『希』第四話
閉め慣れた自分の家の鍵をかける。
一人暮らし男にありきたりなワンルーム。
部屋の電気は付ける必要がない時間。
沈む前最後の力を振り絞った、暴力的な夕日が差し込む部屋の奥に進む。
ベランダに出る。気力なく座り込んで、リュックから帰りに買った缶ビールを引っ張り出した。
一本目の煙草に火を付ける。と、同時に缶ビールを開ける。
演じることを辞めようか。
暴力的な夕日のせいで、真っ直ぐ前を見るには目が痛い。
俯いた頭の中で自然に出てきた言葉だった。
初稽古から何度目かの稽古だった。
主人公に怒鳴り散らす、俺の出番としては一番の見せ場が、何度やってもダメだった。
進まない稽古に、段々とやすりで肌を削られるような周り団員やスタッフの雰囲気。
本番でも感じたことのないような、吐き気を伴う緊張。
視線。
視線。
唯一恐怖を感じさせずいつも通り優しげに目を細める座長は、しかし眉を下げながら、
「今日はね、帰ろうか。」
この上なく厳しい言葉を、誰よりも優しい目をしたまま俺に告げた。
二本目の煙草に火を付ける。
ついでにビールを流し込む。
辞めようか、なんて思ったのは座長のその言葉からではない。
うちの座長が帰れなんて言うのは本当に珍しいが、過去様々な舞台で演出家の元で、もっときつい言葉を言われることは何度もあった。
周りの視線に耐えられない自分がいた。
帰ろうか、という言葉に安堵した。
そんな俺が、多勢の視線を受けて舞台に立つことができるだろうか?
三本目の煙草に火を付ける。
やっぱりついでにビールも飲んでおく。
やっと少しだけ冷静になった頭がいろんなことを考え出した。
辞めるとしたら電話でいいのか。いや、直接言いに行った方がいいのか?
その後俺は何をする?
今アルバイトしている居酒屋の社員でも目指そうか?
冷静に考え出したら、ついでに帰り際座長に言われた言葉も思い出した。
「家に帰ったらね、ちょうど一年前にあった公演のDVDを見てごらん。
実はちゃんと見てないだろう?
僕は、今の弱々しい声よりあの時の君の声が好きだったな。」
ちょうど一年前の公演というのは、俺が主演を務めた時の公演だった。
あの時の声が好きだった、と言われたのは素直にショックだった。
発声練習はあの頃から変わっていない。発声の仕方、話し方、声の質も声量も自分としては変わっていないと思っていた故に、劣っていることを指摘されたショックと気付かなかったショックがあった。
ちゃんと見てないだろう、という言葉にはどきりとした。
振り返り反省するために何度か再生はしている。
だが、今となっては未熟すぎる演技に、よくこれで主演を努めさせてもらったなと恥ずかしくなってしまい、反省どころではなくなって止める。
そんなことを何度も繰り返していた。
…最後に一度だけ、最後まで見てみようか。
反省したいからじゃない。
座長の言う昔の自分の声を研究するつもりもない。
ここまで落ち込んでるんだ、どうせなら落ちるとこまで落ちてみようぜ。
なんていうヤケクソな気持ちだった。
陽が落ちて薄暗い部屋に戻り、DVDをプレーヤーにセットする。
敢えて部屋の電気は付けず、薄暗い部屋で再生される画面を目を細めて見。
見た目は今とさほど変わらない自分が、画面に登場した。
何度見てもむず痒くなる自分の演技を見続けるのは、やはり拷問に近い。
それにしても座長が好きだったといってくれたのは本当にこの時の俺だろうか?
弱々しいと言われたが、DVDで聞く自分の声は今より全然声が出ていない。
気付いていないだけで、今の俺はもっと酷いのだろうか?
また「わからない」ことに落ち込む。
こうして落ち込む俺に追い討ちをかけるように、画面に映る俺は羨ましい程無邪気に与えられた役を生きていた。
なんとか、会場に拍手が響き渡るシーンまで見終えることができた。
落ちるとこまで落ちてみるつもりが、あまりに下手なのに堂々と演じる自分が面白くなってしまい、予測していた程悪い気分ではなかった。
だが、結局見返したところで座長が言っていた自分の改善点も発見できていない。
辞めようか、という言葉はやはり頭残ったままだった。
再生を止めよう——と、DVDプレーヤーに手を伸ばした瞬間、ぱっと画面が切り替わり硬直した。
終わりじゃないのか?
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