第8話


バロンがクロバー侯爵家に迎えられたその翌日から、ラフィリアのお願いで彼に

言葉の勉強と文字の読み書きを教えることになった。


教師たちは初対面でバロンに盛大に威嚇されて敵意を向けられたものだから肝を

冷やして『ちゃんと勉強ができるのか』と心底不安がっていたものの、ラフィリアが

傍について一緒に学ぼうとすると真剣そのものだった。


初めは音を発することも難しかったのに彼女と自由に会話を楽しみたいと意欲を

燃やせば習得も早く一週間足らずで基本的な日常会話をモノにした。


その他にも手紙を書いて実際にラフィリアへ送りたいと思えば震える手で懸命に

文字をしたため納得のいく内容ができる度に彼女へ渡した。


バロンはあまり感情を表に出さず淡々と自分に与えられた課題をこなす傾向が強く

時折ラフィリアは教師から『彼は今、何を考えているのですか』と聞かれることが

あった。


そもそもラフィリアを通して聞かなければバロンはひたすらに警戒して鋭く睨むか

唸り声を上げるか、自分の考えを読ませないような表情や態度をとる。


勉学を始めてから半年ほどが過ぎても頑なにラフィリア以外に懐かず彼女の傍を

離れることも決してない。


だからといってそんな彼を疎ましく思ってラフィリアから引き離そうとするような

人間も屋敷には居らず、両親もメイドたちも『仲が良い』といったふうに

いつの間にか公認の間柄となっていた。


そんなある日、ラフィリアはバロンがだいぶ自分の伝えたい思いや考えを言葉に

できるようになったのを見計らってずっと聞きたかったことを口にする。



「ねぇバロン。私、ずっとあなたに聞いてみたかったことがあるの」



二人は相変わらず一緒で今は勉強の合間の休憩時間。


周りを美しい花々で囲って作られた庭園の一角で向かい合うように座り、バロンは

視線だけで応えて問いの続きを待った。



「私と初めて会ったとき、バロンは狼だったでしょう?それが今は人間の姿で…

みんなと変わりなく過ごせていているのはとてもいいことなんだけど、どうやって

変身したのかなって思って」



ラフィリアの純粋な疑問にバロンは少しだけ目を伏せて何か考えるような素振りを

した後、ゆるく首を横に振る。



「…わからない。確かに俺は狼だった。この姿になったのも、気づいたら変わって

いた」


「そうなんだ。じゃあ…えっと、どうしてあんなに酷い怪我をしていたの?」


「………」



聞いてからラフィリアははっとした。


もしかしたら彼にとってとてもデリケートな部分を聞いてしまったかもしれないと

気づいて慌てて質問を取り消そうとする。



「あ!あのっ…今のは、気にしないで。ごめんなさい。なんでもないの」



気を悪くしてしまっただろうかと心配して無言で視線を反らしたバロンの様子を

窺っていると、再び重なった視線にどきりとした。


彼がとても真剣な表情をしてこちらを見つめてきたからだ。



「ラフィが知りたいなら教える。だけど…俺自身、記憶がはっきりしないところが

あるから正確じゃないかもしれない。それでもいいなら」



ラフィリアの望むことならとバロンは応えようとしてくれている。


そんな彼の意を決したような瞳を拒絶したくなくて静かに頷いた。


これからとても重大で大切な話を聞くことになる。だからできるだけ受け止めて

それらも含めて『彼』なのだと認めたい。


まだまだ子供な自分には全部は無理かもしれないけど、少しずつ理解して大人に

なったときに良き理解者となれるのなら。



「俺が覚えているのは酷く曖昧で霞がかかっているような記憶なんだ。ラフィに

会うあの森の前はどこかの暗い部屋の中にいた。大人が何人か、出たり入ったりを

繰り返していて俺に何かするんだ」



その何かが思い出せないとどこか苦し気にバロンは呟いた。


良い事ではないだろうと予想はつくものの、必死に思い出そうとする様子に

ラフィリアは自分から聞いた以上『無理しないで』とは言えなかった。



「…『何か』をされる度に俺が俺でなくなる感覚が強くなった。それに伴って痛みが

増した気はする。意識が現実に帰って来れなくなりそうな時が何度もあったが…

沈みきる前に無理矢理引き戻された」



思い出せる限りのことをぽつりぽつりと言葉にしてバロンはできるだけ淡々と

感情を含めずにラフィリアに伝える。


内容が内容なだけに彼女はずっと痛々しい面持ちで聞いていた。


それでも途中で話を折るようなことをしなかったので、バロンは彼女の中に覚悟を

見たような気がして嬉しく感じた。



「あの暗い部屋からどうやって出られたのか…全く覚えていないんだ。最後に嫌な

感じのする光を見た気がする。次に意識がはっきりとしたとき、ラフィと会った

森にいたんだ」



言い切って、また何かを思い出した様子で小さく呟いて続けた。



「光……そうだ。俺がこの姿になるときも光が見えた。足元から急に光が溢れて

きて…一瞬で。その光はとても温かくて優しかったんだ。まるでラフィが俺のすぐ

傍にいて抱きしめてくれてるみたいで…それで森を出ることを止めた」



当時の感覚をしみじみと思い出すようにどことなく幸せそうに語るバロンに対して

ラフィリアはなんだか恥ずかしくて少し顔を伏せた。


バロンは元々が狼だから彼にしてきたスキンシップに特に深い意味が無かったことは

よーく頭で理解していても、いざ人間の姿で喋るようになったバロン自身の口から

聞くと自分がとても大胆であると認識せざるをえない。



(そ、そういえば私…再会したばっかりのバロンに何も考えずに抱き着いてしまった

のよね……?)



しかしあれは悲しみの淵からの感動的で奇跡的な再会だったのだから考えるよりも

先に体が動いてしまっていて当然な状況なのだ。


これに関しては自分が大胆な人間だと恥じる必要は無いはず…と内心で言い聞かせ

ながらラフィリアはどうにか乱れそうな心を落ち着ける。


そんな彼女の恥ずかしがってからの落ち着くまでの一部始終を見ていたバロンは

おかしくなってふっと笑った。



「バロン。私があなたにたくさん抱き着いていたのは狼の姿だったからで、再会した

時のことはとっても嬉しかったからで…えっと……私…そんなに大胆じゃ…ない、

よね…?」



私は一体、彼に何を聞いているんだろう。


再び押し寄せる恥ずかしさと新たに追加された後悔とでラフィリアの思考回路は

ぐるぐるしていた。


バロンは少し間を置いてから柔らかい表情のままゆっくり答える。



「ラフィが大胆かどうかはわからない。あと…俺としては、この姿でもラフィに

たくさん抱きしめてほしいと思ってる」


「あー……えっと…そのー…」


「ああ。でも、今思えばこの姿なら俺からラフィに抱き着くこともできるのか」


「バロン!そ、そろそろ、戻りましょう!」



ラフィリアは慌てて席を立ち早足になって庭園から出ていく。


バロンもその後ろを楽しそうに追って歩いた。

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