第2話 包帯とクマさんぬいぐるみ

 ボーッという汽笛が大気を震わせた。


 コスチュームを着た船員がやってきて、海面を指さしたり、海に向かって叫んでいる。


「何かあったのですか?」

「兄ちゃんも来てみなよ」


 イブキは読みかけの本をたたんだ。


「イルカが見えるよ。島の近くに生息しているバンドウイルカの群れだよ」


 20頭ほどの大小の影が、キラキラと光る海面の下を、この船と並走するように泳いでいる。


頻繁ひんぱんに姿をあらわすのですか?」

「いいや、この距離で観察できるのなんて20回に1回くらいだよ。今日はツイている。イルカは幸運のシンボルだからね」


 幸先さいさきがいいな、と感じたイブキは口元だけで笑った。


「今日はどの島で降りるんだい?」

「ヤンデレ島へ向かう予定です」

「ああ……あの地図にない島ね」

「どうして地図から消えているのでしょうか?」

「戦時中、あの島で毒ガスの研究をしていたらしいね。その名残なごりだってさ」


 どう反応すべきか迷ったので、毒ガスですか、とオウム返ししておく。


「都市伝説みたいなものだよ。元々は女子刑務所だったらしい。ヤンデレ島で降りるということは、兄ちゃん、少年院の教官なのかい?」

「そうです。新しい院長として赴任ふにんすることになりました」

「へぇ……若いのに立派だねぇ……」


 船員は三秒ほど考え込んだあと、


「兄ちゃんは女受けしそうな体つきだけれども、やっぱり女子の扱いには自信があるのかい?」


 と奇妙なことを質問してきた。


「逆です。正直いうと異性との接し方には自信がありません。特に10代の女の子は天敵です」

「カッカッカ! 女が大の苦手なんて、大和やまと男子じゃねえか!」


 船員は豪快に笑った。


「でもヤンデレ島の女の子には気をつけろよ。どの娘も一癖あるってうわさだ。こじらせた良家のお嬢様も入所しているらしい」

「心しておきますが……それほど変わった女の子なのでしょうか?」

「前の院長は40代の男だった。音を上げて逃げちまった」


 これは初耳である。

 老母の介護のためやむをえず離任りにんした、と聞かされていた。


 しかも逃亡とは何というていたらく。

 イブキは怒りをおぼえると眉毛のところを揺らすくせがある。


「私は逃げません。元自衛官ですから。命令を放棄ほうきすることは、死に等しいです」

「勇気があるね。未来ある子のためにも頑張ってほしいね」


 イブキは読書にもどる。

 何ページまで読んだのか忘れてしまい、ページを繰ったり戻ったりした。


 ふたたびボーッという音が聞こえたのは約20分後だった。


 地図にない島、ヤンデレ島。


 女の罪人が流される土地として、古くは江戸幕府の管理下にあったらしい。

 それが政府に引き継がれて、戦前まで女子刑務所として機能したあと、戦後は民間人に払い下げられた。


 転機があったのは五年前。

 とある資産家が私財を投じて、ヤンデレ島に女子少年院を建てたのである。


 背景は明かされていない。

 資産家の孫娘がメンタルに問題を抱えていたのではないか? という説があるが、それを示す証拠は何もなかった。


 船はコバルトブルーの海を進んでいく。

 生暖かい潮風しおかぜが顔をなでてくる。


 生活物資と一緒にイブキは船から降ろされた。


「じゃあな! 達者たっしゃでな!」

「ありがとうございました!」


 迎えの軽トラックが停まっていたので、運転席をのぞいてみる。


「ん?」


 誰の姿もなかったので首をかしげる。


 おかしいな。

 時間は合っているはず。


 そして出会ってしまった。

 天敵と認めている女の子が防波堤ぼうはていに腰かけて、黒髪をさわさわと揺らしながら、好奇の目をイブキに向けていた。


 透明感のある美しい女の子だ。

 マネキンが座っているのかと錯覚さっかくしそうになる。


 顔立ちは中学生くらい。

 どこかはかなげで、けれども小動物みたいに愛らしい瞳をしている。


 おしゃれなツーサイドアップの髪型が似合っている。

 静止画のようにピクリと動くこともなく、しかし白色のリボンは海風になびいている。


 謎めいたオーラの正体はすぐに判明した。


 ワンピースから露出している手首や首筋に、なぜか女の子は包帯を巻いていたのである。

 見るからに痛々しい姿で、クマさんぬいぐるみを胸元に押し当てて、来訪者のことを値踏みするように見ている。


「お兄さん、新しい人なの?」


 イブキは一つうなずいた。


「東堂イブキと申す者だ。新しい院長として赴任してきた。君はこの島の子なのか?」

「ううん、この島に生粋きっすいの住人はいないよ。みんな施設の人だよ。ミクも入所者の一人なんだ」

「その髪型にその服装……聞いてはいたが、本当に自由なのだな。君は模範生もはんせいなのか?」

「うん、ミクはお行儀ぎょうぎがいいので。施設の運営をお手伝いしています」


 ミクと名乗った少女は体の重心を前へかたむけた。


「とても誠実そうな人ですね。ひと安心です。怖い人がきたら、ミク、どう接したらいいのか分かりませんから」


 羽のような軽さで着地を決めると、ニコッと天使のような微笑をくれた。

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