『哀』二話

筆の色が紙に滲む瞬間はいつも息が詰まる。

色合いを間違えないように。線がぶれないように。

筆が紙から離れると同時に、ふーっと呼吸ができるようになる。

ぱっと目を上げた先にあるのは木製時計。

それで時刻の確認…は、できない。もう動かないのにただ置いてある壊れた時計を見てしまうのはただの習慣、いつもの癖。

その奥の窓から見える空でなんとなく時間を測る。

日が傾いてオレンジ色の空が見えた。

それに気付いてようやく空腹なことに気付く。

そうだ、夕食。というか…そうか、今日何も口にしていないのか。

仕事が昨日終わったばかりだろうと、彼氏に振られようと、いつも通り作画に没頭し集中していた。

何も、支障はない。

昨日彼が家を出る音が聞こえた時も、私が残した夕飯に丁寧にラップがかけられているのを見つけた時も、朝ご飯を食べた方がいいと口煩い声がないことも。

料理はできる。いつも彼と交代だったり、お互いの仕事が忙しい時に合わせて担当したりしていたからそれは大丈夫。

だけど一度没頭してしまうと時間の感覚を忘れてしまうから、夕食を急かす声がないのは不便だと思いながら、今描いている絵を遠目にチェックするため立ち上がった。

広いアトリエにはものがほとんどないから、立ち上がる音がこだまする。

白い壁と床に囲まれる絵は浮き上がって見えた。

重なり合う細い細い曲線も、うっすらとなんとなく分かる墨の色も、いつも通り。

今日一日取り掛かっていたのは、個展用の絵の下書き。

数ヶ月前に観に行った舞台の感想を表したくて描き始めた絵だった。

とある舞台上の役者と目が合ったあの瞬間は、あの瞳の色は、私の絵というフィルターを通すと何色になるのか?

色塗りはまだこれからだ。悩ましい課題だけど、納期の無い絵は気の済むまで拘りを持てる。

いつも通り。彼がいない生活は、さほど変わらない。

ただ、「いつでも冷静で素敵だね」という言葉だけが、消し残しのように頭に残っていた。


その言葉を最初に言われたのは、初めての個展の時。

来て頂いた方への挨拶回りで忙しかった私に、彼は場違いに、

「冷静で素敵な人ですね、連絡先教えてください」と言った。

人付き合いはずっと得意ではない。

というか、人が苦手なのかもしれない。

人が持つ「感情」の熱量が私には熱すぎて、なにかフィルターを通さないと目を痛める気がしてくる。

いつからか私にとって絵を描くというのは、この世界を私にとって見やすくするために直接的なものをぼかす手段になった。

だから私の描く絵は薄く輪郭のぼやけた線と、淡いパステルカラーだけになる。

それが評価され仕事になり、こうして生きている。

正直不思議だ。私にとっては生きやすくするための作業でしかないのに。

自分の持つ感情も同じで、煩わしいからいつも何を思っても噛み殺す。

そんな風に考えてしまうから無表情な私に深く立ち入る人はいないし、私自身も深い人間関係は遠ざけていた。

恋愛なんてものはもっての他だ。そんなに熱いものを向けられたら火傷してしまう。

そう考える私が唯一彼とは付き合った上に一緒に生活ができたのは、不思議と彼が私の生活に溶け込める人だったからだ。

マグカップのように、椅子のように、時計のように、ただそこにいるなと思う。

彼がいても私の生活に細波が立たない。

同棲を始めた時も最小限のものしかない私の家を見て察したのか、彼のものは控えめに最低限程度に私の家に紛れ込んだ。

彼はよく喋るし素直に感情を示す人だけど、それを私に共有しようとはしないから居心地が良かったのだと思う。

恋愛と呼べるものかと言われると分からない。

同棲する恋人というより同居人という言葉の方が合っていたのかもしれない。

きっと最小限の物しかないこの家から荷物を持ち出すのはすぐ終わる。

考え事をしているうちに太陽は沈んで、窓の外は深い水色になっていた。

もう一度、唯一ここに無駄な木製時計を視界に入れてから部屋を出る。

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