第34話 許せない


 文芸部が廃部になった。

 部長を務めていた裕子先輩が亡くなったことで、それまで部としてどうにかまとまっていた部員たちが活動の意味を見出せなくなったのだから、当然の結末ではあった。わたくしも教師から文芸部内で何か問題があったのではないかと、事情聴取まがいの質問をされたけれど、心当たりがないのだからないと答えるしかなかった。

 いや、正確に言うと、心当たりはあった。裕子先輩が亡くなった日、わたくしは錆川さんに『もう他人の怪我を肩代わりしてほしくない』という願いを告白した。だけどその後に錆川さんが何をしていたのかは知らない。仮に錆川さんが、裕子先輩の助言によってわたくしがその告白に踏み切ったことに気付いたとしたら、裕子先輩に会いに行ったかもしれない。そうなると……

 正直言えば、違和感はあった。そもそも裕子先輩が亡くなったというのに錆川さんはそのことについて何も言及していない。この間の電話にしてもそうだ。わたくしの怪我を触らなくても肩代わりできることを喜んでいたけれど、裕子先輩の死を悲しんでいる様子はなかった。それは、彼女が裕子先輩の死に関わっているからじゃないのか。

 その疑念を抱いたまま、わたくしは再び学校に通うことになった。


「おい、蜜蝋」


 休み時間、教室でじっとしていたわたくしに声をかけてきたのは岸本くんだった。以前よりもその目に敵意が増しているような気がする。


「なんですの? はっきり言いますが、今はあなたと話す気分ではありませんの。日を改めてくださいます?」

「俺だってお前とは話したくはねえよ。だけど聞きたいことがある」

「……裕子先輩のことでしたら、わたくしは何も知りませんわ。むしろこちらが事情を知りたいくらいです」

「そうじゃねえ。錆川のことだ。アイツは何をしてるんだよ?」

「はあ?」

「今日は学校に来てねえ。裕子先輩と最後に一緒にいたのはアイツのはずだ。なのに俺たちに何の説明もしねえ。おかしいとは思わないのか?」

「それは……」


 おかしいとは、思う。わたくしとしても彼女に話を聞きたい気持ちはある。

 だけどそれ以上の気持ちはなかった。錆川さんはわたくしにはもう痛みも苦しみもなくなると言っていた。確かにそれは真実だ。今の私は怪我をしても、全て錆川さんに押し付けて何の痛みも感じることはない。

 その代わり、裕子先輩の死を悲しむ気持ちも、錆川さんに対する怒りも湧いてこなかった。もうわたくしには何もない。仮に錆川さんが裕子先輩を殺していたとしても……


 彼女のことを憎めるかどうか、わからない。


「もう一度聞く。錆川は何をしてるんだ?」

「知りませんわ。……わたくしはもう、あの方とはお話したくありません」

「なんだよ。もう仲違いしてやがったのか。じゃあ俺が錆川に何をしても口を出すんじゃねえぞ」

「なんですって?」

「もしアイツが裕子先輩を追い詰めて、自殺させたって言うんなら……俺はアイツを許さない」

「許さないって……錆川さんに何をなさるおつもりですの?」

「決まってるだろ。裕子先輩を追い詰めた報いを受けさせるんだよ」

「……そうですか」


 岸本くんの目には、はっきりとした怒りの感情があった。だけどわたくしにそれを咎める権利なんてない。岸本くんの怒りに同調する気にもならない。

 錆川さんはわたくしの身に絶対的な安全をもたらしたのかもしれない。今のわたくしはどんな重傷だろうと致命傷だろうと、全ての傷を錆川さんに移してしまう。


 だけどその代わり、わたくしから痛みも苦しみも、他人の痛みを理解しようとする気持ちも全て奪っていった。



 季節は流れ、わたくしたちの学年の生徒たちも進路がほぼ決定した。

 柏原学園は中高一貫校なので、大多数の生徒は高等部への進学を決めていたし、わたくしも錆川さんも例外ではなかった。だけど、錆川さんは裕子先輩の事件以降、わたくしの前に現れなかった。彼女が高等部へ内部進学するらしいというのも、クラスメイトの世間話で聞いただけだ。


