにした発言をするべきではないと橋下知事が言っていたことを忘れたのか」
香山は私が奴に呼ばせた名前だ。それが本名かどうかはさておき、響きがいい、と自分では思っている。気に入っている。漢字で書くとさらにいい。爽やかな印象が得られるのだ。
「ダメなのか、西洋かぶれは? そんなことはない。しかも、俺は折衷しているだけだ。日本人の良さってのも心得ている。それは、和だよ、和」
「悪く言えば、迎合」
「鬱陶しいことを。とにかく、日本人の美徳というのはだ、自分の属する共同体の中で各々の立ち位置に留まることであり、そうしてエゴの衝突を避けられることを忘れてはならない。ところが、西洋にいるキリスト教の信者どもは、自分達が神を始点とした位置ベクトルに過ぎないと思っているらしい。これが問題だろう。人間というのは、何事にも個人として存在する自分の脳の思考を介さねばならない以上は、主観的な意見を排除しきれないんだ。それぐらいは自覚しなくちゃいけない。だから、他人のベクトルと自分のベクトルを見合わせて、どう動くかを見極められるかどうか、がその共同体がどれだけ強くなれるかに大きく関わってくるわけ」
「けどだ、明」
理論はなんとなくわかるが、どうにも数学チックで聞くに堪えない。彼は読書を忌避するかのような言動をしながら、哲学に精通していたため、自分の勉強を隠しているように思われる。人間はだれしも、どこかで自分の存在に不安を感じて自殺をしたり、知識の甲冑を得たりするものだから、そんな見栄には触れなかった。それはともかく、反論といく。
「くどいな、殺すぞ」
「ぞっとするね、殺し屋に言われると」
と、グラスホッパーに書いてあった台詞を口にしてみた。実際に彼は世間で言うところの「殺し屋」で、蝉と同じナイフ使い。勿論拳銃だって使うが、明は、振る、というワンアクションで人を殺せるナイフの方を好む。だが、これはマスターキートンに書いてあった(ナイフは消音機能にも優れていることを忘れてはいけない)。この論理は、殺そうとする相手が、彼の腕の長さの範囲内にいる場合のみに正しい。遠距離からナイフを投げることで、見栄えのいい投擲武器にもなりうるのであるが、一度に持って、身軽に動き回るためにはどうしても二つあたりが限度だ。それ以上はかさばってどうにも動きづらいし、ナイフが鞘から外れてしまう可能性も増えてしまう。投てき。そんな条件の下で、数に限りのあるナイフを失いかねない行動に出るものか。私は話を続けて、
「ていうか、そんなこと言っているようだが、俺達は完全に共同体から遊離した不届きものだ。請負殺人だなんて、一体この日本のどこにこんな職業の必要があるのだ。俺は仕事を取ってくる。お前は殺す。シンプルだけど、とんでもない量の経験と知恵がいる。でも、それはこの共同体から、少なくとも法からは、これでもかというくらい逸脱してるよ。お前に、そんなことを言う資格があるとは思えない。では問おう。お前の和の精神、どこにあるんだ」
黙った明は眉をひそめて、私と並んで歩く。穏やかながらも冷たい風が吹いて、私はコートの前を両手で閉じた。そのとき、ちらっとベルトで挟んだ拳銃が銀色を発したが、行き交う人は誰も気づかない。二人の間に革靴の音のみが響く。
「くそっ、とか、まずは悔しさを言葉にされてみてはいかがでござんしょ」
「しょぼーん」
***
明はバーベルを落とすとともに、手を下ろした。上半身には熱気と汗がまとわりついているが、コンプレッションタイプのスポーツウェアはすぐにそれを振り払ってくれる。一仕事終えたのと同じ類の疲労感と達成感を覚えつつ、体を起こす。ベンチプレスの前には腹筋のワークアウトをしたので、体を起こしたとき腹筋に痛みが走った。床のタオルを拾い、顔の汗を拭う。首にタオルを回し、少し顔を下に向けて休んだ。人から疲れた表情を隠すにはこの体勢がいい。頭を伝って落ちてきた汗をタオルで優しく叩いた。床に立ててあったプロテインシェイクに手を伸ばし、一口飲んだ。時計を確認してみれば、香山との約束に遅れる恐れはなさそうであることを見越した。
何かを企てるということに明は向いている人間でなかったが、自身の利益を最大化する論理を持ち合わせ、知識を蓄えることを怠る人間でもなかった。
自然に由来しないものを体に取り込む行為自体が、彼は自身の肉体を鍛錬するにあたって適切な行為とは考えられなかった。ナチュラルな食物に含まれる微小な放射性物質を体内に取り入れることが出来なくなるためだ。人間を筆頭とした動物と一部の肉食植物は、他の生物を食することで栄養素を体内へ迎え入れてきたが、その食物連鎖のどこかでなのかもしれない、我々は、体内に放射性物質という多量であれば自らを殺しかねない類の物質を体内に有している。体内含有率の高いものでは、カリウム、炭素のラジオアイソトープなどが挙げられる。これらの存在は、我々が食物連鎖というシステムにとらわれている以上はいやおうなしに受け入れなければならぬものなのか、それとも我々が進化の過程で、意図的に選択してきたものなのかは、神のみぞ知るところだ。そこで、自然科学がこの謎を解かない限りは、彼は後者の立場に立つことにして、自然由来の食物を敢えて選んでいる。おそらくだが、自分の命が火を灯している間にそんな日は来ないだろう、と楽観していた。
シャワーを浴びて、濡れた髪にタオルを当てた。許容できる程度まで髪の水気を拭き取ったら、体の上の部位からタオルを撫でてゆき、全身から水滴を拭った。体の上からタオルを下ろしてゆくようにしていた。シャワー室のカーテンを開け、ロッカールームへ向かう。胸筋の筋繊維が切れていて、腕を軽く振ることすら億劫に思いながらも、腕を上げてドライヤーで髪を完全に乾かした。ロッカーを開け、その中にかかる自分のスーツを着た。少し周りを見渡し、誰もいないことを確認してからナイフが入ったホルスターを素早く取り出し胸部に装着した。流れるように拳銃をズボンに差し込む。左側に重さが集中するのは、既に慣れた感覚であった。
予想もしていないことだったため明は驚いたが、後ろから誰かが歩いてくるのが聞こえた。念押しするように、速やかに背広を着直す。振り向くと、見慣れたスキンヘッドの男がいた。明は彼の名前は知らないが、明と同じくここに通っているため、顔見知りであった。男は丸太のような体をしている。全体的に明よりも一回りも二回りも大きいのだが、何と言っても首回りに至っては丸っ切り歯が立つ気がしなかった。その首を使って男は明に会釈をした。小さく、ああどうも、と返す。彼はその返答を横目で見ると、広い背中を明に向け、シャワー室の方へ消えて行った。ジムに付属のバーに寄り、もう一杯プロテインシェイクを飲むと、香山との約束を果たすために六本松駅へと向かった。
明は凶手として、香山と三年ほど一緒に働いている。三年という期間で、彼が人を殺めたのは三度で、人数は七人である。人に拷問じみたことをしたのは二度で、二人。合計で、明はたったの五回しか出勤していないことになる。それでもこの三年は、贅沢な生活への無関心のおかげで、なんの苦労もなしに過ごすことが出来ていた。彼の計算ではあと二年は仕事をしなくてもよい。ここまでの生活を送れるようになるとは、中学を卒業してすぐに土方の仕事に就いた頃の明には想像もつかぬことであった。
凶手である彼の仕事は、人を傷つけたり、人を殺したりすることである。同種の生物たる人間を殺すことは、その行為に反抗する人間の本能的な衝動を同時に殺すことであるとは思っていたのだが、どうにも彼には響かなかった。自分が今までにこなしてきた仕事の数と、日本の治安状況を考えると、死刑も存分にあり得る。だが極刑ではなく、懲役の可能性があることのみが、ひどく面倒に思えたのであった。
***
忙しなくガラスを叩く音を聞いた香山が吃驚して吸い寄せられるようにそちらを見れば、手が車の助手席側の窓を叩いたらしかった。さらに覗けたのは、スーツの袖であった。暗がりでは袖の色がよく分からないが、微かな街灯を吸い込む色であったため、黒か青のどちらかであると彼は推し量った。手首を象るような白い袖口が見えた。カラーシャツである。こんな時でもスーツを着てくるのは明らしい、と思った香山は間抜けにも、その手の主が明だと信じたままで、疑わなかった。
周旋人は何もしないで、手の主が他の部位を見せるのを待った。まずは謝罪を待つつもりであった。まくしたてる材料にするべく、時計を見た。明は三分遅刻している。彼には、少しでも計画からそれた行動を減らせるよう、時間は厳守するように、と口を酸っぱくして注意を促していたのに、と舌打ちをした。周旋人はそこで疑問を得た。
家を出る時、遅刻の予感に情けないほどの狼狽をしていたのは、自身の深層心理に、明へそう言った手前格好がつかないという見栄があったのか、それとも自分で他人に対して言っているつもりが自分をしつけていたのかを見極めることができなかった。そう思うと、先の舌打ちがみるみる内に虚栄を伴って再来し、恥を感じた。
上半身が顔を残して露わになる。周旋人は先ほどまで、この人間が着用しているものはスーツだと認識していたのだが、スーツではない別の服であることを知った。この服の胸と肩とに紋章があった。そういう服装をするのはお巡り、駅員、警備会社の社員ぐらいだ。はてさて誰であろうか。まだこの男が明ではない、と決まったわけではない。彼が副職(どちらが副職なのかは給料や明の価値観によるが)として警備会社に勤めている可能性があるが、すぐに香山は疑り深くなった。まさに疑念が疑念を呼ぶ具合であり、一つの予測が崩れた途端に疑心暗鬼を発症したのだ。
香山が仕事を行う際に注意を注がなければならないことは、何も逮捕のみではない。明が香山の知らぬ人間と仕事の契約を結んでしまうことである。三年の間、明に附き添った香山は、明の行動から考察して、彼は他人を傷つけることなどやすやすとやってのける人間であると考えていた。つまり、良心の呵責が頭の辞書から完全にと言っていいほど欠落している人間である。また、そんな人間と付き合うために書籍の漁に出たが、そういった類の人種は衝動的な行動を起こす傾向が高いことを知った。その行動は何の思慮もなしに歩まれた道の途中にあるために、思わぬ悲劇をもたらしてしまうかもしれないのだ。
仮に明が香山以外の人間との契約を結んでいる場合、(一緒にいるだけでも危険な存在であるのに)、香山が社会との恐るべき契約に書かれた通りになりかねないのだ。この危険を回避するために、香山は部下である明には相応の分け前を与えていた。明などは特に仕事の要領がよく、華美な生活を望まぬ男であったので、多めに振り分けていた。このような待遇を受けてまで、果たして人間はまだ働こうなどと思えるものだろうか。
そこまでも狂人の明に信頼をやらぬ香山が今回の会食を提案したのは、どうにかして彼から良心や信頼のような心情を引き出すか、無理くりに植え付けるかして、仕事を円滑に進めるための機会を設けようと考えたからだ。もしくは、香山は彼にどこか朋輩のような愛着を覚えはじめていたのかもしれない。この点について、香山は決着をつけることができなかった。
