第32話 叶わぬ願い


「錆川さん、それでは行きましょうか」

「はい……」


 あの日から二か月後。結局は文芸部に入ったわたくしは錆川さんと毎日のように一緒に行動するようになった。文芸部に入った理由は錆川さんに少しでも恩返しするためだ。あれだけの怪我を負わせて、平然と素知らぬ顔をしていられるほど、わたくしの精神は強くなかった。

 ちなみにあの日、家に帰った私はお兄様に激しくなじられたが、あまり気にならなかった。もはやわたくしの頭には錆川さんのことしかなかったので、お兄様に認められようが殴られようがどうでもよくなっていた。

 自分でもここまで心境の変化があることに驚いている。あれだけお兄様に許されたいと思っていたのに、今では頭の中にあるのは錆川さんに恩返しをしたいという気持ちがほとんどだ。それだけ彼女がやったことはわたくしにとって大きかったのだろう。

 よく、ファンタジー世界が舞台の小説やゲームで世界を救うほどの偉業を成し遂げた人間を『勇者』と呼ぶけども、錆川さんはまさしく私の世界を救った『勇者』と呼べる存在だった。

 隣を歩く錆川さんを見ていると、少し頬が緩む。考えてみると、私の隣に人がいるなんて何年ぶりのことだろう。お兄様も、両親も、クラスメイトの皆さんも、私の前を歩いていた。一緒に歩くなんてことはしてなかった。

 でも今は、錆川さんが隣にいてくれる。そのことが私の心に喜びをもたらしていた。


「……あの、蜜蝋さん……どうかしましたか……?」


 じっと見ていたからなのか、錆川さんは不思議そうな顔でこちらを見てきた。その顔は初めてお会いした時よりも少し生気が薄くなっているような気がする。


「いえ、錆川さんが隣にいてくれてよかったと思ったのですわ」

「……そうですか……また蜜蝋さんがお怪我をされた際には、すぐに肩代わり致しますので……ご安心ください……」

「そういうつもりではありませんの。わたくしはあなたという人が隣にいてほしいと願っているんですのよ」

「……私は、蜜蝋さんのお怪我をお引き受けすることさえできれば……満足です……」


 そう言って、錆川さんは弱々しく微笑んだ。この笑顔を見ると、少し不安になってしまう。

 わたくしは錆川さんを恩人だと思っているし、友人だと思っている。だけど彼女はどうなのだろうか。彼女にとってわたくしは、自分に怪我を押し付けてくる人間たちの一人に過ぎないのではないか。そんな考えを抱いてしまう。

 

