『希』第三話
「ただいま」
閉め慣れた自分の家の鍵をかける。
一人暮らし男にありきたりなワンルーム。
部屋の電気は付けずに、窓から差し込む外の街頭を頼りに部屋の奥に進む。
リュックも降ろさずに、まずベランダに出る。
一本目の煙草に火を付ける。
ため息を混ぜて、いつもより長めに息を吐く。心地悪い煙。
疲労感はほとんどない。疲労するほど頑張れていない。
情けない自分を煙と一緒に押し出したい気分だった。
新しい舞台の初稽古だった。
昨日、二本目の煙草が終わってから改めてちゃんと読んだ台本は、読めば読む程懲りない自惚れた自分が欲を発揮し出した。
誰にでも明るく優しい、悪事には声を大にして立ち向かえる正義感、ユーモアもあるみんなの人気者、そんな主人公…
俺が演じるにぴったりな主人公だ、と。
今までどんなに気の向かない役でも、他に演じたい役があっても、与えられた以上はその役に集中できた。
その俺が、こんなに他の役に惹かれている。
だからこそ今日は覚悟していた。
俺よりもこの主人公にふさわしいと選ばれた仲間の演技に。
反省するつもりで家を出た。俺よりこの役にふさわしい演技を見て、傲慢な自分を退治するつもりで家を出た。
それなのに。
分からなかったのだ。
わからない自分を本気で恥じた。
主人公を演じる仲間を見て、俺と大差ないと思ってしまったことに。
むしろ発声なんて俺のがいいんじゃないかと思ってしまったことに。
それは傲慢な自分が勝利してしまった瞬間だった。
ああ、人は本当に恥ずかしい時赤くなるんじゃなくて青くなるんだな。
なんてまた敢えて冷静に自分を分析して、冷静さを保たなければならないくらい大きなダメージだった。
加えて俺は人を見る目に長けた優しい座長を、その配役を、とても信頼している。
座長には分かっている主役の彼の実力を図れていない自分に落ち込む。
違いがわからないということは、実力が足りないことよりも怖い。
違いがわからなければ成長出来ない。
煙に混ぜ込んでいたため息が普通に漏れてしまい、慌てて二本目の煙草に火を付ける。
所謂スランプだと自分を認めたのは半年前、公演中の舞台上で客席のある女性と目が合った瞬間だった。
本番前の稽古から演じていると何かが消えて行くような、削れて行くような感覚はなんとなくしていた。
自他共に納得のいかない演技が増えていたのはわかっていた。
だが理由がわからないから、「気のせいだ」の言葉に全て丸め込んでいた。
目が合った女性が特徴的だったとか、睨んでいたとか、タイプだったとか、そういうわけじゃない。その証拠に今どんなに頑張ってもあの女性の顔が全く思い出せない。
誰か、は問題じゃない。
目が合ったという事実。
役に集中出来ない自分に気付いた瞬間だった。
終演し、舞台袖に戻ったと同時に座長に名前を呼ばれた。
何を言われるかは舞台上で気付いた。
座長は変わらず優しい微笑みのまま、俺が気付いていることも分かった上で言った。
「しばらくお休みが必要だね。」
その後何度も役を貰いたいとお願いし座長を困らせたが、あの瞬間は、はいと頷くことしかできなかった。
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