ヴェイパートレイル

森永マリー

第1話

   ヴェイパートレイル



 木造校舎のきしみ具合は、十年前と同じだろうか。

 一階の窓辺から見る景色は、まったく変わらない。目線を水平にして、銀杏並木、鉄棒。目線を落として、花壇のコスモス、アリッサム、マリーゴールド、金魚草に花手毬。

 目線を上にして、雲。白衣より白い雲。

 十年前、養護教諭すなわち保健の先生というのは何を考えているのだろう、おもちゃの診察室みたいならくちんな個室にふんぞりかえって、と思っていたけれど、案外俗っぽいことを日がな思っていたりするのだ。

 例えば、彼は今頃夜を生きている、とか。

 十年前、私はこの中学校の生徒で、この校舎はなんら変わりなく木造で、歩くたびに床はきしんだ。私達生徒はおかまいなしに、老朽化が進むよう、早急に建て直してくれるよう、こぞって乱暴に走ったものだ。

 そのような習慣は遺伝しているらしい。

 保健室の扉が開かれる数秒前に、何人の生徒がくるか概ね見当がつく。

 かろやかに走ってくる、足音。ひとり分。

「先生」

 勢いよく扉が開いた。

 窓枠に手をかけたまま、わずかばかり振り向いた。

「疲れた。寝かせて」

 常連その一。中学三年生、少年。手足が長くこざっぱりしている。子供のくせに汗くさくない。新陳代謝がすでに大人レベル、的なかわいくない安定さ。

「残念でした。ベッドは満員だよ」

 事務椅子に座り、奥のついたてを顎で示す。

 畳敷きという年代物のベッドは、ひとつしかないのだった。

「じゃ、ここでいいや」

 と、パイプ椅子に腰掛け上半身を屈め、向かいにいる私の膝に頭をのせた。

「どきなよ。仕事になんない」

 ハイヒールを鳴らした。脱色した髪が太股をちくちく刺す。

「仕事? ぼーっとしてたくせに。いいじゃん、生徒のご機嫌取りだって仕事だろ」

「ふん」

「こういうところ、他の先生に見られたらやばいの?」

「べつに。……あんた煙草くさいよ。あんたの方がやばいんじゃないの」

「ふん」

 上半身を起こし、唇を尖らせて髪をかきあげる。

「俺、成績いいし要領いいから平気なんだよ。先生は煙草吸わんの?」

「やめたんだよ」


 オトコトキスシテイルミタイデ、イヤダ

 

