見えない思惑
枕木きのこ
第1話
「まあ、気にしないのが一番だからさ。あまり深く考えずに、スルーだよ、スルー」
あまりよく眠れなかったのか、目が覚めるなり、昨晩聞いた優子さんの言葉が頭に浮かぶ。仕事で疲れていて眠りに就くのは早かったのに、これでは仕事の延長に居るみたいに感じられる。
午前十一時を回ったころだった。久しぶりの休みで、今日は詩央と会う約束をしていた。私は緩慢にベッドから身体を起こすと、顔を洗いに洗面台に向かった。冷たい水をぐっとこらえて顔に当てるとだいぶ頭がリフレッシュされる。芸術みたいな寝癖を櫛で梳かしていくが、気持ちだけがずっと昨日に居座っている。
■
手術室の前にいる。今、中には舞香がいる。
突然の出来事だった。休日を合わせて街に出て、ショッピングを済ませて彼女がおすすめするカフェへ休憩に行こうというタイミングだった。陽が落ち始め、薄暗闇の路地裏は不鮮明さと不穏さを増し、それで——事故が起きた。
少し注意を逸らした舞香のほうへ、軽自動車が突っ込んだのだ。わたしはすんでのとこで巻き込まれず、しりもちをついたときに手を擦ったくらいだったが、彼女は電柱とバンパーに挟まれ、上半身がボンネットに乗っかる形で大量の血を流していた。腕はあらぬほうへ曲がり、見るからに大事であるとわかる様相だった。わたしはすぐに救急車を呼び、そうして、今に至る。
彼女の両親に連絡を取り、やがて二人が到着すると、わたしは自然と早口になる口調で経緯と状況を知らせ、以降は祈るように手を組み合わせて顔を伏せていた。
祈っている。彼女の無事——ではない。
思えば舞香とは長い付き合いだった。小学生の途中で同じクラスになってからだから、かれこれ十五年近い。彼女はわたしの一番の親友で、憧れで、同時に、嫉妬の対象だった。
同じ高校へ進み、軽音楽部へ入部した。もともと、その地域ではその学校くらいしか軽音楽部がなく、バンドに興味があったわたしたちはほとんど必然的にそこを選ぶしかなく、選んだからには入らないという選択肢はなかった。
そして入ったからには、何があっても辞められなかった。わたしが選んだ進路なのだから、わたしが決めたことなのだから、過去の自分を裏切るわけにはいかなかったのだ。たとえ、舞香に想い人を取られたとしても。
橋場先輩を好きになったのは、わたしが先だった。先だから偉いとか、優先されるべきと考えているわけではない。ただ、わたしはちゃんとそのことを舞香に伝えたし、舞香も応援するよと言ってくれていた。橋場先輩はいいひとだけれど、いいひとと言うだけの印象で、特別に顔が格好いいわけでもないし、いかにもモテると言ったタイプではなく、ましてや、舞香の好みともかけ離れているように思えたから、わたしは内心、安心していたのだと思う。
二人が付き合っていると聞いたのは、それからひと月もしない内だった。わたしは舞香を責めようとした。けれど、隣にいる橋場先輩の顔を見てやめた。ひとりで泣いて、心で憎んで、こんな安いドラマみたいなことが本当にあるんだと思った。
わたしたちを並べて百人に聞けば、八十人は舞香を選ぶ。その数値も、希望的なことは否めない。彼女は美人だったし、器用だったし、人望があった。およそ馴染みがなければわたしたちは並べられることもない。いつも羨ましかったし、誇らしかったし、気後れした。
橋場先輩の一件以降、わたしは舞香に自分のことをあまり話さなくなった。だけど、わたしがわかりやすいのか、彼女が機微の察知に特化しているのか、わたしの好きな人は大体彼女を好きになり、彼女と付き合った。ひどいときは、身体まで許した男がその道を辿った。
もうずっとそうだ。舞香はわたしの一歩も二歩も先に居て、たまに振り返って「遅いよ」と微笑む。ほくそ笑む。あざ笑う。
わたしは神を信じてはいない。今まで裏切られ続けたからだ。運命なんてない。視線の交錯は神の工作じゃない。
でも世の中には目に見えないなにかはある。それだけは、今は信じている。
だってあの女はもう死にかけで、わたしはほんの少しの擦り傷で済んだのだから。
だから願っている。彼女が死ぬのを。
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