第6話 薬箱


「佐久間、それに錆川。本当に済まなかった!」


 その日の剣道部の練習が終わると、武智主将は俺と錆川に深々と頭を下げてきた。


「本当なら、倉敷を連れてきて一緒に頭を下げさせるのが筋なのはわかってる。だけど今回は、主将の俺の責任ということで、許してもらいたい!」

「いえいえ、俺は大丈夫です。もう全然痛くないですし」

「私も、大丈夫です……」


 俺の隣で錆川も武智主将を宥めていたが、錆川本人は髪を引っ張られたことに怒ってないのだろうか。


「……こうなってしまった以上、錆川には当分、剣道部を手伝って貰うことはできない。こちらから頼んだのに、申し訳ない」

「いえ……悪いのは私の方ですから……」


 あんなことをされても、錆川は自分が悪いと言ってしまう。こいつはそういう人間なのだと理解してても、少し腹の立つ部分はある。

 だがそれより、今のこの状況はチャンスだ。武智主将がこちらに負い目を感じているのなら、剣道部の人間関係を聞き出せる。


「武智主将。倉敷先輩は、どうして錆川をあそこまで目の敵にしているんですか?」

「それは……」

「錆川の『体質』に関係あるんですか?」

「……!!」


 俺の発言に驚いた表情を見せながらも、何か合点のいったように顔を近づけて、小声で話し出す。


「そうか、もう錆川の『体質』のことを知ってるのか。他の新入生にも広まってるのか?」

「いや、外部入学組では多分知ってるのは俺だけです」

「いずれにしても、『体質』のことを知ってるなら、隠しても仕方ないな」


 武智主将は仮入部の新入生や部員たちを解散させた後、俺と錆川、そして一人の部員と共に剣道場に残った。


「さて、とりあえず人払いも済んだし、話をするか」

「はい。それで、こちらの方は?」


 主将の隣には、茶髪を前分けにした優しそうな顔立ちの剣道部員が座っていた。


「僕は、剣道部三年の奥村春江おくむら はるえだ。よろしく」

「奥村はこの件に深く関わっている。だから同席して貰った」

「僕は錆川さんに世話になってるからね。まあ、倉敷が彼女を気にくわない理由もわからなくはないけど」

「奥村!」

「……ああ、ごめんね。軽率な発言だった」


 奥村先輩は謝罪をしながらも表情を崩さず、本当に自分が悪いとは思っていない様子だった。


「さて、倉敷が錆川を恨む理由だったな。それはおそらく、去年のレギュラー争いが原因だと俺は思う」

「レギュラー争い?」

「練習中にも言った通り、倉敷の実力は部内一だ。だが君もアイツを見て感じたと思うが、ちょっと協調性に欠けててな」

「個人戦ならまだしも、団体戦だと一人が勝手なことすると全体の士気に関わるからね。それに倉敷は去年はまだ一年生だったし、団体戦のレギュラーにはまだ早いって、監督が判断してたんだよ」

「なるほど……」


 運動部のことはよくわからないが、倉敷先輩にはまだ先があると思っての判断だったのだろう。


「ただ、去年の夏の大会直前、僕が練習中に怪我をしちゃってね」

「え?」


 奥村先輩はそう言うと、自分の左足の踵の辺りを触る。


「左足の腱を断裂する大怪我さ。僕もレギュラー入りしてたんだけど、大会出場は絶望的だった」

「そうだったんですか……」


 しかし、去年の夏にそんな大怪我をした割には、奥村先輩は普通に歩いていたような……?

 いや、待て。怪我をしたはずの人間が、今は普通に歩いている。そんな奇跡を起こせる人間を、俺は知っている。


「……!!」


 俺は隣に座っている錆川を見る。


「お気づきのようですね」


 錆川は俺の顔を見て、弱々しく微笑む。その顔が心なしか、初めて見た時よりもやつれているように見えた。


「私が奥村先輩のお怪我を『肩代わり』したのです。武智先輩に呼ばれて急いで『肩代わり』しましたので、剣道部以外の人たちには奥村先輩のお怪我は明らかになりませんでした」


 ……予想できたことではあった。

 錆川はそういう人間だ。他人の怪我を背負い込むことに、何もためらいがない人間だ。そんな異常な女だということはわかっている。何一つ文句を言わないことはわかっている。

 だとしても……


「そういうこと、だから僕は晴れてレギュラー復帰したわけさ」

「ああ、錆川がいなかったら危ないところだったな。こっちとしてもレギュラーが欠けるのは痛いから……」


 だとしても……!!


「アンタら、何を言ってるんだよ!!」


 俺は叫ばずにはいられなかった。


「『レギュラーが欠けるのは痛い』だと!? 怪我をしたのはアンタだろうが! その痛みを背負い込んだのは、剣道部員でもない錆川なんだぞ! アンタら、心は痛まないのかよ!?」


 本来なら、奥村先輩も剣道部も、この問題を錆川の『体質』抜きで解決しなければならなかったのだ。錆川は何も関係がないはずだ。なのにどうして錆川が、その痛みを『肩代わり』する必要がある!? どうして錆川が『肩代わり』するのが当然だと思っている!?

