第2話

 気にするなと言われると気になる。やるなと言われるとやりたくなる。こういうのをカリギュラ効果と言うらしい。

 物事はなんでもそうだけれど、名前が付くと、安心できる。目の前のパンも、パンと言う名前がついているから食べられる。ただ、優子さんの話には名称がなく、だからよく分からなかった。

 いやいや、よくないな。

 せっかくの休日、せっかく友人と会って遊ぶと言うのに、気がかりなことを胸に抱えたままじゃあよくない。それこそ憑き物を落とすように、私はパンを飲み込んだ。


 ■


 手術室の前にいる。今、中には舞香がいる。


 友坂と名乗った女性からの電話で内容を聞き、俺はすぐに車へ駆けた。一緒にいた南さんにはほとんどろくに説明もできていなかったが、当然と言うべきか、追いかけてくることはなかった。


 十八のときに産んだ子どもだ。舞香が産まれてから妻と籍を入れた。式はしていない。高校を卒業したばかりで金もなく、また両家からも大バッシングを受けての結婚だったから支援もなく、俺は遮二無二しゃにむに働いた。周囲の友人たちが大学へ進み、次第に離れていくのを実感しながら、若いと言うだけで、若くして子どもを授かったと言うだけで世間の冷たい視線と暴力を一身に浴びた。歓待されるわけもなかった。俺は明らかに未熟だったからだ。


 働くしかなかった。働いているしか自分を保てなかった。何も考えず、ただひたすらに没頭するしかなかった。家に帰っても、子どもが子どもを育てている状態で、何もわからず、次第に妻も疲弊して、二人分の泣き声を聞く日々だった。


 報われたと思えたのは、父が病気になってからだ。母は否が応でも一人息子の俺に連絡を取るしかなかった。気まずそうに顔を見せた母は、十年前の記憶とは違ってすっかりやせ細っていた。二人に何があったのかを知る由もなく、ただ俺は、ざまあみろと思っていた。

 そのころには俺もそれなりの立場を得ていて、舞香も順調に育っていたし、家庭は安泰だった。一方で俺を見放した両親は、こうして衰退している。もうバカ息子と呼ばれる筋合いも、それを言う気力も、彼らにはない。


 術後らしくベッドの上で点滴を打たれ、意識の朦朧とした様子の父を見たとき、俺は心底嫌気が差した。今更手を握ることはない。何なら、点滴を引きはがしてベッドから転がり落としてやりたい気分だった。でもそれを——復讐をするのは今じゃない。だから俺は自分の不孝を認め改心した息子を演じた。献身的に介助してやった。それから心を許したときに盛大に裏切ってやった。


 俺は舞香を授かったとき年齢的にまだ子どもだったし、間違いなくそのままの意味で彼らの子どもだった。助けてほしかった。本当に救いを求めていた。

 だが届かなかった。だから俺は精神的に大人になるしかなかった。と思っていたが、それでもこんなやり方をする俺は、まだ子どもと言える。姑息になっただけの、大きな子どもだ。俺の中ではもう、俺は彼らの子どもではなかった。


 人生における大きな障害物を排除すると、世間は途端に明るくなる。よく晴れた朝にカーテンを開けたかのようなすがすがしい景色が、色が、音と匂いを伴って訪れた。今まで内々にため込んでいた一切を開放するかのように、俺は堕落していった。その自覚がある。


 南さんとの交際は、もう二年ほどになる。舞香の大学の先輩として数回家に来たことがあり、彼女のほうから関係を持ち掛けてきた。


 大人ではないくせに、大した女だ、と思った。娘も、妻もいる家で、ふいに一人になった俺を捕まえて囁いたのだ。「秘密の関係って、どうですか?」と。

 乗らないわけがない。


 俺は妻以外の女性を知らない。人々の言う青春時代を金に変えて生きてきた。風俗に行く経済的余裕もなければ、そんな発想に至ること自体もなかった。だからとても甘美な響きに聞こえた。


 両親を騙し続けた実績があったのが悪かった。俺は騙しとおせると思ったし、実際、それなりにうまくやっていた。俺だってまだ若い。舞香も手を離れたし、仕事も落ち着いている。妻だって本当はこういったことをしているかもしれない、などと思い浮かぶ言い訳を積み石のようにどんどんと積み上げた。


 ——視線を手術室に向ける。


 舞香。ごめんな舞香。俺はやっぱりずっと悪い人間だ。


 


 俺たちは、目が合ったか?

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