 と、言ったのだ。彼は。

「なんで?」

 眉毛をつりあげ大げさに目を見開き、抜かりなく額をよせてくる。フェロモンまでが大人レベルだ。

 ついたての向こうの、ベッドからうめき声が聞こえた。

「起きた?」

 ついたてから顔を出し、様子をうかがう。

「起き上がれそう? 具合は?」

 まあるく盛り上がった毛布が、か弱く動く。

「ほら、あんたはもう教室に帰りな。次は給食だろ」

 後ろ手で、少年を追い払った。

「またくんね」

 高いような低いような中途半端な声を背中で受けた。無視した。

 毛布がはらりとめくられた。枕を背もたれにし、うつろな目で私をとらえる。

 常連その二、中学三年生、少女。

「具合はどう? 大丈夫? 給食、ここまで運んできてもらう?」

 黙って首を振る。緩慢な動作、小枝みたいな指、無垢な幽霊みたいだ。

「少しは食べなきゃ、また倒れるよ。あんたの専用ベッドじゃないんだから、ここは」

「……先生」

 ブラインド越しの光が、少女の膝でしわになったベッドカバーに縞模様を描く。おざなりに飾った花瓶の、金木犀の枝がくたびれている。窓辺に散らばる、しなびた金の粒。

「……死にたい」

 まつげを伏せ、息をもらした。

 はあ。私も深く息を吐く。死にたい、ね。巧みな演技で包まれた、まやかしの本気だ。当人はことさら真剣なのだから、手に負えない。

「死にたいって思って、口に出せるのは健康な証拠よ。本気で死にたかったら、とっさの行動でとっくに死んでるよ」

 訥々と諭したつもりだった。説教の温度に、えらく敏感な年頃だからだ。

 少女は、キッと私を睨みつけた。涙でぬれて、こぼれそうになった目。

「いいことおしえてあげようか」

 私は言った。涙をにじませるという、本気すれすれの演技に敬服して。

「すずらんを使えば、死ねるよ」

 少女は、まばたきをひとつした。

「……すずらん? すずらんって、花の?」

 そう、と私は言った。少女の目の中に、私がいた。

「製氷皿あるでしょう。あれにすずらんの花を入れて氷をつくるの。それでジュースか何か飲む時にその氷を入れて飲んでごらん。運がよければ死ねるよ」

 少女の頬にひとすじ、涙がつたう。

「……本当?」

 嘘だった。

「本当よ。すずらんは毒草だからね。優雅な死に方でしょう」

 涙のせいもあるのだろうが、少女の目はいっそう輝いた。この年齢っていうのは、どうしてこう悪戯にナルシストなのだろう。

「……先生、やったことあるの?」

「あるよ」

 本当だった。

「……どうなったの?」

 消え入りそうに肩を縮める。目ばかりがまばゆく、存在を自己主張している。

「このとおり、生きてる。運が悪かったんだね」


 ドウセシヌナラ、アトイチニチ、イキテクレナイカナ


 と言ったのだ。彼は。俺のために、と。

「……やってみる」

 力強く頷いた。両手で毛布を握りしめて。

 私は曖昧に頷き、少女の手に手をのせた。

「……そういえば、さっき」

 少女が毛布から手を離す。私は少女を追い払うべく、ベッドカバーのしわをのばして、ふたつ折りにした。

「……、……君がきた?」

 常連その一の、少年のことを指しているのだ。

「きたよ」

 あんたがここにいるかぎり、奴もここにくるだろう。

「そう」

 幽霊の色をした頬が、たちまち生き生きとした薔薇色になった。何が、死にたい、だ。

「ほら、教室に帰りな。給食、少しは食べるんだよ」

 少年は去り、少女も去った。

 いつのまにか事務机に給食が運ばれていた。黒パンにクラムチャウダーにチキンの香草焼きにフルーツのヨーグルト和え、牛乳。

 プラスチックの食器に先割りスプーン。

 なんら変わりない。十年前と同じ。うすっぺらいすりガラスの窓をあけ、見る景色も。

 銀杏並木、鉄棒。花壇のコスモス、アリッサム、マリードールド、金魚草に花手毬。

 そして雲も。

 あれ、と思った。雲が追加されている。

 すかすかした鰯雲に挟まれ、水色の空に清潔な線を引く、雲。


 ソラニセンヲヒクヨウニ

 カレノココロニ、マッスグニ

 センヲヒキタイ ……


 と、詩を書いたら、うっかり学級文集に載せられた。十年前、中学三年生だった。死にたいと思っていた。死んだら彼は悲しんでくれるだろうか、死んだら彼の心に一生住んでいられるだろうか、と思っていた。思いを煮つめてできた濃い蜜のような詩だ。私は、自己愛のかたまりのばか野郎だった。当時の保健の先生は、今の私のように若くて色っぽくて理解があって、文句を言いながらも私にベッドを貸してくれた。なまっちろくて、呆れるほど少女趣味だった私は、どこで覚えたかすずらんの花をむしって製氷皿に入れ、よりによって保健室に備え付けてあった冷凍庫で氷をつくり、ソーダ水に入れて飲んだのだ。

 幸か不幸か保健の先生はいなかった。

 半分ほど飲んだところで彼がきた。

 死んじゃうかもしれないと言ったら、彼の表情は氷よりもぴしりと緊張した。

 そして氷がひび割れるような切迫さで、

「あと一日、今日だけでも生きてくれないか」

 と言ったのだ。

 好きだったんだ、と私の手を取りぎゅっと握りしめた。心までがぎゅっと締めつけられた。

 生きている、尊いあたたかさにふれた時、死にたくないと心から思った。ばかだった。死ぬほどほしかったしあわせが手に入ると、死にたくないと思うのだ。大ばか野郎だ。

「……私も」

 冷たいソーダ水を飲んだばかりなのに、吐息は熱い。グラスの中で、ぷかぷかとのんきに浮かんでいるすずらんを恨んだ。

 彼はグラスを奪い、ソーダ水を飲み干した。

 ふたりで死ぬのもしあわせ、と陶酔した。

 ふたりで永遠に時を止めるのだ。しあわせという名の花を永遠に凍らせる。

 つたなさと純粋さを抱き合わせ、ふたりは保健室で始まった。ロマンチックな一時から平凡な日常になだれ込み、ケンカや浮気や仲直りやふたまた等を繰り返した。彼に向けてつくため息が憂鬱か甘美かわからなくなった頃に、私はふりだしのようにここにかえってきた。