終演を告げる緞帳のように男が身を屈めて、顔を出した。二十代の若い青年で、無邪気な面持ちが抜け切っていない。これからこの白いシーツは、都会の大気で汚されてゆくところであろう。彼は香山を見ると、口の端を上げて微笑んだ。男がもう一度窓を叩いた。窓を開けるよう要求しているらしい。
周旋人には、男の帽子が描く曲線が横へと伸びているのが見えた。帽子には胸同様のマークが付いている。紋章の輝きがその全容を確実なものにした。こいつはお巡りだ、と彼が頭で認識したときにはすでに、頭と別の次元で動く心が体を硬くこわばらせていた。自分の生業と司法の不一致を意識の外で理解したのだ。
ひらひらと舞う蝶が蜘蛛の巣に近づく映像を垣間見て、不安がった。果たしてこの蝶は、蜘蛛の巣に絡み取られてしまうのであろうか。
静寂を打ち破ったのは、周旋人の拍動の音であった。非常に速いペースで、あり得ないほどにうるさい。彼は、だが、と踏みとどまり、ここで論理を立ててみることにした。今は仕事をしているわけではない。はたから見れば自分はただの市民であり、有象無象の一人にすぎぬ存在だ。こんな格好をした自分と生業を結びつける紐はない。免許証は財布の中にある。お巡りから隠す必要などなにも―。
助手席を眺める周旋人の視界の端に銀色が見えた。ダッシュボードの上に視界の中心を動かす。警察官の注意を惹きかねないので、顔はぴくりとも動かさない。拳銃がそこに居座っていた。身の危険を想定した上での厳しい用心が身を亡ぼしにかかるとは、なんとも皮肉なものである。周旋人の背中に汗が吹き出た。まずは動揺を悟られぬように振る舞うことを考えねばならない。敵意がないことを表明する必要を感じて、世界共通のコミュニケーションである笑顔が浮かんだ。恐怖と自己防衛で裏打ちされた笑顔をお巡りに向けて、少しずつ息を吸って吐いた。
……周旋人はいつの日か遂行した仕事を思い出した。
***
香山は、メールの受信ボックスに見慣れぬアドレスを見つけて、さらに内容を読むとしたり顔をした。メールを読むと、フリック入力に込められた殺意と焦燥が伝わってきた。
『憎たらしい女Kを殺したい。どうすればいい?』
殺害、傷害の相談をしてくる人間はほとんど痴情や借金を契機としていた。
何かを計画するとき、石橋を叩いても渡らないほど慎重な香山は決して、顧客に対して自分の素性をさらす真似はしなかった。ぎりぎりまでメールで連絡を取り、それがどうしても叶わぬ場合のみ彼は顧客の前に姿を現した。そして、それほどまでに一つの可能性に執着する理由などありはしない。香山がその男にメールで請負殺人の話を出し、一人であれば一千万円と、別途費用を請求する旨を伝えると、とんとん拍子で契約が成立した。
夜道を襲い、陰惨な死に目を見せてやりたいと思う経験は、きっと誰でもあるのであろう(他人への期待の裏腹であるが)。その願望を自らの手を直接汚さず、金を支払うだけで完全な形で叶えられるのであれば、どんな時代であっても必ず一定数の人間が変貌を繰る悪魔との契約を選ぶ。悪魔が契約の代償として鶏の頭やヤギの角を要求するように、香山は金を要求するのであった。
極めて互いが利益を望む取引を前に彼は、自分の素性をさらさずに報酬を得る方法を考案した。彼をひととき悩ませたのは、報酬の受け取りであった。料金を後払いとすれば顧客が料金支払いを逃れる可能性があり、前払いにすれば、詐欺だとみなした顧客は契約締結を拒む。試行を重ねた彼は料金を後払いと提示することにしていた。すると次の一手で依頼人が我々から遁走する問題をコロンブスの卵の発想で解決できる。それは実に単純で、『貴方が支払いを拒むなら、要員を派遣する』と伝える。これだけである。二通りの状況を想定した。①顧客が単に支払いを拒んだ場合。脅迫通りに派遣し、支払いを了承するまで拷問させる。②顧客が連絡を絶ち、逃走した場合。間柄の深い人間が逃走すれば、警察が怪しんで捜索を始める。②の場合でも完全に回収できるよう、彼は間柄の深くない人間を対象とした殺人や傷害の契約をしないことにしている。繰り返しになるが、香山は石橋を叩いても渡らないのだ。
今回の仕事を進めるにあたって、周旋人は自らKの身辺調査をした。もちろん、本人を特定するために写真を撮ることを忘れはしなかった。Kは、仕事の合間を縫ってはクラブに向かい、そのたびに別の男と行為を重ねては夜空をやり過ごしていた。そこで周旋人は、Kの股のゆるさを逆手に取ることにした。何年も前、実際に新宿のラブホテルで立て続けに三人の女性が殺害された事件が起こっており、その犯人は野放しのままで時効を迎えた。獣道を歩く方が楽だという当然の考えのもと、このやり口に則ろうと考えた。それでもなお対策として防犯カメラの設置を怠ったところを探し、(どうやって条件に合うラブホテルを探したのかは言うまでもない。調査を楽しんだ)、そこを選択した。
明に指示して、殺害を実行に移してもらったならば、顧客からしかるべき料金を徴収するのみである。顧客には料金を持ってくる場所を説明し、のこのこ現れたところで、背後から気絶させて奪い取った。
人の命の重たい尊さなどを、香山は仕事の最中に考えないようにしていた。考えそうになれば、すぐに煙草を吸って中断し、仕事に戻った。Appleですら若い命の将来を踏みにじって世界の頂点に躍り出たし、(中国などにおける最低賃金以下の児童労働、子供を含んだコバルト採掘従事者の呼吸器疾患を見よ)、プラハできれいな言葉を並べたオバマは核を廃絶しない、耳障りの良い言説を隠れ蓑にした定義から外れぬ偽善者だった。彼らと自分とを比べれば、自分が生涯で重ねることができる罪などは、摂るに足らぬ矮小な存在に思えた。
請負殺人一件だけで一千万の報酬である。非常にうまい。リスクを考えれば安すぎるくらいである。徴収を終えた周旋人は取引完了の旨を依頼主の男にメールで伝え、返信を待たずにメールアドレスを変更した。仕事終わりにふと、窓の外に夕焼けを見て、煙草を吸った。
***
この回想の裏で起こった惨劇は以下の通りである。
周旋人が細かい指示を与えていたために、凶手はそれに従うだけであった。Kをクラブで発見し、彼女をかどわかしてラブホテルへ移動して、入室後に殺害する。
Kを横目に、こんなことだからこの女は男の怨恨を生み出すのだ、と心の中で激しく軽蔑し、嘲笑を上からかぶせた。そして男は、Kの殺し方に文字通り注文をつけてきた。絞殺である。確かに絞殺は、その場にいない人間でもじわじわと命を奪われる瞬間を想像しやすい殺し方であった。Kが窒息の最中、自分への謝罪を思って欲しいなどという歪な愛情をよしとしたのだ。そして余生をその謝罪による充足で生きていこうと思ったのだ。彼としても返り血を浴びることを心配して雨合羽を用意する必要もなくなる。ところが、相手ともみ合いになり、自身の髪の毛などといった重大な証拠を残しかねないのが瑕疵である。
『絶対にベッドへ行くんじゃない。毛の掃除が大変になる』
周旋人の忠告が頭の中にあった。共鳴する凶手の肉体が、一切の抵抗もなしに従った。明は香山の人形になっているという見方ができたが、明はそれを認識しながらも無視していた。彼にとっての興味は殺害のみであった。クラブのやかましくて密集した煩わしい環境からようやく抜け出た今、彼はKを殺害しなければ報酬がもらえないし、受け取った金で生活するためには、適切な行動をとって逮捕されぬよう後始末をすることが絶対的な条件だ。
「部屋がたくさんやん」
明の腰ほどの高さで、僅かな傾斜のついたパネルには、番号を割り振られた部屋の画像が表示されていた。はしゃぐKが勝手に話しはじめたので、ようやく白画を筆で塗り潰すような手間のかかる会話の地獄から解放される。仕事の達成を近くしても我慢のならぬ明は、あと少し、あと少し、と言い聞かせて辛抱をながらえさせた。そんな努力は完全には実らず、自分の手袋を握るKの手が、ここにきて急にひどく鬱陶しく感じだした。殺害と掃除のための道具を入れてある鞄もひどく重たい。ストレッサーが彼を囲んで、饗宴を催しているかのようだと自分をあざけ笑った。
Kが、廊下に響かぬぐらいの声で言った。
「あんたのズボン、三本白い線が入りよったいね。私も同じやつ持っとっちゃんね」
「だからなんだ、どこの方言なのかは知らないが、いい加減にやかましいぞ、この阿婆擦れ」
と、うっかり罵ってしまいそうになるのをこらえて、笑顔で相槌を打った。ここでKの機嫌を損ねては、今までの苦労が水泡に帰す。あと少し、なのだ。五階の部屋を選択し、エレベーターに乗り込むと、Kがこちらを向いて、彼の腕を下へとひっぱり下ろす力を加えるので、やむなく接吻をした。唇や舌が触れ合って音を立てるだけで、愛情が籠っていないのは、不思議なことに二人の感情が一致する点であった。明はKの唇を吸いながら香山の指示を想起した。このキスも時間稼ぎだと思うと、ふしぎと楽になった。
『部屋に入ったら相手から上着を受け取るふりをして、上着を脱いだ瞬間に蹴飛ばすか何かをして床に倒せ』
部屋に入るとKが先に靴を脱いで、奥へと向かった。対して明は靴を脱がなかった。胸を撫でおろし、ドアが完全に閉まるのを確認した。そして土足のままで部屋全体が見回せるよう、角にビデオカメラを設置すると、その様子を見咎めたKが文句を呈した。
「えっ、何あんた。撮りたいと? あたしそういうの趣味やないっちゃけど」
明はそれを無視して、紳士を演出させるべく、
「上着、ハンガーにかけようか」
呼応してKが上着を脱ごうとしたときに、凶手がKの腹に革靴を履いたまま右足で蹴りを入れた。Kが、彼に聞こえぬぐらい小さくうめいて床に仰向けになって倒れた。踏みつけるとKは痛みを訴えながらうつ伏せになるので、上に乗っかり、鞄から取り出したタフロープで首を絞めた。
この体勢で絞殺を行う際に重要な点は、自分の体を後ろへ反らして相手の体に力が入りにくくすることだ。明はこんな体勢で人を殺したことなどなかったが、何度も人を傷つける中で得た経験がこのアドバイスを与えたのだ。
今までこの女に費やした時間、会話に機知を持たせるために回転させた頭が、今ようやく凶手の存在を称えはじめたのだ。
死への途中でKは泣きながら、やめて、やめて、と渾身の声で叫んだ。あくまで渾身であり、明が絶えず首を絞めて気管の機能を封じるため、大きな声にはならない。仮に誰かに聞かれたとしても、場所が場所であった。いやらしい雰囲気でカモフラージュされてしまう。
明は腕の力を全くと言っていいほど緩めなかった。彼は首を絞めながら、水の泡、という文字をしきりに頭の中で復唱していた。やがてKの力が抜け、動かなくなった。明はとうとうKの命を奪うことに成功した。やめて、と彼に命乞いしたKの表情は、明には分からなかったが、嘘のない本心からの懇願であったことは彼の想像に易かった。
Kはポケットの中に忘れられたハンカチのように皺を顔に寄せ、その声は、自分にのしかかる悪魔の体重を確実に怖れていた。
明にとって絞殺とは、人を殺害する方法の中でも、特に命のぬくもりを感じる殺し方であった。命が消える瞬間を、彼はっきりと認識することが出来るのだ。人の命を三枚におろしてやり、それに舌鼓を打つのが彼である。
