赤い風船 作・麦茶
昔々あるところに、一日中ため息をついている男がいました。朝起きて、朝日の眩しいことにハアー、昼になって腹の減ってきたことにハアー、夜眠くなって、ハアー。友達と話していて、ハアー。飼犬に餌をやって、ハアー。あんまり男がため息ばかりつくので、人々はみんな男が何かの病気なのではないかと心配していました。女たちは男がきっと始終不機嫌なのでため息ばかりついているのだろうと思い、怖がって男と結婚しようと言う女は一人もいませんでした。
ある時そんな人々の声を聞いたお医者様が、男を診察しました。そして男に言いました。
「お前さん、ため息をついてばかりで何にもしていないだろう。ため息のせいで気力が抜けちまっているんだよ。これからはなるべく、ため息をつかないようにして、畑仕事をするように。」
それから男は口をぎゅっと結んで、朝起きて飯を食うとすぐさま畑に飛び出し、せっせと畑仕事に打ち込むようになりました。昼になって腹が減ると、黙って家に帰って、年取った母親と一緒に食事をとりました。友達と快活に話し、飼犬と戯れ、夜はぐっすりと眠りました。次第に男はたくましい身体と、よく響く笑い声を持つようになり、女たちにも好かれるような立派な青年になりました。
しかし、男にはちょっと奇妙な感覚がありました。自分の頭の中に、だんだんと空気が溜まっていくような感覚です。男は、きっとこれは自分がしばらくため息をついていないから、今までため息をつくたびに吐き出されていた空気が、外に出ていかなくなったのだろうと思いました。頭痛はだんだんひどくなります。男は不安になってきて、自分の母親や、お医者様に相談しました。けれども、ため息をつかないから頭に空気が溜まってきたという男の話は、誰にも信じてもらえませんでした。お医者様は、「そう考えるのは、ため息によって引き起こされていたゆううつが、まだ心の奥に残っているからだろう。もっと外に出て、陽の光を浴びるようにしなさい。」と言いました。
男はすでに鍬を持って地面にかがみこむことさえ、億劫になっていました。頭がとても痛いのです。重く鈍い痛みではなく、革袋に詰まった空気が、その袋をぷっくりと膨らませる時のような、張り詰めた痛みにさいなまれているのです。今では友達と笑いあうことも、飼犬を連れて野原を駆けまわることもできません。男は家の前のベンチに寝そべって、日がな一日空を眺めて暮らすようになりました。男は、ため息をつけば、この痛みは少し薄れるかもしれない、と思いました。しかしひとつため息をついたら、再びため息をつき続ける生活に戻ってしまうのではないか、と思うと恐ろしく、決心のつかないまま日々は過ぎてゆきました。いつか、自分の頭が行商人の配る赤い風船のように、空気でいっぱいになった時、自分は一体どうなるのだろう、と男はぼんやり考えていました。
その日はすぐにやって来ました。ある晴れた春の日に、男がいつも通り家の前のベンチに腰掛けようとすると、どうしても尻がベンチの木に触れないのです。これはどうしたことだろう、と男が立ったまま考えていると、次第に足元から柔らかな芝の感触が薄れてゆき、とうとう両足が地面から浮いてしまいました。男はあんまりびっくりしたので、大声で母親を呼んで助けを求めようとしましたが、これ以上の空気の出入りを封じられたかのように、男の喉は声を発することができず、呼吸もできないのでした。男は手足をじたばたさせて、どうにか地面に戻ろうとしました。けれども男の身体はだんだんと空高く浮かんでゆきます。ため息ぶんの空気が頭に充満しすぎて、ついに男の頭は風船になってしまったのです。そして、どうやら自分は呼吸をしなくても生きていけるらしいぞ、と気づいた男は、仕方ないので浮かぶまにまに、風に乗せられてフーワリと青空をただよってゆくことにしました。いつか下りられるだろう、と緑の広がる牧場を足元に見ながら、男は雲間に浮かんでいました。春の陽気が男の心をほのぼのとさせ、風は男をやさしくつつんで、遠くへ遠くへと連れてゆきました。
「やあ、どこへ行くの? どうして空を飛んでいるの?」
「何をしているの? ねえったら!」
近所に住む少年たちが、男のあとを追いかけて、野原を走っています。男は言葉を返せないぶん、にっこり笑って、少年たちに手を振ってやりました。男は、自分がまた以前のように楽しく生きていけるようになったと思いました。以前は朗らかな若者として、今度は空を舞う風船として! 男は夢のような心地でした。男は少年たちを置き去りにして、風に乗って流れてゆきました。遠景に溶け込んだ男の姿は、まるで巨大なワシのようでした。
どこからか、ターン……ターン……と銃声が聞こえてきました。頭が風船になってしまった男は、今はちょうど丘を左手に見ながら、東の空へ向かっていました。男は鳥撃ちだろうと思い、呑気に足下の花々を眺めて、自分が野原へ降り立ってその花を摘むことができないために、母親にその花たちを見せてやれないことを残念がっていました。すると、男の間近に銃弾が飛んできました。男は驚きました。そして、左の耳がじわじわと熱くなってきたのに気づきました。男が耳に手をやると、ぬるりとした生温かさを感じ、手のひらにはべっとりと血が着いていました。男は、自分が耳たぶを撃たれたことに気づきました。そして慌てる間もなく、再び銃声が響きました。男がこめかみに強い衝撃を感じると同時に、シュウウーッという音がすぐ近くで聞こえ、地面がぐんぐん近づいてきました。
空気、が、抜けた。
男は唇だけを動かして、そう呟きました。草花で満ちた柔らかな野原に放り出された男は、まだ自分の頭上で空気の漏れる振動とプスプスという音とを感じながら、ついさっき母親に見せてやりたいと思ったひときわ可愛らしい花に手を伸ばしました。今や男の手は地面を這い、目的の野花をしっかと掴みました。
そして男は息絶えました。
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