 ひとりで。

 彼はロンドンにいる、はずだ。定かではない。この間届いた絵ハガキがタワーブリッジだっただけだ。相談もなしに会社を辞めて放浪の旅に出た。若いうちに世界を見てみたい、とかありきたりな理屈をくっつけて、飛行機に乗ってしまった。私は空港で、空に線を引く飛行機雲を見ていた。手紙も電話もメールもSNSもスカイプも、何だってあるだろ、と彼は言った。そんなものは幻だ、実物のあんたにはかなわない、と反論したかったけれどできなかった。飛行機雲は鮮やかに、空をふたつに裂いていた。

 よくあるお話といえばよくあるお話だ。ケンカや浮気や仲直りやふたまた、それに遠距離が加わっただけだ。別離、といっても過言ではない。つかず離れずの腐れ縁が十年も続いたのだ。すずらんの効力だろう。死ぬまで続いたらめでたいではないか。

 彼が私の目の前から姿を消しても、私の心には居座っている。頭にも皮膚にも、まぶたの裏の真っ暗闇にも。

 男という属性がある限り、たとえ生徒でも彼を重ねる。白衣を着ていてもハイヒールを履いていても、精神年齢は制服を着ていた頃と変わらない。

 事務机の上で、給食が冷めていた。

 黒パンをちぎり、クラムチャウダーに浸して食べた。先割りスプーンにチキンを突き刺し、おもむろにかじる。ハーブが付着したままフルーツを食べ、ヨーグルトを牛乳で流し込む。

 味なんかどうでもよかった。

「先生」

 ふいに呼ばれた。常連その一の少年が、すぐ後ろにいる。足音すら耳に入らなかった。

「一服させて」

 私の横にすりよってきた。私は無言で、牛乳の残った牛乳瓶を灰皿代わりに差し出した。

「先生、牛乳飲まないの? 胸でかくなんないよ」

「もう十分でかいからいいんだよ」

 そりゃそーだ、と鼻で笑った。内ポケットから煙草を取り出す。

「これからはここで煙草吸っていい?」

 私は唖然とした。媚びるような視線に、ではなく、煙草の銘柄に。

「あんた、それ吸ってんの?」

「うん」

 ライターで火をつける。慣れた仕草。慣れた、匂い。

 女が煙草を吸うのはいいけれど、自分の彼女が吸うのは嫌だ、と彼は言った。死にたい病だった中学生からあたりまえの高校生になって、私は好奇心で一度だけ煙草を買った。すると彼は顔をしかめて断言したのだ。

 男とキスしているみたいで、嫌だ、と。

 自分だって吸っていたくせに、私が手にした煙草を心底嫌悪した目で睨んだ。私は、私を汚したくない切なる我儘だと、彼のまなざしで悟った。

 彼の思いを汚したくはなかった。火をつけたばかりの煙草を、私はあっけなく手放した。

 吸う前に捨てられた煙草。

 十年前、初めての煙草は彼の唇からだった。

 だから私は、彼の煙草しか知らない。

「私も、煙草、吸っていい?」

 と、私は言った。煙草を一本抜こうとした少年の、肩をつかみ身体を引きよせた。目のはしに映る、十年前となんら変わらない景色。銀杏並木、鉄棒。花壇のコスモス、アリッサム、マリーゴールド、金魚草に花手毬。

 飛行機雲。

 鮮やかな、飛行機雲。

 彼の心に線を引きたい、とはもう思わない。ただ、この場所と彼の場所を、つないでほしいと思う。

 白く、清潔な線で。

 煙草のせい。匂いのせい。それだけ。意味なんかない。一瞬だけ、いい気分になった。

 夢みたいに。

 唇を離した。灰が床に落ちていた。少年は直立不動だった。

 けれど、少年の方が一人前だった。

 ラッキー、とつぶやいてから、私の顔を覗き込んだ。

「……先生?」

 乾いた空気が頬を撫でる。煙草の匂いが目にしみる。

「先生、泣いてんの?」

 がらりと扉の開く音がした。わずかに首を動かした。常連その二の少女がいた。

 少年は吸殻を牛乳瓶に入れた。

 じゅ、と悲壮に沈んだ。少年と少女は連れ立って保健室を去っていった。私は、がくんと事務椅子に崩れた。

 その拍子に、床が、痛いほどきしんだ。

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ヴェイパートレイル 森永マリー @morinagamari

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