『遺伝子情報は残ると面倒なんだ』
凶手は食品工場で使われる作業帽子をかぶって、粘着カーペットクリーナーを転がして床の上の毛を丹念に掃除した。普段であれば髪をオールバックにしてジェルで固めてあるので、それほどの丹念さが求められないが、香山の曰く、女性からの心象が悪い、とのことで、美容室に行ってから長かった髪を切り、ワックスとヘアスプレーでセットをしてもらっていたために、彼は二十回通りほど床を掃除した。だがそれでは掃除は終わらない。すでに手袋のままの長い作業で、手は汗まみれである。
何度かKと唇を交わしてしまったため、Kの口腔内を掃除する必要がある。自分の唾液に含まれる遺伝子を不活化させるべく、ハイターを口の中に入れて、吐かせる。ハイター独特の匂いが目と鼻を刺激する。これに耐えながら、この作業を三十回。どんな仕事でも忍耐は重要な能力らしい。
『警察は物取りを熱心に捜査しない』
彼は小川を流れる笹船のように抵抗がなかった。すぐにKの鞄を自分の鞄に入れた。Kのポケットに何も残されていないことを確認した。もうすぐ仕事が終わる、と思うと次の仕事のことを連想して胸が高鳴った。どうも彼は、後始末には興味がなかった。映画ではよく死体処理専門の業者をみるのに、と思った。
凶手は締めの作業としてKの死亡を確認した。Kの爪をペンチで剥ぎ、Kの表情が変わらぬ様子がカメラに収まるところでビデオカメラを回収した。このカメラの目的は、依頼人への証明ではない。香山へ仕事を行ったことを証明である。彼は往々にして明の計画性を疑うため、こうして指示通りに作業を行ったことを証明せねばならないのだ。
Kの遺骸の前、仁王立ちをした。観察すれば、Kの首には紐の跡と、苦しみから逃れようと引っ掻いた傷があった。目が開かれて乾燥が始まり、間抜けに開かれた口から前歯が覗けた。
部屋に入ってからは、殺害と後始末のことしか頭になかったため、部屋を観察する機会がなかった。何度かこういった施設を私情で利用することがあったが、行為の後になると毎度のように相手の女性がぺちゃくちゃと済んだはずの話を繰り返し始める。その時間がたまらず退屈で、徐々に性欲への興味を失っていった。あげく、彼は恋を忘却の彼方へ追いやってしまった。
明はようやく仕事が終わった、という快感で気分を良くして、大きく息を吐いた。そういえば、生活の心配がなくなった。鼻歌を小さく歌いながら彼は部屋を後にした。もしかしたらとんでもない大きな鼻歌になってしまっていたかもしれない、と一瞬彼の脳裡をよぎった。廊下に出て、作業帽子を脱ぐと、鞄に入れた。廊下の照明、エレベーターのボタン、靴擦れの痛み、手袋の中の汗、冷たいアスファルト、街灯で消え失せた星の光のすべてが自分の味方であるように思われた。
怪しく輝く月の下、中州川端駅と天神駅の間に位置するラブホ街には二人組の男女がちらほらといた。誰もが自分に夢中で明には気付く感じがない。
『香山は実際に同じ方法に則って起こった事件を参考に今回の策を練ったらしいな……結局、誰が殺されても、誰もそのことに手を打とう、などとは思わない。俺は金をもらって人を殺めている。きっと俺は底なしの闇でうごめく悪党だろう。だが、それを自覚しない者どもこそが、人間が成敗すべき悪党なのだ』
色めく街を歩く人々の中に一人、中洲川端の風俗街の方向へと向かう男がいた。背広姿で素面。そして何ものにも関心を向けない、ぶっきらぼうな態度だった。左耳にはピアスとAirPods。両手に指輪がぎらぎらと光を持ち、たまにこすれては音を鳴らしていた。明はすぐにキャッチだろうと予想した。男はこれから仕事をするらしい。反対に仕事を終えたところである凶手は、男の不躾もなべて仕事終わりの自分の気分を高める道具であると見なしながら恋人たちの間を潜り抜けた。
***
労働に区切りをつけた煙草までを思い終わった周旋人はドアの窓を開けた。静かだった車内に、六本松駅で発生する音が入り込んでくる。ダッシュボードに乗った拳銃はそのまま、万物の接触を依然として拒んだ。賑やかになった筈なのにこの拳銃だけは、静寂なんぞ何処吹く風よ、という感じである。
「何か?」
香山は腹に力を入れ、それでいて力を過度にしないよう注意を伴った。語尾が震えたり、硬調になったりするのを避けるためだった。聞こえた自分の声を信じれば、成功を収めたといってよい。そして心得よ、香山は警察官に情報を与えすぎてもならないし、その逆も然り。この点については後述する。
「こんばんは。免許証いいですか?」
「ええ」
少し腰を浮かし、財布を抜き取り、その中にしまってある免許証を差し出した。偽造はしていないものであった。警察官は香山の名前を読み上げると、何にでもないくせに納得するような調子で一言二言口にして、免許証をこちらへ返した。そして、思い返せば実に妙であるのだが、警察官は自己紹介を始めたのだ。香山今まで幾度となく職務質問は受けてきたが、このように自分の素性をすすんで明かしてまでこちらの警戒を解こうとする警察官を初めて目前にして、違和感を覚えていた。警察官が言った。
「僕はスズキマサキです。あてる漢字ですがね、よくある鈴木に、正しい、樹木で、鈴木正樹です」
「鈴木、正樹、微妙に韻を踏んでいていい名前ですね」
香山は気をまぎらわすため、ちょっとした機知を口にした。名前の意味などありはしないことは心得ていたが、自身の評価が向上することを心底拒む人間もあり得ない。
「よく言われます」
香山は鈴木の服装をもう一度確認した。左胸には桜をモチーフにしたワッペン。帽子にも同じワッペンが付いている。勘弁してほしい、と思った。
「車両の中に入りたいのですが」
警察官は車内に侵入するものなのか。それともこの男の所属する警察署なり交番なりで決まっている方針なのか。とにかく、不自然であることに変わりはなかった。香山は眉を上げて、どうぞ、と手を差し出しながら、急ぎ足で拳銃の所持についての言い訳を考えた。
『俺はミリタリーマニアであることにしよう。そうすれば銃の所持の理由づけとなる。銃の描写はどうするか。エアガンはプラスチック製が主流のため、通らない。ともすれば一般人には流布していないガスガンかモデルガン。ほぼあり得ぬ杞憂であろうが、マガジンを引き抜かれた時、実弾が露出すればガスガンでは通らないのだ。映画撮影に使われるモデルガンというのであるなら、その危険を回避できる。成る程冷静になってみれば、実銃に一番近い合法のものとしてはモデルガンに勝るものなどない。そしてミリタリーマニアだからといってモデルガンを持ち歩くことはしないが、映画撮影の関係者ともあれば打ち合わせに使用した、で通る上、シナリオに関わるから、と詳細な情報を隠すことも容易い』
論理を組み立てているうちに動悸は収まった。
彼はまだ車の中に入らなかった。
「少し変なことかもしれませんがね、最近はこうやって中に入るように言われていてですね」
「え? それはまたどうして」
香山は警察官との会話を余儀なくされたときに、自分が実際に抱いた疑問は表面に出してしまっても問題ないと考えていた。なぜならば、彼が車内に入りたがることそれ自体が本当に不思議だからだ。わざわざ車内へ入る目的が理解できない。
……だめだ、と論理に穴を見つけた。シナリオに関わるから、ぐらいでは引き下がらない警察官の職業病のようなものがある。行ってしまった以上は取り下げることはできぬ。これで逃げ切ることは果たして可能なのか。
嘘が下手な人間ほど嘘に嘘を重ねて相手に矛盾を見抜かれるのだ。作り物は必要最低限でいい。これは香山が学生時代に聞いた話だが、センター試験、国語の正誤問題の誤答を作るに際して最も苦労するのが、如何にして間違った要素を選択肢に混合するか、であるらしい。無論、再度述べるまでもなく一番嘘の少ないものが問題の正答率を下げる一因となる。つまり、香山が今から答える内容には嘘をなるべく含まないものがふさわしいのである。……国語という当時最も槍玉に挙がって実用性を疑われた教科が、役に立つ日が来るとは思わなんだ。
「失礼します」
鈴木は助手席に座った。いかに彼の疑いを生まぬようにするかを模索する香山にとっては、彼が車の外にいた時と、車の中にいる今では、大分勝手が違った。身に染みて伝わる緊張感と、いかにして自分の身を守るかが大変だった。
驚くなかれ、彼は突如、声の調子を変えて敵意を露わにしたのだ。
「あんたが香山か」
「俺が香山?」
言い終わるか言い終わらないかのあたりで、鈴木正樹と名乗った男が腕を香山に伸ばした。そして彼の手の行方を捜索した当たりで、呼吸が困難になって、喉に袖の生地が強く当たって痛みはじめた。
香山は、『お前が香山か』という言葉に反応した自分の思慮の浅さを呪い、鈴木は偽名であろうかと、男の殺意を見ながら諦めに似た感情を得た。男の見事な手際で呼吸がなかなかできず閉口してしまった。
鈴木と名乗ったその男は、確実に香山の首を絞めて殺そうとしており、行動には必死さがうかがえた。
声を出さずに喘ぐ周旋人は、自分の過去を内省していた。
『俺は、自分の虚構の愛を現実であるかのように見せかけ、幾人の女から搾取を繰り返すヒモの生活をしていた。ある日を境に自身がヒモであることが耐えられなくなり、すべての女に真実を打ち明けて関係を絶った。思えばあの瞬間、俺は女を虜にする能力を自己愛の材料としていて、自身の時間を無駄にされたという女の悲嘆は全く響かなかった。あくまで俺は、理想像に反した自分から遁走したにすぎなかったことを認めなければならない。
人生というのは、金が無ければ何も叶わないものだ。俺は、風俗店でバイトを始めた。電話の鳴るままに案内所へ客を迎えに行き、笑顔で嘘をついては女を売っていた。そして、客に辛辣な行為をされ、泣きながら退勤してゆく従業員を、数知れず見た。俺がここで働いているからだ、と自覚しながらも、自身の生活のため、と仕事を辞めなかった。諸悪の生みの親は店長なのだ、と責任転嫁しては、自分が歯車以上の何ものでもない、と正当化しようと試みていた。だが、建設者の俺は皮肉にもその論理の空洞性を見透かしていた。日に日に、他人の苦痛を目にするうちに、他人の痛みに慣れるどころか、拍車をかけるように世界への認識が厳密性を増したのだ! この時期から俺は、以前より喫む煙の量が明らかに増えた。煙草は手軽に入る合法なドラッグの一つであり、罪から意識を遠ざけるために、どうしても薬に頼るほかなかったからだと推測する。やがて店は潰れ、また俺は収入源を失った。
そして、ろくな職歴もなかった俺は仕方なくこの業界に足を踏み入れたのだ。夜の街で働くと、様々な方面から客を受け入れる。次第に、運命とやらのせいか、物騒な方面ばかりの人脈が増えていった。そして様々な物騒な人間を自分の配下に置き、人を傷つける商いを始めた。
俺は……大変に汚い人間だった。罪悪を思い返せば思い返すほどに、こうして迫りくる死は、美しく清らかな方法で俺を浄化してくれるかのような観念に見える。生きながらえるには、罪を重ねすぎたのだ。今現実に自分が殺されるのも、天罰覿面であった。黒い闇が徐々に思い描いた景色に滲み、とうとう俺は幼少期の自身の顔写真すら浮かべる始末である。明らかに、俺は人生を悔いていたのだ。そして俺がここで死んで誰かの役に立てるのであれば、それ以上に何を望むのであろうか。……』