 私はこれ以上、彼女に怪我を押し付けたくなんてないのに。


「お疲れ様です」

「……お疲れ様です」


 文芸部の部室に入ると、まだ裕子先輩はいなかった。その代わりに、文芸部員の一人である岸本くんがこちらを睨みつけてくる。


「なんだよ。錆川に新入りか」

「なんだよ、とは随分な言い方ですわね」

「そりゃ、俺はお前らのことが嫌いだからな。お前はいきなり入ってきて裕子先輩に気に入られてるし、錆川は単純に気に入らねえ」

「それはそれは奇遇ですわね。わたくしもあなたのことは大嫌いですわ」


 この時のわたくしは自分に嫌悪感を向けてくる人間を受け入れようとするのをやめていた。


「それで? 新入りは錆川と仲良く歩いて来たってわけですか? そりゃそうするよな。常に錆川の近くにいれば、どんな怪我をしても安心だもんな」


 しかし、その言葉を聞き流すことはできなかった。


わたくしがそんなつもりで錆川さんと一緒にいると思ってるんですの!?」

「そうだよ。そうでなきゃ、錆川と一緒にいる理由がねえ。こんな女には他に価値なんてないからな」

「あなたは……!!」


 思わず腕を振り上げたけど、振り下ろそうとした時に小さな手で掴まれた。


「……待ってください、蜜蝋さん……岸本くんは事実を言っています……」

「たとえ事実でも、わたくしは我慢できませんわ!」

「……蜜蝋さんが……私などのために怒ってしまっては、私が耐えられません……」

「錆川さん……」

「……どうかこの場は……収めてください……」


 今の錆川さんの顔は、眉根を寄せて本当に苦痛に耐えているような表情だった。彼女に恩返しをしたいと思っているのに、こんな表情をさせてしまってはいけない。


「わかりましたわ。錆川さんがそう仰るのであれば、引き下がりましょう」

「……ありがとうございます」

「ですが、岸本くん。あなたを許したわけではありませんわ」

「ハッ、誰が許してほしいなんて言ったよ? お前らはお前らで仲良しこよしやってろよ」


 そう言って、岸本くんは本棚から一冊の本を持ち出して部室から出て行った。


「仕方のない方ですわね」

「……ですが、岸本くんの怒りもわかります……苦しみを肩代わりできなければ、私は生きてるわけには

いきませんので……」


 小さな声でそう呟いた錆川さんの顔は、また弱々しい笑顔に戻っていた。


「あら、今日はあなたたちだけ? 岸本くんが来てるかと思ったんだけど」

「裕子先輩、お疲れ様ですわ」

「うん、お疲れ様。あ、蜜蝋さん。ちょっと二人で話したいことがあるんだけど、いいかな?」

「え? ですが……」


 錆川さんに視線を送ると、彼女は静かに立ち上がった。


「……それでは私は……席を外します……」

「ごめんね。終わったら連絡するから」

「……お気になさらず……」


 部室に二人きりになり、裕子先輩は席に座ってわたくしと向き合う。


「まずは、文芸部に入ってくれたことに改めて感謝するよ。私としても、この部活が賑わうのは嬉しいことだから」

「こちらこそ感謝しておりますわ。裕子先輩の勧誘がなければ、わたくしはまだお兄様の機嫌をうかがって生きていたと思いますから」

「うん、そう言ってもらえて嬉しいよ。ただね、ひとつ聞きたいことがあるんだ」

「なんでしょう?」


「錆川さんのこと、好き?」


「……当然ですわ。まだ知り合って日が浅いですが、それでも大切なお友達だと思ってますの」


 そう答えながらも、わたくしは内心で迷いがあった。錆川さんを大切なお友達だと思っているのは嘘ではない。本心からの言葉だ。

 だけど、わたくしは友達として錆川さんにしてあげられることとは何なのか。それがわからなかった。当の本人は誰かの怪我を肩代わりすることを求めている。だけどわたくしの本音は……


「うん、そうだよね。蜜蝋さんはいい子だよ。錆川さんのことを友達として助けたいと思ってる」

「……わたくしは」

「錆川さんに、もう他人の怪我を肩代わりして欲しくない?」

「……はい」


 錆川さんの望みは、他人の苦痛を背負い込むこと。だけどわたくしの望みは、錆川さんが他人の苦痛を背負い込まずに生きていること。

 だけどその望みは彼女に痛みを押し付けて生き延びているわたくしが抱いていいものじゃない。だからわたくしは錆川さんに何も言えなかった。


わたくしは卑怯者ですわ。自分は錆川さんに怪我を押し付けたというのに、もう錆川さんに苦しんでほしくないと願ってしまっています。錆川さんに怪我をしてほしくないと思っているのです。そんなこと、言えるわけがありません」


 気づけば、両目から涙を流していた。お兄様に殴られた時よりも、深く悲しかった。だけどこれは錆川さんのために流している涙ではない。自分の汚さを嘆いている涙だ。

 そんな私を見て、裕子先輩は口を開いた。


「よかったじゃない。蜜蝋さんはもう、自分の願いを言えるようになったんだから」

「え?」

「『自分を助けてくれた友達にもう苦しんでほしくない』、それの何がおかしいの? むしろ自然なことだと思うよ」

「で、でも、わたくしは……」

「錆川さんが幸せに生きていてほしいというのは、もうあなた自身の願いなんだよ。今の蜜蝋さんは自分のために生きている。あとはそれを、錆川さんに伝えればいい。もしかしたら、彼女もあなたの想いをわかってくれるかもしれない」

「あ……」


 わたくしはどこかで遠慮していた。錆川さんに自分の願いを伝えることが、悪いことなのかもしれないと思っていた。

 だけどそれは悪いことなのかもしれないけど、おかしいことではない。これは、わたくし自身の願いだ。


「ま、錆川さんに肩代わりをやめさせたいのは、私の願いでもあるんだけどね」


 気まずそうに目を逸らして笑う裕子先輩の姿は、決して錆川さんに同情している人間のものではなかった。


「ありがとうございます、裕子先輩。わたくし、行ってきます」

「うん、頑張ってね」


 そしてわたくしは、部室を出て錆川さんに連絡をした。




「……蜜蝋さん、お話とは何でしょうか……?」


 錆川さんはグラウンドで陸上部の手伝いをしていた。どうやら怪我をした部員がいたら、肩代わりする予定だったようだ。


「実を言いますと、私はもう、錆川さんにお怪我を肩代わりしてほしくないのです」

「……」

「身勝手な言い分なのは承知の上ですわ。自分だけ助けてもらって、もうあなたに他人の怪我を肩代わりするなと言う資格なんてありません。ですがそれでも、これはわたくしの願いなのです」

