広岡、みかん、新しいスニーカー  作・奴

 冬だというのに寝苦しさを感じて目覚めた。全身が妙にけだるく、霜が降りたように汗が全身を濡らして不快だった。暖房もつけていない部屋だけは窓を閉めきっていてもしんと冷えている。布団を蹴り払って冷気に体を晒し、ナイト・テーブルに所狭く立てているポットとコップを取って白湯を飲んだ。口先に昇る熱を恐れて一瞬だけ顔を離した後、もう一度コップに口をつけ慎重に飲んだ。食道を通っていく熱源が彗星ほどにふっと消えた。しかし彗星は燃え尽きてもこの熱は今もなお自分の中にとどまっているのだ。そう独りごちた。外は雨が降っていてベランダの手すりに降りかかっているはずだった。そんな音も窓を閉めると聞こえなくなって、鼓動の音や冷蔵庫のモーターの音ばかり耳についた。唾を飲めば嚥下の音がする。白湯を飲んでも同じことだ。コップにごく浅く湯を残し、汗が引いてから再び寝た。

朝にはもう雨は降っていなかった。油絵みたいに何層にも塗られた濃い色の雲の間隙から白い日の光が差して、止んだばかりなのかまだ水気を含むアスファルトは光を撥ねた。そのためほとんど曇っているはずなのに外はふだんより明るかった。目に乱反射する露のせいで目を細めて歩くしかない。通勤の時間からずれていて人はまばらだった。ただいないということはないので努めて平生と同じように目を開いたが、やはりどうにもなっていないのか視線を感じた。日は正面にあって地を照らしている。駅に入れば蛍光灯だかの照明の柔らかい光になるからと辛抱して歩いた。

駅のカフェに入って広岡を待った。午前の早いうちから彼に会わなければならなかった。私は歩いて駅まで来られるが、広岡は電車でこの駅まで来る必要がある。でなければとてもこちらまでたどり着けないところに広岡は住んでいた。私はカフェオレを飲みつつ『水の女』を読んだ。男女の性、路地の人々、日輪様、すべてすぐ近くにある現実のような気がした。文字の一つひとつから人間の匂いが立っている、肌の手触りがある、そんな気がした。カフェオレはコーヒーが色濃いようで苦かった。他の人は何を飲んでいるだろう? 本を閉じて考えた。外を歩く人はこれから何をするのか。そんなことも考えた。

広岡はいつまでも来なかった。ランチのメニュー表を見て、昼食のことを考えた。ここの食べ物はどれも量が多い。食べきる自信はそんなになかった。どうせなら広岡と分け合いたい。多分、彼ならこれとこれあたりを喜ばしげな顔で食べるだろう。食事中の彼の顔を思い描く。口にソースをつけたままかもしれないし、思いのほか多いね、なんて言って私に笑いかけるかもしれない。何でもよかった。でも来てほしかった。それだけは約束したことだから、守ってほしい。もう正午になるかというのに来なかった。本当なら十時にはこのカフェで会うはずが、どうしたのか、もう十一時を越えてしまっている。指を伸ばして眺めた。指先ばかり冷たくて、手を揉んだ。ハンド・クリームを手の甲から指まで延ばし指の腹から掌まで行き届かせた。それだけで手全体がほんのり温かくなったような気がした。

クリームが手になじむ前に広岡は来た。私の横に座って、ごめん遅れた、とだけ言って笑っていた。広岡は外気を運んできていて、何てことない身振りに冷気がまとっている。「寒かった?」と尋ねてみた。広岡はどれだけ寒かったかあれこれ言って説明してくれた。本題にはなかなか入らなかった。

「それで」と私の買ったばかりのスニーカーを褒めてから「これでいいんだよね」と言って不安げに差し出してくれた。「合ってるよ」と私は言った。頼んでいたみかんだ。私はようやく手に入れたのだ。このみかんはある点に特徴があって、そのために高価だった。私が以前から食べたいと願っていたら、広岡はそれを覚えていて、わざわざ買ってくれたのだ。桐の箱に入った、六つのみかんたち! これを受け取るために、今日、ここで広岡と落ち合った。広岡に会えた、本意を叶えてみかんを手に入れられたとそんなことばかり散り散りに考えていた。「二人で食べよう」と私が言った。広岡は断ったけれど、そもそもこれを買う金すら肩代わりして、しかも私のところに来てくれているのだからどうにかして恩を返さなければ気が済まない。昼食を広岡に奢ることで決着がついた。

一応の一人前であるサンドイッチを分け合った。

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