懺悔を終えた香山は、死を迎え入れることにした。相変わらず苦痛が襲うが、それもあと少しで終わる。
すると香山は気管が広がるのが分かって、空気を急いで取り込んだ。咳とともに唾液が口から飛び出て、男の腕が離れたことを確認した。
窓の外には、男の肩にナイフを深々と突き立てる明の姿があった。鈴木が悶絶していた。
「離すな、明」と、香山は言った。……つもりであった。実際には違った。
明は顔に痣のような傷を負って、上の前歯を一本欠いていた。香山は快活にダッシュボードの上の拳銃を回収して、男に向けた。明がナイフを抜き取ったかと思うと、もう一度、二度と肩を突くので、ふためいて制止した。白妙な顔の明が、明確な殺意を伴って鈴木の肩を刺しているように見え、今彼に死なれては、自分が命を狙われた意味が知れなくなってしまう、と焦ったのだ。
このとき香山は、後々振り返ってから初めて自覚に至ったのだが、死を受容する姿勢というものが全くに欠如していた。死は目前に近づけば、あれほどまでに美化された観念に化けたのに、救済を得て遠ざかった途端にそれは忌むべき滅亡の黒々とした固まりに戻ってしまったのだ。死は遠くから見ると怖ろしく、近くから見れば美しい、奇妙な遠近法の論理を持った概念であった! ……もう一つの道が可能である。彼が死を美化したのは、あくまで自身の幸福を増やすための、即席の自己正当化行為だったのではあるまいか? 現に彼は、幸福から離れた今ですら幸福に満ちて拳銃を構えているではないか!
鈴木と名乗った男と明とを後部座席に乗せ、香山は駅から出発した。幸いにも、誰も自分達に注意を払っている様子の無かったことは、人々の無関心に感謝せざるを得ないところであった。
***
香山に会うべく乗った電車内で、明は自分を尾行する男がいることに気づいた。ジムでよく見るスキンヘッドの巨漢である。電車の人混みの中ですら、彼の首の太さが際立って分かった。警察か、同業者か。どちらの場合であってもひどく面倒に思われた。警察であれば、よほど手荒な真似はしないだろうが、捕まれば銃刀法違反で逮捕される。同業者であれば、と彼は純粋な興味をそそられた。
『同業者であれば、そこには金が発生する事案があるわけで、ちょっとやそっとのことでは俺の追跡をやめることはないだろう。それにどんな手を使ってくるか知れたものではないから、むやみやたらと接近することも得策ではない。だが、果たして人目に付くところで、やすやすと乱暴することなどあるのか?』
ナイフと銃が露見することを恐れた明は、電車のドアの窓側に正面を向けて立っていた。そのまま電車をやり切るつもりであったのに、彼は衝動に任せ、そんな目的を忘れて男の前に立っていた。考えているうちに、男に話しかけるなどという干渉をやってのけてしまった。
「あの、ジムの方ですよね」
「次の、次の駅で降りるんだ」
事態の諸条件について検証をしながら結論を出さずに、聳え立つ山脈を下る上流の水に身を任せるように行動するのは、明の悪い癖であることを、彼は知っていた。しかしそれを直す気も起きなかったために、今こうして何の対策も取らずに見知らぬ男に話しかけてしまっていた。座席に座りながら降車するよう命令する彼に、明はやすやすと従うことにした。彼の頭は明よりも下にあるはずなのに、体内から発生した威圧が明の全身を突きさしていたのは、彼の洗練された魂じみたものを明に感じさせた。
明は自身の死を怖れたことがない。痛みなどにはたいそう鈍感であった。小学生の時、残酷な少年心を備えた朋輩から、
「車に轢かれてみろよ、二千円やるから」
と、煽りを食らった。それが冗談半分のからかいであることを全く読み取れずに二千円という目先の金額ばかりが頭にあった明は、本当にその場で車に轢かれにいった。その頃の彼は、仄暗い意識の中にあった計算のもとに行動して、車が十分に近づいてから車道に飛び込む、などということはしなかった。運転手はブレーキをうまく踏んだために、明は両足骨折のみで済んだ。後日、二千円を徴収しようかと思い立ったが、その友人が転校したこと病室で聞かされた。非常につまらなくて、役に立たない奴だと思った。
指定された室見駅から降りると、明は彼に連れられて人気のない室見川を渡る橋の下へ向かった。河原の細い曖昧な道へ降りる坂が彼らの自由な歩みを妨げた。男を同業者だと見てすでに警戒をはじめた明は、この傾斜では何も起こらぬと知っていた。予想は当たり、暗 真っ暗な橋の影に到着するやいなや、男は明につかみかかろうとした。この動作で明は、男が自分に殺意を向けていることを確信した。だが、明は、彼が自分に向けた殺意の先にある、この男が自分を殺せるという思い上がりが無性に腹立たしかった。今明らかになったようにこの男は明の同業者であったために、生じる厄介は少ないが、彼がたとえ警察官であったとしても明は殺害しかねないほどに内の衝動を抑えきることを苦手としていた。
突き進んだ明は、彼に自分を殺させないことでこの男から屈辱や憎悪を引き出してやろうと思ったのだ。そうして、この男の意思をへし折ってやるつもりになったのだ。
横に身をそらして男の突進を回避した明は、懐の刃物で彼の脇腹を突いた。そして肉を突き刺す感触を得た。ところが驚いたことに、男は勢いを緩めずに明を蹴ったのだ。バランスを崩して思わずしりもちをつく。明はとっさにナイフを確認した。しっかりと右手に握っているし、しっかりと血がついている。即ちナイフは刺さったはずだし、血の色は赤い。彼は自分と同じ人間のはずなのに、ナイフの一突きでは動じないのであるなら、どうすれば自分は彼を殺せるのか、と明はふしぎがった。要は男の殺意を妨害すればよいため、明の当初の目論見では男がひるんだ隙に逃走するつもりであったが、あろうことか自分に隙が生まれ、彼は逃走とは別の道を見出そうとしていた。
彼が明に乗っかかり、雄たけびを上げながら何か得体の知れない、拳ではないもので明の顔を二発打った。そう感じた明は何で殴られたのか、確認しようと彼の手を見たが、そこには固く握られた拳しかなかった。思わず目を疑ったが、やはりそこには拳しかなかった。明は今まで数々の拳を食らってきたが、この二発の規模の衝撃は生来経験したことのないものであった。明は口の中を切り、右側の歯が抜け落ちた。明が耳にした雄たけびは決して大げさなものではなかった。彼の強打に、非常にふさわしいものであった。
明は彼の脇腹をもう一度刺した。彼が明の顔面を素早く三発打った。歯がまた一本抜けた。もう一度刺すと、彼がようやく痛みにこらえ切れずに地面を転がった。苦しみながらも彼は、怪しい白い光をまなこからこちらへ放っていた。
白い光は、彼の強靭さを表していた。それは明の胸に深刻な傷を与えた。明は、彼が自分の上にのしかかったときでさえ死を怖れなかった点について自画自賛してしまうが、自分の能力では及ばぬ存在を認めようとしていたのだ。人の痛みなんぞに目もくれず生きてきた自分は、誰よりも人の命を奪うことには適正であるはずである。それなのに彼を殺せなければ、生まれた環境や、容姿などではなく、自身の生業への誇示が根拠を失いそうになるのを感じると、『なんとしてもこの男を殺さねばならない』、と考えた。香山にはとやかく言われる可能性を考えたが、この際そんな問題は矮小だとすぐに思い直した。彼を殺さねば、自分のこの認識が誤りであることの証明にはならない。
もはや明は衝動的殺意をもって彼の首に狙いを定めていた。
凶手を引き戻したのが、激甚な無力感であった。明は改めて彼の首の太さを目前にし、極限の意識の中で樹齢数千年の樹木を見たのだ。それは太陽に照らされながらもその太陽に威厳を明確なものとし、現実の世界に君臨する長寿の怪物であった。小鳥や水すらもその存在を怖れ、自然の事物としては全くあり得ぬ成長が、彼の脳を駆け巡った。大樹は、彼に何の興味も持たず、ただのか細いマッチとして彼は佇む羽目になったのだ。俺には、絶対にこの首にナイフを当てることができない。……
明は、電車の座席に腰をおろしているところで自我を取り戻した。ナイフや、拳銃はまだ身に着けていた。しかし、先ほどのもみ合いで落としてしまったのかAirPodsのみが見当たらなかった。それでも、口の中や、頬の痛みではなく、あの首からなる恐怖で彼は震えを抑えることができなかった。全身を走る悪寒は、香山と待ち合わせた駅で降りるまでそのまま駆け回っていた。
震えを抑えた明は、降りた駅のロータリーで香山の86を発見した。顔面の傷をとやかく質問攻めにされるのだろう、と思い少し陰鬱な気分で車に近づいていった。iPhoneの時計を見ると、既に約束の時間を過ぎていた。早めにジムを出たのに、思わぬ障害を乗り越える必要があったことを説明せねばならないことも、明の気分をみるみる沈めていった。
スキンヘッドのことを思うと、自分が死にかけた事実も連想され、怒りを覚えた。しかしすぐにあの巨木のミラージュが連なり、そのミラージュが自分の心を覆いつくしてしまいそうで、些末なことだと無視しようと試みたが、それが虚勢と認識して苛立ちを覚えた。
86の中をのぞくと、警察官が香山の喉を腕で押さえつけていた。鬱憤のたまった彼はこの警察官に殺意を向けることにした。ドアを開けてナイフを警官の肩に立てた。
「明、ぶち殺せこいつ」と、香山が言った。彼は自分の発言を誤認していたのであった。
お互いに意思が繋がり、香山の言う通りに殺害へ向けて歩みを進めようと、もう二度肩を刺したところで、香山が驚いたように明を止めにかかった。明は彼の言動に外れたことをしていないのに、香山はそんな風に制止したのであった。
周旋人は続いて、明と警官に後部座席へ乗るように伝えて車を出した。
車の行き先よりも、自分の苛立ちの行き先の方に興味を与えられた明は、とにかく束縛された警官を殴打していた。拳が痛み、血が出ていることに気づいた。狂気に溺した明はその拳を舐め、唾液を警官の服で拭ったところで鬱憤に別れを告げたのだった。
香山に連れられた二人は駅から離れた貸倉庫に入り、警官を椅子に縛り付けた。
「お前は何と呼ばれているのか」
男は、香山の質問に答えなかった。明は香山の合図を受け、彼の革靴に向かって発砲した。
「次は体の部位を削ぐ」
明があいまいに念押しした。こんな状態の警官を拷問するなら、耳を削ぐことしか思いつかなかった。周旋人が質問を繰り返すと、警察官はお宮
おみや
を名乗った。
「二人組のか」
「香山、もう一人はマナブだったかしら」
「違う、貫一
かんいち
」
「お宮ではなく、ケイコだったか」
「誰からの仕事だ」
また口をつぐむので、明は仕方なく右耳を削ぐことにした。刃が半分を超えないあたりでとうとう観念したお宮が、Kの男だ、と叫んだ。俄然として香山は、切り取るように指示を加えたので、明は完全に彼の右耳を切り取った。切り取った耳介は、触っていても気持ちのいいものではない。明はすぐに放り捨てた。香山が質問を続けた。
