ポリティカル・リスク
イノリアは補助杖を石畳に突き、右の義足を引きずるように歩き出した。
不思議なのが避難民は恐怖で顔が強張り歪んでいるにも関わらず、彼女だけは動じず凛々しい表情を保っていたのだ。
尻もちを付いた俺を通り越すと、彼女を引き止める為に震える足を叱りつけ立ち上がり、声を振り絞る。
「あ、ああ、危ないって……下がれよ……」
枝のようなイノリアの背中と離れた神社の鳥居が重なり、暗闇に少女が込みこまれて行きそうな不安さが感じられた。
彼女は引きずる足を止めて顎を上げ怪物見やる。
その凛々しさから少女一人で、どんな山よりも大きい怪物へ、戦いを挑もうとしている勇ましさを見せつけられる。
イノリアは腕に固定した補助杖のバンドを外し、掴んでいたグリップを離すと杖は木の軽い音を立てて、床に転がる。
背後から見ても彼女の動作が解る。
イノリアは立ったまま胸の前で手を合わせ、祈るようなポーズを作った。
顔をうつむかせると静かに声を震わせ歌を唄い始めた。
少女が奏でる賛美歌のような歌声に、俺だけじゃなく避難民達も呆気に取られる。
こんな最悪な事態に歌?
正直、混乱のあまり気が狂ったのかと見えてしまう。
しかし、小川のせせらぎと風に揺られる森の囁きのような美声に、災害で恐怖に陥った一同は心が穏やかになり落ち着き、黙って聞き入る。
全ての汚れを払い
今聞こえるのは雨風のように荒ぶる赤子の泣き声と、聖女のような彼女の歌。
何百万人ものコーラスを、たった一人で奏でているような声。
空に響きわたり大地に反響することで、まるで街全体が楽器のように震える。
だが、その震えは比喩ではなく現象として体感する。
重低音が地面から足、膝へ伝わり何かが下から湧き出て来るのが感じられた。
周りを見回すと山の風景が沈んで行く。
いや、山が沈んでいるわけじゃない。
街全体が――――――――せり上がっている?
§§§
同時刻、第二層裏側、総理官邸
官邸は大騒ぎになった。
来年度の予算案を審議している最中、街を襲い続ける衝撃に中断され、官庁内の人間を走らせて詳細情報を集めさせていた。
知事ユリナは激しい揺れが頑丈な大理石の柱を、積み木のように崩すのではないかと気をもむ。
会議室は臨時の災害対策本部となり、上座の総理から右翼側に内務大臣、大蔵大臣。
左翼側に防衛大臣、外務大臣。
知事ユリナは大蔵大臣から離された席に座る。
防衛大臣が会議室の隅で無線機にかじりつく、報告係の男性に叱咤する。
「報告が遅い。状況はどうなっているのだ」
「気象庁より報告。
「防御反射だと? つまり我々は今、攻撃を受けているというのか⁉」
総理の椅子に近い内務大臣が、片目にかけたルーペを押さえて硬い口調を作り進言した。
「総理。緊急事態宣言を発令する前に、まず攻撃かどうかを調査せねばなりません。専門家会議を優先して行うべきです」
ユリナはイラ立たしく聞いていた。
ここの政治家達は正気なの?
有事かどうかは激しい揺れを体感する私達でも解るわ。
今すぐ避難誘導が必要なのに精査で無駄な時間を使い、市民の命を危険にさらす気なのかしら?
次に報告係が上げた情報は重要な為か、室内に反響するくらい大きな声で述べた。
「ユウガ神社より”詠唱”を確認っ!」
防衛大臣は驚きのあまり腰を浮かせた。
軍服に飾られたメダルの勲章が重なり合い、かさ張る小銭のような音を立てながら返す。
「詠唱⁉ 震源と
「詳細不明! 震源、活動開始。これは……城塞形態から戦闘形態に移行‼」
普段、世論の批判にすら動じない総理大臣が、固唾を飲み誰ともしれず問う。
「目覚める? 終戦して十五年も眠っていたというのに……」
巻髪の外務大臣が顔面を蒼白にして総理に懇願。
「"軍神が目覚める時、戦争はさけられない"。このままでは伝承の通りになってしまう……い、いけませんぞ、総理! このまま進軍しては、
混迷の中、知事ユリナは
「もう手遅れです」
彼女の一言は彼らの注目を引いた。
唯一の女性議員にして政界において、ここにいるお偉方よりも経験が浅いユリナが、物言うことは反感を受けるに違いない。
それでも平らな日々を送ってきた政治家達へ厳しい現実を突き付けなければならない。
政治に携わる者のお役目と思い論じる。
「十五年続いたつかの間の平和は……今日、終わりを迎えました」
大会議室が大きな縦揺れに見舞われ、政治家一同は座っていた席から、転がり落ちたコップのように横転。
一万メートルの体躯が動こうなど、誰が予期できたかことか……。
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