第30話 虐待


 わたくしにとって、学校とは義務で通うものだった。

 『楽しい学校生活』なんてものが存在しなくてもよかった。『学校に問題なく通えている』という実績さえあればよかった。わたくしが真面目に問題なく普通の生活を送っている。それだけが重要だと、そう思っていた。私立柏原学園中等部。わたくしが通うべき場所はそこだった。


 お兄様に、認められるために。


「小夜子。お前は本当に、片付けが苦手だね」

「す、すみません」

「僕はお前の謝罪を聞きたいんじゃないよ。身の回りの整理もできないお前がちゃんと成長する姿を見たいんだよ。わかる?」

「は、はい」


 わたくしには、三歳上の兄がいた。当時、高校三年生だったお兄様は通っていた高校――柏原学園よりも学力が高いとされる高校――において、文武両道の優等生として名が知られていた。たまに自宅に来る友人たちは、男女問わずお兄様に尊敬の眼差しを向けていたのを覚えている。

 それほどまでにお兄様は、蜜蝋みつろうかおるという人は、周りに絶大な影響力を持っていた。

 だけどわたくしがお兄様に認められたい理由は、お兄様から褒めてもらいたいからではなかった。


「小夜子ぉ、僕の言うことは、ちゃんと、聞こうか!」


 そう叫んだと同時に、お兄様の脚が振り上げられ、わたくしのお腹にめり込んだ。


「あぐっ! ううう……!」


 既に大人の男性と言っても遜色ない体から放たれる蹴りは、まだ中学生だったわたくしに到底耐えられるものではなかった。当然のことながら、床にうずくまってお腹を押さえてうめき声をあげてしまう。


 数分前、わたくしの部屋にノックもなしに乗り込んできたお兄様は、床に教科書や本が積み上げられている光景を見て、壁を叩いてわたくしに詰め寄ってきた。そして先ほどの怒鳴り声を上げて蹴りを放ってきたのだ。


「あのね、小夜子。わかるかな?」

「な、なにが、でしょうか……?」

「僕はねえ、お前みたいな言ったことを守れない子が大嫌いなんだよね。だから僕はお前を教育しないといけないの。蜜蝋薫の妹であるお前はね、せめてきちんとした子でなきゃいけないの」

「は、はい……」

「『はい』じゃなくてさあ! 僕は言ったことを守れって言ってるの!」


 お兄様はさらにわたくしの頭を床に押さえつけながら怒声を浴びせてくる。だけどなぜお兄様がここまで起こっているのかはわかっている。お兄様が私(わたくし)を認めていないのは、わたくしが至らないせいだ。

 昔からわたくしは地味な外見に反して大雑把な性格だった。よく言えば細かいことを気にしない、悪く言えば細かな気配りができない。そんな人間だった。だから自分の部屋が散らかっていても『別に問題ない』と考えてしまうし、他人が自分をどう見るかなんてそんなに気にしていなかった。

 しかし、そんな私の性格がいつからかお兄様の不興を買うようになった。


「そもそもさ、なんでお前は言われたこともできないの? お前は僕の妹のはずだよね? だったらお前にもそれなりのレベルってのが求められて当然だよね?」

「申し訳ありません。すぐに、片づけますので……」

「片づけるのは当然なの。僕が望んでるのは、お前が僕に言われる前にきっちり整理して、僕の妹として恥ずかしくない人間になることなの。わかる?」

「はい……」


 まだ痛むお腹をさすりながら、なんとか立ち上がって片づけを始める。またお兄様に怒られてしまった。これではまだお兄様からのお仕置きは止まることはないだろう。


 わたくしは学校が好きじゃなかった。

 重たい黒髪に黒縁メガネというあまりにも地味で暗い見た目が災いして、わたくしの学校内でのランクはまさに底の底だった。しかし『行かない』という選択肢は存在しない。もしわたくしが学校にいかなければお兄様に一人前の妹であるとは決して認められす、暴力が止むこともない。だからわたくしは、絶対に学校に行かなくてはならなかった。


 たとえ、クラス内で無視されていたとしても。


「ねえ、昨日の生配信みた?」

「聞いてくれよ、ガチャ引いても低レアばっかだよ」

「次の授業、受けたくねえわー」


 クラスの皆さんの会話が耳に入っては来ているものの、わたくしがその会話に入ることはない。別にわたくしが嫌われているわけではないとは思うけど、かといって好かれているわけでは決してないことはわかっていた。そもそもわたくしは皆さんの視界に入っていない。

 こうなった理由はおそらく、入学した直後に積極的に皆さんと話そうとしなかったわたくしに原因がある。他人に興味を示さなかったわたくしが悪い。だから皆さんに無視されるのだ。