「K、とは一体誰のことだ」
「お前達は、覚えていないだろうがな、とにかくKという股のゆるい女がいて、お前達が彼女を殺した、ラブホテルでの仕事だ、身に覚えがあるのではないか? 彼女は、その股の緩さゆえに数々の人間と肉体関係にあった。男女構わずだ。そのうちの一人がKのiPhoneの位置情報を手に入れ、お前達のうちどちらかを尾行して、わざわざ写真まで丁寧に添付して、依頼をしてきたんだ。俺達は、お前ら二人を殺害するよう、仕事を依頼された」
明はお宮の話を聞きながら自分のした仕事を回想し、ラブホテルで絞殺した女のことを思い出した。確かに彼女はKという名前だった。そして、自分が彼女の鞄を現場から持ち去り、そのまま帰り、数日たってから慌てて橋から投げ捨てたことも思い出したのだ。そうか、では自分が尾行されていたのか、と気づいた明は悔しさを覚えた。
『悔しさといえば、先刻襲撃してきた男は、おそらく貫一であったのであろう。俺の屈辱の根拠は、彼により死の淵に立たされたことではない。彼を、俺の怒りをもってしても死に至らしむことができなかったことだ。俺が彼の脇腹にナイフを突き刺しても、彼はそのタフな精神力で動じず、俺を殴打し続けた。
そして、あの首だ。ジムで筋肉を肥大させようと俺は、いい加減な頻度ではあるものの、努力をしていた。自身の遺伝子が優れていたのか、俺はそれでも平均以上の肉体を有している、という誇示があったのだ。平均以上である。俺もそれで自身が地上で最も優れているなどという誤謬を犯すほどの馬鹿ではない。俺は自分より優れた肉体の存在を認めていた。だが、鍛錬された肉体は他人に障害を加えるにも大変な加勢となった。もとより喧嘩じみた機会に窮したことはなく、ことごとく俺は勝を収めていた。そこに鍛錬が加わったのである。おまけに俺にはナイフがあった。鋭利な刃物は、たいして力の及ばぬものでも、対象へダメージを与えることができる、優れた武器であった。優れた反射神経、優れた筋肉、優れた武器。俺に殺せぬ人間など、いるはずがない。少なくともサシの勝負では確実にいない。しかし、この結論がうぬぼれだと醒めさせたのがあのたった一つの首であった』
明は、日頃より目にするあの首に抱くこの病的な恐怖を、深層より掘り返されたのだ。自身の肉体に対するうぬぼれは、全く無視できるものではなかった。明はどこかで強く信じてしまっていたのだ。その信頼が、自覚を猜疑していることを明は意識できなかった。あの首は、明に大変な傷を与えたのだ。自分の上に立つ肉体を、彼はやはり怖れていた。貫一というその男はその肉体を伴って明の土俵に上がり、明の自尊心を粉砕するに至った。そのうえで、あの敗北は、明の無意識の猜疑を、無意識では済まさぬほどに色濃くしたのだ。仕事への誇示だけではない、自分を支配している、という認識を根幹から揺るがすものだった。支配の認識は、支配自体を殺しかねない劇薬なのだ。
***
お宮は、依頼のメールを読んでしたり顔をした。
『私の交際していた女Kが殺された。殺したやつを突き止めた。警察に突き出すだけでは気が済まない。なぶり殺しにしてほしい』
添付されていたjpegファイルを開くと、そこには明が写っていた。彼は業界で名の知れた男で、ブローカーである香山の下で働いていた。どちらも、仕事の上手なことで知られているのに、彼らの素性を調べた依頼者に舌を巻いた。しかし、まだそれだけでは情報が不足していた。
ところでお宮と貫一は、貫一の配偶者である紅葉
こうよう
という女性を情報提供者としていた。紅葉は、タクシーの運転手をしている人だった。つくづく思うが、人がタクシーという空間に入ると、なぜかべらべらと秘匿にすべき内容ですら話し始めるのは間抜けだ。誰も運転手の存在を気にしない。そこで、紅葉はそのまま聞いた内容を覚えたり、時に録音したりして二人に提供していた。毎度欲しい情報が手に入るわけではないし、効率のいい方法とはいえなかったが、それでも効果はあった。彼女も、同僚からも話を集めては二人に報告したりと、協力的な姿勢を示していた。しかし、二人はあくまで、彼女を予防線程度に考えていた。
人の恨みは、その元を断ち切ることができずにぐるぐると回り続ける、終わりのない螺旋階段のようなものだと、お宮は考え、ふと昔見た映画を思い出した。『ノーカントリー』という映画で、偶然ギャングの金を拾った主人公が、その金を持ち逃げする。彼を追跡してくる殺し屋から逃げるのだが、その殺し屋がとにかく執拗なのだった。途中に出てくる男が、こう言った。
「傷ができたのなら、それは治すことができない。せいぜい止血するぐらいしか、私達にはできない」
その殺し屋は、人の恨みや報復のメタファーであった。恨みというものは、かき消すことのできないものなのだと、このような依頼を見聞するたびに思い知る。怨敵は怨敵の母だ。
お宮は貫一と打ち合わせをすることにした。天神駅で待ち合わせ、どことなく歩きながら二人は話した。太陽が、雲が邪魔そうに地球を眺めている日で、肌着だけではとてもではないが動けない。時折すれ違う半そでの人は、寒そうに腕組みしながら歩いていた。福岡の天気は、読みにくい。今日は暖かった、と思えば翌日には雨が降り、翌々日には強風に身をなびかす、などというのはよくあることで、体温調整がたいそう困難だ。
「電話でも話したが、同業が相手の仕事は少し厄介だ。相手が殺人や傷害に慣れていると、主導権を掌握することが少し難しくなる」
貫一は身長が高く、大変に大きな体格をしており、奥目の男だった。その屈強さはお宮に威圧を感じさせた。道行く人もそれは同じだった。
「その分料金は高くつけた。相場の五割増しだ。それで、ブローカーも殺しましょうか、と提案して二人分。つまり、三倍だ」
「その計算は間違っている」
自分の交渉を述べて得意げになるお宮に彼は言ったが、お宮は理解の及ばぬことと考え、話を進めた。
「紅葉さんからは、何かないのか」
「知らないそうだが、もとより期待すべきものでもないさ。自分達で調べるしかない」
「別に焦ってする必要もない。もう少し待ってもいいだろう」
調べる面倒を忌んで、お宮は言った。彼は、貫一に明の写真を見せた。すると、それを見た貫一は驚いていた。
「この男、同業なのか」
「お前こいつと知り合いなのか」
「いいや、だがジムでよく見る男だ。着やせしてはいるが、彼はなかなかにいい筋肉をしているぞ」
彼は感心するように言って、合点がいった、と話し始めた。
「彼は、ジムでよく出まかせを言うくせに、計算の苦手な男でな。従業員に自分の武勇伝を嘘ぶいて、それが矛盾だらけの話でよく嘘がばれるのだが、それを全く気に留めないやつさ。自分の狂気が隠しきれていない。ちょうど、お前と同じだよ。そうか、彼は同業か。なら彼はこの仕事が天職だろうな」
お宮は、年の差を利用して自分を見下す貫一の態度に少し腹が立ったが、顔に出さずに答えた。
「では、お前は狂気を隠蔽できているのか」
「まあ、まだまだだろうな。だが隠せていると思っているよりはましだと思っている。お前にはまだわからないかもしれないが、狂気というやつは使い方を覚えるだけではまだ足りないんだよ。面白いものだろう」
彼はまたしてもお宮の未熟さをあざ笑っていた。しかし、年の差が理由であれば、お宮に反論するだけの根拠が見当たらなかった。負けを認めずにお宮は話題をもとに戻した。
「明を担当してもらえるわけだな」
「それは問題ない。了解した」
了解、とは本来、目上から目下に向かってしか言わない言葉だった。特に知られている知識でもないし、彼にそういう意図があって発言したわけでもないのだろうが、お宮はそのことすら尺に触ることだと思った。しかし、彼がその圧倒的な肉体と経験で仕事を確実にこなすことは心得ており、その点においてはお宮は彼を称賛していた。しかし、無根拠に彼とお宮とでは、自分の方がどこかの点で優れていると確信していた。
後日、紅葉から貫一を通して、香山が六本松駅で明と待ち合わせしている、という情報を入手した。お宮は香山を殺すために、貫一は明を殺すために行動を開始した。
***
椅子に縛られたお宮は、力尽きて目を閉じていた。香山は死んでいやしないかと呼吸を確認したが、お宮はまだ存命であった。耳を切られたり、足に被弾した程度では人は死なない。映画というのは実によくできている。
明は自分の置かれた状況を今一度考えた。香山はお宮に襲われ、それを自分が阻害し、そして捕縛した。お宮を拷問すると、彼は二人が過去に行った仕事の被害者の交際相手から依頼されてい動いている(性欲の変貌した先が、生命を奪う殺意とは!)。……忘れたくても忘れられない。
『俺は貫一に殺されかけ、無様にも逃げ帰った。俺は、彼を殺そうとして、殺せなかった。根拠もなしに自分の能力に溺れていたので、自業自得であった。彼に殺されなかったという点において勝利した、というのはどうも楽天主義じみていて採用できない。俺は……能力不足で彼を殺せなかったのだ』
しかし、明が彼の殺害に失敗したという事実は、まだ香山には明かしていない事実でもあった。そこで、明の中の狡猾がはたらきはじめた。香山に対して、明は一種の承認欲求を抱えており、自分の仕事上の能力についてその発動は顕著であった。『自分では認めても、他人には認められなくてもよい』。そんな、本来なら失恋を繰り返したした人間が、他人と自分の評価を切り分けて自尊心を養うために作られた論理を、明は悪用しようと試みていた。
『本当に、それでよいのだろうか。俺が彼に承認を求めるのは、もっと別の何かがあるのではないか?』
香山は尋ねた。
「明、お前、その顔面の負傷はどうしたんだ。お前のように屈強な男が、みすみすと相手との力量の差を理解せずに傷を負うとは考えにくい。もしかして、貫一にやられたのか。貫一は、それほどまでに手ごわいのか」
彼は、真っ先に明が気にしていることを突いてきた。しかし、明はこのばつの悪さから生まれる表情を、嘘を覆い隠すために使えると思ったのだ。ぱっと思いついた小話を、明は慎重に見直し、香山に告げた。
「別に。集団にリンチされただけだ。一対一だなんて決めつけないでくれ。途中で勝負をほっぽり出して逃げたことは、俺も気にしているんだ。あまり余計な詮索はよしてくれないか。これでもあんたと三年働いて、俺はあんたを信頼している」
「お前、嘘はついていないだろうね」
「ついてないさ」
実際、相手が三人までならナイフを使ってどうにでもなるが、香山の知るところではないし、突っ込まれても、それ以上の人数に集団リンチを受けたと言えばよい。明は、経験から話を深く探られれば嘘が露呈することには気づいていた。そこで、悔しげな表情も駆使して、彼の情に訴えかけることで彼の疑惑を薄め、その上とどめとして、詮索をやめるようにはっきりと宣言したのだ。彼がどう出るか、それだけは別の次元で動く問題だ。歯がゆいが、どうにもできない。疑り深い彼の性格は、この由を認めるかどうか。
「そうか……分かった。仲間をうたぐるなんて、恥ずかしいことをした。面目ない」
