第30話 虐待
『楽しい学校生活』なんてものが存在しなくてもよかった。『学校に問題なく通えている』という実績さえあればよかった。
お兄様に、認められるために。
「小夜子。お前は本当に、片付けが苦手だね」
「す、すみません」
「僕はお前の謝罪を聞きたいんじゃないよ。身の回りの整理もできないお前がちゃんと成長する姿を見たいんだよ。わかる?」
「は、はい」
それほどまでにお兄様は、
だけど
「小夜子ぉ、僕の言うことは、ちゃんと、聞こうか!」
そう叫んだと同時に、お兄様の脚が振り上げられ、
「あぐっ! ううう……!」
既に大人の男性と言っても遜色ない体から放たれる蹴りは、まだ中学生だった
数分前、
「あのね、小夜子。わかるかな?」
「な、なにが、でしょうか……?」
「僕はねえ、お前みたいな言ったことを守れない子が大嫌いなんだよね。だから僕はお前を教育しないといけないの。蜜蝋薫の妹であるお前はね、せめてきちんとした子でなきゃいけないの」
「は、はい……」
「『はい』じゃなくてさあ! 僕は言ったことを守れって言ってるの!」
お兄様はさらに
昔から
しかし、そんな私の性格がいつからかお兄様の不興を買うようになった。
「そもそもさ、なんでお前は言われたこともできないの? お前は僕の妹のはずだよね? だったらお前にもそれなりのレベルってのが求められて当然だよね?」
「申し訳ありません。すぐに、片づけますので……」
「片づけるのは当然なの。僕が望んでるのは、お前が僕に言われる前にきっちり整理して、僕の妹として恥ずかしくない人間になることなの。わかる?」
「はい……」
まだ痛むお腹をさすりながら、なんとか立ち上がって片づけを始める。またお兄様に怒られてしまった。これではまだお兄様からのお仕置きは止まることはないだろう。
重たい黒髪に黒縁メガネというあまりにも地味で暗い見た目が災いして、
たとえ、クラス内で無視されていたとしても。
「ねえ、昨日の生配信みた?」
「聞いてくれよ、ガチャ引いても低レアばっかだよ」
「次の授業、受けたくねえわー」
クラスの皆さんの会話が耳に入っては来ているものの、
こうなった理由はおそらく、入学した直後に積極的に皆さんと話そうとしなかった
だとしても、それでよかった。学校にさえ行っていればお兄様は認めてくれる。学校にさえ行っていれば、お兄様のお叱りを受けることはない。それで、よかったんだ。
しかし、柏原学園中等部に入学して三年目のある日、
「……失礼します。蜜蝋さんは……いらっしゃいますか……?」
消え入りそうな声でそう言って教室に入ってきたのは、細身で白い肌をした女子だった。しかしその姿を見た
おそらくは同い年のはずなのに、あまりにも白髪が多い。ところどころには黒い髪が残ってはいるものの、全体的に見ればもう灰色と言っていい頭をしていた。
クラスの皆さんも同じことを感じたようで、彼女を見てヒソヒソと話をしている。
「あの……蜜蝋さんは……いらっしゃいますか……?」
名前を呼ばれているけども、こんな子と知り合いになった覚えはない。あまり関わりたくはなかったので無視を決め込んでもよかったけど、ここに居座られるのも困るので立ち上がった。
「なんですの? あなたは」
「ああ……蜜蝋さんですね……? 生きているうちにお会いできてよかったです……」
「はあ?」
「私は錆川紗雨といいます……あなたのお怪我をお引き受けしたくてここに来ました……」
「……!!」
なんで、そのことを。誰にも見られていないはずだったのに。
「ちょっと、こちらに来てくださいまし」
とにかく教室内でこれ以上話すのはまずい。この錆川という女を黙らせるために、
「どういうつもりですの?」
とりあえず錆川を連れて女子トイレに入り、改めて話を聞くことにした。
この女が言っているのは、
「
「……あなたのお兄さんのことは存じていません……ただ、体育の授業で着替えている時に偶然あなたのお怪我を見ました……」
「……
「忘れ物を取りに来た時にお見かけしました……あなたのクラスと私のクラスは合同で着替えていますので……」
たしかに体育の授業は隣のクラスと合同で行っている。だけど隣のクラスにこの女がいたかどうか覚えていない。こんな灰色の頭をした女がいたらすぐにわかりそうなのに。
「それで? 興味本位でアザの理由について聞きに来たということですの?」
「……いえ。先ほども言いましたが……」
そして錆川は、右手で私の腕を掴み。
「あなたのお怪我を、お引き受けしたいのです」
左手で私の服の上からお腹を触った。
「うっ!?」
その直後、私のお腹から痛みが消えた。さっきまであんなに鈍い痛みが残っていたのに。どうして?
さらにはその痛みが消えるのと入れ替わるように、錆川がお腹を押さえた。
「……あ、ああ……このような痛みを抱えて……あなたは学校に通われていたのですね……」
「え?」
このような痛み? この女は何を言っているの?
私の疑問をよそに、錆川は制服をまくり上げて自分のお腹を見せてくる。
その白いお腹には、私が負っていたはずのアザがはっきりと残っていた。
「なに、これ?」
「……あなたのお怪我を私が肩代わり致しました……ああ、嬉しい……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいまし。なんであなたが、そんなこと、を?」
なぜそんなことができるのか? 確かにその疑問はあった。
だけどそれ以上に、なぜ話したこともない
「……私はそういう人間だからです……」
「は?」
「……私は多くの人のお怪我を肩代わりするための人間ですので……それが理由です……」
……この女は。『自分がそういう人間だから』という理由で、他人の苦痛を引き受けている?
私はお兄様からのお仕置きから逃れたくて仕方ないのに、この女は自分から苦痛を引き寄せている?
そんなの……
「それでは……生きていたら、また会いま……」
「お待ちなさい」
トイレから出ようとする錆川の腕を思わず掴んでしまった。
このまま黙って離れるのはダメだ。なぜかそう思った。
「あの……こう言うのも恥ずかしいのだけれど……」
自然と顔が赤くなっていく。だけど私は言った。
「お友達に、なってくださいますか?」
こんなことを言うのは初めてだ。今の私はどうかしている。
だけどどうかしているのは、目の前の錆川さんもそうだ。どうかしている同士、ちょうどいい。
「……私は、おそらく近いうちに死ぬと思いますが……それでよければ……」
私の申し出を、錆川さんは断らなかった。
今思えば、この時点で気づくべきだったのだろう。
錆川紗雨という女が、いかに歪んでいるのかを。
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