 武智主将も奥村先輩も、気まずそうに顔を伏せてはいるものの、俺の怒りは収まらなかった。


「おかしいだろこんなの!? なんでアンタら、無関係の女の子に傷を負わせて、そんなにヘラヘラと……!!」


「お待ち下さい、佐久間くん」


 だが、そんな俺を錆川が止めた。


「先輩方は……悪くありません。私が奥村先輩のお怪我を『肩代わり』したいと提案したのです……」

「なんだと?」

「私は以前から運動部のお手伝いをしておりましたので……こういったことは日常茶飯事なのです……それに……」


 錆川はまたも弱々しく笑う。


「私の『体質』が……皆様からお怪我を取り除けるなら……それでいいのではありませんか?」


 ――それでいい。

 それでいい。それでいい。

 まだ錆川と出会ってから一週間ちょっとしか経っていない。俺がこいつを語る資格なんてないのかもしれない。

 だけど、それでも。


「『それでいい』で済まされることかよ!」


 一人の人間だけが痛みを背負い込むことが、『それでいい』はずがない。だから俺は黙ってはいられな――


「黙れよ」


 しかし俺の怒りを、先ほどまでとはまるで違う奥村先輩の鋭い目つきが制した。


「さっきから聞いてればさあ、言いたい放題言ってくれるよね、佐久間くん。つまり君はこう言いたいわけかい?」


 奥村先輩は錆川を指差し、その指を自分の左足に持って行く。


「『今からでも、錆川に『肩代わり』してもらった怪我を、自分の身体に戻せ』って」

「……!!」

「確かにさあ、錆川さんに怪我を『肩代わり』してもらったのは悪いとは思ってるよ。だけどさ、もし錆川さんがいなかったら、僕はあの怪我の後遺症が残ったかもしれないし、もちろんレギュラーも逃していたんだよね。君が言ってるのは、『僕に苦しめ』って言ってるのと同義だと思わないかい?」

「そんなの……!」

「今度は詭弁だと言うのかな? だけど今の現実をご覧よ。僕の怪我は跡形もなく消え去って、錆川さんだって別に歩くのに難儀しているわけじゃない。君はその現実を捨てて、僕に一生怪我で苦しめって言うのかい?」

「だけど、本来はそうでなければならないはずだ!」

「本来ってなんだい? 君だって大きな怪我をしたら、病院で医者に診て貰うだろう。それと同じだ。どんな怪我でも治せるような人間がそばにいるのに、君は彼女に頼るなって言うのかな?」


 錆川が……医者と同じ……?

 違う、この人たちにとって、錆川はそんな上等な存在じゃない。


 ただの、薬箱だ。


「佐久間、君には悪いが俺も奥村に同意している。彼女がいなければ、奥村は怪我に苦しんだまま一生を終えたかもしれない。だがそんなことにはならなかった。それでいいじゃないか」

「……」

「話を戻そう。錆川のおかげで奥村はレギュラーに復帰した。だがそれに反発したのが倉敷だ」

「倉敷先輩が……?」

「そうだ。奥村がレギュラーを外されれば、当然自分がレギュラーになれると思ったのだろう。だがその目論見は錆川に阻止された」

「それで、倉敷先輩は錆川を恨んでいるって言うんですか?」

「おそらくはな。倉敷が錆川を疎ましく思い始めた時期もその辺りだからな」


 本当にそうなのだろうか。

 単にレギュラーを外されただけで、倉敷先輩は錆川を恨んでいるのだろうか。

 俺には、どうしても――


 この剣道部の方が、異常な集団のようにしか見えない。


「話はわかったか、佐久間?」

「……すみません、今日のところは帰ります」

「そうか。まあ、お前もまだこの学校に入学して日が浅い。環境に戸惑っているところもあるだろう。帰ってゆっくり休め」

「……はい」


 俺はどうにもやりきれない思いを抱えたまま、剣道場を後にした。



 日はすっかり傾き、夕日が校舎を照らしている。

 俺はどうしても隣を歩く錆川の顔を見れないまま、校門へと歩いていた。


「……佐久間くん、納得できませんか?」


 錆川は俺に小さな声で語りかける。顔を上げた俺の視界に、錆川の白い髪が夕日を反射している光景が入ってきた。


「納得できると思うのか? アンタに関係ない痛みを背負い込ませておいて、自分たちだけが幸せになってるのに何とも思わない連中に」

「ですが……これがこの学園の日常なのです。皆さんは私の『体質』によって……余計な不幸を背負い込まずに済むのです……」

「代わりにアンタが余計な不幸を背負い込んでいるだろ!」

「それは……間違いです……」


 錆川は俺の前に立ち、手を俺に差し出す。夕日のせいで、白い髪がオレンジ色に染まっている。


「……私が皆さんの不幸を背負い込むのは……そういう人間だからです……私に不幸が集中して……最後に私が殺されれば、全ては丸く収まります……」

「アンタが……殺されれば?」

「ええ、私が殺されれば」


 俺はその発言を聞いて、どうしてもこう思ってしまう。

 どうして、こいつは、自分が死ぬことを前提にしているんだ。


「それでは佐久間くん。生きていれば、また会いましょう」


 そう言って、錆川は俺に一礼して帰って行った。


 ――思えば。

 俺はこの、『生きていれば』という言葉を、この時点でもっと重大なものだと感じていればよかったのかもしれない。

 だけど、後悔しても、もう遅い。なぜなら……



 今の俺の目の前には、血まみれになった錆川が横たわっていたからだ。

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