凶手があっけなく申し訳なさそうに目を他へやった。自分の嘘は、ばれなかったのだ。凶手は果たして、愉悦するはずだったのにそうはいかなかったことに内心驚いた。彼は心底この悪行を喜ぶことができぬことをふしぎがった。
香山が言った。
「お前が嫌がるのは承知で言うのだが……煙草を吸ってもいいか。俺みたいなニコ中にとっちゃ、吸うのも毒だが、吸わないのも毒でね」
「どうぞ」
明はこれまでの人生、受動喫煙を忌避していた。目の前で何の許可も求めずに喫煙をはじめた友人をたこ殴りにしてやったこともあった。しかし、このとき明は香山の喫煙を非難する気が全く起きなかった。先ほどと同じ感情であるような予感がした。あと少しの分析で、この感情の正体はわかるはずだったが、全くもって分からぬままであった。
「さて、どうするべきか、考えなくてはいけないな」
香山が言った。いざ煙の匂いがすると明は嫌気がさしたが、我慢していた。そしてその思いをかき消すように頭を働かせて、香山の挙げた問題の解決策を提案した。
「二人とも殺せばいいだろう。それでシンプルに解決だ」
「いいや、そうはいかない。二人を殺したら、死体を片づけるのは俺達の役目だろうに。できない話ではないが、この場合ならもっと別の解決策がある」
「どうするのさ」
「逃げるんだ。別に相手をする必要もない。こいつらはこいつらで、警察に行くこともないんだ。わざわざ、金で雇われているだけで個人的な怨恨もない犯罪者風情が、どうして警察へ行くんだ。依頼者には、こいつらに報酬よりも高い金額を払って嘘の情報を流してもらう。その点については、こいつらには協力を惜しむつもりはない。それで、いいな、お宮」
お宮は意識を失ったままであった。周旋人は明瞭な返事を受け取るがために再び彼の肩をゆすったが、起きる気配がない。
香山はこの業界に巣食う人間が知る論理を理解していないようだ、と明は考察を加えた。この凶手は同業者から殺されかけたことはついぞ無く、貫一がはじめて出会った同業者であった。認めたくはないが、貫一にも自分と同じような血が流れている。自分が貫一であれば、逃した獲物をどこまででも追いかける。仕事に対してそこまでのプライドがあった。劣等を知った明はすっかりやる気をなくし、関係のない話をはじめた。
「そういえば、AirPodsを探すためのアプリ、あったかな」
香山は、ちらと彼に目をやり、答えた。
「ホーム画面から『探す』、と検索すれば出るさ」
お宮のズボンのあたりから、着信音が鳴った。お宮のスマートフォンが誰かからの電話を受けていたのだ。当のお宮は、気づいていない。香山は迷わず電話に出た、と明は見た。
***
一方で香山はお宮の話を聞きながら、自分が依頼されて、直接ではないにせよ殺害した女性Kのことを思い出していた。依頼に従い、明が彼女を絞殺したことは知っていた。その事実は、堕落で点いていたテレビに映ったニュースで確かめた。明が提出した動画は見る気になれずにいたのであった。ニュースキャスターはこのように原稿を読み上げた。
『今日午前二時ごろ、福岡市内の宿泊施設にて、女性の遺体が発見されました。女性の身元は、現場から遺留品が持ち去られていたために、未だ明らかになっていません。なお、福岡県警は、金品を目的とした強盗殺人とみて捜査を進めています。警察の発表によれば、目撃者はおらず、捜査は難航する模様です。過去にも同様の手口による犯罪が起こっており、対策を怠った施設側……』
それを聞いた香山は急いてテレビの電源を落とした。
そして今、彼女と交際し、彼女を大切に思っていた人間が、この二人の殺し屋を怨敵とみなしていることが明らかになった。他人の命を食い物にして自分の利益を得る。いざこう捉えてみれば、以前から繰り返し行っていた労働の原則であった。人の金を浪費して、好き勝手に暮らす。金が、命や時間に置き換えられただけで、この置換が自分にとって何か重大な意味などもたらすはずはない。ただの置換だと思い込んだ。自分がそれを必要だと感じたから他人や、その人の資産を利用している。そこに正義も悪もない。
俺はそう思い込めば、それでいい。……
『俺が感じているこの感情は、エゴイズムの受容を拒否しようと、俺の未熟さが生み出したものだ』
裏腹に、そう思うたびに周旋人の脳をよぎるのは、人が泣いて、悲しむ姿ばかりであった。
貸倉庫は、福岡空港の近くにあり、香山がこのように人を痛めつける際に使えるように借りたところだ。時折、飛行機の離着陸で轟音が倉庫内に響いた。本来なら備蓄の用途を想定して設計されているため、こうして何もなければ、大変に心細さを与える広さだった。高い天井にはライトが並び、中の様子は鮮明に照らされていた。鉄柱の錆が、ふと気になった。なぜあんなものに注目したのかは分からない。しかし、錆は照明のせいでどす黒く見え、だんだんと錆が柱全てを覆いつくすような幻想に駆られた。周旋人の目の前ではお宮が耳から血を流し、顔面に傷を負って椅子に捕縛されていた。今はこの呵責を片づけている場合ではない。
香山は明にかねてからの質問をぶつけた。
「明、お前、その顔面の負傷はどうしたんだ。お前のように屈強な男が、みすみすと相手との差を理解せずに傷を負うとは考えにくい。もしかして、貫一にやられたのか。貫一は、それほどまでに手ごわいのか」
周旋人は自分がお宮に襲撃されたことから連想して、明が貫一から襲撃された可能性を考えていた。明が答えた。
「別に。集団にリンチされただけだ。一対一だなんて決めつけないでくれ。途中で勝負をほっぽり出して逃げたことは、俺も気にしているんだ。あまり余計な詮索はよしてくれないか。これでもあんたと三年働いて、俺はあんたを信頼している」
「お前、嘘はついていないだろうね」
と、香山は明への不信感を口にした。
「ついてないさ」
ばつが悪そうに顔を背ける明。周旋人の目には、凶手が失敗を悔いているように映った。凶手の言う通りだと香山は思った。明は三年も共に働き、彼なりにしっかりと仕事をこなし、成果を上げている。推し知ることのできない内面を無視して表面を見れば、彼は、自分のために役立とうとしてくれていた。自分がこれ以上彼の詮索をするのは、彼の行為を無下にするという点において、自分の不道徳の表れであるのだ。今日凶手を会食に誘ったのは、彼から信頼を得て、信頼に足る人間だと確認するためであったことを香山は自分に言い聞かせた。互いに命を崖の上に置かれた今、極限まで達した緊張の中で、お互いを信頼する他ないのだ。むしろいい機会である。そう考え、香山は無礼を謝罪した。
「そうか……分かった。うたぐるなんて、恥ずかしいことをした。面目ない」
「そういえば、AirPodsを探すアプリ、あったかな」
すると、お宮のスマートフォンが電話を受信して、香山はその画面を確認した。表示されていたのは、『貫一』の二文字だった。何の偽装もなかったためにほんの一瞬だけ香山は逡巡したが、自身の端末にまで細工を施す可能性は低いと見積もり、出てみることにした。……明の認識は誤りであった。
「もしもし」
「お前が貫一か?」
「誰かね君は」
「香山という、同業だが、そちらさんは名乗らないのかい」
「お前の言った通り、俺は貫一だよ」
貫一の声は、どうも無機質で、電話を取ったのが香山であることにもさほど驚いていない様子であった。
「ということは、お宮がそこにいるわけかね。彼は、捕まったのか。計画はご破算というわけだ。ああ、そうかい。しかし、俺はこの通り、まだ息をしている。ということは当初の計画とは違うが、俺が一人でやるしかないわけだ。こちらも、生活がかかっているから、仕事はきちんとかたづけないといけないのさ。彼なら、もう煮るなり焼くなり、君達の好きにしたまえよ。ところで、明はいるかい。俺が殺す予定の男だが、いるなら代わってもらいたい」―彼は淡々と、階段を転げ落ちるボールのように喋った。
貫一は自分の同僚が拘束されていることが全く響いていないようだった。もしかしたら、人質としての価値がないことを示そうとしているのかもしれない。
周旋人は疑いを確信へと変貌させて、貫一をまくしたてた。
「お前はそれで俺を化かしたつもりか。分かっていないようだから、ご教授してやろう。強がりは、人の弱さの表れだ。お宮がお前の情報を吐いたら、どうするつもりなのか、お聞かせ願おうか。お前は、今俺達より不利な状況にいることを頭から抜かすなよ。彼に人質の価値がないとするのをよしとするやつがいるなら、そいつはおつむの弱い、間抜けだ。お宮をただで返すと思ったら大間違いってやつだぜ。いいか、お前はしっかり俺達の言いなりになるんだ」
香山は、自分の発言の中にあった強がりの件が、自分に向かって言っているような気がしてならなかった。
「そうきたか」
貫一は考え込んで、続けた。
「分かった。では、博多駅で落ち合おう。あそこなら駅構内に交番もあるし、お互いに安全だ。そして、お互いのためにお宮を連れてくるんだ」
「どういう了見だ。今の話をまるできいていなかったのか」
「俺達は、お互いに顔を知らないのだろう? 俺は明に、まだ手をかけていないんだからな」
「だからといって、直接面と向かって話す必要があるとは言えんだろうに」
「いいや、お前の言いたいことは分かるさ。それを承知で言っているんだ」
「香山、こいつの言うことを真に受けることはない。俺は計算が苦手だがな、これは分かる。これは、何か企んでいる言い方だ」
自分の把握していない情報を指摘され、周旋人は当惑した。明の助言通り、貫一の喋り口には余裕があった。しかし、具体的に何かを説明できずに喋り口だけで押し進んではならない。電話では言えないことがあるのかもしれない。……盗聴か? 香山は、水商売をしていたときに通信会社の客から教えられた、ほこりにまみれた知識を引っ張り出した。このように周旋人は、接客を通じて得られた知識を活用する術を知っていた。
貫一の要請である対面を拒み、この電話越しのまま腹を割って話して安全を確保しても、彼の傍らで聞き耳を立てる人物がいる可能性がある。さりとてその場にいなくてもその心配は消えない。我々が3Gや4Gの回線を通じて電話をする際には、現在CDMA方式が主流のものとして採択されているが、これが少し傍受には厄介な仕組みを持っている。電波には指向性などという気障なものは備わっておらず、一つの端末からはすべての方向へ向かって電波が発信され、その端末から最も近い場所の電波塔を介している。端末はもちろんのこと、電波塔も同様にあらゆる方向へ(その基地局内に存在するすべての端末が受信するように)電波を飛ばし、通話の相手はその電波に付与された符号とSIMカードに保存されている符号を照合して、はじめて混在する電波の中から自分あての電波を発見した端末のみが通話することを可能にしている。すると、第三者がその基地局内に飛ばされる電波を受信するのみでは、ただの聞き苦しいノイズであり、それでこの通信方式は秘匿性を保っているのだ。
つまり、明確に会話を聞き取るためには少なくともどちらか一方のSIMカード情報を入手し、自分の端末のSIMカードを偽装する必要がある。香山は今までの人生でSIMカードを人に譲渡したことなどないが、貫一は今、依頼人の息がかかった状態だ。SIMカードを手渡している可能性は十二分にある。
