第31話 空っぽ


「文芸部?」

「……はい……私はそこに所属していまして……よろしければ蜜蝋さんも入部しませんか……?」


 錆川さんに怪我を肩代わりしてもらった翌日、彼女はそんなことを言い出した。


「別に構いませんが、意外ですわね。あなたが部活に入っているとは思いませんでしたわ」

「……私も入るつもりはありませんでしたが……先輩に勧誘されまして……」

「でしたら、わたくしを勧誘するのも、その先輩の差し金ということでして?」

「……そうだとしたら、断りますか?」

「いいえ。あなたを勧誘したという方に興味がありますわ」


その人がどんな人にせよ、錆川さんを文芸部に勧誘する理由が気になる。もしかしたら、錆川さんの『体質』のことも知っているかもしれない。

 どちらにせよ、家に帰らないでいられる理由にはなるだろう。部活に入ったと言えば、お兄様も納得なさってくれるはずだ。


「それでは、案内してくださいますか?」

「わかりました……」


 こうして錆川さんに連れられて、文芸部の見学に行くことになった。



 文芸部の部室は他の部と同じように部室棟に存在した。部室の扉をノックすると、中から高く綺麗な声が聞こえてくる。


「どうぞ」

「……裕子先輩……こんにちは……」

「失礼いたしますわ」


 部室の中にいたのは、セミロングの髪を後ろで一つにまとめた品のよさそうな女性だった。この人が錆川さんを勧誘したのだろうか。


「ああ、錆川さん。こんにちは。そちらの方が例のお友達?」

「初めまして。中等部の蜜蝋です」

「はい、初めまして。高等部二年の佐久間裕子です。一応、この部の部長ってことになるのかな。あんまりカッチリした部活でもないから、その辺も適当なんだけどね」


 見た感じ、裕子先輩は優しそうで面倒見のよさそうな人に感じた。確かにこの人ならわたくしのようなクラスで浮いている生徒を勧誘してもおかしくはないのかもしれない。


「まあ、私のことは『裕子さん』でも『裕子先輩』でも好きなように呼んでくれればいいよ。じゃあ、部の紹介でもしようかな」


 そう言って、裕子先輩は立ち上がって壁際にある本棚の前に立つ。そこにはところどころ背表紙が日焼けした本がサイズごとに並べられていた。


「紹介って言っても、別に大したことはやってなくてね。この本棚にはみんなが持ち寄ってきた小説が並べられてるんだけど、それを自由に読むもよし、読んでみて感想なり批評なりを語り合うもよし、自分で小説を書くもよし。とにかく部員一人ひとりが自由にやってるのがこの部活だね」

「ずいぶんと自由な部活ですね。それだと部としての体裁が取れてないのではありませんか?」

「ふふ、痛いとこ突かれちゃったね。ま、確かにこの部は他の部活に比べてかなり自由だと思うよ。でも、私はそれでいいと思ってる」

「それでいい、とは?」

「この文芸部に部としての体裁がなくてもいいってことだよ。確かに表向きは部活動だから週に一回は特定の小説に関して語り合う『感想会』みたいなのをやってるんだけどね、参加は自由。とにかく本が好きなのであれば自由にやっていい。ここはそういう部活なんだよ」


 つまりこの部は、何かの結果を残したいとか、一つのことに打ち込みたいとか、そういった目的で入る場所ではないらしい。よく部活動として認められたものだ。


「文芸部の紹介はこんなところかな。他になにか質問ある?」

「では、裕子先輩がわたくしをこの部に勧誘する理由をお聞かせいただきたいですわ」

「ああ、それはね、あなたが私にとって見過ごせない人だからだよ」

「見過ごせない人? わたくしがですの?」

「うん、あなたも、錆川さんも私にとっては見過ごせない人だね」


 そう言って、裕子先輩は悲しそうな顔になった。


「自分のために生きてない人だから」


 おそらくその顔は、裕子先輩の本心からの悲しみを表していた。


「蜜蝋さんは錆川さんの『体質』についてはもう聞いてるんだよね?」

「……ええ、お聞きしましたわ。他人の傷を肩代わりしてしまう『体質』だとか」


 わたくしの言葉に対し、錆川さんは口を挟んできた。


「……『肩代わりしてしまう』という表現は違います……皆さんのお怪我を肩代わりするのは、私の役目であり、私が率先してやっていることなので……やらされているわけではありません……」

