『哀』一話
「ごめん、俺、好きな人が出来ました。」
それは今日納期の絵が描き上がったあとの夕食中だった。
作ってくれた晩ご飯を挟んで向かい合う、私の動きがフリーズして、脳内が急に白一色になった。
おかずのコロッケに箸を伸ばした瞬間だった。
所謂別れ話を切り出されていると気付くのに数秒かかった。
これは、別れ話。
さっきまで作品に没頭していた頭はまだふわふわしていて、まだ言葉の意味を処理しきれていない。その意味に伴せないといけない感情も用意できていない。
これは、別れ話。
好きな人ができたというのは、つまり。
「…別れたい、という話?」
フラフラな足取りとふわふわな脳内のままアトリエから出て食卓に着いたから、黙って頷く彼を見てやっと深刻そうな顔をしていたことに気付く。
「そう…」
とりあえずコロッケに箸を伸ばしたままで聞く話ではないな、ということだけは分かったから静かに箸を置いた。
怒られる覚悟をしています、とでも言いたげな真剣な目と眉間に寄っている皺。
背も高い、体格もいいはずの身体がひと回り小さくなっているように見えた。
どうしてこの人は、こういう大事な事をおかしなタイミングで口にするんだろうか。
思い返せばいつもそう。
連絡先を聞かれたのは、初の個展で忙しく受付に立っていた時。
告白されたのは、仕事で遠出する日の朝のコンビニ。
同棲しようと提案されたのは、二日徹夜してやっと絵が完成した瞬間。
そして今、こんな話を、いつも通り一緒に夕飯を食べている最中にしている。
…いけない。考えを放棄するあまり昔のことを思い返してしまった。
「貴女がいいなら、この後とりあえずここを出て行こうと思う。荷物は、また今度取りに来ると思うけど…」
「ずいぶん、いきなりなのね。」
「ごめん…。」
いきなりだなとは思うが、彼のことを考えるとそうでもないのかもしれない。
いつも衝動で動く人だから。
私とは正反対で、思いついたら即行動に移す人だから。
もしかしたら今日は彼なりに耐えていた方なのかもしれない。
帰ってから晩ご飯を作るまでの間、ずっと言いたいのを我慢していたのかもしれない。
さすがにもう作業直後のふわふわ感は抜けていた。
脳内に広がり始めるのは、空洞。
「そう言うと決めたのなら、もう別れるという決心が付いているのよね。」
「うん。」
申し訳ないという顔に小さく丸めた身体、なのにその返事に躊躇いはなかった。
この人は悪い人ではない。いつでもこうして素直なだけ。
本当に、これは、別れ話。
小さなため息を吐いた。
感情の意味を含まないため息。
作画に入る前にいつもついてしまうため息と同じ意味。
「誰をどうして好きになったのかだけ、ちゃんと説明して欲しい。」
本当は別に相手が誰でもいい。
好きになったきっかけも聞く必要はない。
本当は、じゃあ別れましょうで終わりにしてもいい。
それでも一応こうして訳を聞くのは、「別れ」という儀式に必要だからだ。
綺麗な別れは理由と同意があって成立する。
ただそれだけ。作業的な質問。
彼もそれを聞かれることは予測していたのだろう。狼狽えることはなく、少し身動ぎしてから口を開いた。
「今年入ってきた職場の後輩。
歓迎会で初めて話して、偶然俺と同じで絵画を見るのが好きって話をしたんだ。
こういう話をできる相手がいないからと、彼女は楽しそうに話していた。正直、楽しかった。
話が盛り上がるうちに、アートイベントのチケットを買ったけど訳あって行けなくなったから、今度貰って欲しいと言われて連絡先を交換して。
だけど酔ってたからかな、次の日俺の携帯に彼女の連絡先は登録されていなかった。
別にないならそれでいいやと思っていたんだ。
絶対に欲しいチケットというわけではなかったし。
だけど…社内で見かける度に、俺連絡してないな、なんか申し訳ないなと思ってた。
そう思い始めた時から気になっていたんだと思う。
歓迎会で唯一打ち解けたからか、彼女は俺にはよく話しかけたり相談を持ちかけるようになっていた。
それで今日の昼休み、仕事でミスをしてしまったけど誰にも話せない、申し訳ないけど隣に居させてほしいと泣きながら言われた。
彼女、引っ込み思案であまり社内仲が良い人とかいないんだ。
その瞬間、俺が守ってやらないとって…思ってしまった。
ずっと気になっていたのは連絡先がとれないからじゃなくて、好きなんだって、気付いてしまったから。
彼女は俺のこと男として見ていないと思うし、社内でしか話してないから二人きりで会ったことはない。貴女を裏切るような行動は誓って何もしていないよ。
だけど、この気持ち持ってしまった以上貴女とは一緒にいられないと。
そう、思ったんだ。」
出会った頃からずっと素直な彼は、その話し方も理由もやはり素直だった。
きっと簡潔で分かりやすい説明を何度も脳内で繰り返していたのだろう。
だからきっと、その理由を聞いて一瞬息が詰まった私にも気付かない。
もう一度小さなため息を漏らす。
感情をぼかすためのため息。
「分かったわ。荷物を取りに来るのはまた今度でいい、いつでもいいから。
でもできるだけ早いと良いのと、私が家にいない時だと嬉しい。」
「分かった。しばらくは友達の誰かの家に泊まるよ。
荷物は少ないと思うから今週中には片付ける。」
そう、と返した声は思ったより小さい声しか出なかった。
まだ半分も食べていない夕食を残して席を立つ。
「最後まで夕食ありがとう、美味しかった。」
そう言いながらアトリエのドアに手をかける私を見て、彼は眉を下げたままふっと笑った。寂しさと罪悪感を混ぜた色だった。
「やっぱり、貴女はいつでも冷静で素敵だね。」
返事はしないでアトリエに入る、後ろ手に閉めた扉に背を預ける。
アトリエに入って真先に視界に入った、窓際の木製時計をなんとなくぼんやり見つめる。
皮肉を込めていないことは分かっていた。
出会った頃から何度も言われた言葉、加えていつも素直で真面目彼の言葉だ。
皮肉でない本心であることは分かっている。
もう一度ため息を吐いた。
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