彼は、依頼人にSIMカードを渡しているのかもしれない。もとより二人を怨敵とみなして、個人情報を探るほどの執念をもつ人間だった。そんな要求があっても不思議ではない。この仮定を呑み込めば、香山が貫一に報酬の額を尋ねることはできなかった。依頼人がその会話を聞いていれば、オークションさながらに額を釣り上げてくることは読める。こういう、請負殺人に金を使う人間の金銭感覚は常人からかけ離れているのだ。
お宮の身柄を奪われることが心配だったが、自分か明のどちらかがロータリーに86を停めて貫一に会うしかない。そうであるのならば腕っぷしのたつ明をよこすのが、香山の最適な答えらしく思えた。
「……わかった。観念したよ。博多駅にいてくれ、明とお宮を行かせる」
***
一連の会話を受けた凶手は、周旋人と全く別の見解を持った。
それは、貫一が明との対面を隠蔽した、というものであった。その理由は何なのか。香山の主張した通り、明がお宮を連れて博多口に行けば、貫一はお宮の奪還を試みるはずだ。
貫一は駅構内に交番があると言ったものの、その交番は駅構内の中心にあるわけではなかった。博多口の前にある広場の、極めて端寄りにあるために、駅の構内を見渡すことなどできはしない。そして、明も貫一も、警察からの注目を好まないために、貫一が踏み切ったならば無理やりにでもお宮を連れ去ることは可能だった。しかも今の時間、日は落ち、暗がりでますます構内の様子は見渡せない。貫一が彼に何かのメッセージを伝えようとしているのは明らかである、と凶手は思った。
そしてここで明が貫一と会った、と決めつけてしまうのも、明らかな過誤である、とする事実も彼を迷わせる一因となった。今まで女性の興味に引っかからなかった男でも、何かが劇的に改善されれば一日に複数回女性から誘いを受けることがある。即ち、状況を今のものに置き換えれば、同業に会ったことの無い彼が、今日日二人の同業から襲われることもあり得る話だ。凶手は、自分以外に存在する同業者に何の関心も抱いていなかった。誰かと連絡を取り合っていれば、貫一の顔も知り得たかもしれない、と考えた。
どういうわけで人が戦争となれば兵士となり、人を殺す選択を行うのかに明は確乎な原因を与えていた。
何も手を打たなければ相手から殺されてしまうから、自己防衛のため。
それが自分の仕事だから。
そう訓練され、体が自動的に動く殺人マシーンと化しているから。
これが月並みに挙げられる理由であるが、明はこれらを凌駕する理由があると踏んでいる。これらだけでは決定打に欠けている、というのだ。
人は集団に生きる動物だ。それが切っても切れない習性である。平素、人間は周囲の他人がどう動くか、どういった思考を持っているのかを見聞したり、推察したりしながら自分の行動を決定する。人は集団に支配されている。
例えば、Instagramなどのソーシャルメディアで、一体どれほどの人間が、いいねも得られずに投稿をし続けるのであろうか? そして、本当に「いいね」と心底思っている人間がいるのであろうか。どの人間も、本音でタップをしているのではない。誰が他人の食事や、のろけ話に興味があるか! 実際に見せて、その人の反応をうかがってみればよく分かる。スマホをいじりながら、どこ吹く風の相槌を返す(だから明は人が嫌いだった)。どいつもこいつも、自分の投稿にいいねを返してほしくて、その前払いとして『いいね!』をタップする、とこうくるのだ。それは了解されていると思っているがゆえに誰も実際に確認を取ろうとしない。そんな確認は「失礼」と名のついた謎のゴミ箱に捨てられている。
人がどうして戦時に殺人を犯すことが容易になるのか、という話の結論であるが、それは軍隊という一つのコミュニティの中において、殺人を行うことはある種の正論だからだ。集団としての論理が殺人を良しとするのである。軍隊の中では、誰もがそれを特別なこととしていない。個人は、他人がどう心底で感じているのかを知らずのうちに、当然のことなのだから、と殺人を正論として呑み込んでいる。
凶手には他人が枝葉でしかない、という自信があった。他人がどう言おうと迎合しないし、自分にとって正しくないことは正しくない。集団がどう言おうと自分を曲げる気にはさらさらならなかったからこそ、同業と連絡を取り合おうとは思わなかった。そう思っていたところに現れた貫一が、彼に大変なショックを与えたことは言うまでもない。
周旋人は電話を切ると、一寸考えて明に指示を下した。
「お宮を車に乗せて、博多駅へ行こう」
貫一の意思について疑惑を抱えたままの明は、香山の指示に従い、意識のないお宮を車へ運んだ。博多駅へ向かう途中、香山がお宮の耳介がないのを厄介に感じて、コンビニへ立ち寄ってニット帽の使いを頼んだ。明は了承し、ニット帽片手にレジに並んだ。レジには多くも少なくもない数の客が並んでおり、明は時間を持て余した。並んでいるとき、香山に教えられたアプリを思い出して起動した。
明はAirPodsの位置を見た。それは博多駅にあることをありありと示していた。
凶手は確信した。先ほどの襲撃の際に貫一がAirPodsを奪ったのだ。
そして、貫一は明と会っている。そして彼は、香山に向かって嘘をついたとしても、それが自分の横では嘘がばれることに気づいているはずだった。これではまるきり隠蔽が、隠蔽をなしていない。それも自分にだけ。つまり彼は明に対してだけ伝えたいことがあったのだ。そして自分が彼ならば、(と再び明は狂人の論理なるものを貫一に当てはめて事態を説明しようとした)、殺すつもりが取り逃がして、そして自分を殺し損ねた相手に向かって、こう言うのだ。
『お前の欲しい命はここにある。逃げも隠れもしないでここに存在する。もう一度一人の力で俺にかかってこい。お前の能力を、証明してみせろ』
貫一は明の狂気を肌で感じ取ったのだ。するとなるほど確かに、彼の意のままに動いている。さりとて明にとっては雪辱の好機であることは明確な事実だった。
再び生を得た明の狡猾はこの流れに乗るようそそのかした。
空港から博多駅はそう離れた場所にはない。香山が車を転がせばすぐに筑紫口に到着し、明はお宮とともに86から降車した。逃げ出さぬようにお宮の肩に手を回して、強く握った。
老獪を浮かべる凶手は、香山の加糖練乳よりも甘ったるい判断をあざ笑いはじめていた。それは明の中に悪意を宿らせた。ちょうどコーヒーに半紙を浸したような具合だ。
計算だと? 冷笑が絶えないね。
自分以外の存在が下劣と名付けるに事欠かぬ風に思えたのは久しくもない。
「ねえ、わたしのこと好き?」
幾年か前の夏の夜、裸で横たわる女が尋ねた。明はものぐさに応答した。
「なんだってそんな質問をするんだい」
「だって、わたし何度も言ったのに、あなたは一度も言ってくれていないじゃない」
はらわたがぐつぐつと煮えくり返った。卑猥な桃色に染まったはずの部屋が、一気に黒くなった。二の腕にかかる彼女の髪をうざったく思いはめた。そもそも、言動からして男慣れしていない雰囲気が気に食わない女だった。見下し、性欲のために利用しただけだった。
「さあね」
と言いながら接吻した。
彼が悟りを得たような心地でなければめった刺しにしていた。それからぶつぶつと女々しいことを述べるのだが、言葉のそこら中に陰気が匂い、とてもではないが記憶しようとは思えなかった。体だけは相性が良かったから、何度かまぐわいを為したが。それでも次第に興味が薄れていき、殺意をこらえきれなくなる前に連絡を取らなくなった。あの女と交際なんぞはまっぴらだった。
明の中に構築されている世界の要素は、計算や論理のように、説明が明快なものに重きをおいたものではない。……
『この世界の中心にあるのは、殺意を生み出す、生命の根源を脅かす狂気だ。計算なんぞは二の次でよろしい。自分の論理がこの戦争を勝利へ導くと思う香山は、一体どれほど愚かだろうか! 俺はこれほどまでに嘘が自分に味方する瞬間を見たことがない。ああ……美しい。たとえ邪魔なお宮を連れていても、会う直前に殺してやればいい。瑣末な問題はきっとどうにかなるであろう。人が苦しみ、わめく姿が、自分の娯楽だった。誰かを支配してやるのも極上の一つだ』
貫一への雪辱の欲望が明を高揚させた。香山を踏み台にすべく動こうとしていた。
肩にかかるホルスターが揺れた。拳銃も腹に当たって少し痛い。
すれ違うサラリーマン、金髪の若い男女、改札口で口論を吹っ掛けられる駅員、練り歩く男子中学生、誰かを待つ背広の女……どいつもこいつも平等に弱点がある。それを明はつまみ、捻り、無力さを理解させる。腹の底から叫ばれる、苦痛を耳にぶち込んでみたい。命乞いなんぞはつまらぬ瞬間だった。命が消える、限界的な瞬間は、興味の与えられるものではない。彼らが積み上げた、幸福、そして幸福を裏打ちする不幸、すべてがローラーで踏みつぶされることを理解した瞬間の表情がいい。
土木のバイトをしていたとき、明はある同僚をいじめていた。気の強い同僚で、入りたての頃はいつも親方の手を焼かせていた。安っぽい金髪が品の悪さを象徴する男だった。明は体力や立ち回りで彼を上回り、それを見せつけて同僚の強気の根拠を失わせた。
苦労を見ない所業であった。前面に出された強気ほど、トランプタワーを崩すように楽に崩すことができる。同僚は明に嫉妬の感情を抱くようになり、明の作業を邪魔しはじめた。すると明はもはや支配を獲得したようなものだと考えた。人から憎悪を引き出せば、その人間は単純な動きをしだす。明は同僚についてあることないことを吹聴し、信頼を貶めた。同僚は、だんだんと作業場全体の人間から虐げられるようになった。明は同僚の肩を持ちはじめ、自分以上に優れた人間などいないという思考を植え付けた。そうして得た信頼にも似た関係を明は主従関係に変えた。相手しかこちらに信頼をおいていないのだから、そうなるのは必然だった。同僚への要求を徐々に残虐にしていき、とうとうつるはしで殴った。背後からではない。倒れたところを生き埋めにしようとした。土をかぶりながら、同僚は泣きだした。自分は太陽や空と二度と会うことができぬと覚悟した。慌てながら首を振り、声を裏返らせて助けを求めていた。結局はそこを職場の人間に見られたために明は中断し、解雇されたのだが、金以上に得れる悦楽があったために一切の不満を感じなかった。
博多口を出ようとした。
出られなかった。気がつくと明は踵を返していた。間反対の、元いた筑紫口に向かっている。お宮が明を引き留めようとしたが、彼は無視して肩をつかむ力を強めた。
何かの判断を強いられたのだ。恐怖ではない、別の想念じみたものが明を動かしていた。踵を返したのは、誰もが経験するであろう無意識に組まれた考えの連なりからなる決断だった。歩きながら、明は自分の思考を見直した。
次にとる自分の行動が分かった。香山への嘘を白状しようとしていた。香山へ何と告げようか、考えていたのだ。自分は屈辱を通過し、香山に素直でいようとしていたのだ。
Oh, there was him, Alex, and a tattoo artist.