 だとしても、それでよかった。学校にさえ行っていればお兄様は認めてくれる。学校にさえ行っていれば、お兄様のお叱りを受けることはない。それで、よかったんだ。


 しかし、柏原学園中等部に入学して三年目のある日、わたくしは彼女と出会った。


「……失礼します。蜜蝋さんは……いらっしゃいますか……?」


 消え入りそうな声でそう言って教室に入ってきたのは、細身で白い肌をした女子だった。しかしその姿を見たわたくしは何よりもその髪の色が気になった。

 おそらくは同い年のはずなのに、あまりにも白髪が多い。ところどころには黒い髪が残ってはいるものの、全体的に見ればもう灰色と言っていい頭をしていた。

 クラスの皆さんも同じことを感じたようで、彼女を見てヒソヒソと話をしている。


「あの……蜜蝋さんは……いらっしゃいますか……?」


 名前を呼ばれているけども、こんな子と知り合いになった覚えはない。あまり関わりたくはなかったので無視を決め込んでもよかったけど、ここに居座られるのも困るので立ち上がった。


「なんですの? あなたは」


 わたくしの姿を見た灰色頭の女子は、なぜか弱々しい笑顔を浮かべた。


「ああ……蜜蝋さんですね……? 生きているうちにお会いできてよかったです……」

「はあ?」

「私は錆川紗雨といいます……あなたのお怪我をお引き受けしたくてここに来ました……」

「……!!」


 なんで、そのことを。誰にも見られていないはずだったのに。


「ちょっと、こちらに来てくださいまし」


 とにかく教室内でこれ以上話すのはまずい。この錆川という女を黙らせるために、わたくしたちは教室を出ることにした。


「どういうつもりですの?」


 とりあえず錆川を連れて女子トイレに入り、改めて話を聞くことにした。

 この女が言っているのは、わたくしの服の下にあるお腹のアザのことだ。日常的にお兄様にお叱りを受けているから、お腹にアザが残ったまま学校に来ている。それをなぜか見られたのだ。


わたくしのアザのこと、なぜ知っているんですの? あなたはお兄様の差し金なのかしら?」

「……あなたのお兄さんのことは存じていません……ただ、体育の授業で着替えている時に偶然あなたのお怪我を見ました……」

「……わたくしは最後まで教室に残って着替えているのに、なぜあなたがそれを見たの?」

「忘れ物を取りに来た時にお見かけしました……あなたのクラスと私のクラスは合同で着替えていますので……」


 たしかに体育の授業は隣のクラスと合同で行っている。だけど隣のクラスにこの女がいたかどうか覚えていない。こんな灰色の頭をした女がいたらすぐにわかりそうなのに。


「それで? 興味本位でアザの理由について聞きに来たということですの?」

「……いえ。先ほども言いましたが……」


 そして錆川は、右手で私の腕を掴み。


「あなたのお怪我を、お引き受けしたいのです」


 左手で私の服の上からお腹を触った。


「うっ!?」


 その直後、私のお腹から痛みが消えた。さっきまであんなに鈍い痛みが残っていたのに。どうして?

 さらにはその痛みが消えるのと入れ替わるように、錆川がお腹を押さえた。


「……あ、ああ……このような痛みを抱えて……あなたは学校に通われていたのですね……」

「え?」


 このような痛み? この女は何を言っているの?

 私の疑問をよそに、錆川は制服をまくり上げて自分のお腹を見せてくる。


 その白いお腹には、私が負っていたはずのアザがはっきりと残っていた。


「なに、これ?」

「……あなたのお怪我を私が肩代わり致しました……ああ、嬉しい……」

「ちょ、ちょっと待ってくださいまし。なんであなたが、そんなこと、を?」


 なぜそんなことができるのか? 確かにその疑問はあった。

 だけどそれ以上に、なぜ話したこともないわたくしのために、アザを肩代わりするのか。最大の疑問はそれだった。


「……私はそういう人間だからです……」

「は?」

「……私は多くの人のお怪我を肩代わりするための人間ですので……それが理由です……」


 ……この女は。『自分がそういう人間だから』という理由で、他人の苦痛を引き受けている?

 私はお兄様からのお仕置きから逃れたくて仕方ないのに、この女は自分から苦痛を引き寄せている?


 そんなの……


「それでは……生きていたら、また会いま……」

「お待ちなさい」


 トイレから出ようとする錆川の腕を思わず掴んでしまった。

 このまま黙って離れるのはダメだ。なぜかそう思った。


「あの……こう言うのも恥ずかしいのだけれど……」


 自然と顔が赤くなっていく。だけど私は言った。


「お友達に、なってくださいますか?」


 こんなことを言うのは初めてだ。今の私はどうかしている。

 だけどどうかしているのは、目の前の錆川さんもそうだ。どうかしている同士、ちょうどいい。


「……私は、おそらく近いうちに死ぬと思いますが……それでよければ……」


 私の申し出を、錆川さんは断らなかった。

 今思えば、この時点で気づくべきだったのだろう。



 錆川紗雨という女が、いかに歪んでいるのかを。

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