『哀』三話
[明日の夜鍵を返しに行くよ。]
その連絡が来たのはあの夕食から丁度一週間後の朝、アトリエに入った直後。
毎日少しづつ家から彼の痕跡は無くなっていたけど、相変わらず生活は何も変わらない。
半分ずつ負担していた家事を重く感じることもあるが、彼と出会う前の一人暮らしに戻っただけ。一週間も経てばもう慣れていた。
癖でまた窓側の木製時計をなんとなく眺める。動かない針を見つめる。
もう一つ癖で、小さなため息を吐く。
今日も筆をとる。
夕飯前の買い出しで家を出ている間に、彼は鍵を返しに来ていた。
居間に入るなり言われた、おかえりと言う声があまりにもいつも通りで、一週間前の出来事など私の夢だったのかと錯覚した。
少しだけ、話をした。
彼が誰の家を間借りしているかとか、今までを振り返っての感謝や謝罪の言葉とか…不思議なことに彼の声がするというだけで、内容は全然読み取れなかった。
合鍵を渡されて、彼がここへ来た用事はこれで終わりだ。
じゃあ、と言い、玄関を出る彼を見送って私はなんと話したのだろうか。
気付けば玄関に立ち尽くしていた。
居間に彼を見つけてから家を出て行くまで、頭にはずっと空洞と靄が広がっていた。
本当に夢なのではないか?
ふらりと居間に戻り部屋を見渡す。
キッチンも、寝室も、バスルームも。
どこにも彼のものはない、ということを確認するうちに頭は冴えて靄は晴れていく。
本当にこれで終わりだ。私は今、綺麗に彼とお別れした。
最後にアトリエのドアに手をかけた瞬間、間違えたと気付いた。
私の仕事場に彼のものは何も置いていない。置く必要がない。
そう気付くより先に身体は動作を完了させていて、開いたドアから視界に入り込む殺風景な部屋。
ドアが開くと反射で発動してしまう癖に従って、目線は窓側へ向いた。
あの動かない木製時計が、ない。
あの日好きな人ができたと言われた瞬間、さっき居間にいる彼を見つけた瞬間、そんな時と比べ物にならない程心臓が跳ねた。
頭は一瞬で理解していた。
どんな記念日でも消えるものしか受け付けない私が、唯一彼から受け取った消えないものがあの時計だ。
彼が持っていった。彼の痕跡が私の家に残らないようにと、気を遣って。
その時計がなにかの引き金だった。
だめだ、ため息を吐きたいのに息が上手く吸えない。
だめだ、噛み殺していた感情が急に暴れ出して心臓が痛い。
フィルターがないと。
慌てて筆を取り出す、書きかけの絵に色を足していく。
混ぜる水分は多めに、筆圧は弱く、薄い線をなぞるように。
色付いているのか分からない程の薄い薄い青を紙ににじませているのに、脳内に広がるのはあざやかな赤色。
あの日、彼は新入社員の女の子の連絡先を登録し忘れていない。
私が、消した。
酔って眠った彼の携帯を抜き取って、こっそりと。
どうしてもどうしても嫌だった。
上機嫌に酔いながら、気が合う後輩がいたんだと嬉しそうに話す貴方が。
初めてこんなに醜い感情を持つ自分を目の当たりにし、恐ろしくなった。
何度ため息を吐こうと、絵を描こうと排除できない自分の漢書が気持ち悪かった。
その日だけは何度繰り返しても淡い色合いの絵が描けなかった。
嫉妬。
それはとても私の絵にはのせられない、おぞましい赤色。
恐ろしくて、気持ち悪くて、邪魔で仕方なくて、消したのだ。
自分で処理できない程のこんな感情、持っていてはもう絵が描けない。
向き合いたくない。
悲しみ、怒り、喜び、友情、恋、愛…
全て熱すぎて私には直接触れられないものだけど、それでも目で見たものは、感じた事は、とにかく全て絵に投影してきたはずだ。
初めて表現することを諦めた瞬間だった。
あの感情から逃げた結果が、この罰だ。
あの日、連絡先を消すなんて卑怯なことをしなかったら。
あの日、私以外の異性の話をしないでと素直に伝えていたら。
一度でもちゃんと貴方と生きていくの幸せだと、言えていたら。
気付けば紙に塗りたくられていたのは、うっすらとした下書きの線と淡い色を塗り潰す、黒に近い程の深い深い青。
暴れる心臓が脈打って、筆を握る手が震える。
気味が悪い程の鮮やかな赤に染まった脳内はガンガンと響いて重い痛みを引き連れているのに、涙だけは出ない。
涙を流す資格もないとわかっていた。
どれだけの衝動があろうとも、私は紙の上でしか泣き叫べないとわかっていた。
こんな色は見たくない。
こんなの私の絵だと認めたくない。
それでももう逃げてはいけない。逃げられない。
彼に絵を送ろうと思った。
もう遅すぎることは分かっている。ただ知って欲しいだけだ。
フィルターの役割を無くした絵を、ただの私を最後に送りたい。
淡い色合いが素敵だと、いつも冷静な貴女が素敵だと言ってくれた貴方はきっと気に入らないだろうけど。
好きだった。大切だった。
希怒哀楽の叫び 小夜華 @soyoka517
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