「まだあなたはそういうことを言うんだね。私としては、錆川さんにはもっと自分の人生を生きてほしいのだけれど」

「……申し訳ありませんが……裕子先輩に何と言われようと、私が皆さんのお怪我を肩代わりする人間なのは変わりません……」

「錆川さんが本心からそう望んでいるのであれば、私もここまで口出ししてないよ。本心ならね」

「……」


 どうも、裕子先輩と錆川さんの間には、少しの対立があるようだ。


「話が逸れたけど、私は『自分のために生きてない人』を放っておけなくてね。だから蜜蝋さんをこの部に勧誘したの」

わたくしがその、『自分のために生きてない人』だと仰るのですか?」

「うん。たぶん今のあなたは自分のためじゃなく、お兄さんのために生きているからね」

「……!!」


 ……なんでお兄様のことを? 錆川さんから聞いたのだろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい。わたくしはお兄様に認められたいけれど、お兄様のためには生きていない。


「お兄様はわたくしが至らないことに対してお怒りなのですわ。だからわたくしが怒られるのも無理はありませんの」

「そうかな? あなたの家庭のことについてはわからないけれど、少なくともあなたがお兄さんに怪我を負わされていたのは錆川さんから聞いたよ」

「それがどうしたの言いますの? かわいそうな女の子を助ける正義の味方を気取るおつもりですか?」

「まさか。私はそんな大層な人間じゃないよ。むしろ身勝手な人間だと思ってる。だからあなたを身勝手で勧誘したの」

「でしたら尚更、お兄様のことにあれこれ口出しされる筋合いはありませんわ」


 どうして私や錆川さんを勧誘したのか気になったから来たのに、蓋を開けてみれば単なる同情か。この時点で文芸部に対する興味は完全に失われていた。


「残念ですが、わたくしはこの部が好きになれそうにありませんの。新入部員が欲しいのであれば他をあたってくださいまし」


 一方的に言い放って、さっさと部室を出ようとしたわたくしを裕子先輩は止めなかった。


「あなたがそう決めたのなら仕方ないね。気が変わったならいつでもおいでよ」


 その余裕のある態度が妙に気に入らなかったので、強めに扉を閉めて出て行った。



 部室棟から校門に歩く間に、これからのことを考える。

 結局は文芸部に入部しなかったわけだから、授業が終われば寄り道をせずに家に帰らなければならない。そうなればやはり、お兄様の前で出来た妹として振舞わなければならない。それができなければまた叱られる。

 錆川さんも今日のわたくしの態度を見て、愛想を尽かしたかもしれない。そうなればまた学校では一人で過ごすことになるだろう。

 そう思っていると、携帯電話に着信が入った。発信元はお兄様だった。


「……お兄様?」

『小夜子。今は何時なのかわかるかな?』

「……午後の、5時です」

『そうだよねえ、午後5時だよね。それなのになんでお前はまだ家にいないのかな?』

「申し訳ありません……」

『あのね、僕は謝罪が聞きたいんじゃないの。なんでお前が家にいないのかって聞いてるの』

「それは、部活の見学をしておりまして……」

『部活? なに部活に入ろうとしてるの? そういうのは自分のことがちゃんと出来てからだよね? お前みたいな何も出来ないヤツが一人前に部活に入ろうとしてるのはおかしくない?』