'I want it to be just a character, "False", that's it'.
'What's that mean, may I ask?'
'You know, we can never be honest, and keep telling lies to each other'.
Although the artist could not understand, he did it as Alex told.
Day by day, Alex noticed, the tattoo was fading. He did not care about it that much, thinking that fading is not a big problem, and that it would stop soon. It did not, however.
The tattoo was completely gone in the end.
‘What in God’s name is going on? I want my money back, you have to repay me, you fucking morally empty, corrupted maggot’, he said to the artist.
‘Well’, he replied, ‘First, we cannot afford to be liable to ourselves, second, your tattoo is not gone’.
‘What the fuck are you talking about?’
‘Okay just take a look at your tattoo’.
‘No way! It’s already gone, that’s wasting of time, time I don’t have’.
‘Please calm down, you have to look at it, trust me’.
He looked at his palm, where it had been, surprisingly to find a character, ‘Truth’.
明はすれ違いざまに人の顔を見ていた。自然とそればかりが目に入った。一体自分の世界の中心が、黒い光沢をまだ有しているのかを確認しようとしていた。自分が今まで生きるよりどころとしてきた、狂気の輝きはまだあるのか。彼らの顔は、明の中に取り込まれると容易に歪曲していった。自分に彼らを歪めるだけの能力は、まだ残存しているらしい。
しかし、香山はどうだ。……俺に彼を歪めることは果たして可能か。
明に気づいた香山は、助手席側の窓を開けて言った。
「どうして戻ってきたんだい」
息が詰まった。明は言いたくないことを今言おうとしている。それは愛を打ち明けるあの場面によく似ていた。
「お前に嘘をついてしまった。それを謝りに来たんだ」
香山は目を三角にして事情を尋ねた。
「嘘とはなんのことかね」
この問いに対して言葉がすらすらと出ていったのは、きっと自分の意思が彼に引き上げられたからだ、と明は思った。
「俺の顔の傷、歯の欠損、すべて貫一にやられたんだ。俺は、彼に会ったから、彼の顔を知っている。俺と貫一で共謀して、お宮を連れて行こうとしたんだ。きっと彼は、俺の性格をうまく操ろうとしていた。俺には、自分の仕事への誇示から、お前に貫一を殺しかねたことを言い出すことができなかった」
「それが今はどうして白状するんだい。また、『悪魔の気まぐれ』かい」
「新築のきれいな壁紙を誰かが汚してしまったんだよ」
「なんだか分からんが、白状するということは、信頼してもらえたというわけかね。俺はうれしいよ」
「とにかく、お宮は置いていく。拳銃でも突き付けておけばいいと思う」
香山は明を止めたが、香山への誠実と、自分の誇示を守ることは個々に解決することが可能だ。明は博多口へ戻った。
貫一の狙いを見透かした明は、裏をかくためにお宮の同伴という貫一の要求を無視することにした。香山は86の中に、お宮と残っていた。明は一人、博多口付近で、二人の出現を待つ貫一を見つけ、iPhoneを介して香山と会話をさせる手はずである。香山は筑紫口のロータリーに86を停車し、明からの電話を待っている。
動悸と眩暈を感じ、明は心底貫一との対面を望み、同時にそれを否定していることを認めた。再び筑紫口から博多駅の中に入り、混み合う人々を目にした。この中から、たった一人の男を見つけ出すなど、まるで不可能であるはずだが、この地上では自分だけが可能であると自負した。明は彼の首に幻惑を持ち、その視覚を避けるがために、はっきりとした画像の記憶を手にしているのだ。
足の歩みが早まった。スピードを得て集中を得た。
その画像を片手に探すのではない。明は両手を封じられ、餌を吊り下げられる例の豚がごとく画像を常時見せられながら、尻を叩かれて追いかける哀れな生き物に成り下がっていたのだ。彼と豚の相違は、形而上学的には皆無だった。豚は生存欲求からなる食欲に、彼は恐怖を回避したいという直接の生存欲求に駆られていた。豚はどうか知れないが、その画像を見るだけで彼は嗚咽し、血管を引き抜かれるかのような心地であった。
前から歩いてくる人の足を観察し、歩く方向を見定めてから明はその間を縫うように駆ける。人は彼を驚愕のまなざしで見ている。無論気に留めない。そんな余裕もない。
約束の時間はもう近い。博多口も接近を始めた。そのとき、冷たい風が明の体を叩いた。
冷風は明を目覚めさせた。動悸からも眩暈からも彼は全く素面になっていた。グラスの中の氷はすっかり解けてしまった。だからこそ生まれる疑問が、彼を苦悩させるのだ。
『先ほどまでの恐怖は、おののきは、痛みはなんだったんだ? 誰か俺に解説を与えてくれやしないか! 確かにイメージはまだ俺の頭の中に克明に存在している。だが、一体全体、俺は今までにしっかりとあのたんぱく質やカルシウムやヘモグロビンが凝縮されたにすぎぬ物体の視覚を絶とうとしていた、あれはなんだったのか? あれが恐怖でなければ、俺は今まで何を学び、信じてきたというのだ。今の俺は、こうして立っている。鎮座もしないし、浮遊もしない。俺は、生きている。こんなにも生きている! さあ、あの頸椎を、胸鎖乳突筋を、肩甲舌骨筋を、斜角筋を、胸骨甲状筋を、僧帽筋を両断してやれ。……そしてその後で俺は、やつの口腔めがけて嘔吐する。やつの咽頭を通過した吐瀉物が、ありもしない食道を求めて下る様を、モエ・エ・シャンドン片手に眺めるのだ』
今一度明はAirPodsの位置情報を確認した。AirPodsは、マクドナルドの下にある。姿を視認すれば切りかかれるように、ホルスターのナイフに手をかけた。そして、整列する掲示板によっかかっている貫一を見つけた。ナイフに殺意を注入するところであったのに、明はそれができないことを悟った。気づけば、明は柄から手を離し、しきりに雑踏の中に貫一を探すかのようにあたりを見渡している。また、明は彼を視認して、柄に手をかける。ナイフの目的を廃忘しては、そして彼を見失う。明はそんな永遠に続く螺旋の中にいたのだ。これがまた、あの無力感であった。
『あの男を殺す』という観念は確かに明が激しく欲望しているものであった。……またしてもあの無力感が彼を引き留めるのだ。貫一の首に当たる幾千の刃物のすべてが錆を孕んでゆき、彼の首はやがてその表面の蓋然性を明白なものにしてゆく。そして本質の姿を見せるのだ。あれは巨木なんぞというちゃちな器量で表象できるものではない。彼の首は、マントルの熱を宿しながら、明の時代すべてを凍てつかせる、荒廃を体現するものであった。いかなる列強もその空間では無力になる。どうにかしてそこから身を守るすべを考えても、明の堕胎までを倒叙しながら分解し、手段の尽きた明は自身の弱さをさらけ出すしかないのだ。世界に偶然その身を堕とした荒廃が、確かにそこにあった。明はこの荒廃を目に入れてはならないと思った。
明は雷に打たれた。
周りに視界を与えた。
そんな明を横目に周囲の人間は、荒廃をものともせずに通過した。彼ら全員が盲目であるとは思えない。彼らの頭が得体の知れぬすかすかのスポンジでできているとしか、説明のつかぬ事態である。……いいや、そうではない。
『彼らと俺はもう別種の生き物である。お前達は果たして倒叙を済ませたのか? 俺もその時、新種の生物に変貌することが可能になるのか?
俺は迷妄などしていない。自覚を得た今俺には勇気のような、英邁のようなが感情が育まれはじめていた。俺は原始から生まれ変わるのだ。機会に乗じて彼を絶命させるのだ。洞窟の闇から抜け出す瞬間は、必ず根拠の下で将来に約束されている。
あっはっは、何でもないじゃないか。ただの首に相違ない! 切り落としてしまえ!』
心の中でそう叫んだ。目に映る貫一の姿がどんどん大きくなり、明は彼の前に仁王立ちした。
明は、再び硬直した。為す術をすべて奪われ、先の認識が誤っていたことを知った。目の前には―いないでほしいのに―貫一がいる。この男は、確実に自分を殺すだろう。
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