 なぜなら、この時点で岸本くんは錆川さんを完全に裕子先輩の仇だと決めつけ、同学年の生徒たちにも彼女を許すなと焚きつけていたからだ。


 錆川さんはクラス内のみならず、校内で完全に罪人として扱われていた。彼女と会話すること自体がタブーとなっていたし、彼女を擁護する意見を口に出すことすら異常であるという空気が流れていた。

 以前のわたくしであれば、錆川さんを助けに行ったかもしれない。彼女にこれ以上苦痛を背負わせることを止めるべきだと思ったかもしれない。だけど今のわたくしにはそう思えない。


 『痛み』を忘れてしまったわたくしには、もう彼女が苦しんでいるのかどうかもわからない。


 錆川紗雨とは、なぜああも歪んでいるのだろう。自分が他人の苦痛を背負い込むことを徹底的に求めているというのに、わたくしが彼女に苦痛を負わせているという罪の意識、言ってしまえば『他人に苦痛を押し付けてしまう苦痛』に関してはまるで理解していない。かつてのわたくしがあれだけ錆川さんを大切な友達だと思っていたのに、彼女はそれを信じていない。自分に怪我や苦痛を押し付ける一人としか思っていない。

 錆川さんは徹底的に自罰的だ。だけどその在り方は、彼女を大切に思う人たちすら傷つけていることに気づかない。

 きっと岸本くんたちが錆川さんをどれだけ攻撃しても、どれだけ傷を『肩代わり』させようと、彼女はそれを受け入れてしまうんだろう。だからもう、わたくしには彼女にとって何が苦痛なのかわからない。

 

 だからもう、わたくしと錆川さんの関係は終わっているのだと結論付けようとした頃、携帯電話に一通のメッセージが届いた。


『錆川紗雨に、復讐しませんか?』


 その文面を見て、わたくしの心に久しぶりに黒い感情が込み上げてきた。

 送り主は『“潔白”のバルマー』と名乗っていた。以前、裕子先輩に読ませてもらった、小説の登場人物のキャラ名だ。つまりこの送り主は少なくとも裕子先輩の小説を読んだことがあるほど、彼女に近い人物なのだろう。

 だけど、復讐なんて物騒な単語を送り付けてくる正体不明の人物に従うわけにもいかない。“潔白”のバルマーが何の目的でわたくしを焚きつけようとしているかは知らないけれど、既に傷を負うことも痛みを感じることもないわたくしに脅しは通用しないのだから、従ってやる理由もない。

 だから無視しようとしたけど、その考えは直後に送られてきたもう一通のメッセージによって簡単に揺らいだ。


『あなたの痛みを奪った、錆川紗雨という魔王を許せますか?』


 ……なんでそのことを? 誰にも話してないはずだ。こんなこと、話せる相手なんて既にいない。

 一方で、バルマーの指摘はわたくしの心中を見透かしていた。既にわたくしから失われていたはずの、錆川さんへの強い感情を言い当てていた。


 許せない。


 わたくしは彼女を、錆川紗雨を許せない。わたくしだけではなく、裕子先輩の思いをも踏みにじり、自分だけが苦痛を背負い込んでいると思っている彼女が許せない。他人の苦痛を肩代わりしたいと願いながら、他人の苦痛を何一つ理解していないあの女が許せない。

 そうだ、既にわたくしには痛みも苦しみもない。錆川さんを叩きのめして、彼女の『体質』とやらを否定して、泣きながら許しを乞う姿を見ても、きっとわたくしの心は痛まない。彼女の痛みなど理解できないのだから、わたくしの心が痛むはずもない。

 裕子先輩の小説を頭の中で思い返す。白髪の魔王を倒すと決めたのは、魔王のかつての親友だった。


『あなたが“空白”のアルジャーノンとなるのです』


 だからわたくしは、白髪の魔王を――錆川紗雨を叩き潰す『決意』をした。

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