「それは……」

『あーもう、いいや。お前はもうダメ。生きてる価値ないよ。このまま家に帰ってこなきゃいいよ』

「え?」

『蜜蝋薫に妹はいない。僕は周りにそう伝えるから』

「あ……」

『もし家に帰って来ても……まあ、そうだね』


 そしてお兄様は笑いながら言い放った。


『お前がいたという痕跡は全部なくしておくからね』


 その言葉で、私の心は完全に閉ざされた。




 何分経っただろうか。気が付けば校門の前で立ち尽くしていた。

 考えてみれば、わたくしがお兄様に認められるなんて、そもそもが幻想だったのだ。お兄様はどうあってもわたくしの存在を認めない。お兄様にとって、わたくしはいないもの。

 じゃあ今ここにいるわたくしはなんなのか? 誰でもない。蜜蝋薫の妹ですらない。ただの空っぽな人間。


 空っぽな人間なら、最初からいなくてもいい。


 ああそうだ。わたくしは最初からいなかったんだ。そういうことだったんだ。最初からいなければ、お兄様から殴られることも蹴られることもない。それでよかったんだ。

 目の前には車道がある。当然のことながら、車も通っている。最初からいないのなら、早くわたくしのこともね飛ばしてほしい。

 フラフラとした足取りで、自然と車道に歩いて行った。右を見ると、白い車がスピードを上げて走ってくる。運転している方はお友達とのお喋りに夢中であまりこっちを見ていない。

 うん、じゃあ、それでいい。わたくしの存在はもう、空白でいい。

 轟音と共に、わたくしの体は宙を舞っていった。



 これで全部終わった。わたくしがいたという事実はもう完全になくなった。

 お兄様も、錆川さんも、裕子先輩もわたくしのことなど全て忘れて生きていくだろう。それでいい、それでよかったんだ。


 だけど、そうならなかった。


「う、ん……?」


 気が付けば、わたくしは元の車道に倒れていた。体を起こしてみても、特に痛みはない。車に撥ね飛ばされたという記憶はあるのに、怪我の痛みの記憶はない。

 何が起こったのかを探ろうとしたけども、それをする前に目に飛び込んできた。


 手足があり得ない方向に曲がって、血まみれの錆川さんの姿が。


「錆川、さん?」


 なんで? どうして? 何があって?

 わたくしを庇って怪我をした? いや違う。車にね飛ばされたのは間違いなくわたくしの方だ。

 じゃあ、まさか。


「……ああ、みつ、ろう、さん……ごぶじ……の、ようです、ね……」


 錆川さんは血まみれの口を小さく動かして、蚊の鳴くような声を発していた。


「錆川さん!」


 まさか、あの『体質』でわたくしの肩代わりをしたというのか。この怪我は、わたくしのものだっていうことなのか。


「……だいじょうぶ、です……いっぷん、経ちます……」


 その言葉の後、錆川さんの傷が急速に治っていき、顔についていた血も吸い込まれるように消えていった。


「……ああ、よかった……蜜蝋さんがご無事でよかった……」

「錆川さん! どうして、ですの? わたくしなんかのために、こんなことを!」


 わたくしは自分から命を絶とうとしたのに。自分で傷を負ってしまったのに。苦しみを肩代わりしてもらって、助けてもらえる立場じゃないのに。


「それは……私がそういう人間だからです……蜜蝋さんのお怪我は、私が引き受けますので……それでいいのではありませんか……?」


 それでいい。そんなはずはない。こんな怪我を他人に引き受けさせて、それでいいはずはない。

 気が付けばわたくしはその場に土下座していた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……わたくし……あなたに、なんてことを……」


 こんな怪我を負わせてしまったわたくしが、許されていいはずがない。ダメだ、わたくしはまだ死ねない。

 生きないと。錆川さんへの償いのために、生きないと。


「謝らないでください……私は当然のことをしたまでです……」


 錆川さんは、頭を上げたわたくしの顔に手を当てて微笑んだ。


「これで……私はまた……皆さんのお役に立てました……ああ、よかった……」


 その顔には、私への嫌悪感など微塵もない、心からの喜びが感じられた。

 しかし、彼女の髪の色は以前より白さが増していたように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る