「……」


 錆川さんは顔を伏せてこちらに目を合わせない。


わたくしのことを軽蔑なさったのであれば、今日この場で関係を切ってくださっても構いません。ですが、わたくしはあなたが他人の苦痛を背負うことなく、ご自分のために……」


「……蜜蝋さん、私の『体質』が信用できませんか?」


「え?」

「……蜜蝋さんは、以前のお怪我がまたあなたに戻ってくるかもしれないと心配ですか? それでしたら大丈夫です……私が戻そうと思わない限り、あなたにお怪我が戻ることはありませんので……」

「い、いえ、そういうことではなくて……いや、ちょっと待ってくださいな」


 怪我が、わたくしに戻る? 錆川さんが戻そうとすれば、戻ってくる?

 じゃあ、錆川さんは……


「錆川さんは、わたくしにあの大怪我を戻せるんですの?」

「……はい」

「で、でしたら、あなたは、わたくしの命を握るために、肩代わりなさったのですか?」


 そうだ、それだったら辻褄が合う。いや、そうじゃないとおかしい。

 錆川さんは肩代わりした怪我を元の人間に戻せる。その怪我が大きければ大きいほど、戻された時のダメージは大きいだろう。つまり錆川さんに怪我を肩代わりされた人間は、いつそれを戻されるかわからないというリスクを背負うことになる。


 つまり、錆川さんの狙いはそれだったのだ。他人の怪我を肩代わりすることで、弱点を握ることができる。それこそが肩代わりの理由だったのだ。


「は、ははは……」


 よかった。錆川さんの中にもちゃんと自分のための欲望があった。わたくしの怪我を肩代わりしたのも、最初からそのため……


「蜜蝋さん」


 だけど、その時だった。

 錆川さんの顔から、急速に感情が無くなったのは。


「私が、あなたの命を握る? 私ごときが、あなたの命を握る?」


 いつもの消え入りそうな声とは違う。どこか抑揚のない声で呟いている。

 何が起こっているのかわからない。自分の狙いを言い当てられて動揺しているのとは違う。

 そして次の瞬間、錆川さんの両目が大きく見開かれて、その顔に大きな怯えのような表情が浮かび上がったかと思うと……


「あ、ああああ、ああああああああ!!」


 これまでにない大声で叫びだした錆川さんは……その場に土下座した。


「申し訳ありません! 私、私が、そんな、大それたことを! そう思わせてしまい、申し訳ありません! 私が蜜蝋さんの命を握るなんて! 生きていること自体がおかしい私が! 皆さんのお怪我を引き受けるために存在する私が! そんな、そんな、命を握るなんてこと! あああ! 申し訳ありません!」

「さ、錆川さん?」

「誓いますから! 私があなたのお怪我を戻すなんてことは決してしないと誓いますから! また私があなたのお怪我を肩代わりしますから! どうか、どうか! まだ私に肩代わりをさせてください!」

「え、え?」

「ああ、あああ……」


 両目から溢れだした涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、私(わたくし)の足元に近寄ってくる。そして今度は、靴に口を寄せて、その小さな舌でそれを舐めた。


「私は、私は、あなたの命を握っているつもりなどなかったのです……私は、あなたのお怪我をただ肩代わりできて、それでよかったのです……申し訳ありません……あなたにそんな不安を……また、また私に仰ってください……『痛いから背負ってくれ』と……」


 目の前の光景に動揺しすぎて、動くことすらできない。わたくしは何を見ているのだろう。

 だけど少なくともこれだけは言える。錆川さんにとって、わたくしは友達ではなかった。自分よりはるか上に位置付けて、自分を“使う”人間だと思い込んでいる。


 錆川紗雨の中には、『他人の命を握りたい』という欲望すらなかった。



 どれだけ靴を舐められていたのだろう。気づけばわたくしは下駄箱の前で座り込んでいた。もしかしたら気づかぬうちにあの場から逃げていたのかもしれない。

 どうしてこうなってしまったのだろう。せっかく出来た友達なのに。せっかく出来た願いなのに。もうわたくしには届かないものになりつつある。

 どうにかしたいと思っていたけど、もう日が沈みつつある。明日にでも裕子先輩に改めて相談しよう。

 だけどそれが、間違いだった。あの時、すぐに裕子先輩に会いに行けばよかったんだ。



 なぜならその次の日に、裕子先輩の死を知ることになったのだから。

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